RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

本書はチェコ出身の現代ヨーロッパ最大の作家ミラン・クンデラが、パリ亡命時代に発表、たちまち全世界を興奮の渦に巻きこんだ、衝撃的傑作。「プラハの春」とその凋落の時代を背景に、ドン・ファンで優秀な外科医トマーシュと田舎娘テレザ、奔放な画家サビナが辿る、愛の悲劇──。たった一回限りの人生の、かぎりない軽さは、本当に耐えがたいのだろうか?甘美にして哀切。究極の恋愛小説。

 


第二次世界大戦争の復興におけるアメリカ合衆国による経済支援マーシャル=プランは、結果的に欧州諸国を二つに分断させました。西ドイツやイタリアなどの欧州西側は受け入れて経済復興を見せた反面、ポーランドやチェコスロヴァキアなどの東側はソビエト連邦の抑圧により拒否させられ、共産主義圏諸国を連邦の支配下へと追いやりました。これはアメリカ合衆国によるソビエト連邦の封じ込めが狙いの政策でしたが、巻き込まれた東欧諸国では苦しい社会が築き上げられていきました。チェコスロヴァキアは受け入れを表明しましたが、戦時中より共産主義を盾に保護的介入を継続していたソビエト連邦がチェコスロヴァキアへ政治的な圧力を掛け、チェコスロヴァキア共産党によるクーデターを引き起こし、共産党政権を成立(二月事件)させ、マーシャル=プランの受け入れを拒否させました。こうして、チェコスロヴァキア社会主義共和国が誕生しました。

1960年代に入るとチェコスロヴァキアの経済成長は停滞し、ソビエト連邦による社会の抑圧に反発する動きが見られ始めました。知識人による民主化の訴え(二千語宣言など)が国民を巻き込み、チェコスロヴァキア共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェクが「人間の顔をした社会主義」(社会主義によって民主主義を目指すという標語)を掲げて大きな民主主義運動を起こします。この運動は同様に抑圧された周辺諸国へ広がり、ソビエト連邦を筆頭とする社会主義国家へ脅威的な影響を与え、「プラハの春」と呼ばれる革命へと発展しました。しかし、ソビエト連邦の共産党体制基盤を揺るがすこの脅威を連邦最高指導者レオニード・ブレジネフは看過できず、ドゥプチェクを「修正主義者」と非難したうえでワルシャワ条約機構軍を用いた武力弾圧を行い、革命の波を収束させました。

 


チェコスロヴァキアでソビエトが目指す共産主義の形を強制する「正常化」が始まると、プラハの春を扇動した知識人たちは厳しい立場に追いやられました。作家のミラン・クンデラ(1929-2023)もその一人で、彼は筆を取り上げられ、就いていた職を失い、チェコスロヴァキアでの民主化への活動ができなくなりました。そのため、彼はフランスへと渡り、亡命して執筆を継続します。これに制裁を与えるため、ブレジネフはチェコスロヴァキア政府へ指示し、クンデラの市民権を剥奪させました。彼の出版作品は、1989年のビロード革命(ソビエトのゴルバチョフ大統領によるペレストロイカに連動したチェコスロヴァキアの民主化無血革命)まで、国内で日の目を見ることはありませんでした。

 


本作『存在の耐えられない軽さ』は、チェコスロヴァキアにおける1960年代のソビエト連邦による締め付けからプラハの春、そして再びのソビエトによる抑圧と「正常化」が行われた1970年代にかけての時代を生きた四人の男女の物語です。しかしながら、本作はそうした歴史的、政治的な側面を中心に描いているわけではなく、その時代に生きる人間を通して作者の哲学や思考の分析が展開される作品となっています。命題として掲げられる「人間の決断の重さ」はニーチェの「永劫回帰」を根本としており、一度きりの人生における決断は重いが、人生が繰り返されるのであれば決断の存在は軽くなるという思考が、本作のなかで反芻するように繰り返されます。

 


プラハで活躍する優秀な外科医のトマーシュは、好色で数えきれないほどの女性と性的な関係を結んできました。過去に結婚歴もあり子供もありますが、関係を修復するつもりもなく独身生活を謳歌しています。ある日、訪れたカフェでウェイトレスとして働いていたテレザと仲が良くなり、声をかけると彼女はプラハまで追いかけて来ました。彼女の発熱を看病しているうちにトマーシュの心は動き、彼は拒否し続けていた自分の恋愛感情を受け入れるようになっていきます。一方のテレザは小さな街でのウェイトレスとしての生活に不満を抱いていました。特に幼少期より受け続けた母からの心傷は、大人になった彼女を苦しめ続けていました。彼女は仕事中に声を掛けてきたトマーシュに偶然の連鎖から運命的な愛を感じ、彼の元へと全てを投げ出して飛び込んで行きました。しかし、トマーシュの好色に傷付けられ、苦しい恋愛生活を送ることになります。トマーシュはテレザを幸福にするために彼女と結婚しますが、愛人たちとの関係は継続していました。特に、長年の恋人である画家のサビナとは、変わらぬ情事を繰り返していました。サビナは理想主義的な大学教授フランツと恋人関係になります。フランツはテレザのように人生や恋愛に深い意味を求めます。フランツは結婚していますが、その生活や状況に深い意味を見出せず苦悩していました。この複雑な恋愛関係にある四人が、ソビエト連邦の締め付けやプラハの春などの政治的状況下で、それぞれの選択と決定によって物語を進めていきます。

 


トマーシュは思索深い人間で、ソビエト連邦によるチェコスロヴァキアの傀儡政権を強く非難しています。オイディプス王を引き合いに出し、無知であることは罪であるという考えのもと、政府を論理的に糾弾した文書を寄稿しました。これによりソビエト連邦に追われる立場となったトマーシュでしたが、チェコスロヴァキア政府に対する反体制派と接触することになり、活動家として勧誘されます。そこには自分の息子の姿もあり、気持ちは大きく揺らぎますが、結局は自分の意見を歪曲されて担ぎ上げられるだけだと理解したトマーシュは、テレザとともに田舎へと身を隠します。テレザは反体制派に魅力を感じるものの、チェコスロヴァキア内では政府と反体制派の双方が民衆を監視下に置いていることを理解し、自らの立場を優先して尊重するために、トマーシュとともに田舎へと向かいました。

軽さを表現するトマーシュと重さを表現するテレザは、二人の関わりによって差が明確になっていきます。女性との性交渉を頻繁に繰り返すトマーシュは、愛や心といった概念を性行為に求めません。しかし、テレザは愛しているから相手を欲するという動機のもと、性行為を受け入れています。作中で繰り返されるベートーヴェンの弦楽四重奏に込められた言葉「Es Muss Sein!(かくあるべし)」は、理性的な動機を強調する際に用いられます。テレザは「Es Muss Sein!」の体現者で、トマーシュと出会った偶然性や自身の人生の運命を信じており、人間の使命論を重視しています。この使命は「重さ」となってトマーシュに覆い被さります。軽薄と軽さは違います。トマーシュは理性が呼び覚ます使命という存在に囚われず、直接的な感情としての感動を重視していました。理論的に為さねばならない、愛さねばならない、そのような感情に縛られず、自らの生命を尊重していました。しかし、彼はテレザの献身なまでの愛情に応えるうちに、そこに安らぎを覚え、幸福を感じました。そして、安楽的な死(いつ壊れてもおかしくないトラックの修繕をしている彼を後方からテレザは眺めていた)へと突き落とされて、永劫回帰の輪に戻ります。

 


フランツは、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュ(極左過激派)によるカンボジア崩壊の悲劇を受け、復興や医療支援を目的としたカンボジア入国へ向けた抗議の行進に参加しました。この行進に人生の意味や使命を見出せると信じ、非日常的な理想を求めましたが、彼は現地の騒乱に巻き込まれて命を落としてしまいます。一方のサビナは、自由主義的な感情を貫き、広がる共産主義から逃れるように国を渡り歩きます。彼女は重さを否定し、運命を否定し、使命を否定します。絵を描くために自由でありたいという彼女の意思は、彼女の本能の代弁でもあり、彼女が拒否する「キッチュ」の否定にも繋がっています。俗悪的なものという意味で使用される「キッチュ」ですが、本作はその根本を暴き出し、サビナを代弁者にして否定しています。キッチュとは「理論づけられた感動」とも言え、これはクンデラ自身が最も厭悪し、そして、そのために国を追われました。理性的な感動は、その時点で俗悪であるという考えは、身近な出来事でも考えられます。ある花を見て「美しい!」と感じたものを真の感動とするならば、「美しい!感動する!」と理性が介入した時点でこれはキッチュとなります。これは花を見る人間の思考が感動に対して理論を求めていることを表しています。これを社会に広げるのであれば、人を愛するならば結婚しなければならないという考えになり、愛しているから結婚するという考えとは対極に位置してしまいます。こうした「理論づけた使命感」は共産主義の大名目であり、国が強制する使命へと変化します。キッチュは人間の愛や心を奪い、俗悪を植え付けるものとして、クンデラは本作を社会主義へのアンチテーゼとして描き上げています。

 


クンデラはインタビューで、本作を作者の告白ではなく、世界が陥った罠の中で、人間がどのような人生を送るのかを探求する作品として執筆したと語っています。罠とは当然キッチュ(俗悪さ)であり、そうした価値観を植え付けられた人々がどのように生きれば解き放たれるのかを読者へ問うています。人生に理論的な使命を見出そうとする行為は、既にキッチュへと向かう一歩です。また、テレザが『アンナ・カレーニナ』に束縛されている点も、キッチュの罠です。テレザは運命を信じようとします。偶然の積み重ねを、彼女は運命と解釈します。そして、運命を他者と共有し、理論的に導いた愛情を相手に求めます。これらの行為は、クンデラが唱える真実の愛とは正反対のものです。サビナは使命や運命を厭悪します。自分の心を曝け出すことなく、自由な感性で絵を描き続けます。彼女はキッチュから生まれ出る「重さ」から逃れ続け、限りなく軽い存在、つまり「存在の耐えられない軽さ」を目指して生きます。

 

人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた?復讐された?いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。

これまではそれぞれの裏切りの瞬間が裏切りという新しい冒険に通ずる新しい道を開いたので、彼女を興奮と喜びで満たしてきた。しかし、その道がいつかは終わるとしたらどうしたらいいのか?人は両親を、夫を、愛を、祖国を裏切ることができるが、もう両親も、夫も、愛も、祖国もないとしたら、何を裏切るのであろうか?


チェコスロヴァキアは、戦前期からも周辺諸国の支配を受けてきました。自国の政治を他の強国に委ねなければならなかった歴史は、チェコスロヴァキア国民たちの文化や生活に影響を与え、その思考や意思も他者により左右されてきました。現代を生きるチェコ人たちにとって、本作中の「われわれ」は作者だけでなく、彼ら自身の言葉としても深い意味を持っています。この視点で捉えると、本作でクンデラがどのような熱量で国民に声を上げていたのかを推し量ることができるように思います。ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『リップ・ヴァン・ウィンクル』ワシントン・アーヴィング 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

スケッチ・ブック(上) (岩波文庫)

 

アメリカ文学として最初に国際的評価を得た歴史的著作。イギリス見聞記を中心に、有名な『リップ・ヴァン・ウィンクル』等の短篇を収録。

 


ワシントン・アーヴィング(1783-1859)は、アメリカでの初めての職業作家だと言われています。彼は十一人兄弟の末子で、生まれつき病弱であったために、家族から大切に育てられました。兄弟たちと活発に遊ぶことができなかった反面、両親は彼の多くの望みを熱心に叶えてあげました。小説や演劇に関心を示したアーヴィングは、このような生活環境によって、幼い時分から文学や演劇の造詣を深めていきます。十九歳になった彼は、兄が編集していた新聞社に匿名で手紙を寄稿し、これらの手紙は諷刺的で出来栄えも良かったことから、読者の間で話題になったといいます。しかし、二十一歳になると彼の体には結核の兆候が見え始め、ヨーロッパへ保養のために彼は二年ほど滞在しました。アメリカへの帰国後、彼は親の意向で司法試験に合格しましたが、成績が芳しくなかったことと、司法職に意欲が湧かなかったことから道を変え、兼ねてより望んでいた作家としての道を歩んでいきます。

アーヴィングは複数の筆名を使い分け、ニューヨークの社会を諷刺した作品を文芸誌に寄稿し、多くの賞賛で読者に受け入れられました。ニューヨーク市を「ゴッサム」と表現したのは、この時期の彼の執筆作品が最初です。これはイギリスのノッティンガムシャー地方にあるゴッサム(GOTHAM)という村が由来で、イングランド国王ジョンの時代に国道建設の費用負担を呼びかける使者がゴッサム村に訪れた際、費用を負担したくない村人たちは話が通じない愚か者のふりをして事なきを得たという逸話があります。保養のために滞在していたアーヴィングはこの逸話を知り、意味を転じさせてゴッサムを「賢いふりをした愚か者」とし、ニューヨーク市民の世慣れたふりをした無知な様子を見て、皮肉を込めてゴッサムと呼びました。

数年後に自著『ニューヨークの歴史』をディートリヒ・ニッカボッカーという筆名で発表しましたが、同時期に恋人を亡くしたこともあって作家としての意欲も減退していたなか、1812年に米英戦争が勃発します。この戦争によるイギリスの貿易妨害が発生し、イギリス貿易商を営んでいた兄は困難に陥ります。こうした兄を手伝うため、アーヴィングは自分の気持ちを放り出して1815年に渡英しました。しかし、戦後直後の米英間貿易はうまくいかず、結果的に兄は破産してしまいます。アーヴィングは兄たちの生計を立てるため、熱心に執筆活動に向き合いました。そのようななか、1817年にアーヴィングは憧れていた作家ウォルター・スコットと出会う機会を得ました。数日間のスコット邸訪問は非常に有意義で、アーヴィングは執筆意欲を駆り立てられ、作家としての本格的な活動を望むようになりました。そして、翌年に本作『リップ・ヴァン・ウィンクル』や『スリーピー・ホロウの伝説』などを収めた短篇集『スケッチ・ブック』を出版しました。ちなみに、これらの二作はともにニューヨーク州北部を舞台にしたドイツ民話の再解釈作品で、当時には目新しい空想的な作風で描かれています。

 

本作『リップ・ヴァン・ウィンクル』は民話を元にしていることもあり、空想的な要素さえ現代でも受け入れられる普遍的な作品として認知されています。短篇でありながらも、読後に強い印象を残す点は、アーヴィングの筆致と空想力によるものだと言えます。作中作品のように語られる本作は、件のニッカボッカー氏の手記が添えられており、アーヴィングの遊び心と多重的な意図が込められています。

リップ・ヴァン・ウィンクルは、オランダ入植者の村に住んでいます。気立てや愛想が良く、困っている人には率先して手助けをするような人柄で、彼は近所で子供に懐かれているような人柄です。しかしながら、ひとたび家庭に入ると、家事や家業は放置し、妻の小言を恐れて外へ逃げるように出かけるような問題も抱えていました。彼の小さな農場は妻に任せきり、作物の収穫量は減少の一途を辿っています。こうした目の前の現実から逃れるように、そして独裁者となった怒れる妻から逃れるように、彼はあてもなく猟銃を担いで山へ栗鼠を仕留めに向かいます。

ある晩、リップ・ヴァン・ウィンクルはいつものように山で栗鼠狩りをしたあとに休息していると、オランダの民族的な衣服をまとった老人が重い荷物を抱えて上がってきました。当然のように、彼は持ち前の優しさで手伝いをすると、その重い荷物は酒樽であることを知ります。こんなものをどこに運ぶのかと彼が訝しんでいると、目の前に見たこともない円形劇場のような場所が現れ、その老人と似たような衣服をまとった老人たちが球技を楽しんでいました。彼らは不思議なことに全員が無表情で、一言も声を出さずに球技をしています。奇妙な一団のもとへ辿り着いたリップ・ヴァン・ウィンクルと酒樽を持った老人は、彼らに酒を振る舞い、やがて宴会が始まりました。そして、彼も酒を振る舞われて飲んでみると、やがて眠りに落ちてしまいました。

目を覚ますと、円形劇場は消え、全ての老人たちも消え、持っていた猟銃は台尻が朽ちている古いものに変わっていました。一晩中寝てしまい、おまけに猟銃まで巻き上げられたと考えたリップ・ヴァン・ウィンクルは、帰って妻に怒鳴られることを恐れますが、致し方ないと考えて帰路につきます。村に到着した彼を待っていたのは見知らぬ村人ばかりでした。山や川の見える景色は全く変わっていないにも関わらず、知り合いはどこにも居らず、すれ違う人々は怪訝な表情を見せます。行きつけの店も変わり、家々の表札も変わり、不思議な感情が不安へと変化していきます。仲良くしていた主人の宿屋へ向かってみると、別のホテルへと変わっており、店の旗竿にはアメリカの星条旗が翻っていました。また、戸口では人だかりができており、群衆の間ではリップ・ヴァン・ウィンクルが理解できない政治の話がなされて賑わっていました。近付く朽ちた猟銃を持った彼を見つけた一人が、君は選挙でどちらに入れるのか、と詰め寄ってきます。彼は困惑し、自分はただの村人で王に忠誠を誓っていると応えました。すると、彼は王党派だと叫ばれ、事態は複雑な方向へ向かいそうになりました。しかし、彼が政治や知識の豊富な知人の名を挙げると、彼らは戦争に向かって帰ってこないという返答があり、ようやく、彼が十八年ものあいだ眠り続けていたことがわかりました。アメリカ独立戦争を経て、アメリカは植民地ではなくなり、そこには解放という名の自由がありました。

 

妻は何年か前に、既に亡くなっていました。しかし、リップ・ヴァン・ウィンクルは悲しみよりも解放感を強く感じます。家庭内での抑圧は愛情を上回り、彼は独裁家庭から逃れられたことを喜びます。専横政治は国だけでなく、各個人の各社会でも齎されます。アメリカ独立戦争は、支配から逃れるための戦争でした。イングランド国王は利益だけをアメリカ住民より徴収しようとし、住人たちはこれに反旗を翻して地方選挙を行いました。そして勝ち取った自由は、国の独立という形で成り立ちます。リップ・ヴァン・ウィンクルは支配された家庭から逃れたいと切実に望んでいました。自由に行動し、困った人を助け、誰からも縛られない生活を望んでいました。そして彼も、自由を手にしました。妻への愛情や農場を一人で切り盛りしていた妻の努力を無視したように感じられますが、本作は語り部がリップ・ヴァン・ウィンクルに起こった出来事を話していることから、一方的な視点での物語となっています。

 

これは、アーヴィングの意図したところです。本作はリップ・ヴァン・ウィンクルが体験した出来事として描かれています。つまり、読者は一方的に話を受け入れるしかなく、真実がどのようなものであれ、これを信じるしかありません。そして、作中にあるように、リップ・ヴァン・ウィンクルが自身の経験した出来事を村人へ何度も繰り返して語り続けることで、その村ではこの話が真実の物語として信じられるようになります。アーヴィングほこうした物語の効力が如何に強いものであるかを本作で示しており、歴史と物語のいずれが真実なのかではなく、語り継がれる話こそが真実になっていくことを、皮肉を交えて示しています。また、継続した真実性の主張は、やがて既成の出来事となっていく社会を諷刺しているとも言えます。

 

いつもと變らず、入口のところには人が集つてゐたが、どの顏もリップには見覺がなかつた。人の性質までが違つてゐるらしく思はれた。なにか忙しさうで、落着かず、理窟つぽい調子があつて、從前のやうな悠長さやけだるい平和などは見えないのだつた。

 

ニッカボッカー氏の手記や序文のカートライトという人物の存在は、この枠物語に説得性を与えようとしている一方で、アーヴィング自身が社会へ警鐘を与え、読者に思考を継続させようとしています。本作はアーヴィングが物語の在り方そのものに着眼点を置き、思考を継続させていたからこそ生まれた作品であり、アメリカで初の散文作家と呼ばれる著者らしい作品でもあります。日本では森鴎外が『新世界の浦島』として翻訳しましたが、知らぬ間に時を経た人物の周囲の社会や実際の歴史的事実が描かれている点が、日本の昔話である『浦島太郎』と大きく異なる点です。その辺りの違いも、本作は楽しめる作品です。ワシントン・アーヴィング『リップ・ヴァン・ウィンクル』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

 

『ダフニスとクロエー』ロンゴス 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

ダフニスとクロエー (岩波文庫 赤 112-1)

 

エーゲ海に浮かぶ美しい島レスボスの自然に囲まれて育った山羊飼いの少年ダフニスと羊飼いの少女クロエー。春の田園に芽ばえた幼い恋は、やがて二人をはぐくむ自然が季節とともに移りゆくにつれ、しだいに成熟した愛へと深まってゆく。みずみずしい抒情あふれる古代ギリシアの牧歌物語に、ボナールの挿絵をそえておくる。


本作『ダフニスとクロエー』は、二世紀から三世紀のあいだにロンゴスという無名の作家によってギリシャ語で書かれた物語です。ローマ帝国東部ではギリシャ語が用いられ、古典のヘレニズムに影響を受けた文学芸術の変革が起こっていました。中上流階級の人々が嗜むものとして広まっていた当時の文学ですが、その知識と描写を示す筆致で描かれた作品は、後世の芸術にも大きな影響を与えました。

我々が特に親しく感じる「ダフニスとクロエー」は、モーリス・ラヴェルが作曲したバレエ音楽かと思われます。ラヴェルの作品のなかでも本作は特に壮大な印象を持っており、さまざまな打楽器(シンバルやカスタネット)を加えた大編成のオーケストラによる演奏に、合唱までも加えた特徴的な音楽として知られています。また、バレエ音楽として捉えた場合、振り付けや動きは楽譜によって数々の示唆があり、物語を一貫して眺めるニンフとパーンの神的な存在が、フルートやホルンによって強く印象づけるように奏でられます。初演は1912年でヴァーツラフ・ニジンスキーがダフニスを演じましたが、牧歌的な物語の主題と妖精の加護を受けた様子を見事な舞踏で演じ、現在に至るまで、バレエ「ダフニスとクロエー」の演目基軸を構築させています。

 

古代ギリシャ作品(ローマ帝国時代)で現存しているものは五作品と言われています。当時の流行として、敵の襲撃、嫉妬や憎悪、冒険活劇などといった他作品との共通要素はありますが、本作においては、中心となる恋人たちの「性の目覚め」が主題に置かれていることから、彼らの心理描写や焦燥などを細かく描いている点が特徴です。そのような意味でも本作は恋愛要素が強く、他の作品に見られる一目惚れのような恋の始まりは無く、徐々に意識が変化していく様子を楽しむことができます。また、エーゲ海の美しいレスボス島を舞台にしていることで、自然の美しさや牧歌的な暖かさが文章によって表現され、そこに宿る神々の恩寵と脅威に説得性を持たせています。作者ロンゴスの詳細は分かりませんが、作中でのレスボス島の美しい情景描写と神々の力強い存在感は、その想像性の豊かさによって齎されたのだと考えられます。また、愛と美を醜さによる対比ではなく、それらの持つ純粋さや高潔さを描き出した点は、非常に芸術的で、読者へ理想的な自然と神々との共存を夢見させてくれます。


語り部がレスボス島で狩猟をしていたとき、ニンフに守られる聖なる土地で、これまで見た中で最も美しい光景を目にしたと語るところから、物語は始まります。森も海も牧場も空気も、どれも素晴らしいもので、木々や花々は豊かに成長し、泉から流れる小川が全てを潤わせていました。これらに勝るとも劣らない、とても美しい男女がいました。男性はダフニスという山羊に育てられた捨て子で、女性はクロエーという羊に育てられた捨て子でした。二人はそれぞれの里親に引き取られ、ダフニスは山羊飼いとして、クロエーは羊飼いとして、幼馴染のように育てられました。ダフニスが十五歳、クロエーが十三歳に成長すると、周囲の目ばかりでなく、彼ら自身の精神にも変化が見られるようになりました。

そして、互いに仲の良さ以上の魅力を感じるようになり、やがて「異性」を意識し始めます。恋人となった二人には、恋敵や海賊といった外部からの障害が立ちはだかり、平穏な恋模様を脅かされますが、そのような問題が起こるたびに二人は信仰心から神々に祈り、また神々が純真な彼らを保護するように、自然を超越した力によって災いは振り払われます。彼らの素朴な純真は神々が与え、そして護るべきものであり、彼らは心に汚れを持たぬままに愛を育んでいきます。

あまりに純真であるが故に、俗世の理解がなく、性における無知というものが、彼らの恋愛における最重要課題となって現れます。接吻、抱擁と、必要な愛の表現は満たした二人でしたが、最後の性の交わりにまで辿り着くことができません。未知の恐怖と不安によって、ダフニスは激しい焦燥感に駆られます。そのような時、美しい青年ダフネスを手籠にしようと、浮気な夫人リュカイニオンが言葉巧みに彼を誘い出し、性の交わりの手解きをします。ダフニスはクロエーとの愛を深めるため、是非にとお願いし、リュカイニオン夫人と性を交えました。リュカイニオンは行為の後、クロエーはダフニスと性を交える際、血を流すだろうと忠告すると、喜び勇んでいたダフニスはクロエーとの行為を躊躇しました。二人の性の進展は停滞しますが、それぞれの運命は神々に導かれ、絵に描いたような幸福の溢れる終幕に向けて、物語は進んでいきます。

 

章(巻)が進むにつれ、ダフニスとクロエーはゆっくりと性に目覚めていき、相手を大切に想う気持ちが異性を愛する気持ちへと変化していきます。これに伴う季節や田園風景の変化は、彼らの心の美しさを表現するように、また、神々の神聖で強大な力を示唆するように、とても美しく描写されています。ロンゴスは娯楽としての物語を執筆しましたが、本作には素晴らしい詩性と文芸性が込められており、現代でも豊かな芸術性を感じることができます。当時に受け継がれていた、テオクリトスなどのヘレニズム時代に生み出された牧歌詩(ブコリカ)の影響を感じさせる作風により、本作の描写は自然が眼前に広がり、草木も動物も美しく、神聖さと生命力に溢れています。このような描写は、ロンゴスの抱く理想が反映された世界であり、神々の加護を得た人間の理想像としてダフニスとクロエーが存在しています。

 

また、本作では都会にはない田園地帯の牧歌的な風景の美しさを詳細に描いています。この美しさは、自然の生命力だけではなく、ニンフやパーンといった神々の加護が影響しており、ロンゴスはそのような環境に憧憬の念を抱いています。舞台となるレスボスという土地は、ロンゴスにとって神聖な土地であり、神々の加護による美しい環境と善を優先する支配が描かれています。そして、本作が大衆に向けた物語であり、それが受け入れられたことから、ローマ帝国時代の都会に住む人々も、やはり同様にこのような「神々の支配による世界」を望んでいたことが窺えます。当時のローマ帝国は周辺国との争いが絶えず、大衆は自分たちの暮らす社会がいつ壊されるかわからないといった心境であったことも、このような牧歌的物語が好まれたのだとも言えます。

 

やがて春が立ち初め、雪も消え、土が露われて草が萌えでると、牧童たちはみな家畜を牧場に連れだしたが、ダフニスとクロエーとは──なにしろただならぬ牧者[エロース]に仕える身であるから、牧場に出たのはどの牧童よりも早かった。二人はさっそくニンフの洞穴に向かい、そこから松の木の下のパーンのところへまわる、ついで例の樫の木に行き、その木陰に坐って家畜を見守りながら、互いに接吻をかわす。また神さま方の像にかぶらせようと花を探すこともある。花は西風にはぐくまれ、日の光に暖められて、まだやっと顔を出したばかりではあったが、それでも菫や水仙にるりはこべ、それにいろいろな早咲きの春の花は見つけることができた。クロエーとダフニスは、数頭の山羊と羊から新しい乳をしぼり、神像に花輪をかける時にその乳をふりかけてお供えした。そしてこれも神さまへの初穂のつもりで、笛の初吹きをした。それが鶯たちの歌心をよびさましたとでもいうのか、やぶの中で鶯が笛に答えるように鳴きだし、長いあいだうたわなかった歌をだんだんと思い出してでもいるかのように、イテュス、イテュスの歌声も少しずつ上手になっていった。

 

神の支配を望む大衆に向けた理想主義的な牧歌物語と示しましたが、作中の随所には非常に芸術性豊かな描写が溢れています。大衆向けの物語でありながら、当時では芸術性を前提とした執筆がなされており、大衆は芸術性を娯楽の一環として捉えることができるほど、それぞれの芸術偏差値が高かったのだと考えられます。また、本作だけでなく、牧歌詩や哲学なども現在に影響を与えていることが裏付けとしても理解できます。突飛な内容はありませんが、若人たちの性への目覚め、神々の恩寵、そして牧歌的な美しい自然の描写などで読者を楽しませてくれる本作『ダフニスとクロエー』、バレエとともにぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

時代別ロシア文学

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十二世紀から十三世紀にかけて起こったキエフ公国の分裂によって、ロシアの前身ルーシは東西から侵略を受ける危機的な状況にありました。西側から襲い来る脅威は、ドイツのカトリック教徒であるドイツ騎士団です。この北方十字軍は、東方を植民地化するという目的のもとでルーシへの進軍を行っていました。ルーシは正教徒(後のロシア正教)であり、信仰の点でも相容れないことから、両軍はルーシ西側で軍事衝突します。二度の大遠征が行われましたが、ルーシ側のノブゴロド公国が奮闘したことでドイツ騎士団は退き、ルーシは西方からの侵攻を阻むことができました。しかしながら、東方からはチンギス・ハンが治めるモンゴル帝国が侵攻してきました。モンゴルによる西方への大遠征は、強固な軍の突進が幾度も繰り返されるというもので、ルーシは手も足も出せずに支配されてしまいます。分領制(キエフ公国分裂により各地域の貴族諸侯が独自に土地を治めていた制度)の貴族諸侯たちは、それぞれに「公」という称号を与えられ、以降継続的にモンゴルへ貢納させられ続けました。このモンゴルによるルーシ支配は二世紀半にわたって行われ、ルーシの人々が東方遊牧民をタタールと読んでいたことから、モンゴルによる支配を「タタールのくびき」と呼んでいます。

十五世紀末、モンゴルの勢力が弱まったことで、イヴァン三世が貢納を跳ね除けて支配から逃れると、ロシアという国家の基礎を徐々に形成していきます。その後、雷帝イヴァン四世による官僚政治と貴族虐殺により、モスクワ大公国は絶対君主制ツァーリズムとなって、帝政ロシアの基盤を作り上げました。

十七世紀の後半には、ピョートル一世が皇帝に即位します。彼は圧倒的なロシア国力強化の熱を持った皇帝で、ヨーロッパ諸国と渡り合い、大北方戦争を二十年以上かけて制したことで、ロシアを世界的大国へと押し上げました。ピョートル一世は帝政ロシアを成立させると、歴代の皇帝が成し得なかった「西欧化政策」に着手します。これは、西欧の技術や文化を積極的に取り入れて自国民の文化水準を向上させようとする取り組みですが、同時に、哲学や芸術も同様に取り入れ、世界的大国としての「必要な成長」を目指しました。その結果、ロシアの文化は俗性が豊かになり、絵画や音楽といった芸術の方面でも効果が大きく現れました。そして、全国民が文盲であったロシアでも、西欧の文学とロシアの歴史が融合し、独自の詩性を花開いていきました。タタールのくびき、恐怖政治による検閲と、国民が文芸的発展の契機が得られなかった長い期間を経て、遂にロシア文学が生まれました。

本記事では、ロシア文学の変遷を時代ごとに分類して、それぞれの文芸思潮や経緯を展開していきます。よろしければ、お楽しみください。

 

ロシア・ディシデントのいわゆる「言説」がフランス流言説(ディスクール)とちがうのは、単純なことながら「言説」の依って立つ地点で生死を賭さざるをえなかったことにある。

川崎浹『「英雄」たちのロシア』

 

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西欧化政策による文化や思想の流入は、以後に発展するロシア文学の基盤を築き上げました。ロシアの国教は正教会です。このことから、聖書などで用いられていた古代教会スラヴ語を文学に用いるか、それとも日常的に使用されている通俗ロシア語を用いるか、文学者のあいだで激しい議論がなされました。この問題を、モスクワ大学の創始者ミハイル・ロモノーソフが『修辞学論』によって文壇に提起します。そして、詩人ヴァシリー・トレジャコフスキーの両言語を使用した折衷案を踏襲のうえ、1755年にロモノーソフは著書『ロシア文法』によって、ロシア文学言語の標準化を目指しました。また、西欧化政策に伴って国家による検閲が和らぎ、これまで禁止とされていた恋愛物語などが許可されたことで、ロシア文学の発展が幅広いものになりました。この時代はロシア文学の可能性を広げる時代であり、ロシア文学における言語を模索し、西欧の哲学や思想を翻訳したような作品が多く出版されました。

 

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十九世紀に入ると、大詩人アレクサンドル・プーシキンの登場により、ロシア文学は詩の黄金期に突入します。自然を感情と融合させて賛美し、自己の探究へと精神を誘う彼らの詩性はロシアの文壇を席巻しました。ミハイル・レールモントフとともに、黄金期のロシア詩は後の詩人サークルにも、散文作家にも、大きな影響を与えました。この文学思潮は西欧化政策によって流入したロマン主義が、ロシア詩人たちの詩性に結び付いて独自の芸術性を生み出しています。

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上流階級を中心としたロマン主義詩人の受容は、その名声とともに労働者層へも広がっていきます。しかしながら、貧困や苦悩といったものを抱えた労働者たちは、現実を無視した夢物語だと否定的に捉えだしました。そのような労働者層の現実社会を描き、階級社会の矛盾とそこに生きる人間の心理を詳細に映し出したのがロシア・リアリズムです。ニコライ・ゴーゴリ、イワン・ゴンチャロフ、ニコライ・オストロフスキーなどが活躍し、ロシア文学に社会性を問う根源的な精神を刻みました。

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そして黄金期は、政治や社会に対して労働者側の立場による批判を描いたイワン・ツルゲーネフ、貴族と労働者の社会を俯瞰的に捉えて疑問を投げ掛けたレフ・トルストイ、貧困に苦しむ労働者層に倫理観と信仰を織り交ぜて問題提起したフョードル・ドストエフスキーという大作家たちも活躍した時代です。彼らの作品は国境を越え、海を越えて、全世界で読まれ、偉大な評価を受けました。

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永続的に続くと思われたツァーリズムでしたが、資本主義化を目指すあまりに労働者層の負担を膨張させ、労働者たちは不満を募らせました。この苦しむ労働者たちは、打倒ツァーリを掲げるナロードニキに心を動かされ、社会主義革命を共に目指すことになります。一方で、ツァーリは保守的な貴族を抱えながら、資本を獲得して国内の経済を改善させるため、東アジアへの侵攻を展開しました。この同時期に、同内容で大陸侵攻を目指していた日本と接触し、日露戦争へと発展します。戦争中、ツァーリへの不信感を募らせた労働者層はナロードニキ運動を活性化させ、ロシアでは第一次ロシア革命が勃発しました。こうした社会背景における没落する保守貴族やナロードニキ運動の参加労働者、革命を目指す思想家などを描いた作品が、アントン・チェーホフ、フセーヴォロト・ガルシン、フョードル・ソログープなどによって発表されました。

 

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革命によりレーニンが率いるボリシェヴィキ(左派)がロシアの実権を握りました。1922年にソビエト社会主義共和国連邦が成立し、他国との関係も友好的なものへと変化していきます。こうしてロシアは帝政から一党独裁の社会主義国家となりましたが、レーニンの後継者ヨシフ・スターリンによって、独裁の性質に危険性を齎しました。世界恐慌を契機に、スターリンは自身の描く国政と違った方針を唱える官僚を次々に粛清していきました。そして、議会を恐怖で支配すると、次は国家を独裁者として支配していきます。やがて社会主義国家はファシズムの代名詞となり、国民は恐怖の生活を強いられました。しかし、希望を絶やさず、ソビエト社会へ独裁者を命懸けで批判し続けた人々がいます。これが銀の時代と呼ばれる詩人たちです。アレクサンドル・ブロークの率いるシンボリズム、アンナ・アフマートワのアクメイズムなど、多くの文学運動が生まれました。そして、彼らの多くは追放され、粛清されました。

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スターリンが死去し、ニキータ・フルシチョフが後継者になると、これまでの独裁体制の批判が高まりスターリニズム批判が巻き起こりました。フルシチョフはこれまでの粛清といった強硬手段を用いず、国民も比較的穏健な印象をもって、それぞれの社会を生きることができました。しかし、フルシチョフは粛清という手段ではなく、優遇という方針で議会を掌握します。芸術も同様に、国家の方針に沿った活動を行う音楽家や作家を優遇し、反抗する人々には厳しい境遇を与えました。こうして実質的なプロパガンダは継続されていきます。それでも表現の規制が緩和されたことで、優遇を捨て、自身の思想を社会に投げ掛けていった芸術家が多く生まれました。

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フルシチョフののちにレオニード・ブレジネフが第一書記となり、雪解けは継続し、国家は経済の発展へと目を向けていきます。しかし、1968年に起こったチェコスロバキアでの改革「プラハの春」によって、ブレジネフ政権は国内に起こる自由主義の声を抑圧しなければならなくなりました。プラハの春は、チェコスロバキアのアレクサンデル・ドゥプチェク第一書記が「人間の顔をした社会主義」という標語を掲げて世界的な言論の自由化を求めて起こした革命ですが、この出来事が同様に抑圧された周辺諸国に伝播し、他の社会主義国にも運動が波及していきました。ブレジネフは築き上げた共産党体制基盤を揺るがすこの脅威を、ドゥプチェクを「修正主義者」と非難したうえで武力弾圧を行って革命の波を収束させました。このような状況下にあるロシア文壇では、作品の検閲が厳しくなり、作家も自由に創作をすることができなくなりました。しかし、ロシア文学が停滞を見せるこの時代に二人の散文作家が活躍します。ユーリー・トリーフォノフとヴァシル・ビコフは、ともに実存主義作家として知られ、当時の社会における矛盾、いわば経済成長下にある思想の不自由をリアリズムで描きました。当時の社会に潜む国民の呻き声が、作品の中から聞こえてきます。

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1986年からミハイル・ゴルバチョフによって進められたソビエト連邦の再構築改革「ペレストロイカ」は、ロシアの国政や文化、芸術や経済まで、多方面に劇的な影響を与えました。スターリンの時代より続いた不健全な政治体制の変革、グラスノスチと呼ばれる国家の秘匿を明かす情報公開による歴史の修正など、ペレストロイカは国家の気質そのものを変える抜本的な変化でした。この影響はロシア文学にも計り知れない影響を与え、思想や哲学を自由に表現できるようになり、世界から歴史的事実とともに、ロシア文学は現在でも注目されています。

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『セメント樽の中の手紙』葉山嘉樹 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

教科書で読む名作 セメント樽の中の手紙ほかプロレタリア文学 (ちくま文庫 き 41-6 教科書で読む名作)

 

二十世紀初頭の日本は日露戦争、第一次世界大戦争と、相次ぐ戦争によって国民は激しく疲弊していました。軍需捻出のために国民の生活は貧困に見舞われ、生活を支える青年たちは徴兵され、国民は各地で苦しい生活を強いられていました。そのようななか、1917年におこったロシア革命の影響が日本にも流れ込み、国内で共産主義運動が活発化していきます。資産を持った一部の富裕層による土地や資本の占有(私有財産制)や君主制の否定を目指すこの運動は、勢いをつけて全国規模で拡大していきました。当然ながら政府は、このように反旗を翻す国民たちに対して武力を持って強引に弾圧していきましたが、それでも各地で頻繁に起こる共産主義運動は、やがて労働者の権利を主張する「労働運動」へと派生し、劣悪な環境下で働かされる労働者たちによるデモやストライキが頻繁に行われました。そして、共産主義運動の影響は文壇にも現れ、葉山嘉樹(1894-1945)、小林多喜二、徳永直といった作家が名を連ね、社会主義文学(のちのプロレタリア文学)として広まっていきました。


社会主義文学は、労働者たちの尊厳を主張するものでしたが、前述の作家たちによる作品は強烈な熱量とともに芸術性も秀でており、この点が国民一般の支持を得た理由でもあり、新たな文芸思潮の創生となった原動力でもありました。こうした文芸運動の先駆けとなったのが、1926年に発表された葉山嘉樹の『海に生くる人々』という作品です。当時は他国からの技術流入によって日本社会の資本主義化が見え始めた頃で、こうした社会の富裕層に向けた批判を込めた横光利一や川端康成らの新感覚派や、苦しい生活に一筋の光を求めた吉川英治や大佛次郎らの大衆小説が隆盛を見せ始めており、葉山のような「労働者の直接的な主張」が文学として歓迎されやすい環境にもありました。作品としては長篇の物語ではありますが、随所で葉山自身の思想論と思われる記述が現れ、鋭い観察眼による社会描写と激しい労働者の人権主張が何度も繰り返されています。ここには、葉山自身の感じた痛みや憤りそのものが表出し、労働者の置かれている立場や環境が目の前に繰り広げられています。

 

水夫たちは皆、それぞれの嗜好に従って、横浜へ着いてからの行動や、食物について空想に浸っていた。デッキの上では、彼らは陸にさえ上がれば、あらゆる快楽がある、それが待っていると思う。自分たちが縛られ、奴隷扱いにされ、自由を略奪され、労働力を搾取されていることは、陸と、デッキとの間に海が横たわるからであると、無意識のうちに考えていた。それはちょうど牢獄に監禁された囚人が、赤い高い煉瓦塀のかなたには、絶対の自由がある。自分はそこでは自分の好む通りにすることができる。そこは、そのまま天国だと、考えるようなものであった。ところが監獄の塀の外にも、彼の考えたような自由はその影もなかったように、また甲板の上で考えたような自由と幸福とは、決して陸上にもありはしなかった。彼らは、それを、彼らが上陸するたびに味わった。そして、陸上で自分の財布を地面へたたきつけ、自分の着ているその無格好な汚れた着物を引き裂き、労働で荒れた、足の踵のような手の皮を引んむいてやりたく思うのであった。それらが、彼らがせっかくあこがれ切った陸に上がったにかかわらず、彼らから自由と幸福とを追っぱらった。労働者は、自由や幸福や、人間性が、賃銀を得つつある間に自分に与えられ、あるいは自分からそれを得ようとすることが、全然不可能なことであることを知るようになる。人間が牛肉を食うと同じように、人間が人間を食う時代の存続する限り、労働者は、その生命が軛の下にあることを自覚しなければならない。水夫らは、そんなふうなことを感じた。

葉山嘉樹『海に生くる人々』


物語のなかで繰り返されるこうした思想論は、当時の労働者たちの胸を打ち、同情し、同調し、惨憺たる状況に追いやられている立場を自覚させ、労働者たちは一層の「社会を変える意思」を高めました。こうした論説が、自分たちとも重なる労働者の物語に挿話的に繰り返され、自然と自分の置かれた環境と社会の問題を同軸化させ、読者は社会主義運動を肯定的に捉えるようになっていきました。そして、葉山の作品に続くように、小林多喜二の『不在地主』や徳永直の『ファッショ』といった社会主義運動や活動戦略が作品のなかに持ち込まれるようになり、この文芸思潮を「プロレタリア文学」と呼ぶようになりました。いわば、人間が人間らしく生きるための根本思想と、それを実現するための革命運動が、プロレタリア文学の根源として存在していました。人道主義や労働文学などでは主張されなかった「労働者も人間である」という最低限の主張が、描かれる人間像と挟まれる思想論によって、当時の若い作家たちに強い影響を与えたことは事実です。

 

お前はどう思う。俺たちが何故死んじまわないんだろうと不思議に思うだろうな、穴倉の中で蛆虫見たいに生きているのは詰らないと思うだろう。全く詰らない骨頂さ、だがね、生きてると何か役に立てないこともあるまい。いつか何かの折があるだろう、と云う空頼みが俺たちを引っ張っているんだよ

葉山嘉樹『淫売婦』


本作『セメント樽の中の手紙』は、葉山を作家として日本の文壇に確立した作品です。しかしながら、本作ではこうした思想論を用いずに社会の悲痛を直截的に訴えかけたもので、短篇という構成からも本作は読者の層を広げ、大きな支持を得ることに成功しました。奇跡派として活躍していた宇野浩二も、本作には労働者の「真実の叫び」が込められていると絶賛しており、当時の文壇に大きな衝撃を与えていたことが理解できます。


過酷な建設現場で働く松戸与三は、セメント樽からセメントを枡で測るという仕事を朝から晩まで勤め上げていました。ある時、開けたセメント樽から小さな木箱を見つけ、忙しい中で取り敢えず手にして作業を続けました。箱が軽いことから金銭は入っていないだろうと考えた与三ですが、開けてみると手紙が入っていました。これは女工が書いた手紙で、セメントを作る工場で働く恋人が、運悪く砕石機のなかに巻き込まれて絶命したという事故が綴られていました。そして、恋人が巻き込まれたセメントがどのような建物に使用されたのか知らせて欲しいという訴えで締め括られていました。与三は向けどころのない憤りと絶望感に苛まれ、何もかも放擲したい気持ちに駆られます。しかし、妻の言葉に現実を見て、また無力を自覚して物語は終わります。


鼻についたセメントを拭う時間すら惜しいという過酷な労働環境は、当時では特別なものではなく、人命よりも効率を優先させる恐ろしい社会でした。建設現場だけでなく、小林多喜二の『蟹工船』でも見られましたが、労働者は人間ではなく資本家の奴隷であり、労働者の生命は非常に安いものでした。砕石機に巻き込まれた際に、稼動を止めずに作業を続けたことも同様の理由にあります。与三が稼ぐ賃金の半分以上は家族の食事に消えてしまい、気を晴らす楽しみも、環境を打破する行動もできない、非常に苦しい生活環境にあることが物語から見えてきます。それでも労働者は人間であり、与三には感情があり、社会の在り方が不自然であることが窺えます。木箱の軽さから金銭が入っていないと感じた与三は、紙幣といった概念そのものが欠落しています。この点も、貧困に喘ぐ労働者層の裏付けとして感じ取ることができます。


手紙は一方通行なもので、書かれた内容を与三は受け取ることしかできません。真偽(手紙が悪戯である可能性)などへの関心以前に、その内容の衝撃と憤りは、同じような非人道的な労働環境にある与三に他人事とは思えない感情を呼び起こさせます。与三は自分の生活、或いは人生を顧みて何もかもを放り出してしまいたい気持ちに駆られました。生きる環境そのものが苦痛に満ち、さらに行き場もなく、逃れる術も見出せないからこそ、与三は生活から抜け出したいと感じたのだと考えられます。しかし、妻の一言により、自分の置かれた現実を目の当たりにして、自分は「この環境で生き続けなければならないことを自覚」し、行き場なく打ちひしがれました。

 

松戸与三は、湧きかえるような、子供たちの騒ぎを身の廻りに覚えた。
彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗に注いであった酒をぐっと一息に呷った。
「へべれけに酔っ払いてえなあ。そうして何もかも打ち壊して見てえなあ」と怒鳴った。

葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』


同情し、手紙に心を動かされた与三は、労働者としての意識が高まり、社会を変えようという革命の意思を抱きましたが、家族に囲まれた自分の現実を再認識させられ、変革の一歩さえ踏み出せない労働者の現実に、激しく絶望させられました。この「労働者の絶望」を思想的議論を用いずに、読者へ直截的に訴えかけた点が、本作の大きな特徴であり、秀でた点でもあります。


葉山嘉樹がプロレタリア文学の先駆け作家として、その主張を凝縮した本作『セメント樽の中の手紙』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

riyoriyo.hatenablog.com

 

『悪の誘惑』(義とされた罪人の手記と告白)ジェイムズ・ホッグ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

悪の誘惑

 

カフカやブランショの先駆をなすとも評価される最も優れたゴシック小説のひとつ。宗教的狂言、兄弟の憎悪劇、分身などを主題として人間の悪魔性を真正面から描き出した幻の傑作。見事な幻想譚をも収録したこの忘れられたスコットランドの畸人作家の初紹介。

 

1542年、ジェイムズ五世の第三子メアリー・スチュアートは、わずか生後六日でスコットランド女王に即位しました。フランス出身の母マリーが摂政となった影響で、スコットランドはフランスとの関係が強まり、のちにメアリーはフランスのフランソワ二世と結婚し、フランスへと移住します。彼女は熱心なカトリック教徒で、当時、ヘンリー八世の身勝手な宗教改革が為されたイングランドとも激しく対立し、カトリック教会を擁護しようと躍起になっていました。しかしながら、スコットランド国内でのカトリック教会の腐敗も露呈し、カルヴァン派を代表するジョン・ノックスがこうした批判者たちを煽動し、スコットランドにおいて宗教改革を起こしました。フランソワ二世が死亡したためスコットランドへ帰国したメアリーは、当初カトリックとプロテスタントを友好的に共存できるように計らいました。それぞれを代表する貴族らは小競り合いを見せていましたが、やがて抗争は鎮圧されて落ち着きを見せ始めます。頃合いを見計らってメアリーは再婚相手を見出しますが、結婚生活は上手くいかず、関係は冷え切っていきます。また、メアリーはスコットランド軍を率いるボスウェル伯に好意を持ち、その関係を密にしていきます。周囲が妙な空気を感じ取り始める頃、再婚相手は殺害されました。直後にボスウェル伯とメアリーは結婚しますが、二人が共謀して夫を殺害したと考えられ、スコットランド内のカトリック貴族とプロテスタント貴族は、この結婚に猛反対しました。この反対意思は反乱へと繋がり、ボスウェル伯の率いる軍と争い、反乱軍に捕えられたメアリーはスコットランド女王を廃位されました。スコットランド議会はメアリーの子ジェイムズ六世(イングランド王ジェイムズ一世)を一歳で即位させると、ノックスが推し進める改革派教会をスコットランド国教と定めさせました。こうして、スコットランドでの宗教改革が成されました。ノックスは徹底した聖書中心主義であったため、偶像崇拝やカトリックが行う儀式を認めず、カトリック教会と対峙する形になりました。その後、ノックスの弟子アンドリュー・メルヴィルが跡を継ぎ、長老主義を採用したため、スコットランドのカルヴァン派は「長老派」(プレスビデリアン)と呼ばれるようになりました。


イングランドにおいて、ジョージ一世の次の国王チャールズ一世が実権を握ると、スコットランドへイギリス国教会の主教制度を強制するようになりました。これに対し、長老派は頑なに抵抗し、1637年に反乱を起こします。チャールズ一世は遠征を行い、軍事力によって屈服させようと試みましたが、財政難に悩まされます。国民への課税で賄おうとしたチャールズ一世でしたが、イングランド議会はこれに反発し、国王と議会が対立したことによって、混乱はピューリタン革命へと膨れ上がっていきました。宗教的な対立と君主制度への反発が入り混じり、イングランドとスコットランド、そしてアイルランドを巻き込んだ三国は混乱の歴史を刻みました。そして、各国での宗教的な主張は枝分かれし、さまざまな教派を生むことになり、また対立を多く招きました。


スコットランドで起こった宗教改革は、結果的にヨーロッパ全土に大きな宗教的な影響を与えました。そして、スコットランドのプロテスタントは独自の発展を遂げることになります。カルヴァン派はマルティン・ルターのプロテスタント教義を基盤としていますが、芸術に関する捉え方や、その解釈や存在に対しては特殊な理解が成されていました。カルヴァンは「人間が天国に行くことができるのは神の恵みによるもののみ」であると信じていました。この救済の考え方、つまり、救いは神により決定されているという考えを「予定説」といい、カルヴァン派はこの救済を核心としています。しかし、主権は神にあって救済は生まれながらに決定されているというカルヴァン派に対し、善行や告解によって罪が赦されるというカトリック教会の教えは相反するものであり、この点での両者の対立は抗争にも発展しています。


このカルヴァン派が主張する「予定説」には、以後に問題となった欠陥がありました。生まれながらに救済を決定されている者は、信仰と神の恵みを原則とし、外部からの強制や献身、或いは義務感や道徳的感情は救済に何ら影響しないという主張を強める者が現れました。砕いて言うならば、国や社会が定める法律や、旧約聖書の律法さえも守る必要はなく、むしろ神の導きにあるならば罪とされる行為であっても強行し、神の福音のみに守られるという考えです。さらに曲解し、救済を約束された者は罪悪な人間を現世から排除する「罪の許可」があり、将来に犯した罪の悔い改めは不要であるという恐ろしいものもありました。これらを主張する予定説信者は「反律法主義者」と呼ばれ、教義上の問題としても取り上げられました。


1824年に匿名で出版された本作『悪の誘惑』(原題『義とされた罪人の手記と告白』)は、スコットランドの作家ジェイムズ・ホッグ(1770-1835)によるもので、出版当初は話題になりませんでしたが、死後にフランスのノーベル文学賞受賞作家アンドレ・ジイドに見出され、その絶賛を序文に添えて再版され、スコットランドにおける古典文学のゴシック小説の代表作として、現在でも幅広く研究されています。本作の中心的な主題である反律法主義と、当時の宗教的社会が如実に描写されていることから、ゴシック小説としてだけでなく、社会の宗教観という側面からも研究が進められています。本作は、出版当時よりも一世紀以上も前の時代が描かれた歴史小説でもあります。


本作は三部によって分かれています。一つ目は手記を元に調査を進めた編者によるもの、二つ目は罪人の手記そのもの、三つ目は著者による現在が描かれます。作品の構造上、訳者の言葉にもあるように、あまり物語を明かさない方が良いと思われますので、概ねの内容に留めたいと思います。義とされた罪人とは、ロバートという青年です。父親に見捨てられたロバートは、狂信的なプロテスタントの母親と後見人となったウリンガム牧師によって育てられます。父親に可愛がられ続ける兄に対する嫉妬は幼少期から膨らみ続け、その性格形成において大きな歪みを与えました。反律法主義のウリンガム牧師に育てられたロバートは、宗教観も極度なものを持ち、反律法主義的な考えが確立していきます。ウリンガム牧師が熱狂的に祈り続けたため、神が救済に選んだとロバートに告げると、予定説を自己解釈し、危険な思想を膨らませていきます。その直後、ある男性に出会うことで、反律法主義と激しい嫉妬が絡み合うロバートは、恐ろしい言動を起こしていきます。


本作では、反律法主義による罪悪行為は罰せられるのか、という点が読者に問いかけられており、その加害者と被害者の双方から辿ることができるようになっています。残虐で理不尽な行為は、熱心な信仰と都合の良い曲解によって罪に問われないのかという主張を、本作においてホッグは冷笑的に描いています。

 

この瞬間から私は、自分が福音の使者というよりはその闘士として、この世から主の敵を一掃するよう神慮によって定められたのだということが分った。そして、剣で罪人たちを倒す方が、説教壇に立って罪人たちを悔悟させようと熱弁をふるって説ききかせるより自分には似つかわしいと思われ、その使命に有頂点になったのだ。しかも、人間の運命は神によってあらかじめすっかり定められている以上、罪人が悔悟するということなど実際上は永遠に不可能ではないか。こうしたことに考えを巡らせば巡らすほど、聖職者が、罪人たちをとても出来るはずのない正しい行いに就かせようと、懸命に忠告を与えて一生を過していくのがどれほど愚かしく、また矛盾したことであるか、ますますはっきりと分ってくるのだ。神が人の子として生れてくるあらゆるものの運命をすでに最初から決められているからには、不可変の神慮によって創造主から破滅を宣せられたものを人間の力で救おうとするのは、何と無駄なことであろうか。私は、最上の師が教えてくれ、また聖書のすべての言葉が指し示しているとされた教理を言じないわけにはいかなかったが、その教理から見ると、キリスト教界の理法はまったく矛盾に満ちたものであると思えるのだった。

ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』


ロバートが救済に選ばれた者だと告げられた日、彼は謎の男性ギル・マーティンに出会います。ロバート以上の反律法主義者で、彼を言葉巧みに罪悪に塗れた救済の道へと導きます。手記によって明かされる理不尽な罪の数々は、ロバートの思想が激しくなっていくのと同時に、自己特別視の快楽にも溺れさせていきます。フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』のラスコーリニコフは、自身の考えを正当化させるために、ある種の論理性をもって自己特別視に辿り着きますが、本作のロバートは、このギルとの議論によって誘導されるように辿り着いていきます。ロバートの判断は、自分に都合の良い論理を正当であると捉えると同時に、救済に選ばれたという神の加護を重んじるもので、どこかしら敬虔さを悪用しているようにも感じられます。注目したい点は、ロバートがギルに誘導される以前から、兄への嫉妬を募らせた「罪への渇望」が見られたことです。ロバートは既に蓄えていた悪魔的行為の願望を、ギルという人間を口実に実行したという側面が多分に見え、極端な信念を正当化することで罪悪という認識を放擲したのだと言えます。


ギルという存在は、他の面でもロバートに強い影響を与えています。当初、ロバートはウリンガム牧師と教義や教理を話し合っていました。尊敬すべき熱狂的な牧師のウリンガムは、過ちなど犯すはずがなく、確実に正しい存在でした。しかし、ギルの登場以降、こうした教理的問答はウリンガムと行いません。父親としての存在は義父ウリンガムから友人ギルへと移り、ロバートは価値観の共有が望める友人へと傾倒し、反律法主義を悪い方へと促されたのだと考えられます。


事件を追った第一部とロバートの手記である第二部は、概ね同じ出来事を辿っていきます。しかし、言動や状況、そして姿勢においては全く違った主張が双方でなされています。特に、ロバートの手記においては、彼は非常に勇敢で、真っ当で、正義の心を持った言動をしたと記されていますが、目撃者との意見とは大きく食い違っています。こうした記述が続くため、読者はロバートの手記の信憑性を疑うようになります。そして、後半のロバートはギルを悪魔のような存在として主張しています。確かに、編者の記述でも、ギルらしき存在は認められていますが、そこには曖昧な点があり、完全な悪魔的存在だと表明しているのはロバートのみです。また、ロバートが身に覚えのない行動をしたという経験、ロバートが半年間も記憶をなくしたという経験から、ロバートには精神分裂症のような症状が見えてきます。しかし、信憑性という点では相変わらず疑わしいものであるため、自身の反律法主義に則った悪行を、自身の他の人格が悪魔に唆されたために、意識のある自身はむしろ被害者であると訴えているようです。この主張を聞き入れるならば、ギルが悪魔という存在ということになりますが、記憶にある悪行は意識のある自身が判断したのであり、ロバートの信仰する神こそが悪魔であると断罪できます。

 

祈りは今では単なる利己的なものに堕してしまい、誰もが絶えずあれもこれもとただひたすら求めているだけではないか。それでいて人間は自分の運命に満足し、創造主が適当であると考えて授けてくれた恩恵に感謝するために、ただ創造主たる神の前に膝まずくだけなのだ──

ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』


本作では、当時のスコットランド社会に対しても、随所に皮肉が込められています。会話のなかでホッグは貴族と下層民を分けて描き、どちらが真っ当な良識を持っているのかを明確に描いています。反律法主義を否定的に描いている点が中心にはなりますが、ゴシック小説、さらには心理的ミステリとも捉えることができ、現代の犯罪小説としても読むことができます。


さらに、スコットランド社会に対するかなり皮肉な洞察も豊富です。大部分は標準英語で書かれていますが、会話の中には見事に方言が使われており、ホッグはスコットランドの様々な地域を巧みに区別し、「庶民」の方が社会的に「上層」の人々よりもはるかに常識があることを示唆しています。


本作は、スコットランドの作曲家トーマス・ウィルソンによって、1974年にオペラ化されており、古典作品として現代でも愛され続けています。ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『人間の運命』ミハイル・ショーロホフ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

人間の運命 (角川文庫 シ 27-1)

 

ロシアの貧しい青年アンドレイは、清純な妻と幸福な家庭を築くが、ドイツ侵攻に出征後、捕虜生活から脱走してみると妻と子供達は皆空襲で死んでいた。絶望の底で流浪の人生を送る彼は一人の孤児に出会う……。


ソビエト文学では、過去よりアントン・チェーホフやイワン・ブーニンをの作品を代表として引き継がれ、海外のギ・ド・モーパッサンやシュテファン・ツヴァイクなどの作品の人気が膨らみ、短篇小説が一種の流行となっていました。その集中的な流行熱はレフ・トルストイやフョードル・ドストエフスキーなどの偉大な長篇小説を凌駕し、国民は新たな短篇小説を求めました。1926年から約15年にわたって発表されたミハイル・ショーロホフ(1905-1984)の大河小説『静かなドン』は一貫した短篇集で、当時の国民の流行に合致し、ヨシフ・スターリンも愛読したと言われています。これは、ロシア革命後の赤軍と白衛軍が巻き起こす内戦からドン河周辺を自治警護するコサックたちの物語で、市民戦や悲劇などに翻弄される様子を社会主義リアリズムで描いた作品です。それぞれの話は短篇形式で描かれており、長篇よりも読者に緊迫感を与え、作品構成そのものにも緻密さが感じられます。また、リアリズムな描写が読者に現実との重なりを感じさせ、経験を甦らせて深い感動を与えることに成功しました。


ショーロホフの作品は、物語の流麗さや読者への配慮が強く感じられますが、そこには推敲された簡潔さと熱量に緩急をつけた筆致が要因として挙げられます。僅かな言葉で読者は喜怒哀楽を受け取り、そこに込められる抒情性をより豊かに感じることができます。ショーロホフは人間の喜びと悲しみに誰よりも共感し、主題の意図を丁寧に伝えることを意図しています。本作『人間の運命』は、『静かなドン』よりも時間が経過した大祖国戦争後、つまり、第二次世界大戦争後の時代背景で描かれています。作品に込められた人間の悲しみと不屈の精神は、現代の読者にも強い思想を訴えてきます。本作は大祖国戦争の体験者が実際に経験した内容を反映させています。ショーロホフが釣りをして休憩していると、物語のプロローグと同じ状況で男性と男児が近づき、男性は経験をショーロホフに語りました。ショーロホフはその話を受け止めて感動し、本作を練り上げて完成させました。


物語は、語り手が川の辺りにある渡し船の近くでアンドレイ・ソコロフに出会うところから始まります。二人は腰を下ろし、アンドレイは自身の人生について語り始めます。ヴォロネジで工場の整備士として働いていた彼は、とても気立の良い心優しい女性イリーンカと結婚します。自動車に関心を持ったソコロフは整備士の力を活かし、車の整備もできる運転士となりました。息子アナトーリイと娘二人も生まれ、ソコロフは幸福な生活を手に入れました。しかし、1941年に大祖国戦争が始まると、彼は対ドイツの前線へと召集されました。悲劇を感じ取った妻イリーンカは見送る場面で大きく取り乱し、宥めきれなくなったソコロフは彼女を軽く突き放しました。

軍用運転士となったソコロフは、戦場の砲火や地雷に曝されながら物資を部隊へ何度も輸送しました。ある時、激しい戦場の爆発に巻き込まれた彼の運転する軍用車は横転し、ソコロフは車内で激しい脳震盪を起こしました。時間が経って気がつくと彼はドイツ兵に囲まれており、ここから、苦しい捕虜の生活が始まります。捕虜となったソビエト兵は廃れた教会に押し込められました。使命を全うする真の軍医、保身のために上官を売ろうとする兵士など、さまざまな兵士たちと捕虜生活を過ごすソコロフは、ある日、溢した愚痴を密告され、司令官に呼び出されます。死を覚悟するソコロフに司令官はドイツ軍勝利を祝って乾杯しろと迫ります。自身の信念を曲げることなく、そして失礼な言動を取らず、彼は決死の対応を見せました。すると、思いがけずに命を救われ、さらには食糧を与えられて仲間の元へと帰されました。彼は顛末を周囲に話し、食糧を兵士たち全員へ平等に分配しました。

その後、ソコロフは運転技能を買われてドイツ軍少佐の運転手として駆り出されることになりました。この機会を活かし、彼は酔い潰れた少佐を拉致してソビエト軍の元へ車で向かいます。前後の双方から銃弾を浴びせられながらも運良く無事に辿り着いた彼は、捕虜から帰還したことを伝え、ソビエト軍に匿われました。その後、療養のために入院していたソコロフでしたが、イリーンカへ出す手紙の返事が届かず、不安な気持ちを抱く日々を過ごします。すると、彼は家の隣人からの手紙を受け取り、衝撃的な事実を知らされます。妻のイリーンカと二人の娘は、ドイツ軍の爆撃により死亡していました。息子アナトーリイは市に行っていたため命は助かりましたが、被害を見た彼は軍に入ることを決意したのだということでした。

悲嘆に暮れるソコロフでしたが、三ヶ月後に朗報が届きました。アナトーリイが前線に出て砲兵中隊長として活躍しているという報せは、ソコロフの心を軽く、明るくしました。戦況が激しくなり、手紙を頻繁にやり取りすることはできませんでしたが、彼は再会に期待を膨らませていました。ようやく会う機会が迫ったとき、戦争に勝利した日、アナトーリイはドイツ兵に狙撃され、殺されてしまいます。希望も潰え、行く宛の無いソコロフは、友人を頼りにウリュピンスクに向かいました。友人夫婦のもとへ住み込み、自動車中隊で働き始めたころ、一人の男の子と出会います。そして、ここから、悲哀に満ちた感動的な終幕へと物語は綴られていきます。


ソコロフの運命は、ソビエトの国民すべてが受けた苦しみ、そして打ち克つ不屈の精神を映し出しています。ショーロホフは、戦争行為が国民の幸福な生活をいかに破壊し、愛する人をいかに奪っていくのかを明確に描くとともに、その喪失と不幸を目の前にしても潰えない信念と親愛の心を美しく表現しました。リアリズムで描かれるソコロフの運命に読者は気持ちを重ねますが、非人道的な困難が与えられ、家族や幸福な生活を失い、それでも不屈の精神で未来と愛を見出そうとするソコロフに、読者はやがて彼に象徴性を見出します。ショーロホフは本作の舞台を大祖国戦争後、つまり、国民が「英雄的象徴性」を求める時代に重ね、戦争を生き抜いた国民に「ソコロフという象徴」を一人の運命の物語として提示しました。各国民が経験した困難や不幸を、ソコロフの運命が精神的な救済という意味合いでの共感を招き、本作は今でも愛され続ける作品として存在しています。


ソコロフの見せる勇敢さや優しさは、倫理観ではなく正義感が優先しています。妻と二人の娘、そして息子を戦争によって失った悲しみは、決して周囲へ暴力的に発散しません。彼は絶望の淵に立たされても、自身の尊厳と他者への慈悲を保ち続けます。彼の勇気や自己犠牲は、不幸な環境にあっても絶えず示され、そのように他者を守ろうとする姿勢から、彼には英雄としての存在感が現れます。彼の放つ英雄の光は、謙虚さと自己犠牲によって説得性を齎しています。ソコロフは他者の苦難や不幸を我が事のように捉え、同調して自身の正義感に則って行動します。こうした言動は捕虜仲間の軍医の良心と重なる点ですが、他者を救おうとする正義感は「美しい社会主義の心」として示され、ソビエト国民が感動し、共感を覚える点でもありました。


物語の最後に見せるソコロフと少年の経緯は、ショーロホフが示した一つの救いの道でした。全てを失い、絶望の淵に立たされた二人は「親愛」によって繋がれます。戦争によって生まれた二人の被害者、全てを奪い取られた二人の被害者は、引き寄せられるように互いを受け入れます。たとえ絶望の底の底に立ったとしても、決して屈しない精神と尊厳によって、人間は運命に新たな光を見出すことができると、ショーロホフは強い意志を作品に込めています。

 

身内を失った二人の人間、未曾有の力を持った戦争の烈風のため見知らぬ土地に吹きとばされた二つの砂粒……この先、何が彼らを待っているのか?不屈の意志を持ったこのロシヤ人が、万事を見事に持ち堪え、あの子が父の肩で成長し、大人になった時には、祖国が求めるならば、あらゆる事に耐え、行く手のあらゆるものを克服し得る人間になる、と私は思いたかった。

ミハイル・ショーロホフ『人間の運命』


本作では、不屈の精神、他者への自己犠牲、確固たる正義感といったものが凝縮して描かれています。過去の話として語られる作品構成によって、ソコロフの言動が確定したものとして読者に明示されるため、そこに描かれる信念や正義感も強い説得性を持っており、悲惨な過去を乗り越えた「現在」に希望を抱かせる気持ちを与えられます。ここにこそ、ショーロホフの「人間の運命」を肯定的に捉えようとする姿勢が見えてきます。


彼は1965年に『静かなドン』の功績によってノーベル文学賞を受賞しています。その前年である1964年に、フランスの作家ジャン=ポール・サルトルがノーベル文学賞を辞退しました。辞退の理由として、個人的な理由(彼は公的な賞を全て辞退)に加え、ノーベル賞が「西洋文化における最高権威」になったこと、ショーロホフに賞が授与されなかったこと、そして「ノーベル賞を受賞した唯一のソ連作品は、海外で出版され、自国では発禁処分となった本だった」こと(1958年に受賞したボリス・パステルナークの件)を遺憾に思うと表明しました。この経緯によって、ショーロホフはソビエト連邦作家同盟の司令部に認められた初のノーベル文学賞受賞者となりました。雪解け期にあったとは言え、ショーロホフは政府の御用作家と揶揄されることがありますが、彼の作品には絶対的な「他者への親愛と正義感」が込められており、それは彼の強い信念でもあったのだと思います。


ミハイル・ショーロホフの芸術性が凝縮された本作『人間の運命』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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人間の運命 (角川文庫 シ 27-1)

人間の運命 (角川文庫 シ 27-1)

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『隠者の夕暮』ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

隠者の夕暮,シュタンツだより (岩波文庫 青 703-1)

 

民衆教育の父ベスタロッチー。彼は真の社会改革は教育によってのみ達成できるという信念によって、終生、貧民の救済と教育方法の探究に力をそそいだ。彼の教育思想の根本体系をもっともよく伝える処女作「隠者の夕暮」と孤児教育の成果を語る「シュタンツだより」。新字体・現代かなづかいに改め、略年譜を付した。


教育の祖ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746-1827)は、ジャン=ジャック・ルソー『エミール』の教育思想に大きく影響を受け、幼児教育の祖とされるフリードリヒ・フレーベルを弟子に持ち、幼児知育を世に知らしめたマリア・モンテッソーリ、学校の共同生活に教育性を見出したジョン・デューイ、認知発達論を提唱したジャン・ピアジェなどに根本的な教育思想を与えました。ペスタロッチは教育と福祉に対し、当時では革新的な思想を持つ革命家でした。もっと言えば、その思想はあまりに理想主義的で、彼の精神は夢想家そのものであったと言えます。彼の教育や福祉に対する情熱の根源には、「経済的に恵まれない人々への思いやり」と「スイスという国への強い忠誠心」がありました。貧困に喘ぐ同胞の生活を改善させることに対して真剣に向き合い、社会をどのように変えるべきかを追求します。そして、同胞やその子供たちがより良い社会を形成させる手段として、「教育」の観点から同胞たちの根源的な変革を理想として抱きました。ペスタロッチは、全ての子供たちは良質な教育を生まれながらに受ける権利があると信じ、その恩恵が広く一般に行き渡り、社会の根源的な改善へ繋げるべきであると考えていました。裕福な子供だけが教育受けられる社会にありながら、ペスタロッチは貧困層の子供たちへ私財を捧げて「真の改革」を目指しました。


スイスのチューリッヒで生まれたペスタロッチは、幼い頃に父親を亡くし、母親の深い愛情に包まれて育ちました。大学時代に触れた『エミール』の強い衝撃は、当時のフランスが発信した「自由と平等」の理想と融合し、彼のなかで教育は特権階級だけのものでなく貧困層にも平等に与えるべきであるという思想を形成しました。貧困層の多くは農民たちでしたが、教育を受ける環境がない以前に、学校という施設そのものが機能していないことに気づきます。当時の学校では、教師は生徒に関心を持たず、馬小屋のような建物を校舎と呼び、老人や傷痍軍人が大雑把な管理を行っていました。既に廃墟と化している施設も多くあり、換気も満足に行われず、流行り病が蔓延しているような場所もありました。


このような教育環境を変革したいと考えたペスタロッチでしたが、まずは身近な同胞である農民たちの生活水準を改善させようと、妻の持参金を注ぎ込んで農場経営に乗り出しました。更に、農民の子たちに向けた学校を開き、服や食事を与え、自ら教壇に立ちながら農場も経営していきます。生徒たちには彼が経営する農場で働くことを授業の一環として取り組ませ、産業学校としてのかたちを作り上げていきました。しかし、ペスタロッチには経営者としての手腕には恵まれていなかったようで、借金が膨らみ、結果的にこの産業学校を農場ごと手放すことになりました。彼は悔しい思いをしましたが、それでも「全ての子供たちは良質な教育を生まれながらに受ける権利がある」という理想だけは捨てませんでした。ペスタロッチは立ち上げた学校に掲げた理念を信じ、農民の子供たちへ教育を与えなければならないという義務感を更に募らせ、これを一生涯における自身の仕事として確信します。そして、彼が抱く思想を明確にするために執筆を始め、1780年に初めてまとめ上げた著書が本作『隠者の夕暮』です。これは、ルソーから受けた影響に加え、彼の持つ教育観や道徳観が合わさった始祖的な教育論となっています。


1789年、フランスのバスティーユ牢獄襲撃により、武力革命の勢いは膨らみ、ヨーロッパ諸国を争いが飲み込んでいきました。1792年にプロイセン・オーストリア軍をヴァルミーの戦いで破り、1793年にはカトリックと王党派をフランス西部の農村地帯ヴァンデーで制圧、そして、1794年には革命家マクシミリアン・ロベスピエールの独裁政治が強まり、フランス国内は革命一色となりました。しかし、一定の社会改革が成されると、ある程度の生活水準を得た下層民たちは保守的な態度を取り始め、ロベスピエールや革命急進派を恐れるようになっていきます。革命政府も同様の見解で、彼らは結果的にテルミドールのクーデターにより、急進派を一掃してしまいました。政府は落ち着きを取り戻そうとしていましたが、そこへナポレオン・ボナパルトがイタリア遠征より凱旋帰国します。ナポレオンは、革命政府に向けて軍事クーデター(ブリュメール18日のクーデター)を起こし、自らを第一統領とする統領政府を成立させました。ここから、ナポレオンによるヨーロッパ諸国への進軍が始まります。


プロイセン・オーストリア軍はフランス軍を打倒するため、1799年にスイスへと侵攻して大きな戦いを繰り広げました。戦場となったスイスの被害は甚大で、多くの孤児を生み出しました。教育者を目指すペスタロッチは、この状況は自らが解決すべき問題であると考え、行動することを決意します。彼は、スイス政府による孤児院施設長着任の要請を受けました。罪のない子供たちの心を癒し、道徳的な成長を助け、自身の教育論に則った学校を作り上げようと、彼は熱意を持って取り組みました。生徒たちは、当時では考えられないほどの短期間で読み書きや計算を習得し、健全な道徳心を育んで成長していました。ペスタロッチはこの功績により、今までの思想や教育観を認められ、後世にも伝わる優れた評価を得ることができました。


最盛期と言えるイヴェルドンでの学校では、生徒と教師は共同体として生活し、保護者とは頻繁に報告を行うことで信頼を得ていました。また、授業料が払えない生徒も受け入れ、年上の生徒が年下の生徒に指導するなど、家族のような心の繋がりができていました。ペスタロッチは成績表のようなものは用いず、比較ではなく個人を評価することに徹底し、その姿が子供たちにも「個人の尊重」という考えを植え付けていきます。自然の環境を活かした授業は、登山に水泳、園芸に動物の飼育などに及び、子供たちは健全な心を保ったまま大きく成長していきました。ペスタロッチは、良い社会を形成させる手段としての「教育」を遂に構築しました。

 

玉座の上にあっても木の葉の屋根の蔭に住まっても同じ人間、その本質からみた人間、一体彼は何であるか。何故に賢者は人類の何ものであるかをわれらに語ってくれないのか。何故に気高い人たちは人類の何ものであるかを認めないのか。農夫でさえ彼の牡牛を使役するからにはそれを知っているではないか。牧者も彼の羊の性質を探究するではないか。

ペスタロッチー『隠者の夕暮』


ペスタロッチは教育において、「頭」「心」「手」の力を伸ばすことが大切であると確信していました(3Hの思想)。頭に知識を詰め込むだけではなく、その知識を判断する心を養う必要があり、手によって触れる経験が他者に対する思いやりを育むことで、生徒は受ける教育と行動による道徳的成長を成し遂げます。善悪の判断を学び、彼ら自身の幸福度を高め、責任を理解する高潔な人間へと成長させる場こそが「学校」であり、導く人が「教育者」であると、ペスタロッチは信じ抜きました。そして、こうした教育の結果、社会が徐々に改善し、世界に平和と安全を齎すことができ、誰もが幸福を感じることができる社会が訪れると考えていました。


現代に引き継がれている教育、モンテッソーリの知育教育やピアジェの認知発達論は、ペスタロッチの思想に賛同し、より発展的な教育を目指したものです。ペスタロッチより始まった教育改革は、二百年経った今でも進化を続けています。しかしながら、現代の学歴社会で優先される成績重視の学校評価制度は反比例的に蔓延し、知識を詰め込む学習塾などが教育として認識されていることも事実です。日本の保育の場ではペスタロッチの教育観は優先されていますが、道徳的成長に大きな影響を及ぼす学校でも、こうした観点からの見直しが必要なように思えました。ヨハン・ペスタロッチ『隠者の夕暮』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『オズの魔法使い』ライマン・フランク・ボーム 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

オズの魔法使い (角川文庫)

 

カンザスの大平原のまんなかから大竜巻で家ごと見知らぬ土地に飛ばされたドロシー。ヘンリーおじさんとエムおばさんが待つ故郷へ戻りたい一心で、どんな願いも叶えてくれるという偉大なる魔法使いオズに逢いにエメラルドの街を目指す。頭にわらの入ったかかし、心臓がないブリキの木こり、勇気がほしいライオン。仲間とともに困難を乗り越える一行の願いは叶えられるのか?柴田元幸の新訳による不朽の冒険ファンタジー!


ドイツ系アメリカ人の父親とスコットランド系アメリカ人の母親を持つライマン・フランク・ボーム(1856-1919)は、1856年にニューヨークで生まれました。父親はペンシルバニア州の油田で財を成した人で、ボームは非常に裕福な環境で育ちました。彼は幼い頃から執筆を行い、なかでも演劇に多くの情熱を注ぎました。戯曲を幾つも執筆し、自ら役者として舞台に立つなど、作家としても演者としても熱心に活動しました。父親に劇場を建ててもらい、充分な演劇の環境を整えてもらいましたが、注いだ熱量とは裏腹に経済的には全く成功できず、挙句には彼の劇場が火事になってしまい、彼は演劇の世界から離れることになりました。現在のサウスダコタ州へと移住した彼は、家族と共に雑貨店を開きました。しかし、これも経済的な成功を収めることはなく、結果的に新聞の編集者として働きに出ました。地方新聞ではあったものの、寄稿するコラムは評判が良く、自らも執筆ができるという点でやりがいもありましたが、今度は新聞社が倒産してしまい、またもや成功を逃してしまいます。巡業セールスマンとして辛うじて生計を立てていましたが、やはり執筆から離れることは苦しく、業務の合間に韻文マザー・グースの直訳小説『ファーザー・グース』を出版しました。これがある程度の成功を収めたため、本格的に作家として活動することになり、本作『オズの魔法使い』を書き上げたことで、彼は商業的な大成功を遂に収めました。


1865年にアメリカ南北戦争が終わると、南部諸州を北部が統合し、奴隷解放問題が長期化する「レコンストラクション」の時代が到来します。また、フロンティア開拓における先住インディアンとの紛争が各地で起こり、南北の統合が明確に果たされないまま時は過ぎていきました。そして、同時並行的に産業革命の余波を受け、超高速度でアメリカは国内の各地を工業化させていき、多くの移民が各国より渡米してきます。こうして、一層にさまざまな人種が行き交う多国籍な土地へと発展したアメリカは、工業の加速化により巨大な資本的先進国へと成長していきます。こうした経済発展において、アメリカでは1900年に金本位制が法制化されましたが、その不安定性と奥に潜む問題点が政界では論点になっていました。『オズの魔法使い』が、この金銀複本位制をめぐる金融政策論争の寓話的側面を持っていると提唱されたこともあり(ヘンリー・リトルフィールド「ポピュリズムの寓話」)、本作の登場人物やその行動には、寓意が多く含まれているという解釈もあります。しかし、ボーム自身はこの考えを否定しています。


本作は1900年に出版されました。アメリカが世界経済において頭角を表すという時代で、作品にも当時の児童文学が持つ風潮から掛け離れた要素「非教本的物語」「少女が主人公」などが採用されており、アメリカ独自の文化的な成長が垣間見えます。ニューヨーク・タイムズが絶賛したように、作品には明るさと楽しさが溢れており、暴力的な要素を取り除いた冒険が活気を持って描かれ、当時の子供たちを魅了し、大人も最も優れた児童書が誕生したと喜んでいました。他国民を巻き込んだアメリカの経済成長は、このような文化的成長も呼び起こしたのだと言えます。


両親のいないドロシーは、アメリカの中心部に位置するカンザスの大草原で、叔母と叔父、そして犬のトトとともに暮らしていました。一面が灰色に映る景色のなか、自然に囲まれた生活に幸せを見出していたドロシーでしたが、突然の竜巻に襲われます。叔父と叔母は地下の避難場所へ逃げ込みましたが、トトを探していたドロシーは間に合わず、家とともに空高く吹き上げられ、空の遠くへと運ばれてしまいました。嵐が収まってたどり着いた場所は「オズの国」で、ドロシーは自分の家が東の悪い魔女を下敷きにして退治してしまったことを知らされます。魔女が履いていた銀の靴を手に入れると、ドロシーはカンザスへと帰る方法を見つけるため、オズの国を冒険することになりました。北の魔女は善い魔女と言われているため、彼女はまず、そこへ向かって助けてもらおうと考えました。額に守護のキスを受けたドロシーは、強い力を持つというオズの国の魔法使いへ助けを求め、会いに行きます。道中で、知恵を求めるかかし、心が欲しいブリキの木こり、勇気が欲しい臆病なライオンと出会い、彼らとともにドロシーはオズの魔法使いの元へと進みました。旅の途中でさまざまな困難に出会いますが、かかしの機転と、ブリキの感情と、ライオンの勇敢さによって、悉く問題を解決して乗り越えます。ようやくたどり着いた彼らはオズの魔法使いと話す許可を得ますが、面会は一人(一匹)ずつという条件でした。面会者によって姿を変える大魔法使いに、カンザスへ帰ること、知恵、心、勇気という彼らそれぞれの願いを伝えると、西の悪い魔女を退治するように条件を出されます。西の悪い魔女は黄金の帽子に宿る翼の生えた猿たちを使って、ドロシーたちへ多くの困難を与えてきますが、ここでもかかしの知恵、木こりの感情、ライオンの勇気によって蹴散らし、魔女の元へと辿り着きました。そして、対峙したドロシーは、額のキスによって守られながら西の悪い魔女を退治します。

約束を果たしたため、願いを叶えてもらおうとオズの国へ戻ってきたドロシーたちですが、面会中に大魔法使いが実は魔法の使えない奇術師だと明かされます。しかし、旅の途中の言動からもわかるように、かかしには既に知恵があり、ブリキには既に心があり、ライオンには既に勇気があることから、奇術師の簡単な方便で、結果的に三人(匹)の願いは叶えられました。そして、ドロシーは奇術師自身もアメリカへ帰りたいという思いから、一緒に気球を作って欲しいと頼まれます。絹を編み、手作りの気球を作った二人ですが、いざ飛び立とうという場面でトトが居なくなり、奇術師だけを乗せて気球は飛び上がって行きました。途方に暮れるドロシーですが、南の善い魔女にカンザスへ帰る方法を聞くことにし、かかしと木こりとライオンとともに出発します。襲いくる困難は黄金の帽子を用い、翼の生えた猿たちに助けられ、ようやく南の善い魔女グリンダに出会います。グリンダは、黄金の帽子と引き換えに帰る方法を教える約束を交わします。黄金の帽子の三つの願いを叶え終えたドロシーは喜んで引き渡し、グリンダの行動に委ねました。グリンダは帽子を使って、かかしと木こりとライオンをそれぞれが望む場所へ運び、翼の生えた猿たちを帽子の呪縛から解き放ちました。そして、ドロシーには履いている銀の靴でカンザスに帰ることができることを伝えます。ドロシーは皆に別れを告げたあと、銀の靴の魔法でカンザスへと帰り、無事に叔父と叔母の元へ戻ることができました。


ボームは序文で伝えているように、「ふしぎやよろこびはいままでどおりあって、つらい気持ちや悪夢は排除された、現代のおとぎばなし」を作り上げました。また、作品に登場する人物や小道具などは、彼の多くの人生経験から反映しているものであり、使用した意図もそれぞれに込められています。

かかしはボームが幼少期に何度も見た悪夢に登場していたもので、野原をどこまでも追い掛けられ、首を掴まれそうになる瞬間、かかしがボロボロに崩れ去るという夢でした。かかしの「火のついたマッチが怖い」という台詞は、ボームの劇場が火事で焼失したことを示唆しており、かかしは彼の「恐怖」を愉快な登場人物へ置き換えた存在であると考えられます。

ブリキの木こりは、ボームが雑貨屋のショーウィンドウを飾ろうと、自分で端材を組み合わせて作ったブリキの人形がモデルになっています。洗濯用のボイラーで胴体を作り、ボルトで固定された煙突で腕と脚を作り、鍋の底で顔を作りました。ボームはその人形に漏斗型の帽子をかぶせて、心の無いブリキの木こりを完成させました。インスピレーションによって生み出されたブリキの人形は、本作で心を埋め込まれ、読者の印象に強く残る登場人物となりました。

また、物語の発端となる竜巻は未知への遭遇を呼び起こす象徴となっており、灰色の乾いた世界しか知らないドロシーに世界の広さを知らしめるきっかけを与えています。これは、ドロシーに新しい世界を魅力的に見せるという目的ではなく、他の世界を知ることで自分の生きる世界の良さや価値を認識させる意図があります。


ボームの妻は自分の娘のように愛していた姪を、わずか生後五ヶ月で重篤な病によって亡くします。ボームは悲嘆に暮れる妻の心を癒すため、この「つらい気持ちや悪夢が排除された」作品のヒロインに「ドロシー」と名付け、本作を妻に捧げました。ボームは過去の児童文学、例えばグリム兄弟やアンデルセンといった童話に影響を受けていますが、最も本作に影響を与えている作品はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』であると言われています。キャロルの作品が子供に受け入れられた一つの要因として、ボームは読者である子供が共感を受ける「アリス」という少女の存在にあると考えました。可愛らしさ、無垢さ、快活さ、意思の強さなど、不思議の国で見せるアリスの個性を、ボームはドロシーに踏襲したことによって、非常に魅力的なヒロインが誕生しました。そして、不思議の国というお伽話然とした舞台から、かかしやとうもろこし畑などのアメリカ中西部に馴染み深い場所を登場させることで、ボーム独自の新しい世界を築き上げました。


ドロシーに同行する仲間たちは、それぞれが何かが自分に欠けており、オズの大魔法使いに与えてもらおうと願っています。しかし、かかしが求める知恵も、木こりが求める心も、ライオンが求める勇気も、旅の道中で彼らが既に持っていることが示されます。また、ドロシーがカンザスに帰りたいという願いを抱いていながらも、ずっと履いていた銀の靴が叶えてくれることが最後に明かされます。彼らは、既に持っているものに気付かず、無いと信じて欲します。仲間との旅で出会う問題を解決しようと、彼らは仲間のために「無いと思っている大切なもの」を発揮します。この物語では、欲しいものは既に手のなかにあるということ、自分以外のために発揮できるということが教示的に描かれています。

 

あなたに必要なのは自信だけです。危険を前にして、怖がらない生き物はありません。ほんとうの勇気とは、怖くても危険と向き合うことであって、そういう勇気を、あなたはふんだんにお持ちなのです

ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』


お伽話は、産業成長の反動として隆盛すると言われています。十九世紀末から二十世紀初頭までアメリカは怒涛の勢いで工業化を押し進め、世界経済における中心的存在へと成長しました。こうした社会変化の影響のひとつとして、アメリカ初のお伽話が生まれたことは、後世に生きる我々にとっては喜ばしいことだと思います。フランク・ボーム『オズの魔法使い』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

 

『痴日』牧野信一 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

痴日 (青空文庫POD(シニア版))

 

牧野信一(1896-1936)は、神奈川県の小田原に生まれました。当時の小田原では、日本における本格的な産業革命の影響が及び、安価な輸入農産物の流入や機械化工業の浸透による農家の貧困が目に見えて問題化していました。福沢諭吉が「日本は今や相当に開化した。社会の秩序は殆んど立った。この上日本はどこまでも東洋の一孤島に縮って居なければならぬという道理はない筈である。 故に日本人はサッサと外国へ出て行け。」と海外移住を進めたこともあり、小田原全土では渡米熱が蔓延していました。そして、牧野の父親も例に漏れず、アメリカへと渡って約十年間も日本へ帰ってきませんでした。父親と母親の関係はあまり芳しくなかったこともあり、そのような環境を祖父母は容認し、母親とともに彼らは牧野の成長を支えました。牧野は父親を近くに感じられないながらも、時折送られてくる珍しい土産品などを通じて、その存在を認めるという変わった親子関係で育ちました。送られてくる土産品には、原著の海外文学作品(ギリシャ文学やローマ文学、欧州での古典叙事詩など)も含まれており、のちの牧野文学に少なからず影響を与えています。

早稲田大学英文科へと進学した牧野は、在学中に自らも執筆を行うようになりました。古典だけでなく、谷崎潤一郎やミゲル・デ・セルバンテスなどにも関心を示し、彼自身の文芸性は独自の成長を見せ始めます。卒業後は知人の紹介で時事新報社の記者になると、配属先で佐佐木茂索と出会いました。佐佐木は後に文藝春秋を立ち上げ、菊池寛らと共に芥川賞や直木賞を創立した人物で、牧野が日本文壇に立つ足掛かりの一助を担った人でもあります。また、同時期に、大学で同級の浅原六朗に誘われて同人誌「十三人」を創刊した際、牧野は処女作『瓜』を発表しました。この作品が自然主義文学を牽引していた島崎藤村の目に留まり、大いに賞賛されます。そして、翌年には藤村の計らいによって、春陽堂の「新小説」へ『凸面鏡』を掲載することができ、牧野は正式に、作家として日本の文壇に立ち上がりました。ここから、牧野の苦悩に満ちた作家人生が始まります。


牧野の血筋は、どの代でも一人は激しい神経衰弱を引き起こし、気の病や自死に至る者があったと言われていました。実際に彼は慕っていた医者の叔父が精神を病んだことを目の当たりにし、更には、母親から「今度はお前の番だ」と不安を煽られるという過去があったことから、牧野自身はいずれ自分も気の病に罹るのではないかと不安を抱きながら暮らしていました。そうした精神不安が彼の作風に影響を及ぼし、牧野の作風は藤村と同様の自然主義文学の流れを汲みながらも、陰湿というよりは「暗澹」と表現すべきものが彼の作品には現れていました。

しかし、1927年に「新潮」で発表した『西瓜喰う人』では、それまでの「暗澹」からかけ離れた「禍いから転換」するような物語を綴り始めます。宇野浩二や坂口安吾などが称賛する「ギリシャ牧野」と呼ばれるこの時期は、作家仲間との良い交流もあり、作品に「生気」が包まれているようでした。言い換えれば、「暗澹な私小説」から「好転を求める幻想小説」への転換であり、そこには幼少期に育んだ「古典的幻想性」が織り込まれていることがわかります。ある意味で、ドン・キホーテのような夢想を込めた作品が多く生まれた時期であるとも言えます。

作風を好転させた牧野でしたが、後年に差し掛かると胸の奥底から精神衰弱が再び浮かび上がってきます。振り子のように「暗澹」から「好転」へと変化した作風は、再び、そして更に強い勢いで「暗澹」へと突き進みます。しかし、そこから生み出される作品には獲得した「幻想性」が滲み、私小説でありながら、牧野の影には非現実性が纏わり付いています。精神を病みながらも厭世的にはならず、実在に幻想性を見出すような視点で私小説を綴っていきます。彼の敏感な感受性によって陽の光や風の戦ぎを幻想的に感じ取り、その感情を私小説で描き出すという手法は、作品を単純な暗澹ではなく「祝祭的な暗澹」として昇華しています。この晩年に差し掛かる時期に発表された本作『痴日』は、その典型的な作品と言えます。


執筆の不調により精神衰弱となった作家の隠岐は、細君と従妹の弥生と三人で海の見える貸別荘で療養暮らしを始めました。経済的困窮に苛立ちを募らせる細君は隠岐に強く当たり、気の病と精神負荷によって彼もやはり面白くない環境にありました。歳の離れた弥生は魅力的な女性であり、尚且つ行動は大胆で、隠岐もどのように接すれば良いか困惑する始末でした。秋の初めから始められる共同生活は、経済的な問題を持ち出す細君との居心地の悪い会話や、突発的に魅せる弥生の行動に対する隠岐の反応が綴られていきます。季節が移ろい、春の陽気が感じられると、弥生は日光浴に行きたいと隠岐に持ち掛けます。隠岐は、一張羅の毛皮をしっかりと着込んだ弥生とともに砂浜へ向かって歩き出します。人気が無い場所へ辿り着くと、弥生は勢いよく両手で毛皮を開いて隠岐に見せました。中には一糸纏わぬ姿があり、隠岐は驚きの声を上げます。一瞬間、隠岐は困惑したものの、気持ちが落ち着くと楽しみを覚え、そのまましばらく陽気な会話を交わしながら、二人は散歩を続けました。


自身を題材とした経済的に困窮した作家を描いた本作ですが、牧野が作品に映し出した「感覚的幻想」が状況を好転的に捉えており、隠岐の精神が快方に向かっていることが伝わります。牧野が独自の価値観の眼鏡を通して眺めたことにより、牧野という人物の領域を超えた私小説が生まれたと言えます。そこには「印象」が優先して描かれ、事実以上の精神的真実が浮かび上がっており、隠岐が求めていた春の目覚め(遅日)が、弥生のおかしみをもって訪れさせています。この真実は、牧野の価値観的真実と言えるもので、彼の内側から眺めた世界が表出しているからこそ、暗澹からの好転が自然に浮かび上がるように描き出されています。

 

彼は、片方に彌生の腕を執り、左には、何も彼も一處くたに下穿までも丸め込んであるといふ鞄を大きく振りながら、歩調を合せて、さへぎるものもない廣々として砂原を颯々と歩きはじめた。

牧野信一『痴日』

 

振り子が戻るように、人生の「暗澹」が舞い戻ったことで、牧野の精神衰弱は激しいものとなりました。事あるごとに自死を口にするようになった牧野は、最終的に自宅で縊死しました。精神の崩壊を恐れるあまりの、精神衰弱という苦しい孤独からの解放を求めたのだと考えられます。葬儀には、河上徹太郎や小林秀雄など、牧野をマイナー・ポエットとしてではなく文壇に必要な文学者として支持した面々が集まりました。再び好転へと振り子が移るまで生きることができていれば、より一層に祝祭的な好転文学を残すことができたのではないかと思いました。自然主義文学から早稲田の奇跡派へと導く牧野信一の『痴日』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

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