RIYO BOOKS

RIYO BOOKS

主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ウィンザーの陽気な女房たち』ウィリアム・シェイクスピア 感想

f:id:riyo0806:20240521214046j:image

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

1597年から1598年に執筆されたと言われる本作『ウィンザーの陽気な女房たち』は、題名どおりにシェイクスピア作品のなかでも頭抜けて陽気な感情で観る(読む)ことができる演劇です。諸説ありますが一説に、シェイクスピアの劇団を支援する宮内大臣であるジョージ・ケアリー男爵がガーター勲章を授かり、それを祝う騎士団の祝宴で喜劇を披露することになったため、シェイクスピアが約二週間で書き上げたものだと言われています。この説に付随して、『ヘンリー四世』を観劇したエリザベス女王が、登場人物フォールスタッフが色欲に溺れる姿を観たいと望んだため、このような題材となったとも言われています。そのような変わった経緯から生まれたことが起因して、本作はシェイクスピア作品のなかでも珍しい「英国」を描いたものであり、「一般市民」を描いたものとなっています。さらには、他の作品には見られないほどの物理的、言語的な「笑い」が多く含められ、一貫した喜劇的な雰囲気を終始醸し出しています。


上流階級にぶら下がっている老騎士フォールスタッフは、その性格と行動の果てにウィンザーへと流れつきました。下流階級の子分たちとともに金策を練っていると、中産階級が経済的に潤っていることを嗅ぎ付け、夫人連を恋で誑かし金を巻きあげてやろうと画策します。しかし、いくら騎士の称号があるとは言っても、丸く肥えた身体に麗しさも見えない容貌、おまけに素行は悪いときているため、その計画が実るようには到底思えません。それでも彼の自惚は非常に強く、二人の女性を標的に全く同じ内容の恋文を届けます。受け取ったフォード夫人とページ夫人は互いに伝え合って憤慨し、申し合わせて罰を与えようと試みます。しかしそれを知ったフォードは妻を信じることができず、変装してフォールスタッフの元へ向かい、本当に恋に堕ちていないのか確かめようと行動します。そしてフォード夫人の罠に誘い出されたフォールスタッフは有頂天となり、相引きに喜んで向かっていきます。そこで漸く出会えたと思った矢先に(二人の夫人が仕掛けておいた)突然の出来事に翻弄され、汚れ物の詰まった洗濯かごに押し込められてはテムズ川に投げ込まれたかと思えば、老婦人の女装をさせられて散々に殴打された挙句、森の番人に仮装させられて(子供たちが扮した)妖精たちに全身を打ちのめされるという羽目に遭います。また、同時進行的に進められるページ夫妻の美しい娘アンを巡っての恋模様、頭の回転が鈍い青年スレンダー、フランス人医師カイアス、既にアンと恋仲になっているがページ夫妻から認めてもらえないフェントンによる求婚合戦も、フォールスタッフを懲らしめたのちに晴れて解決して物語は大団円を迎えます。

 

f:id:riyo0806:20240521214102j:image

ヘンリー・フューズリ「洗濯かごのなかのフォールスタッフ」


題名からもわかるように、本作はシェイクスピアが常々作品に込めている「女性優位」をあらわしています。とくにフォード夫人が夫を幾分も上回った機転と行動を見せている点は、読んでいても痛快に感じ、男性の滑稽さというものを一層に引き立てています。フォード夫人は中産階級の女性として持ち得る権力と魅力を存分に発揮して、上流階級(騎士フォールスタッフ)を手玉に取り、思い通りに計画を実行する一方、夫の何倍もの智力を持って社会的優位な立場(夫)に対しても強い力を見せつけます。ここには、二重の社会階級を批判するシェイクスピアの目が感じられ、だからこそ当時の観客は痛快に感じることができたのだと言えます。しかしながらシェイクスピアは端的に主張するわけではなく、ページ夫人が望むアンの婚姻相手を成就させず、アン自身が選択した青年と結びつけるという見せ方で、階級社会よりも個人の意思を尊重しようとする彼の態度を明確に見せています。そして、これを終始一貫した喜劇の雰囲気で訴えていることで、観客(読者)は受け入れやすくなっています。


本作のような「市民喜劇」(都市喜劇とも)と呼ばれる作品はルネサンス期の英国を中心に多く書かれました。トマス・ベッカー、ベン・ジョンソンなとが挙げられますが、彼らが描いた作品の多くには典型的な登場人物や筋立てが盛り込まれています。快活な妻に地位を振りかざす簒奪者らしき貴族や騎士などが現れ、それに嫉妬する執念深い夫といった階級社会の歪みを喜劇に仕立てる物語が多く見られますが、本作のフォード夫人とページ夫人の二人はその典型的な流れに背きます。相手が丸々と肥えた老騎士フォールスタッフであれば尚更ですが、典型的な流れでは上流階級の地位による強制と魅力に振り回されます。ところが、彼女たちはそのような嘆きや欲を覚えずに、どのようにして痛い目に合わせようかと考えて行動するという、他の市民喜劇とは一線を画すものとなっています。また多くのシェイクスピア作品のように王や貴族が主軸となる物語ではないという点から、登場人物たちが持つ価値観や人情、あるいは世間的な描写が当時の世相を映し出しています。作中でも、他言語他民族に対して否定的な言葉や扱いが見られており、生々しい市民感情が描かれているところに当時の空気を感じることができます。そして前述のとおり、終始一貫した喜劇的雰囲気によって、またその結末によって、読後には爽やかな笑いが起こり、血生臭い王侯貴族らの争い物語とは違った輝きが放たれていると言えます。


上流階級の騎士フォールスタッフを中産階級の人々が打ち負かすという筋書きであるにもかかわらず、どの層の観る者(読者)も不快にさせないという点には、副筋のアンとフェントンの物語が一役買っています。ページがフェントンの求婚を拒否していたことからも、中産階級が持つ貴族への否定意識は明確にありました。そこからページはフェントンが財産目当てにアンとの婚姻を望んでいるという疑いを抱きますが、これは誤った認識でした。このような中産階級が持つ偏見は随所に現れ、ウィンザー中産階級の人々は、判事フォローへは君主制の、牧師エヴァンス卿へは教会の、医師カイウスへは諸外国の、といった自分たちのコミュニティから外れた人間に対して否定的な態度をとっています。しかし、上流階級の騎士フォールスタッフがスケープゴートとして罰を与えられることによって、中産階級の人々が持つ貴族や他地域に対しての偏見は解消されて和解し、アンとフェントンの婚姻によって蟠りの無い清々しい大団円へと導かれます。

 

では、何(ど)うしてシェークスピヤはフォルスタッフのやうな、良心といふものを最初から持合せない、詭辯ばかり弄する悖德漢(はいとくかん)をひやうきんな愛嬌者として表現することが出來たか。私が坪内先生の譯で通讀した所感によれば、第一フォルスタッフのづうづうしさは尻抜けだと云ふ所にその原因があるやうだ。成程、彼はづうづうしい、鐡面皮だ、慾張りだ。が、その尻は常に結ばれてゐない結果は常に彼自身の損失に終つてゐる。これが若し逆に彼の所得となつてゐたら、いかに彼の惡德が諧謔や滑稽に被はれてゐたとしても、讀者は彼を宥す氣にはなれなかつたらう。

森田草平漱石先生とフォルスタッフ」

フォルスタッフと云ふ人物。これは勿論世界の喜劇的人物中でも最も有名なものであり、「ヘンリー四世」中で活躍するフォルスタッフの滑稽さなどはズバ抜けた特異な味があるが、それと同じ人物であるフォルスタッフは此の作では「ヘンリー四世」のより單純化されてゐると思ふがどうであらう?卽ちえらがりや强がりやミエ坊の面影はありながら、本筋はひたすら好色の一方面のみに集中されて居る。自惚れな不良老年のエロ三味。それも最初から終りまで失敗である事は見物には分り切ってゐながら、しかも其途中の手順や出來事の一々が途方もなく面白く可笑しい。そこで何のわだかまりもなく力ラカラと大笑出來る。

坪内志行「『陽氣な女房』演出の想ひ出」


フォールスタッフという負の面の強い個性を備えた人物がここまで「喜劇的人物」として愛されているのは、全て自業自得のように罰として返ってきているところに理由があります。そして『ヘンリー四世』で見せた知性面は影を潜めて、ただ色欲一筋の人物として描かれていることに、彼の喜劇的な要素を凝縮させていると言えます。さらには、洗濯かごに押し込められる、老婦人の女装をさせられる、森の番人の格好をさせられるなど、見た目での可笑しさも演出して、その効果を増大させて観客の笑いを誘っている点も挙げられます。

 

ああ 妄想のおぞましさ!
ああ 情欲の忌まわしさ!
色欲はただ血の炎
汚れた邪念にともされて
淫らな思いにあおられて
胸を焦がして燃えさかる。
つねりあげよう みんなして
つねりあげよう 悪者を。
つねって焼いてひきまわそう
蝋燭も星も消えるまで。


本作は「市民喜劇」という舞台であるからこその小道具や台詞によって、賑やかで陽気な作品として仕上がっています。フォールスタッフと二人の夫人を中心とした慌ただしい立ち回りも、笑いを重ねる効果を生み、観る者を惹きつけ続けます。シェイクスピア作品のなかでは珍しいと言える喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

privacy policy