RIYO BOOKS

RIYO BOOKS

主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。


フセーヴォロト・ガルシン『赤い花・信号/他』感想

f:id:riyo0806:20210721232305p:image

 

こんにちは。
RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

f:id:riyo0806:20210722000543j:image

ロシアにおいて絶対的な善を抱き、社会に苦悩し、短い生涯を終えたフセーヴォロト・ガルシンの代表作『赤い花』です。他に5篇が収録されており、この旺文社文庫には『ナジェジュダ・ニコラーエヴナ』という彼の作品で最も長い中篇が収められています。

精神病院に入院した体験をもとに、人間の狂気と正義感を凝視した『赤い花』、善なる魂の勝利をうたい上げた『信号』など、三十三歳で自殺したロシアの天才作家ガルシンの名短編集。全六篇を収録。

 

ガルシン1855年に祖母の領地である現ウクライナの土地で生まれ、貴族の家柄で育ちました。祖父は当時の典型的な貴族地主らしい性分で農奴にきつく当たり、百姓を暴力的に支配していました。散財家でもあり、その子(ガルシンの父)には僅かな遺産しか残さず、貴族とは言えない環境下でガルシンの父は家を継ぎます。父の性格は祖父の真反対とも言える実直家で、国のために軍に入り、部下に慕われる良き軍人として尊敬されました。そして大変に正義感が強く、法科を学び、祖父より継いだ農奴たちにも紳士らしく接しました。ガルシンはこの祖父の「悪」を知り、父の「善」に感銘を受け強烈な「正義感」が構築されました。


ガルシンは持病である「精神病」が17歳で発症し始めます。この頃は快方に向かい数ヶ月の入院で済みましたが、その後彼の人生に付きまといます。文学の道を歩んだ彼は、美術評論にも幅を広げます。彼は絵画を「人道と祖国に奉仕するもの」という視点で眺め、多くの作品に込められた意思を読み取ります。その中で画家ヴァレンチャーギンの作品に出会い、大きな意識改革を受けます。

いかに戦争の結果が輝かしいものであっても、戦争はその悲劇を帳消しにすることはできない、戦場で流された血は、そのためにそれが流された国民のひとりひとりの頭にふりかかってくる性質のものであり、すべての人間がこの不幸をともにになわなければならないのだ

ここを起点に彼の「絶対善」の心は強く育っていきます。そして露土戦争(ロシア・トルコ)に参加し、戦場を駆け回ります。この経験を活かした作品はいくつかあり、本書に収録されている『四日間』もそのひとつです。

 

帰国後、彼はロシア文壇の道を改めて歩み始めます。しかし、帝政ロシアによる社会の弾圧は、ロシア・インテリゲンチア(貴族層の知識人)たちの苦悩する時代であり、文学の弾圧は彼らの執筆活動に影響を及ぼします。ガルシンも例に漏れず、陰鬱な気持ちが続き、持病である精神病と共に生きていきます。

心を病みながらも執筆を続けていきますが、悲痛な事件が目の前で起こり、巻き込まれていきます。大通りを歩いていると、売春の容疑を受けたひとりの少女を、ふたりの門番が「警官の指図で」小突き回しているのを目撃します。ガルシンの正義感が触発され、即座に警察へ抗議に赴きます。共に門番を制止した数人と出頭しましたが、警察はこの抗議に耳を貸さず、ガルシンを含めた抗議者の全員を、公務執行妨害と騒擾罪で告発したのでした。そして裁判が開かれましたが、ガルシンが持ち前の正義感と人道を説き、無事に無罪となりました。この事件を振り返り、「この悪を生み出すにいたった社会制度」に対して悲しみを表明しました。

彼は悲痛に暮れ、心は疲れ、ついに自殺未遂を行います。家の屋上から身投げをしました。一命を取り留めましたが、心も身体も衰弱し、ついには移された病院で亡くなりました。

 

彼の「絶対善」は作品にも描かれています。『赤い花』の精神病患者が行動原理として胸に抱いた「無償の善」は、善の狂信者として描かれ、社会への嘆きを強く訴えます。また、『ナジェジュダ・ニコラーエヴナ』でも善の狂信者として「シャルロット・コルデ」をモデルにし、描かれています。

この善の狂信者は、帝政ロシアの強制性が与えた「強迫観念」と「正当性」が、真に人間の持つ「正義」との違和感をあらわし、危険性を説きます。しかし「正義」を貫いた者に抱かせる満足は「安らぎの死に顔」として描かれます。それと対照的に、棕櫚が主人公の「アッタレーア・プリンケプス」は、欲望のままに行動を起こした結果、非業の終わりを遂げるように描かれ、人間との区別、人間の大切なものとして「社会における正義」を描いていることが理解できます。

 

ナロードニキ運動(人民の中へ運動)にも見られるように、貴族文学士たちはガルシンに限らず「社会における正義」を人道的な立場で訴え、そして絶望していきました。

ロシア人たちが、私たちよりはずっと多く、深く持っていると思われる、痛いほどの「良心」や「愛情」も、すべて、まったく、無力である、という絶望をくれてよこすのであった。

劇作家である村山知義さんは、当時のロシア文学に関してこのように述べています。そして、以下のように締めくくっています。

今ではそうでない。私たちは新しい、科学的な世界観を持っている。邪悪と悲惨は、まだ人生に充ち満ちているが、私たちはそれに打ち克ち、それを減少させ、やがては絶滅させる希望を持っており、私たちが自分を鍛えさえすれば、それを実現させるための勇気を持つことができる。

ガルシンが抱き続け、苦しみ続け、当時の社会に適応できなかった「絶対善」の思想は、現在であれば実現できるという「希望」を持つことができます。そして彼の無念を晴らすには各人の「善の心」を見直すことが必要なのかもしれません。『赤い花』の主人公の最後の安らかな顔は、「絶対善」の思想実現を描いていると、そう感じます。

 

理想に生き、理想に死んだ、フセーヴォロト・ガルシンの代表作『赤い花』、ぜひ読んでみてください。

では。

 

 

ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』感想

f:id:riyo0806:20210716215258p:image

 

こんにちは。
RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

 

1985年、パリにおいてフランス文学界隈を騒がせた、新進気鋭作家ジャン=フィリップ・トゥーサンの『浴室』です。ジョン・ルヴォフによって映画化もされています。

「午後を浴室で過ごすようになった時、そこに居を据えることになろうとは……」同居人の恋人は心を萎ませ、お母さんはケーキを持って、様子をうかがいに来る。「危険を冒さなきゃ、この抽象的な暮らしの平穏を危険に晒して」とひとり呟やきつつ、浴室を出てはみるのだけれど、いずれ周囲の人々とはギクシャクぎくしゃくしてしまう。そして、また浴室へ……!?

 

『浴室』を見出し、世に出した出版社エディシオン・ド・ミニュイはサミュエル・ベケットクロード・シモンという二人のノーベル文学賞受賞作家を輩出したフランス文学の大家です。第二次世界大戦争後に生まれた「ヌーヴォー・ロマン」(新しい小説)は、この二名やロブ・グリエなどを筆頭に、近代における「文学の枠組に逆らって」書き上げられた作品を世に放ち、センセーションを起こします。これは集団的な文芸運動ではなく、大きな風潮として特にヨーロッパで盛んになり、ひとつの表現として認識されるに至ります。「ヌーヴォー・ロマン」は「アンチ・ロマン」とも呼ばれ、伝統的な作家の構築する世界や物語を直接的具体的に伝える手法を用いず、構成や心理描写を変形させた新しい型の文学作品です。

 

1970年頃からこの「ヌーヴォー・ロマン」は大きな風潮から、作家それぞれの解釈を元に自由な発想で実験的な作品が数多く生み出されます。芸術全般におけるポストモダニズム(脱近代主義)に吸収され、実験的な小説が生まれ注目を集めていきます。ジャン=フィリップ・トゥーサンは弱冠28歳にしてこの潮流に一石を投じました。

 

『浴室』において見受けられる斬新な要素としては、「ミニマリズム」「心理描写の否定」「規則的不規則」などが感じられます。

 

ミニマリズム的要素

手記的な記述で端的に書く文体には、読者が文章を元に空想を膨らませる余地を与えません。「ここを見ろ」「ここを読め」と言われるが如くに文章を追い、物語とさえ認識する以前にパラグラフ(一塊の文章)がブツリと終わります。これはベケットの「神経質な省エネ性」を彷彿とさせるもので、端的であるがゆえに印象が強く、頭に一文一文がこびりつきます。この効果が、作品の序盤と終盤で起こる反復性を増幅させています。

 

心理描写の否定的要素

主人公である「ぼく」は、一種の神経症を疑わせる言動を繰り返します。しかし、異常性が強烈なわけではなく、性格に由来する憂鬱性が起因となり周囲の人物に理解されにくい印象を与えます。しかしながら、それほどの言動にもかかわらず書かれている文章にはその時々の「ぼく」の心理描写は割愛され、事実だけを端的に述べられています。この為、読者には訴えかける主張が見えず、目的があるのかさえ分からぬ神経質な行動が、無機質で不可解に感じながらも人間味を察してしまうという、不可解な感情を抱かせます。

 

規則的不規則

直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しい。

ピタゴラスの定理が序に載せられています。章構成は3つですが、「パリ」「直角三角形の斜辺」「パリ」となっており、おそらく二等辺三角形を連想させるプロットとなっています。そして各章は40、80、50のパラグラフで成り立っています。このように規則性を連想させる序と、規則的に構成された章と、それを裏切る形で不規則なパラグラフ数が絶妙な違和感を持たせます。しかし、見方を変えると、パラグラフ40の「パリ」とパラグラフ50の「パリ」は長さの違う辺であると憶測できます。

 

「斬新」の中の「緻密」

浴室に引きこもっていた「ぼく」は一年発起でイタリア旅行に向かいます。これが「直角三角形の斜辺」の章ですが、気ままなホテル暮らしにおける、些細なことに苛立ちを覚える、神経質で裕福な日々が描かれます。ここで恋人であるエドモンドソンと一悶着があるのですが、ここで心境の変化が描写されます(この描写自体は2回目の「パリ」)。これは数少ない心理描写で非常に印象的です。

(32)洗面所の長方形の鏡の前に立って、後ろの黄色いランプに照らされた自分の顔を見つめた。目のあたりが陰になっている。光で二分された顔をじっと凝視して、ある単純な問いを自分に投げかけた。ぼくはここで一体何をしているんだ?

読者が常々思っていた疑問を、ついに「ぼく」が気づき、自問します。ここでの心境の変化が2回目の「パリ」に変化を与えます。

 

1回目、2回目、両方の「パリ」で「ぼく」は浴室を出ます。これは同様の反復性を想起させます。しかしながら、心境の変化があった2回目の「パリ」におけるこの行動は10のパラグラフ分の変化があり、その変化の度合いは「心理的変化」を表現したトゥーサンの緻密性であると見受けられます。つまり、規則的な反復ではなく、変化がもたらした不規則性で心理表現を行っています。2回目の「浴室」を出る表現は新たな生き方への描写であると解釈でき、ひとつの希望が見えるように思えます。

 

派手な事件やめまぐるしい描写はなく、淡々と読み進むことが出来てしまう作品ですが、書かれた時代の風潮や、エディシオン・ド・ミニュイ代表のジェローム・ランドンが見出したセンスを鑑みると、読後の印象がガラリと変わる筈です。

未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

ケラリーノ・サンドロヴィッチ『室温〜夜の音楽〜』感想

f:id:riyo0806:20210710224536p:image

 

こんにちは。
RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

 

劇団「ナイロン100℃」主宰者で、俳優であり、音楽家でもある多彩な奇才、ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲『室温~夜の音楽~』です。

ホラーとコメディは、果たしてひとつの舞台の上に同居できるものなのか。2001年7月青山円形劇場で初演された、人間の奥底に潜む欲望をバロックなタッチで描くサイコ・ホラー。第5回鶴屋南北戯曲賞受賞作品。

 

ケラリーノ・サンドロヴィッチは演劇活動時の名前で、音楽活動時はKERAとなる多彩な芸術家です。1993年にナイロン100℃を旗揚げし、1999年に『フローズン・ビーチ』で第43回岸田國士戯曲賞を受賞します。その後、読売演劇大賞・最優秀作品賞、菊田一夫演劇賞をはじめ、次々と受賞し、現代日本演劇で目覚しい活躍を見せています。

 

『室温〜夜の音楽〜』は2001年に青山円形劇場で公演されました。「たま」の楽曲を詩的に活用し、劇そのものに融合させ「この作品のために作られた曲」かとさえ思われるほど効果的な作用を持っています。

劇の内容は、筋を追うのがはばかられるほど深刻である。ホラー作家海老沢が娘のキオリとふたりですむ家に、制服姿の巡査があがりこんでいる。十二年前、キオリの双子の妹サオリは、少年たちに監禁され、集団暴行を受けて殺された。そこへ海老沢のファンだという女、赤井が、著書にサインを求めるために訪れてくる。そこへタクシーの運転手が腹痛を訴えて唐突に侵入し、さらに刑務所から出所してきた少年のひとり、間宮が訪れてくる。一見してバラバラな組み合わせが、怪奇な物語を組み上げていく。

 

死者と生者

劇中においては、屋内と屋外の区切りがない一幕劇で繰り広げられます。死者と生者は共に交わって演じますが、死者は屋内外問わず動き回ります。
生者は陰気に、死者は陽気に描かれます。生者は生きるからこその苦悩、生きるための苦悩、遺されたものとしての苦悩が根底にあり、重い言動で語られます。それに対し死者は、生前に抱えた種々の苦悩から開放され、或いは諦めを悟り快活に、笑顔と共に語られます。
この明確な陰陽の差が、死者の舞台中での区切りがない行動により、読者の判別を鈍らせて曖昧な印象に感じさせます。陽を生と無意識に結び付ける読者を錯覚的に混乱させます。それを増幅させる効果を出しているのが「死」というテーマであり、「死」が物語の背骨として存在し、鬱蒼とした空気が充満させています。

 

実際の凄惨さを元にした描写

物語の軸となる作家海老沢の娘サオリ殺害の描写は、実際に起こった事件を元に書かれています。「凄惨な死は非現実ではない」という点を強調すると共に、この演劇が含む「実在性」を暗に表現します。そしてこの劇中に登場する怠惰で腐食した警官の下平は、演劇を盛り上げる作られた架空の人物というだけでなく、実存している人物像として描かれ、人間の悪意を浮き彫りにしています。そしてこれは端的に警官を、もしくは警察組織を批判するものでもなく、その為に真っ当な警官をも登場させ「個の人的悪意」を糾弾します。

 

作家海老沢の「寛大さ」

娘サオリを陵辱され、暴虐に奴隷化され、挙句に生きたまま焼かれる悲しみによる憎悪が、12年経つと変化したと言います。そして、拉致監禁を行った犯人集団の一人である間宮が尋ねた際、寛大に受け入れて酒まで酌み交わします。
しかし、海老沢の犯した罪はサオリの双子の妹であるキオリにより読者に知らされます。海老沢は自身の娘サオリの身体を自由に扱っていました。この事実が明かされた事により、この「寛大さ」の印象はガラリと変わります。12年前に抱いた憎悪は、「自由にしていた愛玩」を奪われたことであり、現在の寛大さは「全ての自身の罪」を他者が隠し去ったことであったのです。まさに、人間の悪魔的な、起こりうる負の感情を表現しています。

 

憎悪と笑い

海老沢にしても、下平にしても、悪意や憎悪が溢れています。しかし、彼らに限らず物語の主となる人物全員にも同様のそれら、「悪意と憎悪」が抱かれています。物語の筋を作る内容は、「悪意と憎悪」の連鎖で紡がれており、陰惨な印象になるべき作品です。
ところが、ケラリーノ・サンドロヴィッチはコメディと両立させます。台詞においても、行動においても、そして演出全般においても、どこかで「笑い」へ導きます。この憎悪と笑いの両立、笑いへの導きを、長谷部浩さんが解説しています。

せりふの意味内容は、憎悪に振れているにもかかわらず、笑いへと自在に脱線していく。この手法は、KERAの『室温』におけるもくろみをよく表している。それは凍り付くようなホラーのなかに封じ込められた笑いであった。観客の意識のなかで自己規制が行われて、笑い声は起こらないが、笑いの衝動がからだを突き上げてくる。出口をふさがれた笑いは、解放へと向かわず、気味の悪い後味が観客に蓄積されていく。

 

重く陰鬱な物語に違いはありませんが、事実、笑いがそこに含まれていて読む者の感情を困惑させます。随所に散りばめられた「暗い中の笑いの種」は読者の苦笑いとなって表情から漏れてきます。
タイトルの秀逸さに気付かされる終幕を、ぜひ体感してみてください。

では。

 

sillywalk.com

privacy policy