
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

第二次世界大戦争の復興におけるアメリカ合衆国による経済支援マーシャル=プランは、結果的に欧州諸国を二つに分断させました。西ドイツやイタリアなどの欧州西側は受け入れて経済復興を見せた反面、ポーランドやチェコスロヴァキアなどの東側はソビエト連邦の抑圧により拒否させられ、共産主義圏諸国を連邦の支配下へと追いやりました。これはアメリカ合衆国によるソビエト連邦の封じ込めが狙いの政策でしたが、巻き込まれた東欧諸国では苦しい社会が築き上げられていきました。チェコスロヴァキアは受け入れを表明しましたが、戦時中より共産主義を盾に保護的介入を継続していたソビエト連邦がチェコスロヴァキアへ政治的な圧力を掛け、チェコスロヴァキア共産党によるクーデターを引き起こし、共産党政権を成立(二月事件)させ、マーシャル=プランの受け入れを拒否させました。こうして、チェコスロヴァキア社会主義共和国が誕生しました。
1960年代に入るとチェコスロヴァキアの経済成長は停滞し、ソビエト連邦による社会の抑圧に反発する動きが見られ始めました。知識人による民主化の訴え(二千語宣言など)が国民を巻き込み、チェコスロヴァキア共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェクが「人間の顔をした社会主義」(社会主義によって民主主義を目指すという標語)を掲げて大きな民主主義運動を起こします。この運動は同様に抑圧された周辺諸国へ広がり、ソビエト連邦を筆頭とする社会主義国家へ脅威的な影響を与え、「プラハの春」と呼ばれる革命へと発展しました。しかし、ソビエト連邦の共産党体制基盤を揺るがすこの脅威を連邦最高指導者レオニード・ブレジネフは看過できず、ドゥプチェクを「修正主義者」と非難したうえでワルシャワ条約機構軍を用いた武力弾圧を行い、革命の波を収束させました。
チェコスロヴァキアでソビエトが目指す共産主義の形を強制する「正常化」が始まると、プラハの春を扇動した知識人たちは厳しい立場に追いやられました。作家のミラン・クンデラ(1929-2023)もその一人で、彼は筆を取り上げられ、就いていた職を失い、チェコスロヴァキアでの民主化への活動ができなくなりました。そのため、彼はフランスへと渡り、亡命して執筆を継続します。これに制裁を与えるため、ブレジネフはチェコスロヴァキア政府へ指示し、クンデラの市民権を剥奪させました。彼の出版作品は、1989年のビロード革命(ソビエトのゴルバチョフ大統領によるペレストロイカに連動したチェコスロヴァキアの民主化無血革命)まで、国内で日の目を見ることはありませんでした。
本作『存在の耐えられない軽さ』は、チェコスロヴァキアにおける1960年代のソビエト連邦による締め付けからプラハの春、そして再びのソビエトによる抑圧と「正常化」が行われた1970年代にかけての時代を生きた四人の男女の物語です。しかしながら、本作はそうした歴史的、政治的な側面を中心に描いているわけではなく、その時代に生きる人間を通して作者の哲学や思考の分析が展開される作品となっています。命題として掲げられる「人間の決断の重さ」はニーチェの「永劫回帰」を根本としており、一度きりの人生における決断は重いが、人生が繰り返されるのであれば決断の存在は軽くなるという思考が、本作のなかで反芻するように繰り返されます。
プラハで活躍する優秀な外科医のトマーシュは、好色で数えきれないほどの女性と性的な関係を結んできました。過去に結婚歴もあり子供もありますが、関係を修復するつもりもなく独身生活を謳歌しています。ある日、訪れたカフェでウェイトレスとして働いていたテレザと仲が良くなり、声をかけると彼女はプラハまで追いかけて来ました。彼女の発熱を看病しているうちにトマーシュの心は動き、彼は拒否し続けていた自分の恋愛感情を受け入れるようになっていきます。一方のテレザは小さな街でのウェイトレスとしての生活に不満を抱いていました。特に幼少期より受け続けた母からの心傷は、大人になった彼女を苦しめ続けていました。彼女は仕事中に声を掛けてきたトマーシュに偶然の連鎖から運命的な愛を感じ、彼の元へと全てを投げ出して飛び込んで行きました。しかし、トマーシュの好色に傷付けられ、苦しい恋愛生活を送ることになります。トマーシュはテレザを幸福にするために彼女と結婚しますが、愛人たちとの関係は継続していました。特に、長年の恋人である画家のサビナとは、変わらぬ情事を繰り返していました。サビナは理想主義的な大学教授フランツと恋人関係になります。フランツはテレザのように人生や恋愛に深い意味を求めます。フランツは結婚していますが、その生活や状況に深い意味を見出せず苦悩していました。この複雑な恋愛関係にある四人が、ソビエト連邦の締め付けやプラハの春などの政治的状況下で、それぞれの選択と決定によって物語を進めていきます。
トマーシュは思索深い人間で、ソビエト連邦によるチェコスロヴァキアの傀儡政権を強く非難しています。オイディプス王を引き合いに出し、無知であることは罪であるという考えのもと、政府を論理的に糾弾した文書を寄稿しました。これによりソビエト連邦に追われる立場となったトマーシュでしたが、チェコスロヴァキア政府に対する反体制派と接触することになり、活動家として勧誘されます。そこには自分の息子の姿もあり、気持ちは大きく揺らぎますが、結局は自分の意見を歪曲されて担ぎ上げられるだけだと理解したトマーシュは、テレザとともに田舎へと身を隠します。テレザは反体制派に魅力を感じるものの、チェコスロヴァキア内では政府と反体制派の双方が民衆を監視下に置いていることを理解し、自らの立場を優先して尊重するために、トマーシュとともに田舎へと向かいました。
軽さを表現するトマーシュと重さを表現するテレザは、二人の関わりによって差が明確になっていきます。女性との性交渉を頻繁に繰り返すトマーシュは、愛や心といった概念を性行為に求めません。しかし、テレザは愛しているから相手を欲するという動機のもと、性行為を受け入れています。作中で繰り返されるベートーヴェンの弦楽四重奏に込められた言葉「Es Muss Sein!(かくあるべし)」は、理性的な動機を強調する際に用いられます。テレザは「Es Muss Sein!」の体現者で、トマーシュと出会った偶然性や自身の人生の運命を信じており、人間の使命論を重視しています。この使命は「重さ」となってトマーシュに覆い被さります。軽薄と軽さは違います。トマーシュは理性が呼び覚ます使命という存在に囚われず、直接的な感情としての感動を重視していました。理論的に為さねばならない、愛さねばならない、そのような感情に縛られず、自らの生命を尊重していました。しかし、彼はテレザの献身なまでの愛情に応えるうちに、そこに安らぎを覚え、幸福を感じました。そして、安楽的な死(いつ壊れてもおかしくないトラックの修繕をしている彼を後方からテレザは眺めていた)へと突き落とされて、永劫回帰の輪に戻ります。
フランツは、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュ(極左過激派)によるカンボジア崩壊の悲劇を受け、復興や医療支援を目的としたカンボジア入国へ向けた抗議の行進に参加しました。この行進に人生の意味や使命を見出せると信じ、非日常的な理想を求めましたが、彼は現地の騒乱に巻き込まれて命を落としてしまいます。一方のサビナは、自由主義的な感情を貫き、広がる共産主義から逃れるように国を渡り歩きます。彼女は重さを否定し、運命を否定し、使命を否定します。絵を描くために自由でありたいという彼女の意思は、彼女の本能の代弁でもあり、彼女が拒否する「キッチュ」の否定にも繋がっています。俗悪的なものという意味で使用される「キッチュ」ですが、本作はその根本を暴き出し、サビナを代弁者にして否定しています。キッチュとは「理論づけられた感動」とも言え、これはクンデラ自身が最も厭悪し、そして、そのために国を追われました。理性的な感動は、その時点で俗悪であるという考えは、身近な出来事でも考えられます。ある花を見て「美しい!」と感じたものを真の感動とするならば、「美しい!感動する!」と理性が介入した時点でこれはキッチュとなります。これは花を見る人間の思考が感動に対して理論を求めていることを表しています。これを社会に広げるのであれば、人を愛するならば結婚しなければならないという考えになり、愛しているから結婚するという考えとは対極に位置してしまいます。こうした「理論づけた使命感」は共産主義の大名目であり、国が強制する使命へと変化します。キッチュは人間の愛や心を奪い、俗悪を植え付けるものとして、クンデラは本作を社会主義へのアンチテーゼとして描き上げています。
クンデラはインタビューで、本作を作者の告白ではなく、世界が陥った罠の中で、人間がどのような人生を送るのかを探求する作品として執筆したと語っています。罠とは当然キッチュ(俗悪さ)であり、そうした価値観を植え付けられた人々がどのように生きれば解き放たれるのかを読者へ問うています。人生に理論的な使命を見出そうとする行為は、既にキッチュへと向かう一歩です。また、テレザが『アンナ・カレーニナ』に束縛されている点も、キッチュの罠です。テレザは運命を信じようとします。偶然の積み重ねを、彼女は運命と解釈します。そして、運命を他者と共有し、理論的に導いた愛情を相手に求めます。これらの行為は、クンデラが唱える真実の愛とは正反対のものです。サビナは使命や運命を厭悪します。自分の心を曝け出すことなく、自由な感性で絵を描き続けます。彼女はキッチュから生まれ出る「重さ」から逃れ続け、限りなく軽い存在、つまり「存在の耐えられない軽さ」を目指して生きます。
人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた?復讐された?いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。
これまではそれぞれの裏切りの瞬間が裏切りという新しい冒険に通ずる新しい道を開いたので、彼女を興奮と喜びで満たしてきた。しかし、その道がいつかは終わるとしたらどうしたらいいのか?人は両親を、夫を、愛を、祖国を裏切ることができるが、もう両親も、夫も、愛も、祖国もないとしたら、何を裏切るのであろうか?
チェコスロヴァキアは、戦前期からも周辺諸国の支配を受けてきました。自国の政治を他の強国に委ねなければならなかった歴史は、チェコスロヴァキア国民たちの文化や生活に影響を与え、その思考や意思も他者により左右されてきました。現代を生きるチェコ人たちにとって、本作中の「われわれ」は作者だけでなく、彼ら自身の言葉としても深い意味を持っています。この視点で捉えると、本作でクンデラがどのような熱量で国民に声を上げていたのかを推し量ることができるように思います。ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。
























































