RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『赤毛のアン』ルーシー・モード・モンゴメリ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

ちょっとした手違いから、グリン・ゲイブルスの老兄妹に引き取られたやせっぽちの孤児アン。はじめは迷惑がった二人も、明るいアンを愛するようになり、アンは夢のように美しく移り変るカナダの自然の中で、少女から乙女へと成長してゆく……。愛情に飢えた、愛すべき人参あたまのアンが巻き起す、愉快で滑稽な事件の中に、人生のきびしさと暖かい人情が織りこまれた少女文学の名作。


カナダの東側、大西洋のセント・ローレンス湾に浮かぶプリンス・エドワード島は、国内最小の州として知られています。カナダは大航海時代より西洋人が流入し、植民地戦争を経て英国が治めるようになりました。白人の多い植民地であったことから、連邦から独立国となった先駆けの国でもあり、独自の文化を築いた国でもあります。流入した西洋人はアイルランド人やスコットランド人が多く、彼らの持ち込んだケルト文化が現在でも主流となっています。自然崇拝による祭礼などがよく知られますが、幾何学的な模様を身の回りに取り入れる点も特徴で、現在まで受け継がれるキルト民藝は誰もが知るところです。1867年の建国から西方で起こった1896年のクロンダイク・ゴールドラッシュにかけて、十九世紀末のカナダは怒涛の勢いで近代化に目覚めていきます。しかし、プリンス・エドワード島民は独自の時計を持つかのように、広大な自然に囲まれてゆったりと過ごしていました。赤い土地と広範な森林、美しい湖と移り変わる農作地の色々は、彼らの精神が表れているように落ち着いた力強さを持っています。農作業や身繕いはもちろんのこと、自動車なども殆ど使わず、毎日が人の手で賄われていました。


ルーシー・モード・モンゴメリは、1874年にこのプリンス・エドワード島で生まれました。彼女が二歳になる前に母親が病で亡くなり、父親は出稼ぎのためにカナダ西方へと移り住みました。そのため、モンゴメリは島の北部に位置するキャベンディッシュの祖父母へと預けられました。彼女はこの幼少期に、集中して読書をしました。小説は読むものを制限されましたが、詩は存分に触れることができ、彼女の内にある詩性は着々と磨かれていきました。こうした詩への没頭は彼女の感性を刺激するだけでなく、後に生み出す彼女の文学作品にも少なからず影響を与えています。雑誌や新聞に詩や短編小説を投稿し、職業作家という立場を築き上げた彼女は、長編小説に挑戦します。これが本作『赤毛のアン』です。完成直後に持ち込んだいくつかの出版社から拒否され、失意のあまりに原稿を保管していましたが、三年の時を経て読み返すと出版への意欲が再燃し、ようやく発表となりました。


本作は、十九世紀後半のプリンス・エドワード島にある架空の町アヴォンリーという場所で繰り広げられます。農業を営み女性が苦手な中年男性マシュウ・クスバートと、その妹マリラが、農作業の手伝いとして男の子を養子に迎えようと考えていました。彼らの住むグリン・ゲイブルスは自然の美しさに溢れており、穏やかな日々が永遠に続くかのような印象を持っていました。そこへ養子を迎えるという事件が近所を騒がせましたが、手違いによって女の子が訪れたために二人は一層に困惑してしまいます。しかし、彼女の境遇と幼さ、そして明るく天真爛漫な活気が二人に新たな感情を与え、結果的にグリン・ゲイブルスへと迎えることになります。そして、幸福な孤児アンは、描く幸せと実際に触れる社会に翻弄され、精神の成長と真の幸福を見出していきます。


細々とした家事は経験を活かしてこなすことができるアンでしたが、同学年と接する機会や学校という社交的な場は経験が無く、大小さまざまな失敗を起こします。しかし、アンの幸福を夢見る空想や一本芯の入った言動に周りも心を動かされ、やがて新たな社会に存在感を放つようになっていきます。そして、想像の中でしか得られなかった「腹心の友」ダイアナと心を通わせ、その関わりの中で精神的な成長を見せていきます。


アンの空想癖は周囲を混乱させます。溢れる想像力と持ち前のロマンティシズムは、家事の最中でも、会話の最中でも、突如として彼女に取りつきます。いわば彼女の「内面世界」は、彼女の精神を構築しているものであり、これまでの非社交的な環境が産んだものであるからこそ、周囲からは社会性の欠如として映ります。これに対して、マリラは非常に実際的な思考の持ち主で、社交の場における礼儀や作法を重んじており、アンの非社交的な性格を正そうと試みます。そこには、アンが家庭で受けることができなかった「愛のある敎育」としてマリラは自負しており、引き取ったからには責任を持って淑女に育て上げなければならないという決意さえも感じられます。しかし、強制的な押し付けであった教育的感情は、アンが引き起こすさまざまな出来事によって考え方が変化し、やがてはアンの「幸福を描く空想」を肯定していきます。実際的な性格のマリラは、空想により描いた幸福の未来が訪れなかった不幸や落胆を恐れていましたが、やがてアンの「未来に待つ幸福を描く」という行為が、「未来を幸福に切り開く努力」なのであると理解するようになり、一概に悪い面だけでもないと思うようになっていきます。また、アンの方でも、学校や友人との社交場での経験によって社会性の重要さに気づき、アン自身の心身が成長することによって空想に耽るばかりではなく、結末に見せるような実際的な決断をするように変化します。こうした二人の関わりによる歩み寄りは、当然ながらアンが居なければ起こらなかった変化であり、双方にかけがえのない存在として認め合う大切な関係性であったと言えます。


アンのロマンティシズムは、グリン・ゲイブルスに来るまでに得られなかった経験の欠如から齎されているもので、アン自身が夢や憧れとして抱いているものです。この感情は劇的に精神へと影響を与えているため、極端に感受性が豊かになっていると言えます。真実の愛情、永遠の献身、超越的な悲劇、極端な劇性、こういったものを無意識に望むが故の空想癖であり、アンから滲み出る危うさは自ら欲しているという側面も見られます。幼少期に満足を得られなかった家族愛、そして目の前に無いからこその憧れは「未知であるが故の魅力」となってアンの精神に刷り込まれています。しかし、前述のような環境による社会経験が彼女の精神を成長させ、アン自身が実際的な判断をくだすことができるようになりました。感傷に浸る「妄信的なロマンティシズム」は、やがて現実に直面する「感情を揺さぶる出来事」の強い影響に追いやられ、精神的な成長によって消滅します。そして、アンの成長は周囲にも影響を及ぼし、アンの放つ魅力として浸透していきます。この成長の集大成とも言える言葉が、終盤でマシュウによって放たれます。

 

そうさな、わしには十二人の男の子よりもお前一人のほうがいいよ
いいかい?──十二人の男の子よりいいんだからね。そうさな、エイヴリーの奨学金をとったのは男の子じゃなくて、女の子ではなかったかな?女の子だったじゃないか──わしの娘じゃないか──わしのじまんの娘じゃないか


人間は未来を予想することはできても、未来そのものを感じることはできません。この未来をどのように迎えるかは、人それぞれの心づもり一つと言えます。終幕で大きな喪失感を覚えるアンですが、この時に「真の喪失」を体験します。精神が成長したアンは、喪失を現実として受け止め、それでもなお生きていくことを前向きに捉えています。そして最後の決定的な決断では、アンが未来を「前向きな現実」として見据え、生きていこうとする姿勢が垣間見得ます。アンがマリラに放つ言葉には、空想ではない幸福を求める未来、つまり「希望」を未来に見ています。モンゴメリは、希望を持って未来を生きていくことを読者に語りかけているように思われます。

 

あたしがクイーンを出てくるときには、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲り角にきたのよ。曲り角をまがったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。それにはまた、それのすてきによいところがあると思うわ。


本作ではアンを通して、人間としての個性や友情、幸福と未来といったものを、各々がどのように捉えて生きていくのか、そして捉え方が人生にどのように影響を与えるのか、そのような感情を彼女の成長とともに考えながら読むような印象を与えられました。作中でのプリンス・エドワード島の美しい描写はモンゴメリの詩性が存分に発揮され、情景が目の前に浮かび上がるようです。そして、アンの抱く豊かな感情の動きは、読者を惹き込み、物語へと没頭させてくれます。現代でも愛され続けている本作『赤毛のアン』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『気がかりな結末』ユーリイ・トリーフォノフ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

気がかりな結末 (1975年) (現代の世界文学)

 

現代の精神の危機への深刻な警鐘。功利的な妻リータ、黙然と自己の運命を生き抜く家政婦ニューラ。モスクワのインテリ家庭を舞台に、この二人を対照的に描きながら、近代化の進む現代ソビエト社会で、伝統的なロシア女性の純朴な心の喪失と、それに伴う夫婦関係の崩壊を指摘した。社会主義制度の中で物質的にもめぐまれながら、なおかつ心は空洞化するソビエト市民の苦悩を捉えた異色中篇集。


1964年にフルシチョフが第一書記の任を終え、レオニード・ブレジネフの時代が始まりました。継続する雪解けは全体主義的なスターリニズムの社会を和らげ、経済や文化の発展へと目を向けるようになっていきました。ブレジネフは、第二次世界大戦争の終戦後から続いていた、西洋思想との対立や資本主義との対決に起因する「米ソ冷戦」を緩和させようと試みました。いわゆる緊張緩和(デタント)を図るために、ブレジネフはアメリカへ核軍縮などを推進する外交に熱を入れましたが、スターリン批判以来、国内で高まった東欧社会主義国による自由主義運動の影響を受け、これを抑えつける活動に回らざるを得ず、結果的に任期中の緊張緩和は実現させることができませんでした。特に、1968年に起こったチェコスロバキアでの改革が、ブレジネフ政権を傾斜させる大きなきっかけとなりました。これは、アレクサンデル・ドゥプチェク第一書記が「人間の顔をした社会主義」を掲げて言論の自由化を求めて起こした革命ですが、この出来事が同様に抑圧された周辺諸国に伝播し、他の社会主義国にも革命が波及していきました(プラハの春)。ソビエト連邦の共産党体制基盤を揺るがすこの脅威をブレジネフは看過できず、ドゥプチェクを「修正主義者」と非難したうえでワルシャワ条約機構軍を用いた武力弾圧を行い、革命の波を収束させました。こうした、ソビエトにおける社会主義体制維持のための周辺社会主義国に対する介入の正当化は、ブレジネフの「制限主権論」として知られるようになりました。


しかし、ブレジネフが敷いた国内政治体制は、スターリンのような粛清やフルシチョフの行った極端な降格人事などは見られず、政敵に対する権力収奪の配置変更などを中心に行いました。そのため、国民に対しては恐怖を振るう支配者とは映らず、中央集権的な経済政策も円滑に受け入れられます。1950年代は戦後の復興も相まった結果を見せて経済成長の兆しが見えましたが、1960年代に入ると経営悪化企業への助成金を目当てに多くの企業が不正を働き、経済の発展は急速に鈍化していきました。また、ブレジネフ自身の西欧高級車嗜好の露見や身内が率先して不正を行うなど、冷戦下における行動としては説得力に欠けたものがあり、経済的な発展はあまり実現しませんでした。一方で、週休二日制の導入、労働不能者や戦傷者への手当、年金受給条件の緩和など、市民への福利厚生にも力を入れていたおかげで、市民は安定した豊かな生活を与えられたことも事実として残されています。


ブレジネフは「ロシア・ナショナリズム(民族主義)」を押し進めていました。国内政治基盤を固めるため、政治体制の内側と国民の支持という二面を見据えていた経緯があります。言い換えれば、スターリンが広げてフルシチョフが狭めた政策を、ブレジネフは再興させたのだと言えます。前述の戦後復興はこの政策転化が功を奏しており、特に都市部での工業発展を支えた労働力は、農村部より都市へ向かった人々の尽力によるものでした。こうした都市部への人口移動は、農民だけでなく多くの知識人も行いました。特に注目すべきは作家たちで、ソビエト連邦全体が都市に労力と希望を注ぐなか、彼らは都市文化称揚に反し、農村が培う素朴で力強い人間性を肯定しました。具体的にはダム建設による環境破壊の非難などといった主題を打ち出しており、当時は「農村派」作家として人気を博しました。一見すると、ブレジネフの政策方針に逆行するような思想が強いように思われますが、彼はこれを受け入れ、大いに支援します。この優遇の理由として、ロシアにおける農業の投資に対する国民の理解を得る目的があったと言えます。前に述べた1960年代に都市部の経済成長が鈍化した時期、ブレジネフは再び農業活性化の必要に迫られました。彼は農村派を称揚するかたちで農業復興の「大義名分」を手にし、政策の方針転換を堂々とすり替えるかたちで実現させました。


しかし、このことにより、ロシア文壇では都市活性化を支持する「ロシア・ナショナリズム」と、政策転換による「農村派称揚」とのあいだに矛盾が発生します。ロシア帝政期のスラヴ派を持ち出す右派に対し、ロシア中央政権はどのような姿勢を取るべきかが困難になりました。そこにチェコ事件が勃発することによってブレジネフが取る態度は強引なものとなり、ロシア・ナショナリズムに対しての緩和策を設け、その手段として文学作品に対する検閲という手段を持ち出しました。当初は実際に必要に迫られた激しい論調のものを取り締まるだけでしたが、やがてブレジネフの中央集権に反抗を示すものを制裁する性質へと変化していきました。こうして、戦前戦後に活躍(のちに粛正)した銀の時代の後の世代、つまりペレストロイカまでの約二十年間を生きた作家たちは、ロシア文学の停滞期として自由に執筆できない時期を過ごしました。


この時代に、表面は社会的に豊かでありながら、精神の不協和音を感じ続けるインテリゲンチャ(知識人層)の都市生活を描き続けた「都会派」と言える作家が生まれました。豊かになったはずの市民生活は、やがて娯楽に侵されて虚無的なものへと変化し、心の内部から歪みが生まれ、都会人としての幸福の崩壊が始まるという事実を直視した市民の精神を、彼らは実存主義的な筆致で描いています。こうした一般市民の現実的な豊かさと不自由の矛盾を、登場人物の意識の流れによって描き出した作家がユーリイ・トリーフォノフ(1925-1981)です。

 

巨大なロシアの氷塊は割れることも、ひびが入ることもなく、震えることさえなかった。しかし、氷塊の奥深くで何かが動いたのだが、それは数十年後にようやく明らかになった。

ユーリイ・トリーフォノフ『焦燥』


トリーフォノフは、抑圧された社会主義的政治、強制的な道徳的状況、いわば強力なイデオロギーの弾圧が始まった時代に、自身が描くべき主題に出会い、実際に才能が花開きました。自身の体験と感情を反映した「生活に垣間見える自己理想の裏切り」を、時代の重要な問題と定義し、その独白とも言える独特の文体を構築し、概ねの作品に見られるように不幸な結末を迎えるように描いています。スターリン批判によって行われた雪解けを「瞬間的な英雄現象」として捉え、ブレジネフによる強制的な検閲によって「永続的に求められる順応」という現状を、作家であるトリーフォノフは「窒息的絶望」というかたちで社会に問題提起しました。これに勘付いた当局の息がかかった批評家は「俗物的」と批判しましたが、その些細な日常描写のなかにこそ、自己理想の裏切りに抗う姿が描き出されています。そして、独白のようなかたちで会話さえも地の文に埋め込んでしまう描写が、インテリゲンチャの抱える矛盾と苦悩を、作中で「意識の流れ」としてイデオロギーを表出させています。


トリーフォノフの作品には、当時の文士や歴史家といった知識人が重要な登場人物として描かれています。自身の経験した感情や意識がそこには反映され、その心理描写には実存主義的な現実が込められています。この感情や意識の機微が「流れ」として描かれることで、政権に対してもナショナリズムの面でも賛同していないにもかかわらず、その点に起因しない日常の瑣末さに左右される実際的な登場人物の思考が前に出されることで、厳しい検閲を免れていました。このような手法を見抜いた他の知識人たちは、意図に賛同するとともに、彼らを率いる思潮の中心人物としてトリーフォノフを拠り所としました。雪解けにより与えられた精神的な自由、スターリニズムからの脱却という風潮は、ある意味で終息しており、新たな息苦しい社会の到来を受け止めて苦悩する現実をトリーフォノフは社会に訴えるように描き、この風潮は高まっていきます。そして、行き場のない息苦しさを意識の流れで如実に描いた作品が、本作『気がかりな結末』です。


語り手となるゲンナージイは、多くの言語を理解する詩の翻訳者で、トリーフォノフを投影した知識人として描かれています。作中は彼の独白が中心となっており、そこには突発的な思考の切り替えや感情の変化が見られ、彼の目線で日常の「些事」が語られていきます。彼は、息子に指摘されるように自身の翻訳という仕事に誇りは持っていない一方、生活を支えてきた大黒柱としての誇りから奔放な生活と敬いの無い言動を見せる息子に激怒します。ゲンナージイは、根本として詩や哲学に理解を示していません。実に現実的な社会を生き、そこに必要な倫理や道徳性を重要視しています。この考えに反する行動を見せるのが妻リータで、実際社会に不適合な言動を選択する様子に、ゲンナージイは蟠りを覚えています。収入は不安定ながらも平均水準以上の家庭を守るゲンナージイですが、そこに精神的な満足は無く、家族に対する否定的な感情が募っています。ソビエトに生きる市民の感情は、満たされた社会的経済状況に反して、行き場のない鬱屈したものばかりで溢れ、家庭が精神的な崩壊を見せていました。このような内部分裂を起こすインテリゲンチャ家庭に、トリーフォノフは本作で家族を繋ぎ合わせる存在としてニューラという下女を登場させています。彼女は、ナロード(民衆的)出身の忍耐と献身を兼ね備えており、そこに現実的な生活力を兼ね備えた人物として行動します。自身の意見や思考を持たずに他人に流されて無為なものに投資する妻と対象的に描くことで、ニューラの持つ献身と生活力が現実社会でいかに必要とされているのか、そしてゲンナージイが必要であると考えているのかを、実際の社会へ問いかけています。


ゲンナージイの意見や思考は、最終的に社会の全てに嫌悪感というかたちで現れます。これは、或る種の自己中心的思考であり、自分の理想に固執する人間像であると言えます。これは、当時のインテリゲンチャが置かれた立場から生まれた憎悪であり、知識人そのものの頽廃の象徴でもあります。そして、トリーフォノフはこのようなインテリゲンチャに対しての嫌悪感を示すため、ゲンナージイの独白という手法を選択しました。検閲から生まれた虚偽や日和見主義といった態度、知識人そのものの頽廃的堕落は、確かに国政が生み出した社会に起因しています。しかし、本来あるべき知識人の姿である「創造性の追求」を、トリーフォノフは当時の知識人に対して強く求めました。

 

それは新しい時代思想を身につけた翻訳者たちで、実務的で敏捷でどんな仕事でもたちまち片づけることのできる人たちだった。そのうちの何人かは三か国語、四か国語を知っていたが、別にそれで本質が変わるものではない。要するに若き実務家たちである!彼らには実現されなかった希望にこだわるような過去もないし、いずれも若々しい爪を光らせて仕事に立ち向かっていく。その上、馬のように筋骨たくましく、きわめて正常なる血圧と頑丈な歯とをそなえている。

ユーリイ・トリーフォノフ『気がかりな結末』


インテリゲンチャの置かれた「知識人としての苦悩」は、トリーフォノフ自身も大いに感じていました。しかし、自らをも含む知識人層を俯瞰的に眺め、置かれた状況でも為すべきことがあるのではないかと考え、他の知識人へその考えを投げ掛けた姿勢は、ロシア文学の停滞期と呼ばれた時代にありながらも、強い思想を維持したトリーフォノフの強さであったと思います。実際の社会に見られる些事的現象を注視し、当時における重要な問題意識を表現した熱量は、独特の内的独白という意識の流れで描かれました。この手法だからこそ、トリーフォノフの思想が強く描かれているのだと感じました。


トリーフォノフ自身は、ペレストロイカ後の文壇を見ることができませんでした。しかし、彼の功績が後の文学作品の礎を担っていることは間違いありません。ユーリイ・トリーフォノフ『気がかりな結末』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

『斜陽』太宰治 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

敗戦直後の没落貴族の家庭にあって、恋と革命に生きようとする娘かず子、「最後の貴婦人」の気品をたもつ母、破滅にむかって突き進む弟直治、滅びゆくものの哀しくも美しい姿を描いた『斜陽』は、昭和二十二年に発表されるや爆発的人気を呼び、〝斜陽族〟という言葉さえ生み出した。


第二次世界大戦争の最中、日本では超翼賛社会が国家によって広められていました。国のために、天皇のために、そのようなプロパガンダによって国民の意思や個人の思想は抹殺され、「国のための国民化」が進められました。この尊王一色の思想を与えられた国民は、敗戦後に荒地と廃墟が広がる社会へと放り出され、今まで信じてきた国と天皇に頼ることはできなくなり、やがて絶望を抱いて目の前の食糧を追い求めることになりました。それでも戦後の社会を生きなければならないという意思を、一人の国民として、一人の個人として、多くの作家たちは社会へ向けてそれぞれの思想を打ち明けました。苦しい戦争経験と敗戦を経て、戦後社会をどのような思想で生きていくのかを示した戦後派や、鬱屈した社会や生活環境に娯楽要素を提供した新戯作派など、作家それぞれが理解と衝突を繰り返して戦後文壇を発展させていきました。この活性化する文壇において、戦後の絶望を受け入れながら戦後権力に反抗を示す姿勢で立ち、自らを作中で「無頼派」と名乗って独自の思潮を最後まで貫いた作家が太宰治(1909-1948)です。


青森県津軽郡における有数の大地主である津島源左衛門を父親に持ち、太宰は六男として生まれました。父親は県会議員、衆議院議員、貴族院議員などを務めた地元の名士で、近所では「殿様」と呼ばれるほどの裕福な家庭で太宰は育ちました。殿様の子らは、小学校では実力に関わらず全て優良な成績を与えられ、屋敷での身の回りは乳母や下女が全て世話をしてくれます。中学生になる直前、殿様である源左衛門が肺癌によって亡くなると、太宰は緊張が緩和して勉学に身を入れなくなっていきます。彼は、勉学の代わりに文学に耽溺し、芥川龍之介、志賀直哉、室生犀星、井伏鱒二などの作品に影響され、自らも小説家を目指すようになっていきました。全寮制の高等学校文科に入ると、津島家の権能によって下宿を許可させて親戚筋の屋敷で自適に過ごしていました。このころに芥川の自殺を受け、精神に大きな影響を与えられます。翌年、世間で大きな畝りとなっていたプロレタリア文学に触発されて同人作品を発表しましたが、これは津島家の意向に沿わないため、連載を差し止められてしまいました。その後、懸賞小説に応募するも落選が続き、彼はカルモチン自殺(鎮静催眠剤の多量服用)を図りました。ひと月ほど母親と温泉で療養し、体力はすぐに回復しましたが、精神には蟠りが残りました。大学では受験者が少ないために試験が無いと聞いていた東京帝国大学文学部仏文科を志望しましたが、実際には試験が行われ、これに試験官に対して泣き寝入りをして特別に入学させてもらいました。フランス語を全く学ばずに入学したため、当然のように講義内容を理解できず、太宰は美学科へと転入を考えますが、同時に小説家の道を切り拓くために井伏へ弟子入りを願い出ます。


太宰は、高校時代から交際していた芸者の初代と結婚したいと考え、津島家へ決意を伝えました。しかし、名士の子が芸者との結婚を許されるわけもなく、大きく反対されます。意地でも曲げない太宰の意思に、津島家は考えを変えて太宰を分家除籍するかたちで結婚を認めました。太宰はこの結果を受けて、喜び以上に財産分与の対象外となったことに落胆してしまいます。除籍となった十日後、自棄を起こすようにバーの女給と勢いでカルモチン自殺を図りました。そして、女給だけが亡くなり、太宰は生き残りました。この事件で太宰は自殺幇助の罪に問われましたが、津島家に泣きつき、起訴猶予処分で収まりました。津島家長男は太宰に対して、大学を無事に卒業すること、問題行動を起こさないこと、この二点を約束する条件で仕送りを継続することにします。そして、初代が上京して入籍はしないものの結婚生活が始まり、ようやく落ち着きを見せ始めたころ、太宰は周囲の空気に流されるように左翼活動に身を投じて抜け出せなくなると、こちらもやはり長男に助け出されました。仕送りは減額されましたが、最後まで継続されました。


執筆活動に精を出していた太宰でしたが、大学の受講は惨憺たるもので、大学生活が五年目に突入してしまいます。大学を無事に卒業するという約束に触れていると自覚した太宰は、仕送りが打ち切られることを恐れて新聞記者になって生活を維持しようと試みました。しかしながら、入社試験は不合格、立ち行かなくなることを恐れて首吊り自殺を図ります。その後、体調不良が重なったこともありますが、学費の滞納によって大学を除籍されてしまいました。この闘病生活の際、太宰は頻繁に打った鎮痛剤パビナールの依存症となります。執筆活動は継続しており、佐藤春夫などにも評価されるなど、少しずつ文壇に顔を見せ始めるようになりましたが、パビナール依存症の治療を先輩文士たちに勧められてしまいます。権威を早く得たい太宰は、周囲に死を仄めかして回るなどの不安定な言動を見せていましたが、何度も繰り返した自殺未遂を引き合いに出されて、記者からは愛想を尽かされてしまいました。パビナール依存症は一向に治らず、薬を買うために初代の着物を売り捌き、知人への借金は膨れ上がっていきました。あまりに酷い症状と生活に、井伏は強制的に太宰を入院させます。一ヶ月の療養で少しは症状が治りましたが、入院中の初代の不貞行為が発覚し、太宰は初代とともにカルモチン自殺を図り、二人とも生き延びて離別しました。


井伏の紹介で、太宰は美知子という地質学者の娘と見合いをします。人生をもう一度正す、幸福な生活を新たに築く、そのような思いを合わせて、太宰は美知子と結婚しました。その決意が実ったのか、実際に二人の結婚生活は安定し、太宰の執筆活動も順調で、この時期に『女生徒』や『駆込み訴え』などの作品が発表されました。執筆の依頼も増え続け、収入が安定してきたことからも、太宰にとって幸福な時期であったと言えます。


1941年、世界戦争が拡大していたころ、太宰は文士徴用令を受けましたが、肺浸潤を理由に徴兵を免れました。その直後、太宰の『虚構の彷徨』に影響を受けた歌人の太田静子が、早逝した我が子の日記風の告白文を彼に送り付けました。関心を持った太宰は、彼女に遊びに来るようにと働きかけました。これがきっかけとなり、静子は太宰の愛人へと確立していきます。美知子に疑いの眼差しを向けられるも、太宰は策略を用いて誤魔化し続けました。戦争が激化しても太宰は変わらずに作品を発表し、『新ハムレット』や『御伽草子』など、勢い衰えずに執筆を続けました。そして、1945年の東京大空襲では美知子の実家の甲府へ疎開しますが、今度は甲府空襲によって津軽の津島家へ疎開しました。その後、戦争は敗戦という形で終わりを迎えます。


敗戦した日本政府は、GHQ(連合国軍総司令部)の命によって農地改革を発表しました。これは、日本国内での貧富の差を排除し、戦争の引き金となった軍国主義を消滅させるために行われました。国内の地主から強制的に土地を取り上げ、小分けにして安価に小作人へ売りつけました。国民から思想を取り上げ、戦後の食糧不足を自らで解消させようとしたこの国策は、一見すると効率的に思われますが、細かく土地を分配したための農民の零細化が進み、抜本的な解決には至らず、現在まで続く問題として残っています。津軽の大地主であった津島家は典型的な搾取を受け、抱えていた人や資産は恐ろしい勢いで消滅していきました。多くの財産を取り上げられた津島家を見た太宰は、アントン・チェーホフの『桜の園』を思い起こし、この光景を題材とした作品を生み出そうと考えました。これが、本作『斜陽』です。


静子の子を認知した太宰は、別の愛人である山﨑富栄とも関係していました。肺の病は進行し、病状がひどくなっていたことから、富栄は愛人兼看護師のような役回りをしていました。太宰の面倒を見続けた彼女でしたが、やがて不安定な関係性が問題となり、彼女自身も精神を病んでいきます。そして、強い意思を持って太宰に迫り、ともに心中することになりました。太宰は享年三十八歳でした。


太宰は、上記のような反倫理的と言える生活を過ごしました。しかしながら、彼の日常生活は極めて規則的で、几帳面なものであったと言われています。定刻に起床し、午前中に執筆を行い、午後には読書や交友を、そして夜は自らを見失うほどに飲み明かすなど、全てが無法者のような生活であったのではなく、彼自身が衝動だけでなく理性を持って野放図な生活を送っていました。これらの理由の一つとして、周囲への奉仕の精神という、自分を道化の存在へと落とし込んだ意図があったのだと考えられます。

彼の作品には、独自に解釈した聖書の引用が多く記述されています。カトリックでも、プロテスタントでもない、彼自身によって信じようとした神の存在がそこにがあり、彼の強い求道精神が導いていたのだと見ることができます。作品のなかには、上記の人生が随所に素材として現れ、背徳感や頽廃思想が滲み出ています。このような、頽廃を自ら求める姿は、彼の心の芯に確固たる思想が根付いていたからだと考えられます。自分を人間失格者であると、そしてそれを求めようとする思考には、太宰の生い立ちが強く影響しています。


津島家という貴族として生まれた彼は、全てに満たされた環境を見て、この先には衰退しかないのだという考えが頭を過ります。奪われる者、壊される者、貴族がそういった対象として見えた彼は、いつ訪れるともわからない恐怖に取り憑かれます。読み漁った芥川龍之介やプロレタリア文学からは、悲痛な民衆の声と、持つ者への敵意が伝わってきました。そして事実、農地改革によって全てを取り上げられた津島家を見て、これこそが為されるべき鉄槌であったと確信を抱きます。太宰は、革命を起こされる側の人間としての理解を持ち、そこに対して正当性さえ認識していました。このような革命を望む被革命者としての思想は、すでに手にしていた求道精神によって裏付けされ、自らを頽廃へと導くことが彼自身の為すべき革命行為であったのだと、太宰自身は理解して作品へと思いを昇華させていきました。


こうした彼自身が執筆した作品には、彼の持つ「運命論」とも言える思想を随所に埋め込んでいます。また、頽廃を求めるものとしての「堕落者」としての自身の投影をも試みています。彼の作品には幾つも彼自身の経験や心情が反映している点も、このことが影響しています。しかし、彼の作品には日本の自然主義文学のような赤裸々な告白を中心に据えたものはなく、感傷や同情といったものから寧ろ遠ざけようとする描写が多く見られます。自分が頽廃を望み、堕落を望んだからこその状況であり、それは被革命者が受けるべき罰とも言える運命であると主張するかのようです。こうした既成の倫理に自ら反しようとする行動を正当化した姿勢を、太宰自身は「無頼派」と呼びました。彼は同情から遠ざかるように、根底に告白するかたちでその思想を作品に織り込みました。


社会主義に傾倒し、プロレタリアに賛同し、それらを「貴族」である津島家に否定された太宰は、自らが抱いた思想を否定され続けました。この苦悩は、自らが社会革命に手を染めることが叶わないならばと、自己を抹殺する頽廃を選んでしまいます。本作『斜陽』の主題に置かれた「革命」は、自身の身代わりである中心的な登場人物に委ねられ、それぞれの行末を提示しています。弟の直治は青春期の姿を、母親には幼年期の姿を、語り手の姉には革命を起こして頽廃を求める姿を、太宰は貴族の没落劇に隠し込むように自身の告白を記しました。

弟の麻薬中毒と貴族であるという羞恥心は、終幕で明確に綴られています。貴族に嫌悪感を抱きながら、自身から溢れてしまう貴族としての振る舞いと意識に耐えられず、弟は激しく苦悶します。一方で、没落していく身の回りを受け入れることなく、また抵抗もしない母親には、無知な貴族としての結末が据えられています。双方とも、太宰自身が生涯を通して苦しんだ自己嫌悪の情が根源にあり、それぞれに彼が描く「こうあるべき」結末が用意されています。

革命者である姉は、前述の愛人である静子が投影されており、子を宿した点や認知した点は事実を元にしています。貴族の子が頽廃を求めて革命を起こす熱量や、社会的貴族の価値観に対する厭悪の熱情は、こうした現実的な描写が拍車を掛けて有無を言わさぬ説得力を示しています。


太宰の文章は、とくに戦後において、柔軟な文体が特徴であると言われています。これは彼自身が意識して取り組んでいたことで作品にも記されていますが、戦後に浸るべき文体は「軽み」であると断言しています。過剰な漢字の使用を避け、句読点をこまめにおいて、読み手が軽みを感じるように工夫されました。

 

この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。

太宰治『パンドラの匣』


戦後、津軽より東京に帰ってきた太宰は、敗戦の跡を目の当たりにし、強烈な怒りを覚えます。打ち荒れた街に文化の影は無く、目の前を飢餓が埋め尽くし、再び自分は貴族の名に守られたことを悟りました。復興しようとする文化によって、やがて文士たちも息を吹き返し、それぞれが思想を持って寄り集まり、各所で文芸サロンを開いていました。しかし、掲げる思想に誇大な印象を得た太宰は、これら全てのサロンを厭悪します。

 

私はサロン芸術を否定した。サロン思想を嫌悪した。要するに私は、サロンなるものに居たたまらなかつたのである。
いまではもう、社会主義さへ、サロン思想に堕落してゐる。私はこの時流にもまたついて行けない。
日本の文化がさらにまた一つ堕落しさうな気配を見たのだ。このごろの所謂『文化人』の叫ぶ何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにほひがしてならない。

太宰治『十五年間』


目の前の惨状を見ようとしないサロンの姿勢に、現状を理解して伝えようとしない報道姿勢に、太宰は怒りを露わにしました。文化人を気取る者たちの馴れ合いとしてのサロン、そのように目に映った太宰は、この社会そのものを厭悪し、自己の革命が必須であることを確信しました。彼が自らを親の仇のように傷付けて生み出した作品は、彼が起こそうとした革命の一端であり、そこには強い覚悟と思想が込められています。しかし、それでも、太宰は他人に情を掛け続けました。彼は心底、人間を嫌っていた訳ではありませんでした。

 

ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。

太宰治『斜陽』


貴族の生まれと斜陽貴族の生まれ、共に徴兵を病で逃れ、共に身を賭して社会を憂い、共に自死を選んだ二人の作家、太宰治と三島由紀夫は意外と多くの共通点を持っています。しかし、それぞれが相容れなかったことは残された作品からも理解できます。それでも、違った形で交友があったなら、まだ見ぬ理解の上で、二人に違った未来があったのではないかと考えてしまいました。太宰治の『斜陽』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『氷』アンナ・カヴァン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

異常な寒波のなか、私は少女の家へと車を走らせた。地球規模の気候変動により、氷が全世界を覆いつくそうとしていた。やがて姿を消した少女を追って某国に潜入した私は、要塞のような〈高い館〉で絶対的な力を振るう長官と対峙するが……。迫り来る氷の壁、地上に蔓延する略奪と殺戮。恐ろしくも美しい終末のヴィジョンで、世界中に冷たい熱狂を引き起した伝説的名作。


芸術としての文学は、思想や哲学を主題に置いて詩や散文が書かれますが、サイエンス・フィクション(SF)などの大衆小説を基盤としてこれらの主題が織り込まれるものを、アメリカでは「スリップ・ストリーム」と呼ばれています。最近では「スペキュレイティブ・フィクション」と言われる想像性豊かな非現実世界を描く分野にも影響を与えており、1960年代のSFにおける「ニュー・ウェーブ」の流れの延長線上に位置します。本作『氷』は、この「スリップ・ストリーム」に分類されることがあり、実際に「英国ニュー・ウェーブ」の代表作家であるブライアン・オールディスやJ・G・バラードによって賞賛されています。しかしながら、本作はそういった「ニュー・ウェーブ」の延長線上にはどうしても収まらない作風と印象があり、そこには作者アンナ・カヴァン(1901-1968)の壮絶な人生と思考が関わっています。


英国で醸造業を営む裕福な家庭の一人娘であったカヴァンは、幼少期から西欧諸国を渡り歩いて過ごしていました。この両親は娘にあまり関心を払わず、カヴァンは充分な愛情を受けることができませんでした。一家がアメリカへ移り住み、カヴァンが十一歳のとき、経済的な困難が無かったなかで、父親は船首から身を投げて自殺してしまいます。精神的な不調が原因とは目されますが、カヴァンの生活はここから一層に厳しいものとなっていきます。母親は父親以上にカヴァンを蔑ろにし、育児放棄とも言える環境に置いて、自らは自由に活動をしていました。成長したカヴァンが進学を希望すると、彼女の意思を無視した母親は、強引に十歳差の男性と結婚させてしまいます。そして、この男性は母親の元恋人でした。暴力的で支配的な結婚生活はカヴァンを社会から隔離させ、彼女は執筆活動と生まれた息子に神経を注ぎました。当然の如く結婚生活は破綻し、カヴァンと息子は英国へと戻ります。


カヴァンはロンドンで暮らしていましたが、そこで執筆を行う傍ら、芸術工芸学校へ通って絵画を学びました。生涯を通して、彼女は執筆と絵画を継続しました。このころ、カヴァンはフランスのリビエラへ定期的に出掛けていました。高級な保養都市として知られるこの地で、彼女は精神を落ち着かせるために通っていたのだと考えられます。しかし、この地で癒しだけでなく、生涯を苦しめるヘロインとも出会います。いわゆる現代の鬱病の治療としてモルヒネを処方されていましたが、出会った男性の誘いもあり、彼女はヘロインの常用者となっていきます。当時は、ヘロインを危険視はしていましたが、違法ではありませんでした。1929年になると、彼女はヘレン・ファーガソン名義で『魅惑の輪』を発表し、以後も数作を出版しました。変わった作風ではありましたが、どちらかと言えば基本的なビルドゥングス・ロマン(教養小説)で描かれていました。


作家として歩み出していた彼女でしたが、再婚相手の不倫が明らかになり、精神を追い詰められたカヴァンは自殺未遂を起こしました。療養のためにスイスの病院へと移りましたが、鬱病は酷くなる一方で、自殺未遂を何度も繰り返し、ヘロインからも抜け出せない状態になりました。1940年にアンナ・カヴァン名義で出版した『アサイラム・ピース』はこの激しく乱れた精神状態で生み出されたもので、奇妙な精神世界と崩壊、監禁拘束と虐待や疎外感などが散りばめられた短篇集です。これはペンネームだけでなく、作家としての姿勢、作品を覆う作風などが劇的に変化しており、アンナ・カヴァンという作家が新たに生まれたとも言える作品でした。こうした実験的とも考えられる作風を、女性の性愛小説を描いたフランス作家アナイス・ニンは「夜の言語」と呼び、本作は文壇で大きく話題となりました。


作家生活も安定し始める一方、各国では第二次世界大戦争が激化していき、カヴァンの息子も徴兵されてしまいます。そして、1944に息子の戦死が告げられると、カヴァンの安定しかけた精神は崩壊し、鬱病とヘロイン中毒が激しくなっていきました。さらに、これまで暗黙の了解で認められていた処方箋としてのヘロインも1950年代に入ると徐々に規制されていきます。カヴァンは正式に違法となる前に必死になってヘロインをかき集めました。これより彼女は、執筆と絵画、鬱病とヘロイン中毒という、不安定な精神での創作活動の日々を送ります。当然ながら、そのような生活は身を蝕むものとなり、1968年にカヴァンは自宅で死を迎えました。本作『氷』は死の前年に発表された作品です。執筆中の作品名は『冷たい世界』でした。


カヴァンは、美しい文体で頽廃的な作品を生み出したデューナ・バーンズや、曖昧性や不確実性を肯定するモダニズム文学の代表作家ヴァージニア・ウルフなどと比較されることが多くあります。とくに、バーンズとは悲劇的な生い立ちが齎す世界に向けた「頽廃的な価値観」と「歪められた性愛感情」が共通しており、それぞれの作中の文体に漂う不穏さには重なるものが感じられます。双方の作品に通底する主題は「普遍的な頽廃と呪縛」であると考えられ、登場人物には現実性よりも象徴性(iconic)が優先されていると見受けられます。こうした厭世観とも言える厳しい社会への眼差しは、苦痛を伴った人生を歩んだからこその価値観形成であったと言えます。

本作『氷』に関して、カヴァンは「繰り返し襲われる悪夢の一つ」と捉え、写実性を拒否した現代の寓話であると告白しています。傷ついた彼女の精神は不眠症を引き起こし、症状を抑えるためのヘロインは悪夢を呼び起こしました。進行する鬱病は心の傷を大きく広げ、精神へと与える打撃は現実と夢の両方で彼女を苦しめ続けます。鬱病とヘロインによる意識混濁は現実と夢の境界を曖昧なものとし、彼女が見る景色は起きていても寝ていても悪夢に染まっていきました。恐るべき感覚として、彼女は作家として、この状況に僅かながらも楽しさを覚えていました。


『氷』は、核を用いた戦争によって地球に異変が起こり、巨大な岩の氷棚が地の果てから覆い尽くそうと迫る終末的な世界が舞台となっています。語り手の男性は某国の諜報機関に所属していると思われる言動で、銀髪のアルビノ少女を追い求めて救い出そうとします。少女は長官と呼ばれる彼女の夫に束縛され、監禁状態に置かれていることがわかります。語り手は少女との恋人同士であった記憶を頼りに、彼女を長官の支配から逃れさせるため、迫り来る極寒の氷棚をも恐れずに追跡します。


物語はこのように進みますが、本作の文章構成は非常に複雑で、読者の理解を避けるように綴られていきます。情景描写が続いたかと思えば、何の前触れもなく語り手の回想が繰り広げられ、突如として幻覚的な妄想が描かれると、語り手が知ることのできないはずの場面を語り始めます。また、固有の人名や地名が出されないため、物語の筋書きは一層に捉えづらく、読者は不安な感情を煽られ続けます。しかし、繰り返される語り手と長官の追走、語り手と少女の追走、氷と人類の追走によって、やがて抽象的な印象の塊が読者のなかで構成されていき、形のある悪夢としての存在が目の前に見えてきます。予兆なく起こる場面の転換は悪夢の性質を、語り手が知り得ない場面の描写は精神の分裂を感じさせ、読者はカヴァンが見せる「頽廃的な悪夢の片鱗」を読み取ることになります。カヴァンは、『アサイラム・ピース』で表出させた幻覚と現実の曖昧な境界線を、本作『氷』によって自らが向かい合い、意思を持って芸術作品として完成させたのだと言えます。


カヴァンが描く頽廃的な終末世界は、確かに核や自然の異常を描いていますが、彼女は決して科学について書いているわけではありません。彼女の作品は、SFにおける「ニュー・ウェーブ」が描く主題とは大きくかけ離れています。同様に、スリップ・ストリームのような母体を大衆小説に置く分野とも一線を画しています。世界を覆い尽くそうと迫る氷には、科学的な異常気象の根拠は求められず、そうではなく終末が迫る精神世界が反映されています。カヴァン自身に迫る精神世界の終末を、本作の「襲いくる氷」で表現し、前触れの無い場面転換で「襲いくる悪夢」を表現しています。そして、彼女は恐怖や悪夢を受け止め、偏執的な不信感(paranoia)や鬱屈した精神世界さえも一つの要素として織り込み、本作を彼女の心のメタファーとして構築してしまいました。完全に個人的な精神から生み出されたものだからこそ、描かれる頽廃性と恐怖は他の作品よりも不穏に感じられるのだと思われます。


そう考えると、少女の置かれた状況や受ける屈辱など、読者の捉え方が変わってきます。彼女は常に所有物のように描写され、度を超えた性的な暴行や拷問、さらには人間としての自由や尊厳は全て剥奪されています。被支配者である少女は、語り手からも長官からも逃げ出そうとしています。救いの手を差し伸べる語り手から逃げる点、そして支離滅裂な語り手の思考と回想、これらを踏まえると語り手の記憶に疑いを向けざるを得なくなります。少女との恋人時代は事実なのか否か、少女と語り手が優しく語り合った記憶は事実か否か、これらを否と見た場合、少女が見せる恐怖の表情と逃避行動は仮説を裏付けるものへと変化します。語り手と長官が同一の存在ではないかという疑問も、象徴的な意味では同じだと言わざるを得なく、第三者視点のような語り手の知り得ない描写も、語り手と長官の同一性を暗に示しているとも言えます。こうした支配的で攻撃的な男性の描写は、カヴァンの「歪められた性愛感情」が生み出した印象的な男性像であり、少女が見せる嫌悪感と導かれる終末には、然るべく彼女の厭世観が込められています。


本作の断片的な表現技法は悪夢の展開だけでなく、読者へ視点の転換をも強制しています。突如として切り替わる場面では、物語の整合性は無くとも、そこには目を向けるべき視点が提示されています。執着心、支配欲、破壊衝動、攻撃性、恐怖、精神分裂、逃避行動、それぞれの場面で描かれる感情表現は、人間の持つ倫理を超えた本能的なものであり、その被害者(少女)が抱く厭世的で頽廃的な感情は、カヴァン自身の精神と交わっています。本作は、彼女の精神の根源を曝け出した作品であると言えます。

 

少女は強烈な寒さに耐えられず、ずっと震えつづけて、ヴェネツィアンガラスのように砕けていった。その崩壊の過程は実際に見て取ることができた。少女は次第にやせ細り、さらに白く、さらに透明に、亡霊のようになっていった。この変容は何とも興味深いものだった。少女は完全にエッセンスだけの存在となり、動くことすらなくなった。


物語を追いかけて楽しむような作品ではありませんが、そこに込められた苦悩と頽廃性は、読者に強烈な印象を与えてくれます。カヴァンの精神を垣間見るような作品だと思います。文学の在り方に新たな分野を開拓したアンナ・カヴァンの『氷』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『十五少年漂流記』ジュール・ヴェルヌ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

14歳のゴードンを頭に15人の少年たちだけを乗せたスクーナー船が、ふとしたことから荒海に出てしまった。大嵐にもまれたすえ、船は、とある岸辺に座礁。島か大陸の一部かもわからないこの土地で、彼らは生きるためにさまざまな工夫を重ね、持前の知恵と勇気と好奇心とを使って冒険に満ちた生活を始める……。〝SFの祖〟ジュール・ヴェルヌの手になる冒険小説の完訳決定版。

 

ジュール・ヴェルヌ(1828-1905)は、1863年に発表した出世作『気球に乗って五週間』で冒険小説作家としての地位を築き、非常に多くの作品を生み出しました。その作品群には、当時の科学技術と進歩の期待が綿密に織り込まれており、この点からサイエンス・フィクションの祖としても知られています。彼は五人兄弟の長男で、厳格な弁護士の父親に育てられました。教育はカトリック信仰に沿った学校で受け、彼の作品にもその教えは随所に現れています。普遍的で教示的でさえもある彼の作品は、フランス国内にとどまらず多くの言語へ翻訳され、諸外国へと広められました。外国語に翻訳された作家としてはアガサ・クリスティに次ぐ二番目の翻訳数で、その数はウィリアム・シェイクスピアを凌いでいます。


ヴェルヌがパリへと移り住んだ1848年は、二月革命(三度目のフランス革命)の最中でした。国王ルイ・フィリップは追放されて第二共和政が樹立、その後も激しいデモが継続的に行われたため、暫定政府は軍による武力を行使しました。銃弾や砲弾で穴だらけとなった家屋、粉々になったバルコニーや看板、至る所に見られる砲弾の跡など、ヴェルヌは恐ろしい光景を目の当たりにします。そして追い打つように1849年のパリを襲ったコレラの流行は、ヴェルヌの心に更なる恐怖を植え付けました。この頃、学業を優秀な成績で収めていた彼は、外の激しい社会から離れ、熱心に文学作品を読み耽りました。シェイクスピアやモリエールといった古典からアレクサンドル・デュマまで、多くの作品を幅広く読みましたが、最も彼に強い影響を与えたのはヴィクトル・ユーゴーでした。


ヴェルヌは自らも戯曲の執筆を学業の傍らで行っていましたが、その姿を見た叔父が文学サロンに誘いました。サロンでは暴動や争いといった喧騒から遠く離れた空気が漂い、彼に安らかな憩いを与えました。サロン参加者の繋がりで、ヴェルヌはデュマと知り合うことになります。作品から影響を受けていた彼は熱意を持って言葉を交わすと、デュマの息子と引き合わされました。この息子は『椿姫』を書いたデュマ・フィスで、ヴェルヌは意気投合し、合作で喜劇を上演するなど、彼の活動は少しずつ作家の道へと進められていきました。父親が求める弁護士の道も進んではいましたが、やはりヴェルヌは執筆したいという欲が勝ち、少年のころに抱いた「空想での冒険」を継続させるため、文学の道へと歩み続けていきます。


ヴェルヌは十一歳のとき、従姉妹のカロリーヌ・トロンソンという女性に恋心を抱いていました。なんとか男性として見られたい、喜ばせたいという気持ちで珊瑚のネックレスを贈ることに決めました。しかし、小遣いを貯めて店で買うわけではなく、自らで珊瑚を集め、これを加工して贈ろうと考えました。家の近くに珊瑚を取れる場所がないため、彼は一人、インドへ向かう商船に密かに潜り込んで旅立とうとします。その頃、ヴェルヌの不在を不審に思った父親は方々を探し、出発間際にようやく彼を発見して、大目玉を喰らわせました。そして、ヴェルヌは「冒険は頭の中だけ」と約束します。突拍子もない発想と冒険心ですが、この熱意こそがヴェルヌの作家人生の創作源でした。そして、前述の『気球に乗って五週間』が大いに受け入れられ、年に一作を超える速度で作品を発表し続け、フランス文学に欠かせない大作家へと大成しました。


1871年の普仏戦争の敗北に伴ってフランス第二帝政が崩壊すると、民衆はボナパルティズムを嫌悪し、共和主義を否定しました。新たな選挙で民衆は改めて君主政治を望み、議会では王党派が再び権力を得ます。これは、1789年に起きた革命の原動力となった「権利と自由を保障する立憲君主主義」を呼び起こすもので、オルレアニスム(この政治思想を率いたオルレアン家に賛同する人々)が息を吹き返す形になりました。ここにヴェルヌも賛同し、生涯を君主主義者として過ごしました。

しかしながら、彼の根源的な思想には共和主義も強く息づいており、オルレアニスムとの共存は成し得ないものかと苦悩して生きることになります。そして、1894年のドレフュス事件(ユダヤ系の陸軍大尉がドイツへの密告者であるという容疑で軍政が起こした冤罪事件)により、民衆は軍政に対する疑念を大きく強めることになりました。エミール・ゾラが『私は告発する』という公開状を突きつけたことで、事態は一挙に大統領糾弾への流れとなり、ヴェルヌもゾラの行為に賞賛の意を示しました。この事件により、ヴェルヌが晩年にかけて反軍国主義の姿勢を貫くことになりました。


ヴェルヌが本作『十五少年漂流記』を書き始めたのは、世に広まる少年冒険小説という形式を完成させるためだとしています。本作はヴェルヌが発表した作品のなかでも、豊かな冒険心と科学知識が活かされ、さらにはヴェルヌ自身の追い求める思想が情熱的に描かれています。そして、未知の世界へ向かう少年たちを通して、ヴェルヌは人生の本質的な価値とは何かを、強い意志を持って訴えています。

「残されたのは、島に置き去りにされた八歳から十四歳の子供たちが、国籍の違いによって引き起こされる情熱の中で生き残るために奮闘する姿を描くことだった。」

本作原版『ロビンソン寄宿学校』序文


ニュージーランドのオークランドにある同じイギリス系寄宿学校に通う八歳から十四歳までの生徒十四人と十二歳の黒人少年船員一人が、休暇中に島巡りクルーズに出かける予定でした。気の早い少年たちは前夜から船に取り込んで楽しんでいましたが、彼らの気付かない間に或るアクシデントがあり、少年たちだけで広大な太平洋を漂流する事態になりました。数週間の船上での悪夢の後、彼らは見知らぬ無人島と思しき海岸に漂着しました。彼らは頼る大人もなく、自分たちで生き延びなければならない運命と悟り、いずれオークランドへ帰るため、知識と能力を持ち寄って島内生活を始めます。島では、自分たちを取り巻く探検をし、定住できる住処をつくり、襲いくる嵐や獣との試練を受け、偏見や意見の違いから仲間の分裂が起こり、そして外部からの脅威が到来します。果たして、彼らは団結して家族の待つ我が家へと帰ることができるのか、という物語です。


年長のアメリカ人であるゴードンは、率先して年少の子供を守ろうと尽力します。ときに優しく、時に厳しく、自身が思い描く理想的なリーダーを務めようとした彼は、少年たちの信頼を得て島内での大統領に選ばれます。次に年長のブリアンはフランス人で、争いや競い合いを嫌う共和的な生活を望む少年です。起点と勇敢さが特徴で、正義を心に持つ優しい人物です。また、ブリアンと同年のドノバンは誇り高い地主の息子で、狩りと銃の扱いに大きな自信を持っています。しかし、傲慢さと嫉妬深さが強く、特に同級のブリアンには事あるごとに敵対します。ゴードンとブリアン、そしてブリアンの弟のジャック以外は、全てイギリス人です。小さな諍いや困難はありましたが、クルーズのために積み込んでいた大量の食材と調理器具、さらには書物や大工道具が揃っていたおかげで、彼らは原始的な環境に放り込まれながらも、さほど不自由なく長期間を過ごすことができました。


ヴェルヌは、彼ら少年たちに象徴的な性質を備えさせました。ゴードンには君主主義を、ブリアンには共和主義を、ドノバンには軍国主義を、それぞれの性格に反映させて行動を描いています。また、ドノバンの性格には当時のフランスにおけるイギリス人への嫌悪感も含めています。ナポレオン一世の死後、フランスではイギリス人を魅惑的と感じる気持ちを持つ反面、憎悪の感情も同様に持ち合わせていました。貴族的な傲慢さ、嫉妬深さ、支配欲の深さなど、これらがドノバンの性格に色濃く反映されています。また、ブリアンにも同様にフランス人が理想的と考える平等で共和的な思考が、彼の性格に反映されています。


物語では、ドノバンの支配欲とブリアンの共和的行動が対立の軸となっていますが、生死をかけた冒険のなかで彼らは気持ちを通わせ、互いに尊重し合う関係へと発展します。この和解から、二人は今まで以上の力と魅力を発揮し、外部からの襲撃では大きな活躍を見せます。この展開には、ヴェルヌが望む「思想の調和」が込められています。君主主義、共和主義、軍国主義、これらが手を取り合って共生することができれば、いかに素晴らしい力を発揮し、いかに大きな幸福が得られるのか、そのような思いを或る意味で教示的に描き、当時の若い読者へ啓発していたのだと考えられます。

 

そんな小さなことで──と思うかもしれない。だが、少年たちの生活は社会の縮図である。人間は、子供の時から、一人前の大人のように扱ってもらいたいものなのだ。


この教示的で幸福な物語の展開は、ウィリアム・ゴールディングを始めとして多くの批判を受けました。しかし、彼らの長い島内生活からは、溢れる探求心を、冒険への意欲を、そして今を精一杯生きるという勇気を与えてくれています。人生の本質的な価値を、少年たちの冒険譚で伝えようとしたジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『盲目の梟』サーデク・ヘダーヤト 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

ペルシア語文学史上に現われた「モダニズムの騎士」による、狂気と厭世に満ちた代表作を含む中短篇集。「人生には徐々に孤独な魂をむしばんでいく潰瘍のような古傷がある」──生の核心に触れるような独白で始まる「盲目の梟」。筆入れの蓋に絵を描くことを生業とする語り手の男が、心惹かれた黒衣の乙女の死体を切り刻みトランクに詰めて埋めにいくシュルレアリスム的な前半部と、同じ語り手と思しい男が病に臥しての「妻殺し」をリアリスティックに回想する後半部とが、阿片と酒精、強烈なペシミズムと絶望、執拗に反復されるモチーフと妄想によって複雑に絡み合う。ドストエフスキーやカフカ、ポーなどの西欧文学と、仏教のニルヴァーナ、イランの神秘主義といった東洋思想とが融合した瞠目すべき表題作と、さまざまな傾向をもつ九つの短篇に加え、紀行文『エスファハーンは世界の半分』を収める。


1920年にイランの新聞に掲載され、1953年にレージュ・レスコーによってフランス語に翻訳された本作『盲目の梟』は、サーデク・ヘダーヤト(1903-1951)がこれまでのイラン文学を打ち壊した歴史的的傑作の一つとされています。イラン文学では全て韻文で作品が発表されていましたが、ベルギーやフランスで培った文才を発揮したヘダーヤトは、イラン初の散文小説を発表しました。新たな境地を文壇に突きつけたヘダーヤトの作品は、イラン国民に衝撃と熱狂を与え、反発と受容の双方を呼び起こしました。彼がフランスで活動していた際、シュルレアリストのアンドレ・ブルトンが絶賛したように、彼の作品は散文小説という特徴以上に「革新的な芸術性」が顕著で、これまでの古典的な慣習を悉く打ち壊してしまいました。当時の国民は「反小説」といった態度で受け入れながら、やがて「新小説」として定着していきました。特徴を幾つか挙げるならば、物語性の欠如、超現実的現象、不明瞭な過去や未来の描写などが挙げられ、現代でも群を抜いた特殊性を持っています。本作も同様にこれらの特徴を有しており、且つ、そこには独特な「死への渇望」が滲み出ています。


ヘダーヤトは、テヘラン有数の裕福な名門家庭に生まれました。彼が生まれてすぐに、イランでは立憲革命が始まります。これは、イランを支配していたガージャール朝に対し、フランス革命に端を発する自由主義の影響を受けた国民が、民族主義を基盤とした専政反対を掲げ、革命家や宗教家と手を結んで押し広げた革命です。この革命後、勃発した第一次世界大戦争時にはイランは英露に支配され、1925年にはヨーロッパ諸国の戦後の混乱に乗じてクーデターが起こり、ガージャール朝に代わるバフラヴィー朝が開かれ、イランの近代化が加速しました。このような政治的変革を次々と受けたためか、ヘダーヤトはベルギーやフランスへと留学に国外へ向かいます。フランスでは反戦芸術運動であるシュルレアリスムが隆盛していましたが、彼の持つ独特の文才と価値観が彼らに呼応し、独自の作品を創作するに至りました。彼が触れた外国文学は彼の価値観を揺るがし、彼の奥深くに潜んでいた恋愛観や死生観を水面へと引き上げました。ヘダーヤトは、「死」を渇望していました。実際に、何度も自死を試み、1951年の彼の最期はフランスの貸しアパートでのガス自殺でした。


ヘダーヤトの厭世的な死の渇望は、作品のなかでも浮かび上がっていますが、本作『盲目の梟』は、これが主題となっている作品です。シュルレアリスムの文体で描かれた中篇ですが、そこには恍惚と倦怠、幻想と現実、真実と虚偽が入り乱れて描かれています。語り部である「わたし」が阿片を常用していることから、思考は支離滅裂であり、不可思議であり、超現実的である描写が見られるとも捉えられますが、その原動力は「死への渇望」であり、死の定義を模索しています。心理小説とも言えるほどの多くの心理描写は、幻想と現実が交錯し、精神が不安定に起伏を見せています。現在から過去へ、過去から現在へ、そのように出来事を語っているかと思えば、意識が混濁したように、感情の乱れによる怨嗟が膨れ上がって死へと直結する思考が生まれるなど、読者は精神制御のできていない意識を覗き込んでいるような印象を与えられます。入り乱れる虚無感や自殺願望、孤立や厭世感情は、語り部が与えられた不条理な人生経験から齎されたものとも考えられますが、やはりそこには、ヘダーヤト自身が持つ感情や思考が強く投影されていると見ることができます。


社会から隔絶した商業画家は、長いあいだ同じ絵柄を筆箱に描き続けています。蓮の花を持った天女のような少女、腰の曲がった老人、これらの同じ構図を何度も繰り返して描いています。厭世的な画家は家の中から穴を通して、この絵と同じ構図を実際に目の当たりにしました。何としてもこの少女に会いたい、探し出したい、そのような感情が芽生えたのも束の間、あったはずの家の穴がいつの間にか無くなってしまいました。語り部は精神を病んでいます。従姉妹であった妻の非常な裏切り、乳母の優しさに見え隠れする死の教唆、父か叔父かもわからない老人など、厭世的な眼鏡を通したためか、異様な言動を見せる登場人物たちに「わたし」の精神は神経質になっていきます。精神の病と認識されている「わたし」は阿片を常用しています。意識の混濁と爆発寸前の欲望、死の渇望と阿片の効果が複雑に合わさり、同じ景色を同じ文面で繰り返し、過去と現在の境界線が無くなっていきます。出来事は現実なのか夢なのか、「わたし」もわからないまま思考は進められ、死で溢れかえった町、遺体となった少女の身体の切断などが描かれると、老人が不快な笑いとともに付き纏ってきます。しかし、自分の絵の中にこそ少女がいることに気付いた「わたし」は、阿片に与えられる恍惚の世界で、精神の死こそ「真の死」であると気付きます。


求め続ける「死への渇望」は、物語のなかで具現化していきます。数少ない登場人物は、幻想であれ現実であれ、その描写に濃い死の印象が付き纏います。彼らの死は、意識混濁の語り部が肉体的な死の描写を事細かに伝えます。しかし、物語が進むにつれて、語り部の存在は実体が薄まり、精神的な存在へと変化していきます。死の渇望者は、肉体が有ろうが無かろうが、人間としての精神崩壊こそが「真の死」であるという境地へと辿り着きます。魂は肉体ではなく精神に宿る、だからこそ精神の死は魂の死である、そのようなヘダーヤトの思想が滲み出ているようです。


出版当時、未成年は本作を読むことはできないという、倫理的な問題と政治的な検閲によって、本作は多くの制限を受けていました。しかし、そのような政治支配、あるいは政治的混乱の最中に国民が抱く厭世的な感情は、作品と同調し、熱狂的な支持者を生み出しました。孤立、欺瞞、不信、異端など、国に対して負の感情を持った社会は、この「死の渇望者」を大いに受け入れたことは、皮肉的でもあります。そして、ヘダーヤトの自死によって、本作は強い思想の作品として見なされるようになりました。


梟は知恵や知識の象徴として知られています。しかし、盲目となった梟はその象徴を失い、知恵や知識、つまりは「理性」を失うことに他なりません。必要なものを失った梟は厭世的な印象を与えます。同様に、シュルレアリスムは戦争を引き起こす「理性」を否定しています。戦争の世を厭う姿勢は、ヘダーヤトの抱く厭世的な感情と「死への渇望」を飲み込んで重なり合い、本作の精神の死を強く強調していきます。ヘダーヤトは芸術において、新たな形式を生み出すだけでなく、新たな思想を訴えてもいました。

 

昔の人間の行動や思想、願望や習慣はこのお噺という手段を通じて、後世の人々に伝えられて来たのではあるまいか。このお噺は我々の生存にとって必須欠くべからざるものの一つなのではないか。幾千年となく、人類は同じようなことを喋り、同じようにセックスし、同じように子供じみた悩みを抱いてきたのだ。人間の一生というのは、始めから終わりまで一つの面白可笑しいお話、信じられないほど馬鹿馬鹿しいお噺にすぎないのではないか?私が今書いているのだって自分のお話なのではないか?ものを書くというのは、挫折した願望にとっての排け口であるにすぎない。所期の目的を達し得なかった願望、作家自らが受け継いだ知力の範囲内で抱かれた願望にとっての。


ブルトンが二十世紀の二十の傑作の一つに選び、ヘンリー・ミラーが「いつか自分が書きたいと思うような本だ」と絶賛した本作『盲目の梟』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『これについて』ウラジーミル・マヤコフスキー 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

1923年、パリから戻った詩人は、総合芸術誌「レフ」を組織する。同人にブリーク、アセーエフ、トレチャコフ、ロトチェンコ。創刊号には、不実の恋人リーリャとの「自発的監禁」中に書き上げた『これについて』が全文掲載される。日本翻訳家協会特別賞。

 

ぼくはもういちど額で、ぼくはもういちど世相に、ことばの圧力をかける

『これについて』を書いた。個人的な動機によって、一般的な世相を書いたのである
マヤコフスキー(詩人)


二人は協定をむすび、正確に二ヵ月だけ離れて暮す約束をする。その期限が切れるのは一九二三年二月二十八日である。マヤコフスキーはルビャンスキー街の部屋に閉じこもり、熱に浮かされたように愛の叙事詩『これについて』を書きつづける
小笠原豊樹(詩人・翻訳家)

この詩は、友人たちにすら理解されず、文学上の味方からも敵からも悪評を受けたが、マヤコフスキーはこの詩によってロシア詩の財産をまた一つふやしたのだった
イリヤ・エレンブルグ(作家)


1910年代、既成の概念や伝統を打ち破ろうとする前衛芸術がヨーロッパ全土で隆盛しました。アヴァンギャルドと呼ばれるこの運動は、芸術が因襲的なものであってはならないという「芸術の定義」を呼び覚ますもので、フランスの詩人ロートレアモンやランボオらの功績に大きく影響を受けています。この運動は広範に展開され、ヨーロッパ諸国が各国の芸術を反映させて、それぞれの新たな芸術世界を切り開いていきました。これはロシアにおいても例外ではなく、革命と相まって激しい芸術対立を引き起こします。

この時代のロシア詩人たちを「銀の時代」と括ることが多いですが、偉大な詩人を多く輩出した反面、激しい国内情勢や革命との連動などによって、社会は混沌としていました。このなかで「未来派」と呼ばれる詩人たちは、特に社会に向けて、強い口調で「変革」を求めました。彼らは、芸術の破壊者として知られています。思想を同じくする詩人ヴェリミール・フレーブニコフや画家ダヴィド・ブルリュークらが集まり、ペテルブルグで発刊した『裁判官の飼育場』というパンフレットが未来派の始まりでした。既存の芸術概念を破壊しようとする一団の熱量は、銀の時代においても際立ったものであり、より攻撃性の強い主張でもありました。その攻撃性と活動手法により分裂も見られましたが、フレーブニコフとブルリュークが中心となった「ギレヤ」というグループが改めて結成され、アレクセイ・クルチョーヌイフ、ウラジーミル・マヤコフスキー(1893-1980)が参加しました。そして、1912年に刊行した『社会の趣味への平手打ち』によって彼らの理念が明確に示されました。

 

われわれの予期せぬ最初の新しい言葉を読む人々に。
われわれだけがわれわれの時代を代表する者である。言葉の技術でもって時代の角笛を鳴らすのはわれわれである。過去は狭苦しい。アカデミーやプーシキンは象形文字よりもわかりにくい。
プーシキン、ドストエフスキイ、トルストイなどを現代の汽船からほうり出せ。(中略)
つぎのような詩人の権利を尊ぶことをわれわれは命令する。

1.自由に派生した言葉で辞書の語彙を増大させること(言葉の新方法)。
2.既成の言語を徹底的に増悪すること。
3.諸君が風呂屋の箒で作った安物の栄冠を、恐怖をもってわれわれの誇り高い額から払いのけること。
4.口笛と憤慨の海のただなかで、「われわれ」という言葉の塊の上に踏みとどまること。

そうして、たとえわれわれの詩行に,諸君のいう「良識」や「よい趣味」などの不潔な刻印がいまだ残っているとしても、そこには、すでにそれ自体に目的のある(自由な)言葉の新しい未来の美の最初の稲妻が閃いているのだ。

はじめて学ぶロシア文学史

 

「ギレヤ」グループはこれ以降も激しい主張を込めたパンフレットを刊行し続け、これに感化された「詩の中二階」「遠心分離器」などのグループが登場し、未来派はロシア芸術界で注目を集める存在となっていきます。彼らによる社会に向けた詩の急進的なアヴァンギャルド運動は、特に若い世代の芸術家たちを飲み込み、停滞した芸術界に反抗した態度を示し続けました。しかし、その激しさと方向性はヨーロッパ諸国と異なり、ロシア未来派は独自の発展を進めていきます。フランスではダダイズムからシュルレアリスム、ドイツでは表現主義からの発展、イタリアでは独自の未来主義へと変貌を遂げ、いずれも「芸術の在り方の探求」という姿勢に違いはありませんでしたが、ロシア未来派は国家の問題がアヴァンギャルド運動に大きく関わったことでアヴァンギャルドの質を変化させていきました。


ロシア未来派のアヴァンギャルド運動は、詩人と画家が活動をともにし、詩と絵画の双方に同様の芸術的な影響を与えたことが特徴だと言えます。未来派は、芸術の意義を問い続けました。創作における手法や思考は「言語の意義」「思想の多様な表現」を発端として、それぞれの芸術家が表現対象の深淵を暴こうと試みました。詩人のフレーブニコフ、クルチョーヌイフ、そしてマヤコフスキーはいずれも絵画を学んでいたこともあり、また、画家のダヴィド・ブルリュークも文筆をとっていたことからも、その芸術性には重なった価値観が存在していました。互いに「伝達手段としての芸術」という在り方から疑問視し、表現ができていない隙間のような深淵をこそ表現する「芸術の意義」を問いただそうとします。この思考から、彼らは芸術における新たな言語、新たな意味を生み出していきました。このようなロシア詩人による芸術実験とも呼ぶことができる活動は、フレーブニコフ、マヤコフスキー、そしてボリス・パステルナークらが代表者として牽引し、意義の探求と言語実験を活発に行いました。


ロシア・アヴァンギャルド運動は、目指すべき「既成概念や権威の崩壊」を推し進めていきましたが、ここに十月革命の波が加わります。掛け合わさるように社会変革への主張が膨れ上がり、やがてロシア・アヴァンギャルド運動そのものが社会主義政権の設立を望む内容へと確立されていきました。十月革命を「私の革命」と説き放ったマヤコフスキーやパステルナークといった未来派詩人たち、挑戦的な革新演劇を開拓したフセヴォロド・メイエルホリドやパントマイムなどを取り入れて観客の感情に訴える全体演劇を追求したアレクサンドル・タイーロフなどの劇作家、抽象画の開発者ワシリー・カンディンスキーや色彩の魔術師マルク・シャガールなどの画家、彼らのような世界の第一線で活躍していた芸術家たちが挙ってロシア・アヴァンギャルド運動に合流し、革命政府と芸術家が同じ方向を向くという驚異的な革新の時代を迎えました。革命政府はロシア・アヴァンギャルド運動に携わる芸術家たちを厚遇し、「コミューンの芸術」などの芸術新聞発刊、美術学校などの大幅な改革、メイエルホリド劇場の創設など、大々的に活動の枠を広げてロシア・アヴァンギャルド運動を強化していきます。そして、この運動の大きな中心にいた人物が詩人マヤコフスキーでした。


マヤコフスキーの詩篇は、十月革命を支持した内容であり、その革命は政治と芸術が互いに干渉し合うものとして捉えられ、故に「私の革命」であるという決意と熱量が込められていました。また、マヤコフスキーとメイエルホリドが共同で上演した戯曲『ミステリヤ・ブッフ』では、革命を大々的に祝うような趣向が凝らされており、ロシア社会が革命を迎え入れた様を表現しました。他にも、革命叙事詩『150000000』で明確な彼の視野を開示し、聴衆へ詩の演説を繰り返し行うことで、彼の思想と立場を明確に表しました。本作、革命愛の詩篇『これについて』も、この時期に書かれたものです。彼の詩は革命と共産主義が主題であり、その演説のような調子が社会を変革へと煽動していきました。


マヤコフスキーは詩作を行う手法として、絵画のキュビズムに近いものを用いていました。目に映るものを解体し、自らの主観と主体内部を曝け出して創作した作品は、マヤコフスキー自身さえも解体し、やがて構築した「詩人マヤコフスキー」は、第三者としての存在になっていきます。パステルナークが「詩の対象である詩人が一人称で世界に呼びかける」と話したように、マヤコフスキー自身が詩篇のなかの「マヤコフスキー」を描き、社会と同調した「私の革命」が社会そのものの意義であるかのように訴えかけています。


革命後も勢いよくロシアを席巻したアヴァンギャルド運動でしたが、1924年のレーニン死後、激しい党派政権争いに勝利したスターリンによって、その運命は大きく転換していきます。スターリン自身が詩人であったことから、芸術への関心や知識が豊富で、多くの芸術家に対して好意を持っていました。しかし、政権は社会主義から独裁主義へと変化を望み、政府として芸術を管理下に置いてプロパガンダに利用しようと動きました。ソビエト作家同盟を立ち上げ、社会リアリズムを推し進める政府に多くの芸術家たちは絶望を味わいます。芸術作品は党司令部の意向が全ての基準となり、模範的社会主義者を称揚します。ロシア・アヴァンギャルドによって膨らんだ芸術的進歩は、このようにして悉く崩れ去りました。スターリンは評価していた芸術家、ミハイル・ブルガーコフやマヤコフスキーなどに対して、個別に擁護して党組織に与するよう談判しましたが、彼らはこれに応じず、そのために死を選ぶことになりました。


本作『これについて』は、革命愛が崩される予兆を察知し、社会主義に煽動される社会を嘆いて創作されました。自己を解体した第三者のマヤコフスキー「ぼく」は、七年前の作品『人間』で革命に身を投じるマヤコフスキーを見て怯え、逃げ出します。しかし、マヤコフスキーの分身は至るところに現れて、今の「ぼく」を責め立てます。この増殖と場面の展開は激しい流動性をもって進められ、自らの力では止めることができないことを表し、そこに現れる挫折感と苦悩が熱量を帯びて伝わってきます。押し流されそうになるなかを、自己解体を繰り返して自らの救済の糸口を探ろうとする逃げるような喘ぎは、やがて芸術的苦悩の叫びとなって表出し、読む者へ警鐘を与えるような印象を与えます。この自己救済と社会への落胆が、本作の大きな主題となっています。

 

生きるとは、家庭という名の落し穴に、
生贄として落ちることとは違う。
これからの身内というなら、
少なくとも世界が父親で、
少なくとも母親が大地だ。


スターリンの手が救済的に差し伸べられると、マヤコフスキーは芸術的な死がいよいよ目の前に迫ったことを確信します。革命を望み、革命に愛を抱き、心身をロシア・アヴァンギャルドと同化したマヤコフスキーは、この途絶える道を受け入れることができず、自己救済を銃に求めました。マヤコフスキーをはじめとする1930年代の芸術家たちの多くの死は、ロシア芸術の死であったと言えます。


壮絶な熱意でロシア・アヴァンギャルドを体現したマヤコフスキーは、激動の時代を第一線で駆け抜け続けました。芸術の持つ力と愛を信じた彼の作品は、現代でも力強く叫び続けています。ヴラジーミル・マヤコフスキー『これについて』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『父帰る』菊池寛 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

菊池寛の戯曲は、その文学の特質を最もよく発揮しており、現代でも広く親しまれている。全戯曲から、時代物、現代物、発表年代別などを踏まえて、12作を精選する。戯曲での登場人物たちの明確な姿かたち、生き生きとした台詞、理詰めな劇の構成、人間の心理への作者の的確な観察眼は、今なお新鮮で古さを全く感じさせない。

 

文士として活躍し、「文芸春秋」の創刊、芥川賞や直木賞の創設者として知られる菊池寛(1888-1948)ですが、後世に残したこれらの偉業を成した大きな要因は、日本国内に文芸の存在を定義しようとした彼の意思にあります。作家として、編集者として、文壇の中心で文芸界を作り上げていったとも言える功績の数々は、文学作品にとどまらず、雑誌や映画にも大きな影響を与えました。


早くから文学への道を目指していた菊池は第一高等学校へ進み、芥川龍之介や久米正雄などと出会います。しかし、三年生のとき、友人を庇って罪を被った「マント事件」によって同校を退学、友人の実家の援助を受けて京都帝国大学文学部へと入学しました。そこでは、西欧文学を翻訳する詩人の上田敏が教授におり、菊池は文学において師事しました。友人のいない環境は、結果的に菊池の創作意欲を向上させ、『無名作家の日記』の原案などを書き連ねていました。執筆に熱心であった菊池を見計らったように、東京にいる芥川と久米は第三次「新思潮」の同人作家に誘います。その後、卒業間際の1916年には第四次「新思潮」において、筆名ではなく自身の名前で『屋上の狂人』を発表しました。こうして、菊池はゆっくりと作家としての道を歩み始めていきます。


卒業すると菊池は上京し、芥川や久米とともに夏目漱石の木曜会へと参加します。同時に、以前の友人に紹介された時事新報の記者として勤め始めます。生活環境が落ち着き始めたころ、「新思潮」に参加して発表した作品が、本作『父帰る』です。当時はさほど大きな影響はありませんでしたが、その後に「中央公論」で発表した『無名作家の日記』や『忠直卿行状記』で注目を集め、『青木の上京』「恩響の彼方に』『ある抗議書』『灰色の檻』『順番』と続けざまに良作を発表し、菊池は日本文壇を駆け上がっていきました。彼自身が「旭日昇天の形で文壇にデピューしていった」と語るほどで、夏目に限らず、正宗白鳥からも賛辞を送られています。そして菊池は、若い作家を世に出すための雑誌として「文藝春秋」を創刊し、芥川の『侏儒の言葉』を巻頭に飾り、創刊号から大成功を収めました。次号以降も売り上げを伸ばし、菊池は世話になった春陽堂を離れて文藝春秋社を立ち上げ、独立に成功します。こうして彼は順調に文壇を走り抜けていましたが、1927年に芥川龍之介が自殺してしまいました。自分を文学の道へと導いてくれた一人の親友の死は、とても受け入れられるものではなく、情の深い菊池は弔辞をまともに読み上げることはできませんでした。数年後に新人作家を発掘する文学賞を創設しましたが、そこにはやはり親友への強い思いが込められていました。


菊池は、執筆を生涯の道とすることは、文壇において職業作家として自立することであると認識していました。芸術の追究は、追究するという仕事であり、仕事として自立せねばならないという、非常に現実的な考え方で、こういった理念は菊池の作品群にも色濃く反映しています。文学作品は読者があり、戯曲には観客があるという前提で、作品に込める主義や思想に加え、物語に魅力が必要であると理解していました。起承転結をどのようにして抑揚をつけるのか、終幕にどれだけの衝撃を与えられるのか、菊池が幼いころの多くの読書経験から得た自立作家としての重要な知識でした。一例を挙げるなら、彼の歴史小説は史実と異なり、空想によって大きく脚色されています。『恩讐の彼方に』は、江戸時代後期に豊前国の山国川に沿った耶馬渓の危険な崖道をによる転落事故を解消するため、崖の壁面を開削した実在の僧をもとにした作品ですが、独自の背景と人間劇を僧に与え、全く違った物語を作り上げてしまいました。そこには、仇討ちという特別に大きな事情が読者に日常を忘れさせ、現社会におけるエゴイズムの解釈を伝達させる手段としての目的があり、結果、史実は枠組みやきっかけとしての存在に過ぎず、菊池の手による新しい物語へと構築されています。菊池は、伝えたい思想や表現したい芸術を、練り上げられた物語の展開によって、熱中した読者の意識へ自然に染み込ませようとしているのだと言えます。


本作『父帰る』は、発表当時は大きな反響を受けませんでしたが、現代でも頻繁に演じられる戯曲です。舞台は高松、黒田賢一郎の父は二十年前に情婦を作って家を出ていってしまいました。当時は賢一郎が八歳、幼い時分でありながら、母と弟と妹と生きるために出来得る苦労を全て引き受けて生き抜いてきました。努力と我慢を積み重ねた二十年で、弟も妹も、世間一般の幸せが目の前に見えてきました。そこへ突如、事業に失敗して転落者となった父親が見窄らしく老いた姿で戻ってきました。母は僅かに喜びを見せて室内へ招き、弟や妹も困惑しながらも友好的に会話を進めます。父親は安堵からか舌が回り始め、弟から酒を注いでもらおうかと笑顔を見せました。そこへ賢一郎は憤慨し、積み重ねた苦労を父親に投げつけるように、抱いた思いを吐き連ねます。そして、俺たちに父親などいないという言葉を受け、父親は家を出ていきました。しかし、消沈した家族の様子を見て考えを改めた賢一郎は、弟に呼び返してこいと追い掛けさせました。


本作の終幕で見せる賢一郎の劇的な逆転は、作品そのものの核となる重要な出来事です。冒頭から賢一郎の叫びまで、一貫した家父長制度の否定が描かれています。菊池の幼少期に感じていた父親から愛情を受けなかったという意識も、これらの描写や台詞に込められています。道徳に背いた好き放題の生き方をして、食うに困れば放ったらかしにしていた家へ戻り、何らの謝罪も無く、母や弟や妹に父親然とした態度で接しようとする父親に対し、賢一郎が「父親とは何だ」と叫ぶのは道理であると言えます。また、読者としても、母が賢一郎に苦労をさせたという認識が薄い点に、賢一郎への同情からの怒りが沸々と沸き起こります。それでも、最終的に賢一郎は父親を受け入れました。これは同情ではなく、彼自身が父と同じ「見捨てる」という行為を家族に強制していることに気付いたからであると考えられます。


また、作品として、菊池は『恩讐の彼方に』と同様に本作で人間的な「赦し」を描いています。どちらの作品も、復讐心を乗り越える自発的な精神に依る「赦し」が主題となって終幕で劇的に展開します。こうした物語の求心力と、そこに通底させるリアリズムな描写、そして演出と現実性の双方を兼ね備える研ぎ澄まされた台詞の数々が、本作を重く深い作品に仕上げています。

 

新二郎!お前はその人になんぞ世話になったことがあるのか。俺はまだその人から拳骨の一つや二つは貰ったことがあるが、お前は塵一つだって貰ってはいないぞ。お前の小学校の月謝は誰が出したのだ。お前は誰の養育を受けたのじゃ。お前の学校の月謝は、兄さんがしがない給仕の月給から払ってやったのを忘れたのか。お前や、たねのほんとうの父親は俺だ。父親の役目をしたのは俺じゃ。その人を世話したければするがええ。その代り兄さんはお前と口は利かないぞ。


芥川は「菊池には信念が合理になっているところがあって、それが人間に多量の人間味をふくませている」という言葉を残しています。家父長制時代の崩壊を主題とした作品ですが、登場人物たちは全てに血が通い、涙を持っています。人間劇から主題が現れ、そこから菊池の「赦し」という結論が導き出されているという彼の筆力によって、本作は完成されています。

 

私はある事象を描き出すと共に、その事象に対する作家の思想なり批評を加えることが、創作家の特権の一つだと思って居るのです。

『菊池寛文学全集』第六巻


菊池は問題提起をするだけの作品は無責任ではないか、という考えを一貫して持っていました。広津和郎と論争にもなりましたが、その一貫した考えこそが、彼の作品が帯びる熱量の凄まじさの根源ではないかと思いました。菊池寛『父帰る』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『創造者』ホルへ・ルイス・ボルヘス 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

詩人として出発したボルヘスがもっとも愛し、もっとも自己評価の高い代表的詩文集。内的必然にかられて書かれた作品の随所に、作者の等身の影らしきものや肉声めいたものを聞くことができる、ボルヘスの《文学大全》


中産階級の出身であるホルへ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)は、地主や貴族と同様の保守派階層に属して育ちました。しかし、1946年に労働者を中心とした民衆が支持したフアン・ペロンが政権を握ると、保守派の人々は政権に対抗する姿勢を貫きます。この蟠りに影響され、ボルヘスは政権に抵抗したという理由で、当時に勤めていた図書館司書から公共食肉市場の検査官に転属させられます。納得できないボルヘスは新しい職を辞し、活動を続けていた執筆の道へと本格的に動き始めました。この十年にも及ぶペロン政権は、ボルヘスにとって苦悩の日々であり、家族にも影響を及ぼしました。母親は自宅で監視下に置かれ、妹と甥は刑務所に投獄され、ボルヘス自身は警察の尾行に付きまとわれていました。それでも彼は、この時期をアルゼンチンのブエノスアイレスにとどまって執筆を続けます。このように職を辞したボルヘスは、政府から目を付けられながらも文名は徐々に上がり始め、1950年にはアルゼンチン作家協会会長に選出され、アルゼンチン・イギリス文化協会などで講義を持つ身となりました。


1955年、地主とカトリックによる革命が成功したことでペロン政権は崩壊し、ボルヘスは周囲の推薦によって新政権からアルゼンチン国立図書館の館長に任命されました。翌年には大学の英米文学教授にも就任し、アルゼンチンの国内外から各種の栄誉や賞を贈られるようになります。そして、発表作品が大衆に堂々と受け入れられるようになったことで、国内で代表作家として認められるようになっていきました。しかし、この頃にはボルヘスの視力はかなり衰えており、二十代からの度重なる手術の甲斐もなく、五十代の終わりには殆ど盲目同然となっていました。彼の著しい視力低下は遺伝性のもので、父親もまた手術を繰り返した末に晩年に視力を失っています。視力を失ったボルヘスは、口述筆記によって作品を生み出し、その中でも、記憶に頼って創作することができる定型詩を好んで作るようになりました。


文壇において政治的な立場を問われることが多かったボルヘスですが、ペロン擁護派に対しては一貫した嫌悪感を示していました。保守派を公言していたこともあり、ペロン政権を打ち倒した軍事政権への賞賛は批判も招き、その言動は国外でも注目されていました。なかでも、隣国チリの独裁者アウグスト・ピノチェトとの親交は大きな反発を呼び、一説では、これが原因でノーベル文学賞の受賞が叶わなかったと言われています。そして、1973年にペロンが帰国し、再び大統領選挙に当選すると、ボルヘスは即座に国立図書館館長を辞任しました。


本作『創造者』は1960年に発表された作品で、ボルヘスの視力低下が激しく進行していた時期の作品でもあります。ここには、父親の「失明から死へ」と繋がる恐怖が自分に降り掛かろうとする極度の不安が纏わりついています。一方では円環的な無限、一方では現実が抱く死という虚構、これらが互いに近付いていき、衝突点で時間と空間を超越するような思考が行われます。逃れられず、逃したくない、自身の持つ絶対的なアイデンティティは、時間と記憶によって本質を炙り出そうと試み、虚構という絶対的な死が眼前に現れます。そこに、創造という行為によって希望的な円環が導かれる度に、現実という存在性が思考を虚構へと再び導きます。


短篇小説と詩篇が収められていますが、どちらも言葉の効果を最大限に活かすように紡がれ、簡潔でありながら熟考が施された作品に仕上がっています。視界に頼らない思考から生み出された言葉は象徴と寓意に満たされており、ボルヘスの逡巡した思考をなぞるように読み進めるような感覚を抱きます。彼の詩は、抑制され、大仰でない文体が用いられており、読み手の思考へ直接的に詩性を訴えかけています。ここに、ボルヘスの抱く「詩人」という価値観が明確に現れ、現実と虚構を脳内で衝突させ、それを詩篇として生み出さなくてはならない苦悩が映し出されます。彼が描く円環性は、人間の存在を種として捉え、その普遍性を暴き出そうとする試みであるとも言えます。「失明から死へ」と心に打ち付けられた絶対的な運命は、抗うことを夢見て、夢で円環的な希望を抱き、そして現実の虚構と衝突するという、虚しささえも感じさせる行為を続けなければならない詩人としての存在を、ボルヘスは諦念を抱いて取り組んでいたように思われます。

 

グルーサッグかポルヘスか、わたしは見る、
この愛しい世界が形くずれてやがて消え、夢と忘却にまごう淡く空しい灰と化するのを。

天恵の歌

 

一切をさらい消してしまうのだ、この疲れ知らぬ無数の砂粒の細やかな糸は。
わたしが救われるはずがない、時の偶然の産物、脆くはかないこのわたしが。

砂時計

 

遥かな黄金の渚の秘宝がわがものであることを知っており、それだけが逆境にある彼の救いだった。
同じく遥かな黄金の渚で朽ちもせず待っているお前の秘宝、
無量の漠々たる人並みの死。

Blind Pew──盲目のピュー

 

あの屋敷を想うとき、哀歌にふさわしい古風な悲嘆がわたしをさいなむ。
時と血と苦悩であるこのわたしが時の過ぎゆくのを受け入れられないのだ。

アドロゲー


ボルヘスが内から起こる恐怖を帯びた探究心は、どこかしら希望を求めて彷徨っているようにも見え、だからこそ円環を思い描いたようにも感じられました。ホルへ・ルイス・ボルヘス『創造者』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『赤い百合』アナトール・フランス 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

芸術の都フィレンツェと頽廃の都パリを舞台に、華やかな社交界のおける男女の愛と憎しみの相克が、強烈なタッチで描きだされた作者唯一の恋愛心理小説。鋭い観察によってパリ社交界の表裏を描き、作者の女性観、恋愛観をあますところなく示す恋愛小説の傑作。題名の「赤い百合」は、フィレンツェ市の紋章をさす。


アナトール・フランス(1844-1924)は、フランス第三共和制時代の代表作家の一人です。自然主義やシュルレアリスム象徴主義などが隆盛しているなか、フランスはロマン派の筆致で人間精神の機微を美しい情景描写で描き続けました。本作『赤い百合』は、五作目の小説にあたり、社交界に出入りする人々の心理を描いた作品です。また、特定の人物などを指定せず、フランス自身や周囲の人々の経験を反映させた台詞や出来事が織り込まれた自伝的な要素も含められており、当時ではこの点でも出版前から話題となっていました。所謂、世俗的な描写の多い作品で、そこには愛欲や嫉妬といった男女の恋愛感情をフランスは赤裸々に描いています。


題名に用いられた「赤い百合」は、フィレンツェ市の紋章に由来しています。十三世紀初頭、イタリアは多くのコムーネ(自治都市)で構成されていました。都市はそれぞれの自治体として成り立っており、所属の信仰団体や方向性も統一性がありませんでした。十一世紀より沸々と表面化していたローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立はイタリアの各都市へと波及し、それぞれの陣営は、ゲルフ(教皇党)、ギベリン(皇帝党)という勢力に分かれて争いを激化させていきました。ローマ教皇を支持するゲルフは、ジェノヴァやボローニャ、そしてフィレンツェなどの大都市が多く見られました。これに対して、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)を支持するギベリンは、フォルリやシエーナといった小都市に偏っていました。ゲルフを支える都市の中心層は新興商人や商工業を営む有権者たちで、ギベリン側は貴族や封建領主といった人々が支えていました。大都市という規模と、新興勢力層が支えていた攻撃性が教皇党に力を与え、ゲルフはローマ皇帝の支配に対する反発を表面化させていきます。余談ですが、ヴェローナで起こったゲルフとギベリンの抗争は、シェイクスピア『ハムレット』でのキャピュレット家(ゲルフ)とモンタギュー家(ギベリン)として描かれています。


1250年にフィレンツェで商工業者による貴族追放が行われると、これを皮切りにゲルフによるギベリン追放の運動が盛んになっていき、1254年には神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝との断絶を招きます。ギベリンが衰退を見せるなか、1268年にローマ教皇の計らいによってホーエンシュタウフェンの血筋を途絶えさせたアンジュー家シャルル(シチリア王カルロ一世)が南イタリアを支配することになり、ギベリンは姿を消していきました。こうして勝利の政党となった教皇党は支配を証明するために、フィレンツェの紋章である赤地に白い百合の色を逆転させて、白地に赤い百合にして街へ掲げました。これが、本作の題名『赤い百合』に取り上げられており、これは「死の象徴」として捉えられています。


皇帝派貴族を排除したフィレンツェでしたが、今度は教皇派内が分裂し、白派(自主独立派)と黒派(教皇領従属派)に意見が分かれて内乱が起こりました。そして、戦いは黒派が勝利を収め、白派をフィレンツェから追放していきました。白派の代表的な存在であったダンテ・アリギエーリも例に漏れず追放され、フィレンツェは黒派が制圧します。教皇領を我が物とした黒派は、資産として領地を確保するあまり、今度は教皇領を巡って教皇と対立することになりました。互いに武力を行使した戦争が起こり、多くの戦死者を生みました。このように、フィレンツェは大都市で華やかな反面、有力者たちの資本争いが巻き起こった歴史も抱えており、多くの命が失われてきました。そして、フィレンツェの都市に掲げられた赤い百合の紋章は「死の象徴」として印象付けられます。フランスが本作に「死の象徴」を踏襲したことは、構想時に題名を『死者の国』としていたことからも読み取ることはできます。


主人公のテレーズは、文学サロンを開いていたレオンティーヌ・アルマン・ド・カイラヴェ夫人を原型として描かれ、フランスと男女の関係を持っていた人物です。また、ドシャルトルの嫉妬を見せる感情や経緯はフランス自身の実体験を反映しており、そういった面でも本作は大きな特徴を持っていると言えます。社交界を中心に繰り広げられる本作では、貴族階級の持つ愚かしさや苦悩を浮き彫りにさせ、フランス自身の行動を含めて諷刺的に描いています。会話や独白によって現実的な情景を表現し、登場人物の感情を具体的に読者へ伝えようとしています。そこには、人間の持つ愚かしさや儚さが全面に現れ、官能的な肉欲が利己と怒りによって生まれてくる様子が描かれています。こういった点からは、フランス自身の愛の観念がそれぞれの登場人物に分け与えられているようにも感じられます。


パリの政治的な野心家マルタン・ベレームの妻テレーズは、生粋の貴族階級で育った女性ですが、父親に決められた結婚相手に対する愛情は無く、慢性的に肉欲を満たす相手を恋人として繋ぎ止めていました。夫のサロンに出入りしていたロベール・ル・メニルは、たちまち女性を魅了してしまう美青年でしたが、テレーズとは三年ものあいだ恋人の関係でした。しかしテレーズは、肉欲は満たされるものの心は離れていき、特に大きな理由もなく、その関係を一方的に解消してしまいます。その後、友人である詩人ヴィヴィアン・ベルのフィレンツェにある家に滞在していたテレーズは、美しい若い彫刻家ジャック・ドシャルトルと出会いました。ベルに促されてテレーズとドシャルトルはフィレンツェを散策することになり、教会や美術館を見てまわりながら会話を重ねていきます。ルネサンス期の美術を鑑賞しながら二人は互いに気持ちが高まり、美と肉欲が情熱的に沸き立ってきました。新たな恋人に今まで感じたことの無い情欲の高まりを認めたテレーズは、ドシャルトルに対して真の人生の意義を見出し始めます。官能的な美と肉欲に満たされていたテレーズでしたが、ル・メニルが彼女への変わらぬ愛を抱いたままフィレンツェに現れたことで事態は一変します。ドシャルトルはテレーズに対して不信感を抱き、やがて強烈な嫉妬心を剥き出しにして彼女に迫りました。ル・メニルに対する恋愛感情を持たないテレーズは、必死に弁解をしてドシャルトルを繋ぎ止めます。パリに戻ったテレーズがオペラ座で「ファウスト」を鑑賞していると、夫が財務大臣に任命されたとの報せが入り、自宅で祝いの催しを開くことになりました。招かれたル・メニルはテレーズに復縁を迫りますが、その場面をドシャルトルに目撃されてしまいます。誤解とテレーズの嘘が作り上げた不信感が爆発し、ドシャルトルは彼女の弁解を聞き入れずに追い返してしまいました。


フランスが実体験や自身の性質を散りばめた本作ですが、決して自伝的なものではありません。どちらかと言えば、自然主義や象徴主義が広まっているなかを、より「世俗的」な舞台を設定し、社交界における恋愛観や心理の分析に焦点を置いて書き上げた点が特徴であると言えます。物語そのものは情熱的な恋愛のやりとりが描かれていますが、当時の制度や価値観がどのように影響し、彼らが抱く快楽と苦悩を紐解くような作品として後世に受け継がれています。


登場人物たちが見せる暴力的な恋愛感情は、破滅という結果を追い求めているように見えます。利己主義であるが故に理性を凌駕し、自己を破滅させるという皮肉が、本作には随所に描かれています。しかし、感情を抑制する困難さは誰もが経験しているところであり、社交界に席を置く人々の価値観は、その自尊心が高かったことから一般人のそれ以上でした。テレーズは富裕層に生まれ、不自由なく何もかも与えられ続けて成長したにも関わらず、父権制社会あるいは男根主義の社会にあるが故に「愛の対象」という人生において最も重要なひとつを選択する権利を得られませんでした。抑制する力を持たない彼女の心は、真の愛の対象を意識的にも無意識的にも探し求め、生きる目的となっていきます。そうした結果が、背徳感の無い美青年との性交渉であり、情熱的な肉欲を追い求める日々となりました。


ドシャルトルとの出会いで生まれた高まり続ける情熱は、肉体の交わりによって「自覚する愛」へと昇華されていきます。求め続ける真の愛の対象を認識したテレーズは、無意識のうちにドシャルトルを心身ともに愛していきます。しかし、男根中心主義社会に生きる彼女は、自身が女性という「物」であることを理解しています。夫と別れて一緒になるといったことを望むのではなく、どのようにすればドシャルトルを独占できるのか、どのように立ち回れば少しでも長く一緒に居られるのかといった思考で過ごします。しかし、ル・メニルに復縁を迫られた場面をドシャルトルに目撃されたことで、この思考は全て無意味となって消え去ります。突き放されたテレーズは、真の愛の対象を失い、生きる目的を失ってしまいました。彼女は生命を断つようなことはせず、「物」であるが故に夫の元へと帰っていきます。こうして物としての彼女は生き続け、彼女の人生は「死」を迎えます。

死の象徴は、題名の「赤い百合」だけでなく、作中でも各所で示されています。きらきらした幽靈、死の魔法、心地よい悲しみ、死者の國、葬列など、ドシャルトルとの場面では、多くの死が二人を取り巻いています。

 

十字架が先頭を進んできた。これは慈惠會の信徒たちが覆面をかぶって、松明を手に聖歌を誦しながら、死者を墓場に運んでゆくところだった。イタリアの風習にならって、行列は夜になってから足早やに通ってゆくところだった。十字架も柩も旌旗も、人通りのまれな河岸を飛び跳ねるようにして通って行った。ジャックとテレーズとは塀のもとに身を寄せて、足早やの葬列をやり過した。僧侶や詠歌隊の稚兒や覆面のひとびとが過ぎ、この快樂の地上では迎されぬ、邪魔者の《死神》が一緒に驅けて行った。


愛欲や痴情、男性の嫉妬心を描いた作品と括られることが多い本作ですが、当時の世俗や風習を心理的に緻密に描き、人間の美と肉欲の関係を見事に描いた作品です。アナトール・フランス『赤い百合』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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