
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

二十世紀初頭、1904年に日露戦争、1914年に第一次世界大戦争と、日本は国家規模以上の激しい侵略戦争を繰り返していました。しかし、国家を潤すという侵略目的に反して、連続した戦争は軍需ばかりが嵩み、結果的に人命被害と国民への貧困だけが与えられました。日本国民は尊皇による軍事称揚を押し付けられていましたが、1917年に起こったロシア革命による共産主義運動が国内に流入し、国民の生活にもその思想が浸透していき、やがて身を守るための共産主義運動が活性化していきます。一定層による偏った資本の占有を認める私有財産制に対する反発をきっかけとして、運動規模は拡大し、やがて君主制国家そのものを否定した運動へと発展していきました。尊皇の世に国民の反抗的な運動は許される筈もなく、政府は軍事国家らしく武力で弾圧していましたが、1925年に恐ろしい法律「治安維持法」を制定してしまいます。これは、私有財産制に限らず、国家の定める法、或いは活動自体に反発する者を「政府の判断により罪人と定める」という理不尽なもので、共産主義を是とする国民を片端から裁いていきました。治安維持法の制定と同時に共産主義運動に参加していたものは次々と逮捕され、拷問され、行方不明者や死者となって消えていきました。最も大掛かりなものは1928年の三・一五事件で、共産主義運動の中心組織を絡げて数百人を検挙し、全国へ見せしめのように取り上げたものです。このような不条理な国家による弾圧を、文学を通して世に訴えようとした人々をプロレタリア作家と呼び、共産主義運動に参加した人々が多くありました。三・一五事件を題材とした作品を発表した小林多喜二はプロレタリア作家の第一人者であり、共産主義運動の重要人物として活躍しました。そして翌年、つまり1929年に発表した『蟹工船』で全国的な代表作家として文壇の地位を確立しましたが、反政府の影響が強くなり過ぎたことにより、延々と国家に拷問を与えられ、最期(1933年)には非人道的な扱いを受けて死亡しました。
このように、治安維持法は政府が国民を自由に弾圧するための法律として存在し、国民は自由な思想や意思を持つことさえ許されず、ただ尊皇だけを神の如く扱うように強要されていたため、政府に対して声を上げることなど殆ど不可能な環境でした。
これまでの日本はいつも天下りの戦争にならされていました。天皇制の封建的な、絶対的な教育の下で、人民は戦争を「思惑の加った災難」として、無批判に服従してきました。
宮本百合子『戦争と婦人作家』
そして今日の破局に到りました。日本に戦争反対の心がなかったかといえば、小田切秀雄の「反戦文学の研究」をみてもわかるとおり、いつもときの戦争に反対した人道的な精神はありました。天皇制の権力はそういう文学を非国民の文学とし最近の数年は治安維持法でとりしまりました。
死を意味する「共産主義運動」でしたが、それでも命をかけて活動を続けようとする人々は、モスクワより戻った活動家の風間丈吉を中心とした「非常時共産党」を結成します。プロレタリア革命を掲げた彼らは、1931年に思想を同じくする小林多喜二をはじめとしたプロレタリア作家を加えて地下活動を活発に行いました。このとき、後の共産党指導者の宮本顕治と妻である宮本百合子(1899-1951)も同様に入党し、活動に参加しました。前述した小林多喜二の経緯があるように、他の党員も同様の危険を纏いながら、日々の生活を、例えば百合子であれば「党員」と「作家」という二重の生活を過ごすことになりました。しかし、政府が反国的な作家を野放しにすることはなく、出版社への強い圧力と作家への直接的な「出版禁止」を命じ、度重なる逮捕と勾留によって、百合子は執筆活動期間を僅なものしか確保できませんでした。1934年、日本共産党スパイ査問事件の加害者として逮捕された顕治は、彼の病や第二次世界大戦争の影響で裁判が長引き、終戦までの十二年ものあいだ投獄されていました。一方で、1938年に徹底的な出版禁止と活動の取り締まりを受けた百合子は、顕治と意思の疎通さえも図れない環境に置かれ、1939年に出版を解放された直後に、今度は第二次世界大戦争時の尊皇徹底が敷かれ、先の見えない執筆の禁止を余儀なくされました。
敗戦後、尊皇という絶対的な信仰とも言える国民の柱はGHQにより取り払われ、悪法である治安維持法も撤廃されました。しかし、プロレタリア作家たちは、これまで弾圧され続けた影響により堂々と作品を発表する気概さえ、恐怖に取り憑かれて思うように活動することができませんでした。その間、復刊や創刊された文芸雑誌には永井荷風などの安定した知名度の作家や、焼け野原となった社会をどのように生きるかを提示する第一次戦後派、或いは、戯作的な救いとなる大衆へ向けた作品を生み出す新戯作派などで誌面は埋め尽くされ、世間の文学的風潮からプロレタリア運動の影は薄くなっていきました。このような状況のなか、百合子は五年間も全く作品を発表できていなかったことで、溢れ出る意欲と使命感を糧に、これまでの思想を貫き通すように、立て続けに執筆して作品を発表しました。その主題は明確で、これまで地下に埋まり続けていた共産主義運動を公に日の下へ照らし出す、実際の自身の経験を踏まえた作品群でした。
終戦日の1945年8月15日、軍事国家の日本が解体され、悪法も撤廃され、ようやく解放された顕治は、二か月かけて百合子の元へと帰ってきました。十二年ものあいだ引き離されていた夫婦は、信じ続けた互いの感情、生きているという実感、心身ともに喜びと安堵で震える瞬間を、再び出会うということで確かめ合いました。そして、百合子はその経験を活かして『播州平野』と本作『風知草』を書き上げました。
文筆の仕事の上で、可能なかぎり、戦争反対と平和の確保、原子兵器禁止の態度を明かにして居ります。平和を守る会、知識人の会、民主主義擁護同盟に参加して居ります。科学者たちが、適切な共同声明を発表しているのに、文学者は、なぜそのようにあっさりと、はっきりと行為しないのでしょうか。このことについてしきりに考えます。
宮本百合子『戦争・平和・曲学阿世』
百合子と顕治は、それぞれ「ひろ子」と「重吉」に置き換えられ、再会から数日後の場面から物語は始まります。満足な健康管理ができなかった重吉の身体検診を行うため、協力的な医者を待つ二人は、何処かしら時間を押し留めようとするほどにゆったりと過ごしています。荒れ果てた土地に道を迷う顕治の行動や、投獄経験が滲み出る技術などは、瞬間ごとに複数の感情が沸き起こり、独特の穏やかで切ない描写が続けられていきます。そして、二人の今後の活動をどのように方向付けて行くかということを、互いに具体的な言葉で説明することは少ないながらも、二人は十二年のあいだ繋がれていた共有の思想を体現しようと歩み出します。そして、再び赤旗編緝局を立ち上げ、日本共産党は合法政党として始動していきます。
治安維持法の被害を最も集中的に受けた共産主義運動者たちは、検挙され、拷問され、殺された大切な同志を胸に抱き、自らも恐怖と弾圧に耐えながら戦い抜いてきました。そして敗戦により尊皇ファシズムは消滅し、プロレタリア革命者の文字通りの枷を外したことで、ひろ子は大切な同志と抱く思想を、十二年越しに再び手にすることができました。そして、この出来事の象徴的存在とも言える日本共産党の始動は、日本国民が国内で革命的政党を組織したという事実としても強烈な印象を与えています。
十二月はじめに、はじめての大会がもたれることになった。赤旗編韓局という表札と同様に衆目の前でもたれる大会として、それは最初のことであったが、歴史の中では第四回目に当った。
宮本百合子『風知草』
いろいろの大衆的集会も活気にみちてもたれていて、一九四五年の冬は、日本の民主主義の無邪気な発足の姿であった。
木枯の吹く午後おそく、ひろ子は、前後左右ぎっしり職場の若い婦人たちで埋った講堂で、ニュース映画を観ていた。それは「君たちは話すことが出来る」と云う題であった。十月十日に、同志たちが解放される前後を中心として、治安維持法と、その非道な所業、その法律の撤廃を描いた映画であった。山本宣治を殺して出来た治安維持法が、小林多喜二を虐殺し、渡辺政之輔その他たくさんの人々を犠牲とした。
本作の抱く主題の「重さ」は通底しているものの、読者は不思議と穏やかな人間性を終始にわたって感じることができます。特に、作中で陽の感情が起こるときには、特に共感的に伝わってきます。苦痛を乗り越えた幸福という効果もあると思われますが、それ以上に、解放された後をどのように希望を抱くかという二人の感情が流れてきているように思われます。ひろ子が百合子であり、重吉が顕治であることには違いありませんが、それ以上に、作中の二人は共産主義運動に関わらず「戦争から解放された二人」であり、「尊皇ファシズムから解放された二人」としての性質が強く現れており、それらの言動自体から離れた「叙情性」が強く滲み出ています。ここに込められた解放から齎される清々しい感情こそが、主題以上に百合子が表現したかったものではないかと考えられます。そして、二人の姿勢はこれまでの軍国主義や君主主義に対抗し続けようとする意思が込められ、その熱量が二人の絆として刻まれているようにも思われます。
まず第一に、多くの作家の作品は、戦後現象的であった。
中島健蔵「人と文学」
百合子も、戦後を題材として書いている。しかし、宮本百合子そのものは、戦後的ではなかったのである。
当時の共産主義運動は、プロレタリア革命を目指したものでした。侵略戦争を是とし、君主主義の横暴に国民は苦しめられていました。それでも立ち向かおうとする二人の姿勢と覚悟は、間違いなく愛情によって繋がれていたのだと考えられます。宮本百合子『風知草』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。











