RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『論理哲学論考』ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」──本書は、ウィトゲンシュタインが生前刊行した唯一の哲学書である。体系的に番号づけられた「命題」から成る、極度に凝縮されたそのスタイルと独創的な内容は、底知れぬ魅力と「危険」に満ちている。


父親のカール・ウィトゲンシュタインは一代でオーストリアにおける鉄鋼業界を牽引し、莫大な財産を築き上げました。その富と名声に加え、ウィトゲンシュタインの両親ともに音楽に造詣が深かったことから、多くの音楽家たちが邸宅に訪れるサロンのような存在となっていました。親族であるヨーゼフ・ヨアヒムは当然ながら、フェリックス・メンデルスゾーンクララ・シューマンヨハネス・ブラームスグスタフ・マーラーブルーノ・ワルターといった、当時のウィーン音楽界を代表する多くの音楽家たちによる演奏会が毎日のように開かれていました。また、アーツ・アンド・クラフツ運動に影響を受けた建築家ヨーゼフ・ホフマン、近代彫刻の父と呼ばれるオーギュスト・ロダン、ドイツロマン主義の詩人ハインリヒ・ハイネ、官能的ファム・ファタルを得意とした画家グスタフ・クリムトなどの芸術家たちも親交を持っており、経済的な面での支援とともに芸術推進の協働者として近しい間柄で関わっていました。兄四人、姉三人の八人兄弟の末っ子であったルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、このような全方位を世紀末ウィーンの芸術家たちに囲まれた濃密な空気の中で生まれ育ちました。

しかし、彼は華やかな世界にありながらも、特異な苦悩を抱えます。音楽的な才能に溢れた長兄は神童と謳われましたが、父親が自分の経営後継者として期待するあまり自殺をしてしまいます。また、三兄ルドルフもベルリンのパブで服毒自殺します。そして後の第一次世界大戦争従軍中に、次兄クルトは撤退責任によって戦場で自殺しました。残された四男パウルウィトゲンシュタインも、やはり自殺の衝動に日々駆られていました。また、四男パウルはピアニストとして才能を開かせていましたが、第一次世界大戦争の従軍中に右手を失い、音楽活動に致命的な傷を負いました。ちなみに、モーリス・ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」は、このパウルのために作曲されました。


ウィトゲンシュタインはと言えば、そのようなウィーンを代表する芸術家に囲まれていながらも、関心は全く別の方向である機械の構造などに異常な関心を持ちました。この興味は一時のもので終わらず、彼をマンチェスター大学工学研究所の研究生にまで導きます。そこで航空機のプロペラやエンジンの設計に携わり航空工学を学んでいきますが、空へ浮かせる技術に必要な数学へと彼は視点を変えていきます。こうして数学の根本へと関心を移すと、友人からイギリスの数学者バートランド・ラッセルの『数学の原理』を紹介されてのめり込みます。そして数理論理学の礎を築いたゴットロープ・フレーゲに会いにいき、そこからラッセルの元で学ぶ機会を与えられました。ラッセルはアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとともに『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』を書き上げ、当時において最も注目される数学者でした。この出会いによってもたらされた研究と議論の日々は、ウィトゲンシュタインにとって心身を捧げるほどに熱中し、「数理論理学」や「数学原理」は彼の生き甲斐となって、自殺衝動に駆られ続けた孤独から解放されることになりました。


第一次世界大戦争の規模が大きくなると、ウィトゲンシュタインオーストリア軍へ志願兵として従軍します。戦場の空気が与える合法的な自殺の誘惑に苛まれながらも、心身ともに耐え抜いた末、そこから生きていこうとする力を得ることになります。生死を懸けた日々でしたが、彼の思考は動きをやめず、「数理論理学」や「数学原理」に対して従軍中も頭を働かせ続けました。閃いた考えや構築した思考を都度書き留めたノートは一つの論考の形となり、『論理哲学論考』の原型が完成します。敗北濃厚となったオーストリア軍は、多くの従軍者を捕虜に囚われていきます。ウィトゲンシュタインイタリア軍の捕虜となり、コモ、ついでモンテ・カッシーノの捕虜収容所へ移送されました。このとき、赤十字を介してラッセルのもとに送られたのが『論理哲学論考』の原稿でした。母親、そしてラッセルなどの尽力により釈放されたウィトゲンシュタインはウィーンへと戻ります。論理哲学の追究を成しえたと感じていた彼は、論理の研究を継続することはなく、莫大な財産を放棄して、小学校の教師になるべく教員養成所へと通いました。その頃、ラッセルへと届けられた原稿は出版の手筈を進め、紆余曲折はありましたがラッセルの序文を添えた『論理哲学論考』という著作が発表されました。そして、この作品が既存の哲学を根本から揺るがす一大事件として席巻しました。


論理哲学論考

七つの命題
一 世界は成立していることがらの総体である。
二 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。
三 事実の論理像が思考である。
四 思考とは有意味な命題である。
五 命題は要素命題の真理関数である。
六 真理関数の一般形式はこうである。f:id:riyo0806:20240706102541j:image
  これは命題の一般形式である。
七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。


この論考における最終的な意図は「思想の表現に境界線を定める」ことです。ウィトゲンシュタインは、語りえる事実を論理で提示し、語りえるものの限界を定め、倫理価値や形而上学的存在のような語りえぬものとの限界的境界線を、内側(語りえるもの側)から探究しようと試みました。そして、倫理価値や形而上学的存在は「語りえぬもの」であるため、それらはただ「示されるもの」という結論を導いています。

 

三・〇三一

かつてひとはこう言った。神はすべてを創造しうる。ただ論理法則に反することを除いては、と。──つまり、「非論理的」な世界について、それがどのようであるかなど、われわれには語りえないのである。


ウィトゲンシュタインは、哲学の目的は思考の論理的明晰化であるとして、本質は解明できうるものを解明することであり、哲学的な命題を掲げるのではなく、掲げた命題の不透明で曖昧なものの境界を明確化する活動であると断言しています。命題の本質を提示するということは、論理によって本質を提示することであり、「語りえるもの」を論理によって限界まで提示することであると言えます。つまり、倫理価値や形而上学的存在に至る境界線の内側(これを世界と呼ぶ)を限界まで提示するという行為に繋がります。


世界は論理によって提示でき、世界の限界は論理の限界であるとも言えます。そのため、世界に存在するものを肯定することはできますが、存在の否定あるいは非存在の肯定は為しえません。これらは可能性の排除であり、世界の事実としては認められず、仮に事実であれば論理上の世界の限界を超えることがらと定められます。世界の限界を超えた論理は、いわば倫理価値や形而上学的存在の方面(世界の外側)から眺めることになり、もはや論理ではあり得なくなります。そのような論理上で思考しえぬものは、我々は語りえぬものであるため沈黙せねばなりません。


本書の論考は、過去に生まれた種々様々な哲学がもたらした誤謬や誤認を精査し、今後生み出される哲学に誤解や問題を起こさないようにするという目的が込められめています。古代ギリシャ古代ローマから受け継がれてきた「論考」の在り方には、各哲学者の願望や憶測が入り混じった記述が多く、倫理価値や形而上学的存在を「世界を語る論考要素」に使用されていたという事実があります。ウィトゲンシュタインはこれを「問題」と捉え、哲学は世界の限界の内側を明晰に語りうるものだけを語る言葉として統一しようとする意思がありました。そして、本論考によって哲学というものの認識統一を図ろうとしました。


ウィトゲンシュタインは、本論考によって世界の限界の内側を明確に定めましたが、彼自身は世界の限界の外側、つまり倫理価値と形而上学的存在にこそ、本論考の意味はあると考えました。「死は生の活動の一部ではなく、生を終えたのちの事実である」という考え方にあるように、「死」のような世界の外側を否定しているわけではありません。「死」を経験することができないことと同様に、世界の外側を語ることはできず、それらはただ我々の前に「示される」のみであるという考え方です。倫理価値においても同様で、倫理自体は「このようにある」と語ることはできず、「このようにあるべきである」というものであり、やはりそれは「示される」ものであると言えます。そしてそれらを論理によって語ること、または命題に取り上げて語ることは、結局のところナンセンスであると考えて、そのように提示しました。つまり、このような「示される」ものは、世界の外側の「神秘」であると受け止める以外に術はないと結論づけています。


ウィトゲンシュタインは、論理を哲学として考えた最初の人間として認識されています。私たちが生きるうえで倫理価値や形而上学的存在の「願望的存在肯定」は、活力の源となり、信仰や善行の重要な要素として心を構築しています。これを、自分の主張を正当化させるために使用した哲学もしくは論理を提示する「誤った哲学者」を正すことこそ、彼の真の狙いであったと思います。


ウィトゲンシュタインは、これらのことが役に立たないと主張しているのではなく、単に言語がそれらを扱うのに適していないと主張しているだけです。たとえば、私たちが世界に対して抱く態度や生き方は、私たちの倫理的な世界観を表現しています。ウィトゲンシュタインは、この世界観が倫理的な格言や法則の形で言葉にされても意味を持ち続けるという考えを批判しています。彼にとって、私たちの倫理的な世界観は示すことしかできず、語ることはできないのです。私たちが哲学とみなすもののほとんどは、語ることができることの限界を超えていると主張することで、ウィトゲンシュタインは哲学の役割を再考しています。哲学は、語ることができることの限界で監視役として立ち、語り表せないことを語ろうとする人々を正すべきです。神の存在、生と死、善と悪、幸福など、人間は生きるために倫理価値や形而上学的存在を必要としています。これらを汚さないように、ウィトゲンシュタインは願っていたのだと感じました。

 


本書『論理哲学論考』の発表以後、ウィトゲンシュタインは哲学の捉え方を変え、死後に発表された『哲学探究』によって言語論的展開を見せて「後期」の考え方へと移行していきます。しかし、本論考を進めた動機、オーストリアハンガリー軍にとって最悪の惨敗と言われる「プルシーロフ攻勢」での苛烈な最前線での退却時に「砲撃のたびに私の存在が縮みあがる。私はもっと生き続けたい。私は時おり動物になる。」という極限の生の体験に見た倫理価値や形而上学的存在を、ウィトゲンシュタイン自身は覆すことはなかったのだと思います。やや難解な論理が散見されますが、必ず心に影響を与えてくれる論考です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『慈善週間または七大元素』マックス・エルンスト 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

『慈善週間または七大元素』では文章の部分が減り、「絵解き」の要素をぐんと強めているが、一種の小説であることにはかわりがない。既成の銅版画図版を切りとり、貼りあわせてゆくコラージュのごく単純な操作から、これほどにゆたかな想像力の飛翔がおこなわれえたという驚くべき「奇蹟」を、読者はあらためて実感されることだろう。


第一次世界大戦争が引き起こそうとする平和の乱れや崩壊に対して、交戦を推し進めようとする世界や社会への抵抗を、芸術家たちは作品を通して世に提示しようとする運動が勃こりました。戦争を肯定しようとする秩序や概念などの否定を目的とした芸術運動はダダイズムと呼ばれ、既存の芸術を打ち破るものであり、フランスの詩人トリスタン・ツァラが牽引しました。これに同調したフランスの作家アンドレ・ブルトンが、1924年ツァラと方向性を違えたことで新たな芸術運動シュルレアリスムが持ち上がります。「内面の自己」を追究しようとするこの試みは、ジークムント・フロイト精神分析による無意識研究や、革命家カール・マルクスの思想を基盤として行われ、「どのように無意識下の意思を引き出すか」という取り組みのもと、芸術活動が行われました。

 

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。
百科事典。(哲)。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。

アンドレ・ブルトンシュルレアリスム宣言』


理性や思考が「無意識下の意思」の妨げとなるため、自分の内面を如何にして芸術作品に表現できるか、という主題をそれぞれに抱えて、シュルレアリスム運動に参加した芸術家たちは各々の手段で活動します。ダダイズムの頃よりブルトンが取り組んでいた「自動記述」(オートマティスム)と呼ばれる手法もその一つで、何かを書こうとする意思を抑制して自然と内から浮かび上がるものを描くという困難な作業です。ミヒャエル・エンデの父親エドガーもシュルレアリスムの画家でしたが、彼は暗闇の部屋のなかに画布を前にして座り、思念が浮かび上がることを待って描いていました。詩だけでなく絵画でもオートマティスムは用いられ、浮かび上がる環境を各芸術家は熱心に模索しました。写真家マン・レイや画家サルバドール・ダリなどもこの運動によって大きく名を知られるようになりました。そして今作を描いたマックス・エルンスト(1891-1976)はブルトンと非常に近しい距離で活動を続けた一人です。


エルンストは「詩的霊感」という表現を用いて、自らの創作活動を打ち明けています。彼が編み出したフロッタージュ(凹凸のあるものの上で描き、自然に不規則な図柄が浮かび上がる手法)や、コラージュ(既成作品を明確な意図を持たずに詩的霊感によって組み合わせた貼り合わせの手法)の作品は、彼の代名詞とも言えるほどに認知されて今日でも影響を与え続けています。そしてコラージュ絵と文章を共生させた新たな芸術は「ロマン・コラージュ」と呼ばれています。そして『百頭女』、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』と本作『慈善週間または七大元素』を合わせてエルンストの「ロマン・コラージュ三部作」としています。無意識下の意思を浮かぶままに紡いでいく作品は、長篇小説として形成され、読む者の無意識へと呼び掛けていきます。

 

たえず変化する夢幻的現実を描く画家たちこそがシュルレアリストだというとき、それは彼らが画布の上に自分の夢をコピーしているのだとか(とすれば素朴で描写的な自然主義に等しくなってしまう)、あるいはまた、ひとりひとりがくつろごうとするにしろ悪意を示そうとするにしろ、自分の夢の要素を組みたてて自分用の小世界をつくっているのだとか(『時代からの逃走』などはそうだろう)いう意味にとってはならない。それは反対に、彼らが内的世界と外的世界との境界領域──いまも不明瞭ではあるにせよ、物質的にも精神的にも完全な現実性(「超現実性」)を有する領域──のなかを、自由に、大胆に、しかもごく自然に動きまわっているという意味であり、また、彼らはそこに見えるものを記録し、革命的本能にかられて出動すべきところへ出動している、という意味である。瞑想と行動との根本的な対立(古典的-哲学的概念による)は、外的世界と内的世界との区別もろともに崩れさる。そこにこそ、シュルレアリスムの普遍的な意味は存するのだ。

マックス・エルンストシュルレアリスムとは何か?』


本作『慈善週間または七大元素』では、古代人が定めた自然界を構成する基本要素である「四大」(地、水、火、風)の考えを根本にして、エルンストは「七大」(泥、水、火、血、暗黒、視覚、未知)へと変化させて構成しています。そして神による天地創造を想起させる「一週間」と重ね合わせて、本作をより一貫性のあるものへと作り上げています。


第一のノートは日曜日から始まります。元素は泥、例は「ベルフォールの獅子」といったように、すべての曜日に要素と例があてられて進みます。本作は創世記に反抗するように、創造ではなく暴力と死が溢れて始まります。神が土の塵で人間をつくり生命を吹き込んだという「原始の泥」と性質を反対にするものが初めに据えられます。主に男女で描かれるなかに、迫害、誘惑、拷問、処刑などがあり、死が空間を支配しています。また、中心的な人物である獅子には権力的な装飾が多く散りばめられ、社会的または宗教的な権力者であることを表現しています。

第二のノートは月曜日で、元素は水、例も「水」です。獅子によって与えられていた暴力と死は、水という強大な自然の力によって流され、パリの街を水没させてしまいます。多くの人間も流されて、女王然とした女性が支配した世界に辿り着きます。

第三のノートは火曜日、元素は火で、例は「龍の宮廷」です。水という自然の脅威的な力から逃れる上流階級は、龍や蛇と一体となり自らに翼を備えます。しかし、一見、出会いを喜ぶような描写のなかには鏡や絵画が描かれており、そのなかには陰惨な恐怖や潜んだ欲望が映し出され、上流階級の持つ悪魔的な要素が浮かび上がっています。

第四のノートは水曜日、元素は血、例は「オイディプース」。父親の暗殺やスフィンクスの謎など、オイディプスの神話をなぞる様に物語は進みますが、主要な登場人物はすべて鳥の顔になっています。彼が負った足の怪我から連想して、鳥頭の人間が裸の女性の足を短剣で突き刺しています。

最後のノートには木曜日、金曜日、土曜日がまとめられています。木曜日は、元素が暗黒で、第一例が「鶏の笑い」です。ここから鳥頭の人間が行う暴虐と殺戮が展開されます。もう一例として「イースター島」が挙げられています。鳥頭の人間はモアイ像に変えられ、快楽は性的なものへと移り変わっていきます。

金曜日は元素が視覚、例は「視覚の内部」として三つの見える詩を描きます。これまで激しい描写が続いていましたが、一転して抽象的な画が並べられます。人間の身体をオブジェのように並べたものが多く、不可解さを増しています。

そして土曜日、元素は未知、例は「歌の鍵」となっており、半裸の女性が霊的な力を与えられ、重力を無視して空へと跳ね上がります。与えられ続けた圧迫から解放されるように、無重力を漂います。

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獅子男や鳥頭の人間など、それぞれの曜日に繰り返し登場することで物語としての一貫性が窺えますが、場所や相手人物などは突然に挿げ替えられ、統一した状況や設定は理解しにくいものとなっています。また、前述したように鏡や絵画に映し出される予言的な近未来が差し込まれていることによって、さらに時間の概念が加わり、物語の状況を読み解くことを困難にさせています。しかし、本作を通して読むことで「連なった物語的印象」が記憶に留められ、日曜日の猟奇的な圧迫から土曜日の霊的な解放に至るまでの「物語的読後感」は小説同様に感じることができます。作品全体を通して、エルンストはコラージュ絵と文章の共生を成し得たのだと言えます。


本作全体を通して、権力、暴虐、処刑、災害などに重きを置かれ、非常に重苦しい印象を与えています。これは1934年当時、いわゆる戦間期に漂う不安定な政治情勢と拡がる戦禍に対する不安で包まれていた世界の空気が滲み出ています。そして、権力者の思想や独裁政権の危険性に警鐘を鳴らし、世界的危機という意味での第二次世界大戦争の恐怖と戦禍を予感していたとも受け取ることができます。そこでエルンストは、創世記、神話などを思い返し、人間が無意識下で本質的に望む「圧迫からの解放」を、詩的霊感を通して導き出したのだと考えられます。


第一次世界大戦争において、エルンストはドイツ軍の砲兵として従軍しました。身体以上に心に傷を負い、帰国後も精神的な恐怖に苛まれました。あの戦地の恐怖がまた訪れるのではないかという不安が深層意識まで達し、恐怖観念が心の圧迫となっていたことで、彼は真に詩的世界への解放を望んでいたのだと言えます。

「ロマン・コラージュ」という奇書にも数えられる本作を含む三作は、現代においてシュルレアリスムの本質を体感できる貴重な作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『ハイ・ライズ』ジェイムズ・グレアム・バラード 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

ロンドン中心部に聳え立つ、知的専門職の人々が暮らす、新築の40階建の巨大住宅。1000戸2000人を擁し、マーケット、プール、ジム、レストランから、銀行、小学校までを備えたこの一個の世界は事実上、10階までの下層部、35階までの中層部、その上の最上部に階層化されていた。その全室が入居済みとなり、ある夜起こった停電をきっかけに、建物全体を不穏な空気が支配しはじめた。3ヵ月にわたる異常状況を、中層部の医師、下層部のテレビ・プロデューサー、最上層の40階に住むこのマンションの設計者が交互に語る。バラード中期の傑作。


第二次世界大戦争によって広がった戦禍は、荒廃と虚無を通して人々に絶望と破壊を提示して、それまで構築していた信仰や幸福を揺さぶりました。その影響は戦後文学にも影響を与え、かつての教義的な詩や物語は姿を変え、現実を見つめようとする社会の投影と、空想ではなくなった破壊衝動の恐怖と規模の拡大を描く作品が増加していきます。このような荒廃と破壊に焦点を当てた文学はサイエンス・フィクションにおいて発展していき、主に社会諷刺を含めて描かれていきました。しかし、この発展は暴力的な方面へと過剰に成長し、読者側に倦怠感を与え、内容も冗漫な印象を持った作品が増えたことで社会に受け入れられなくなっていきます。そのようなサイエンス・フィクションの風潮に変革を与えようとした運動が「ニュー・ウェーブ」です。これは1960年代半ばのイギリスで、科学の進歩を重視して宇宙へと物理規模を拡大しようとする既存のサイエンス・フィクションの発展の流れに対して保守的な印象を持ち、狭窄的になり自ら制限を加えようとする既存の文学区分に新たな風を巻き起こそうとするものでした。空想を外宇宙(アウタースペース)へと広げて非現実的な世界を膨大に広げていく発想ではなく、現実社会における人間の内側に視点を合わせ、精神内の未知の領域(インナースペース)へ意識を深めて、実社会との乖離と関わりを描き出す作風を生み出します。このような内宇宙を取り扱った作品は、舞台は閉塞的であり規模の小さなものが多く、登場人物の独白や思考を辿るものが多いという点が特徴です。


このサイエンス・フィクションにおける「ニュー・ウェーブ」を代表する作家の一人がジェイムズ・グレアム・バラード(1930-2009)です。彼は父親の仕事の都合で中国上海にて育ちました。当時の上海は、第一次阿片戦争を終わらせるために中国とイギリスで交わされた南京条約に基づいて定められた上海共同租界が継続していました。この列強国による実質的な植民地としての租界では、各行政による自治権治外法権が存在していました。1937年に第二次世界大戦争が本格化しだすと租界の統制は各国の思惑によって崩壊し、各国軍による衝突が頻発するようになります。そして、1941年には日本軍による上海占領が行われ、多くの人々が集会所などへ抑留されましたが、十一歳のバラードもこの中に含まれていました。これらの各収容所での抑留は、日本の降伏に合わせて解放され、バラードは母と妹とともにデヴォン州プリマスへと移住しました。この「帰国」で戦後のイギリスの景色を目の当たりにしたバラードは、各国の先端技術が広められていた上海で培われた環境と見比べて、大きく頽廃的で悲観的な印象を与えられます。


英国ではケンブリッジの名門レイズ・スクールへ通い医学の道を目指しますが、解剖学や精神医学に触れるうちに医学的な意味合いではなく人間の本質的な内面へと関心を強めていきます。また、そのような関心は読書にも向けられ、遂には自らで筆をとり始めました。生み出した作品は早々に雑誌に認められて、バラードは短編小説を中心に量産していきます。そして文学の造詣を深めようとロンドン大学へ入学し、英語を学びながら文学を吸収しようとしますが、講義は教義的な意味合いの学びが多く肌に合わないと感じて学位を捨てて退学しました。その後イギリス空軍へ入隊しますが、その頃に読んでいた雑誌に掲載されていた多くのサイエンス・フィクション作品に心を動かされ、自らも歩んでいきたいと強く望むほどに目覚めました。


バラードが何度も唱えていたことは「変革の必要性」でした。1950年代のイギリス文学は革新に対して抵抗しているといったほどに、古典的な風潮を守り抜こうとする姿勢を見せているように彼には感じられました。教義的な文学思潮を守り通そうとするあまり、現実社会との乖離が生まれ、哲学や思想が読者と遠く離れていくように見えました。そして世に出回るサイエンス・フィクションに至っては星界を駆け巡り、規模が延々と大きくなる物語に辟易した雰囲気が文壇に現れており、バラードは八方塞がりな印象を受けます。そして前述のように、サイエンス・フィクションにおける変革としてニュー・ウェーブを起こし、内宇宙(インナースペース)へと思考を深める運動を、筆を持って引き起こしていきました。


彼が用いる舞台設定は閉塞と頽廃が共存する環境が多く、そこに群衆が集まり、そのなかで揺れ動く登場人物の心理を覗く形態が基盤となっています。この法医学的な視点での精神分析は、群衆心理と群衆における個人の意識を微細に映し出し、読む者を同調的な感情へと導きます。この意識を表現して「内なる未知」を追究しようとする際、バラードはシュルレアリストたちの創作方法を参考にしていました。特に影響を与えたのが、ベルギーのシュルレアリスム画家ポール・デルヴォーカタルーニャの画家サルバドール・ダリでした。執筆においてこの独特の創作手法を用いていたバラードは、作家として唯一無二の存在を目指すとともに、「インナースペース」を追究する方法の構築を目指しました。そして自身のペルソナを見いだすとともに自己のインナースペースの探究をも続けて、彼の作品は執筆を重ねるごとに変化を見せていきます。


本作『ハイ・ライズ』は1980年に発表されました。四十階建て千戸のマンションを舞台に、人間の持つ階級意識と暴力的な深層意識、そして頽廃と野性の露出が読み進めるほどに明らかになっていきます。スーパーマーケットやプール、学校にレストランなどが備わり、仕事以外の生活は全てマンション内で完結するという理想的とされる環境に、富裕層の知識人たちは続々と入居していきました。しかしやがて、上層、中層、下層と区分けされ、やがて階級意識が明らかになっていき、暴力的な抗争が勃発します。マンションは共用スペースだけでなく各部屋も破壊と廃棄物で溢れ、高級で美しい外観は見る影もなくなります。まともに生活も出来ないサバイバルのような環境となりますが、住人たちはこのマンションから離れようとせず、派閥的な階級抗争に憑かれたようにのめり込んでいきます。


この感情はバラードが生み出した造語「逆クルーソー主義」を表現しているもので、ロビンソン・クルーソーが望まず漂流者となったことに対して、バラードの描く登場人物が自らを閉塞的な環境に留めようとする行為や感情を言うものです。この自分を苦しい環境へ追い込んでいるように見える行為は、登場人物にとってはその閉塞的な環境こそが力を与える癒しであり、自己を有意義で活力のある存在であると認識します。インナースペースは「内に潜む本能」とも言い換えられ、自分でも気付かない欲望や適性が変化した環境によって表面に露わとなり、既存の価値観を崩壊させるほどの欲望が新たに浮かび上がって、想像もできなかった自己の感情と出会うことになります。このような「内なる自己」を表現することはまさにシュルレアリスムの目指すものであり、バラードはサイエンス・フィクションという文学を用いて芸術的に体現していたのだと言えます。

 

ここで彼らは食物と女をいかにして調達し、上層階を略奪者からどうやって守るかについて、最新の策を論じ、同盟と裏切りの計画をねったのだ。いまはもう新秩序が生まれ、そこではマンション生活の一切は、安全、食物、セックスという三つの妄執を中心にうごいていた。
テーブルをはなれたロイヤルは、銀の燭台をつかんで窓へ持って行った。もうマンションの明りはすべて消えている。四十階と三十七階のふたつの階だけ、まだ電気は通じているのだが、そこも明りはつけられなかった。闇のほうが気持ちは休まる──本物の幻影が栄えるとすればそこだ。


ジョゼフ・コンラッドに影響を受けたバラードは、人間の内面に潜む闇を「宇宙の闇」と照らし合わせて追究します。社会の秩序と理性で覆われた本能は、自意識では気付くことのできないほどに深く深くへ沈んでいます。しかし社会が崩壊したとき、抑え込まれていた人間の「本能的な欲望」が内から現れ、頽廃的な環境に安堵して光よりも闇を望むように変化していきます。そのような「内なる未知」が現れていくさまが本作では見事に描かれています。

バラード中期の代表作『ハイ・ライズ』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

『武蔵野』国木田独歩 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

武蔵野を逍遥しながら独歩は愛着をこめて「生活と自然とがこのように密接しているところがどこにあるか」と言っている。作者は、常に自然を通じて人生を、また人間を通じて自然を見、その奥に拡がる広々とした世界を感じとっていた。このことは表題作を始め、所収作品のすべてからうかがうことができる。


西欧より興ったジャン=ジャック・ルソーの思想を皮切りとした「ロマン主義」はあらゆる芸術家が影響を受け、自我の解放という主張のもとで多くの作品が生み出されました。その大きな影響は明治維新を通して日本にも広がり、それまでの封建的な社会からの精神解放や思想の目覚めといった思潮の変化を見せて、森鴎外徳富蘆花泉鏡花などが活躍しました。本作の国木田独歩(1871-1908)も、代表的な一人です。


独歩はその短い生涯で執筆に専念した時期は僅か一年程度という、常に生活の上で苦悩を抱え続けた人生を送っていました。社会に出るとすぐに東京専門学校(現早稲田大学)の校長排斥を目的とした学生運動に参加して中途退学し、その後帰省して村の小学校分教場で塾を開くと、ふたたび上京して政党の機関紙記者となり改革を目指し、次に大分県佐伯の旧藩主の設立した学校に赴任するという、改革と教職を行き来するような慌ただしい生活を過ごしていました。父親の専八が司法省の役員であったことで食べていく生活には困窮していなかったため、若いあいだは自身の思うように行動していたものだと見ることができます。この頃、特に記者や編集といった仕事に就いている間には元々関心を持っていた読書にも励み、イギリスのウィリアム・ワーズワース、ロシアのイワン・ツルゲーネフなどの作品に強く影響を受けました。やがて自分で作品を書くときにもこれらに感銘を受けていることがありありとわかるほどに彼の作品からは如実に現れており、本作『武蔵野』に至っては中核的に引用までされています。

その後、日清戦争が始まると従軍記者となって戦場へ向かい、そして書いたルポルタージュが好評を博し文壇に一歩を踏み出しました。そして戦後に帰国すると早々に熱烈な大恋愛を繰り広げて結婚しますが、独歩の強烈な独善性と男尊女卑的思考によって、その生活は破綻しました。また、彼は敬虔なクリスチャンであったため、理想主義的な思想を思い描いていましたが、方々に突き当たる無情な現実の衝撃に、やがて苦悩しながら文学の道へと歩み始めていきます。


独歩が苦悩した原因は、変革を遂げる明治社会に見られる俗物性であったと考えられます。日々の苦悩で精神が削がれ、自らの人生を主観的に見ることが困難となり、やがて自己を含めた社会そのものを俯瞰的に見るようになっていきます。自己を見つめていた境界が薄らいで、社会のなかにある一つの自己という見方に変わり、その目線を通して自分の人生を見つめるという行為は、社会そのものに自己の詩性を重ね合わせるという結果に至ります。ここに見える景色には独歩が強く望んでいた「愛」を見出そうとする感情が働き、見える社会や自然から愛の詩性が滲み出てきます。この自然の心情描写とも言える表現が集中的に見られる作品が本作『武蔵野』です。


本作は日本で初めて「言文一致」で書かれた随筆体小説作品です。ツルゲーネフを媒介として接していた二葉亭四迷の筆致の影響もあり、独歩は自らに湧き起こる感情を自然に描こうとするあまり、口語体での執筆を行いました。この手法では自由や解放といった効果だけでなく、自我の主張という意味合いが文体に宿り、読む者へ心情の変化を感じさせます。広大な武蔵野の落葉樹林を美しく描くなかに、独歩の苦悩する心情が見えて、訴えるように読者に迫ります。この感情は郷愁的なものではなく、新たな視点による新たな景色の新たな描写であり、自然に眼に入る景色を映す描写ではなく積極的に景色を切り拓いていくからこその力強さを持っています。自我を通して自然を、自然を通して自我を、それぞれ見据えたその奥に、神や運命というものが見え隠れします。

 

すなわちかような町外れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えて言えば、田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点を言えば、大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落ち合って、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。


独歩の見せる新たな描写は、実際の景色の美しさに「目にも留まらないような暴かれた美」が込められています。彼が苦悩の末に持ち得た「独特の積極的な観察眼」は、口語体の自然な獨白に乗せられて、読む者の心へ滑らかに入り込んできます。社会の俗物性を受け入れないままに、理想主義的な美の探究が本作には随所に込められています。

独歩の生きた時代に彼の作品はあまり評価されませんでしたが、現在では日本文学ロマン主義のなかで絶対的な存在感を放っています。彼の代表作『武蔵野』。非常に心を揺さぶられる作品ですので、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『青い眼がほしい』トニ・モリスン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

黒人の少女クローディアが語る、ある友だちの悲劇──。マリゴールドの花が咲かなかった秋、クローディアの友だち、青い目にあこがれていたピコーラはみごもった。妊娠させたのはピコーラの父親。そこに至るまでの黒人社会の男たちと女たち、大人たちと子供たちの物語を、野性的な魅惑にみちた筆で描く。白人のさだめた価値観を問い直した、記念すべきデビュー作。

 

1993年に黒人作家として初のノーベル文学賞をしたトニ・モリスン(1931-2019)。彼女は、文壇として光を当てられていなかったアメリカ社会の側面、白人による人種差別やそれに伴う社会への弊害、このような影響を受け入れた社会で暮らす人々の実態を強く詩的に表現した作家です。本作『青い眼がほしい』は、第一作でありながらモリスンの持つ思想や表現が凝縮された作品です。


1941年、オハイオ州ロレイン郡を舞台として描かれます。酒に溺れた暴力的な父親、愛情に諦めを見せる厳しい母親、家出を繰り返す兄、そして全てを拒否された者のように自己を批判する妹ピコーラ。家庭として崩壊を見せているこのブリードラブ家は、貧困と蔑視による最下層の生活を送っていました。本作は、このピコーラの友人クラウディアによって主に語られていきます。ピコーラの抱く悲観的な感情は、与えられる貧困と蔑視が自分の醜さに原因があると考えています。いじめを与える同級生も、愛を与えてくれない両親も、全ては自分の醜さにあると思い込んでいます。そこで彼女は、この社会の誰もが「美しい」と認める「青い眼」を与えてくれるよう、神に祈ります。白人のようなその眼があれば、社会の誰もが自分を美しいと認め、現在のような蔑まれた生活から抜け出せると考えていました。


スペインにより始まった大西洋奴隷貿易によって築かれたヨーロッパの価値基準は、プランテーション奴隷制度とともにアメリカへと持ち込まれました。白人の優位な立場は、白人の持つ「もの」に優位性を持たせ、眼の色、肌の色、趣味、嗜好なども「よりよいもの」であるという価値基準を助長させました。白人優位の美意識は社会に根付き、その社会は差別となって広がっていきます。白人による抑制と差別は「差別社会自体」をも成長させ、本作にも挿入されている教科書にまで現れています。アメリカという国そのものが「白人優位」を推し進めて、それを幼少期から刷り込ませるという取り組みを行っていました。教科書に描かれた幸せな家庭像は、黒人には絶対に達成できない幸福像であり、幸福そのものを諦めさせる効果を生んでいます。


この強制的な白人優位社会は、黒人社会にも悪影響を及ぼします。混血を繰り返して生まれた黒人は肌の色が薄まり、社会進出にも混血の際の伝手によって財産や地位を得やすくなります。この混血によって黒人の中でも肌の色の違いが生まれ、色の薄い「カラード」と色の濃い「ニガー」という区分けができてしまいました。これは黒人内差別という形で社会に広まり、白人による迫害よりも暴力的で徹底されたものとなっていきました。ピコーラはこの「ニガー」に該当し、白人から差別された黒人、そのカラードが差別するニガー、そのニガーの暴力的な父親と愛情を与えない母親の元に怯えながら暮らし、幸福を得ることができないという刷り込みを社会から与えられた「最下層」の少女という立場でした。

しかしモリスンは、この父親もまた不遇の立場による被害者であったという点も詳細に描写しています。両親に望まれない生を受けた父親は過酷な生活を送り、その結果に倫理観を崩壊させ、自由と無責任を理解できない人間に育て上げたという悪の社会を表現しています。差別による被害意識は絶望へと導き、生の意味や価値さえも求めなくなっていきます。飛散した西瓜、ソファの裂け目、妻(ピコーラの母)ポーリーンの歯、これらは父親の精神破綻や家庭分裂の暗示となって描写され、ピコーラの価値観を崩壊させた混乱の家庭環境、それに伴う両親の崩壊、家庭の崩壊へと繋がるさまを鮮烈に描いています。


本作を通してモリスンは肉体的な美しさの定義は白人優位社会によって構築されていると説いています。そして人間の人格や性格は外見に現れるという「白人にとって都合の良い」解釈が強められており、抑圧された黒人たちは絶対的に覆らない美徳の優位性(眼の色、肌の色)を強制されることによって、抑圧する白人(或いは白人優位社会)に対して反抗するのではなく、その優位基準に基づく自分たちよりも劣等とされる者(ニガー)へと牙を向くようになります。

この美醜の基準は作中で多く触れられ、自分を取り巻く社会で自分がどのような立場にあるのかを定められているように感じさせられます。白人優位基準による自分の美醜が、周囲のコミュニティや家庭での立場に影響し、ピコーラは「最下層」の基準を自覚しています。本来、美の概念は自己の尊厳を保つことに必要なものの一つです。しかし、ピコーラは自身で「最も醜い存在」であると自覚しており、周囲からもその考えを裏付ける扱いを受けていました。この考えが家庭での虐待さえも「正当なもの」であるという誤解を招き、この「最下層の立場」から逃れるための願いとして「青い眼」を神に願いました。ピコーラにとっての「最も美しいもの」がこの願い物であり、唯一の劣悪環境から脱出する術であるとの考えに至りました。


ピコーラは虐げられる生活を続けるなかで、日毎に青い眼を望む願いを強めていきました。そして堕落的な偽牧師にそれを打ち明けて強く願います。誑かされたピコーラは願いが神に届いたと解釈し、青い眼を手に入れて最下層から抜け出すことができると安堵します。そこに、酔った父による性的虐待を受けたことで彼女の精神は崩壊し、願いが真に叶ったと思い込んでしまいます。破綻した精神は分裂し、ピコーラと妄想の「もう一人」との会話が終幕で進められます。実際に自分に対する周囲の扱いが変わったことを感じ、願いが叶ったと信じ込みました。しかし実際には、父親に性的虐待を受けたという事実と、精神が崩壊した奇異な行動(妄想の一人と会話をするような)が原因であったことは理解しないまま終わります。ピコーラは狂人の世界に踏み入りました。


モリスンはピコーラの描写を通して人種による差別や抑圧が、本来人間が持ち得るはずの自信や自己価値を失わせるという影響を提示しています。生まれた瞬間に幸福を切り離された存在、そのような不幸な社会に生きるという苦痛は、大変理不尽であると言えます。しかし、どのように差別され、どのように抑圧されたとしても、白人優位社会を拒否し、自身の肌の色に誇りを持って前を向くことができていたならば、新たな救いが現れるのではないかと思います。

 

愛は、けっして愛する者以上にはならない。よこしまな人々はよこしまに愛し、はげしい人々ははげしく愛し、弱い人々は弱々しく愛し、おろかな人々はおろかな愛し方をするが、自由な人間の愛が安全なことはかつてない。愛する相手に捧げる贈りものがないからだ。愛する者だけが、愛の贈りものを持っている。愛される者は、愛する者のぎらつく内なる眼の光のなかで、裸にされ、無力にされ、凍らされる。


愛する者の価値観や倫理観は鏡のように愛する相手へ投影し、愛される側を支配します。その価値観や倫理観が歪められた社会によって構築されたならば、確実に歪んだ愛し方となり、愛された者は与えられる愛によって精神を崩壊させられます。差別社会は表面的な暴虐行為だけでなく、被害者側の精神へ深い歪みを刷り込みます。愛しい人を正しく愛すことができないという不幸を、差別社会や差別行為は生み出していきます。モリスンが本作に込めた思いは、非常に深く重いものです。現在でも無くならない差別という行為は、次々に不幸を生み出し続けています。そのような行為を起こすことのないよう、日々を意識して過ごしたいと考えさせられました。

トニ・モリスン『青い眼がほしい』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『偽りの告白』ピエール・ド・マリヴォー 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

女性の繊細な恋愛心理と微妙な恋のかけ引きを得意とするマリヴォーの代表作。心おだやかで愛らしい登場人物たちが織りなす恋愛喜劇。


現代でも舞台で数多く演じられる作品を残した劇作家ピエール・ド・マリヴォー(1688-1763)は、モリエールの築き上げた古典としての喜劇に、細かな心理描写を埋め込んで新たな喜劇の基盤を構築しました。当時のフランスでは、ルイ十四世の弟であるオルレアン公フィリップ一世によるパレ・ロワイヤルでの豪奢な放蕩三昧に代表されるように、貴族たちは娯楽と遊蕩に溢れた生活に耽っていました。このような世にありながら、ランベール侯爵夫人は格式と伝統を重んじるサロンを開き、各方面で活躍する芸術家たちと親交を深めていました。百科事典の発祥とも言われるこのサロンは、各界のみならず芸術を通して社会に与える力も強く持っていました。やがて訪れるフェミニズム運動の先駆けとなる思想も持ち合わせており、世間に対する影響の裏付けが窺えます。小説家、劇作家、哲学者、俳優、彫刻家、修道院長など、様々な分野で活躍する人々が集ったサロンは、アカデミー・フランセーズの前身として機能していました。サロンが輩出したなかでは、著述家ベルナール・フォントネル、作家アントワーヌ・ウダール・ド・ラ・モットなどがおり、マリヴォーもその一人です。


マリヴォーが喜劇に盛り込んだ当時人物の細かな心理描写は、彼の作品の特徴として「マリヴォダージュ」と称されます。特に恋愛における機微を細かに捉え、それを日常的な会話に乗せて劇中で表現することが彼の作品の特徴と言えます。これは当時の戯曲や文学の風潮である格調高い言葉の使用とは一線を画しており、観る者により一層の親近感を沸かせます。このような表現は、同時代に正反対の姿勢を見せていたヴォルテールなどから厳しく批判され、世間でも意見が分かれることになりましたが、現代に至る後世ではリアリズムの観点からも高く評価されています。だからこそ、現代でも数多く彼の作品が演じられています。実際に起こり得る人間の関係性や会話、それに伴う心理描写を、古典で固められた喜劇という枠組みを和らげたという彼の功績は大きく、以後の演劇において劇内における内面運動を重視するという風潮も引き起こしました。また、それまで喜劇の中心となっていた登場人物の滑稽さや面白さによる「笑い」から、登場人物たちの関係性や状況による「笑い」へと変化させたことで、登場人物たちが真剣な悩みや態度を取ることができるようになり、劇的な諷刺の効果が強く表現されています。現代ではマリヴォダージュに関して「目的を達するために言語を用いて策謀する」といった誤解が生まれていますが、マリヴォーは劇内でのやり取りを通して諷刺や思想を表現し、細かな心理描写から親近感を覚え、表現される諷刺や思想に共感するということを目指していました。


本作『偽りの告白』では、このマリヴォダージュが全面に活かされています。裕福ではあるが若くして未亡人となったアラマントに恋をしたドラントは、元従者であり現在ではアラマントに仕えているデュボワの協力を得て恋の成就を目指します。弁士であるドラントの叔父ルミーを巻き込んで、ドラントはアラマントの執事として仕える手筈を整えました。ドラントは若く美しい容貌と礼儀正しい態度で好感を得ますが、アラマントの母アルガント夫人にはうまく取り入ることができません。なぜなら、アラマントとある伯爵の間で領地問題が起こっており、互いに和解できない場合は訴訟に至るという状況にありました。そして、アルガント夫人の思い描いた策略は、この伯爵とアラマントを結婚させて領地問題を解消し、おまけに伯爵夫人の階級をも得ようという魂胆を持っていたからでした。この訴訟前の調査(訴訟に至った場合に勝てる要素があるのか)を担当しているのがルミーです。ルミーは未だに結婚をしないドラントに対して、アラマントの侍女マルトンを勧め、彼女も品行方正で美しい彼に対して好意を抱きます。互いの関係性が複雑に絡み合うなか、デュボワの一計によって事態は急速な展開を見せます。


筋書き自体はドラントとアラマントの恋が成就するかどうかという問題に尽きますが、周囲の各々が持つ思惑とそれに伴う言動によって現実に見られるような複雑性が表現されて、真剣なやり取りでありながらも滑稽な状況に笑いを起こされてしまいます。そしてアラマントがドラントと初めて対峙したときに自然に湧き上がる「好意」が、やがて覚える「恋の種」であり、劇中でその種を育てるのが対抗するアルガント夫人や伯爵の言動である点にも可笑しみを覚えさせられます。このような現実にも起こり得る状況に共感を覚える観客は、自然にアラマントやドラントへ感情移入して恋の成就を望むようになっていきます。この共感させながら結末の期待へと導く手法に、本作のマリヴォダージュが存分に含まれていると言えます。


ドラントとデュボワは「嘘」を頻繁に用いてアラマントの思いを操作しようと企みます。恋の相手に「誠実さ」を求めるアラマントには適していないような言動です。しかし、ドラントがつく嘘には、「真に恋している心」を偽るものはありません。寧ろ、真実の恋を得るために駆使した「手法の嘘」であると言えます。貧困であるが故にドラントはアラマントの結婚相手に成り得ないという当時の貴族社会において、それでも真実の恋を抱き、それを成就させたいと願ったドラントはどのような手法を用いても貴族アラマントへ近付きたいと考えました。しかし、ドラントは「真実の恋」に関しては一切の嘘を用いず、純粋な恋心のみを持ってアラマントに接しました。階級や財産よりも「真実の恋」を求めていたアラマントには、結果的には最適な人物であると考えられます。違った角度から言えば、このような貴族社会のなかでなければ真摯な態度と告白だけで成就するような恋心を取り上げ、滑稽な立ち回り劇をもって、それが成就しないという貴族社会の在り方に疑問を投げ掛けているという、マリヴォーの意図が見えてきます。そして、「真実の恋の成就」を結末の中心に置いている点からも、「恋」の持つ活力の強さは貴族社会の風習さえも破壊できると確信している思いが伝わってきます。

 

お分りですか、旦那さま?気位も、分別も、富も、みんな打ち負かしてしまうんです。恋がものを云うときには、絶対の力だと申します。

第一幕第一場


観劇後(読後)には、とても爽やかな清涼感と解放感で溢れ、実に前向きに気持ちを切り替えることができます。本作は国立劇場コメディ・フランセーズでも定期的に上演されて、現在に至るまで愛され続けています。マリヴォー作品における傑作のひとつ『偽りの告白』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『フーコーの振り子』ウンベルト・エーコ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

「追われている。殺されるかもしれない。そうだ、テンプル騎士団だ」ミラノの出版社に持ち込まれた原稿が、三人の編集者たちを中世へ、錬金術の時代へと引き寄せていく。やがてひとりが失踪する。行き着いた先はパリ、国立工芸院、「フーコーの振り子」のある博物館だ。「薔薇の名前」から8年、満を持して世界に問うエーコ畢生の大作。

 


1980年に発表した『薔薇の名前』で一躍イタリア文壇の頂点に到達した記号学者であるウンベルト・エーコ(1932-2016)。世に衝撃を与えたのち八年を経て、彼は本作『フーコーの振り子』を発表しました。

中世における美学の研究において、エーコは理論と実践の区別について重視しました。過去の時代に存在した「幾何学的合理性のある何が美であるべきかの解答的概念」と、「弁証法的な形相と内包」の交わりに焦点を当てていました。中世遺物に見られる整った造型に組み込まれた美術的表現の合理性には、理論(理屈)的に証明される美としての合理性が含まれているという考えです。しかし、この視点での研究からエーコは焦点を変え、テクストを元にした記号論について思考を発展させていきました。「真の文学におけるテクストは、文章が意味を持つのではなく、文章が意味の領域である。そして意味の領域には書き手の精神的断片が込められている。」このように語るエーコは文学を、読者の持つ潜在的な読解力や審美眼を開かせるテクストこそが必要であり、端的で明瞭な言葉で綴られたものは文学たり得ないと断じています。文章に誤りが無くとも、文脈として生命を持っていなければ、それは単なる語彙の羅列であり、文学的価値は見られないという表現です。中世美術の言語化や理論化を経て、記号論として芸術性を文学に視点を当てた彼は、自らの手で文学作品『薔薇の名前』を発表しました。


本作『フーコーの振り子』は正に彼の系譜と言える作品で、娯楽としてのフィクションとは一線を画す現実と虚構が綯交ぜとなった複雑な小説です。主要素となるテンプル騎士団をはじめとして、カバラ、親ナチス、中世貴族、フリーメーソンなどを、寄せ集めのオカルティズムではなく、一本の関連性を見せた整合性のある物語へと昇華させています。歴史が辿るように、神話、聖書、古典、ルネサンスに触れた過去の出来事や遺物がすべてテンプル騎士団へと収束されるように運ぶ彼の筆致は、そこに曖昧さは見られず断定的に進められ真実が浮かび上がっていくように感じます。それを構築する膨大なエーコの知識と理解は読者を惹きつけ、振り子を眺めるように物語に吸い込まれていきます。そして、作中で繰り広げられる魔術的儀式の緊張感や、危機的状況の焦燥感が彼の文章が「裏付ける」ように文学の領域へと没入させていきます。


舞台は1970-80年代のイタリア、フランス、南米で、学生運動が盛んに行われていた時代です。語り手のカゾボンは学生でテンプル騎士団の論文を書いていましたが、その詳細な内容と熱意に惹かれたガラモン出版社に勤めるベルボとディオタッレーヴィは、彼を出版編集の手伝いに誘います。意気投合した三人は公私に渡って行動を共にするようになりますが、あるとき原稿を持ち込んだ一人の「騎士」アルデンティとの出会いによって彼らの運命が大きく動き始めます。その原稿にはテンプル騎士団が秘密裏に進めているという数百年越しの計画について書かれており、それを裏付ける手紙も同時に持ち込まれました。地球規模の壮大な計画に関わる地下に潜む「騎士たち」を炙り出すために、この研究書を出版したいというアルデンティの要望でした。彼らは自費での出版を促したところ、彼は憤慨して出ていきましたが持ち込まれた手紙は残されていました。彼ら三人は真偽のほどは不明でしたが、テンプル騎士団が立案したという「計画」に強く興味を持ち、自らでその計画を浮き彫りにさせようと取り組み始めます。手紙を発端に、イェルサレム、十字軍、ローゼンクロイツ、歴史に明るみとなった出来事や噂話、与太話や誇張など、徹底して閃きを共有し合って計画を浮き彫りにするように構築していきます。この仕事を仕上げるために専門家の力を借りることになりましたが、そこで神秘的で不可解な人物サン・ジェルマン伯爵と出会います。そしてこの「でっちあげによるこじつけの」計画が、テンプル騎士団の意思を汲む地下組織に察知されて物語が動き出していきます。


本作は、ユダヤの神秘思想カバラにおける世界創世の象徴である「セフィロト」の構造を基にして構成されています。十のセフィラを要素として天地創造を図式化したもので、進行順に、ケテル(根源)、ホフマー(知識)、ビナー(理解)、ヘセド(慈悲)、ゲブラー(峻厳)、ティフェレト(美と調和)、ネツァー(抵抗と忍耐)、ホド (威厳、栄光)、イェソド(基盤)、マルクート(無知の王国)と連なります。

その構成を辿る主軸が三人によるテンプル騎士団についての考察であり、計画の構築です。テンプル騎士団は、ドイツ騎士団ヨハネ騎士団とならぶ宗教的騎士団の一つでした。フランスからイェルサレムへの巡礼路を警護する目的で創設されましたが、当時のイェルサレム王国からこの騎士団に対して宿舎としてソロモン神殿跡を与えられたことから公な存在となりました。また、ローマ教皇からも貧しきながらも信仰深いテンプル騎士修道会として認められたため、これをきっかけにヨーロッパ全土において力と富を築いていきました。テンプル騎士団は各地に支部を設け、与えられた元手となる財産を活かして金融機関として勢力を拡大し、フランス国家の財政を左右するほどに権力を持ち始めました。当時のフランス国王フィリップ四世は「王権に対する障害」と「騎士団の持つ財産の没収」を目的として理不尽な異端審問会を開き、偽りの罪を「でっちあげて」、騎士団長ジャック・ド・モレーをはじめとして殆どの騎士を強引に処断し、その騎士団を力づくで破壊しました。そして金融機関として活動した莫大な財産はフィリップ四世が掻っ攫ってしまいました。この財産の回収とフランス国王への復讐という目的の地下組織が現存し、三人が生み出した「でっちあげ」の計画に目を付けて襲い掛かるという内容です。


本作でエーコは、歴史における虚偽や嘘と、神的な力の及ぶ絶対的な出来事との、境界線を見極めるような真実の追求と皮肉を表現しています。地下組織やオカルティズムの持つ不穏と絶対が混ざり合う不気味な空気と、貴族やブルジョワが持つ名誉や称号の贅沢な空気とを、どこに差異があり真実があるのかということに関して、悪魔主義には偏らない否定主義と言える技法を持って読者に提示しています。特に錬金術の記述では顕著であり、絶対と不可能の狭間を出来事に重ね合わせて理屈を合わせるように描いています。この過去の歴史的出来事の積み重ねは、巨大な神話を築く機械の部品ひとつ一つに当てはめられ、カゾボンたちによって神の手による歴史の再構築を行っている錯覚をおぼえます。そしてこの構築手順はセフィロトの進行に準えられており、カゾボンたちが悪ふざけから始めた取り組みに、やがて真剣に神的な意思を持ち始めている点にも狂気を感じさせられます。この計画の辿り着く地点がパリ国立工芸院に存在する「フーコーの振り子」であり、ベルボの始まりと終わりの象徴であることも劇的な巡り合わせであり、天啓的な印象を与えます。


このような冒涜とも言える神の真似事によって作り上げた「計画」は、オカルティズムに溢れたサン・ジェルマン伯爵が率いる組織の狂気を直接的に受け止めることになります。生命の危険を突きつけられて「ある筈のない真実」を吐露せよという脅迫は、ベルボの神の領域にまで高められた意識には及ぶことなく、「全てを真実として存在させるために」ベルボは決して明かしません。幻想(虚偽)を存在させるための手法は、愚かでありながらも説得性を持たせており、ベルボの生涯の出来事までが符合して、不穏な騎士団の生き残りを軽蔑し続けます。エーコが語る「生み出したテクストは現存する」という考えを裏付けるような最後の場面は、息を呑みながらも哀愁溢れるものとして描かれています。また、それは本作そのものにも当てはまり、歴史的真実と虚偽と噂話とこじつけが混在して構築された物語には、読者の意識を何が真実かではなく、「何が存在しているのか」という方面へと導き、真偽以上の存在を渇望する意識を与える効果を持っています。そして、書かれた言葉には真偽以上の信憑性が備わっており、「すべてがそこにある」という神的な力を見せつけています。

 

人生というものは、『荘厳ミサ曲』のような曲ではなく、粗悪な音楽によってずっと上手に描写されるものなのです。芸術は私たちをからかい、私たちを安心させ、芸術家が望んでいるような世界がどういうものかを見せようとしている。それに対して、通俗小説というのはふざけている振りをしているが、その世界をありのまま、あるいは少なくとも、そうではないかという状態で見せてくれる。そこに登場する女性も、あのボヴァリー夫人よりかはもっとミレディーに似ているし、あの怪人フー・マンチューのほうが賢者ナータンよりもずっと現実的な人物です。それに歴史だって、シューが語っている世界のほうが、ヘーゲル史的唯物論で試みたものよりずっと現実に近いのです。


エーコは『フーコーの振り子』において、現実に蔓延る陰謀論やオカルティズムを壮大に嘲笑していると見ることもできます。陰謀などいくらでもこじつけられる、数字と言葉の組み合わせはいくらでも繋ぎ合わせることができる、このように諷刺しながら多くの偏執的妄想者たちを揶揄しています。しかし、このような陰謀論に振り回されているのは個人の問題ではなく国家レベルで横行されており、世界が無秩序に流されているという点も表現しています。信仰と地下組織は陰謀という手綱によって繋ぎ合わされ、歴史的出来事と噂話はこじつけによって繋ぎ合わされます。イエズス会フリーメーソンファシズム、オカルティズム、クーデター、秘密結社など、現在の世界でも存在しながら人々の感情を揺さぶり続けるものに対して、エーコは本作で対抗的な姿勢を見せていると受け止めることができます。

 

薔薇十字伝説の幻想にはさまざまな可能性が開かれているために、それは作家たちに豊かな素材を提供することになった。小説や詩で薔薇十字伝説を扱うことは、民衆が薔薇十字友愛団をどのように見ているかを示すとともに、彼らの見方そのものを形成することになる。同時にそれは、薔薇十字団の活動を持続させておこうとするさまざまな試みを補うものとなった。

クリストファー・マッキントッシュ『薔薇十字団』


大きく物語が進展する場面は少ないですが、エーコの膨大な知識量と、点と点が繋ぎ合わさる場面は目を見張るものがあります。ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『海賊船』岡本綺堂 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

元は徳川の御家人であり、明治維新ののちに英国公使館で日本語書記を務めていた父親のもとで岡本綺堂(1872-1939)は生まれました。士族らしく彼は漢文や漢詩を習う一方で、父親と同じように英国公使館で働く叔父より幼い頃から英語を学びました。また、父親の人脈や歌舞伎に関心のある母親の影響で在学中より観劇に多く足を運び、彼もまた強い興味を抱くようになっていきます。あるとき、父に連れられて新富座の興行を観た折に楽屋へ向かうと、十二代目守田勘弥に引き合わされました。「團菊左」の時代を牽引した座頭で、当時の界隈で最も重要な一人でした。また、当時の花形である九代目市川団十郎とも接する機会を得ました。綺堂は、団十郎の横柄なもの言いや態度に反感を抱いていると、「あなたも早く大きくなって、好い芝居を書いてください。」と言われ、父親に「わたしはそれをみなさんに勧めているのです。片っ端から作者部屋に抛り込んで置くうちには、一人ぐらいはものになるでしょう。」と言い放った言葉に怒りを覚えて、そのようなものは断じて書かない!と心に決めてしまいます。しかし、繰り返し興行に足を運び、多くの演目を目にするうちに感動を覚えて自らも足繁く通いたいと熱望するようになります。小遣いで暮らす身の上には「團菊左」のような大芝居(格上の興行)には入ることができなかったため、安く多く観劇できる小芝居へと足を伸ばしました。緞帳が降り、廻り舞台も花道も無い小劇場は木戸銭三銭、座布団代一銭、茶代一銭(大芝居は五人詰め桟敷一間四円五十銭、一人当たり九十銭)で観ることができましたが、観客層も当然変わり、緞帳芝居という蔑称で呼ばれていました。家族の腰巾着として大芝居を観て、小遣い銭で小芝居を観ることを繰り返していくうちに、歌舞伎台本にまで関心を持ち始めて自ら芝居を書きたいと強く思うようになっていきます。結果的に団十郎の思惑通りにことが進むことになりました。


明治時代の歌舞伎といえば、何よりも「団菊左」であると言われていました。九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次の三人は当時の界隈の花形で、鎬を削って日々観客を沸かせていました。綺堂は劇作家になりたいという志と純粋に観劇したいという思い、そして社会に出て生計を立てていかねばならないという考えから、父親の紹介で1890年に東京日日新聞に入社しました。当時の歌舞伎は民衆の関心が強く、毎日の新聞に劇評が掲載されていました。その劇評家を担うために新聞記者となります。各座頭も新聞での劇評が重要な広告となることは重々に理解しているため、各新聞社へ劇評を書いてもらうために記者用の座敷を設けて招きます。これに綺堂は東京日日新聞の記者として選ばれ、毎日のように観劇しては批評を書くという仕事に就き、社は何度か変わりますがこれを二十四年間続けました。歌舞伎への造詣を深め、文章の書き方を修得し、のちの劇作家として歩む基礎がこの時期に確立したと言えます。


当時の劇作家は「座附作者」と呼ばれており、各座が専属作家を抱えてそれを演じるというものでした。例えば、歌舞伎座福地桜痴団十郎の、市村座河竹黙阿弥菊五郎の、明治座の竹柴其水は左団次の、と言ったように花形へ当て書きをするように作品を生み出す風習でした。これには、座の持つ「色」や「間」、俳優の持つ「柄」や「仁」を理解しておく必要があり、座附作者自身がそれらを理解して書かなければ良いものが生まれるわけがないという考えのものでした。このような世界のなかへ、ただ劇作を生み出したところで受け入れられるわけはなく、歌舞伎の劇作家を目指すということは非常に険しい道であることが綺堂にも理解されました。


しかしこのような歌舞伎界は、明治の文明開化によって流入した西洋の演劇に影響された世論によって「歌舞伎の風潮そのもの」を批判するようになり、筋書きの荒唐無稽さや特異な慣例などが槍玉に挙げられました。そして1872年に、守田勘弥や「團菊左」の代表者たちは東京府庁に呼び出され、道徳的な是正を求められます。さらに1878年には、伊藤博文と依田学海(森鴎外に漢文を教えた『ヰタ・セクスアリス』の文淵先生のモデル、漢学者で文芸評論家)によって演劇改良運動を指示されました。この運動の意図は荒唐無稽で破綻した筋を無くし、西洋でも歌舞伎が通用する演劇を目指すというものでした。しかしながら、この推進された演劇改良運動は、結論的に言えば皇道思想鼓吹や忠孝奨励を強く描いて、忠臣義士の史実を民衆への教養としようとするもので、あくまで政府によるプロパガンダに近しく、「芝居」としては寧ろ破綻してしまっている考えでした。つまり演劇性を消滅させて政府にとって都合の良い思想を押し付けようとするもので、当然ながら良い作品が出来上がることはありませんでした。歌舞伎の持つ独特の魅力、必要な要素は、先に思想が立つものではなく、一座の「色」や「仁」が何より重要であると言えます。

 

歌舞伎において、演技の巧拙はもとより、「仁」ということを重視するのも、姿かたちを第一とすることのあらわれである。仁とは、役柄にふさわしい柄━━体躯、風貌、持味━━をいう。たとえば九代目団十郎にとっては、髪結新三や弁天小僧などは仁にない役で、これらは五代目菊五郎の仁に合う役だ、といった具合に。西洋の演劇や新劇の場合もむろん向き不向きはあるのだが、歌舞伎ほど鮮明ではない。これは歌舞伎において役者の肉体条件(芸風を含めての)が、舞台成果において占めるパーセンテージがはるかに大きいことを物語っている。ということは、劇的内容にもとづく役の内面的性格とか、せりふを介して伝わる論理的内容よりも、声や姿の視聴覚的なイメージのほうがより大切だということにほかならない。これは能で「得たる風体」というのに似ている。つまるところ、その俳優の肉体条件、持味芸風に役柄がぴったり合ったとき、はじめて演技も生きるのだ。役者の魅力の十分な発揮を第一とする、━━これが日本の演技論あるいは俳優術の大前提である。

河竹登志夫『演劇概論』


このような混迷に陥った歌舞伎界に、明治が後期に入ると座附作者とは異なった作家が現れます。西洋の戯曲に影響を受けた翻訳家や、歌舞伎に多く触れ続けてきた劇評家、文壇において既に名声を確立していた小説家などが、演劇改良運動によって歌舞伎界の作家の在り方に変化を与えたことを切っ掛けに歌舞伎芝居を書き始めました。確かに世論が荒唐無稽さに批判を与えていたことには変わりなく、各座も過去の演目を演じ続けることは府庁の意に反することになるため、何らかの手を打つ必要がありました。そして明治座で劇評家の松居松葉が左団次を当て書きにした『悪源太』が上演され、座附作者でないものの台本が初めて演じられました。さらに劇作家の山崎紫紅が真砂座での『上杉謙信』と、明治座での『歌舞伎物語』を、続いてシェイクスピアの翻訳家である坪内逍遥の『桐一葉』が中村座で演じられました。こうして歌舞伎界の風習を破り、座附作者でない者が生み出した作品が大いに受け入れられるようになり、これらを「新歌舞伎」と呼びました。


この時期に綺堂の創作欲も高まっていよいよ書こうかという矢先、歌舞伎座から劇作の依頼がありました。お正月の薮入り連を相手に(当時は盆正月に観劇するのは位の低い者だけと言われていたため)、しかも共作という形ではありましたが、時代の挑戦と受け止めた彼は劇作家の岡鬼太郎とともに『金鯱噂高浪』(こがねのしゃちうわさのたかなみ)を書き上げました。歌舞伎座の座附作者から持ち込んだ際に無理難題を吹っ掛けられましたが、劇場へ迷惑を掛けられないという思いと、劇作家としての志の意地とで跳ね除け、ついに上演となりました。世評はあまり芳しくはありませんでしたが、歌舞伎座芝居の劇作家として歩みを始めた記念すべき作品です。その後、綺堂は劇作を続けて『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』『修禅寺物語』などを生み出して新歌舞伎の代表作家の一人に数えられるようになり、彼の生んだ作品は「綺堂物」と呼んで親しまれました。

 

(修繕時物語について)第一には荒唐無稽な在来のプロットに変えるに、ギリシャ劇以来の伝統たる三一致の法則を踏まえた構成上の合理性。第二には空虚な形式美にたよった歌舞伎に、近代的知性にもうけ入れられる内容を導入した思想性。即ち在来の義理と人情、武士道と町人道といった封建的二元対立の世界に、個性尊重の近代的主題をもりこんだこと。第三には歌舞伎とちがった簡明直截で淡雅清純な新しい情緒の創造。このような諸点で、歌舞伎の近代的合理化の役割を果した第一作といってよい。

河竹登志夫『演劇概論』


劇作家としての立場を確立した綺堂は、1913年に新聞記者としての勤めを終え、執筆に専念することになります。生活における時間的な余裕、さらには天性の禁欲主義とも言えるほどの生活(酒、遊興、博打など一切関心を持たない)から、彼は小説という形での執筆にも取り掛かりました。時は明治にして、彼は江戸の語り部という如くにその景色を描き、当時(江戸)における社会の変遷、伝統の変化と伝統固持の共存を、細やかな観察眼と淡々とした語り口で描いていきます。そして1917年に、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」に感銘を受けて執筆した捕物帳の先駆『半七捕物帳』を生み出しました。さらには、1923年の関東大震災の被害で蔵書を全て失った彼は、文献を必要としない元来好んでいた怪談物を自らの創造と記憶の江戸の風景を融合させて、独自の幻想的な哀愁漂う作品をも生み出していきます。当然、この最中にも歌舞伎の仕事は疎かにせず、劇評を含めた執筆を延々とこなしていました。常人では想像できないほどの執筆量であったと考えられます。

 

一旦かうと云ひ出したら、あとへは引かぬ御気性は、奴もかねて呑み込んでは居りまするが、なんぼ大切の細道具ぢやと云うても、ひとりの命を一枚の皿と取替へるとは、このごろ流行る取替べえの飴よりも余り無雑作の話ではござりませぬか。どうでもお胸が晴れぬとあれば、殿さまの御名代にこの奴が、女の頬桁ふたつ三つ殴倒して、それで御仕置はお止めになされ。

岡本綺堂『番町皿屋敷


綺堂の作品は、歌舞伎にしても、捕物帳にしても、怪談にしても、情話にしても、物語の激しさを抑えて江戸の風景描写から心情の哀愁へと繋がるように淡々と描かれており、切ない物語を読み終えたあとには「清涼感のある虚無」がそこには漂います。江戸時代の景色や風俗が驚くほどの臨場感で描かれたのち、幕が閉じるそのときに一切合切が泡のように消えてしまうのは、終えた時代であるためか震災によって失った虚無感が蘇るのか悩ましいですが、それでもさっぱりとした読後感を残すのは一種の江戸の粋人情が齎しているものかと考えてしまいます。

 

作者である綺堂は、物語に溺れず、突き放さず、丹念なる目配りで、描いていく。文体は、かれの立ち姿そのままに、しゃっきりしゃんと背筋が通り、うつくしい。実に冷静な、客観的姿勢なのであるが、学者が対象物を観察分析する作業とは異なり、画家がテーブル上の静物を見詰める目付きに似ている。画家が静物に相対する時、そのテーブルの上に、自己の内面をも見詰めることになる。カンバスに描かれる静物は、画家の分身でもある。テーブルの自己と静物、それらを等距離に見詰め、淡々とカンバスへ映しとる手技。

杉浦日向子『うつくしく、やさしく、おろかなり』


本作『海賊船』は1919年に発表されたもので、『半七捕物帳』と同時期に発表された情話の一つです。舞台は幕末の安政二年に始まります。四国丸亀の藩中で百二十石の侍である戸崎新九郎は、陽明学を修めていたために突如主君より追放を言い渡されます。これは大塩平八郎の騒動がこの陽明学による禍であると幕府が目を付けていたため、主君も巻き込まれまいとした手立てでした。四十歳の彼と三十四歳の妻千鶴、十五のお房と十一のお俊という娘二人、そして十七になる女中お末とともに四国の地を出て大阪へと船で向かいます。荒れることの少ないと言われる瀬戸内がこの日に限って酷いものとなり、揺れの激しさを乗り越えながら、予定より手前の兵庫の港へ停泊します。船が傷んで修繕が必要になる一方で、千鶴が慣れない船旅で弱り果ててしまい、さらには娘が疱瘡となって旅を進めることができなくなりました。長く宿を取ることになり、僅かの蓄えで遣り繰りしなければならないため、宿を安いものに変えて家族は療養します。容体も良くなりそろそろ発とうかというときに、宿の隣人から快復祝いを受けてともに酒を酌み交わします。大阪まで船旅で行くか陸路で行くか、意見の分かれていたなかで、この客人は船乗りであったため安く安全な船旅を斡旋すると言い出して、それを新九郎は頼むことにしました。しかし、これは悪の手引きで、例の客人は少女を拐引かす海賊に繋がっていました。出航時間が早まったとして新九郎一家を叩き起こし、浮舟のない乗り場へ連れていき、海に濡れないようにと少女をおぶって先の見えない海へと船頭は進んでいきました。船も船頭も見えない闇のなかで新九郎と千鶴は取り残され、不安になって方々に娘らの名を叫びます。海賊船であったと理解したときには既に遅く、そこには荷物も娘らも運び去られてしまった海が漂っているばかりでした。


このような経緯から、女中お末の奮闘が始まります。彼女は足軽であった親を亡くして、新九郎のもとへ奉公に出ていました。ここから山椒大夫を思わせる脱出劇と救出劇が進められます。救われたと思う度に他の困難が襲い掛かるなか、お末は忠臣から新九郎へ娘二人を届けねばならないという思いで、健気に立ち回ります。当時(江戸)の人身売買や旅芸人一座の負の面を随所に溶け込ませて、情景を思い描きながら彼女の奮闘記を読み進めることができます。また、苦しいばかりでなく、うつくしい心を持った人からの救いの手もあり、これは一服の清涼剤のように僅かな晴れやかさを齎してくれます。引き込まれる筋立てや綺堂の筆致もさることながら、何より広範な彼の観察眼と記憶力が情景描写を緻密にして、物語が目の前で繰り広げられるように脳内へ映し出されます。

 

実際、その螢は母の亡き魂であるかのように、三人の行く手を照らして庭口から表門の方へ導いて行った。そうして、どこかへ消えてゆく螢の影を、お末は見送って、手をあわせた。不取締りの屋敷だけに、門番は宵から寝てでもしまったのであろう、門の潜りはさっきのままに明けてあったので、三人はやすやすと門の外へぬけ出して、初めてほっと呼吸をついた。それでも藤太郎のことが気にかかるのであろう、お房は黙って俯向いて歩いた。


語り調子は淡々としていながら、登場人物の持つ感情を鮮明に映し出して読む者を惹きつけます。歌舞伎芝居、捕物帳、怪談などで名を広めている綺堂ですが、このような情話にこそ、彼の持ち味が凝縮されて描かれているように感じました。本書には表題作『女魔術師』という大正時代の旅芸人一座を題材とした作品も収められており、こちらも大変読み応えがあります。岡本綺堂の情話、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

『ある奴隷少女に起こった出来事』ハリエット・アン・ジェイコブズ 感想

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こんにちは。RIYOです。
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好色な医師フリントの奴隷となった美少女、リンダ。卑劣な虐待に苦しむ彼女は決意した。自由を掴むため、他の白人男性の子を身籠ることを──。奴隷制の真実を知的な文章で綴った本書は、小説と誤認され一度は忘れ去られる。しかし126年後、実話と証明されるやいなや米国でベストセラーに。人間の残虐性に不屈の精神で抗い続け、現代を遥かに凌ぐ〈格差〉の闇を打ち破った究極の魂の物語。


1492年のクリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸発見から始まったスペイン・ポルトガルによる新大陸の支配は、原住民アメリカン・インディアンへの激しい侵略行為から始まりました。彼らは新大陸を植民地化するため、広大な土地を奴隷化させた原住民に労働を行わせようとしましたが、誇りと命を懸けた反抗を受けたために抑圧し、原住民人口を減少させてしまいます。スペインは植民地を維持させる労働力を確保するために、今度はアフリカの黒人奴隷を船で運び移住させることを始めました。これが大西洋の奴隷貿易となり、多くの黒人奴隷がアメリカ大陸へと渡ります。そして隷属的な労務によって耕された農園は、食糧や商材を生み出して支配国へと供給される大規模な「プランテーション」が構築され、使役するプランテーション奴隷制度が定着します。

しかしながら、西欧諸国がこの新大陸の植民地化を傍観することはなく、イギリスやフランスを中心にこの新大陸へと介入していきます。そして原住民を含めた植民地戦争が頻繁に起き、結果的にイギリスが優位に支配を進めていきました。この怒涛のイギリスの戦争勝利はイギリスの財政を圧迫させていったため、戦争費用の負担を植民地側の徴収負担で賄おうとします。すると植民地側の支配者たちによる強い反発を受けることになりました。植民地側の支配者たちは団結し、大陸会議を開いて支配本国との縁を切って独立国家を目指します。そして1775年のアメリカ独立戦争、翌年の独立宣言を経てアメリカ合衆国が形成されました。


その後、独立したアメリカ合衆国は西部を中心としたフロンティア開拓へと進み、原住民から土地を略奪して領土を拡大していきます。また、国家成長が進むにつれて政党の対立が起き、民主共和党(現民主党)と国民共和党ホイッグ党)の二大政党が政権交代を行う時代となりました。後者のホイッグ党は、政府の強化や最高裁判所の権力維持といった権威主張を主とした政党でしたが、政策のなかに逃亡奴隷法を認めるものがありました。これは南部のプランテーションから逃亡した黒人奴隷を元の所有者へ返還させるというものでしたが、奴隷制度に反対する運動家から激しい反発が起きて、黒人奴隷解放運動を活性化させることになりました。このような奴隷制度批判はアメリカ合衆国全土の問題となり、奴隷プランテーションを経済の糧としていた南部と、国家としての自由成長を望む北部との対立が明確に現れます。そして起こった南北戦争によって北部の主張が通され、産業を中心とした発達を目指す近代国家としての歩みは保たれ、黒人奴隷は法的に解放されました。


この1865年に制定された合衆国憲法修正第十三条によって黒人奴隷制度は廃止され、黒人を含めたすべての人に自由が認められました。しかし、この法律には意図した欠陥がありました。この条文には「犯罪者に罰を与える場合は除く」という例外規定があり、罪人に対しては本人の意思を無視して使役させることができるというものでした。これを悪用するように南部の元支配者たちは、自由を手にした元奴隷の黒人たちをありとあらゆる理由で逮捕して犯罪者に仕立て上げ、法的に刑に服させました。この頃には「囚人貸出制度」というものがあり、受刑者が民間企業に派遣されて労働力となるもので、炭鉱作業や道路整備などの危険な作業を中心とした長期労働を与えられました。

また、実際の生活で見ると、解放された黒人たちは「公的自由」を手にしたものの、保証や福祉がある訳でもなく身体ひとつで社会に投げ出されたため、奴隷としてのプランテーション労務から失業という状態の自由を与えられた状況にありました。綿花を中心としたプランテーションは地主によって維持されていたため、結果的に元奴隷たちは「シェアクロッパー」(利益を分けられる労務者)として出戻ることになりました。このため、元奴隷たちは自由による地代や徴税により貧困は免れず、結果的に彼らが描いた「自由な」生活は与えられませんでした。そして南部の白人たちは、プランテーションが実質的に元の形を取り戻し、社会全体の奴隷解放で盛り上がった風潮も落ち着きを見せたころ、黒人への締め付けをより厳しくしていきます。


1870年ごろに南部で広まった州法「黒人取締法」(ブラック・コード)は、奴隷解放後の混乱を収めるとともに解放奴隷の社会的地位を「規定」するためのものでした。黒人専用車両、黒人専用席、黒人専用居住地など、明確な差別を州が認めて実行し、公共機関だけでなく民間企業にまで派生して社会に定着しました。特に1890年以降はこのような差別的州法が次々に制定され、黒人は職業や居住地、さらには教育などの自由を奪われ、選挙などの権利を実質的に剥奪される状態に陥ります。そして追い打つように、白人至上主義者(クー・クラックス・クランなど)による暴力的な抑圧と、「隔離しても平等」というアメリ最高裁判所の新たな法的根拠によって、二十世紀に入ってもアメリカでの黒人差別は続きました。


第二次世界大戦争後に、世界的な植民地解放の動きに合わせてアメリカ黒人の中に新たな解放運動として始まったのが、1950年代後半から隆盛した「公民権運動」です。これは黒人に対して、選挙権、社会保障、福祉、教育といった合衆国憲法に記されている市民として権利「公民権」を与えるように要求するものでした。これを牽引したのがキング牧師を含む聖職者たちです。そして1964年に公民権法が実現しました。南部諸州の「ジム・クロウ法」(1896年にアメリ最高裁判所が「隔離は差別ではない」という判決を基にした公共機関などでの黒人隔離や黒人の権利剥奪を認める法)は無効となり、政府には黒人を含む全てのアメリカ市民の権利を保護する権限と義務があることが認められました。その後、黒人の参政権も回復され、南部諸州でも多くの黒人が公職に選ばれることになりました。しかしこれには背景があり、特に冷戦下にあった政府による人種差別の社会容認は、民衆あるいは世界各国を共和主義へと傾倒させ、親ソ運動を活発化させる恐れがありました。この時、形式的に国が人種差別を撤廃しようとする姿勢を見せる必要があったため、奴隷解放を認めたという側面があります。

そのため、公民権法を支持した白人の多くは、法的平等を約束したこの法律の成立によって果たされたと考えました。彼らは黒人に対するこれ以上の差別解消は、自らの持つ白人の特権が薄れる可能性を感じ、これ以上の「法的平等」を望みませんでした。つまり、多くの白人は社会における自らの優位性を維持するため、社会、経済、教育、居住、就職などの面での「黒人の立場の向上」を望まなかったと言えます。


このような社会風潮を政府が煽動したため、「実態的な黒人差別」は解消されるどころか助長され、立場の格差はより一層激しく開いていきます。1980年ごろになると、白人は居住地や学校を黒人と明確に区分し、貧困により疾病が蔓延するといった劣悪な環境が構築され、やがて黒人の住む街はスラムへと変化していきます。黒人スラムを取り締まる白人警官は「レイシャル・プロファイリング」(人種を基に嫌疑をかけて捜査する差別行為)によって黒人を多く検挙します。特に黒人の間で流通する固型コカインの使用による刑罰は、他のドラッグの使用よりも重い罪となっており、長期間服役しなければならないという点からも黒人に大して政府が差別を容認しているということが窺えます。また、囚人による労役はアメリカにとって経済的に利潤を多く生みます。囚人が増えて刑務所を建ててそこで雇用を生み出し、刑務所を誘致する州には助成金が与えられ、刑務所の運営に民間企業も参加し、囚人は労役によって国に利潤を与ええています。「産獄複合体」と呼ばれる形態ですが、この利潤に必要な囚人を警察は「黒人を狙い撃ちして」検挙しています。1865年のころと同様に、「犯罪者に罰を与える場合は除く」という条文を、現在でも黒人に対して国そのものが実行していると言えます。奴隷制度によって崩壊した優位な白人の道徳観は、現在にも受け継がれて被害を生み続けています。


本作『ある奴隷少女に起こった出来事』は、このような黒人奴隷制度の被害者であるハリエット・アン・ジェイコブズ(1813-1897)による自伝作品で、1861年に出版されました。プランテーション奴隷制度全盛期から、奴隷解放運動隆盛の時期を描いたものです。自らが体験した「人間を売買する」という嫌悪されるべき行為と、与えられる理不尽な環境での苦しみ、譲ることのできない自らの誇り、苦痛のなかでも繋がり続ける家族の愛が、辿々しい文章ながらも切実に描かれています。


奴隷を主軸にした作品は、身体的な残虐行為やリンチの場面が多く描かれ、読者へ激しい衝撃を与えるものが多くありますが、本作では「精神的な苦痛」に焦点を当てています。ジェイコブズ自身、美しい容姿によって主人フリントに気に入られたため、過酷な肉体労働や理不尽な殴打などは受けません。ですが、彼女はフリントに性的隷属を求められます。そして、他の女性奴隷はそのような隷属を受け入れ、身体的にも奉仕します。もっと言えば、彼女の周囲にいる家族を含む奴隷も、基本的人権はもちろんのこと、法的な人格保護は与えられていません。奴隷である以上、恋愛の自由、結婚の自由などは無く、家族とともに住むことすら幸せで恵まれた環境にありました。それに対して、ジェイコブズは奴隷制度そのものが歪であると理解して嫌悪します。彼女は恋愛の自由を求め、貞操を守り、家族の愛を大切にします。しかし、これらの彼女の守りたいものを、フリントは彼女を手に入れんがために脅かし、精神的な苦痛を与え続けます。理不尽な暴力の代わりに、精神的な隷属をさまざまな手を使って強要してきます。ここには社会から見た「ジェイコブズの人間性」は完全に無視されています。奴隷制度は身体的残虐性だけでなく精神的残虐性も同等に備えていたと感じられます。また、奴隷制度は支配する白人側の思考や倫理を崩壊させるといった面の記述もあり、当時のホイッグ党による逃亡奴隷法を認めた姿勢にも批判を与えていることが理解できます。

 

身内のどんな腐心も徒労に終わったが、神は見知らぬ人々の中で、友をわたしに授けてくださった。そしてその友は、ずっと願いながら得られなかった貴重な恵みを、わたしにもたらしてくれた。友!それはありふれた言葉で、安易に使われすぎる言葉である。世にあるほかの善い、うつくしいものと同様に、ぞんざいに扱うとかがやきを失ってしまう言葉である。だが、わたしがブルース夫人を友と呼ぶとき、それは聖なる響きを持つ。


彼女の堅固な理性と誇りは、結果的に彼女を幸福の光が見える場所へと導きました。しかし、その幸福とは「基本的人権」の範疇にあるものであり、差別が無ければ彼女は生まれながらに手にしていたものでした。

2020年にジョージ・フロイドという黒人男性が、白人警察官によって不適切な拘束方法で殺害されました。解放され、自由を手にしたはずの黒人は、いまだに差別を受け続けています。真の平等社会を求めることが困難なことを改めて感じます。本作は、差別に関して考えなおすきっかけとなる作品でした。『ある奴隷少女に起こった出来事』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『にんじん』ジュール・ルナール 感想

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こんにちは。RIYOです。
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にんじん色の髪の少年は、根性がひねくれているという。そんなあだ名を自分の子供につけた母親。それが平気で通用している一家。美しい田園生活を舞台に繰りひろげられる、残酷な母と子の憎みあいのうちに、しかし溢れるばかりの人間性と詩情がただよう。


ジュール・ルナール(1864-1910)はフランス西部に位置するマイエンヌで地元役人の父親のもとに生まれました。この父親は一般公共事業の請負業者で、のちに彼の出生地であるブルゴーニュ地方シトリー・レ・ミーヌに移り住んで市長となりました。反聖職者の共和党員であった彼に対し、母親は金物商人の家柄の娘で、敬虔なカトリック信者でした。ルナールが生まれると一家はすぐにシトリーへと向かいます。パリのシャルルマーニュ高等学校で文学の学士号を取得しましたが、高等師範学校の試験は成績が振るわなかったことから断念して、兼ねてより関心を強く持っていた文学サロンやサークル、演劇の劇場などへと通い歩きました。数多くの文学作品を読み耽り、意見を交わし、彼は自身の持つ文芸性を養っていきます。1886年には自費出版で詩集『薔薇』を発表するなど、活動は熱心に行なっていましたが、生活を営むほどの収入を得ることはできませんでした。それでも彼は執筆活動を続け、幅広く読書し、パリの文学カフェに頻繁に通い、そこでコメディ・フランセーズの女優ダニエル・ダヴィルに出会います。彼女によるルナール作品の朗読は大きな効果を生んで、非常な好評で一時の成功を収めます。


1672年に劇評家ジャン・ドノー・ド・ヴィゼが創刊した文芸誌「メルキュール・ガラン」は、ブルジョワの知識人階級に対して、世の学問や哲学、文芸や時事問題を報じることが目的でしたが、ファッションやゴシップなどにも内容は広がり、結果的に商業誌としての大きな成功を収めました。そして古典の芸術研究や宮廷生活など、幅広い記事の内容から多くの支持者が生まれ、民衆へ与える影響が巨大なものになったことで政府からの編集委員が介入し、「メルキュール・ド・フランス」と改称して公的な要素を含む文芸誌と変化しました。寄稿者にはギヨーム・トマ・フランソワ・レナールやヴォルテールなどが参加していましたが、その後、フランス革命による情勢の変化でナポレオンにより廃刊されました。この「メルキュール・ド・フランス」の復刊に尽力したのがルナールでした。象徴主義として括られた詩人たち(ジャン・モレアス、サン=ポル=ルー、アルフレッド・ジャリなど)とともに、1890年に再刊し、大きな成功を見せました。そして1894年に自身の執筆で自伝に脚色した小説『にんじん』(Poil de carotte)を発表します。


「私は自分自身をシトリー・レ・ミーヌ出身としての子供の心を持っていると言える。私の第一印象はそこで生まれたからだ。」という彼の言葉からも窺えるとおり、幼少期を過ごした最も美しい景色と、最も印象的な経験とを、彼は色鮮やかに心に保っていたことが理解できます。本作は、赤い髪とそばかすを備えた「にんじん」と呼ばれる子供の目線で進められます。自分勝手な兄、母に言いつけて憂さ晴らしをしようとする姉、無関心な父、そして常に虐げ続ける母、この4人とともに暮らす少年の短い出来事が次々と繰り広げられます。しかし、完全に迫害されているわけではなく、父や兄と狩りに行き、川へ泳ぎに行き、親戚の家に泊まるといった出来事も含まれています。最も彼に害を与えるのは母親です。兄や姉を愛し、完全に差別化して「にんじん」に接します。家族に愛されないという苦痛は、少年には特に心を傷つけます。母親からの命令は、彼に肉体的な苦痛と精神的な我慢を永続的に与え続けます。なぜ兄や姉は愛されて、自分は迫害されるのか。考えてもわからない問題によって心を閉ざしていき、愛情の欠如を「他への暴虐」として発散します。土竜や猫を嗜虐的に殺め、そこに喜びを感じるという怒りの発散描写は憎悪と悲しみが滲み出しています。


しかし、迫害に対する忍耐はやがて限界を迎え、「にんじん」は遂に母親へ反旗を翻します。母親の指示を拒否して行動を完全に停止します。実に現実的な反抗の描写は読む者へ共感と勇気と緊張を与え、少年の心が最大限に高揚していることが理解できます。それを受けた母親の態度には、戸惑いは見えるものの、反抗の理由や心情を理解しようといった思考には向かわないところに哀れさを感じさせられます。

また、終盤では「にんじん」が父親へ虐待を受けていることを打ち明けます。父親は理解しているような素振りを見せますが、根源的な家族が持つ心情についての関心が無さすぎることから、少年の持つ問題や抱く危険性を理解しません。この点でも同様に哀れさを感じさせ、恵まれない家族への諦めが少年の心に見えてきます。


愛情の乏しい家族に囲まれて生まれる幼少期の挫折と苦悩が、本作には隅々まで敷き詰められています。少年のなかで育まれる屈辱や憎悪は大きく膨らみ、その環境から身を守るための弱者特有の狡猾さが身に付き、それが彼の行動となって周囲へ現れます。このような描写には、ルナールが抱いた家族への感情が懐疑や皮肉となって作中に込められ、胸中を吐露するように「にんじん」の心情へ映し出されています。ルナールの持つ誇張のない客観的な家族への目線と、自らの抱く懐古的な心情を持った思い出とが、シトレーの美しい景色と融合して読む者へ哀愁を共有するような感情を与えます。そして「にんじん」を通して、家族愛を熱心に求めていた心情と、家族愛を一向に与えられなかったことを、ルナールは独白するように描いています。

「誰もが孤児になれるわけではない」という考えが読み進めるほどに強くなり、ルナールの主張が奥から顔を出してきます。子供は家族を選べない、ならば自分で人生の道を切り拓き、自分の人生を見出して歩まなければならない。切ないながらも社会を生きるために必要な、重要な考えです。

 

他の者は他の者で苦労はあるだろうさ。でも、僕あ、明日、そういう人間に同情してやるよ。今日は、僕自身のために正義を叫ぶんだ。どんな運命でも、僕のよりゃましだよ。僕には、一人の母親がある。この母親が僕を愛してくれないんだ。そして、僕がまたその母親を愛していないんじゃないか。


1897年に父親が病を苦に心臓を撃ち抜いて自殺しました。ルナールは、1904年に父親のあとを継いで、共和党員としてシトレー市長に就任します。自分の求める家族愛を与えてくれなかった家族の死は、それでも愛を求めるルナールをシトレーの地へ縛りつけました。大人の世界では、寛大さも誠実さも報われません。狡猾でなければ切り抜けられない場面もあります。「にんじん」の生きた環境は少年には絶望的なものでした。そこから彼は、明晰な狡猾さを持ってそこから逃れようとしました。ルナールは本作で、彼の深い観察力と緻密な描写から生まれる冷淡さと正確性をもって、皮肉や知性のなかに愛を求める優しさを次代に向けて描いたのだとも言えます。


多くの章で細かく区切られており、非常に読み進めやすいジュール・ルナールの代表作『にんじん』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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