
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

フランスのエミール・ゾラ、ノルウェーのヘンリック・イプセンなどが与えた文学的影響は、ヨーロッパ全土へ自然主義という文学思潮を広め、諸国で独自の発展を遂げていきました。ドイツでは1880年ごろから広まり、やがて自然主義による新演劇運動が活発化していきます。ドイツ演劇の中心地であったベルリンでは、ゲルハルト・ハウプトマンの『日の出前』が大きな喝采を受け、世間一般に自然主義演劇が受容されていきました。しかし、ドイツでは他のヨーロッパ諸国よりも自然主義の広がり方が狭く、例えば、ウィーンではデカダン(頽廃思想)演劇が主流であったように、地域によって演劇の性質に違いがあり、アルトゥル・シュニッツラーやフーゴ・フォン・ホーフマンスタールなどがドイツ文学に大きな影響を与えました。自然主義もデカダンも、根底には市民社会の苦悩と虚無を暴き出していることに共通点が見られますが、そこに作家としての手法と思想に違いが生まれ、作品の性質そのものに影響を与えています。こうした一枚岩ではないドイツ文学運動において、また別の性質の文学を生む作家が現れていました。フランク・ヴェデキント(1864-1918)は、市民社会を一般的な道徳観に縛られず、当時は問題作と言われるほどの大胆な描写で執筆し、ドイツ文壇に大きな嵐を巻き起こしました。社会の矛盾と欺瞞を抉り出すように露出させ、その筆で容赦なく描き出した彼の見る社会は、出版禁止や上演禁止を幾度も招きます。しかし、彼の作品は、一般的な諷刺作品に留められない非常に強い文芸性を秘めています。
文学における自然主義の普及と同様に、ドイツ演劇にもフランスのキャバレー文化が流入しました。カバレットと呼ばれるドイツのキャバレーは、十九世紀末のパリに見られるような盛り場と言われる地下酒場と同様のもので、前衛的な詩人や劇作家、音楽家や俳優などが、社会の外れで発散するように活動していました。観客は酒や食事を楽しみながら、詩の朗読やコント演劇、そしてシャンソンなどを観賞することができます。カバレットの性質から、上演される作品は頽廃のパリ同様に快活なものはなく、社会の闇を暴くもの、政治を辛辣に諷刺するもの、性的な表現が過激なものが披露され、こういった性質が前衛的な芸術性を強く刺激して発展を続けました。このカバレットにおいて、群を抜いて活躍した作家こそ、ヴェデキントでした。彼は学生時代から前衛的な詩人たちと関わる機会があり、その影響を受けて自らも執筆を始めました。思春期の性問題を描いた戯曲『春のめざめ』は、その大胆な描写から一躍話題となり、社会に大きな印象を与えました。
前衛的な人々の集まるカバレットにおいて、絶対的な評価を得たヴェデキントでしたが、ハウプトマンを代表とする自然主義演劇が中心的に受け入れられていたドイツ文壇においては、どちらかと言えば批判の声の方が強く上げられていました。ヴェデキントの大胆な筆致は、自然主義文学に比べると不自然に感じられ、また、性道徳そのものを攻撃的に描くことは、多くの読者にとって受容できる範囲を超えていました。しかし、ヴェデキントの信条は「肉体はそれ自身が精神をもつ」というもので、自然主義の思想に込められた観念的な理想像と正反対な性質を持っていたことから、精神と肉体は結びついているものであり、精神の表現には肉体もこれに準ずるという信念のもと、性問題に対する直接的な描写を継続していました。言い換えれば精神的な美化は欺瞞であるという図式を表出させ、既存社会における価値観そのものに疑問を呈する作家として名を残すことになります。
そのようなヴェデキントが、観客に受け入れられ、大きく名を馳せることになったのは、ミュンヘンのカバレット「十一人の死刑執行人」に参加したことが影響しています。店の名とも思えないような看板を掲げたカバレットでは、やはり一般に比べると過激な内容の演目が多く、叛逆的で挑発的な雰囲気が常に漂っていました。ヴェデキントは、毎晩のように登場し、辛辣な諷刺や過激な性問題提起を繰り返し、社会に問うように自らも俳優として演じ続けました。このような諷刺は、ブルジョワが市民に強要する道徳観から真っ向対立するもので、社会において彼の評価はさまざまであったものの、カバレットに集まる市民にとっては、最も注目すべき演者として認められていました。そして、その彼の代表作と言える戯曲「ルル二部作」は、現在でも多く演じられており、アルバン・ベルクによってオペラ化もされています。
この二部作は、『地霊』と『パンドラの箱』の二作で構成されています。見目麗しいルルという女性を中心に、男性たちが翻弄され、やがて破滅へと辿り着く作品ですが、そこには滑稽さと露骨な性が描かれ、陰鬱な社会諷刺が随所に散りばめられています。青年画家シュヴァルツのもとへ、衛生顧問官であるゴル博士とその妻ルルが訪れます。新聞の編集長シェーン博士に誘われたゴル博士が席を外すと、言葉を交わすうちにシュヴァルツはルルに夢中になっていき、ソファへと彼女を押し倒します。その場に戻ってきたゴル博士は嫉妬で興奮すると、心臓発作によって死んでしまいました。しかし、ルルは落ち着いて様子を眺めています。幕が移ると、ルルはシュヴァルツの妻となっています。ルルの父であるシゴルヒとの会話のなかで、ルルはシェーン博士と不倫関係にあることを打ち明け、シュヴァルツに対する嫌悪感を吐露します。一方で、シェーン博士は別の女性と婚約したためにルルとの関係を断ちたいと考え、シュヴァルツに打ち明け、ルルの管理を厳しくするように促しました。強烈な自己憐憫に陥ったシュヴァルツは、苦悶の末に自殺してしまいます。これを受けたシェーン博士は、精神が不安定に乱れ始め、やがてルルを妻へと迎えました。その後、ルルはシェーン博士の息子アルヴァ、曲芸師のロドリーゴ、ルルに恋愛感情を抱くゲシュヴィッツ伯爵令嬢と懇意になりますが、冷静さを失いがちになったシェーン博士は、彼らに軽蔑されるようになっていきます。絶望感を抱くシェーン博士は、ルルに拳銃を渡して自殺するように訴えます。そのとき、アルヴァとロドリーゴが登場したことで場が混乱し、ルルはシェーン博士を撃ち殺してしまいます。そして、アルヴァとルルはパリへと逃げていきました。ここまでが『地霊』です。
続く『パンドラの箱』では、アルヴァとルルが結婚しています。友人たちと共に投資によって利益を上げた彼らは豪奢な生活を送っていましたが、殺人犯としてドイツ警察に追われているルルは、ドイツから西へと逃避行を続けます。稼いだ金銭が尽きてエジプトのカイロへと辿り着くと、ロドリーゴと白人奴隷商人カスティ=ピアーニは、ルルに売春宿で働くように強要します。ここに突如シゴルヒが現れ、間一髪でルルは逃げ出すことに成功しましたが、金銭は全く持ち合わせていませんでした。ロンドンへと辿り着いたルルは、結局、売春婦としてシゴルヒとアルヴァを養うことになりました。そこへゲシュヴィッツ伯爵令嬢が道化姿のルルを描いた絵画を持って訪れます。何人かの客とのやり取りが描かれたのち、最後の客ジャックが現れます。彼はロンドンを震え上がらせていた切り裂き魔ジャック・ザ・リッパーで、ルルは殺害され、ゲシュヴィッツはルルへの愛を告げながら、幕は下されます。
男性を惑わすファム・ファタルとしてのルルという印象が語られることの多い本作ですが、ヴェデキントの真意はそこにありません。たしかに女性としての魅力を用いて男性を破滅へと導くルルですが、彼女自身が強く望んでいるわけではなく、男性が自らの嫉妬心や猜疑心、或いは恐怖心や羞恥心から身を滅ぼしていることが理解できます。もっと言えば、男性はルルを手に入れた瞬間に「破滅への豫言」を感じ取っており、そこへ自らを導くように結末へと辿っていきます。この点を、男性に捉えられた女性の解放と解釈する説もありますが、本質的にルルが解放を求めているわけではないため、この説に信憑性はあまり感じられません。ルルがブルジョワの強要する道徳観を持ち合わせていない点から、ルルが市民感情の表出者という見方の方に、説得力があるように思えます。ルルは男性にさまざまな名で呼ばれます。ゴル博士からは「ネリー」、シュヴァルツは「イヴ」、シェーン博士は「ミニオン」など、ルルは別の名を与えられますが、ここには男性側の所有物という性質が垣間見得ています。当時のドイツではいわゆる金権政治が成り立っていました。自己の所有物を披露することは、男性の地位向上に必要な行為でした。そうした金権政治の賛同者が、ルルという「市民感情」によって破滅へ導かれている点は、ヴェデキントの思想が如実に現れており、また、前衛的な観客も受け入れたのだと考えられます。
終幕で現れるゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、二部作において一貫した善の性質を持った人物です。愛情や献身をもってルルの傍に居ようとする言動は、本作の残酷さと不快さで溢れる空気の中で、唯一的に光っている要素です。しかし、ジャックの「お前もどうせまもなくおしまいさ!」という捨て台詞に込められた絶望感は、作品を通した頽廃性が集約されているようにも思えます。
本作は、悲劇性と喜劇性、滑稽さと残酷さが、ヴェデキントの筆致により入り乱れて融合している作品ですが、この性質から、彼は「ドイツ表現主義の先駆者」と呼ばれています。まず、『地霊』で見せる「死と宿命」によって非現実的な世界を提示したのち、二部作を一貫した「対話の崩壊」によって「理解の死」を表現しています。理解の死は「個人の解放」とも言い換えることができ、当時のブルジョワに抑えつけられていた価値観を解放するという意味合いです。そして、『パンドラの箱』による「墜落と死」では、社会の残酷さが目の前に迫り、ジャック・ザ・リッパーという現実の恐怖によって、非現実から現実へと観客を引き戻します。また、死によって招かれる終幕は、社会の行末を暗示しているようにも感じられます。
この国の現代文学がどうしようもないのは、あまりに文学的すぎるからなんだ。僕らは作家や学者のあいだで問題になるような問題しか扱わない。同業者仲間の見方でしかものが見れない。もう一度力強い偉大な芸術に辿りつくつもりならば、できるだけ、本などは決して読んだこともない人間とつき合うようにしなければ駄目だ。ただただ単純な動物的本能に従って行動するような人間とつきあわなければね。
フランク・ヴェデキント『パンドラの箱』
ヴェデキントは、観客に本作を強い個人的な視点で受け入れてほしいと望みました。広がる自然主義運動に見られる「写真のような視点」ではなく、自分自身の感情と価値観を尊重し、個人の視点によって社会を見ることを促しています。自然主義の或る意味で「無関心」の捉え方を否定し、個人としての意見を持って、感情を添えて捉えることを、彼は芸術作品に対するべき姿勢であると考えました。フランク・ヴェデキントの「ルル二部作」、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。















