RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『セメント樽の中の手紙』葉山嘉樹 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

教科書で読む名作 セメント樽の中の手紙ほかプロレタリア文学 (ちくま文庫 き 41-6 教科書で読む名作)

 

二十世紀初頭の日本は日露戦争、第一次世界大戦争と、相次ぐ戦争によって国民は激しく疲弊していました。軍需捻出のために国民の生活は貧困に見舞われ、生活を支える青年たちは徴兵され、国民は各地で苦しい生活を強いられていました。そのようななか、1917年におこったロシア革命の影響が日本にも流れ込み、国内で共産主義運動が活発化していきます。資産を持った一部の富裕層による土地や資本の占有(私有財産制)や君主制の否定を目指すこの運動は、勢いをつけて全国規模で拡大していきました。当然ながら政府は、このように反旗を翻す国民たちに対して武力を持って強引に弾圧していきましたが、それでも各地で頻繁に起こる共産主義運動は、やがて労働者の権利を主張する「労働運動」へと派生し、劣悪な環境下で働かされる労働者たちによるデモやストライキが頻繁に行われました。そして、共産主義運動の影響は文壇にも現れ、葉山嘉樹(1894-1945)、小林多喜二、徳永直といった作家が名を連ね、社会主義文学(のちのプロレタリア文学)として広まっていきました。


社会主義文学は、労働者たちの尊厳を主張するものでしたが、前述の作家たちによる作品は強烈な熱量とともに芸術性も秀でており、この点が国民一般の支持を得た理由でもあり、新たな文芸思潮の創生となった原動力でもありました。こうした文芸運動の先駆けとなったのが、1926年に発表された葉山嘉樹の『海に生くる人々』という作品です。当時は他国からの技術流入によって日本社会の資本主義化が見え始めた頃で、こうした社会の富裕層に向けた批判を込めた横光利一や川端康成らの新感覚派や、苦しい生活に一筋の光を求めた吉川英治や大佛次郎らの大衆小説が隆盛を見せ始めており、葉山のような「労働者の直接的な主張」が文学として歓迎されやすい環境にもありました。作品としては長篇の物語ではありますが、随所で葉山自身の思想論と思われる記述が現れ、鋭い観察眼による社会描写と激しい労働者の人権主張が何度も繰り返されています。ここには、葉山自身の感じた痛みや憤りそのものが表出し、労働者の置かれている立場や環境が目の前に繰り広げられています。

 

水夫たちは皆、それぞれの嗜好に従って、横浜へ着いてからの行動や、食物について空想に浸っていた。デッキの上では、彼らは陸にさえ上がれば、あらゆる快楽がある、それが待っていると思う。自分たちが縛られ、奴隷扱いにされ、自由を略奪され、労働力を搾取されていることは、陸と、デッキとの間に海が横たわるからであると、無意識のうちに考えていた。それはちょうど牢獄に監禁された囚人が、赤い高い煉瓦塀のかなたには、絶対の自由がある。自分はそこでは自分の好む通りにすることができる。そこは、そのまま天国だと、考えるようなものであった。ところが監獄の塀の外にも、彼の考えたような自由はその影もなかったように、また甲板の上で考えたような自由と幸福とは、決して陸上にもありはしなかった。彼らは、それを、彼らが上陸するたびに味わった。そして、陸上で自分の財布を地面へたたきつけ、自分の着ているその無格好な汚れた着物を引き裂き、労働で荒れた、足の踵のような手の皮を引んむいてやりたく思うのであった。それらが、彼らがせっかくあこがれ切った陸に上がったにかかわらず、彼らから自由と幸福とを追っぱらった。労働者は、自由や幸福や、人間性が、賃銀を得つつある間に自分に与えられ、あるいは自分からそれを得ようとすることが、全然不可能なことであることを知るようになる。人間が牛肉を食うと同じように、人間が人間を食う時代の存続する限り、労働者は、その生命が軛の下にあることを自覚しなければならない。水夫らは、そんなふうなことを感じた。

葉山嘉樹『海に生くる人々』


物語のなかで繰り返されるこうした思想論は、当時の労働者たちの胸を打ち、同情し、同調し、惨憺たる状況に追いやられている立場を自覚させ、労働者たちは一層の「社会を変える意思」を高めました。こうした論説が、自分たちとも重なる労働者の物語に挿話的に繰り返され、自然と自分の置かれた環境と社会の問題を同軸化させ、読者は社会主義運動を肯定的に捉えるようになっていきました。そして、葉山の作品に続くように、小林多喜二の『不在地主』や徳永直の『ファッショ』といった社会主義運動や活動戦略が作品のなかに持ち込まれるようになり、この文芸思潮を「プロレタリア文学」と呼ぶようになりました。いわば、人間が人間らしく生きるための根本思想と、それを実現するための革命運動が、プロレタリア文学の根源として存在していました。人道主義や労働文学などでは主張されなかった「労働者も人間である」という最低限の主張が、描かれる人間像と挟まれる思想論によって、当時の若い作家たちに強い影響を与えたことは事実です。

 

お前はどう思う。俺たちが何故死んじまわないんだろうと不思議に思うだろうな、穴倉の中で蛆虫見たいに生きているのは詰らないと思うだろう。全く詰らない骨頂さ、だがね、生きてると何か役に立てないこともあるまい。いつか何かの折があるだろう、と云う空頼みが俺たちを引っ張っているんだよ

葉山嘉樹『淫売婦』


本作『セメント樽の中の手紙』は、葉山を作家として日本の文壇に確立した作品です。しかしながら、本作ではこうした思想論を用いずに社会の悲痛を直截的に訴えかけたもので、短篇という構成からも本作は読者の層を広げ、大きな支持を得ることに成功しました。奇跡派として活躍していた宇野浩二も、本作には労働者の「真実の叫び」が込められていると絶賛しており、当時の文壇に大きな衝撃を与えていたことが理解できます。


過酷な建設現場で働く松戸与三は、セメント樽からセメントを枡で測るという仕事を朝から晩まで勤め上げていました。ある時、開けたセメント樽から小さな木箱を見つけ、忙しい中で取り敢えず手にして作業を続けました。箱が軽いことから金銭は入っていないだろうと考えた与三ですが、開けてみると手紙が入っていました。これは女工が書いた手紙で、セメントを作る工場で働く恋人が、運悪く砕石機のなかに巻き込まれて絶命したという事故が綴られていました。そして、恋人が巻き込まれたセメントがどのような建物に使用されたのか知らせて欲しいという訴えで締め括られていました。与三は向けどころのない憤りと絶望感に苛まれ、何もかも放擲したい気持ちに駆られます。しかし、妻の言葉に現実を見て、また無力を自覚して物語は終わります。


鼻についたセメントを拭う時間すら惜しいという過酷な労働環境は、当時では特別なものではなく、人命よりも効率を優先させる恐ろしい社会でした。建設現場だけでなく、小林多喜二の『蟹工船』でも見られましたが、労働者は人間ではなく資本家の奴隷であり、労働者の生命は非常に安いものでした。砕石機に巻き込まれた際に、稼動を止めずに作業を続けたことも同様の理由にあります。与三が稼ぐ賃金の半分以上は家族の食事に消えてしまい、気を晴らす楽しみも、環境を打破する行動もできない、非常に苦しい生活環境にあることが物語から見えてきます。それでも労働者は人間であり、与三には感情があり、社会の在り方が不自然であることが窺えます。木箱の軽さから金銭が入っていないと感じた与三は、紙幣といった概念そのものが欠落しています。この点も、貧困に喘ぐ労働者層の裏付けとして感じ取ることができます。


手紙は一方通行なもので、書かれた内容を与三は受け取ることしかできません。真偽(手紙が悪戯である可能性)などへの関心以前に、その内容の衝撃と憤りは、同じような非人道的な労働環境にある与三に他人事とは思えない感情を呼び起こさせます。与三は自分の生活、或いは人生を顧みて何もかもを放り出してしまいたい気持ちに駆られました。生きる環境そのものが苦痛に満ち、さらに行き場もなく、逃れる術も見出せないからこそ、与三は生活から抜け出したいと感じたのだと考えられます。しかし、妻の一言により、自分の置かれた現実を目の当たりにして、自分は「この環境で生き続けなければならないことを自覚」し、行き場なく打ちひしがれました。

 

松戸与三は、湧きかえるような、子供たちの騒ぎを身の廻りに覚えた。
彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗に注いであった酒をぐっと一息に呷った。
「へべれけに酔っ払いてえなあ。そうして何もかも打ち壊して見てえなあ」と怒鳴った。

葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』


同情し、手紙に心を動かされた与三は、労働者としての意識が高まり、社会を変えようという革命の意思を抱きましたが、家族に囲まれた自分の現実を再認識させられ、変革の一歩さえ踏み出せない労働者の現実に、激しく絶望させられました。この「労働者の絶望」を思想的議論を用いずに、読者へ直截的に訴えかけた点が、本作の大きな特徴であり、秀でた点でもあります。


葉山嘉樹がプロレタリア文学の先駆け作家として、その主張を凝縮した本作『セメント樽の中の手紙』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『悪の誘惑』(義とされた罪人の手記と告白)ジェイムズ・ホッグ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

悪の誘惑

 

カフカやブランショの先駆をなすとも評価される最も優れたゴシック小説のひとつ。宗教的狂言、兄弟の憎悪劇、分身などを主題として人間の悪魔性を真正面から描き出した幻の傑作。見事な幻想譚をも収録したこの忘れられたスコットランドの畸人作家の初紹介。

 

1542年、ジェイムズ五世の第三子メアリー・スチュアートは、わずか生後六日でスコットランド女王に即位しました。フランス出身の母マリーが摂政となった影響で、スコットランドはフランスとの関係が強まり、のちにメアリーはフランスのフランソワ二世と結婚し、フランスへと移住します。彼女は熱心なカトリック教徒で、当時、ヘンリー八世の身勝手な宗教改革が為されたイングランドとも激しく対立し、カトリック教会を擁護しようと躍起になっていました。しかしながら、スコットランド国内でのカトリック教会の腐敗も露呈し、カルヴァン派を代表するジョン・ノックスがこうした批判者たちを煽動し、スコットランドにおいて宗教改革を起こしました。フランソワ二世が死亡したためスコットランドへ帰国したメアリーは、当初カトリックとプロテスタントを友好的に共存できるように計らいました。それぞれを代表する貴族らは小競り合いを見せていましたが、やがて抗争は鎮圧されて落ち着きを見せ始めます。頃合いを見計らってメアリーは再婚相手を見出しますが、結婚生活は上手くいかず、関係は冷え切っていきます。また、メアリーはスコットランド軍を率いるボスウェル伯に好意を持ち、その関係を密にしていきます。周囲が妙な空気を感じ取り始める頃、再婚相手は殺害されました。直後にボスウェル伯とメアリーは結婚しますが、二人が共謀して夫を殺害したと考えられ、スコットランド内のカトリック貴族とプロテスタント貴族は、この結婚に猛反対しました。この反対意思は反乱へと繋がり、ボスウェル伯の率いる軍と争い、反乱軍に捕えられたメアリーはスコットランド女王を廃位されました。スコットランド議会はメアリーの子ジェイムズ六世(イングランド王ジェイムズ一世)を一歳で即位させると、ノックスが推し進める改革派教会をスコットランド国教と定めさせました。こうして、スコットランドでの宗教改革が成されました。ノックスは徹底した聖書中心主義であったため、偶像崇拝やカトリックが行う儀式を認めず、カトリック教会と対峙する形になりました。その後、ノックスの弟子アンドリュー・メルヴィルが跡を継ぎ、長老主義を採用したため、スコットランドのカルヴァン派は「長老派」(プレスビデリアン)と呼ばれるようになりました。


イングランドにおいて、ジョージ一世の次の国王チャールズ一世が実権を握ると、スコットランドへイギリス国教会の主教制度を強制するようになりました。これに対し、長老派は頑なに抵抗し、1637年に反乱を起こします。チャールズ一世は遠征を行い、軍事力によって屈服させようと試みましたが、財政難に悩まされます。国民への課税で賄おうとしたチャールズ一世でしたが、イングランド議会はこれに反発し、国王と議会が対立したことによって、混乱はピューリタン革命へと膨れ上がっていきました。宗教的な対立と君主制度への反発が入り混じり、イングランドとスコットランド、そしてアイルランドを巻き込んだ三国は混乱の歴史を刻みました。そして、各国での宗教的な主張は枝分かれし、さまざまな教派を生むことになり、また対立を多く招きました。


スコットランドで起こった宗教改革は、結果的にヨーロッパ全土に大きな宗教的な影響を与えました。そして、スコットランドのプロテスタントは独自の発展を遂げることになります。カルヴァン派はマルティン・ルターのプロテスタント教義を基盤としていますが、芸術に関する捉え方や、その解釈や存在に対しては特殊な理解が成されていました。カルヴァンは「人間が天国に行くことができるのは神の恵みによるもののみ」であると信じていました。この救済の考え方、つまり、救いは神により決定されているという考えを「予定説」といい、カルヴァン派はこの救済を核心としています。しかし、主権は神にあって救済は生まれながらに決定されているというカルヴァン派に対し、善行や告解によって罪が赦されるというカトリック教会の教えは相反するものであり、この点での両者の対立は抗争にも発展しています。


このカルヴァン派が主張する「予定説」には、以後に問題となった欠陥がありました。生まれながらに救済を決定されている者は、信仰と神の恵みを原則とし、外部からの強制や献身、或いは義務感や道徳的感情は救済に何ら影響しないという主張を強める者が現れました。砕いて言うならば、国や社会が定める法律や、旧約聖書の律法さえも守る必要はなく、むしろ神の導きにあるならば罪とされる行為であっても強行し、神の福音のみに守られるという考えです。さらに曲解し、救済を約束された者は罪悪な人間を現世から排除する「罪の許可」があり、将来に犯した罪の悔い改めは不要であるという恐ろしいものもありました。これらを主張する予定説信者は「反律法主義者」と呼ばれ、教義上の問題としても取り上げられました。


1824年に匿名で出版された本作『悪の誘惑』(原題『義とされた罪人の手記と告白』)は、スコットランドの作家ジェイムズ・ホッグ(1770-1835)によるもので、出版当初は話題になりませんでしたが、死後にフランスのノーベル文学賞受賞作家アンドレ・ジイドに見出され、その絶賛を序文に添えて再版され、スコットランドにおける古典文学のゴシック小説の代表作として、現在でも幅広く研究されています。本作の中心的な主題である反律法主義と、当時の宗教的社会が如実に描写されていることから、ゴシック小説としてだけでなく、社会の宗教観という側面からも研究が進められています。本作は、出版当時よりも一世紀以上も前の時代が描かれた歴史小説でもあります。


本作は三部によって分かれています。一つ目は手記を元に調査を進めた編者によるもの、二つ目は罪人の手記そのもの、三つ目は著者による現在が描かれます。作品の構造上、訳者の言葉にもあるように、あまり物語を明かさない方が良いと思われますので、概ねの内容に留めたいと思います。義とされた罪人とは、ロバートという青年です。父親に見捨てられたロバートは、狂信的なプロテスタントの母親と後見人となったウリンガム牧師によって育てられます。父親に可愛がられ続ける兄に対する嫉妬は幼少期から膨らみ続け、その性格形成において大きな歪みを与えました。反律法主義のウリンガム牧師に育てられたロバートは、宗教観も極度なものを持ち、反律法主義的な考えが確立していきます。ウリンガム牧師が熱狂的に祈り続けたため、神が救済に選んだとロバートに告げると、予定説を自己解釈し、危険な思想を膨らませていきます。その直後、ある男性に出会うことで、反律法主義と激しい嫉妬が絡み合うロバートは、恐ろしい言動を起こしていきます。


本作では、反律法主義による罪悪行為は罰せられるのか、という点が読者に問いかけられており、その加害者と被害者の双方から辿ることができるようになっています。残虐で理不尽な行為は、熱心な信仰と都合の良い曲解によって罪に問われないのかという主張を、本作においてホッグは冷笑的に描いています。

 

この瞬間から私は、自分が福音の使者というよりはその闘士として、この世から主の敵を一掃するよう神慮によって定められたのだということが分った。そして、剣で罪人たちを倒す方が、説教壇に立って罪人たちを悔悟させようと熱弁をふるって説ききかせるより自分には似つかわしいと思われ、その使命に有頂点になったのだ。しかも、人間の運命は神によってあらかじめすっかり定められている以上、罪人が悔悟するということなど実際上は永遠に不可能ではないか。こうしたことに考えを巡らせば巡らすほど、聖職者が、罪人たちをとても出来るはずのない正しい行いに就かせようと、懸命に忠告を与えて一生を過していくのがどれほど愚かしく、また矛盾したことであるか、ますますはっきりと分ってくるのだ。神が人の子として生れてくるあらゆるものの運命をすでに最初から決められているからには、不可変の神慮によって創造主から破滅を宣せられたものを人間の力で救おうとするのは、何と無駄なことであろうか。私は、最上の師が教えてくれ、また聖書のすべての言葉が指し示しているとされた教理を言じないわけにはいかなかったが、その教理から見ると、キリスト教界の理法はまったく矛盾に満ちたものであると思えるのだった。

ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』


ロバートが救済に選ばれた者だと告げられた日、彼は謎の男性ギル・マーティンに出会います。ロバート以上の反律法主義者で、彼を言葉巧みに罪悪に塗れた救済の道へと導きます。手記によって明かされる理不尽な罪の数々は、ロバートの思想が激しくなっていくのと同時に、自己特別視の快楽にも溺れさせていきます。フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』のラスコーリニコフは、自身の考えを正当化させるために、ある種の論理性をもって自己特別視に辿り着きますが、本作のロバートは、このギルとの議論によって誘導されるように辿り着いていきます。ロバートの判断は、自分に都合の良い論理を正当であると捉えると同時に、救済に選ばれたという神の加護を重んじるもので、どこかしら敬虔さを悪用しているようにも感じられます。注目したい点は、ロバートがギルに誘導される以前から、兄への嫉妬を募らせた「罪への渇望」が見られたことです。ロバートは既に蓄えていた悪魔的行為の願望を、ギルという人間を口実に実行したという側面が多分に見え、極端な信念を正当化することで罪悪という認識を放擲したのだと言えます。


ギルという存在は、他の面でもロバートに強い影響を与えています。当初、ロバートはウリンガム牧師と教義や教理を話し合っていました。尊敬すべき熱狂的な牧師のウリンガムは、過ちなど犯すはずがなく、確実に正しい存在でした。しかし、ギルの登場以降、こうした教理的問答はウリンガムと行いません。父親としての存在は義父ウリンガムから友人ギルへと移り、ロバートは価値観の共有が望める友人へと傾倒し、反律法主義を悪い方へと促されたのだと考えられます。


事件を追った第一部とロバートの手記である第二部は、概ね同じ出来事を辿っていきます。しかし、言動や状況、そして姿勢においては全く違った主張が双方でなされています。特に、ロバートの手記においては、彼は非常に勇敢で、真っ当で、正義の心を持った言動をしたと記されていますが、目撃者との意見とは大きく食い違っています。こうした記述が続くため、読者はロバートの手記の信憑性を疑うようになります。そして、後半のロバートはギルを悪魔のような存在として主張しています。確かに、編者の記述でも、ギルらしき存在は認められていますが、そこには曖昧な点があり、完全な悪魔的存在だと表明しているのはロバートのみです。また、ロバートが身に覚えのない行動をしたという経験、ロバートが半年間も記憶をなくしたという経験から、ロバートには精神分裂症のような症状が見えてきます。しかし、信憑性という点では相変わらず疑わしいものであるため、自身の反律法主義に則った悪行を、自身の他の人格が悪魔に唆されたために、意識のある自身はむしろ被害者であると訴えているようです。この主張を聞き入れるならば、ギルが悪魔という存在ということになりますが、記憶にある悪行は意識のある自身が判断したのであり、ロバートの信仰する神こそが悪魔であると断罪できます。

 

祈りは今では単なる利己的なものに堕してしまい、誰もが絶えずあれもこれもとただひたすら求めているだけではないか。それでいて人間は自分の運命に満足し、創造主が適当であると考えて授けてくれた恩恵に感謝するために、ただ創造主たる神の前に膝まずくだけなのだ──

ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』


本作では、当時のスコットランド社会に対しても、随所に皮肉が込められています。会話のなかでホッグは貴族と下層民を分けて描き、どちらが真っ当な良識を持っているのかを明確に描いています。反律法主義を否定的に描いている点が中心にはなりますが、ゴシック小説、さらには心理的ミステリとも捉えることができ、現代の犯罪小説としても読むことができます。


さらに、スコットランド社会に対するかなり皮肉な洞察も豊富です。大部分は標準英語で書かれていますが、会話の中には見事に方言が使われており、ホッグはスコットランドの様々な地域を巧みに区別し、「庶民」の方が社会的に「上層」の人々よりもはるかに常識があることを示唆しています。


本作は、スコットランドの作曲家トーマス・ウィルソンによって、1974年にオペラ化されており、古典作品として現代でも愛され続けています。ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『人間の運命』ミハイル・ショーロホフ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

人間の運命 (角川文庫 シ 27-1)

 

ロシアの貧しい青年アンドレイは、清純な妻と幸福な家庭を築くが、ドイツ侵攻に出征後、捕虜生活から脱走してみると妻と子供達は皆空襲で死んでいた。絶望の底で流浪の人生を送る彼は一人の孤児に出会う……。


ソビエト文学では、過去よりアントン・チェーホフやイワン・ブーニンをの作品を代表として引き継がれ、海外のギ・ド・モーパッサンやシュテファン・ツヴァイクなどの作品の人気が膨らみ、短篇小説が一種の流行となっていました。その集中的な流行熱はレフ・トルストイやフョードル・ドストエフスキーなどの偉大な長篇小説を凌駕し、国民は新たな短篇小説を求めました。1926年から約15年にわたって発表されたミハイル・ショーロホフ(1905-1984)の大河小説『静かなドン』は一貫した短篇集で、当時の国民の流行に合致し、ヨシフ・スターリンも愛読したと言われています。これは、ロシア革命後の赤軍と白衛軍が巻き起こす内戦からドン河周辺を自治警護するコサックたちの物語で、市民戦や悲劇などに翻弄される様子を社会主義リアリズムで描いた作品です。それぞれの話は短篇形式で描かれており、長篇よりも読者に緊迫感を与え、作品構成そのものにも緻密さが感じられます。また、リアリズムな描写が読者に現実との重なりを感じさせ、経験を甦らせて深い感動を与えることに成功しました。


ショーロホフの作品は、物語の流麗さや読者への配慮が強く感じられますが、そこには推敲された簡潔さと熱量に緩急をつけた筆致が要因として挙げられます。僅かな言葉で読者は喜怒哀楽を受け取り、そこに込められる抒情性をより豊かに感じることができます。ショーロホフは人間の喜びと悲しみに誰よりも共感し、主題の意図を丁寧に伝えることを意図しています。本作『人間の運命』は、『静かなドン』よりも時間が経過した大祖国戦争後、つまり、第二次世界大戦争後の時代背景で描かれています。作品に込められた人間の悲しみと不屈の精神は、現代の読者にも強い思想を訴えてきます。本作は大祖国戦争の体験者が実際に経験した内容を反映させています。ショーロホフが釣りをして休憩していると、物語のプロローグと同じ状況で男性と男児が近づき、男性は経験をショーロホフに語りました。ショーロホフはその話を受け止めて感動し、本作を練り上げて完成させました。


物語は、語り手が川の辺りにある渡し船の近くでアンドレイ・ソコロフに出会うところから始まります。二人は腰を下ろし、アンドレイは自身の人生について語り始めます。ヴォロネジで工場の整備士として働いていた彼は、とても気立の良い心優しい女性イリーンカと結婚します。自動車に関心を持ったソコロフは整備士の力を活かし、車の整備もできる運転士となりました。息子アナトーリイと娘二人も生まれ、ソコロフは幸福な生活を手に入れました。しかし、1941年に大祖国戦争が始まると、彼は対ドイツの前線へと召集されました。悲劇を感じ取った妻イリーンカは見送る場面で大きく取り乱し、宥めきれなくなったソコロフは彼女を軽く突き放しました。

軍用運転士となったソコロフは、戦場の砲火や地雷に曝されながら物資を部隊へ何度も輸送しました。ある時、激しい戦場の爆発に巻き込まれた彼の運転する軍用車は横転し、ソコロフは車内で激しい脳震盪を起こしました。時間が経って気がつくと彼はドイツ兵に囲まれており、ここから、苦しい捕虜の生活が始まります。捕虜となったソビエト兵は廃れた教会に押し込められました。使命を全うする真の軍医、保身のために上官を売ろうとする兵士など、さまざまな兵士たちと捕虜生活を過ごすソコロフは、ある日、溢した愚痴を密告され、司令官に呼び出されます。死を覚悟するソコロフに司令官はドイツ軍勝利を祝って乾杯しろと迫ります。自身の信念を曲げることなく、そして失礼な言動を取らず、彼は決死の対応を見せました。すると、思いがけずに命を救われ、さらには食糧を与えられて仲間の元へと帰されました。彼は顛末を周囲に話し、食糧を兵士たち全員へ平等に分配しました。

その後、ソコロフは運転技能を買われてドイツ軍少佐の運転手として駆り出されることになりました。この機会を活かし、彼は酔い潰れた少佐を拉致してソビエト軍の元へ車で向かいます。前後の双方から銃弾を浴びせられながらも運良く無事に辿り着いた彼は、捕虜から帰還したことを伝え、ソビエト軍に匿われました。その後、療養のために入院していたソコロフでしたが、イリーンカへ出す手紙の返事が届かず、不安な気持ちを抱く日々を過ごします。すると、彼は家の隣人からの手紙を受け取り、衝撃的な事実を知らされます。妻のイリーンカと二人の娘は、ドイツ軍の爆撃により死亡していました。息子アナトーリイは市に行っていたため命は助かりましたが、被害を見た彼は軍に入ることを決意したのだということでした。

悲嘆に暮れるソコロフでしたが、三ヶ月後に朗報が届きました。アナトーリイが前線に出て砲兵中隊長として活躍しているという報せは、ソコロフの心を軽く、明るくしました。戦況が激しくなり、手紙を頻繁にやり取りすることはできませんでしたが、彼は再会に期待を膨らませていました。ようやく会う機会が迫ったとき、戦争に勝利した日、アナトーリイはドイツ兵に狙撃され、殺されてしまいます。希望も潰え、行く宛の無いソコロフは、友人を頼りにウリュピンスクに向かいました。友人夫婦のもとへ住み込み、自動車中隊で働き始めたころ、一人の男の子と出会います。そして、ここから、悲哀に満ちた感動的な終幕へと物語は綴られていきます。


ソコロフの運命は、ソビエトの国民すべてが受けた苦しみ、そして打ち克つ不屈の精神を映し出しています。ショーロホフは、戦争行為が国民の幸福な生活をいかに破壊し、愛する人をいかに奪っていくのかを明確に描くとともに、その喪失と不幸を目の前にしても潰えない信念と親愛の心を美しく表現しました。リアリズムで描かれるソコロフの運命に読者は気持ちを重ねますが、非人道的な困難が与えられ、家族や幸福な生活を失い、それでも不屈の精神で未来と愛を見出そうとするソコロフに、読者はやがて彼に象徴性を見出します。ショーロホフは本作の舞台を大祖国戦争後、つまり、国民が「英雄的象徴性」を求める時代に重ね、戦争を生き抜いた国民に「ソコロフという象徴」を一人の運命の物語として提示しました。各国民が経験した困難や不幸を、ソコロフの運命が精神的な救済という意味合いでの共感を招き、本作は今でも愛され続ける作品として存在しています。


ソコロフの見せる勇敢さや優しさは、倫理観ではなく正義感が優先しています。妻と二人の娘、そして息子を戦争によって失った悲しみは、決して周囲へ暴力的に発散しません。彼は絶望の淵に立たされても、自身の尊厳と他者への慈悲を保ち続けます。彼の勇気や自己犠牲は、不幸な環境にあっても絶えず示され、そのように他者を守ろうとする姿勢から、彼には英雄としての存在感が現れます。彼の放つ英雄の光は、謙虚さと自己犠牲によって説得性を齎しています。ソコロフは他者の苦難や不幸を我が事のように捉え、同調して自身の正義感に則って行動します。こうした言動は捕虜仲間の軍医の良心と重なる点ですが、他者を救おうとする正義感は「美しい社会主義の心」として示され、ソビエト国民が感動し、共感を覚える点でもありました。


物語の最後に見せるソコロフと少年の経緯は、ショーロホフが示した一つの救いの道でした。全てを失い、絶望の淵に立たされた二人は「親愛」によって繋がれます。戦争によって生まれた二人の被害者、全てを奪い取られた二人の被害者は、引き寄せられるように互いを受け入れます。たとえ絶望の底の底に立ったとしても、決して屈しない精神と尊厳によって、人間は運命に新たな光を見出すことができると、ショーロホフは強い意志を作品に込めています。

 

身内を失った二人の人間、未曾有の力を持った戦争の烈風のため見知らぬ土地に吹きとばされた二つの砂粒……この先、何が彼らを待っているのか?不屈の意志を持ったこのロシヤ人が、万事を見事に持ち堪え、あの子が父の肩で成長し、大人になった時には、祖国が求めるならば、あらゆる事に耐え、行く手のあらゆるものを克服し得る人間になる、と私は思いたかった。

ミハイル・ショーロホフ『人間の運命』


本作では、不屈の精神、他者への自己犠牲、確固たる正義感といったものが凝縮して描かれています。過去の話として語られる作品構成によって、ソコロフの言動が確定したものとして読者に明示されるため、そこに描かれる信念や正義感も強い説得性を持っており、悲惨な過去を乗り越えた「現在」に希望を抱かせる気持ちを与えられます。ここにこそ、ショーロホフの「人間の運命」を肯定的に捉えようとする姿勢が見えてきます。


彼は1965年に『静かなドン』の功績によってノーベル文学賞を受賞しています。その前年である1964年に、フランスの作家ジャン=ポール・サルトルがノーベル文学賞を辞退しました。辞退の理由として、個人的な理由(彼は公的な賞を全て辞退)に加え、ノーベル賞が「西洋文化における最高権威」になったこと、ショーロホフに賞が授与されなかったこと、そして「ノーベル賞を受賞した唯一のソ連作品は、海外で出版され、自国では発禁処分となった本だった」こと(1958年に受賞したボリス・パステルナークの件)を遺憾に思うと表明しました。この経緯によって、ショーロホフはソビエト連邦作家同盟の司令部に認められた初のノーベル文学賞受賞者となりました。雪解け期にあったとは言え、ショーロホフは政府の御用作家と揶揄されることがありますが、彼の作品には絶対的な「他者への親愛と正義感」が込められており、それは彼の強い信念でもあったのだと思います。


ミハイル・ショーロホフの芸術性が凝縮された本作『人間の運命』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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人間の運命 (角川文庫 シ 27-1)

人間の運命 (角川文庫 シ 27-1)

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『隠者の夕暮』ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

隠者の夕暮,シュタンツだより (岩波文庫 青 703-1)

 

民衆教育の父ベスタロッチー。彼は真の社会改革は教育によってのみ達成できるという信念によって、終生、貧民の救済と教育方法の探究に力をそそいだ。彼の教育思想の根本体系をもっともよく伝える処女作「隠者の夕暮」と孤児教育の成果を語る「シュタンツだより」。新字体・現代かなづかいに改め、略年譜を付した。


教育の祖ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746-1827)は、ジャン=ジャック・ルソー『エミール』の教育思想に大きく影響を受け、幼児教育の祖とされるフリードリヒ・フレーベルを弟子に持ち、幼児知育を世に知らしめたマリア・モンテッソーリ、学校の共同生活に教育性を見出したジョン・デューイ、認知発達論を提唱したジャン・ピアジェなどに根本的な教育思想を与えました。ペスタロッチは教育と福祉に対し、当時では革新的な思想を持つ革命家でした。もっと言えば、その思想はあまりに理想主義的で、彼の精神は夢想家そのものであったと言えます。彼の教育や福祉に対する情熱の根源には、「経済的に恵まれない人々への思いやり」と「スイスという国への強い忠誠心」がありました。貧困に喘ぐ同胞の生活を改善させることに対して真剣に向き合い、社会をどのように変えるべきかを追求します。そして、同胞やその子供たちがより良い社会を形成させる手段として、「教育」の観点から同胞たちの根源的な変革を理想として抱きました。ペスタロッチは、全ての子供たちは良質な教育を生まれながらに受ける権利があると信じ、その恩恵が広く一般に行き渡り、社会の根源的な改善へ繋げるべきであると考えていました。裕福な子供だけが教育受けられる社会にありながら、ペスタロッチは貧困層の子供たちへ私財を捧げて「真の改革」を目指しました。


スイスのチューリッヒで生まれたペスタロッチは、幼い頃に父親を亡くし、母親の深い愛情に包まれて育ちました。大学時代に触れた『エミール』の強い衝撃は、当時のフランスが発信した「自由と平等」の理想と融合し、彼のなかで教育は特権階級だけのものでなく貧困層にも平等に与えるべきであるという思想を形成しました。貧困層の多くは農民たちでしたが、教育を受ける環境がない以前に、学校という施設そのものが機能していないことに気づきます。当時の学校では、教師は生徒に関心を持たず、馬小屋のような建物を校舎と呼び、老人や傷痍軍人が大雑把な管理を行っていました。既に廃墟と化している施設も多くあり、換気も満足に行われず、流行り病が蔓延しているような場所もありました。


このような教育環境を変革したいと考えたペスタロッチでしたが、まずは身近な同胞である農民たちの生活水準を改善させようと、妻の持参金を注ぎ込んで農場経営に乗り出しました。更に、農民の子たちに向けた学校を開き、服や食事を与え、自ら教壇に立ちながら農場も経営していきます。生徒たちには彼が経営する農場で働くことを授業の一環として取り組ませ、産業学校としてのかたちを作り上げていきました。しかし、ペスタロッチには経営者としての手腕には恵まれていなかったようで、借金が膨らみ、結果的にこの産業学校を農場ごと手放すことになりました。彼は悔しい思いをしましたが、それでも「全ての子供たちは良質な教育を生まれながらに受ける権利がある」という理想だけは捨てませんでした。ペスタロッチは立ち上げた学校に掲げた理念を信じ、農民の子供たちへ教育を与えなければならないという義務感を更に募らせ、これを一生涯における自身の仕事として確信します。そして、彼が抱く思想を明確にするために執筆を始め、1780年に初めてまとめ上げた著書が本作『隠者の夕暮』です。これは、ルソーから受けた影響に加え、彼の持つ教育観や道徳観が合わさった始祖的な教育論となっています。


1789年、フランスのバスティーユ牢獄襲撃により、武力革命の勢いは膨らみ、ヨーロッパ諸国を争いが飲み込んでいきました。1792年にプロイセン・オーストリア軍をヴァルミーの戦いで破り、1793年にはカトリックと王党派をフランス西部の農村地帯ヴァンデーで制圧、そして、1794年には革命家マクシミリアン・ロベスピエールの独裁政治が強まり、フランス国内は革命一色となりました。しかし、一定の社会改革が成されると、ある程度の生活水準を得た下層民たちは保守的な態度を取り始め、ロベスピエールや革命急進派を恐れるようになっていきます。革命政府も同様の見解で、彼らは結果的にテルミドールのクーデターにより、急進派を一掃してしまいました。政府は落ち着きを取り戻そうとしていましたが、そこへナポレオン・ボナパルトがイタリア遠征より凱旋帰国します。ナポレオンは、革命政府に向けて軍事クーデター(ブリュメール18日のクーデター)を起こし、自らを第一統領とする統領政府を成立させました。ここから、ナポレオンによるヨーロッパ諸国への進軍が始まります。


プロイセン・オーストリア軍はフランス軍を打倒するため、1799年にスイスへと侵攻して大きな戦いを繰り広げました。戦場となったスイスの被害は甚大で、多くの孤児を生み出しました。教育者を目指すペスタロッチは、この状況は自らが解決すべき問題であると考え、行動することを決意します。彼は、スイス政府による孤児院施設長着任の要請を受けました。罪のない子供たちの心を癒し、道徳的な成長を助け、自身の教育論に則った学校を作り上げようと、彼は熱意を持って取り組みました。生徒たちは、当時では考えられないほどの短期間で読み書きや計算を習得し、健全な道徳心を育んで成長していました。ペスタロッチはこの功績により、今までの思想や教育観を認められ、後世にも伝わる優れた評価を得ることができました。


最盛期と言えるイヴェルドンでの学校では、生徒と教師は共同体として生活し、保護者とは頻繁に報告を行うことで信頼を得ていました。また、授業料が払えない生徒も受け入れ、年上の生徒が年下の生徒に指導するなど、家族のような心の繋がりができていました。ペスタロッチは成績表のようなものは用いず、比較ではなく個人を評価することに徹底し、その姿が子供たちにも「個人の尊重」という考えを植え付けていきます。自然の環境を活かした授業は、登山に水泳、園芸に動物の飼育などに及び、子供たちは健全な心を保ったまま大きく成長していきました。ペスタロッチは、良い社会を形成させる手段としての「教育」を遂に構築しました。

 

玉座の上にあっても木の葉の屋根の蔭に住まっても同じ人間、その本質からみた人間、一体彼は何であるか。何故に賢者は人類の何ものであるかをわれらに語ってくれないのか。何故に気高い人たちは人類の何ものであるかを認めないのか。農夫でさえ彼の牡牛を使役するからにはそれを知っているではないか。牧者も彼の羊の性質を探究するではないか。

ペスタロッチー『隠者の夕暮』


ペスタロッチは教育において、「頭」「心」「手」の力を伸ばすことが大切であると確信していました(3Hの思想)。頭に知識を詰め込むだけではなく、その知識を判断する心を養う必要があり、手によって触れる経験が他者に対する思いやりを育むことで、生徒は受ける教育と行動による道徳的成長を成し遂げます。善悪の判断を学び、彼ら自身の幸福度を高め、責任を理解する高潔な人間へと成長させる場こそが「学校」であり、導く人が「教育者」であると、ペスタロッチは信じ抜きました。そして、こうした教育の結果、社会が徐々に改善し、世界に平和と安全を齎すことができ、誰もが幸福を感じることができる社会が訪れると考えていました。


現代に引き継がれている教育、モンテッソーリの知育教育やピアジェの認知発達論は、ペスタロッチの思想に賛同し、より発展的な教育を目指したものです。ペスタロッチより始まった教育改革は、二百年経った今でも進化を続けています。しかしながら、現代の学歴社会で優先される成績重視の学校評価制度は反比例的に蔓延し、知識を詰め込む学習塾などが教育として認識されていることも事実です。日本の保育の場ではペスタロッチの教育観は優先されていますが、道徳的成長に大きな影響を及ぼす学校でも、こうした観点からの見直しが必要なように思えました。ヨハン・ペスタロッチ『隠者の夕暮』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

riyoriyo.hatenablog.com

 

『オズの魔法使い』ライマン・フランク・ボーム 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

オズの魔法使い (角川文庫)

 

カンザスの大平原のまんなかから大竜巻で家ごと見知らぬ土地に飛ばされたドロシー。ヘンリーおじさんとエムおばさんが待つ故郷へ戻りたい一心で、どんな願いも叶えてくれるという偉大なる魔法使いオズに逢いにエメラルドの街を目指す。頭にわらの入ったかかし、心臓がないブリキの木こり、勇気がほしいライオン。仲間とともに困難を乗り越える一行の願いは叶えられるのか?柴田元幸の新訳による不朽の冒険ファンタジー!


ドイツ系アメリカ人の父親とスコットランド系アメリカ人の母親を持つライマン・フランク・ボーム(1856-1919)は、1856年にニューヨークで生まれました。父親はペンシルバニア州の油田で財を成した人で、ボームは非常に裕福な環境で育ちました。彼は幼い頃から執筆を行い、なかでも演劇に多くの情熱を注ぎました。戯曲を幾つも執筆し、自ら役者として舞台に立つなど、作家としても演者としても熱心に活動しました。父親に劇場を建ててもらい、充分な演劇の環境を整えてもらいましたが、注いだ熱量とは裏腹に経済的には全く成功できず、挙句には彼の劇場が火事になってしまい、彼は演劇の世界から離れることになりました。現在のサウスダコタ州へと移住した彼は、家族と共に雑貨店を開きました。しかし、これも経済的な成功を収めることはなく、結果的に新聞の編集者として働きに出ました。地方新聞ではあったものの、寄稿するコラムは評判が良く、自らも執筆ができるという点でやりがいもありましたが、今度は新聞社が倒産してしまい、またもや成功を逃してしまいます。巡業セールスマンとして辛うじて生計を立てていましたが、やはり執筆から離れることは苦しく、業務の合間に韻文マザー・グースの直訳小説『ファーザー・グース』を出版しました。これがある程度の成功を収めたため、本格的に作家として活動することになり、本作『オズの魔法使い』を書き上げたことで、彼は商業的な大成功を遂に収めました。


1865年にアメリカ南北戦争が終わると、南部諸州を北部が統合し、奴隷解放問題が長期化する「レコンストラクション」の時代が到来します。また、フロンティア開拓における先住インディアンとの紛争が各地で起こり、南北の統合が明確に果たされないまま時は過ぎていきました。そして、同時並行的に産業革命の余波を受け、超高速度でアメリカは国内の各地を工業化させていき、多くの移民が各国より渡米してきます。こうして、一層にさまざまな人種が行き交う多国籍な土地へと発展したアメリカは、工業の加速化により巨大な資本的先進国へと成長していきます。こうした経済発展において、アメリカでは1900年に金本位制が法制化されましたが、その不安定性と奥に潜む問題点が政界では論点になっていました。『オズの魔法使い』が、この金銀複本位制をめぐる金融政策論争の寓話的側面を持っていると提唱されたこともあり(ヘンリー・リトルフィールド「ポピュリズムの寓話」)、本作の登場人物やその行動には、寓意が多く含まれているという解釈もあります。しかし、ボーム自身はこの考えを否定しています。


本作は1900年に出版されました。アメリカが世界経済において頭角を表すという時代で、作品にも当時の児童文学が持つ風潮から掛け離れた要素「非教本的物語」「少女が主人公」などが採用されており、アメリカ独自の文化的な成長が垣間見えます。ニューヨーク・タイムズが絶賛したように、作品には明るさと楽しさが溢れており、暴力的な要素を取り除いた冒険が活気を持って描かれ、当時の子供たちを魅了し、大人も最も優れた児童書が誕生したと喜んでいました。他国民を巻き込んだアメリカの経済成長は、このような文化的成長も呼び起こしたのだと言えます。


両親のいないドロシーは、アメリカの中心部に位置するカンザスの大草原で、叔母と叔父、そして犬のトトとともに暮らしていました。一面が灰色に映る景色のなか、自然に囲まれた生活に幸せを見出していたドロシーでしたが、突然の竜巻に襲われます。叔父と叔母は地下の避難場所へ逃げ込みましたが、トトを探していたドロシーは間に合わず、家とともに空高く吹き上げられ、空の遠くへと運ばれてしまいました。嵐が収まってたどり着いた場所は「オズの国」で、ドロシーは自分の家が東の悪い魔女を下敷きにして退治してしまったことを知らされます。魔女が履いていた銀の靴を手に入れると、ドロシーはカンザスへと帰る方法を見つけるため、オズの国を冒険することになりました。北の魔女は善い魔女と言われているため、彼女はまず、そこへ向かって助けてもらおうと考えました。額に守護のキスを受けたドロシーは、強い力を持つというオズの国の魔法使いへ助けを求め、会いに行きます。道中で、知恵を求めるかかし、心が欲しいブリキの木こり、勇気が欲しい臆病なライオンと出会い、彼らとともにドロシーはオズの魔法使いの元へと進みました。旅の途中でさまざまな困難に出会いますが、かかしの機転と、ブリキの感情と、ライオンの勇敢さによって、悉く問題を解決して乗り越えます。ようやくたどり着いた彼らはオズの魔法使いと話す許可を得ますが、面会は一人(一匹)ずつという条件でした。面会者によって姿を変える大魔法使いに、カンザスへ帰ること、知恵、心、勇気という彼らそれぞれの願いを伝えると、西の悪い魔女を退治するように条件を出されます。西の悪い魔女は黄金の帽子に宿る翼の生えた猿たちを使って、ドロシーたちへ多くの困難を与えてきますが、ここでもかかしの知恵、木こりの感情、ライオンの勇気によって蹴散らし、魔女の元へと辿り着きました。そして、対峙したドロシーは、額のキスによって守られながら西の悪い魔女を退治します。

約束を果たしたため、願いを叶えてもらおうとオズの国へ戻ってきたドロシーたちですが、面会中に大魔法使いが実は魔法の使えない奇術師だと明かされます。しかし、旅の途中の言動からもわかるように、かかしには既に知恵があり、ブリキには既に心があり、ライオンには既に勇気があることから、奇術師の簡単な方便で、結果的に三人(匹)の願いは叶えられました。そして、ドロシーは奇術師自身もアメリカへ帰りたいという思いから、一緒に気球を作って欲しいと頼まれます。絹を編み、手作りの気球を作った二人ですが、いざ飛び立とうという場面でトトが居なくなり、奇術師だけを乗せて気球は飛び上がって行きました。途方に暮れるドロシーですが、南の善い魔女にカンザスへ帰る方法を聞くことにし、かかしと木こりとライオンとともに出発します。襲いくる困難は黄金の帽子を用い、翼の生えた猿たちに助けられ、ようやく南の善い魔女グリンダに出会います。グリンダは、黄金の帽子と引き換えに帰る方法を教える約束を交わします。黄金の帽子の三つの願いを叶え終えたドロシーは喜んで引き渡し、グリンダの行動に委ねました。グリンダは帽子を使って、かかしと木こりとライオンをそれぞれが望む場所へ運び、翼の生えた猿たちを帽子の呪縛から解き放ちました。そして、ドロシーには履いている銀の靴でカンザスに帰ることができることを伝えます。ドロシーは皆に別れを告げたあと、銀の靴の魔法でカンザスへと帰り、無事に叔父と叔母の元へ戻ることができました。


ボームは序文で伝えているように、「ふしぎやよろこびはいままでどおりあって、つらい気持ちや悪夢は排除された、現代のおとぎばなし」を作り上げました。また、作品に登場する人物や小道具などは、彼の多くの人生経験から反映しているものであり、使用した意図もそれぞれに込められています。

かかしはボームが幼少期に何度も見た悪夢に登場していたもので、野原をどこまでも追い掛けられ、首を掴まれそうになる瞬間、かかしがボロボロに崩れ去るという夢でした。かかしの「火のついたマッチが怖い」という台詞は、ボームの劇場が火事で焼失したことを示唆しており、かかしは彼の「恐怖」を愉快な登場人物へ置き換えた存在であると考えられます。

ブリキの木こりは、ボームが雑貨屋のショーウィンドウを飾ろうと、自分で端材を組み合わせて作ったブリキの人形がモデルになっています。洗濯用のボイラーで胴体を作り、ボルトで固定された煙突で腕と脚を作り、鍋の底で顔を作りました。ボームはその人形に漏斗型の帽子をかぶせて、心の無いブリキの木こりを完成させました。インスピレーションによって生み出されたブリキの人形は、本作で心を埋め込まれ、読者の印象に強く残る登場人物となりました。

また、物語の発端となる竜巻は未知への遭遇を呼び起こす象徴となっており、灰色の乾いた世界しか知らないドロシーに世界の広さを知らしめるきっかけを与えています。これは、ドロシーに新しい世界を魅力的に見せるという目的ではなく、他の世界を知ることで自分の生きる世界の良さや価値を認識させる意図があります。


ボームの妻は自分の娘のように愛していた姪を、わずか生後五ヶ月で重篤な病によって亡くします。ボームは悲嘆に暮れる妻の心を癒すため、この「つらい気持ちや悪夢が排除された」作品のヒロインに「ドロシー」と名付け、本作を妻に捧げました。ボームは過去の児童文学、例えばグリム兄弟やアンデルセンといった童話に影響を受けていますが、最も本作に影響を与えている作品はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』であると言われています。キャロルの作品が子供に受け入れられた一つの要因として、ボームは読者である子供が共感を受ける「アリス」という少女の存在にあると考えました。可愛らしさ、無垢さ、快活さ、意思の強さなど、不思議の国で見せるアリスの個性を、ボームはドロシーに踏襲したことによって、非常に魅力的なヒロインが誕生しました。そして、不思議の国というお伽話然とした舞台から、かかしやとうもろこし畑などのアメリカ中西部に馴染み深い場所を登場させることで、ボーム独自の新しい世界を築き上げました。


ドロシーに同行する仲間たちは、それぞれが何かが自分に欠けており、オズの大魔法使いに与えてもらおうと願っています。しかし、かかしが求める知恵も、木こりが求める心も、ライオンが求める勇気も、旅の道中で彼らが既に持っていることが示されます。また、ドロシーがカンザスに帰りたいという願いを抱いていながらも、ずっと履いていた銀の靴が叶えてくれることが最後に明かされます。彼らは、既に持っているものに気付かず、無いと信じて欲します。仲間との旅で出会う問題を解決しようと、彼らは仲間のために「無いと思っている大切なもの」を発揮します。この物語では、欲しいものは既に手のなかにあるということ、自分以外のために発揮できるということが教示的に描かれています。

 

あなたに必要なのは自信だけです。危険を前にして、怖がらない生き物はありません。ほんとうの勇気とは、怖くても危険と向き合うことであって、そういう勇気を、あなたはふんだんにお持ちなのです

ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』


お伽話は、産業成長の反動として隆盛すると言われています。十九世紀末から二十世紀初頭までアメリカは怒涛の勢いで工業化を押し進め、世界経済における中心的存在へと成長しました。こうした社会変化の影響のひとつとして、アメリカ初のお伽話が生まれたことは、後世に生きる我々にとっては喜ばしいことだと思います。フランク・ボーム『オズの魔法使い』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

 

『痴日』牧野信一 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

痴日 (青空文庫POD(シニア版))

 

牧野信一(1896-1936)は、神奈川県の小田原に生まれました。当時の小田原では、日本における本格的な産業革命の影響が及び、安価な輸入農産物の流入や機械化工業の浸透による農家の貧困が目に見えて問題化していました。福沢諭吉が「日本は今や相当に開化した。社会の秩序は殆んど立った。この上日本はどこまでも東洋の一孤島に縮って居なければならぬという道理はない筈である。 故に日本人はサッサと外国へ出て行け。」と海外移住を進めたこともあり、小田原全土では渡米熱が蔓延していました。そして、牧野の父親も例に漏れず、アメリカへと渡って約十年間も日本へ帰ってきませんでした。父親と母親の関係はあまり芳しくなかったこともあり、そのような環境を祖父母は容認し、母親とともに彼らは牧野の成長を支えました。牧野は父親を近くに感じられないながらも、時折送られてくる珍しい土産品などを通じて、その存在を認めるという変わった親子関係で育ちました。送られてくる土産品には、原著の海外文学作品(ギリシャ文学やローマ文学、欧州での古典叙事詩など)も含まれており、のちの牧野文学に少なからず影響を与えています。

早稲田大学英文科へと進学した牧野は、在学中に自らも執筆を行うようになりました。古典だけでなく、谷崎潤一郎やミゲル・デ・セルバンテスなどにも関心を示し、彼自身の文芸性は独自の成長を見せ始めます。卒業後は知人の紹介で時事新報社の記者になると、配属先で佐佐木茂索と出会いました。佐佐木は後に文藝春秋を立ち上げ、菊池寛らと共に芥川賞や直木賞を創立した人物で、牧野が日本文壇に立つ足掛かりの一助を担った人でもあります。また、同時期に、大学で同級の浅原六朗に誘われて同人誌「十三人」を創刊した際、牧野は処女作『瓜』を発表しました。この作品が自然主義文学を牽引していた島崎藤村の目に留まり、大いに賞賛されます。そして、翌年には藤村の計らいによって、春陽堂の「新小説」へ『凸面鏡』を掲載することができ、牧野は正式に、作家として日本の文壇に立ち上がりました。ここから、牧野の苦悩に満ちた作家人生が始まります。


牧野の血筋は、どの代でも一人は激しい神経衰弱を引き起こし、気の病や自死に至る者があったと言われていました。実際に彼は慕っていた医者の叔父が精神を病んだことを目の当たりにし、更には、母親から「今度はお前の番だ」と不安を煽られるという過去があったことから、牧野自身はいずれ自分も気の病に罹るのではないかと不安を抱きながら暮らしていました。そうした精神不安が彼の作風に影響を及ぼし、牧野の作風は藤村と同様の自然主義文学の流れを汲みながらも、陰湿というよりは「暗澹」と表現すべきものが彼の作品には現れていました。

しかし、1927年に「新潮」で発表した『西瓜喰う人』では、それまでの「暗澹」からかけ離れた「禍いから転換」するような物語を綴り始めます。宇野浩二や坂口安吾などが称賛する「ギリシャ牧野」と呼ばれるこの時期は、作家仲間との良い交流もあり、作品に「生気」が包まれているようでした。言い換えれば、「暗澹な私小説」から「好転を求める幻想小説」への転換であり、そこには幼少期に育んだ「古典的幻想性」が織り込まれていることがわかります。ある意味で、ドン・キホーテのような夢想を込めた作品が多く生まれた時期であるとも言えます。

作風を好転させた牧野でしたが、後年に差し掛かると胸の奥底から精神衰弱が再び浮かび上がってきます。振り子のように「暗澹」から「好転」へと変化した作風は、再び、そして更に強い勢いで「暗澹」へと突き進みます。しかし、そこから生み出される作品には獲得した「幻想性」が滲み、私小説でありながら、牧野の影には非現実性が纏わり付いています。精神を病みながらも厭世的にはならず、実在に幻想性を見出すような視点で私小説を綴っていきます。彼の敏感な感受性によって陽の光や風の戦ぎを幻想的に感じ取り、その感情を私小説で描き出すという手法は、作品を単純な暗澹ではなく「祝祭的な暗澹」として昇華しています。この晩年に差し掛かる時期に発表された本作『痴日』は、その典型的な作品と言えます。


執筆の不調により精神衰弱となった作家の隠岐は、細君と従妹の弥生と三人で海の見える貸別荘で療養暮らしを始めました。経済的困窮に苛立ちを募らせる細君は隠岐に強く当たり、気の病と精神負荷によって彼もやはり面白くない環境にありました。歳の離れた弥生は魅力的な女性であり、尚且つ行動は大胆で、隠岐もどのように接すれば良いか困惑する始末でした。秋の初めから始められる共同生活は、経済的な問題を持ち出す細君との居心地の悪い会話や、突発的に魅せる弥生の行動に対する隠岐の反応が綴られていきます。季節が移ろい、春の陽気が感じられると、弥生は日光浴に行きたいと隠岐に持ち掛けます。隠岐は、一張羅の毛皮をしっかりと着込んだ弥生とともに砂浜へ向かって歩き出します。人気が無い場所へ辿り着くと、弥生は勢いよく両手で毛皮を開いて隠岐に見せました。中には一糸纏わぬ姿があり、隠岐は驚きの声を上げます。一瞬間、隠岐は困惑したものの、気持ちが落ち着くと楽しみを覚え、そのまましばらく陽気な会話を交わしながら、二人は散歩を続けました。


自身を題材とした経済的に困窮した作家を描いた本作ですが、牧野が作品に映し出した「感覚的幻想」が状況を好転的に捉えており、隠岐の精神が快方に向かっていることが伝わります。牧野が独自の価値観の眼鏡を通して眺めたことにより、牧野という人物の領域を超えた私小説が生まれたと言えます。そこには「印象」が優先して描かれ、事実以上の精神的真実が浮かび上がっており、隠岐が求めていた春の目覚め(遅日)が、弥生のおかしみをもって訪れさせています。この真実は、牧野の価値観的真実と言えるもので、彼の内側から眺めた世界が表出しているからこそ、暗澹からの好転が自然に浮かび上がるように描き出されています。

 

彼は、片方に彌生の腕を執り、左には、何も彼も一處くたに下穿までも丸め込んであるといふ鞄を大きく振りながら、歩調を合せて、さへぎるものもない廣々として砂原を颯々と歩きはじめた。

牧野信一『痴日』

 

振り子が戻るように、人生の「暗澹」が舞い戻ったことで、牧野の精神衰弱は激しいものとなりました。事あるごとに自死を口にするようになった牧野は、最終的に自宅で縊死しました。精神の崩壊を恐れるあまりの、精神衰弱という苦しい孤独からの解放を求めたのだと考えられます。葬儀には、河上徹太郎や小林秀雄など、牧野をマイナー・ポエットとしてではなく文壇に必要な文学者として支持した面々が集まりました。再び好転へと振り子が移るまで生きることができていれば、より一層に祝祭的な好転文学を残すことができたのではないかと思いました。自然主義文学から早稲田の奇跡派へと導く牧野信一の『痴日』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

「ルル二部作」フランク・ヴェデキント 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

地霊・パンドラの箱――ルル二部作 (岩波文庫 赤 429-1)

 

あらゆる男たちを魅惑し惹きつけ破滅させるルル。『地霊』では夫になった3人までもが彼女にきりきり舞いしながら死んでゆく。ルルとはいったい何者なのか。世紀末の社会の虚偽・退廃を、ルルを通して描いたヴェデキントの戯曲は今も驚くほど新鮮である。ルルを題材にしてアルバン・ベルクはオペラを作曲している。


フランスのエミール・ゾラ、ノルウェーのヘンリック・イプセンなどが与えた文学的影響は、ヨーロッパ全土へ自然主義という文学思潮を広め、諸国で独自の発展を遂げていきました。ドイツでは1880年ごろから広まり、やがて自然主義による新演劇運動が活発化していきます。ドイツ演劇の中心地であったベルリンでは、ゲルハルト・ハウプトマンの『日の出前』が大きな喝采を受け、世間一般に自然主義演劇が受容されていきました。しかし、ドイツでは他のヨーロッパ諸国よりも自然主義の広がり方が狭く、例えば、ウィーンではデカダン(頽廃思想)演劇が主流であったように、地域によって演劇の性質に違いがあり、アルトゥル・シュニッツラーやフーゴ・フォン・ホーフマンスタールなどがドイツ文学に大きな影響を与えました。自然主義もデカダンも、根底には市民社会の苦悩と虚無を暴き出していることに共通点が見られますが、そこに作家としての手法と思想に違いが生まれ、作品の性質そのものに影響を与えています。こうした一枚岩ではないドイツ文学運動において、また別の性質の文学を生む作家が現れていました。フランク・ヴェデキント(1864-1918)は、市民社会を一般的な道徳観に縛られず、当時は問題作と言われるほどの大胆な描写で執筆し、ドイツ文壇に大きな嵐を巻き起こしました。社会の矛盾と欺瞞を抉り出すように露出させ、その筆で容赦なく描き出した彼の見る社会は、出版禁止や上演禁止を幾度も招きます。しかし、彼の作品は、一般的な諷刺作品に留められない非常に強い文芸性を秘めています。


文学における自然主義の普及と同様に、ドイツ演劇にもフランスのキャバレー文化が流入しました。カバレットと呼ばれるドイツのキャバレーは、十九世紀末のパリに見られるような盛り場と言われる地下酒場と同様のもので、前衛的な詩人や劇作家、音楽家や俳優などが、社会の外れで発散するように活動していました。観客は酒や食事を楽しみながら、詩の朗読やコント演劇、そしてシャンソンなどを観賞することができます。カバレットの性質から、上演される作品は頽廃のパリ同様に快活なものはなく、社会の闇を暴くもの、政治を辛辣に諷刺するもの、性的な表現が過激なものが披露され、こういった性質が前衛的な芸術性を強く刺激して発展を続けました。このカバレットにおいて、群を抜いて活躍した作家こそ、ヴェデキントでした。彼は学生時代から前衛的な詩人たちと関わる機会があり、その影響を受けて自らも執筆を始めました。思春期の性問題を描いた戯曲『春のめざめ』は、その大胆な描写から一躍話題となり、社会に大きな印象を与えました。


前衛的な人々の集まるカバレットにおいて、絶対的な評価を得たヴェデキントでしたが、ハウプトマンを代表とする自然主義演劇が中心的に受け入れられていたドイツ文壇においては、どちらかと言えば批判の声の方が強く上げられていました。ヴェデキントの大胆な筆致は、自然主義文学に比べると不自然に感じられ、また、性道徳そのものを攻撃的に描くことは、多くの読者にとって受容できる範囲を超えていました。しかし、ヴェデキントの信条は「肉体はそれ自身が精神をもつ」というもので、自然主義の思想に込められた観念的な理想像と正反対な性質を持っていたことから、精神と肉体は結びついているものであり、精神の表現には肉体もこれに準ずるという信念のもと、性問題に対する直接的な描写を継続していました。言い換えれば精神的な美化は欺瞞であるという図式を表出させ、既存社会における価値観そのものに疑問を呈する作家として名を残すことになります。


そのようなヴェデキントが、観客に受け入れられ、大きく名を馳せることになったのは、ミュンヘンのカバレット「十一人の死刑執行人」に参加したことが影響しています。店の名とも思えないような看板を掲げたカバレットでは、やはり一般に比べると過激な内容の演目が多く、叛逆的で挑発的な雰囲気が常に漂っていました。ヴェデキントは、毎晩のように登場し、辛辣な諷刺や過激な性問題提起を繰り返し、社会に問うように自らも俳優として演じ続けました。このような諷刺は、ブルジョワが市民に強要する道徳観から真っ向対立するもので、社会において彼の評価はさまざまであったものの、カバレットに集まる市民にとっては、最も注目すべき演者として認められていました。そして、その彼の代表作と言える戯曲「ルル二部作」は、現在でも多く演じられており、アルバン・ベルクによってオペラ化もされています。


この二部作は、『地霊』と『パンドラの箱』の二作で構成されています。見目麗しいルルという女性を中心に、男性たちが翻弄され、やがて破滅へと辿り着く作品ですが、そこには滑稽さと露骨な性が描かれ、陰鬱な社会諷刺が随所に散りばめられています。青年画家シュヴァルツのもとへ、衛生顧問官であるゴル博士とその妻ルルが訪れます。新聞の編集長シェーン博士に誘われたゴル博士が席を外すと、言葉を交わすうちにシュヴァルツはルルに夢中になっていき、ソファへと彼女を押し倒します。その場に戻ってきたゴル博士は嫉妬で興奮すると、心臓発作によって死んでしまいました。しかし、ルルは落ち着いて様子を眺めています。幕が移ると、ルルはシュヴァルツの妻となっています。ルルの父であるシゴルヒとの会話のなかで、ルルはシェーン博士と不倫関係にあることを打ち明け、シュヴァルツに対する嫌悪感を吐露します。一方で、シェーン博士は別の女性と婚約したためにルルとの関係を断ちたいと考え、シュヴァルツに打ち明け、ルルの管理を厳しくするように促しました。強烈な自己憐憫に陥ったシュヴァルツは、苦悶の末に自殺してしまいます。これを受けたシェーン博士は、精神が不安定に乱れ始め、やがてルルを妻へと迎えました。その後、ルルはシェーン博士の息子アルヴァ、曲芸師のロドリーゴ、ルルに恋愛感情を抱くゲシュヴィッツ伯爵令嬢と懇意になりますが、冷静さを失いがちになったシェーン博士は、彼らに軽蔑されるようになっていきます。絶望感を抱くシェーン博士は、ルルに拳銃を渡して自殺するように訴えます。そのとき、アルヴァとロドリーゴが登場したことで場が混乱し、ルルはシェーン博士を撃ち殺してしまいます。そして、アルヴァとルルはパリへと逃げていきました。ここまでが『地霊』です。

続く『パンドラの箱』では、アルヴァとルルが結婚しています。友人たちと共に投資によって利益を上げた彼らは豪奢な生活を送っていましたが、殺人犯としてドイツ警察に追われているルルは、ドイツから西へと逃避行を続けます。稼いだ金銭が尽きてエジプトのカイロへと辿り着くと、ロドリーゴと白人奴隷商人カスティ=ピアーニは、ルルに売春宿で働くように強要します。ここに突如シゴルヒが現れ、間一髪でルルは逃げ出すことに成功しましたが、金銭は全く持ち合わせていませんでした。ロンドンへと辿り着いたルルは、結局、売春婦としてシゴルヒとアルヴァを養うことになりました。そこへゲシュヴィッツ伯爵令嬢が道化姿のルルを描いた絵画を持って訪れます。何人かの客とのやり取りが描かれたのち、最後の客ジャックが現れます。彼はロンドンを震え上がらせていた切り裂き魔ジャック・ザ・リッパーで、ルルは殺害され、ゲシュヴィッツはルルへの愛を告げながら、幕は下されます。


男性を惑わすファム・ファタルとしてのルルという印象が語られることの多い本作ですが、ヴェデキントの真意はそこにありません。たしかに女性としての魅力を用いて男性を破滅へと導くルルですが、彼女自身が強く望んでいるわけではなく、男性が自らの嫉妬心や猜疑心、或いは恐怖心や羞恥心から身を滅ぼしていることが理解できます。もっと言えば、男性はルルを手に入れた瞬間に「破滅への豫言」を感じ取っており、そこへ自らを導くように結末へと辿っていきます。この点を、男性に捉えられた女性の解放と解釈する説もありますが、本質的にルルが解放を求めているわけではないため、この説に信憑性はあまり感じられません。ルルがブルジョワの強要する道徳観を持ち合わせていない点から、ルルが市民感情の表出者という見方の方に、説得力があるように思えます。ルルは男性にさまざまな名で呼ばれます。ゴル博士からは「ネリー」、シュヴァルツは「イヴ」、シェーン博士は「ミニオン」など、ルルは別の名を与えられますが、ここには男性側の所有物という性質が垣間見得ています。当時のドイツではいわゆる金権政治が成り立っていました。自己の所有物を披露することは、男性の地位向上に必要な行為でした。そうした金権政治の賛同者が、ルルという「市民感情」によって破滅へ導かれている点は、ヴェデキントの思想が如実に現れており、また、前衛的な観客も受け入れたのだと考えられます。


終幕で現れるゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、二部作において一貫した善の性質を持った人物です。愛情や献身をもってルルの傍に居ようとする言動は、本作の残酷さと不快さで溢れる空気の中で、唯一的に光っている要素です。しかし、ジャックの「お前もどうせまもなくおしまいさ!」という捨て台詞に込められた絶望感は、作品を通した頽廃性が集約されているようにも思えます。


本作は、悲劇性と喜劇性、滑稽さと残酷さが、ヴェデキントの筆致により入り乱れて融合している作品ですが、この性質から、彼は「ドイツ表現主義の先駆者」と呼ばれています。まず、『地霊』で見せる「死と宿命」によって非現実的な世界を提示したのち、二部作を一貫した「対話の崩壊」によって「理解の死」を表現しています。理解の死は「個人の解放」とも言い換えることができ、当時のブルジョワに抑えつけられていた価値観を解放するという意味合いです。そして、『パンドラの箱』による「墜落と死」では、社会の残酷さが目の前に迫り、ジャック・ザ・リッパーという現実の恐怖によって、非現実から現実へと観客を引き戻します。また、死によって招かれる終幕は、社会の行末を暗示しているようにも感じられます。

 

この国の現代文学がどうしようもないのは、あまりに文学的すぎるからなんだ。僕らは作家や学者のあいだで問題になるような問題しか扱わない。同業者仲間の見方でしかものが見れない。もう一度力強い偉大な芸術に辿りつくつもりならば、できるだけ、本などは決して読んだこともない人間とつき合うようにしなければ駄目だ。ただただ単純な動物的本能に従って行動するような人間とつきあわなければね。

フランク・ヴェデキント『パンドラの箱』


ヴェデキントは、観客に本作を強い個人的な視点で受け入れてほしいと望みました。広がる自然主義運動に見られる「写真のような視点」ではなく、自分自身の感情と価値観を尊重し、個人の視点によって社会を見ることを促しています。自然主義の或る意味で「無関心」の捉え方を否定し、個人としての意見を持って、感情を添えて捉えることを、彼は芸術作品に対するべき姿勢であると考えました。フランク・ヴェデキントの「ルル二部作」、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

 

『ミーチャの恋』イワン・ブーニン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

ミーチャの恋・日射病 他十篇 (岩波文庫 赤649-1)

 

「文字通り貫かれたのだ。この恐るべき日射病に、甚だしい愛に、甚だしい幸福に!」──亡命ロシア人作家イワン・ブーニンは人間を捕らえる愛の諸相を精緻な文体で描いた。見知らぬ女性との一夜の記憶が鮮やかさを増す「日射病」、初恋の歓喜が嫉妬の情に蝕まれていく「ミーチャの恋」など、作家が自ら編んだ中短篇集。


イワン・ブーニン(1870-1953)は地主貴族の家庭に生まれました。由緒ある家系で、「全ロシア帝国貴族紋章集」にも掲載されるほどでしたが、父親の代で大きく没落し、貴族としては非常に貧しい環境でブーニンは育ちました。クリミア戦役後に帰国した父親は、持ち前の情熱と寛大さで家庭を愛しました。そのため、ブーニン自身は貴族としての没落に反し、父親に対して強い尊敬の念を抱いていました。また、母親も慈愛に溢れ、感受性の豊かな女性であり、彼は貧しいながらも幸福な幼少期を送りました。ブーニンは、家庭教師の影響で読書に耽ることが多く、早い時期からホメロスの『オデュッセイア』などに触れ、彼の詩性を刺激していきました。十歳でギナジウムに入ったブーニンでしたが、環境や勉学の内容に肌が合わず、結果的に退学してしまいます。これ以後の家庭教師は兄ユーリに任せられましたが、ここからブーニンの文士人生は始まっていきました。ブーニンが人文や哲学に関心を持っていたため、ユーリはその方面を強化していきます。この教育の影響と、持ち前の詩性が合わさり、ブーニンは僅か十五歳にして小説『情熱』を書き上げました。また、1887年の冬に、詩人セミョン・ナドソン(作曲家セルゲイ・ラフマニノフなどに影響を与えたことで有名)の死を受けて綴った『セルゲイ・ナドソンの墓の上で』という詩が雑誌に掲載されるなど、その詩性は徐々に形を成していきます。


文学の聖地サンクトペテルブルクに居を移したブーニンは、ロシア文壇で活躍する文士たちと次々に交流しました。文学評論家で思想家のニコライ・ミハイロフスキー、自然主義作家ドミトリー・グリゴロヴィチ、社会諷刺作家アレクセイ・ジェムチュジニコフなどと言葉を交わしたのち、ロシア黄金期の代表作家レフ・トルストイの家を訪ねて議論し、戯曲と短篇の旗手アントン・チェーホフとも文学について議論しました。こうしてロシアの文壇の中心へと足を進めたブーニンは、写実主義作家たちによる文芸サークル「水曜会(スレダ)」に参加し、幅広い芸術の交流を叶えます。前述のチェーホフをはじめ、社会を切り取るように描いたマクシム・ゴーリキー、表現主義の先駆者レオニード・アンドレーエフや、ロシアロマン派の代表的作曲家セルゲイ・ラフマニノフといった音楽家も参加し、ブーニンは芸術的な研鑽だけでなく、穏やかな友情も築き上げていきました。


執筆も好調で、作家としての立場を築き上げていったブーニンですが、第一次世界大戦争の勃発によって大きな精神的失望を味わいます。ドイツ帝国によるランス大聖堂砲撃を受け、ブーニンは暴力による世界支配を目指す姿勢を強烈に批判しました。そして、ロシアにおける二月革命、第一次世界大戦争という歴史の流れは、ブーニンにはロシア崩壊の前兆として捉えられ、のちのソビエト連邦による権力を全て否定する態度を貫きました。当時は、「アレクサンドル・ブロークは革命の音楽を、イワン・ブーニンは反乱の不協和音を聴いていた」と囁かれたように、詩人たちによる革命推進に対し、ブーニンは反戦的な意味合いでの保守的な立場を取っていました。この感情が基盤となって、1920年に彼はフランスへと亡命します。黒海を渡るとき、ブーニンは「これまでの人生はすべて終わってしまった」と絶望を露わにしており、失意の底にあった精神による決断の亡命であったことが窺えます。


パリに落ち着いたブーニンは、失意のためか、なかなか執筆活動を始めることができませんでした。いわゆる「創作の貧困」と呼ばれる状況にありましたが、これは亡命後も気持ちを整理できず、変わりゆくロシアの情報を耳にするたびに気持ちが落ちていくという性質のものでした。しかし、その後に『刈り取る人々』を書き上げて話題となり、革命前の作品がパリでも出版され、亡命作家としての活動がゆっくりと本格化していきます。そして1924年に開催された「ロシア亡命者の使命」と題された文学の催しで、イワン・シメリョフ、ドミトリー・メレシュコフスキーなどの亡命作家とともに、ブーニンは「レーニンの命令を拒絶することが使命だ」と宣言し、亡命作家は進みゆく革命の道とは異なるロシアの道を示すことだと訴えました。このような活動の効果もあり、翌年に発表した本作『ミーチャの恋』は、大きな話題となりました。本作以降のブーニンの作品には、革命前まで一貫して込められ続けたロシア社会への啓蒙的な訴えは完全に消滅し、根源的な自然界における生物としての人間の存在が書き上げられています。


物語はミーチャという青年の一人称で進められます。彼は私立演劇学校に通う美しい女性カーチャに恋をしています。カーチャの美しさには目を見張るものがあり、貴族層の若者たちに注目されています。こうした様子を目の当たりにするミーチャは強烈な嫉妬心に駆られ、カーチャへも直接的に訴えるようになっていきました。彼女は、ミーチャの嫉妬心を抑えようと、自分には彼が唯一無二の存在だと伝え、何度も宥めます。嫉妬をするたびに宥められるうち、ミーチャはある時、彼女の心のなかで変化が起きていると感じました。そこからはカーチャに何を言われても嫉妬心がおさまらず、彼は耐え難いほどの苦痛に苛まれていきます。カーチャが演劇に没頭している理由のひとつに、一人の演出家の存在がありました。彼は演劇学校の校長で、カーチャを褒め称え、女優としての輝かしい将来を想像させます。彼女は演出家の言葉と、その情熱に惹かれ、時間を共に過ごすことが多くなっていきました。しかし、この演出家には生徒を誑かすという噂があり、カーチャはまさに標的となっていました。やがて彼女は「心の優しい純真無垢な少女」から「着飾って忙しなく愛想を振り撒く令嬢」へと変化し、ミーチャと恋の言葉を交わしていた時とは別人のようになってしまいました。ミーチャは嫉妬の苦しみから逃れるため、しばらくモスクワを離れて田舎の実家へ帰ることになりました。カーチャは賛同し、二人は療養後にクリミアで再会しようと約束します。

帰郷後、ミーチャはしばらく療養に努めていましたが、環境の変化による嫉妬心の抑制効果は見られず、むしろ一層にカーチャのことを思う時間が増えていきます。そこに居ないはずのカーチャの面影を探し、想いは募り、幸福な時間を思い出すたびに嫉妬心が溢れてきます。ミーチャは彼女に手紙を送りました。返事が来る前に、さらに手紙を送りました。カーチャが筆不精であることを理解しているミーチャでしたが、返事が届かないということは、やはり嫉妬心に繋がっていきます。手紙を待つあいだ、彼は図書館で恋愛誌を読み耽り、恋心を刺激し、また苦悩の渦に呑まれていきます。一向に届かない返事を求めて、ミーチャは毎日、自ら郵便局へと出向くようになりました。しかし、手紙が届くことはなく、新聞だけを持ち帰る日々が続きます。嫉妬の苦悩が心の底に突き当たると、ミーチャは「一週間のうちに手紙が届かなければ自殺するしかない」と決意します。そして彼は、郵便局へ通うこと、愛の手紙を書き送ることを禁じ、自分の苦悩と向き合うことにしました。このような苦悩を見兼ねた村の長は、ミーチャに気晴らしの娯楽を提案します。それは、少額の料金で村の若い女性と二人きりで過ごし、性的快楽を得られるというものでした。アリョーンカという女性が引き合わされ、二人きりで落ち合ったミーチャでしたが、家族の動向や自身の苦悶に心を掻き乱されます。幾つもの感情によって、ミーチャの神経は激しく過敏になっていきます。そして、性的な快楽を得た瞬間に、ミーチャは大きな失望感に包まれました。性行為に求めていた純粋性や幸福がそこにはなく、ただ一面の虚無だけが広がっていました。苦悩と絶望の板挟みとなったミーチャは、一つの大きな決断をします。


ロシア亡命者に向けたパリの雑誌「ソヴレメンヌイ・ザピスキ」に初掲載された本作『ミーチャの恋』は、大きな反響を呼び、さまざまな書評が寄せられて話題になりました。ブーニン自身の失恋経験が色濃く反映されていながら、自伝的な雰囲気を感じさせない点も一つの特徴です。ミーチャという青年の強烈な個性も理由に挙げられますが、何より嫉妬心の芽生え方の普遍性と焦燥感の表現が強烈な印象を与えています。快活な女性に見られる奔放さは、恋する青年にはもどかしさを生み出し続ける原因であり、恋愛感情の熱量が嫉妬の妄想を膨らませる原因にもなります。そして、このような登場人物の感情を剥き出しにした表現技法が「現代的」であると評価され、また、読者を物語へ没頭させる要素ともなっています。そして、読者が感じ取るミーチャの苦痛や嫉妬は、ブーニン自身が感じたものであり、読者が共感するものでもあります。


ミーチャの持つ「情熱と純粋性」は、彼に悲劇的な終幕を与えます。カーチャが演出家に誑かされる以前、二人は良好で純粋な恋愛感情で結ばれていました。恋の感情は相手を偶像化し、やがて異性の理想像へと昇華させます。この時点でも、カーチャの奔放さには「理想との相違」があり、小さな諍いを生み出していました。しかし、カーチャに変化が見えだすと、理想との乖離は激しくなり、比例して苦悩や嫉妬も激しくなっていきます。このようなミーチャの態度に、現実のカーチャの心は一層に離れていきました。遠く離れて暮らすことで、ミーチャが見るのは理想のカーチャだけとなり、それは絶対的な偶像となって嫉妬心が爆発的に膨らみます。そして会うことができないという事実が嫉妬を絶望へと変化させ、終盤の情事を招きました。


自然描写が緻密で豊富な点も、ブーニンの亡命後の作品に見られる大きな特徴です。人間という存在は自然の一部であり、自然と一体であるという考えから、登場人物の感情の機微は自然描写と共に詳細に描かれます。本作では特に顕著で、モスクワでの生活においては殆ど自然描写は見られず、田舎へ移り住んでからは非常に豊富に描かれています。モスクワでは、ミーチャが抱く嫉妬などの感情はカーチャへ直接的に放たれるため、その瞬間に発散してカーチャに宥められていました。しかし、カーチャと離れて暮らすことでミーチャは抱く嫉妬や苦悩を精神の内へと溜め込み、極度の葛藤という形で苦しみます。こうしたミーチャの感情変化や精神的負荷を、ブーニンは沈鬱な感情を准えるように自然を描写し、読者の心へ刷り込んでいきます。陽の明るさや暗さ、自然の優しさや厳しさ、蝶の舞いは蛾の羽ばたきへ、ミーチャの精神変化を自然描写によって緻密に描いている点が、印象の強さと美しさを本作に備えさせていると言えます。

 

愛は、情欲は、魂は、肉体は?いったい何なのだろう?いやそんなものはない──存在するのは、何か別のもの、まったく別のものなんだ!まさにこの手袋の匂い──これだってカーチャじゃないのか?愛、魂、肉体じゃないのか?農夫たちも、車内で働いている人たちも、不恰好な赤ん坊を洗面所に連れていく女性も、コトコトと鳴るランプの淡い焔も、春の荒れ野を覆う薄闇も──すべては愛であり、魂であり、苦しみであり、いまだ語られざる喜びなのだ。

イワン・ブーニン『ミーチャの恋』


ブーニンのノーベル文学賞受賞には、確かに当時の「亡命ロシア文学」を活性化しようという世界の文壇が描いた思惑が影響しました。しかし、彼の文学には並外れた熱量と表現技法が作品に込められており、間違いなく芸術性の高い作品が多く発表されていると言えます。本書に収録されている表題作の『日射病』にも当てはまることですが、頽廃文学の要素は備えているものの決して主題がそこにあるわけではなく、人間という存在を追究し、現実と理想における幸福の乖離を、自然を通して描いているところにブーニンの特異な文才が現れているのだと思います。ロシア亡命作家イワン・ブーニンの『ミーチャの恋』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『わが夢の女』マッシモ・ボンテンペッリ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

わが夢の女: ボンテンペルリ短篇集 (ちくま文庫 ほ 5-1)

 

自分の頭蓋骨をとりだした男の話、患者に模した蝋人形で患部を治療する医者の話、賭ルーレットの数字をピタリと当てる男の話等々ナンセンスの中にアブノーマルなグロテスクさの満ちた短篇群。現代イタリア作家の中で最も評価することの難しい作家といわれる、異才マッシモ・ボンテンペルリの戦後初のまとまった短篇集。まことに奇妙キテレツ・痛快な一冊である。

 

マッシモ・ボンテンペッリ(1878-1960)は、イタリアの最北西部に位置するロンバルディア地方のコモに生まれました。彼はトリノ大学を卒業後、教職に就きながら戯曲や短篇小説を執筆していましたが、希望する中学教諭の職を得られなかったため、これを契機にジャーナリストの道へと転向しました。程なく第一次世界大戦争が勃発すると、ボンテンペッリは戦地へ従軍記者として向かい、その戦禍を実感しました。戦後に生きてミラノへ戻ると、戦争による社会不安から十九世紀末より表出した「表現主義芸術」が隆盛していました。表現主義は芸術性に作者の感情を反映させた芸術で、技法は主に抽象表現が用いられました。この表現方法に階級闘争の思想を加えた思潮を「未来派」と呼び、のちの芸術運動を席巻していきます。未来派は「階級闘争における暴力性を肯定」したもので、権力者側が抑圧する暴力と被支配者が権力に立ち向かおうとする暴力を、破壊的ではなく社会を正そうとする創造性であると提唱した『暴力論』(フランスの哲学者ジョルジュ・ソレルの主著)を屋台骨とした芸術運動です。ボンテンペッリは、この「未来派」の影響を受け、彼は自身の文学に変化を与えていきました。フランスのパリへ彼はジャーナリストとして向かうと、未来派の芸術家たちと交流し、自らも文学者として、この思潮を拡大させる活動に取り組みました。


未来派宣言を発表したフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ、形而上絵画のジョルジョ・デ・キリコ、その弟である作家で作曲家のアルベルト・サヴィニオ、大胆奇抜な劇作家ルイージ・ピランデッロなど、現代の芸術に大きな影響を与えた面々と交流することで、自身の文芸性はこれまでにない新たな思潮を発現させます。過去のイタリア文学より継承されていた思潮のなかで、ボンテンペッリはヴェリズモ運動と頽廃主義運動の流れに与していました。ヴェリズモ運動は、現実をありのままに描写しようとした自然主義に近しい運動ですが、どちらかと言えば犯罪などを含めた社会の闇を映し出そうとしたノンフィクショナルな性質を持っていました。ここに、未来派の抽象表現と暴力性が合わせ、彼は自然界のなかに想像上の独自世界を描写しようと試み、言い換えれば、両方の世界を融合させた幻想的現実を描き出し、理性と自然の二元論を成立させようとしました。これを「マジックリアリズム」と呼び、ボンテンペッリは独創的な文学を誕生させました。


彼の短篇小説『鏡の前のチェス盤』や『エヴァ・ウルティマ』は典型的なマジックリアリズムで書かれ、現実と虚構を二つの社会として抽象的に描いたものでした。この手法は当時のシュルレアリスム芸術に通ずるものがあり、友人であるジョルジョ・デ・キリコやアルベルト・サヴィニオらと共に、彼はイタリアでのシュルレアリスム運動に大きく貢献しました。その後、ローマに移り住んだボンテンペッリはルイージ・ピランデッロと親交を深めました。ピランデッロは彼に戯曲の創作を提案すると、『ミニー・ラ・カンディダ』(1927年)という現代のイタリア演劇で代表的とされる作品を生み出しました。こうした多岐にわたる執筆活動だけでなく、自らを含めた様々な実験的な作家を紹介した雑誌『900(ノヴェチェント)』を創刊するなど、イタリア文学の最前線で活躍しました。寄稿した作家には、モダニズム作家のジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフ、詩人のマックス・ヤコブやライナー・マリア・リルケなどがあり、ボンテンペッリは文芸批評家としても、その名を知らしめました。


本作『わが夢の女』も、マジックリアリズム創生期らしい作風で描かれ、ある種の幻想的で頽廃的な要素が融合されています。遠く離れなければならない男女が、別れの前の思い出を作るため、公園に構えているいくつかの見世物小屋に赴き、その催しを楽しんでいました。別れが脳裏にちらつきながらも楽しもうとする様子には切なさが秘められています。最後の催しへ入ろうとすると、加工された鏡が二つ備えられており、映すものを極端に変形させていました。男性はこの鏡に映った醜悪な女性の姿が脳裏に焼き付いてしまいます。直後に、女性を迎えにきた親族に声を掛けられ、二人は別れを告げて互いに立ち去ります。翌朝、悪夢にうなされた男性は慌てて目的の離れた地へ向けて出発しますが、女性を思い出そうとしても醜悪に映った鏡の姿しか思い出せません。何度試みても変化のない思い出に浸るうち、現実と虚構の狭間へと思考は落ち込んでいきます。


別れの前の切なく幸福な時間は、鏡に映るという行為によって、全くの別世界のように変化させられてしまいます。時間の速度も急激に変化し、記憶や思考も一挙に変化します。まさに、世界を変化させる引き鉄のような存在が鏡であり、男性は変化してしまった世界から抜け出せなくなってしまいます。虚構を虚構と認識できない男性は、過去の美しい女性の姿を思い描くことができず、醜悪な鏡の姿が記憶の全てとなり、実在すると理解している美しい女性への想いが維持されながらも、結局は厭悪の感情で心を満たしてしまいます。

 

幾度も私は、両手で頭をかかえ、アンナのことを、ほんとうのアンナのことを考え、実物の美しい彼女を、ふたたび見ようと思うのだが、だめだった。いまだに、だめなのだ。だから私は、いまだに、手紙を書いていないのだ。私は、彼女を失い、彼女は私を失った。きっと、私を恨んでいることだろう。


想像的な独自現実のなかで物語は進められますが、そこには美しさ以上の頽廃性が込められており、ヴェリズモ運動の潮流にあることが作中から窺えます。一見、怪奇性と捉えられる作風ですが、マジックリアリズムの手法で「あくまで現実」であるという点が特徴的で、だからこそ、読者には現実と虚構の狭間という恐怖を感じさせています。


年代から考えると、本作は日独伊の三国同盟の時代で、当時の日本ではファシズムが国家を握っていました。ボンテンペッリも当時はファシズムを称揚し、第一線で啓蒙に取り組んでいました。こういった背景から、早い段階で日本にはボンテンペッリは紹介されていましたが、第二次世界大戦争以降、こうした文学は姿を消しました。ボンテンペッリ自身は、ムッソリーニの第二次世界大戦争参戦の表明からファシズム反対派に寝返りましたが、この一定期間のファシズム支持という事実が、作家人生を大きく狂わせることになり、終生は恵まれない環境で過ごしました。作家としても文芸批評家としても、結果的にはあまり認められず世を去りました。


このように不遇な作家人生を過ごしたボンテンペッリですが、日本では数年前に『鏡の前のチェス盤』の新訳が出版されたようです。イタリアのシュルレアリスム運動を文学で支えたボンテンペッリの『わが夢の女』、手に取る機会があればぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

 

 

 

『風知草』宮本百合子 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

風知草

 

二十世紀初頭、1904年に日露戦争、1914年に第一次世界大戦争と、日本は国家規模以上の激しい侵略戦争を繰り返していました。しかし、国家を潤すという侵略目的に反して、連続した戦争は軍需ばかりが嵩み、結果的に人命被害と国民への貧困だけが与えられました。日本国民は尊皇による軍事称揚を押し付けられていましたが、1917年に起こったロシア革命による共産主義運動が国内に流入し、国民の生活にもその思想が浸透していき、やがて身を守るための共産主義運動が活性化していきます。一定層による偏った資本の占有を認める私有財産制に対する反発をきっかけとして、運動規模は拡大し、やがて君主制国家そのものを否定した運動へと発展していきました。尊皇の世に国民の反抗的な運動は許される筈もなく、政府は軍事国家らしく武力で弾圧していましたが、1925年に恐ろしい法律「治安維持法」を制定してしまいます。これは、私有財産制に限らず、国家の定める法、或いは活動自体に反発する者を「政府の判断により罪人と定める」という理不尽なもので、共産主義を是とする国民を片端から裁いていきました。治安維持法の制定と同時に共産主義運動に参加していたものは次々と逮捕され、拷問され、行方不明者や死者となって消えていきました。最も大掛かりなものは1928年の三・一五事件で、共産主義運動の中心組織を絡げて数百人を検挙し、全国へ見せしめのように取り上げたものです。このような不条理な国家による弾圧を、文学を通して世に訴えようとした人々をプロレタリア作家と呼び、共産主義運動に参加した人々が多くありました。三・一五事件を題材とした作品を発表した小林多喜二はプロレタリア作家の第一人者であり、共産主義運動の重要人物として活躍しました。そして翌年、つまり1929年に発表した『蟹工船』で全国的な代表作家として文壇の地位を確立しましたが、反政府の影響が強くなり過ぎたことにより、延々と国家に拷問を与えられ、最期(1933年)には非人道的な扱いを受けて死亡しました。

このように、治安維持法は政府が国民を自由に弾圧するための法律として存在し、国民は自由な思想や意思を持つことさえ許されず、ただ尊皇だけを神の如く扱うように強要されていたため、政府に対して声を上げることなど殆ど不可能な環境でした。

 

これまでの日本はいつも天下りの戦争にならされていました。天皇制の封建的な、絶対的な教育の下で、人民は戦争を「思惑の加った災難」として、無批判に服従してきました。
そして今日の破局に到りました。日本に戦争反対の心がなかったかといえば、小田切秀雄の「反戦文学の研究」をみてもわかるとおり、いつもときの戦争に反対した人道的な精神はありました。天皇制の権力はそういう文学を非国民の文学とし最近の数年は治安維持法でとりしまりました。

宮本百合子『戦争と婦人作家』


死を意味する「共産主義運動」でしたが、それでも命をかけて活動を続けようとする人々は、モスクワより戻った活動家の風間丈吉を中心とした「非常時共産党」を結成します。プロレタリア革命を掲げた彼らは、1931年に思想を同じくする小林多喜二をはじめとしたプロレタリア作家を加えて地下活動を活発に行いました。このとき、後の共産党指導者の宮本顕治と妻である宮本百合子(1899-1951)も同様に入党し、活動に参加しました。前述した小林多喜二の経緯があるように、他の党員も同様の危険を纏いながら、日々の生活を、例えば百合子であれば「党員」と「作家」という二重の生活を過ごすことになりました。しかし、政府が反国的な作家を野放しにすることはなく、出版社への強い圧力と作家への直接的な「出版禁止」を命じ、度重なる逮捕と勾留によって、百合子は執筆活動期間を僅なものしか確保できませんでした。1934年、日本共産党スパイ査問事件の加害者として逮捕された顕治は、彼の病や第二次世界大戦争の影響で裁判が長引き、終戦までの十二年ものあいだ投獄されていました。一方で、1938年に徹底的な出版禁止と活動の取り締まりを受けた百合子は、顕治と意思の疎通さえも図れない環境に置かれ、1939年に出版を解放された直後に、今度は第二次世界大戦争時の尊皇徹底が敷かれ、先の見えない執筆の禁止を余儀なくされました。


敗戦後、尊皇という絶対的な信仰とも言える国民の柱はGHQにより取り払われ、悪法である治安維持法も撤廃されました。しかし、プロレタリア作家たちは、これまで弾圧され続けた影響により堂々と作品を発表する気概さえ、恐怖に取り憑かれて思うように活動することができませんでした。その間、復刊や創刊された文芸雑誌には永井荷風などの安定した知名度の作家や、焼け野原となった社会をどのように生きるかを提示する第一次戦後派、或いは、戯作的な救いとなる大衆へ向けた作品を生み出す新戯作派などで誌面は埋め尽くされ、世間の文学的風潮からプロレタリア運動の影は薄くなっていきました。このような状況のなか、百合子は五年間も全く作品を発表できていなかったことで、溢れ出る意欲と使命感を糧に、これまでの思想を貫き通すように、立て続けに執筆して作品を発表しました。その主題は明確で、これまで地下に埋まり続けていた共産主義運動を公に日の下へ照らし出す、実際の自身の経験を踏まえた作品群でした。

終戦日の1945年8月15日、軍事国家の日本が解体され、悪法も撤廃され、ようやく解放された顕治は、二か月かけて百合子の元へと帰ってきました。十二年ものあいだ引き離されていた夫婦は、信じ続けた互いの感情、生きているという実感、心身ともに喜びと安堵で震える瞬間を、再び出会うということで確かめ合いました。そして、百合子はその経験を活かして『播州平野』と本作『風知草』を書き上げました。

 

文筆の仕事の上で、可能なかぎり、戦争反対と平和の確保、原子兵器禁止の態度を明かにして居ります。平和を守る会、知識人の会、民主主義擁護同盟に参加して居ります。科学者たちが、適切な共同声明を発表しているのに、文学者は、なぜそのようにあっさりと、はっきりと行為しないのでしょうか。このことについてしきりに考えます。

宮本百合子『戦争・平和・曲学阿世』


百合子と顕治は、それぞれ「ひろ子」と「重吉」に置き換えられ、再会から数日後の場面から物語は始まります。満足な健康管理ができなかった重吉の身体検診を行うため、協力的な医者を待つ二人は、何処かしら時間を押し留めようとするほどにゆったりと過ごしています。荒れ果てた土地に道を迷う顕治の行動や、投獄経験が滲み出る技術などは、瞬間ごとに複数の感情が沸き起こり、独特の穏やかで切ない描写が続けられていきます。そして、二人の今後の活動をどのように方向付けて行くかということを、互いに具体的な言葉で説明することは少ないながらも、二人は十二年のあいだ繋がれていた共有の思想を体現しようと歩み出します。そして、再び赤旗編緝局を立ち上げ、日本共産党は合法政党として始動していきます。


治安維持法の被害を最も集中的に受けた共産主義運動者たちは、検挙され、拷問され、殺された大切な同志を胸に抱き、自らも恐怖と弾圧に耐えながら戦い抜いてきました。そして敗戦により尊皇ファシズムは消滅し、プロレタリア革命者の文字通りの枷を外したことで、ひろ子は大切な同志と抱く思想を、十二年越しに再び手にすることができました。そして、この出来事の象徴的存在とも言える日本共産党の始動は、日本国民が国内で革命的政党を組織したという事実としても強烈な印象を与えています。

 

十二月はじめに、はじめての大会がもたれることになった。赤旗編韓局という表札と同様に衆目の前でもたれる大会として、それは最初のことであったが、歴史の中では第四回目に当った。
いろいろの大衆的集会も活気にみちてもたれていて、一九四五年の冬は、日本の民主主義の無邪気な発足の姿であった。
木枯の吹く午後おそく、ひろ子は、前後左右ぎっしり職場の若い婦人たちで埋った講堂で、ニュース映画を観ていた。それは「君たちは話すことが出来る」と云う題であった。十月十日に、同志たちが解放される前後を中心として、治安維持法と、その非道な所業、その法律の撤廃を描いた映画であった。山本宣治を殺して出来た治安維持法が、小林多喜二を虐殺し、渡辺政之輔その他たくさんの人々を犠牲とした。

宮本百合子『風知草』


本作の抱く主題の「重さ」は通底しているものの、読者は不思議と穏やかな人間性を終始にわたって感じることができます。特に、作中で陽の感情が起こるときには、特に共感的に伝わってきます。苦痛を乗り越えた幸福という効果もあると思われますが、それ以上に、解放された後をどのように希望を抱くかという二人の感情が流れてきているように思われます。ひろ子が百合子であり、重吉が顕治であることには違いありませんが、それ以上に、作中の二人は共産主義運動に関わらず「戦争から解放された二人」であり、「尊皇ファシズムから解放された二人」としての性質が強く現れており、それらの言動自体から離れた「叙情性」が強く滲み出ています。ここに込められた解放から齎される清々しい感情こそが、主題以上に百合子が表現したかったものではないかと考えられます。そして、二人の姿勢はこれまでの軍国主義や君主主義に対抗し続けようとする意思が込められ、その熱量が二人の絆として刻まれているようにも思われます。

 

まず第一に、多くの作家の作品は、戦後現象的であった。
百合子も、戦後を題材として書いている。しかし、宮本百合子そのものは、戦後的ではなかったのである。

中島健蔵「人と文学」


当時の共産主義運動は、プロレタリア革命を目指したものでした。侵略戦争を是とし、君主主義の横暴に国民は苦しめられていました。それでも立ち向かおうとする二人の姿勢と覚悟は、間違いなく愛情によって繋がれていたのだと考えられます。宮本百合子『風知草』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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