こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
第二次世界大戦争では、ファシズムの繋がりである日独伊三国同盟を中心とした枢軸国が、その苛烈な攻撃によって優勢に進めていました。日本は日中戦争の激しい勢いのまま、アジア東南部に広がる欧州植民地の資源を確保しようと、戦争の範囲を広げていきます。イギリス領のマレー連合州、オランダ領東インド、フランス領インドシナ連邦などへ、戦禍を広げるように日本は南下を計画します。しかし、これらの地域から資源を運ぶシーレーン(海上交通路)には、米比戦争を経たアメリカが支配するフィリピンがありました。仮に欧州の支配地を奪ったとしても、その資源を運ぶ最中にアメリカが阻むことは明確で、この点の安全を確保しなければ計画を成功させることは困難でした。これを理由に日本はアメリカと対峙することを決定し、布告無しの真珠湾攻撃を実行し、アメリカ太平洋艦隊へ大きな打撃を与えました。その直後に日本軍はルソン島へと上陸、次いで首都マニラを占拠してフィリピンに地盤を築き、在比アメリカ軍とフィリピン軍を降伏させました。このときに捉えた捕虜たちを百二十キロメートル離れた収容所へ移動させる際、衛生面での問題や体力的な問題によって、捕虜たちは行軍中に次々と倒れて多くの人々が亡くなりました。この「バターン死の行進」と呼ばれる事件にあわせ、日本の占領によって破綻した経済状況や物資不足などが起因し、フィリピン人の対日感情は瞬く間に悪化していきました。フィリピン奪還のために上陸したダグラス・マッカーサーは、この「日本軍に対する反感」を利用して、現地の一般人にまで多くの武器を与えて「ゲリラ」を組織し、捕虜収容所から脱走させたアメリカ兵士と統合して戦力を強化させました。
フィリピン国内での戦線基盤を築いたアメリカは、日本からフィリピンを奪還する作戦を開始します。フィリピン周辺の海域で繰り広げられたこの大規模な海戦「レイテ沖海戦」は、奪還しようと攻め寄せる連合国海軍(アメリカとオーストラリア)に対して、日本海軍が全総力で迎え撃つかたちとなり、史上最大規模の海戦となりました。しかしながら兵力の差は歴然で、日本海軍は悉く壊滅し、日本陸軍はフィリピン本島に閉じ込められるという結果となりました。本国から海を経由した援軍や補給は断たれ、陸地からはアメリカ軍とゲリラが襲い掛かります。日本陸軍は主力部隊が壊滅すると、残された兵士はジャングルを隠れ蓑に彷徨いながら生き繋ごうと、倫理を失い、生きようとする本能のみで耐え忍びます。このような敗残兵たちは、餓死や伝染病、または戦傷が原因となって死ぬか、アメリカ兵士やゲリラたちによって殺されていきました。この「フィリピンの戦い」で戦死(戦病死含む)した日本軍兵士は、実に約51万8000人にも膨れ上がりました。
こうして1945年3月には、日本は南方の航路は全て封鎖され、資源の輸送は困難となりました。さらに、確保していたインドネシアの油田地帯も、アメリカによるシーレーン封鎖によって燃料補給もできなくなったなか、サイパン基地から飛んでくるB-29による本土空襲が本格化します。軍需を支えていた工場や、国民の住まう都市に激しい攻撃を加えられ、戦争の勝利など全く見えなくなり、日本政府が講和を模索し始めたころ、アメリカ軍による沖縄上陸が行われ、途轍もない被害を生む終戦へと向かっていきます。
大岡昇平(1909-1988)は相場師の父親を持ち、経済的に浮き沈みする環境で幼少期を過ごしました。社会的な身分が大きく変動するなか、経済的安定も見込めなかったこと、そして転居が多かったことから、大岡は主に図書館を利用して自身の読書欲を満たしていました。彼は「立川文庫」や「日本少年」などを中心に読み、自らも雑誌へ投稿してその文才を認められるほどでした。青山学院中等部へと進むと、そこでキリスト教の信仰に影響されて牧師を志すほどに気持ちは高まりますが、やがて夏目漱石や芥川龍之介の作品、そしてゲーテやマルクスの思想によって、その熱は収まっていきます。学校法人アテネ・フランセに進んでフランス語やその文学を学んでいると、小林秀雄に引き合わされ、直々にフランス語を教わることになりました。京都帝国大学文学部に入ると、小林秀雄から詩人中原中也を紹介されて意気投合し、のちに文芸評論家の河上徹太郎を交えて同人雑誌「白痴群」を創刊しました。こうして、大岡は作家として一歩踏み出しました。大学内では『赤と黒』『パルムの僧院』などの代表作を生んだスタンダールに傾倒し、その研究に没頭します。卒業後は、株が暴落したことによって父親が破産したため、自らも働く必要がありました。しかし、新聞記者や翻訳者として務めますが長く続かず、環境が落ち着かないなかで1944年3月に招集され、フィリピンへと配属されました。
「君、一つ従軍記を書いてくれないかな」と、大岡が小林秀雄に話を持ちかけられたのは、終戦を迎えて捕虜病院から帰国した翌年のことでした。大岡は復員すると、文学におけるあらゆる師である小林秀雄のもとを訪ね、このように勧められたことで『俘虜記』の「捉まるまで」を書き、認められて作家として文壇に立ちました。小林秀雄は「あんたの魂を書くんだよ」と助言しました。それは当時の作家が「商売のため」に引き受けた「空疎なロマネスク」「探偵小説」「春本」などの、思想や哲学からかけ離れた「商業作品」とは対置的なものを執筆するという行為の究極的なもので、まさに作家としては反時代的な行為に映りました。この小林秀雄の言葉は、大岡の作家としての終生の姿勢を貫かせるもので、また、大岡自身もそのように望んでいたものでした。大岡の魂がそれを望み、魂に宿った「何か」を小林秀雄が見出し、大岡が筆に乗せたことで戦後日本を代表する作家となったのだと言えます。
この大岡も含められる「第二次戦後派作家」と呼ばれる文士たちは、武田泰淳や埴谷雄高に見られる第一次戦後派の「戦争体験を通して社会へ問う姿勢」を引き継ぎながらも、その作品には西洋の文学、思想、信仰、政治が踏まえられ、その作品の多くは長篇作品で描かれています。そして、大岡の魂に宿る「何か」は、彼の作品を覆い尽くし、読む者へ強烈な描写以上の心に訴える「何か」を感じさせます。
少年時から召集前までの生の各瞬間を検討して、私は遂に自分が何者でもない、かうして南海の人知れぬ孤島で無意味に死んでも、少しも惜しくはない人間だといふ確信に達した。そして私は死を怖れなくなつた。
大岡昇平『俘虜記』
私はスタンダールに倣つて自分の墓碑銘を選び、ノートの終りに書きつけた。「孤影悄然」といふのである。
大岡の言う「孤影悄然」は、戦争の只中にあるなかで感じ取ったもので、この抱える「孤独な悲しみ」は、「やがて戦闘で落とすであろう自分の命」と釣り合うものと認識し、人間の核としての感情であると考えました。しかし、大岡は戦争で生き残り、敗残兵として帰国します。釣り合うはずの「戦死」という運命は消え、「孤独な悲しみ」を抱えたまま生き続けることになりました。彼の抱えるこの「孤独な悲しみ」こそが「何か」であり、これこそが「魂の叫び」となって彼の執筆の原動力となっていきます。
この『俘虜記』という「魂の叫び」としての記録によって、日本の文壇は大岡へ「戦後作家」としての名声を与えました。世に映ったこの作品の印象は、「戦争の実体験」といった受け取られ方が多く、どのような酷い目にあった、どのような苦しみを抱いた、どのような理不尽な環境にあった、という表面的な「戦争」を描いたと見做されていました。しかしながら、大岡の「魂の叫び」は「孤影悄然」からくる「何者でもない自分の抱える悲しみ」であり、彼が突き動かされた執筆の原動力とは大きく乖離していました。
このような状況において、執筆に対しての嫌悪感さえ覚えていた大岡は、それでも「何か」を描き出さなければならない、描き出さなければ戦争で死んでいった「他の何者でもない同胞たち」に申し訳が立たないという強い使命感から、再び筆を取って執筆を始めていきます。この「何か」をどのように表現すれば良いのか、辿り着いた考えは、自身の文才に大きな刺激を与えたスタンダールの技法を参考にすることでした。写実主義、そして自我主義に傾倒したスタンダールは、徹底した分析と社会への観察眼、さらには内面への自己追求が合わさり、明確な熱量がこもった作品を生み出しています。大岡もまた、自身の実体験と自己追求を徹底させ、新たな作品へ「孤影悄然」を込めて書き上げます。そして生まれた作品が本作『野火』です。
肺病によって戦力から外された田村一等兵は、野戦病院からも「完治したとして」追い出され、居場所を無くしてフィリピンの原野へと放り出されます。彷徨うなかで遭遇する野火には原地ゲリラの存在を想起させ、その度に筋肉が硬くなる緊張が走ります。それでも空腹を満たさなければならないと、密林や小川を探索し、辿り着いたまだ荒らされていない打ち捨てられた現地人の芋畑に出会い、天国のように感じて滞在します。そこから見える高い木の間から、金の十字架が見えたことで勇気と冒険心が芽生え、「何かしらの救済」を求めて近付いていくと、古ぼけた教会が現れました。中はマッチひとつ無く、聖書のみがあるような状況で何の感慨も得られません。そこへ原地の男女が逢引のために教会へ立ち入ると、田村はマッチを欲するあまり彼らに姿を現し、弾みで銃を放って女性を殺害してしまいます。男は逃げていきましたが、その後に教会で塩を見つけると、小さな雑嚢へ目一杯詰めて満足を得ます。教会を後にして芋畑へ帰ると、そこには別の部隊の上官たちが芋を掘り起こしていました。状況と経緯を報告した田村は、塩を分け与えることで信用を得て本国へ帰る希望を抱きます。同行しながら帰国へ向けた目的地へと向かいましたが、ゲリラに待ち伏せをされて急襲され、上官は殺されてしまいます。間一髪で死を免れた田村は、またも原野を彷徨います。ある時、狂人となった同胞と出会いました。話す言葉や行動は破綻を見せていましたが、そこには何かしらの神的な存在を感じさせるものがありました。「俺が死んだら喰ってもいいぞ」という言葉を残した同胞の死体を前にして、田村は右手で手を掛けようとしたとき、左手がその行為を阻止しました。そこで意識に働き掛ける声を聞きます。結局、同胞を食べることなく彷徨を続けた田村は、偶然にも野戦病院で知り合った同胞たちと再会しました。様相は険しくなっていましたが、精神は鮮明で行動をともにすることになります。同胞は干し肉を持っていました。「猿が取れるのだ」と言い、狩りに出掛けます。しかし、田村はそこから壮絶な体験を与えられることになりました。
田村一等兵は、まさに「孤影悄然」とした存在です。何者でもない自身が、待ち受けるはずの「戦死」を受け入れていながら、それでも死なないために行動する姿は、肺病さえも凌駕した精神の戦いが映し出され、それとともに巨大な悲しみを帯びています。受け入れた「死」から逃れようと、肺病を恐れ、野火を恐れ、ゲリラを恐れる行動は、悲しみに溢れています。死に近づいている極限の状態、もしくは戦死を受け入れている精神の状態は、「神」の存在を求めやすい状態と言えます。人間が「人間」でいるということは「神の意志」によるものであり、神の存在は「人間としての生」を死から遠ざけるものであるとの考えが、描写より受けとめられます。冒頭に掲げられる「たといわれ死のかげの谷を歩むとも」というダビデの言葉は、「孤影悄然」とした死に近づく者が歩むとき、そこには神が感じられるのだと捉えることができ、「生」を与える神の意志はどのように彼に働くのかを問うています。
帰国後に「狂人」として受け入れられた田村は、病院の一室で横たわります。家を売り払い、妻とも別れ、治療に専念することになりました。妻は別れをすんなりと受け入れ、別の人生を歩むべく他の者と逢引を重ねます。フィリピンの若い男女と変わらぬ行為に対して、田村は悲しみを抱きません。
どうでもよろしい。男がみな人食い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよいのである。
では、そのようなものが人間であるならば、そのようになりたくない者はどうすればよいのか、神の意志はそのように働くものではない、いずれをも拒否する魂は悶え苦しみます。だからこそ、このような魂を持つ人間は「抗うように」狂うのだと考えられ、ここに大岡の「魂の叫び」が見られます。そしてこの魂を守るべく、神はあのとき、「左手を動かした」のだと考えられます。そして物語を結ぶ「神に栄えあれ」という言葉を、「魂の救済」のために放たれた一語であると見ると、「孤影悄然」に死のかげの谷を歩んだ魂へ向けた「祈り」であることが理解できます。
大岡は「ケンカ大岡」と呼ばれるほどの論争家でした。史実の改変や資料の曲解などについての論争が、多くありました。ここには大岡の作家としての矜持が窺えます。小林秀雄によって開花された「魂の執筆」は、戦地体験から与えられた「孤影悄然」が体現されています。そして、事実を正確に語ることが「他の何者でもない同胞たち」への餞となるという姿勢が込められています。「こういった行為こそが作家である」という自負が、他者の改変や曲解に対して激しい怒りを向けていたのだと考えると、大岡が非常に真摯な姿勢で執筆に取り組んでいたことを裏付けているように思えます。
つまりここでもまた比島の自然や戦場の情景は第一義の要素ではない。それは作者の「歌」を隠すための道具立てであり、ある意味ではやや不自然なまでに克明にととのえられた舞台だというにすぎない。もしこれが敗れた兵士の物語だから「戦後文学」だというなら、これは決して「戦後文学」ではない。しかしもし主人公の「孤影悄然」ぶりが戦後という時代に底流するひとつの地下水と共鳴するという特別な意味においてなら、これを「戦後文学」といってもあるいはさしつかえないかも知れない。
江藤淳 大岡昇平集「人と文学」
戦地での風景やその体験が克明に描かれてはいますが、その擬似体験的な意味合いでの受け取り方ではなく、その地で「壮絶」を経験した人間の「魂の叫び」として読むことが本書の深い理解に繋がると思います。大岡昇平『野火』、未読の方はぜひ、読んでその叫びを感じ取ってください。
では。