RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『オズの魔法使い』ライマン・フランク・ボーム 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

オズの魔法使い (角川文庫)

 

カンザスの大平原のまんなかから大竜巻で家ごと見知らぬ土地に飛ばされたドロシー。ヘンリーおじさんとエムおばさんが待つ故郷へ戻りたい一心で、どんな願いも叶えてくれるという偉大なる魔法使いオズに逢いにエメラルドの街を目指す。頭にわらの入ったかかし、心臓がないブリキの木こり、勇気がほしいライオン。仲間とともに困難を乗り越える一行の願いは叶えられるのか?柴田元幸の新訳による不朽の冒険ファンタジー!


ドイツ系アメリカ人の父親とスコットランド系アメリカ人の母親を持つライマン・フランク・ボーム(1856-1919)は、1856年にニューヨークで生まれました。父親はペンシルバニア州の油田で財を成した人で、ボームは非常に裕福な環境で育ちました。彼は幼い頃から執筆を行い、なかでも演劇に多くの情熱を注ぎました。戯曲を幾つも執筆し、自ら役者として舞台に立つなど、作家としても演者としても熱心に活動しました。父親に劇場を建ててもらい、充分な演劇の環境を整えてもらいましたが、注いだ熱量とは裏腹に経済的には全く成功できず、挙句には彼の劇場が火事になってしまい、彼は演劇の世界から離れることになりました。現在のサウスダコタ州へと移住した彼は、家族と共に雑貨店を開きました。しかし、これも経済的な成功を収めることはなく、結果的に新聞の編集者として働きに出ました。地方新聞ではあったものの、寄稿するコラムは評判が良く、自らも執筆ができるという点でやりがいもありましたが、今度は新聞社が倒産してしまい、またもや成功を逃してしまいます。巡業セールスマンとして辛うじて生計を立てていましたが、やはり執筆から離れることは苦しく、業務の合間に韻文マザー・グースの直訳小説『ファーザー・グース』を出版しました。これがある程度の成功を収めたため、本格的に作家として活動することになり、本作『オズの魔法使い』を書き上げたことで、彼は商業的な大成功を遂に収めました。


1865年にアメリカ南北戦争が終わると、南部諸州を北部が統合し、奴隷解放問題が長期化する「レコンストラクション」の時代が到来します。また、フロンティア開拓における先住インディアンとの紛争が各地で起こり、南北の統合が明確に果たされないまま時は過ぎていきました。そして、同時並行的に産業革命の余波を受け、超高速度でアメリカは国内の各地を工業化させていき、多くの移民が各国より渡米してきます。こうして、一層にさまざまな人種が行き交う多国籍な土地へと発展したアメリカは、工業の加速化により巨大な資本的先進国へと成長していきます。こうした経済発展において、アメリカでは1900年に金本位制が法制化されましたが、その不安定性と奥に潜む問題点が政界では論点になっていました。『オズの魔法使い』が、この金銀複本位制をめぐる金融政策論争の寓話的側面を持っていると提唱されたこともあり(ヘンリー・リトルフィールド「ポピュリズムの寓話」)、本作の登場人物やその行動には、寓意が多く含まれているという解釈もあります。しかし、ボーム自身はこの考えを否定しています。


本作は1900年に出版されました。アメリカが世界経済において頭角を表すという時代で、作品にも当時の児童文学が持つ風潮から掛け離れた要素「非教本的物語」「少女が主人公」などが採用されており、アメリカ独自の文化的な成長が垣間見えます。ニューヨーク・タイムズが絶賛したように、作品には明るさと楽しさが溢れており、暴力的な要素を取り除いた冒険が活気を持って描かれ、当時の子供たちを魅了し、大人も最も優れた児童書が誕生したと喜んでいました。他国民を巻き込んだアメリカの経済成長は、このような文化的成長も呼び起こしたのだと言えます。


両親のいないドロシーは、アメリカの中心部に位置するカンザスの大草原で、叔母と叔父、そして犬のトトとともに暮らしていました。一面が灰色に映る景色のなか、自然に囲まれた生活に幸せを見出していたドロシーでしたが、突然の竜巻に襲われます。叔父と叔母は地下の避難場所へ逃げ込みましたが、トトを探していたドロシーは間に合わず、家とともに空高く吹き上げられ、空の遠くへと運ばれてしまいました。嵐が収まってたどり着いた場所は「オズの国」で、ドロシーは自分の家が東の悪い魔女を下敷きにして退治してしまったことを知らされます。魔女が履いていた銀の靴を手に入れると、ドロシーはカンザスへと帰る方法を見つけるため、オズの国を冒険することになりました。北の魔女は善い魔女と言われているため、彼女はまず、そこへ向かって助けてもらおうと考えました。額に守護のキスを受けたドロシーは、強い力を持つというオズの国の魔法使いへ助けを求め、会いに行きます。道中で、知恵を求めるかかし、心が欲しいブリキの木こり、勇気が欲しい臆病なライオンと出会い、彼らとともにドロシーはオズの魔法使いの元へと進みました。旅の途中でさまざまな困難に出会いますが、かかしの機転と、ブリキの感情と、ライオンの勇敢さによって、悉く問題を解決して乗り越えます。ようやくたどり着いた彼らはオズの魔法使いと話す許可を得ますが、面会は一人(一匹)ずつという条件でした。面会者によって姿を変える大魔法使いに、カンザスへ帰ること、知恵、心、勇気という彼らそれぞれの願いを伝えると、西の悪い魔女を退治するように条件を出されます。西の悪い魔女は黄金の帽子に宿る翼の生えた猿たちを使って、ドロシーたちへ多くの困難を与えてきますが、ここでもかかしの知恵、木こりの感情、ライオンの勇気によって蹴散らし、魔女の元へと辿り着きました。そして、対峙したドロシーは、額のキスによって守られながら西の悪い魔女を退治します。

約束を果たしたため、願いを叶えてもらおうとオズの国へ戻ってきたドロシーたちですが、面会中に大魔法使いが実は魔法の使えない奇術師だと明かされます。しかし、旅の途中の言動からもわかるように、かかしには既に知恵があり、ブリキには既に心があり、ライオンには既に勇気があることから、奇術師の簡単な方便で、結果的に三人(匹)の願いは叶えられました。そして、ドロシーは奇術師自身もアメリカへ帰りたいという思いから、一緒に気球を作って欲しいと頼まれます。絹を編み、手作りの気球を作った二人ですが、いざ飛び立とうという場面でトトが居なくなり、奇術師だけを乗せて気球は飛び上がって行きました。途方に暮れるドロシーですが、南の善い魔女にカンザスへ帰る方法を聞くことにし、かかしと木こりとライオンとともに出発します。襲いくる困難は黄金の帽子を用い、翼の生えた猿たちに助けられ、ようやく南の善い魔女グリンダに出会います。グリンダは、黄金の帽子と引き換えに帰る方法を教える約束を交わします。黄金の帽子の三つの願いを叶え終えたドロシーは喜んで引き渡し、グリンダの行動に委ねました。グリンダは帽子を使って、かかしと木こりとライオンをそれぞれが望む場所へ運び、翼の生えた猿たちを帽子の呪縛から解き放ちました。そして、ドロシーには履いている銀の靴でカンザスに帰ることができることを伝えます。ドロシーは皆に別れを告げたあと、銀の靴の魔法でカンザスへと帰り、無事に叔父と叔母の元へ戻ることができました。


ボームは序文で伝えているように、「ふしぎやよろこびはいままでどおりあって、つらい気持ちや悪夢は排除された、現代のおとぎばなし」を作り上げました。また、作品に登場する人物や小道具などは、彼の多くの人生経験から反映しているものであり、使用した意図もそれぞれに込められています。

かかしはボームが幼少期に何度も見た悪夢に登場していたもので、野原をどこまでも追い掛けられ、首を掴まれそうになる瞬間、かかしがボロボロに崩れ去るという夢でした。かかしの「火のついたマッチが怖い」という台詞は、ボームの劇場が火事で焼失したことを示唆しており、かかしは彼の「恐怖」を愉快な登場人物へ置き換えた存在であると考えられます。

ブリキの木こりは、ボームが雑貨屋のショーウィンドウを飾ろうと、自分で端材を組み合わせて作ったブリキの人形がモデルになっています。洗濯用のボイラーで胴体を作り、ボルトで固定された煙突で腕と脚を作り、鍋の底で顔を作りました。ボームはその人形に漏斗型の帽子をかぶせて、心の無いブリキの木こりを完成させました。インスピレーションによって生み出されたブリキの人形は、本作で心を埋め込まれ、読者の印象に強く残る登場人物となりました。

また、物語の発端となる竜巻は未知への遭遇を呼び起こす象徴となっており、灰色の乾いた世界しか知らないドロシーに世界の広さを知らしめるきっかけを与えています。これは、ドロシーに新しい世界を魅力的に見せるという目的ではなく、他の世界を知ることで自分の生きる世界の良さや価値を認識させる意図があります。


ボームの妻は自分の娘のように愛していた姪を、わずか生後五ヶ月で重篤な病によって亡くします。ボームは悲嘆に暮れる妻の心を癒すため、この「つらい気持ちや悪夢が排除された」作品のヒロインに「ドロシー」と名付け、本作を妻に捧げました。ボームは過去の児童文学、例えばグリム兄弟やアンデルセンといった童話に影響を受けていますが、最も本作に影響を与えている作品はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』であると言われています。キャロルの作品が子供に受け入れられた一つの要因として、ボームは読者である子供が共感を受ける「アリス」という少女の存在にあると考えました。可愛らしさ、無垢さ、快活さ、意思の強さなど、不思議の国で見せるアリスの個性を、ボームはドロシーに踏襲したことによって、非常に魅力的なヒロインが誕生しました。そして、不思議の国というお伽話然とした舞台から、かかしやとうもろこし畑などのアメリカ中西部に馴染み深い場所を登場させることで、ボーム独自の新しい世界を築き上げました。


ドロシーに同行する仲間たちは、それぞれが何かが自分に欠けており、オズの大魔法使いに与えてもらおうと願っています。しかし、かかしが求める知恵も、木こりが求める心も、ライオンが求める勇気も、旅の道中で彼らが既に持っていることが示されます。また、ドロシーがカンザスに帰りたいという願いを抱いていながらも、ずっと履いていた銀の靴が叶えてくれることが最後に明かされます。彼らは、既に持っているものに気付かず、無いと信じて欲します。仲間との旅で出会う問題を解決しようと、彼らは仲間のために「無いと思っている大切なもの」を発揮します。この物語では、欲しいものは既に手のなかにあるということ、自分以外のために発揮できるということが教示的に描かれています。

 

あなたに必要なのは自信だけです。危険を前にして、怖がらない生き物はありません。ほんとうの勇気とは、怖くても危険と向き合うことであって、そういう勇気を、あなたはふんだんにお持ちなのです

ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』


お伽話は、産業成長の反動として隆盛すると言われています。十九世紀末から二十世紀初頭までアメリカは怒涛の勢いで工業化を押し進め、世界経済における中心的存在へと成長しました。こうした社会変化の影響のひとつとして、アメリカ初のお伽話が生まれたことは、後世に生きる我々にとっては喜ばしいことだと思います。フランク・ボーム『オズの魔法使い』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

 

『痴日』牧野信一 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

痴日 (青空文庫POD(シニア版))

 

牧野信一(1896-1936)は、神奈川県の小田原に生まれました。当時の小田原では、日本における本格的な産業革命の影響が及び、安価な輸入農産物の流入や機械化工業の浸透による農家の貧困が目に見えて問題化していました。福沢諭吉が「日本は今や相当に開化した。社会の秩序は殆んど立った。この上日本はどこまでも東洋の一孤島に縮って居なければならぬという道理はない筈である。 故に日本人はサッサと外国へ出て行け。」と海外移住を進めたこともあり、小田原全土では渡米熱が蔓延していました。そして、牧野の父親も例に漏れず、アメリカへと渡って約十年間も日本へ帰ってきませんでした。父親と母親の関係はあまり芳しくなかったこともあり、そのような環境を祖父母は容認し、母親とともに彼らは牧野の成長を支えました。牧野は父親を近くに感じられないながらも、時折送られてくる珍しい土産品などを通じて、その存在を認めるという変わった親子関係で育ちました。送られてくる土産品には、原著の海外文学作品(ギリシャ文学やローマ文学、欧州での古典叙事詩など)も含まれており、のちの牧野文学に少なからず影響を与えています。

早稲田大学英文科へと進学した牧野は、在学中に自らも執筆を行うようになりました。古典だけでなく、谷崎潤一郎やミゲル・デ・セルバンテスなどにも関心を示し、彼自身の文芸性は独自の成長を見せ始めます。卒業後は知人の紹介で時事新報社の記者になると、配属先で佐佐木茂索と出会いました。佐佐木は後に文藝春秋を立ち上げ、菊池寛らと共に芥川賞や直木賞を創立した人物で、牧野が日本文壇に立つ足掛かりの一助を担った人でもあります。また、同時期に、大学で同級の浅原六朗に誘われて同人誌「十三人」を創刊した際、牧野は処女作『瓜』を発表しました。この作品が自然主義文学を牽引していた島崎藤村の目に留まり、大いに賞賛されます。そして、翌年には藤村の計らいによって、春陽堂の「新小説」へ『凸面鏡』を掲載することができ、牧野は正式に、作家として日本の文壇に立ち上がりました。ここから、牧野の苦悩に満ちた作家人生が始まります。


牧野の血筋は、どの代でも一人は激しい神経衰弱を引き起こし、気の病や自死に至る者があったと言われていました。実際に彼は慕っていた医者の叔父が精神を病んだことを目の当たりにし、更には、母親から「今度はお前の番だ」と不安を煽られるという過去があったことから、牧野自身はいずれ自分も気の病に罹るのではないかと不安を抱きながら暮らしていました。そうした精神不安が彼の作風に影響を及ぼし、牧野の作風は藤村と同様の自然主義文学の流れを汲みながらも、陰湿というよりは「暗澹」と表現すべきものが彼の作品には現れていました。

しかし、1927年に「新潮」で発表した『西瓜喰う人』では、それまでの「暗澹」からかけ離れた「禍いから転換」するような物語を綴り始めます。宇野浩二や坂口安吾などが称賛する「ギリシャ牧野」と呼ばれるこの時期は、作家仲間との良い交流もあり、作品に「生気」が包まれているようでした。言い換えれば、「暗澹な私小説」から「好転を求める幻想小説」への転換であり、そこには幼少期に育んだ「古典的幻想性」が織り込まれていることがわかります。ある意味で、ドン・キホーテのような夢想を込めた作品が多く生まれた時期であるとも言えます。

作風を好転させた牧野でしたが、後年に差し掛かると胸の奥底から精神衰弱が再び浮かび上がってきます。振り子のように「暗澹」から「好転」へと変化した作風は、再び、そして更に強い勢いで「暗澹」へと突き進みます。しかし、そこから生み出される作品には獲得した「幻想性」が滲み、私小説でありながら、牧野の影には非現実性が纏わり付いています。精神を病みながらも厭世的にはならず、実在に幻想性を見出すような視点で私小説を綴っていきます。彼の敏感な感受性によって陽の光や風の戦ぎを幻想的に感じ取り、その感情を私小説で描き出すという手法は、作品を単純な暗澹ではなく「祝祭的な暗澹」として昇華しています。この晩年に差し掛かる時期に発表された本作『痴日』は、その典型的な作品と言えます。


執筆の不調により精神衰弱となった作家の隠岐は、細君と従妹の弥生と三人で海の見える貸別荘で療養暮らしを始めました。経済的困窮に苛立ちを募らせる細君は隠岐に強く当たり、気の病と精神負荷によって彼もやはり面白くない環境にありました。歳の離れた弥生は魅力的な女性であり、尚且つ行動は大胆で、隠岐もどのように接すれば良いか困惑する始末でした。秋の初めから始められる共同生活は、経済的な問題を持ち出す細君との居心地の悪い会話や、突発的に魅せる弥生の行動に対する隠岐の反応が綴られていきます。季節が移ろい、春の陽気が感じられると、弥生は日光浴に行きたいと隠岐に持ち掛けます。隠岐は、一張羅の毛皮をしっかりと着込んだ弥生とともに砂浜へ向かって歩き出します。人気が無い場所へ辿り着くと、弥生は勢いよく両手で毛皮を開いて隠岐に見せました。中には一糸纏わぬ姿があり、隠岐は驚きの声を上げます。一瞬間、隠岐は困惑したものの、気持ちが落ち着くと楽しみを覚え、そのまましばらく陽気な会話を交わしながら、二人は散歩を続けました。


自身を題材とした経済的に困窮した作家を描いた本作ですが、牧野が作品に映し出した「感覚的幻想」が状況を好転的に捉えており、隠岐の精神が快方に向かっていることが伝わります。牧野が独自の価値観の眼鏡を通して眺めたことにより、牧野という人物の領域を超えた私小説が生まれたと言えます。そこには「印象」が優先して描かれ、事実以上の精神的真実が浮かび上がっており、隠岐が求めていた春の目覚め(遅日)が、弥生のおかしみをもって訪れさせています。この真実は、牧野の価値観的真実と言えるもので、彼の内側から眺めた世界が表出しているからこそ、暗澹からの好転が自然に浮かび上がるように描き出されています。

 

彼は、片方に彌生の腕を執り、左には、何も彼も一處くたに下穿までも丸め込んであるといふ鞄を大きく振りながら、歩調を合せて、さへぎるものもない廣々として砂原を颯々と歩きはじめた。

牧野信一『痴日』

 

振り子が戻るように、人生の「暗澹」が舞い戻ったことで、牧野の精神衰弱は激しいものとなりました。事あるごとに自死を口にするようになった牧野は、最終的に自宅で縊死しました。精神の崩壊を恐れるあまりの、精神衰弱という苦しい孤独からの解放を求めたのだと考えられます。葬儀には、河上徹太郎や小林秀雄など、牧野をマイナー・ポエットとしてではなく文壇に必要な文学者として支持した面々が集まりました。再び好転へと振り子が移るまで生きることができていれば、より一層に祝祭的な好転文学を残すことができたのではないかと思いました。自然主義文学から早稲田の奇跡派へと導く牧野信一の『痴日』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

「ルル二部作」フランク・ヴェデキント 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

地霊・パンドラの箱――ルル二部作 (岩波文庫 赤 429-1)

 

あらゆる男たちを魅惑し惹きつけ破滅させるルル。『地霊』では夫になった3人までもが彼女にきりきり舞いしながら死んでゆく。ルルとはいったい何者なのか。世紀末の社会の虚偽・退廃を、ルルを通して描いたヴェデキントの戯曲は今も驚くほど新鮮である。ルルを題材にしてアルバン・ベルクはオペラを作曲している。


フランスのエミール・ゾラ、ノルウェーのヘンリック・イプセンなどが与えた文学的影響は、ヨーロッパ全土へ自然主義という文学思潮を広め、諸国で独自の発展を遂げていきました。ドイツでは1880年ごろから広まり、やがて自然主義による新演劇運動が活発化していきます。ドイツ演劇の中心地であったベルリンでは、ゲルハルト・ハウプトマンの『日の出前』が大きな喝采を受け、世間一般に自然主義演劇が受容されていきました。しかし、ドイツでは他のヨーロッパ諸国よりも自然主義の広がり方が狭く、例えば、ウィーンではデカダン(頽廃思想)演劇が主流であったように、地域によって演劇の性質に違いがあり、アルトゥル・シュニッツラーやフーゴ・フォン・ホーフマンスタールなどがドイツ文学に大きな影響を与えました。自然主義もデカダンも、根底には市民社会の苦悩と虚無を暴き出していることに共通点が見られますが、そこに作家としての手法と思想に違いが生まれ、作品の性質そのものに影響を与えています。こうした一枚岩ではないドイツ文学運動において、また別の性質の文学を生む作家が現れていました。フランク・ヴェデキント(1864-1918)は、市民社会を一般的な道徳観に縛られず、当時は問題作と言われるほどの大胆な描写で執筆し、ドイツ文壇に大きな嵐を巻き起こしました。社会の矛盾と欺瞞を抉り出すように露出させ、その筆で容赦なく描き出した彼の見る社会は、出版禁止や上演禁止を幾度も招きます。しかし、彼の作品は、一般的な諷刺作品に留められない非常に強い文芸性を秘めています。


文学における自然主義の普及と同様に、ドイツ演劇にもフランスのキャバレー文化が流入しました。カバレットと呼ばれるドイツのキャバレーは、十九世紀末のパリに見られるような盛り場と言われる地下酒場と同様のもので、前衛的な詩人や劇作家、音楽家や俳優などが、社会の外れで発散するように活動していました。観客は酒や食事を楽しみながら、詩の朗読やコント演劇、そしてシャンソンなどを観賞することができます。カバレットの性質から、上演される作品は頽廃のパリ同様に快活なものはなく、社会の闇を暴くもの、政治を辛辣に諷刺するもの、性的な表現が過激なものが披露され、こういった性質が前衛的な芸術性を強く刺激して発展を続けました。このカバレットにおいて、群を抜いて活躍した作家こそ、ヴェデキントでした。彼は学生時代から前衛的な詩人たちと関わる機会があり、その影響を受けて自らも執筆を始めました。思春期の性問題を描いた戯曲『春のめざめ』は、その大胆な描写から一躍話題となり、社会に大きな印象を与えました。


前衛的な人々の集まるカバレットにおいて、絶対的な評価を得たヴェデキントでしたが、ハウプトマンを代表とする自然主義演劇が中心的に受け入れられていたドイツ文壇においては、どちらかと言えば批判の声の方が強く上げられていました。ヴェデキントの大胆な筆致は、自然主義文学に比べると不自然に感じられ、また、性道徳そのものを攻撃的に描くことは、多くの読者にとって受容できる範囲を超えていました。しかし、ヴェデキントの信条は「肉体はそれ自身が精神をもつ」というもので、自然主義の思想に込められた観念的な理想像と正反対な性質を持っていたことから、精神と肉体は結びついているものであり、精神の表現には肉体もこれに準ずるという信念のもと、性問題に対する直接的な描写を継続していました。言い換えれば精神的な美化は欺瞞であるという図式を表出させ、既存社会における価値観そのものに疑問を呈する作家として名を残すことになります。


そのようなヴェデキントが、観客に受け入れられ、大きく名を馳せることになったのは、ミュンヘンのカバレット「十一人の死刑執行人」に参加したことが影響しています。店の名とも思えないような看板を掲げたカバレットでは、やはり一般に比べると過激な内容の演目が多く、叛逆的で挑発的な雰囲気が常に漂っていました。ヴェデキントは、毎晩のように登場し、辛辣な諷刺や過激な性問題提起を繰り返し、社会に問うように自らも俳優として演じ続けました。このような諷刺は、ブルジョワが市民に強要する道徳観から真っ向対立するもので、社会において彼の評価はさまざまであったものの、カバレットに集まる市民にとっては、最も注目すべき演者として認められていました。そして、その彼の代表作と言える戯曲「ルル二部作」は、現在でも多く演じられており、アルバン・ベルクによってオペラ化もされています。


この二部作は、『地霊』と『パンドラの箱』の二作で構成されています。見目麗しいルルという女性を中心に、男性たちが翻弄され、やがて破滅へと辿り着く作品ですが、そこには滑稽さと露骨な性が描かれ、陰鬱な社会諷刺が随所に散りばめられています。青年画家シュヴァルツのもとへ、衛生顧問官であるゴル博士とその妻ルルが訪れます。新聞の編集長シェーン博士に誘われたゴル博士が席を外すと、言葉を交わすうちにシュヴァルツはルルに夢中になっていき、ソファへと彼女を押し倒します。その場に戻ってきたゴル博士は嫉妬で興奮すると、心臓発作によって死んでしまいました。しかし、ルルは落ち着いて様子を眺めています。幕が移ると、ルルはシュヴァルツの妻となっています。ルルの父であるシゴルヒとの会話のなかで、ルルはシェーン博士と不倫関係にあることを打ち明け、シュヴァルツに対する嫌悪感を吐露します。一方で、シェーン博士は別の女性と婚約したためにルルとの関係を断ちたいと考え、シュヴァルツに打ち明け、ルルの管理を厳しくするように促しました。強烈な自己憐憫に陥ったシュヴァルツは、苦悶の末に自殺してしまいます。これを受けたシェーン博士は、精神が不安定に乱れ始め、やがてルルを妻へと迎えました。その後、ルルはシェーン博士の息子アルヴァ、曲芸師のロドリーゴ、ルルに恋愛感情を抱くゲシュヴィッツ伯爵令嬢と懇意になりますが、冷静さを失いがちになったシェーン博士は、彼らに軽蔑されるようになっていきます。絶望感を抱くシェーン博士は、ルルに拳銃を渡して自殺するように訴えます。そのとき、アルヴァとロドリーゴが登場したことで場が混乱し、ルルはシェーン博士を撃ち殺してしまいます。そして、アルヴァとルルはパリへと逃げていきました。ここまでが『地霊』です。

続く『パンドラの箱』では、アルヴァとルルが結婚しています。友人たちと共に投資によって利益を上げた彼らは豪奢な生活を送っていましたが、殺人犯としてドイツ警察に追われているルルは、ドイツから西へと逃避行を続けます。稼いだ金銭が尽きてエジプトのカイロへと辿り着くと、ロドリーゴと白人奴隷商人カスティ=ピアーニは、ルルに売春宿で働くように強要します。ここに突如シゴルヒが現れ、間一髪でルルは逃げ出すことに成功しましたが、金銭は全く持ち合わせていませんでした。ロンドンへと辿り着いたルルは、結局、売春婦としてシゴルヒとアルヴァを養うことになりました。そこへゲシュヴィッツ伯爵令嬢が道化姿のルルを描いた絵画を持って訪れます。何人かの客とのやり取りが描かれたのち、最後の客ジャックが現れます。彼はロンドンを震え上がらせていた切り裂き魔ジャック・ザ・リッパーで、ルルは殺害され、ゲシュヴィッツはルルへの愛を告げながら、幕は下されます。


男性を惑わすファム・ファタルとしてのルルという印象が語られることの多い本作ですが、ヴェデキントの真意はそこにありません。たしかに女性としての魅力を用いて男性を破滅へと導くルルですが、彼女自身が強く望んでいるわけではなく、男性が自らの嫉妬心や猜疑心、或いは恐怖心や羞恥心から身を滅ぼしていることが理解できます。もっと言えば、男性はルルを手に入れた瞬間に「破滅への豫言」を感じ取っており、そこへ自らを導くように結末へと辿っていきます。この点を、男性に捉えられた女性の解放と解釈する説もありますが、本質的にルルが解放を求めているわけではないため、この説に信憑性はあまり感じられません。ルルがブルジョワの強要する道徳観を持ち合わせていない点から、ルルが市民感情の表出者という見方の方に、説得力があるように思えます。ルルは男性にさまざまな名で呼ばれます。ゴル博士からは「ネリー」、シュヴァルツは「イヴ」、シェーン博士は「ミニオン」など、ルルは別の名を与えられますが、ここには男性側の所有物という性質が垣間見得ています。当時のドイツではいわゆる金権政治が成り立っていました。自己の所有物を披露することは、男性の地位向上に必要な行為でした。そうした金権政治の賛同者が、ルルという「市民感情」によって破滅へ導かれている点は、ヴェデキントの思想が如実に現れており、また、前衛的な観客も受け入れたのだと考えられます。


終幕で現れるゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、二部作において一貫した善の性質を持った人物です。愛情や献身をもってルルの傍に居ようとする言動は、本作の残酷さと不快さで溢れる空気の中で、唯一的に光っている要素です。しかし、ジャックの「お前もどうせまもなくおしまいさ!」という捨て台詞に込められた絶望感は、作品を通した頽廃性が集約されているようにも思えます。


本作は、悲劇性と喜劇性、滑稽さと残酷さが、ヴェデキントの筆致により入り乱れて融合している作品ですが、この性質から、彼は「ドイツ表現主義の先駆者」と呼ばれています。まず、『地霊』で見せる「死と宿命」によって非現実的な世界を提示したのち、二部作を一貫した「対話の崩壊」によって「理解の死」を表現しています。理解の死は「個人の解放」とも言い換えることができ、当時のブルジョワに抑えつけられていた価値観を解放するという意味合いです。そして、『パンドラの箱』による「墜落と死」では、社会の残酷さが目の前に迫り、ジャック・ザ・リッパーという現実の恐怖によって、非現実から現実へと観客を引き戻します。また、死によって招かれる終幕は、社会の行末を暗示しているようにも感じられます。

 

この国の現代文学がどうしようもないのは、あまりに文学的すぎるからなんだ。僕らは作家や学者のあいだで問題になるような問題しか扱わない。同業者仲間の見方でしかものが見れない。もう一度力強い偉大な芸術に辿りつくつもりならば、できるだけ、本などは決して読んだこともない人間とつき合うようにしなければ駄目だ。ただただ単純な動物的本能に従って行動するような人間とつきあわなければね。

フランク・ヴェデキント『パンドラの箱』


ヴェデキントは、観客に本作を強い個人的な視点で受け入れてほしいと望みました。広がる自然主義運動に見られる「写真のような視点」ではなく、自分自身の感情と価値観を尊重し、個人の視点によって社会を見ることを促しています。自然主義の或る意味で「無関心」の捉え方を否定し、個人としての意見を持って、感情を添えて捉えることを、彼は芸術作品に対するべき姿勢であると考えました。フランク・ヴェデキントの「ルル二部作」、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

 

『ミーチャの恋』イワン・ブーニン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

ミーチャの恋・日射病 他十篇 (岩波文庫 赤649-1)

 

「文字通り貫かれたのだ。この恐るべき日射病に、甚だしい愛に、甚だしい幸福に!」──亡命ロシア人作家イワン・ブーニンは人間を捕らえる愛の諸相を精緻な文体で描いた。見知らぬ女性との一夜の記憶が鮮やかさを増す「日射病」、初恋の歓喜が嫉妬の情に蝕まれていく「ミーチャの恋」など、作家が自ら編んだ中短篇集。


イワン・ブーニン(1870-1953)は地主貴族の家庭に生まれました。由緒ある家系で、「全ロシア帝国貴族紋章集」にも掲載されるほどでしたが、父親の代で大きく没落し、貴族としては非常に貧しい環境でブーニンは育ちました。クリミア戦役後に帰国した父親は、持ち前の情熱と寛大さで家庭を愛しました。そのため、ブーニン自身は貴族としての没落に反し、父親に対して強い尊敬の念を抱いていました。また、母親も慈愛に溢れ、感受性の豊かな女性であり、彼は貧しいながらも幸福な幼少期を送りました。ブーニンは、家庭教師の影響で読書に耽ることが多く、早い時期からホメロスの『オデュッセイア』などに触れ、彼の詩性を刺激していきました。十歳でギナジウムに入ったブーニンでしたが、環境や勉学の内容に肌が合わず、結果的に退学してしまいます。これ以後の家庭教師は兄ユーリに任せられましたが、ここからブーニンの文士人生は始まっていきました。ブーニンが人文や哲学に関心を持っていたため、ユーリはその方面を強化していきます。この教育の影響と、持ち前の詩性が合わさり、ブーニンは僅か十五歳にして小説『情熱』を書き上げました。また、1887年の冬に、詩人セミョン・ナドソン(作曲家セルゲイ・ラフマニノフなどに影響を与えたことで有名)の死を受けて綴った『セルゲイ・ナドソンの墓の上で』という詩が雑誌に掲載されるなど、その詩性は徐々に形を成していきます。


文学の聖地サンクトペテルブルクに居を移したブーニンは、ロシア文壇で活躍する文士たちと次々に交流しました。文学評論家で思想家のニコライ・ミハイロフスキー、自然主義作家ドミトリー・グリゴロヴィチ、社会諷刺作家アレクセイ・ジェムチュジニコフなどと言葉を交わしたのち、ロシア黄金期の代表作家レフ・トルストイの家を訪ねて議論し、戯曲と短篇の旗手アントン・チェーホフとも文学について議論しました。こうしてロシアの文壇の中心へと足を進めたブーニンは、写実主義作家たちによる文芸サークル「水曜会(スレダ)」に参加し、幅広い芸術の交流を叶えます。前述のチェーホフをはじめ、社会を切り取るように描いたマクシム・ゴーリキー、表現主義の先駆者レオニード・アンドレーエフや、ロシアロマン派の代表的作曲家セルゲイ・ラフマニノフといった音楽家も参加し、ブーニンは芸術的な研鑽だけでなく、穏やかな友情も築き上げていきました。


執筆も好調で、作家としての立場を築き上げていったブーニンですが、第一次世界大戦争の勃発によって大きな精神的失望を味わいます。ドイツ帝国によるランス大聖堂砲撃を受け、ブーニンは暴力による世界支配を目指す姿勢を強烈に批判しました。そして、ロシアにおける二月革命、第一次世界大戦争という歴史の流れは、ブーニンにはロシア崩壊の前兆として捉えられ、のちのソビエト連邦による権力を全て否定する態度を貫きました。当時は、「アレクサンドル・ブロークは革命の音楽を、イワン・ブーニンは反乱の不協和音を聴いていた」と囁かれたように、詩人たちによる革命推進に対し、ブーニンは反戦的な意味合いでの保守的な立場を取っていました。この感情が基盤となって、1920年に彼はフランスへと亡命します。黒海を渡るとき、ブーニンは「これまでの人生はすべて終わってしまった」と絶望を露わにしており、失意の底にあった精神による決断の亡命であったことが窺えます。


パリに落ち着いたブーニンは、失意のためか、なかなか執筆活動を始めることができませんでした。いわゆる「創作の貧困」と呼ばれる状況にありましたが、これは亡命後も気持ちを整理できず、変わりゆくロシアの情報を耳にするたびに気持ちが落ちていくという性質のものでした。しかし、その後に『刈り取る人々』を書き上げて話題となり、革命前の作品がパリでも出版され、亡命作家としての活動がゆっくりと本格化していきます。そして1924年に開催された「ロシア亡命者の使命」と題された文学の催しで、イワン・シメリョフ、ドミトリー・メレシュコフスキーなどの亡命作家とともに、ブーニンは「レーニンの命令を拒絶することが使命だ」と宣言し、亡命作家は進みゆく革命の道とは異なるロシアの道を示すことだと訴えました。このような活動の効果もあり、翌年に発表した本作『ミーチャの恋』は、大きな話題となりました。本作以降のブーニンの作品には、革命前まで一貫して込められ続けたロシア社会への啓蒙的な訴えは完全に消滅し、根源的な自然界における生物としての人間の存在が書き上げられています。


物語はミーチャという青年の一人称で進められます。彼は私立演劇学校に通う美しい女性カーチャに恋をしています。カーチャの美しさには目を見張るものがあり、貴族層の若者たちに注目されています。こうした様子を目の当たりにするミーチャは強烈な嫉妬心に駆られ、カーチャへも直接的に訴えるようになっていきました。彼女は、ミーチャの嫉妬心を抑えようと、自分には彼が唯一無二の存在だと伝え、何度も宥めます。嫉妬をするたびに宥められるうち、ミーチャはある時、彼女の心のなかで変化が起きていると感じました。そこからはカーチャに何を言われても嫉妬心がおさまらず、彼は耐え難いほどの苦痛に苛まれていきます。カーチャが演劇に没頭している理由のひとつに、一人の演出家の存在がありました。彼は演劇学校の校長で、カーチャを褒め称え、女優としての輝かしい将来を想像させます。彼女は演出家の言葉と、その情熱に惹かれ、時間を共に過ごすことが多くなっていきました。しかし、この演出家には生徒を誑かすという噂があり、カーチャはまさに標的となっていました。やがて彼女は「心の優しい純真無垢な少女」から「着飾って忙しなく愛想を振り撒く令嬢」へと変化し、ミーチャと恋の言葉を交わしていた時とは別人のようになってしまいました。ミーチャは嫉妬の苦しみから逃れるため、しばらくモスクワを離れて田舎の実家へ帰ることになりました。カーチャは賛同し、二人は療養後にクリミアで再会しようと約束します。

帰郷後、ミーチャはしばらく療養に努めていましたが、環境の変化による嫉妬心の抑制効果は見られず、むしろ一層にカーチャのことを思う時間が増えていきます。そこに居ないはずのカーチャの面影を探し、想いは募り、幸福な時間を思い出すたびに嫉妬心が溢れてきます。ミーチャは彼女に手紙を送りました。返事が来る前に、さらに手紙を送りました。カーチャが筆不精であることを理解しているミーチャでしたが、返事が届かないということは、やはり嫉妬心に繋がっていきます。手紙を待つあいだ、彼は図書館で恋愛誌を読み耽り、恋心を刺激し、また苦悩の渦に呑まれていきます。一向に届かない返事を求めて、ミーチャは毎日、自ら郵便局へと出向くようになりました。しかし、手紙が届くことはなく、新聞だけを持ち帰る日々が続きます。嫉妬の苦悩が心の底に突き当たると、ミーチャは「一週間のうちに手紙が届かなければ自殺するしかない」と決意します。そして彼は、郵便局へ通うこと、愛の手紙を書き送ることを禁じ、自分の苦悩と向き合うことにしました。このような苦悩を見兼ねた村の長は、ミーチャに気晴らしの娯楽を提案します。それは、少額の料金で村の若い女性と二人きりで過ごし、性的快楽を得られるというものでした。アリョーンカという女性が引き合わされ、二人きりで落ち合ったミーチャでしたが、家族の動向や自身の苦悶に心を掻き乱されます。幾つもの感情によって、ミーチャの神経は激しく過敏になっていきます。そして、性的な快楽を得た瞬間に、ミーチャは大きな失望感に包まれました。性行為に求めていた純粋性や幸福がそこにはなく、ただ一面の虚無だけが広がっていました。苦悩と絶望の板挟みとなったミーチャは、一つの大きな決断をします。


ロシア亡命者に向けたパリの雑誌「ソヴレメンヌイ・ザピスキ」に初掲載された本作『ミーチャの恋』は、大きな反響を呼び、さまざまな書評が寄せられて話題になりました。ブーニン自身の失恋経験が色濃く反映されていながら、自伝的な雰囲気を感じさせない点も一つの特徴です。ミーチャという青年の強烈な個性も理由に挙げられますが、何より嫉妬心の芽生え方の普遍性と焦燥感の表現が強烈な印象を与えています。快活な女性に見られる奔放さは、恋する青年にはもどかしさを生み出し続ける原因であり、恋愛感情の熱量が嫉妬の妄想を膨らませる原因にもなります。そして、このような登場人物の感情を剥き出しにした表現技法が「現代的」であると評価され、また、読者を物語へ没頭させる要素ともなっています。そして、読者が感じ取るミーチャの苦痛や嫉妬は、ブーニン自身が感じたものであり、読者が共感するものでもあります。


ミーチャの持つ「情熱と純粋性」は、彼に悲劇的な終幕を与えます。カーチャが演出家に誑かされる以前、二人は良好で純粋な恋愛感情で結ばれていました。恋の感情は相手を偶像化し、やがて異性の理想像へと昇華させます。この時点でも、カーチャの奔放さには「理想との相違」があり、小さな諍いを生み出していました。しかし、カーチャに変化が見えだすと、理想との乖離は激しくなり、比例して苦悩や嫉妬も激しくなっていきます。このようなミーチャの態度に、現実のカーチャの心は一層に離れていきました。遠く離れて暮らすことで、ミーチャが見るのは理想のカーチャだけとなり、それは絶対的な偶像となって嫉妬心が爆発的に膨らみます。そして会うことができないという事実が嫉妬を絶望へと変化させ、終盤の情事を招きました。


自然描写が緻密で豊富な点も、ブーニンの亡命後の作品に見られる大きな特徴です。人間という存在は自然の一部であり、自然と一体であるという考えから、登場人物の感情の機微は自然描写と共に詳細に描かれます。本作では特に顕著で、モスクワでの生活においては殆ど自然描写は見られず、田舎へ移り住んでからは非常に豊富に描かれています。モスクワでは、ミーチャが抱く嫉妬などの感情はカーチャへ直接的に放たれるため、その瞬間に発散してカーチャに宥められていました。しかし、カーチャと離れて暮らすことでミーチャは抱く嫉妬や苦悩を精神の内へと溜め込み、極度の葛藤という形で苦しみます。こうしたミーチャの感情変化や精神的負荷を、ブーニンは沈鬱な感情を准えるように自然を描写し、読者の心へ刷り込んでいきます。陽の明るさや暗さ、自然の優しさや厳しさ、蝶の舞いは蛾の羽ばたきへ、ミーチャの精神変化を自然描写によって緻密に描いている点が、印象の強さと美しさを本作に備えさせていると言えます。

 

愛は、情欲は、魂は、肉体は?いったい何なのだろう?いやそんなものはない──存在するのは、何か別のもの、まったく別のものなんだ!まさにこの手袋の匂い──これだってカーチャじゃないのか?愛、魂、肉体じゃないのか?農夫たちも、車内で働いている人たちも、不恰好な赤ん坊を洗面所に連れていく女性も、コトコトと鳴るランプの淡い焔も、春の荒れ野を覆う薄闇も──すべては愛であり、魂であり、苦しみであり、いまだ語られざる喜びなのだ。

イワン・ブーニン『ミーチャの恋』


ブーニンのノーベル文学賞受賞には、確かに当時の「亡命ロシア文学」を活性化しようという世界の文壇が描いた思惑が影響しました。しかし、彼の文学には並外れた熱量と表現技法が作品に込められており、間違いなく芸術性の高い作品が多く発表されていると言えます。本書に収録されている表題作の『日射病』にも当てはまることですが、頽廃文学の要素は備えているものの決して主題がそこにあるわけではなく、人間という存在を追究し、現実と理想における幸福の乖離を、自然を通して描いているところにブーニンの特異な文才が現れているのだと思います。ロシア亡命作家イワン・ブーニンの『ミーチャの恋』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『わが夢の女』マッシモ・ボンテンペッリ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

わが夢の女: ボンテンペルリ短篇集 (ちくま文庫 ほ 5-1)

 

自分の頭蓋骨をとりだした男の話、患者に模した蝋人形で患部を治療する医者の話、賭ルーレットの数字をピタリと当てる男の話等々ナンセンスの中にアブノーマルなグロテスクさの満ちた短篇群。現代イタリア作家の中で最も評価することの難しい作家といわれる、異才マッシモ・ボンテンペルリの戦後初のまとまった短篇集。まことに奇妙キテレツ・痛快な一冊である。

 

マッシモ・ボンテンペッリ(1878-1960)は、イタリアの最北西部に位置するロンバルディア地方のコモに生まれました。彼はトリノ大学を卒業後、教職に就きながら戯曲や短篇小説を執筆していましたが、希望する中学教諭の職を得られなかったため、これを契機にジャーナリストの道へと転向しました。程なく第一次世界大戦争が勃発すると、ボンテンペッリは戦地へ従軍記者として向かい、その戦禍を実感しました。戦後に生きてミラノへ戻ると、戦争による社会不安から十九世紀末より表出した「表現主義芸術」が隆盛していました。表現主義は芸術性に作者の感情を反映させた芸術で、技法は主に抽象表現が用いられました。この表現方法に階級闘争の思想を加えた思潮を「未来派」と呼び、のちの芸術運動を席巻していきます。未来派は「階級闘争における暴力性を肯定」したもので、権力者側が抑圧する暴力と被支配者が権力に立ち向かおうとする暴力を、破壊的ではなく社会を正そうとする創造性であると提唱した『暴力論』(フランスの哲学者ジョルジュ・ソレルの主著)を屋台骨とした芸術運動です。ボンテンペッリは、この「未来派」の影響を受け、彼は自身の文学に変化を与えていきました。フランスのパリへ彼はジャーナリストとして向かうと、未来派の芸術家たちと交流し、自らも文学者として、この思潮を拡大させる活動に取り組みました。


未来派宣言を発表したフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ、形而上絵画のジョルジョ・デ・キリコ、その弟である作家で作曲家のアルベルト・サヴィニオ、大胆奇抜な劇作家ルイージ・ピランデッロなど、現代の芸術に大きな影響を与えた面々と交流することで、自身の文芸性はこれまでにない新たな思潮を発現させます。過去のイタリア文学より継承されていた思潮のなかで、ボンテンペッリはヴェリズモ運動と頽廃主義運動の流れに与していました。ヴェリズモ運動は、現実をありのままに描写しようとした自然主義に近しい運動ですが、どちらかと言えば犯罪などを含めた社会の闇を映し出そうとしたノンフィクショナルな性質を持っていました。ここに、未来派の抽象表現と暴力性が合わせ、彼は自然界のなかに想像上の独自世界を描写しようと試み、言い換えれば、両方の世界を融合させた幻想的現実を描き出し、理性と自然の二元論を成立させようとしました。これを「マジックリアリズム」と呼び、ボンテンペッリは独創的な文学を誕生させました。


彼の短篇小説『鏡の前のチェス盤』や『エヴァ・ウルティマ』は典型的なマジックリアリズムで書かれ、現実と虚構を二つの社会として抽象的に描いたものでした。この手法は当時のシュルレアリスム芸術に通ずるものがあり、友人であるジョルジョ・デ・キリコやアルベルト・サヴィニオらと共に、彼はイタリアでのシュルレアリスム運動に大きく貢献しました。その後、ローマに移り住んだボンテンペッリはルイージ・ピランデッロと親交を深めました。ピランデッロは彼に戯曲の創作を提案すると、『ミニー・ラ・カンディダ』(1927年)という現代のイタリア演劇で代表的とされる作品を生み出しました。こうした多岐にわたる執筆活動だけでなく、自らを含めた様々な実験的な作家を紹介した雑誌『900(ノヴェチェント)』を創刊するなど、イタリア文学の最前線で活躍しました。寄稿した作家には、モダニズム作家のジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフ、詩人のマックス・ヤコブやライナー・マリア・リルケなどがあり、ボンテンペッリは文芸批評家としても、その名を知らしめました。


本作『わが夢の女』も、マジックリアリズム創生期らしい作風で描かれ、ある種の幻想的で頽廃的な要素が融合されています。遠く離れなければならない男女が、別れの前の思い出を作るため、公園に構えているいくつかの見世物小屋に赴き、その催しを楽しんでいました。別れが脳裏にちらつきながらも楽しもうとする様子には切なさが秘められています。最後の催しへ入ろうとすると、加工された鏡が二つ備えられており、映すものを極端に変形させていました。男性はこの鏡に映った醜悪な女性の姿が脳裏に焼き付いてしまいます。直後に、女性を迎えにきた親族に声を掛けられ、二人は別れを告げて互いに立ち去ります。翌朝、悪夢にうなされた男性は慌てて目的の離れた地へ向けて出発しますが、女性を思い出そうとしても醜悪に映った鏡の姿しか思い出せません。何度試みても変化のない思い出に浸るうち、現実と虚構の狭間へと思考は落ち込んでいきます。


別れの前の切なく幸福な時間は、鏡に映るという行為によって、全くの別世界のように変化させられてしまいます。時間の速度も急激に変化し、記憶や思考も一挙に変化します。まさに、世界を変化させる引き鉄のような存在が鏡であり、男性は変化してしまった世界から抜け出せなくなってしまいます。虚構を虚構と認識できない男性は、過去の美しい女性の姿を思い描くことができず、醜悪な鏡の姿が記憶の全てとなり、実在すると理解している美しい女性への想いが維持されながらも、結局は厭悪の感情で心を満たしてしまいます。

 

幾度も私は、両手で頭をかかえ、アンナのことを、ほんとうのアンナのことを考え、実物の美しい彼女を、ふたたび見ようと思うのだが、だめだった。いまだに、だめなのだ。だから私は、いまだに、手紙を書いていないのだ。私は、彼女を失い、彼女は私を失った。きっと、私を恨んでいることだろう。


想像的な独自現実のなかで物語は進められますが、そこには美しさ以上の頽廃性が込められており、ヴェリズモ運動の潮流にあることが作中から窺えます。一見、怪奇性と捉えられる作風ですが、マジックリアリズムの手法で「あくまで現実」であるという点が特徴的で、だからこそ、読者には現実と虚構の狭間という恐怖を感じさせています。


年代から考えると、本作は日独伊の三国同盟の時代で、当時の日本ではファシズムが国家を握っていました。ボンテンペッリも当時はファシズムを称揚し、第一線で啓蒙に取り組んでいました。こういった背景から、早い段階で日本にはボンテンペッリは紹介されていましたが、第二次世界大戦争以降、こうした文学は姿を消しました。ボンテンペッリ自身は、ムッソリーニの第二次世界大戦争参戦の表明からファシズム反対派に寝返りましたが、この一定期間のファシズム支持という事実が、作家人生を大きく狂わせることになり、終生は恵まれない環境で過ごしました。作家としても文芸批評家としても、結果的にはあまり認められず世を去りました。


このように不遇な作家人生を過ごしたボンテンペッリですが、日本では数年前に『鏡の前のチェス盤』の新訳が出版されたようです。イタリアのシュルレアリスム運動を文学で支えたボンテンペッリの『わが夢の女』、手に取る機会があればぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

 

 

 

『風知草』宮本百合子 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

風知草

 

二十世紀初頭、1904年に日露戦争、1914年に第一次世界大戦争と、日本は国家規模以上の激しい侵略戦争を繰り返していました。しかし、国家を潤すという侵略目的に反して、連続した戦争は軍需ばかりが嵩み、結果的に人命被害と国民への貧困だけが与えられました。日本国民は尊皇による軍事称揚を押し付けられていましたが、1917年に起こったロシア革命による共産主義運動が国内に流入し、国民の生活にもその思想が浸透していき、やがて身を守るための共産主義運動が活性化していきます。一定層による偏った資本の占有を認める私有財産制に対する反発をきっかけとして、運動規模は拡大し、やがて君主制国家そのものを否定した運動へと発展していきました。尊皇の世に国民の反抗的な運動は許される筈もなく、政府は軍事国家らしく武力で弾圧していましたが、1925年に恐ろしい法律「治安維持法」を制定してしまいます。これは、私有財産制に限らず、国家の定める法、或いは活動自体に反発する者を「政府の判断により罪人と定める」という理不尽なもので、共産主義を是とする国民を片端から裁いていきました。治安維持法の制定と同時に共産主義運動に参加していたものは次々と逮捕され、拷問され、行方不明者や死者となって消えていきました。最も大掛かりなものは1928年の三・一五事件で、共産主義運動の中心組織を絡げて数百人を検挙し、全国へ見せしめのように取り上げたものです。このような不条理な国家による弾圧を、文学を通して世に訴えようとした人々をプロレタリア作家と呼び、共産主義運動に参加した人々が多くありました。三・一五事件を題材とした作品を発表した小林多喜二はプロレタリア作家の第一人者であり、共産主義運動の重要人物として活躍しました。そして翌年、つまり1929年に発表した『蟹工船』で全国的な代表作家として文壇の地位を確立しましたが、反政府の影響が強くなり過ぎたことにより、延々と国家に拷問を与えられ、最期(1933年)には非人道的な扱いを受けて死亡しました。

このように、治安維持法は政府が国民を自由に弾圧するための法律として存在し、国民は自由な思想や意思を持つことさえ許されず、ただ尊皇だけを神の如く扱うように強要されていたため、政府に対して声を上げることなど殆ど不可能な環境でした。

 

これまでの日本はいつも天下りの戦争にならされていました。天皇制の封建的な、絶対的な教育の下で、人民は戦争を「思惑の加った災難」として、無批判に服従してきました。
そして今日の破局に到りました。日本に戦争反対の心がなかったかといえば、小田切秀雄の「反戦文学の研究」をみてもわかるとおり、いつもときの戦争に反対した人道的な精神はありました。天皇制の権力はそういう文学を非国民の文学とし最近の数年は治安維持法でとりしまりました。

宮本百合子『戦争と婦人作家』


死を意味する「共産主義運動」でしたが、それでも命をかけて活動を続けようとする人々は、モスクワより戻った活動家の風間丈吉を中心とした「非常時共産党」を結成します。プロレタリア革命を掲げた彼らは、1931年に思想を同じくする小林多喜二をはじめとしたプロレタリア作家を加えて地下活動を活発に行いました。このとき、後の共産党指導者の宮本顕治と妻である宮本百合子(1899-1951)も同様に入党し、活動に参加しました。前述した小林多喜二の経緯があるように、他の党員も同様の危険を纏いながら、日々の生活を、例えば百合子であれば「党員」と「作家」という二重の生活を過ごすことになりました。しかし、政府が反国的な作家を野放しにすることはなく、出版社への強い圧力と作家への直接的な「出版禁止」を命じ、度重なる逮捕と勾留によって、百合子は執筆活動期間を僅なものしか確保できませんでした。1934年、日本共産党スパイ査問事件の加害者として逮捕された顕治は、彼の病や第二次世界大戦争の影響で裁判が長引き、終戦までの十二年ものあいだ投獄されていました。一方で、1938年に徹底的な出版禁止と活動の取り締まりを受けた百合子は、顕治と意思の疎通さえも図れない環境に置かれ、1939年に出版を解放された直後に、今度は第二次世界大戦争時の尊皇徹底が敷かれ、先の見えない執筆の禁止を余儀なくされました。


敗戦後、尊皇という絶対的な信仰とも言える国民の柱はGHQにより取り払われ、悪法である治安維持法も撤廃されました。しかし、プロレタリア作家たちは、これまで弾圧され続けた影響により堂々と作品を発表する気概さえ、恐怖に取り憑かれて思うように活動することができませんでした。その間、復刊や創刊された文芸雑誌には永井荷風などの安定した知名度の作家や、焼け野原となった社会をどのように生きるかを提示する第一次戦後派、或いは、戯作的な救いとなる大衆へ向けた作品を生み出す新戯作派などで誌面は埋め尽くされ、世間の文学的風潮からプロレタリア運動の影は薄くなっていきました。このような状況のなか、百合子は五年間も全く作品を発表できていなかったことで、溢れ出る意欲と使命感を糧に、これまでの思想を貫き通すように、立て続けに執筆して作品を発表しました。その主題は明確で、これまで地下に埋まり続けていた共産主義運動を公に日の下へ照らし出す、実際の自身の経験を踏まえた作品群でした。

終戦日の1945年8月15日、軍事国家の日本が解体され、悪法も撤廃され、ようやく解放された顕治は、二か月かけて百合子の元へと帰ってきました。十二年ものあいだ引き離されていた夫婦は、信じ続けた互いの感情、生きているという実感、心身ともに喜びと安堵で震える瞬間を、再び出会うということで確かめ合いました。そして、百合子はその経験を活かして『播州平野』と本作『風知草』を書き上げました。

 

文筆の仕事の上で、可能なかぎり、戦争反対と平和の確保、原子兵器禁止の態度を明かにして居ります。平和を守る会、知識人の会、民主主義擁護同盟に参加して居ります。科学者たちが、適切な共同声明を発表しているのに、文学者は、なぜそのようにあっさりと、はっきりと行為しないのでしょうか。このことについてしきりに考えます。

宮本百合子『戦争・平和・曲学阿世』


百合子と顕治は、それぞれ「ひろ子」と「重吉」に置き換えられ、再会から数日後の場面から物語は始まります。満足な健康管理ができなかった重吉の身体検診を行うため、協力的な医者を待つ二人は、何処かしら時間を押し留めようとするほどにゆったりと過ごしています。荒れ果てた土地に道を迷う顕治の行動や、投獄経験が滲み出る技術などは、瞬間ごとに複数の感情が沸き起こり、独特の穏やかで切ない描写が続けられていきます。そして、二人の今後の活動をどのように方向付けて行くかということを、互いに具体的な言葉で説明することは少ないながらも、二人は十二年のあいだ繋がれていた共有の思想を体現しようと歩み出します。そして、再び赤旗編緝局を立ち上げ、日本共産党は合法政党として始動していきます。


治安維持法の被害を最も集中的に受けた共産主義運動者たちは、検挙され、拷問され、殺された大切な同志を胸に抱き、自らも恐怖と弾圧に耐えながら戦い抜いてきました。そして敗戦により尊皇ファシズムは消滅し、プロレタリア革命者の文字通りの枷を外したことで、ひろ子は大切な同志と抱く思想を、十二年越しに再び手にすることができました。そして、この出来事の象徴的存在とも言える日本共産党の始動は、日本国民が国内で革命的政党を組織したという事実としても強烈な印象を与えています。

 

十二月はじめに、はじめての大会がもたれることになった。赤旗編韓局という表札と同様に衆目の前でもたれる大会として、それは最初のことであったが、歴史の中では第四回目に当った。
いろいろの大衆的集会も活気にみちてもたれていて、一九四五年の冬は、日本の民主主義の無邪気な発足の姿であった。
木枯の吹く午後おそく、ひろ子は、前後左右ぎっしり職場の若い婦人たちで埋った講堂で、ニュース映画を観ていた。それは「君たちは話すことが出来る」と云う題であった。十月十日に、同志たちが解放される前後を中心として、治安維持法と、その非道な所業、その法律の撤廃を描いた映画であった。山本宣治を殺して出来た治安維持法が、小林多喜二を虐殺し、渡辺政之輔その他たくさんの人々を犠牲とした。

宮本百合子『風知草』


本作の抱く主題の「重さ」は通底しているものの、読者は不思議と穏やかな人間性を終始にわたって感じることができます。特に、作中で陽の感情が起こるときには、特に共感的に伝わってきます。苦痛を乗り越えた幸福という効果もあると思われますが、それ以上に、解放された後をどのように希望を抱くかという二人の感情が流れてきているように思われます。ひろ子が百合子であり、重吉が顕治であることには違いありませんが、それ以上に、作中の二人は共産主義運動に関わらず「戦争から解放された二人」であり、「尊皇ファシズムから解放された二人」としての性質が強く現れており、それらの言動自体から離れた「叙情性」が強く滲み出ています。ここに込められた解放から齎される清々しい感情こそが、主題以上に百合子が表現したかったものではないかと考えられます。そして、二人の姿勢はこれまでの軍国主義や君主主義に対抗し続けようとする意思が込められ、その熱量が二人の絆として刻まれているようにも思われます。

 

まず第一に、多くの作家の作品は、戦後現象的であった。
百合子も、戦後を題材として書いている。しかし、宮本百合子そのものは、戦後的ではなかったのである。

中島健蔵「人と文学」


当時の共産主義運動は、プロレタリア革命を目指したものでした。侵略戦争を是とし、君主主義の横暴に国民は苦しめられていました。それでも立ち向かおうとする二人の姿勢と覚悟は、間違いなく愛情によって繋がれていたのだと考えられます。宮本百合子『風知草』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

 

『国際エピソード』ヘンリー・ジェイムズ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

国際エピソード (岩波文庫 赤 313-2)

 

イギリスの貴族ランベス卿と生粋のアメリカ娘ベッシーの恋物語。イギリス気質とアメリカ気質を対照的に描いたジェイムズの中篇。

 

アメリカのニューヨークで生まれたヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)は、旅する文学者でした。アメリカで生まれた彼は、哲学者の父の意向に沿って法律家を目指しましたが、自身にとって、どうしても興味が湧かないことを悟り、関心の強かった文学の道へと方向を変えました。彼は、ボストンやマサチューセッツなどで作家と交流し、多くの知識人との関わりを持つようになり、文学者としての礎を少しずつ築いていきます。この頃、『若草物語』を書いたルイザ・メイ・オルコットと食事を共にするなど、そほ関わりは非常に幅広いものとなっていました。二十六歳となったジェイムズは、芸術的な側面での文学が活発であったヨーロッパへと興味を抱き、約十四ヶ月間の欧州旅行へ出かけます。特に英国では、それぞれで開かれている大小のサロンへと顔を出させてもらい、当時に活躍していた多くの作家と交流することに成功しました。ヴィクトリア時代の代表的芸術批評家ジョン・ラスキン、英国社会風刺の巨匠チャールズ・ディケンズ、英国耽美派詩人マシュー・アーノルド、アーツ・アンド・クラフツ運動の指導者ウィリアム・モリス、心理洞察に優れた作家ジョージ・エリオットなど、錚々たる芸術家たちと関わり、彼はその感性を刺激されました。


一度帰国した彼は数年後、今度はフランスのパリへ移住します。この十九世紀末のパリは「ベル・エポック」の最盛期で、新芸術と呼ばれるアール・ヌーヴォーの文化運動が活性化していました。アルフォンス・ミュシャの手掛けるポスターが街を埋め尽くし、絵画では印象派からフォーヴィズムやキュビズムまでが隆盛、音楽ではリヒャルト・シュトラウスやグスタフ・マーラーなどが活躍し、建築ではエッフェル塔で初めてエレベーターが取り入れられました。芸術の祝祭的とも言える発展は、当然ながら文学でも巻き起こっていました。芸術至上主義の第一人者であるギュスターヴ・フローベール、自然主義文学の旗手エミール・ゾラ、君主主義の自然主義文学者アルフォンス・ドーデ、厭世的な自然主義作家ギ・ド・モーパッサンなど、現代の作家にも多くの影響を与え続ける作家たちが競うように自然主義文学を発表し、文壇の地位を固めました。ここでもジェイムズは持ち前の交渉術と勇気を持ってサロンへと顔を出し、パリの文壇を席巻する作家たちと次々に懇意になっていきました。


その後には、また英国へと向かい、再び文化の牽引者たちと関わりを持ち、そこで受けた政治的な印象とフランス文学者たちの自然主義の思想を重ね合わせて、自らの文学作品を生み出していきます。自身の旅行記とも言える挿話をフィクションとして展開し、自らの存在を消し去って自然主義的な作風で創作しました。彼の実際に体験した事実を、完全な客観性で描く彼の作品には、主観的な感情は薄まり、当時の社会と風俗に翻弄される「実際の生きる人々」が前面に浮かび上がっています。この作風は1877年から顕著になり、『アメリカ人』、『ヨーロッパ人』、『デイジー・ミラー』などを立て続けに発表し、大西洋を股に掛けた欧州と米国での名声を強固なものとしました。この時期に発表した作品が、本作『国際エピソード』です。これらの作品が好評であった一つの理由として、欧州の伝統的な社会規範から掛け離れた行動を起こす「女性」の活躍を描いた点が挙げられます。


本作では、英国上流貴族の男性二人と米国中流階級の女性二人が交流する様子を描き、各国の社会制度や風土を浮き彫りにしている作品です。古い歴史を持つ英国の階級社会や嗜みを背景とする男性たちが、国家として新しい米国の資本主義社会で認められる奔放さを持つ女性たちと交流するうちに、互いの価値観の相違を魅力と捉える一方で、やがて広がる歪みとなっていきます。本作は二部構成で、第一部では英国人男性が米国へ行き、第二部では米国人女性が英国へ向かうという流れで進んでいきます。第一部の自由奔放で開放感のある景色のもとで、礼儀や柵から解放された英国のランベス卿は、堅苦しい英国の風習は辟易だと言わんばかりに置かれた環境を楽しみます。同行する従兄弟パーシ・ボーモントは、羽目を外しすぎないようにと釘を指しますが、ランベス卿の気持ちの高揚はおさまりません。相手をするウェストゲート夫人は米国に誇りを持ち、客人を満足させるもてなしを徹底する反面、心の奥底に強固な傲慢さを秘めています。そして、その妹ベッシー・オールデンは歴史を重んじ、芸術を愛する、知性あふれる美しい女性です。ランベス卿は時間を共にするうち、ベッシーに恋心を抱くようになり、ボーモントは一抹の不安を抱きました。貴族であるランベス卿とベッシーは決して結ばれることがないという英国の「しきたり」を、この開放的な米国の空気にランベス卿が浮かれて不幸を招こうとしていると考えます。その危険を避けるため、ボーモントは一計を案じてランベス卿の母親と協力し、急ぎ帰国するように取り計らいました。


数ヶ月が経ったのち、今度は米国の姉妹が英国へと旅行に訪れます。ランベス卿への気持ちが高まっていたベッシーは、なかなか到着した旨をランベス卿たちに伝えようとしない姉に痺れを切らします。英国では米国人は自由に振る舞えず、彼らは米国人を蔑んでいると決めつけているウェストゲート夫人は、英国全般に向けた猜疑心が溢れており、いつものような放埒な様子は微塵も見せません。そのような理由から、ランベス卿たちも自分たちのことなど記憶に無いだろうと決め付けて、ベッシーの期待を満たそうとはしません。しかし、ある日の散歩中にランベス卿たちとともに滞在していた英国人の一人と偶然に出会い、これをきっかけにしてベッシーはランベス卿との再会を果たします。感動的な再会を喜ぶランベス卿にベッシーも嬉しい表情を見せますが、ウェストゲート夫人から猜疑心は消えません。ランベス卿のどのような相槌にも難癖を付け、自分たちへの侮蔑を探り続けます。それでも日を重ねるごとに距離の近付くランベス卿とベッシーは、二人で語り合う場面が増え、お互いをよく「知り合う」ようになっていきました。ベッシーが、社会において立派である人は中身も立派でなくてはならないという、至極真っ当な意見を述べると、ランベス卿は意にも介さず、社会的に立派であればそれが全てだと当たり前のように返答します。社会は歴史が作り上げたもので、その社会を動かす立場の人間は歴史を理解していて然るべきでは、というベッシーの意見も、ランベス卿は全く必要がない、と取り付く島もありません。徐々に社会や立場といった環境以上に「人間的な価値観の違い」を突き付けられたベッシーは、高まっていた気持ちが急速に和らいでいきます。そのようなこととは想像もしないランベス卿は、婚姻話のために自分の母親との話の場を設けようとして、終幕へと物語は進んでいきます。


第一部では、米国人の掲げる「自由」と抱く「自信」がウェストゲート夫人の言動に現れていましたが、第二部になると、環境が変わったことで顕著に疑心暗鬼や猜疑心が溢れ出します。米国は欧州からの移民で発展した国ですから、根源的な伝統文化は同様にあるはずです。しかし、歴史が作り上げた英国の風習や社会制度は、新しい国家とは全くの異国文化であり、そうした環境で過ごす国民にも、それぞれの気質や価値観が齎されています。自由であるという誇りと環境の心地よさを肯定せんがために、ウェストゲート夫人は「歴史ある風習や社会制度」を徹底的に嫌悪します。ここから滲み出る疑心暗鬼や猜疑心は、繰り返し描写されることによって段々と滑稽に映り、やがて読者は愚かしくさえ感じてしまいます。

一方で、歴史の生んだ文化や芸術を尊重し、一貫した憧れを保ち続けるベッシーは、(本作における)米国においては異端な人物として描かれています。しかし、そこに抱かれる憧れは哲学や詩性に対する敬意が表れており、確かな審美眼を持とうとする意思が感じられます。だからこそ、歴史を軽んじて社会を動かしている英国貴族や階級制度そのものを嫌悪するベッシーの姿勢には、読者は同調的な感情を抱き、迎えた物語の結末に納得せざるを得なくなります。姉妹は双方共に英国に対して嫌悪感を抱く結果になりましたが、理由が全く別のものであることから、社会に向けるべき姿勢はどちらであるかを対比的にジェイムズは描いているように思います。

 

ところがベッシー・オールデンがつくった影繪は、肝腎の侯爵の姿と一致しなかった。そしてその不調和が時として彼女を、自分でも譯が解らないくらい、苦しめた。彼が傍にいないときには、不調和は勿論大して目立たなかった。そういう時の彼は高い責任と愛すべき性質とが充分美しく結合したもののように思われた。ところがいったん眼に見えるところに坐って、いつもの快活さと單純さとで笑ったり喋ったりしていることになると、勢い彼女はより正確に測るようになり、ランベス卿の地位は堂々たるものだが、青年自身にはあまり堂々たるところがないことを痛切に感じるのだった。そういう時には彼女の想像は彼から離れて──遠く離れてさまようのだった。


前述のように、ジェイムズはフランス文学で隆盛していた自然主義作家たちに関わり、彼自身の作品にも大きな影響を与えました。同時的に、彼はベッシーの求める芸術性の尊重を持っており、自身の筆で追究できないかと試み続けていました。自然主義とは作者の主観や主張を排除して社会を現実的に映し出すことにあります。徹底した作中における作者の排除は、物語に作者の片鱗さえ感じさせず、一貫した社会描写の語り部を生み出させました。この、文学における芸術形式の完成を目指した強い意識は、登場人物たちに台詞による性格の披露を体現させました。そして追究を続けるジェイムズは、この時期(本作発表)以降、戯曲によってその性質をより強化させたのち、1898年発表の『ねじの回転』などに見られる「意識の流れ」を描く文学を生み出していきました。意識の流れを描くことは、地の文そのものが登場人物が支配するということであり、作者が踏み入る余地は無く、完全なる作者の排除と言え、追究した結果にこのような手法が生まれたことは実に納得させられます。この作風は文学における一つの作風として構築し、以後のモダニズム作家ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフなどに受け継がれていきます。


ジェイムズは旅する文学者として、多くの国の歴史や文化を見つめてきました。併せて、彼は、彼自身の精神における故郷という性質の国も強くは持っておらず、観察した国々の社会を「既にあるもの」として肯定的に受け止めることができたのだと思います。つまり、生まれ育った米国さえも客観的に眺めることができ、俯瞰的に観察することでウェストゲート夫人の滑稽さや歴史に憧れと尊重を抱くベッシーを、主観を添えずに描くことができたのだと考えられます。英米の両国を称揚もせず否定もしない姿勢だからこそ、より一層に双方の問題点が浮き彫りになっているように感じられました。ベル・エポックに颯爽と登場した米国人作家ヘンリー・ジェイムズの『国際エピソード』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『赤毛のアン』ルーシー・モード・モンゴメリ 感想

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今回はこちらの作品です。

 

 

ちょっとした手違いから、グリン・ゲイブルスの老兄妹に引き取られたやせっぽちの孤児アン。はじめは迷惑がった二人も、明るいアンを愛するようになり、アンは夢のように美しく移り変るカナダの自然の中で、少女から乙女へと成長してゆく……。愛情に飢えた、愛すべき人参あたまのアンが巻き起す、愉快で滑稽な事件の中に、人生のきびしさと暖かい人情が織りこまれた少女文学の名作。


カナダの東側、大西洋のセント・ローレンス湾に浮かぶプリンス・エドワード島は、国内最小の州として知られています。カナダは大航海時代より西洋人が流入し、植民地戦争を経て英国が治めるようになりました。白人の多い植民地であったことから、連邦から独立国となった先駆けの国でもあり、独自の文化を築いた国でもあります。流入した西洋人はアイルランド人やスコットランド人が多く、彼らの持ち込んだケルト文化が現在でも主流となっています。自然崇拝による祭礼などがよく知られますが、幾何学的な模様を身の回りに取り入れる点も特徴で、現在まで受け継がれるキルト民藝は誰もが知るところです。1867年の建国から西方で起こった1896年のクロンダイク・ゴールドラッシュにかけて、十九世紀末のカナダは怒涛の勢いで近代化に目覚めていきます。しかし、プリンス・エドワード島民は独自の時計を持つかのように、広大な自然に囲まれてゆったりと過ごしていました。赤い土地と広範な森林、美しい湖と移り変わる農作地の色々は、彼らの精神が表れているように落ち着いた力強さを持っています。農作業や身繕いはもちろんのこと、自動車なども殆ど使わず、毎日が人の手で賄われていました。


ルーシー・モード・モンゴメリは、1874年にこのプリンス・エドワード島で生まれました。彼女が二歳になる前に母親が病で亡くなり、父親は出稼ぎのためにカナダ西方へと移り住みました。そのため、モンゴメリは島の北部に位置するキャベンディッシュの祖父母へと預けられました。彼女はこの幼少期に、集中して読書をしました。小説は読むものを制限されましたが、詩は存分に触れることができ、彼女の内にある詩性は着々と磨かれていきました。こうした詩への没頭は彼女の感性を刺激するだけでなく、後に生み出す彼女の文学作品にも少なからず影響を与えています。雑誌や新聞に詩や短編小説を投稿し、職業作家という立場を築き上げた彼女は、長編小説に挑戦します。これが本作『赤毛のアン』です。完成直後に持ち込んだいくつかの出版社から拒否され、失意のあまりに原稿を保管していましたが、三年の時を経て読み返すと出版への意欲が再燃し、ようやく発表となりました。


本作は、十九世紀後半のプリンス・エドワード島にある架空の町アヴォンリーという場所で繰り広げられます。農業を営み女性が苦手な中年男性マシュウ・クスバートと、その妹マリラが、農作業の手伝いとして男の子を養子に迎えようと考えていました。彼らの住むグリン・ゲイブルスは自然の美しさに溢れており、穏やかな日々が永遠に続くかのような印象を持っていました。そこへ養子を迎えるという事件が近所を騒がせましたが、手違いによって女の子が訪れたために二人は一層に困惑してしまいます。しかし、彼女の境遇と幼さ、そして明るく天真爛漫な活気が二人に新たな感情を与え、結果的にグリン・ゲイブルスへと迎えることになります。そして、幸福な孤児アンは、描く幸せと実際に触れる社会に翻弄され、精神の成長と真の幸福を見出していきます。


細々とした家事は経験を活かしてこなすことができるアンでしたが、同学年と接する機会や学校という社交的な場は経験が無く、大小さまざまな失敗を起こします。しかし、アンの幸福を夢見る空想や一本芯の入った言動に周りも心を動かされ、やがて新たな社会に存在感を放つようになっていきます。そして、想像の中でしか得られなかった「腹心の友」ダイアナと心を通わせ、その関わりの中で精神的な成長を見せていきます。


アンの空想癖は周囲を混乱させます。溢れる想像力と持ち前のロマンティシズムは、家事の最中でも、会話の最中でも、突如として彼女に取りつきます。いわば彼女の「内面世界」は、彼女の精神を構築しているものであり、これまでの非社交的な環境が産んだものであるからこそ、周囲からは社会性の欠如として映ります。これに対して、マリラは非常に実際的な思考の持ち主で、社交の場における礼儀や作法を重んじており、アンの非社交的な性格を正そうと試みます。そこには、アンが家庭で受けることができなかった「愛のある敎育」としてマリラは自負しており、引き取ったからには責任を持って淑女に育て上げなければならないという決意さえも感じられます。しかし、強制的な押し付けであった教育的感情は、アンが引き起こすさまざまな出来事によって考え方が変化し、やがてはアンの「幸福を描く空想」を肯定していきます。実際的な性格のマリラは、空想により描いた幸福の未来が訪れなかった不幸や落胆を恐れていましたが、やがてアンの「未来に待つ幸福を描く」という行為が、「未来を幸福に切り開く努力」なのであると理解するようになり、一概に悪い面だけでもないと思うようになっていきます。また、アンの方でも、学校や友人との社交場での経験によって社会性の重要さに気づき、アン自身の心身が成長することによって空想に耽るばかりではなく、結末に見せるような実際的な決断をするように変化します。こうした二人の関わりによる歩み寄りは、当然ながらアンが居なければ起こらなかった変化であり、双方にかけがえのない存在として認め合う大切な関係性であったと言えます。


アンのロマンティシズムは、グリン・ゲイブルスに来るまでに得られなかった経験の欠如から齎されているもので、アン自身が夢や憧れとして抱いているものです。この感情は劇的に精神へと影響を与えているため、極端に感受性が豊かになっていると言えます。真実の愛情、永遠の献身、超越的な悲劇、極端な劇性、こういったものを無意識に望むが故の空想癖であり、アンから滲み出る危うさは自ら欲しているという側面も見られます。幼少期に満足を得られなかった家族愛、そして目の前に無いからこその憧れは「未知であるが故の魅力」となってアンの精神に刷り込まれています。しかし、前述のような環境による社会経験が彼女の精神を成長させ、アン自身が実際的な判断をくだすことができるようになりました。感傷に浸る「妄信的なロマンティシズム」は、やがて現実に直面する「感情を揺さぶる出来事」の強い影響に追いやられ、精神的な成長によって消滅します。そして、アンの成長は周囲にも影響を及ぼし、アンの放つ魅力として浸透していきます。この成長の集大成とも言える言葉が、終盤でマシュウによって放たれます。

 

そうさな、わしには十二人の男の子よりもお前一人のほうがいいよ
いいかい?──十二人の男の子よりいいんだからね。そうさな、エイヴリーの奨学金をとったのは男の子じゃなくて、女の子ではなかったかな?女の子だったじゃないか──わしの娘じゃないか──わしのじまんの娘じゃないか


人間は未来を予想することはできても、未来そのものを感じることはできません。この未来をどのように迎えるかは、人それぞれの心づもり一つと言えます。終幕で大きな喪失感を覚えるアンですが、この時に「真の喪失」を体験します。精神が成長したアンは、喪失を現実として受け止め、それでもなお生きていくことを前向きに捉えています。そして最後の決定的な決断では、アンが未来を「前向きな現実」として見据え、生きていこうとする姿勢が垣間見得ます。アンがマリラに放つ言葉には、空想ではない幸福を求める未来、つまり「希望」を未来に見ています。モンゴメリは、希望を持って未来を生きていくことを読者に語りかけているように思われます。

 

あたしがクイーンを出てくるときには、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲り角にきたのよ。曲り角をまがったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。それにはまた、それのすてきによいところがあると思うわ。


本作ではアンを通して、人間としての個性や友情、幸福と未来といったものを、各々がどのように捉えて生きていくのか、そして捉え方が人生にどのように影響を与えるのか、そのような感情を彼女の成長とともに考えながら読むような印象を与えられました。作中でのプリンス・エドワード島の美しい描写はモンゴメリの詩性が存分に発揮され、情景が目の前に浮かび上がるようです。そして、アンの抱く豊かな感情の動きは、読者を惹き込み、物語へと没頭させてくれます。現代でも愛され続けている本作『赤毛のアン』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『気がかりな結末』ユーリイ・トリーフォノフ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

気がかりな結末 (1975年) (現代の世界文学)

 

現代の精神の危機への深刻な警鐘。功利的な妻リータ、黙然と自己の運命を生き抜く家政婦ニューラ。モスクワのインテリ家庭を舞台に、この二人を対照的に描きながら、近代化の進む現代ソビエト社会で、伝統的なロシア女性の純朴な心の喪失と、それに伴う夫婦関係の崩壊を指摘した。社会主義制度の中で物質的にもめぐまれながら、なおかつ心は空洞化するソビエト市民の苦悩を捉えた異色中篇集。


1964年にフルシチョフが第一書記の任を終え、レオニード・ブレジネフの時代が始まりました。継続する雪解けは全体主義的なスターリニズムの社会を和らげ、経済や文化の発展へと目を向けるようになっていきました。ブレジネフは、第二次世界大戦争の終戦後から続いていた、西洋思想との対立や資本主義との対決に起因する「米ソ冷戦」を緩和させようと試みました。いわゆる緊張緩和(デタント)を図るために、ブレジネフはアメリカへ核軍縮などを推進する外交に熱を入れましたが、スターリン批判以来、国内で高まった東欧社会主義国による自由主義運動の影響を受け、これを抑えつける活動に回らざるを得ず、結果的に任期中の緊張緩和は実現させることができませんでした。特に、1968年に起こったチェコスロバキアでの改革が、ブレジネフ政権を傾斜させる大きなきっかけとなりました。これは、アレクサンデル・ドゥプチェク第一書記が「人間の顔をした社会主義」を掲げて言論の自由化を求めて起こした革命ですが、この出来事が同様に抑圧された周辺諸国に伝播し、他の社会主義国にも革命が波及していきました(プラハの春)。ソビエト連邦の共産党体制基盤を揺るがすこの脅威をブレジネフは看過できず、ドゥプチェクを「修正主義者」と非難したうえでワルシャワ条約機構軍を用いた武力弾圧を行い、革命の波を収束させました。こうした、ソビエトにおける社会主義体制維持のための周辺社会主義国に対する介入の正当化は、ブレジネフの「制限主権論」として知られるようになりました。


しかし、ブレジネフが敷いた国内政治体制は、スターリンのような粛清やフルシチョフの行った極端な降格人事などは見られず、政敵に対する権力収奪の配置変更などを中心に行いました。そのため、国民に対しては恐怖を振るう支配者とは映らず、中央集権的な経済政策も円滑に受け入れられます。1950年代は戦後の復興も相まった結果を見せて経済成長の兆しが見えましたが、1960年代に入ると経営悪化企業への助成金を目当てに多くの企業が不正を働き、経済の発展は急速に鈍化していきました。また、ブレジネフ自身の西欧高級車嗜好の露見や身内が率先して不正を行うなど、冷戦下における行動としては説得力に欠けたものがあり、経済的な発展はあまり実現しませんでした。一方で、週休二日制の導入、労働不能者や戦傷者への手当、年金受給条件の緩和など、市民への福利厚生にも力を入れていたおかげで、市民は安定した豊かな生活を与えられたことも事実として残されています。


ブレジネフは「ロシア・ナショナリズム(民族主義)」を押し進めていました。国内政治基盤を固めるため、政治体制の内側と国民の支持という二面を見据えていた経緯があります。言い換えれば、スターリンが広げてフルシチョフが狭めた政策を、ブレジネフは再興させたのだと言えます。前述の戦後復興はこの政策転化が功を奏しており、特に都市部での工業発展を支えた労働力は、農村部より都市へ向かった人々の尽力によるものでした。こうした都市部への人口移動は、農民だけでなく多くの知識人も行いました。特に注目すべきは作家たちで、ソビエト連邦全体が都市に労力と希望を注ぐなか、彼らは都市文化称揚に反し、農村が培う素朴で力強い人間性を肯定しました。具体的にはダム建設による環境破壊の非難などといった主題を打ち出しており、当時は「農村派」作家として人気を博しました。一見すると、ブレジネフの政策方針に逆行するような思想が強いように思われますが、彼はこれを受け入れ、大いに支援します。この優遇の理由として、ロシアにおける農業の投資に対する国民の理解を得る目的があったと言えます。前に述べた1960年代に都市部の経済成長が鈍化した時期、ブレジネフは再び農業活性化の必要に迫られました。彼は農村派を称揚するかたちで農業復興の「大義名分」を手にし、政策の方針転換を堂々とすり替えるかたちで実現させました。


しかし、このことにより、ロシア文壇では都市活性化を支持する「ロシア・ナショナリズム」と、政策転換による「農村派称揚」とのあいだに矛盾が発生します。ロシア帝政期のスラヴ派を持ち出す右派に対し、ロシア中央政権はどのような姿勢を取るべきかが困難になりました。そこにチェコ事件が勃発することによってブレジネフが取る態度は強引なものとなり、ロシア・ナショナリズムに対しての緩和策を設け、その手段として文学作品に対する検閲という手段を持ち出しました。当初は実際に必要に迫られた激しい論調のものを取り締まるだけでしたが、やがてブレジネフの中央集権に反抗を示すものを制裁する性質へと変化していきました。こうして、戦前戦後に活躍(のちに粛正)した銀の時代の後の世代、つまりペレストロイカまでの約二十年間を生きた作家たちは、ロシア文学の停滞期として自由に執筆できない時期を過ごしました。


この時代に、表面は社会的に豊かでありながら、精神の不協和音を感じ続けるインテリゲンチャ(知識人層)の都市生活を描き続けた「都会派」と言える作家が生まれました。豊かになったはずの市民生活は、やがて娯楽に侵されて虚無的なものへと変化し、心の内部から歪みが生まれ、都会人としての幸福の崩壊が始まるという事実を直視した市民の精神を、彼らは実存主義的な筆致で描いています。こうした一般市民の現実的な豊かさと不自由の矛盾を、登場人物の意識の流れによって描き出した作家がユーリイ・トリーフォノフ(1925-1981)です。

 

巨大なロシアの氷塊は割れることも、ひびが入ることもなく、震えることさえなかった。しかし、氷塊の奥深くで何かが動いたのだが、それは数十年後にようやく明らかになった。

ユーリイ・トリーフォノフ『焦燥』


トリーフォノフは、抑圧された社会主義的政治、強制的な道徳的状況、いわば強力なイデオロギーの弾圧が始まった時代に、自身が描くべき主題に出会い、実際に才能が花開きました。自身の体験と感情を反映した「生活に垣間見える自己理想の裏切り」を、時代の重要な問題と定義し、その独白とも言える独特の文体を構築し、概ねの作品に見られるように不幸な結末を迎えるように描いています。スターリン批判によって行われた雪解けを「瞬間的な英雄現象」として捉え、ブレジネフによる強制的な検閲によって「永続的に求められる順応」という現状を、作家であるトリーフォノフは「窒息的絶望」というかたちで社会に問題提起しました。これに勘付いた当局の息がかかった批評家は「俗物的」と批判しましたが、その些細な日常描写のなかにこそ、自己理想の裏切りに抗う姿が描き出されています。そして、独白のようなかたちで会話さえも地の文に埋め込んでしまう描写が、インテリゲンチャの抱える矛盾と苦悩を、作中で「意識の流れ」としてイデオロギーを表出させています。


トリーフォノフの作品には、当時の文士や歴史家といった知識人が重要な登場人物として描かれています。自身の経験した感情や意識がそこには反映され、その心理描写には実存主義的な現実が込められています。この感情や意識の機微が「流れ」として描かれることで、政権に対してもナショナリズムの面でも賛同していないにもかかわらず、その点に起因しない日常の瑣末さに左右される実際的な登場人物の思考が前に出されることで、厳しい検閲を免れていました。このような手法を見抜いた他の知識人たちは、意図に賛同するとともに、彼らを率いる思潮の中心人物としてトリーフォノフを拠り所としました。雪解けにより与えられた精神的な自由、スターリニズムからの脱却という風潮は、ある意味で終息しており、新たな息苦しい社会の到来を受け止めて苦悩する現実をトリーフォノフは社会に訴えるように描き、この風潮は高まっていきます。そして、行き場のない息苦しさを意識の流れで如実に描いた作品が、本作『気がかりな結末』です。


語り手となるゲンナージイは、多くの言語を理解する詩の翻訳者で、トリーフォノフを投影した知識人として描かれています。作中は彼の独白が中心となっており、そこには突発的な思考の切り替えや感情の変化が見られ、彼の目線で日常の「些事」が語られていきます。彼は、息子に指摘されるように自身の翻訳という仕事に誇りは持っていない一方、生活を支えてきた大黒柱としての誇りから奔放な生活と敬いの無い言動を見せる息子に激怒します。ゲンナージイは、根本として詩や哲学に理解を示していません。実に現実的な社会を生き、そこに必要な倫理や道徳性を重要視しています。この考えに反する行動を見せるのが妻リータで、実際社会に不適合な言動を選択する様子に、ゲンナージイは蟠りを覚えています。収入は不安定ながらも平均水準以上の家庭を守るゲンナージイですが、そこに精神的な満足は無く、家族に対する否定的な感情が募っています。ソビエトに生きる市民の感情は、満たされた社会的経済状況に反して、行き場のない鬱屈したものばかりで溢れ、家庭が精神的な崩壊を見せていました。このような内部分裂を起こすインテリゲンチャ家庭に、トリーフォノフは本作で家族を繋ぎ合わせる存在としてニューラという下女を登場させています。彼女は、ナロード(民衆的)出身の忍耐と献身を兼ね備えており、そこに現実的な生活力を兼ね備えた人物として行動します。自身の意見や思考を持たずに他人に流されて無為なものに投資する妻と対象的に描くことで、ニューラの持つ献身と生活力が現実社会でいかに必要とされているのか、そしてゲンナージイが必要であると考えているのかを、実際の社会へ問いかけています。


ゲンナージイの意見や思考は、最終的に社会の全てに嫌悪感というかたちで現れます。これは、或る種の自己中心的思考であり、自分の理想に固執する人間像であると言えます。これは、当時のインテリゲンチャが置かれた立場から生まれた憎悪であり、知識人そのものの頽廃の象徴でもあります。そして、トリーフォノフはこのようなインテリゲンチャに対しての嫌悪感を示すため、ゲンナージイの独白という手法を選択しました。検閲から生まれた虚偽や日和見主義といった態度、知識人そのものの頽廃的堕落は、確かに国政が生み出した社会に起因しています。しかし、本来あるべき知識人の姿である「創造性の追求」を、トリーフォノフは当時の知識人に対して強く求めました。

 

それは新しい時代思想を身につけた翻訳者たちで、実務的で敏捷でどんな仕事でもたちまち片づけることのできる人たちだった。そのうちの何人かは三か国語、四か国語を知っていたが、別にそれで本質が変わるものではない。要するに若き実務家たちである!彼らには実現されなかった希望にこだわるような過去もないし、いずれも若々しい爪を光らせて仕事に立ち向かっていく。その上、馬のように筋骨たくましく、きわめて正常なる血圧と頑丈な歯とをそなえている。

ユーリイ・トリーフォノフ『気がかりな結末』


インテリゲンチャの置かれた「知識人としての苦悩」は、トリーフォノフ自身も大いに感じていました。しかし、自らをも含む知識人層を俯瞰的に眺め、置かれた状況でも為すべきことがあるのではないかと考え、他の知識人へその考えを投げ掛けた姿勢は、ロシア文学の停滞期と呼ばれた時代にありながらも、強い思想を維持したトリーフォノフの強さであったと思います。実際の社会に見られる些事的現象を注視し、当時における重要な問題意識を表現した熱量は、独特の内的独白という意識の流れで描かれました。この手法だからこそ、トリーフォノフの思想が強く描かれているのだと感じました。


トリーフォノフ自身は、ペレストロイカ後の文壇を見ることができませんでした。しかし、彼の功績が後の文学作品の礎を担っていることは間違いありません。ユーリイ・トリーフォノフ『気がかりな結末』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

『斜陽』太宰治 感想

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こんにちは。RIYOです。
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敗戦直後の没落貴族の家庭にあって、恋と革命に生きようとする娘かず子、「最後の貴婦人」の気品をたもつ母、破滅にむかって突き進む弟直治、滅びゆくものの哀しくも美しい姿を描いた『斜陽』は、昭和二十二年に発表されるや爆発的人気を呼び、〝斜陽族〟という言葉さえ生み出した。


第二次世界大戦争の最中、日本では超翼賛社会が国家によって広められていました。国のために、天皇のために、そのようなプロパガンダによって国民の意思や個人の思想は抹殺され、「国のための国民化」が進められました。この尊王一色の思想を与えられた国民は、敗戦後に荒地と廃墟が広がる社会へと放り出され、今まで信じてきた国と天皇に頼ることはできなくなり、やがて絶望を抱いて目の前の食糧を追い求めることになりました。それでも戦後の社会を生きなければならないという意思を、一人の国民として、一人の個人として、多くの作家たちは社会へ向けてそれぞれの思想を打ち明けました。苦しい戦争経験と敗戦を経て、戦後社会をどのような思想で生きていくのかを示した戦後派や、鬱屈した社会や生活環境に娯楽要素を提供した新戯作派など、作家それぞれが理解と衝突を繰り返して戦後文壇を発展させていきました。この活性化する文壇において、戦後の絶望を受け入れながら戦後権力に反抗を示す姿勢で立ち、自らを作中で「無頼派」と名乗って独自の思潮を最後まで貫いた作家が太宰治(1909-1948)です。


青森県津軽郡における有数の大地主である津島源左衛門を父親に持ち、太宰は六男として生まれました。父親は県会議員、衆議院議員、貴族院議員などを務めた地元の名士で、近所では「殿様」と呼ばれるほどの裕福な家庭で太宰は育ちました。殿様の子らは、小学校では実力に関わらず全て優良な成績を与えられ、屋敷での身の回りは乳母や下女が全て世話をしてくれます。中学生になる直前、殿様である源左衛門が肺癌によって亡くなると、太宰は緊張が緩和して勉学に身を入れなくなっていきます。彼は、勉学の代わりに文学に耽溺し、芥川龍之介、志賀直哉、室生犀星、井伏鱒二などの作品に影響され、自らも小説家を目指すようになっていきました。全寮制の高等学校文科に入ると、津島家の権能によって下宿を許可させて親戚筋の屋敷で自適に過ごしていました。このころに芥川の自殺を受け、精神に大きな影響を与えられます。翌年、世間で大きな畝りとなっていたプロレタリア文学に触発されて同人作品を発表しましたが、これは津島家の意向に沿わないため、連載を差し止められてしまいました。その後、懸賞小説に応募するも落選が続き、彼はカルモチン自殺(鎮静催眠剤の多量服用)を図りました。ひと月ほど母親と温泉で療養し、体力はすぐに回復しましたが、精神には蟠りが残りました。大学では受験者が少ないために試験が無いと聞いていた東京帝国大学文学部仏文科を志望しましたが、実際には試験が行われ、これに試験官に対して泣き寝入りをして特別に入学させてもらいました。フランス語を全く学ばずに入学したため、当然のように講義内容を理解できず、太宰は美学科へと転入を考えますが、同時に小説家の道を切り拓くために井伏へ弟子入りを願い出ます。


太宰は、高校時代から交際していた芸者の初代と結婚したいと考え、津島家へ決意を伝えました。しかし、名士の子が芸者との結婚を許されるわけもなく、大きく反対されます。意地でも曲げない太宰の意思に、津島家は考えを変えて太宰を分家除籍するかたちで結婚を認めました。太宰はこの結果を受けて、喜び以上に財産分与の対象外となったことに落胆してしまいます。除籍となった十日後、自棄を起こすようにバーの女給と勢いでカルモチン自殺を図りました。そして、女給だけが亡くなり、太宰は生き残りました。この事件で太宰は自殺幇助の罪に問われましたが、津島家に泣きつき、起訴猶予処分で収まりました。津島家長男は太宰に対して、大学を無事に卒業すること、問題行動を起こさないこと、この二点を約束する条件で仕送りを継続することにします。そして、初代が上京して入籍はしないものの結婚生活が始まり、ようやく落ち着きを見せ始めたころ、太宰は周囲の空気に流されるように左翼活動に身を投じて抜け出せなくなると、こちらもやはり長男に助け出されました。仕送りは減額されましたが、最後まで継続されました。


執筆活動に精を出していた太宰でしたが、大学の受講は惨憺たるもので、大学生活が五年目に突入してしまいます。大学を無事に卒業するという約束に触れていると自覚した太宰は、仕送りが打ち切られることを恐れて新聞記者になって生活を維持しようと試みました。しかしながら、入社試験は不合格、立ち行かなくなることを恐れて首吊り自殺を図ります。その後、体調不良が重なったこともありますが、学費の滞納によって大学を除籍されてしまいました。この闘病生活の際、太宰は頻繁に打った鎮痛剤パビナールの依存症となります。執筆活動は継続しており、佐藤春夫などにも評価されるなど、少しずつ文壇に顔を見せ始めるようになりましたが、パビナール依存症の治療を先輩文士たちに勧められてしまいます。権威を早く得たい太宰は、周囲に死を仄めかして回るなどの不安定な言動を見せていましたが、何度も繰り返した自殺未遂を引き合いに出されて、記者からは愛想を尽かされてしまいました。パビナール依存症は一向に治らず、薬を買うために初代の着物を売り捌き、知人への借金は膨れ上がっていきました。あまりに酷い症状と生活に、井伏は強制的に太宰を入院させます。一ヶ月の療養で少しは症状が治りましたが、入院中の初代の不貞行為が発覚し、太宰は初代とともにカルモチン自殺を図り、二人とも生き延びて離別しました。


井伏の紹介で、太宰は美知子という地質学者の娘と見合いをします。人生をもう一度正す、幸福な生活を新たに築く、そのような思いを合わせて、太宰は美知子と結婚しました。その決意が実ったのか、実際に二人の結婚生活は安定し、太宰の執筆活動も順調で、この時期に『女生徒』や『駆込み訴え』などの作品が発表されました。執筆の依頼も増え続け、収入が安定してきたことからも、太宰にとって幸福な時期であったと言えます。


1941年、世界戦争が拡大していたころ、太宰は文士徴用令を受けましたが、肺浸潤を理由に徴兵を免れました。その直後、太宰の『虚構の彷徨』に影響を受けた歌人の太田静子が、早逝した我が子の日記風の告白文を彼に送り付けました。関心を持った太宰は、彼女に遊びに来るようにと働きかけました。これがきっかけとなり、静子は太宰の愛人へと確立していきます。美知子に疑いの眼差しを向けられるも、太宰は策略を用いて誤魔化し続けました。戦争が激化しても太宰は変わらずに作品を発表し、『新ハムレット』や『御伽草子』など、勢い衰えずに執筆を続けました。そして、1945年の東京大空襲では美知子の実家の甲府へ疎開しますが、今度は甲府空襲によって津軽の津島家へ疎開しました。その後、戦争は敗戦という形で終わりを迎えます。


敗戦した日本政府は、GHQ(連合国軍総司令部)の命によって農地改革を発表しました。これは、日本国内での貧富の差を排除し、戦争の引き金となった軍国主義を消滅させるために行われました。国内の地主から強制的に土地を取り上げ、小分けにして安価に小作人へ売りつけました。国民から思想を取り上げ、戦後の食糧不足を自らで解消させようとしたこの国策は、一見すると効率的に思われますが、細かく土地を分配したための農民の零細化が進み、抜本的な解決には至らず、現在まで続く問題として残っています。津軽の大地主であった津島家は典型的な搾取を受け、抱えていた人や資産は恐ろしい勢いで消滅していきました。多くの財産を取り上げられた津島家を見た太宰は、アントン・チェーホフの『桜の園』を思い起こし、この光景を題材とした作品を生み出そうと考えました。これが、本作『斜陽』です。


静子の子を認知した太宰は、別の愛人である山﨑富栄とも関係していました。肺の病は進行し、病状がひどくなっていたことから、富栄は愛人兼看護師のような役回りをしていました。太宰の面倒を見続けた彼女でしたが、やがて不安定な関係性が問題となり、彼女自身も精神を病んでいきます。そして、強い意思を持って太宰に迫り、ともに心中することになりました。太宰は享年三十八歳でした。


太宰は、上記のような反倫理的と言える生活を過ごしました。しかしながら、彼の日常生活は極めて規則的で、几帳面なものであったと言われています。定刻に起床し、午前中に執筆を行い、午後には読書や交友を、そして夜は自らを見失うほどに飲み明かすなど、全てが無法者のような生活であったのではなく、彼自身が衝動だけでなく理性を持って野放図な生活を送っていました。これらの理由の一つとして、周囲への奉仕の精神という、自分を道化の存在へと落とし込んだ意図があったのだと考えられます。

彼の作品には、独自に解釈した聖書の引用が多く記述されています。カトリックでも、プロテスタントでもない、彼自身によって信じようとした神の存在がそこにがあり、彼の強い求道精神が導いていたのだと見ることができます。作品のなかには、上記の人生が随所に素材として現れ、背徳感や頽廃思想が滲み出ています。このような、頽廃を自ら求める姿は、彼の心の芯に確固たる思想が根付いていたからだと考えられます。自分を人間失格者であると、そしてそれを求めようとする思考には、太宰の生い立ちが強く影響しています。


津島家という貴族として生まれた彼は、全てに満たされた環境を見て、この先には衰退しかないのだという考えが頭を過ります。奪われる者、壊される者、貴族がそういった対象として見えた彼は、いつ訪れるともわからない恐怖に取り憑かれます。読み漁った芥川龍之介やプロレタリア文学からは、悲痛な民衆の声と、持つ者への敵意が伝わってきました。そして事実、農地改革によって全てを取り上げられた津島家を見て、これこそが為されるべき鉄槌であったと確信を抱きます。太宰は、革命を起こされる側の人間としての理解を持ち、そこに対して正当性さえ認識していました。このような革命を望む被革命者としての思想は、すでに手にしていた求道精神によって裏付けされ、自らを頽廃へと導くことが彼自身の為すべき革命行為であったのだと、太宰自身は理解して作品へと思いを昇華させていきました。


こうした彼自身が執筆した作品には、彼の持つ「運命論」とも言える思想を随所に埋め込んでいます。また、頽廃を求めるものとしての「堕落者」としての自身の投影をも試みています。彼の作品には幾つも彼自身の経験や心情が反映している点も、このことが影響しています。しかし、彼の作品には日本の自然主義文学のような赤裸々な告白を中心に据えたものはなく、感傷や同情といったものから寧ろ遠ざけようとする描写が多く見られます。自分が頽廃を望み、堕落を望んだからこその状況であり、それは被革命者が受けるべき罰とも言える運命であると主張するかのようです。こうした既成の倫理に自ら反しようとする行動を正当化した姿勢を、太宰自身は「無頼派」と呼びました。彼は同情から遠ざかるように、根底に告白するかたちでその思想を作品に織り込みました。


社会主義に傾倒し、プロレタリアに賛同し、それらを「貴族」である津島家に否定された太宰は、自らが抱いた思想を否定され続けました。この苦悩は、自らが社会革命に手を染めることが叶わないならばと、自己を抹殺する頽廃を選んでしまいます。本作『斜陽』の主題に置かれた「革命」は、自身の身代わりである中心的な登場人物に委ねられ、それぞれの行末を提示しています。弟の直治は青春期の姿を、母親には幼年期の姿を、語り手の姉には革命を起こして頽廃を求める姿を、太宰は貴族の没落劇に隠し込むように自身の告白を記しました。

弟の麻薬中毒と貴族であるという羞恥心は、終幕で明確に綴られています。貴族に嫌悪感を抱きながら、自身から溢れてしまう貴族としての振る舞いと意識に耐えられず、弟は激しく苦悶します。一方で、没落していく身の回りを受け入れることなく、また抵抗もしない母親には、無知な貴族としての結末が据えられています。双方とも、太宰自身が生涯を通して苦しんだ自己嫌悪の情が根源にあり、それぞれに彼が描く「こうあるべき」結末が用意されています。

革命者である姉は、前述の愛人である静子が投影されており、子を宿した点や認知した点は事実を元にしています。貴族の子が頽廃を求めて革命を起こす熱量や、社会的貴族の価値観に対する厭悪の熱情は、こうした現実的な描写が拍車を掛けて有無を言わさぬ説得力を示しています。


太宰の文章は、とくに戦後において、柔軟な文体が特徴であると言われています。これは彼自身が意識して取り組んでいたことで作品にも記されていますが、戦後に浸るべき文体は「軽み」であると断言しています。過剰な漢字の使用を避け、句読点をこまめにおいて、読み手が軽みを感じるように工夫されました。

 

この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。

太宰治『パンドラの匣』


戦後、津軽より東京に帰ってきた太宰は、敗戦の跡を目の当たりにし、強烈な怒りを覚えます。打ち荒れた街に文化の影は無く、目の前を飢餓が埋め尽くし、再び自分は貴族の名に守られたことを悟りました。復興しようとする文化によって、やがて文士たちも息を吹き返し、それぞれが思想を持って寄り集まり、各所で文芸サロンを開いていました。しかし、掲げる思想に誇大な印象を得た太宰は、これら全てのサロンを厭悪します。

 

私はサロン芸術を否定した。サロン思想を嫌悪した。要するに私は、サロンなるものに居たたまらなかつたのである。
いまではもう、社会主義さへ、サロン思想に堕落してゐる。私はこの時流にもまたついて行けない。
日本の文化がさらにまた一つ堕落しさうな気配を見たのだ。このごろの所謂『文化人』の叫ぶ何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにほひがしてならない。

太宰治『十五年間』


目の前の惨状を見ようとしないサロンの姿勢に、現状を理解して伝えようとしない報道姿勢に、太宰は怒りを露わにしました。文化人を気取る者たちの馴れ合いとしてのサロン、そのように目に映った太宰は、この社会そのものを厭悪し、自己の革命が必須であることを確信しました。彼が自らを親の仇のように傷付けて生み出した作品は、彼が起こそうとした革命の一端であり、そこには強い覚悟と思想が込められています。しかし、それでも、太宰は他人に情を掛け続けました。彼は心底、人間を嫌っていた訳ではありませんでした。

 

ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。

太宰治『斜陽』


貴族の生まれと斜陽貴族の生まれ、共に徴兵を病で逃れ、共に身を賭して社会を憂い、共に自死を選んだ二人の作家、太宰治と三島由紀夫は意外と多くの共通点を持っています。しかし、それぞれが相容れなかったことは残された作品からも理解できます。それでも、違った形で交友があったなら、まだ見ぬ理解の上で、二人に違った未来があったのではないかと考えてしまいました。太宰治の『斜陽』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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