こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
1712年に始まったアメリカの捕鯨業は、十九世紀にかけての産業革命によってその収穫物の需要が高まり、捕鯨はアメリカ国内において重要な商業として広まりました。特に鯨から得られる「鯨油」は現代の石油に匹敵するほど重宝され、ランプの灯りから工業製品の潤滑油まで、幅広く用いられていました。その巨大な体躯から大量に得られることから、船も巨大なものとなり、船上で解体して幾つもの大樽に詰め込むという危険な作業が行われていました。また、捕鯨を試みようとする船に対する鯨の反撃も激しいもので、乗組員が船ごと沈没するという事件も発生しました。このような危険が付き纏いながらもそれ以上の魅力的な利益のため、多くの捕鯨船が出航し、大西洋から太平洋まで、数多の捕鯨船が大洋を行き交っていました。こうしてアメリカは、ニューイングランドのナンターケット島を中心に、世界屈指の捕鯨国となって、産業を大きく推進させました。
1810年ごろ、太平洋のチリ沖にあるモカ島付近で特徴的な鯨が発見されました。その外見は白く、頭に幾つものフジツボを備えた「モカ・ディック」と呼ばれたアルビノの鯨でした。取り逃がした船の乗組員たちがナンターケットの酒場で話して聞かせると、その白い鯨の噂は瞬く間に広がり、何隻もの船が沖合へと挑みに行きました。本来はおとなしいモカ・ディックもひとたび攻撃を受けると凶暴性を発揮し、狡猾に体躯を用いて悉く船を沈没させました。その動きは激しく、水面へ飛び上がる際は、全身が水から離れるほどの跳躍を見せたといいます。1838年にモカ・ディックはついに仕留められましたが、体長は21メートルあり、その体内には二十本もの銛が撃ち込まれていました。本作『白鯨』は、このモカ・ディックを象徴的に用いています。
1840年代よりアメリカでは芸術面や文化面において「真の独立」を果たそうという運動が各方面で行われました。アメリカン・ルネサンスと呼ばれるこの動きは、アメリカという土地の礎となったヨーロッパ諸国の血脈からの解放を目指すもので、アメリカという国、アメリカという人は、どのような発展を目指し、どのような意義を持ち得ているのか、といった探究と沸湧を表現しようとしたものです。文学においてはラルフ・ワルド・エマーソン、ナサニエル・ホーソーン、ウォルト・ホイットマンなどの名が挙げられますが、本作を書き上げたハーマン・メルヴィルもその一人と見做されます。アメリカン・ルネサンスには明暗に分かれた作風があり、エマーソンを代表とする希望や発展に満ちた美しい作品群と、込められた背景により懐疑と暗鬱に満たされた真逆と言える作品群が存在します。この後者にホーソーン、メルヴィルが含まれ、エドガー・アラン・ポオも属されます。運動の諸目的が持つ性質により「自分は何者なのか」といった探究が双方に込められていることが多く、アメリカの歴史に含まれる明暗をそれぞれの眼鏡で眺めて描かれたような作品が多くあります。そして根深い「暗」の部分に存在する歴史は「アメリカ先住民への暴力的侵略」であり、異民族への虐殺が白人アメリカンの罪の意識として通底しています。国がそれを「必要な犠牲」として制圧の結果を賛美する一方、文学のなかではその罪の意識を抱き、罪深い土地の上で生きる「自分は何者なのか」と考える作品群は、実に複雑な心境と目線を描写しています。
本作は前述の「モカ・ディック」とメルヴィル自身の船員としての経験を活かして描かれたものです。そして、アメリカン・ルネサンスとして、罪の意識と世界の実態を叙事詩的に映し出した作品でもあります。登場人物には、語り部イシュメール(アブラハムの息子イシュマエル)、船長エイハブ(偶像崇拝を促した悪の王)といった名前が付けられていることから、作品世界はキリスト教の土壌にあることを暗に示しています。
エイハブは捕鯨船ピークオッド号の船長で、過去の航海において白鯨「モービィ・ディック」に片足を食いちぎられました。鯨骨の義足で復讐に燃えるエイハブは、体制を整え、飽くなき執念を持って白鯨討伐に乗り出します。語り部たるイシュメールは、捕鯨船に乗り組むことを目的としてナンターケットを目指します。道中の宿屋は安く済ませたいため、何軒かの宿を尋ね回り、ようやくあり着いた部屋は相部屋でした。その相手は人食い人種の蛮族で、イシュメールは慄きながら寝台に潜り込んでいましたが、言葉が上手く通じないことから或る種の仲違いが生まれます。しかし、その蛮族の純粋な信仰心と、懐の広い王族の心に惹かれたイシュメールは、真の心の友としての契りを交わし、同じ寝台で一夜を共にします。この蛮族クイークェグは銛打ちで、彼と命を共にすることになったイシュメールは、エイハブの捕鯨船に乗り組むことを取り継ぎました。そして、二人揃って乗船し、目的となる太平洋の赤道近くへと数年の航海を始めます。ピークオッド号は、アメリカ大陸の東側から大西洋を南下し、アフリカ大陸を迂回してインド洋へと向かい、アジア諸島を潜り抜けて日本列島に迫り、そこから赤道近くの太平洋の真ん中へと突き進みます。
しかし、物語は船の航跡を丁寧に辿るように、非常に緩やかに進みます。捕鯨の歴史、捕鯨船の仕組み、鯨骨、鯨油、鯨の生態など、底の底まで掘り下げるように、随所で懇切丁寧に説明がなされ、ピークオッド号の様子はなかなか映し出されません。全体の四分の三はこのような説明が敷き詰められており、実際の航海の時間的な長さを体験するような思いです。そして、進展する章であっても、真っ直ぐに「モービィ・ディック」へとは向かいません。あくまで捕鯨船ですから、道中で発見する鯨を捕まえる場面も描かれます。このような場面では、メルヴィル自身の体験が如実に活かされていて、迫力のある筆致で読者を導きます。このような緩急が繰り広げられて最終三章でようやく「モービィ・ディック」と相対します。
全篇にわたり、キリスト教に対する批判、そしてヨーロッパ諸国、特にイギリスに対する揶揄が強く織り込まれています。ピークオッド号の乗組員は白人が中心となって役職についていますが、多くの異教徒や有色人種も含まれて構成されています。しかし、銛打ちや鯨油収穫といった危険な作業はエイハブを除きこれらの白人以外が担当し、実際に生命の危機にも見舞われます。これはアメリカ社会の縮図であるとも言え、暗に奴隷社会や白人支配を表現しています。そしてこのアメリカという世界が海という「世界」を渡り、あの「白い」鯨を打倒せんとする様は、ヨーロッパ諸国を否定してアメリカを「真の独立」へと導こうとしているようにさえ感じられます。
しかしながら、本作はこのような一点の視野では収めることができません。冒頭のイシュメールとクイークェグの心の交友は、異教徒の親和だけでなく、同性愛的な側面をも表現しています。そして、不憫な黒人の子ピップは遭難にあったことで気が触れてしまい、シェイクスピア劇に見られる「道化」となって立ち回る様は「神と信仰」を根底から覆す言動を見せています。さらには、拝火教徒フェデラー、奴隷社会に侵されていない屈強な黒人銛打ちダグーなど、異教徒や異人種に対する困惑と抱擁を、ピークオッド号という狭い囲いのなかで、エイハブの、もしくはメルヴィルの信仰における包括的な態度が、作中のなかで浮き上がってきます。このような異人種、異教徒、同性愛に対する包括的な態度は、当時のアメリカ(及びヨーロッパ)では理解されることなどなく、当時の読者は否定的な態度でこれを迎えたといいます。
見よ、神々がすべて善で、人間がすべて悪だと信ずる者たちよ。おお、見るがよい、全能の神々が悩める人間を忘却しているというのに、人間は、白痴なりとはいえ、またなすべきことを知らぬとはいえ、なおほのぼのとした慈愛と感謝の気持にみちあふれているのだ。わしは皇帝の手をとったこともあるが、おぬしの黒い手をとって引いてゆくことのほうがはるかに誇らしく思うぞ!
エイハブのこのような世界への理解を妨げたものは、やはり復讐心に駆られた「執着」であり、イシュメールがピューリタニズムや白人至上主義から「解放」されたことが、物語の結末において対比的に描かれています。「自分は何者なのか」の問いには、自分の心の「根源的な価値観の解放」が必要であり、不要な価値観の眼鏡が外れたときに、ようやく眼前に「自分」を映し出す鏡が現れるのだと語っているようでした。ハーマン・メルヴィル『白鯨』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。