RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『白鯨』ハーマン・メルヴィル 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

巨大な白い鯨〈モービィ・ディック〉をめぐって繰り広げられる、アメリカの作家メルヴィルの最高傑作。本書は海洋冒険小説の枠組みに納まりきらない、法外なスケールとスタイルを誇る、象徴性に満ちあふれた「知的ごった煮」であり、およそ鯨に関することは何もかも盛り込んだ「鯨の百科全書」でもある。新訳(全3冊)

 

1712年に始まったアメリカの捕鯨業は、十九世紀にかけての産業革命によってその収穫物の需要が高まり、捕鯨アメリカ国内において重要な商業として広まりました。特に鯨から得られる「鯨油」は現代の石油に匹敵するほど重宝され、ランプの灯りから工業製品の潤滑油まで、幅広く用いられていました。その巨大な体躯から大量に得られることから、船も巨大なものとなり、船上で解体して幾つもの大樽に詰め込むという危険な作業が行われていました。また、捕鯨を試みようとする船に対する鯨の反撃も激しいもので、乗組員が船ごと沈没するという事件も発生しました。このような危険が付き纏いながらもそれ以上の魅力的な利益のため、多くの捕鯨船が出航し、大西洋から太平洋まで、数多の捕鯨船が大洋を行き交っていました。こうしてアメリカは、ニューイングランドのナンターケット島を中心に、世界屈指の捕鯨国となって、産業を大きく推進させました。


1810年ごろ、太平洋のチリ沖にあるモカ島付近で特徴的な鯨が発見されました。その外見は白く、頭に幾つものフジツボを備えた「モカ・ディック」と呼ばれたアルビノの鯨でした。取り逃がした船の乗組員たちがナンターケットの酒場で話して聞かせると、その白い鯨の噂は瞬く間に広がり、何隻もの船が沖合へと挑みに行きました。本来はおとなしいモカ・ディックもひとたび攻撃を受けると凶暴性を発揮し、狡猾に体躯を用いて悉く船を沈没させました。その動きは激しく、水面へ飛び上がる際は、全身が水から離れるほどの跳躍を見せたといいます。1838年モカ・ディックはついに仕留められましたが、体長は21メートルあり、その体内には二十本もの銛が撃ち込まれていました。本作『白鯨』は、このモカ・ディックを象徴的に用いています。


1840年代よりアメリカでは芸術面や文化面において「真の独立」を果たそうという運動が各方面で行われました。アメリカン・ルネサンスと呼ばれるこの動きは、アメリカという土地の礎となったヨーロッパ諸国の血脈からの解放を目指すもので、アメリカという国、アメリカという人は、どのような発展を目指し、どのような意義を持ち得ているのか、といった探究と沸湧を表現しようとしたものです。文学においてはラルフ・ワルド・エマーソンナサニエル・ホーソーンウォルト・ホイットマンなどの名が挙げられますが、本作を書き上げたハーマン・メルヴィルもその一人と見做されます。アメリカン・ルネサンスには明暗に分かれた作風があり、エマーソンを代表とする希望や発展に満ちた美しい作品群と、込められた背景により懐疑と暗鬱に満たされた真逆と言える作品群が存在します。この後者にホーソーンメルヴィルが含まれ、エドガー・アラン・ポオも属されます。運動の諸目的が持つ性質により「自分は何者なのか」といった探究が双方に込められていることが多く、アメリカの歴史に含まれる明暗をそれぞれの眼鏡で眺めて描かれたような作品が多くあります。そして根深い「暗」の部分に存在する歴史は「アメリカ先住民への暴力的侵略」であり、異民族への虐殺が白人アメリカンの罪の意識として通底しています。国がそれを「必要な犠牲」として制圧の結果を賛美する一方、文学のなかではその罪の意識を抱き、罪深い土地の上で生きる「自分は何者なのか」と考える作品群は、実に複雑な心境と目線を描写しています。


本作は前述の「モカ・ディック」とメルヴィル自身の船員としての経験を活かして描かれたものです。そして、アメリカン・ルネサンスとして、罪の意識と世界の実態を叙事詩的に映し出した作品でもあります。登場人物には、語り部イシュメール(アブラハムの息子イシュマエル)、船長エイハブ(偶像崇拝を促した悪の王)といった名前が付けられていることから、作品世界はキリスト教の土壌にあることを暗に示しています。

エイハブは捕鯨船ピークオッド号の船長で、過去の航海において白鯨「モービィ・ディック」に片足を食いちぎられました。鯨骨の義足で復讐に燃えるエイハブは、体制を整え、飽くなき執念を持って白鯨討伐に乗り出します。語り部たるイシュメールは、捕鯨船に乗り組むことを目的としてナンターケットを目指します。道中の宿屋は安く済ませたいため、何軒かの宿を尋ね回り、ようやくあり着いた部屋は相部屋でした。その相手は人食い人種の蛮族で、イシュメールは慄きながら寝台に潜り込んでいましたが、言葉が上手く通じないことから或る種の仲違いが生まれます。しかし、その蛮族の純粋な信仰心と、懐の広い王族の心に惹かれたイシュメールは、真の心の友としての契りを交わし、同じ寝台で一夜を共にします。この蛮族クイークェグは銛打ちで、彼と命を共にすることになったイシュメールは、エイハブの捕鯨船に乗り組むことを取り継ぎました。そして、二人揃って乗船し、目的となる太平洋の赤道近くへと数年の航海を始めます。ピークオッド号は、アメリカ大陸の東側から大西洋を南下し、アフリカ大陸を迂回してインド洋へと向かい、アジア諸島を潜り抜けて日本列島に迫り、そこから赤道近くの太平洋の真ん中へと突き進みます。

しかし、物語は船の航跡を丁寧に辿るように、非常に緩やかに進みます。捕鯨の歴史、捕鯨船の仕組み、鯨骨、鯨油、鯨の生態など、底の底まで掘り下げるように、随所で懇切丁寧に説明がなされ、ピークオッド号の様子はなかなか映し出されません。全体の四分の三はこのような説明が敷き詰められており、実際の航海の時間的な長さを体験するような思いです。そして、進展する章であっても、真っ直ぐに「モービィ・ディック」へとは向かいません。あくまで捕鯨船ですから、道中で発見する鯨を捕まえる場面も描かれます。このような場面では、メルヴィル自身の体験が如実に活かされていて、迫力のある筆致で読者を導きます。このような緩急が繰り広げられて最終三章でようやく「モービィ・ディック」と相対します。


全篇にわたり、キリスト教に対する批判、そしてヨーロッパ諸国、特にイギリスに対する揶揄が強く織り込まれています。ピークオッド号の乗組員は白人が中心となって役職についていますが、多くの異教徒や有色人種も含まれて構成されています。しかし、銛打ちや鯨油収穫といった危険な作業はエイハブを除きこれらの白人以外が担当し、実際に生命の危機にも見舞われます。これはアメリカ社会の縮図であるとも言え、暗に奴隷社会や白人支配を表現しています。そしてこのアメリカという世界が海という「世界」を渡り、あの「白い」鯨を打倒せんとする様は、ヨーロッパ諸国を否定してアメリカを「真の独立」へと導こうとしているようにさえ感じられます。


しかしながら、本作はこのような一点の視野では収めることができません。冒頭のイシュメールとクイークェグの心の交友は、異教徒の親和だけでなく、同性愛的な側面をも表現しています。そして、不憫な黒人の子ピップは遭難にあったことで気が触れてしまい、シェイクスピア劇に見られる「道化」となって立ち回る様は「神と信仰」を根底から覆す言動を見せています。さらには、拝火教フェデラー、奴隷社会に侵されていない屈強な黒人銛打ちダグーなど、異教徒や異人種に対する困惑と抱擁を、ピークオッド号という狭い囲いのなかで、エイハブの、もしくはメルヴィルの信仰における包括的な態度が、作中のなかで浮き上がってきます。このような異人種、異教徒、同性愛に対する包括的な態度は、当時のアメリカ(及びヨーロッパ)では理解されることなどなく、当時の読者は否定的な態度でこれを迎えたといいます。

 

見よ、神々がすべて善で、人間がすべて悪だと信ずる者たちよ。おお、見るがよい、全能の神々が悩める人間を忘却しているというのに、人間は、白痴なりとはいえ、またなすべきことを知らぬとはいえ、なおほのぼのとした慈愛と感謝の気持にみちあふれているのだ。わしは皇帝の手をとったこともあるが、おぬしの黒い手をとって引いてゆくことのほうがはるかに誇らしく思うぞ!


エイハブのこのような世界への理解を妨げたものは、やはり復讐心に駆られた「執着」であり、イシュメールがピューリタニズムや白人至上主義から「解放」されたことが、物語の結末において対比的に描かれています。「自分は何者なのか」の問いには、自分の心の「根源的な価値観の解放」が必要であり、不要な価値観の眼鏡が外れたときに、ようやく眼前に「自分」を映し出す鏡が現れるのだと語っているようでした。ハーマン・メルヴィル『白鯨』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『無心の歌』『有心の歌』ウィリアム・ブレイク 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

ロマン主義の先駆けとして知られるウィリアム・ブレイク(1757-1827)は、靴下商を営む父親のもとに生まれ、幼い頃から溢れる詩才を垣間見せていました。窓から覗き見る神の姿、庭の木に舞い降りる天使たちなど、幻視を訴えるブレイクを見て、父親は画家の道を歩ませました。ブレイク家はイギリス国教徒に属していましたが、その思想はマルキオン主義に傾倒していました。真の至高の存在である神と対を成す悪の創造神デミウルゴスによる対立が、ブレイクの価値観の根底に刻まれました。父親の商才により労働者階級にありながら比較的裕福な暮らしのなかで育ち、少年時代にはデッサン学校で美術を学びます。そこからブレイクは、十四歳で銅版画師ジェイムズ・バザイアの工房に徒弟として師事し、五年間を修行に費やしました。基礎的な工程技術を学びましたが、当時の流行に合わせたバザイアの取り組み姿勢に反感を抱いたブレイクは職を辞して、王立美術学校で彫刻を学びます。ラファエロミケランジェロといったルネサンス時代の作品に影響を与えられ、どのように自身の作品へ「信仰と詩性」を込められるかということを追求します。言い換えれば、時代を超えて「ゴシック美術」を生み出そうとしていたのだと言えます。


芸術が「連環的なもの」であるという認識は、ブレイクは幼い頃より理解しており、銅版画の修行中にも溢れる詩性を解き放つように詩作にも取り組んでいました。現存するブレイク作品にも十四歳で書き上げたものがあり、早い段階で芸術家としての顔を窺わせていたことが理解できます。未熟でありながらも一貫した宗教観と詩性は、後の作品に通ずるものが見えます。


ブレイクの作品の多くは聖書や神話といったものを題材としているため、彼は神秘主義者や幻視者と呼ばれることがあります。これは、ブレイクが形而上に思想を置いていたという訳ではなく、神、天使、精霊、悪魔が、実際に我々の住まう現実の社会にこそ存在すると考えていたからでした。ブレイクが生きた時代は、イギリス産業革命フランス革命が、欧州社会に大きな変化を与えた激動の時代でした。都市は工業化によって中流階級が大きな資産を獲得し、労働者階級と呼ばれる民衆は厳しい社会的立場を与えられます。また、激化する奴隷貿易の拡大は、欧州諸国の近代化に合わせて階級による差が広がり、より一層に格差社会が構築されていきました。このような世界の動きに、ブレイクは憤りと期待を同時に抱いていました。ブレイクは、およそ神によって作られた人間は全て平等であるべきであるという教えのもと、格差社会、女性蔑視、人種差別など、蔓延している差別意識を撤廃するべきであると考えていました。そのような差別意識を撤廃する希望として「革命」を支持しました。しかしながらフランス革命は、後期にかけてのロベスピエールによる恐怖独裁政治(テルール)に見られるように、ブレイクが期待した「既成の差別意識の撤廃」とは、程遠い形で政治が進められていきました。このときの絶望を描いた『月の中の島』は、ブレイクの真の象徴的な作品とも言われていますが、政治的な関わりもあり、未完に終わりました。ブレイクは、格差社会だけでなく、啓蒙思想における合理主義、制度化された宗教、慣習的な結婚の伝統といった「神の存在を無視した人間の都合の良さ」による制度を、その芸術家人生において、一貫して否定し続けました。


本作『無心と有心の詩』は、その後に生まれました。まず1783年に『無心の詩』が執筆され、1789年に魂の相反する『有心の詩』が生まれ、1793年にこれらが合本として発表されます。本作で見られる「非正統的宗教観」は、神学者スウェーデンボルグの影響を強く受けています。前述の価値観による霊的神学によって描かれる作品には神の存在とその信仰が込められ、作品で描かれる相反する魂は「神とデミウルゴス」の対立に呼応しています。ここには、ブレイクの望んだ「革命によって成されなかった」倫理的な秩序が提示されています。


ブレイクは「芸術的連環」によって、書き上げた詩に装飾画を添えています。非常に手間と費用の掛かる新たな手法で描かれた作品は、ブレイクの生前にはごく僅かな範囲でしか流通していませんでした。そのため、ブレイクは芸術家として生前は無名であったと言われています。彼の作品は、詩と装飾画を切り離して考えることはできません。非正統的信仰や霊的神学の傾倒、そして視点によっては「既成社会の破壊」とも言える考え方と、生み出す神話的な作品から、ブレイクは周囲から変わり者であると認識されていました。一部の芸術的理解がある人々には熱心に讃えられましたが、大多数の人々には作品を理解されることがなく、晩年を苦しい経済状況で過ごすことになりました。しかし、彼の残した連環的芸術作品には、深い独創性と天才性が見出されます。


「詩」は形式と韻律を含んでおり、「口承文学」という面を持っています。ブレイクは「詩」を「視覚的な装飾画」として描き出すことに、ある種の皮肉を見せています。吟遊詩人に挙げられるように、「詩」は歌い上げるものという性質がありますが、これを文章で捉えるという行為そのものが、ブレイクを「ロマン主義」的な姿勢であると示しています。特に本作の序文では、吟遊詩人が「笛を吹く」「歌を歌う」「詩を書く」と提示されており、ブレイクの「詩」に対する芸術的態度を明確に表しています。


本作は、幼少期に見られる「汚れの無い牧歌的な平和世界」と、大人が社会に与えられる「堕落と抑圧による陰鬱世界」を対比的に描いており、登場人物や出来事が呼応するように対置されています。柔和な美徳を表す「子羊」に対して、陰鬱で野生を見せる「虎」を歌い、対照的な視点と価値観を提示しています。無垢な価値観を生きた者が、成長過程で多くの陰鬱や悪意を経験し、そして構築された新たな価値観によって辿る人生には、無垢のころに眺めたものが違うもののように映ります。多くの詩は物語の断片のように描かれていますが、双方に関わらずブレイク自身の体験を反映させている訳ではなく、俯瞰的な目線で眺めながら社会を描いています。この社会は、前述のような「格差社会」「女性蔑視」「人種差別」、さらにはこれらの原因となる「専政的な権力」「風土的差別観」「宗教の制度化」などが反映され、それらを厳しく批判しています。特に『有心の詩』においては顕著に描かれ、「虎」のような「無垢を無視した凶暴さ」や、嫉妬や恥という経験によって否定される「純粋愛の脆さ」などを強く訴えています。これは「純粋な信仰心」を裏切る教会や政治へと連なり、(当時の)社会そのものを否定していると言えます。

 

残忍は人間の心臓を、
嫉妬は人間の顔を、
畏怖は人間の神聖な形を
秘密は人間の衣服を持つ。

人間の衣服は鍛えられた鉄、
人間の形は火を噴く鞴(ふいご)、
人間の顔は封印された溶鉱炉
人間の心臓はそのひもじい咽喉。

ウィリアム・ブレイク『有心の歌』「神の姿」


また、ブレイクは作中で「聖書の象徴」を頻繁に用いています。韻律にも讃美歌やバラードを用いることで、神的存在を全面に展開しています。このような「社会のなかで存在する神」は、読む者へ信仰の持ち方や意義、そして社会の在り方を見直させるきっかけを与えています。ブレイクが眺める景色は神のそれに近しく、真のイエスの子としての目が機能しているという見方もできます。この一貫した宗教観は、ブレイクの詩性に通底するものであり、どの作品にも見られる重要な意識となっています。

 

われわれが嘘をまことと信ずるようになるのは
目を通してものを見抜かないとき
その目は一夜で亡ぶべく一夜で生まれた
たましいが光の輝きの中に眠っているときに
神は姿をあらわす 神は光である
夜に住むあの哀れなたましいの持主には
しかし神ははっきりと人間の形を示す
真昼の領分に住む人たちには

ウィリアム・ブレイク『無心のまえぶれ』


晩年のブレイクは、ダンテ・アリギエーリ『神曲』の挿絵を描きました。膨大な作業量を必要とするこの仕事は、ブレイクの死によって未完に終わりました。しかしながら、遺された七つの作品には素晴らしい詩性と信仰が込められており、現在でも感銘を与え続けています。そして亡くなる直前には妻に寄り添われ、讃美歌を口ずさみ、とても幸福な空間のなかで息を引き取ったといいます。

既成社会に縛られては奴隷になる、一つの理想的な体系を創造しなければならない、ブレイクが抱いた決意は終生変わらず貫き通され、その人生の最後まで創作を続けました。ブレイクの代表的な作品『無心と有心の歌』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『吉原手引草』松井今朝子 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

廓遊びを知り尽くしたお大尽を相手に一歩も引かず、本気にさせた若き花魁葛城。十年に一度、五丁町一を謳われ全盛を誇ったそのとき、葛城の姿が忽然と消えた。一体何が起こったのか?失踪事件の謎を追いながら、吉原そのものを鮮やかに描き出した時代ミステリーの傑作。選考委員絶賛の第一三七回直木賞受賞作、待望の文庫化。


1600年、豊臣秀吉没後に起こった政権争いにより繰り広げられた関ヶ原の合戦において、毛利輝元を総大将とした西軍に対して、東軍を率いた徳川家康が勝利を収めました。この勝利は、家康に大きな権力を掌握させることになり、新たな統治が国内に広められました。征夷大将軍に任命された家康は、中央集権組織として江戸幕府を開き、この幕府に臣従する各大名を藩とする幕藩体制を、僅か一年足らずで確立しました。こうして家康が江戸に入ったことで、各藩の大名は軍役や奉仕のため、参勤交代として定期的に江戸へと向かうことになりました。また、それに合わせた商いの目的や、各藩での暮らしが困難な人々が出稼ぎの目的で、江戸にはいまだかつて無いほどの人が溢れます。そして、この大きく膨れ上がった江戸人口は、三分の二が男性という比率でした。

この状況で家康が打ち出した政策が、幕府公認の「吉原」遊郭開基で、目的としては、溢れかえった男性による強姦や性暴力といった性犯罪を抑止させるというものでした。歌川広重の作品に見られるように、溝で囲われ大門で管理された大規模な遊郭は一つの街の様相で、一般社会とは別の世界が構築されています。遊女としてあてがわれた女性たちは、口減しや貧困を理由として身売りされた少女たちで、広く全国から集められました。当時では「吉原奉公」という言葉が広まったように、一つの女性の職業という見做され方がされており、この身売りは現代の印象とはかけ離れ、受ける側である吉原も丁重に迎えたといいます。

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歌川広重「吉原仲之町夜櫻」


吉原には大小さまざまな遊女屋があり、それぞれの屋敷は「見世」と呼ばれました。大きな見世では所属する遊女が多く、そこには階級が設けられ、楼主(おやかた)の采配で昇進を決定されました。遊女は、身売りされて間も無い修行の身「禿(かむろ)」、見習い「新造(しんぞう)」、大部屋で待つ「切り見世」、「部屋持ち」、「座敷持ち」などの階級を経て、「花魁(おいらん)」へと昇りつめます。そして遊女は、凡そ二十七歳ごろに「年季明け(ねんあけ)」を迎え、吉原奉公を終えますが、裕福な商家や農家などに「身請け(みうけ)」されて豊かな暮らしを与えられる場合もありました。当然ながら、豊かといいながら多くの場合には「心身の根本的な自由」は無かったでしょうから、全てにおいて幸福であったとは言えません。

見世は楼主の性格が大きく反映されました。規則を守らないような遊女に対しては厳しい折檻を与え、言葉巧みに悪客の対応を任せるといったところもなかにはありましたが、多くの大見世ではそのようなことはなく、寛大かつ厳格に遊女に接していたといいます。これは吉原という遊郭だからこその特質で、他の大見世との関係性、迎える客の特性、そして江戸人情が影響していました。

 

ところで、〝粋〟という字には、米という字がついていますよね。ここで、この〝粋〟の字解きをしてみます。さきほど、〝米〟は八十八と書くと申しました。粋の字は左側が八十八、右側が九十でできていますが、中に隠し言葉があります。これは、江戸の人が後からこじつけたもので正論ではありません。言葉遊びが好きな江戸っ子たちが、勝手にこじつけたものですから、真剣にお聞きにならないでください。八十八と九十の間に何がある?八十九ですね。では、それを何と読むか?八十八は米、八十九は〝ヤットクウ〟、九十は卒業の卒、つまり「米をやっと食う段階から脱する、すなわち、食うや食わずの生活から脱してゆとりのある状態にならないと、枠な遊びはできないよ」という意味だと彼らはこじつけたんです。

杉浦日向子『うつくしく、やさしく、おろかなり』


このような「粋の美学」は、暮らしに余裕を見せる人々に強く求められました。武家、商家、農家、札差(金貸し)といった懐に潤いのある者が、日々の暮らしに「粋」を求めます。吉原遊びでもそこは変わりません。そのような「粋」を求めるゆとりある人々に対して、やはり相応な質を遊女に求められるのは道理です。遊女たちは、禿の頃に姉女郎の身の回りを世話しながら多くの芸事を教え込まれます。教養を高め感性を磨くという目的で、書道、華道、香道、茶道などを学びます。芸を秀でさせるように、狂歌、琴、三味線、胡弓などを身につけます。客を楽しませるために、俳諧、和歌、囲碁、将棋などを覚えます。そして、遊郭に通う「粋を求めた」お客様の相手をするために、歌舞伎、相撲、政治などについても学びます。さらには、「ありんす言葉」と呼ばれる遊郭独自の話し方は遊女たちの故郷を悟られないようにと考えられたものですが、これも禿時代に習得します。吉原遊郭で昇りつめる花魁は、ただ美しく身を任せるばかりではなく、並大抵ではない努力が必要でした。


花魁には、見世へ向かうだけでは会うことができません。引手茶屋を通して見世を紹介され、信用を得た者のみが辿り着くことができます。また、見世に入ってもお馴染みとならなければ花魁は身を任せることはなく、また座敷へ招いてもらうことさえ叶いません。新造や切り見世と段階を踏んで相手をし、遊郭側の信用を得て、少しずつ見世の馴染み客となり、遊郭内で勤める人々へ心付けをはずむことで口利きをしてもらう必要がありました。吉原遊郭は身売りされた女郎部屋であることには違いありませんが、そこには独特の厳しい仕来りと暗黙の了解が広がる独自の世界が構築され、一つの文化的な様式美が備わっていました。


本作『吉原手引草』は、歌舞伎の脚本家として知られる松井今朝子による作品で、第百三十七回直木賞を選者圧倒的支持で受賞しています。作中では地の文章は一切無く、事件の真相を聞き出そうとする主人公の対話相手の台詞のみで進められます。「吉原一」と謳われるほどの花魁葛城は、身請け話が飛び交うなかで忽然と姿を消しました。最後に相手をした男も消えたようで、謎が深まるばかり。戯作者の卵と称する主人公が、大籬「舞鶴屋」を中心に葛城と関わりのあった人々へ訪ね歩いてまわります。見世番、番頭、新造、遣手、床回し、楼主と、葛城が過ごした籬のなかを、より関係性の強い人物へ近付くように訪ねていきます。籬のなかで勤める人々も、やはり吉原遊郭の仕来りを重んじる反面、なかなかどうして機知に富んだ語りを披露してくれます。とくに、それぞれの仕事を会話に準えて自然に紹介してくれる点は、読んでいて当時の文化に触れることができ、魅力溢れる筆致で綴られて読みやすくなっています。遣手の遊女の名残や楼主の気骨などは、読んでいて心が揺さぶられます。訪ね歩くことで、「平さん」こと蔵前札差の田之倉屋平十郎という吉原界隈で随一の重要人物が浮かび上がってきます。葛城を吉原一の花魁へと育てた人として知られる平さんは、葛城の失踪事件の真実を掴んでいるのではないかと踏んだ主人公は、当人へ直接話を聞きにいきます。そして彼は、この事件の意外な真実を突きつけられることになりました。


本作は「真相を追う」という主体を保っていますが、実際には作品名にあるように「吉原遊郭の手引」という面が強く備わっており、物語や謎を追うことで自然に当時の仕来りや文化に触れることができるようになっています。吉原が大きな女郎部屋であるといった漠然とした印象は、本作を読むと大きく変化し、「文化の発信地」として機能していた根源的なものを汲み取ることができます。そして、数少ない花魁として選ばれた人々には何が備わっていたのか、芸事以上の、営業力以上の、後ろ盾以上の、人間的な何が必要であったのかと理解させられます。それは「粋」を求める人々に接する覚悟以上のものでした。

 

明けて十四になる江戸の娘なら、自分がこれから行く先はどんな場所かを呑み込んで、肚をくくってたとしてもおかしくない。ただわしはえらくふしぎに思えたんだよ。覚悟がついたといっても、それはあきらめのはずだろ。ところがあの子の表情は、あきらめとはほど遠いところにあった。いそいそとしてるとはいえないものの、ただ辛いことだけが待ち受ける先に足を運んでるようにはとても見えなかったんだよ。


齢十四にして吉原の大籬へと足を踏み入れた葛城には、精悍とも言える強い眼差しがあり、絶望的な印象は全く無かったといいます。読み解かれていく葛城の「女郎としての」行動や思考には、唸らされるほどの覇気と気概が感じられます。聞き込むごとに口に上る花魁葛城の姿は、どこか凛とした立ち居振る舞いを思い浮かべさせ、禿や若衆だけでなく、楼主までもがその姿勢に敬意を表していたように思われます。平さんが打ち明ける失踪事件の顛末は、そのような花魁葛城の気概を認めた周囲の人々の心意気が大きく関わっています。そして、そのような江戸の意気人情こそが、吉原遊郭を支えていたのだと明確に理解できます。

 

読者はやがて、「遊里は一から十までウソの拵えものだが、その拵えものが、自分を拵え上げた現実に一矢むくいる」という、その現場に立ち合うことになる。ウソで世界の筋目を正すというのだから、痛快である。

第百三十七回直木賞選評 井上ひさし


現代におけるジェンダー問題の観点から吉原遊郭を評すれば、それは身売りされた女性が心身ともに搾取されるという図が描かれ、言語道断な印象を示すかと思われます。これはそのような身売りを肯定するわけではありませんが、当時の価値観や倫理観、さらには幕府の政策といった側面や目的を鑑みるならば、この吉原遊郭というものは様式美を超越した一つの文化的な側面が見えてくると思われます。本作では、暗くなりがちな女郎部屋という舞台を、歌舞伎舞台で培った小気味良い台詞回しと、誇りを持って籬を守った人々の心意気を糧に、見つめるべき主題へと読者を導いています。なぜ遊郭が「文化の発信地」となり得たのかという答えが、その在り方とそれを支えた人々の意気人情とはこういうものであったのだと本作のなかで脈々と血のように流れて、まるで証言のように語られているように感じました。そして、花魁が芸事以上に必要とされた資質は、何よりも覚悟を元にした「気概」であったのだと、そう思いました。

 

これまでの作品には、類い稀なる古典的教養が小説としてうまく機能しない憾みがあったのだが、受賞作となった『吉原手引草』はそのあたりをついに克服した傑作である。謙虚かつ冷静な自己分析の成果であろうと思う。
作品もさることながら、私は作者の、まるで背に旗竿を立てたような姿勢の正しさに敬意を抱いて強く推した次第である。

第百三十七回直木賞選評 浅田次郎


本書紹介文にもあるように、本作には確かに謎解きの要素は含まれています。しかし、この点を中心に捉えると「読み取るべき重要な主題」は全く見えてきません。肝心な吉原遊郭の持つ文化的要素と、それを支えた江戸人の「粋」、そして花魁の「気概」を、存分に楽しみながら読み取らせてくれる作品です。松井今朝子『吉原手引草』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『タイタンの妖女』カート・ヴォネガット・ジュニア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

時空を超えたあらゆる時と場所に波動現象として存在する、ウィンストン・ナイルズ・ラムファードは、神のような力を使って、さまざまな計画を実行し、人類を導いていた。その計画で操られる最大の受難者が、全米一の大富豪マラカイ・コンスタントだった。富も記憶も奪われ、地球から火星、水星へと太陽系を流させられるコンスタントの行く末と、人類の究極の運命とは?巨匠がシニカルかつユーモラスに描いた感動作。


第一次世界大戦争は、アメリカ経済へ大きな潤いを与えました。ロシア、フランス、イギリスによる三国協商からアメリカに向けて、戦時中は軍需物資を、戦後はその復興に必要な物資が求められ、戦争被害の少なかったアメリカの国益を増やし、国家成長を促していました。その後、復興が落ち着き始めるとアメリカの経済は再び停滞を見せ始めます。より多くの需要に応えようと生産規模を拡大したさまざまな工場の生産量は、滞り始めた需要と見合わなくなり、経済成長を維持し続けることが困難な状況になりました。しかし、局地的に勢いをつけた経済成長は、アメリカの株式市場を暴走させていきます。実態として国益は停滞していながらも株価は上昇を続けるという状況で、国民は幻の好景気に身を委ねていきました。こうして膨らんだバブルの泡は1929年に崩壊し、アメリカ株式市場発の世界恐慌が起こります。この不況からアメリカ経済を復活させるために、フランクリン・ルーズベルトは「ニューディール政策」を打ち出しました。これは、ケインズ経済学に基づいた対策で、前大統領ハーバード・フーヴァーが国家として「為すがまま」に経済を放置した姿勢とは対照的に、国家が積極的に公共事業や社会保障を経済的に支援するというものでした。バブルの崩壊は多くの倒産と失業を生み、国民の生活は不安定となり、各々が資産を少しでも守ろうと財布の紐を固く締め、アメリカ経済は全く回らなくなっていました。その国民へ金銭的な支援を国が行い、経済を活性化させ、失業者の雇用を促して、国民の有効需要(物を欲して買う)を引き出そうとしました。このような試みで一定の効果を見せたニューディール政策でしたが、実施期間の短さも原因となって充分な経済回復には至りませんでした。


世界恐慌が各国の経済を混迷させたことで、それぞれの国が「自国の経済を守ろう」と他国との取引を縮小させていきます。他国の通貨の「信用性」を失ってきていたこともあり、多くの経済大国は「自国通貨に基づいた取引」のみを行うように、植民地との貿易だけに絞り始めました。この「ブロック経済」と呼ばれる取引政策は、為替に左右される不安もなく、経済を自国領で回すことができるため、少なくとも資本が他国へと流れることはありません。しかし、このような経済大国以外の、或いは多くの植民地を確保していない国家は、恐慌からの脱却は困難となり、ブロック経済によって安定している国々に対して「不満」を抱きます。このような不満を抱いた国々と言えば、独自通貨の日本、第一次世界大戦争の敗戦国とされた植民地のないドイツ、社会主義運動によりストライキが頻発して経済が困窮したイタリアなどが挙げられますが、これらは全て国内でファシズムを推し進めていた国でした。このファシズム国家が「他国の資源を奪おう」と考えることは当時の理念では自然に導き出される答えでもあり、三国は互いの状況と理念を理解し合い、のちに「日独伊三国同盟」として結びつきます。こうして第二次世界大戦争の下地が敷かれました。


カート・ヴォネガット・ジュニアは、アメリカの第二次世界大戦争参戦に合わせて徴兵されます。斥候として駆り出された彼は、結果的にドイツ軍に捕えられて捕虜となりました。ドイツ軍の殲滅に躍起となるイギリスは、美と信仰の都ドレスデンへ大規模空爆を与えました。イギリス空軍は、ツヴィンガー宮殿、聖母教会(フラウエン教会)、ドレスデン美術館など、美しく伝統のある建物や街そのものを、国民とともに、そして捕虜とともに、恐ろしい絨毯爆撃を浴びせました。つまり、ヴォネガットアメリカ軍でありながら、連合国軍に銃撃を浴びせられたのでした。このときに受けた不条理による精神の傷は、彼を生涯、苦しめ続けました。

 

一九四五年二月十三日、ドレスデンでは約十三万五千の人間が殺された。イギリス空爆隊によって、ひと晩のうちに。とことん無意味で、不必要な破壊だった。

カート・ヴォネガット『国のない男』


本作『タイタンの妖女』は、ヴォネガットが二番目に発表した長篇小説です。この作品は、個々の登場人物を具に追うという手法ではなく、作品全体を眺めながら描く活劇「スペース・オペラ」と一般に呼ばれる手法で語られます。作中では現実と遠くかけ離れた世界が描かれ、その紡ぎ方はファンタジー的であるとも言えます。土台は当然ながらサイエンス・フィクションとして存在していますが、そこにはヴォネガット独自の理論や理屈で構築された出来事が多く、ファンタジーの色が強く出ていることから、本作をどのようにカテゴライズするべきかという争論がいまだに絶えません。ただ、間違いなく言えることは、本作に込められた皮肉を諷刺的に描き、その手法としてサイエンス・フィクションの世界をヴォネガットが選択しているということです。


ここに込められた批判は、ルーズベルトニューディール政策、株式市場への固執と崩壊、信仰の非絶対性、歴史と運命の関連否定などであり、非常に重い主題が含まれていますが、それでいて本作にはどこか軽快な空気を醸し出すユーモアがいたるところに存在し、読み手は悲惨な状況を目にしながらも笑みをこぼしてしまうという場面が随所にあります。


ニューイングランドの貴族であるウィンストン・ナイルズ・ラムファードは、愛犬カザックとともに私有している宇宙船での航行中に、「時間等曲率漏斗」(クロノ・シンクラスティック・インファンディブラム)と呼ばれる時空間異常現象へと突入しました。これにより一人と一匹は、太陽とオリオン座の恒星ペテルギウス(冬の大三角など)の間を「波動現象」として螺旋のなかに存在することになりました。この螺旋上で時空間が合致した際に、彼らは「実体化」します。彼らはさまざまな時空間で同時的に散らばって存在し、螺旋上の時空間に合わせて実体化と非実体化を繰り返しています。地球での周期は五十九日ごとであり、その都度、短時間での実体化で彼らは地球に滞在します。ラムファードは自身の実体化時期に合わせて、アメリカ国内において最も裕福な人物マラカイ・コンスタントを招待します。コンスタントは傲慢で好色な人物であり、さほどの努力もなく父親譲りの強運でのみ富を豊かにしてきました。そのような彼に対し、ラムファードは自身の置かれた螺旋波動としての存在と、その存在ながらの未来予測(実質的な未来経験によるもの)をコンスタントに提示します。この時より、コンスタントは「受難者」としての運命を歩むことになります。

ラムファードは、コンスタントが長大な宇宙の旅に向かい、全く違う境遇ながらも幸福な生活を得ることができると予言します。莫大な富によって数多の欲望を満たしてきた、また、これからも満たすであろう生活以上に魅力的な人生があるものかと、コンスタントはこの予言を否定します。しかしラムファードは、そのように進むものだと運命の確定を明言しました。そして、宇宙を広く駆け回る運命、具体的に言えば、火星、水星、地球、土星の衛星と辿る旅を、コンスタントが行うと確定的に伝えます。予言を信用できないコンスタントはラムファードとの会合を終えますが、直後に今までの強運が嘘のように効力がなくなり、資産を失い、無一文の生活に陥りました。そして運命の歯車が動き出すように、コンスタントはラムファードの言葉通りに火星へと向かいます。ここから火星による地球への侵略戦争、水星での音楽的共鳴を伴う上司との遭難、受難者としての地球への帰還、そして土星の最も大きな衛星タイタンでのラムファードとの再会という、広大なスペース・オペラが繰り広げられます。


火星軍は、記憶を取り除かれて洗脳された地球人たちで構成されています。コンスタントもやはり、記憶を失います。ラムファードが首謀となって、貧困、絶望、不幸などにより地球での生活で苦しむ人々へ甘言を用いて誘い出し、火星に送って洗脳兵士に仕立てていきます。この火星軍による地球侵略戦争は、人権を無視した大きな犠牲の上に成り立つ「狂言」であり、ラムファードの描くひとつの脚本でした。しかし、コンスタントは地球へとは向かいません。彼はボアズという上司とともに、水星へと打ち上げられます。そこには水晶のように輝く岩盤に囲まれた、清澄な世界が広がっていました。ハーモニウムという菱形の凧のような形をした生物が生息し、彼らは「ボクハココニイル」「キミガソコニイテヨカッタ」という意思疎通のみを行い、振動を生命の熱量へ変換させて生活しています。ボアズが持ち込んだ音楽に多大の幸福を覚えたハーモニウムたちは、彼に信頼と好意を抱き、彼もまたそれに応えるように離れがたくなります。食糧は何度も人生を送ることができるほど持ち合わせていたため、これをコンスタントと分け合い、ボアズは水星に残ってコンスタントは再び宇宙船へと乗り込みます。大きな戦力差によって火星軍を殲滅させた地球へと辿り着いたコンスタントは、戦争後にラムファードによって広く地球に布教された「徹底的に無関心な神の教会」という宗教の「予言された受難者」として降り立ちます。熱狂的に迎えられたコンスタントは、ラムファードと三度目の出会いを果たします。英雄的な扱いを受けて迎えられたコンスタントに対し、ラムファードは辛辣な告白を行います。コンスタントが記憶を失う前の生き方、つまり傲慢で好色な大富豪の生活を糾弾し、信者たちが「憎悪すべき受難者」であると示します。そして、土星の最も大きな衛星タイタンへと「星流し」にされました。到着したタイタンには、途轍もなく文明の進化したトラルファマドール星からの使者サロという意思を持った機械が存在していました。思考や感情を持ち合わせるサロは、ラムファードと旧知の仲で、時間等曲率漏斗によって変在する彼の良き理解者でもありました。そして、ラムファードの描いた人権を無視した戯画の真の意図が、その地で読者に明かされます。


サイエンス・フィクションという手法は、社会や世界に対する諷刺を見せるためによく使用される手法ですが、ヴォネガットの意図はその点に固執していません。科学的な論拠は構築されておらず「この世界ではこうだ」といった示し方がなされます。このような要素が強いことで、本作はファンタジーが色濃く見せられ、読者はどこかしら寓話的な印象を受けます。ラムファードが起こす事件や行為は非道そのものであるにもかかわらず、ユーモアによって悲惨さが軽減されています。そしてこのラムファードの結末も、神の如く振る舞った行為そのものに皮肉を与えるように迎えられ、作品全体に通底するシニックな思想によって導かれます。ラムファードとその思想は、ヴォネガットの言葉通りに「ルーズベルトニューディール政策」が戯画的に用いられていますが、そこに信仰という精神性の利用が合わさり、全体主義的な世界を構築させています。しかしながら、ここに「神性」が見られるわけではなく、ラムファード自身が「神」として存在しようとする意識が働いているわけであり、実に人工的で滑稽な世界を見せています。だからこそ、ラムファードは真実を受け入れられないまま、絶望したうえでこの世界での結末を迎えます。また、対比的に機械のサロが絶対的な力の恩恵を受けていることが、ラムファードが描いた戯画を否定するように皮肉をもって描かれています。

また、コンスタントとその父親が聖書を用いて株式市場で成功するという点も、信仰に対して、或いは神という存在に対して否定的に描かれています。信仰心の無い者が神聖な聖書を俗的に利用するという描写は、そこに資本主義の、いわばブロック経済のように経済的自己本位性を強調させており、ヴォネガットによる第二次世界大戦争を引き起こした原因的追求を垣間見ることができます。


本作における登場人物は、誰もが自分の立場や状況を選択したわけではなく、世界や社会の「見えない力によって促されるように」その位置に辿り着き、その場を懸命に生きるということしかできません。偶然や状況、神の如き力や他者の気紛れといったものからの影響を受けながら、誰もが自分の意思をもって行動している認識があります。しかしながら、世界や社会の「見えないような圧力」に促され、真の意味での自由意思は持ち得ていないと、ヴォネガットは訴えます。人間は、このような抗うことのできない世界から、「意思の解放」によって本質的な自由を得ることができます。水星で滞在し続けることを選択したボアズ、受難者として地球を追放されたコンスタントは、「大いなる何ものかの力」から解放され、真の自由意思を獲得することができました。そして心の求める辿り着くべき場所は、その人間の本質的な自由意思を得られる環境が整っている場所であり、言い換えれば、本質的な自由意思を得られる状態を維持できる場所であると言えます。これはつまり、心の辿り着くべき場所は、「場所」ではなく「自由意思を得られる状態」であると言えます。

 

おれたちはそれだけ長いあいだかかってやっと気づいたんだよ。人生の目的は、どこのだれがそれを操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待っているだれかを愛することだ、と。


自分の置かれた立場や状況において、個人の行動によって世界や社会を変化させることは到底出来うるものではありません。しかし、自身の「自由意思」を尊重し続け、心の辿り着くべき「状態」へと導くことは可能であると言えます。そして、心が最も欲するもの、大切であると感じるもの、無くてはならないものとして、「愛」が挙げられます。ヴォネガットは、どのような「大いなる力」が働こうとも、自由意思を保ち、心の辿り着くべき「状態」を維持させるものこそが「愛」であり、自身の自由意思を尊重することが、人間の最も目指すべき生き方であると提示しています。その生き方は、コンスタントという受難者が宇宙を駆け巡って体現した事実であり、その結末がヴォネガットによって救済されていることからも、読者は裏付けとして読み取ることができます。

 

物語や定められた理論の理解が、やや困難に感じられる場面も多くありますが、さほど深く理解をせずとも「そういうものだ」という理解で読み進めることをお勧めいたします。カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女』、ファンタジーのようなサイエンス・フィクション作品、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『ペリクリーズ』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

求婚しようとした王女とその父の近親相姦を見抜いてしまった時から、ペリクリーズの波瀾万丈の旅が始まった──。詩人ガワーの語りという仕掛けのなかで、次々と起こる不思議な出来事。過酷な運命を乗りこえ、長い歳月をへて喜びに包まれる、ペリクリーズと家族の物語。イギリスで人気の高い、シェイクスピア最初のロマンス劇を新訳で。


本作『ペリクリーズ』は1607年から1608年に掛けて執筆された作品で、「四大悲劇」と呼ばれる『ハムレット』、『マクベス』、『リア王』、『オセロー』が発表された後の、シェイクスピア晩年に生み出されたものです。晩年に開花したシェイクスピアの悲喜劇(ロマンス劇)は、大きく前半と後半に分けることができ、前半部分で語られる悲劇調の物語から、後半部分で神や魔法による生死を超えた劇的な好転が繰り広げられる点が特徴です。『ペリクリーズ』の展開はまさに典型的に当てはまり、前半の不幸の連鎖から精神が蘇るように事態が好転していきます。種本は、当時でも古典的に浸透していた十四世紀の詩人ジョン・ガワーによる『恋する男の告解』(Confessio Amantis)の中に描かれた「タイアのアポローニアス」についての物語を用いています。


本作は、実に現実からかけ離れた展開を見せて、予測のできない危険と不幸の連鎖に身を委ねるペリクリーズの生き様を描いています。特に主題として見せる「二重性」を随所に散りばめ、事態によっては対比的に、或いは連鎖的に、繰り返しのような印象を与えながら、塗り重ねるように訴えています。また全篇を通して、美徳と悪徳、貞潔と不貞、秩序と混沌、美と醜などが、登場人物を鏡のように見せながら対比的に進められていきます。そして特徴的な点は、種本の作者である詩人ガワーが冒頭より登場し、物語の進行役として、場面の切り替えや時空の超過の折に説明を加えながら黙劇を挟んで演じます。


ガワーの登場により始まる物語は、アンタイオケ王国の場面から語られます。王アンタイオカスの宮殿の門には、幾つもの撥ねられた首が並べられていました。これは王の娘に求婚したものの成れの果てで、王の出す謎を解き明かすことができなければ処刑されるという条件の結果でした。しかし、アンタイオカスとその娘は近親相姦の関係にあり、世間的にこの関係を隠すために求婚は募るものの、求婚者を真には求めていないために、次々と処刑をしてその場を繕っているという状況でした。そうとは知らずに求婚にやってきたタイアの王ペリクリーズは、その謎解きに成功しましたが、同時に王と娘の近親相姦を理解することになり、身の危険を感じてタイアへと逃げ戻ります。当然のようにアンタイオカスは刺客をタイアに送りますが、ペリクリーズは信頼する臣下ヘリケイナスと相談のうえ、タイアを任せて旅に出ることにしました。

ペリクリーズは飢饉に見舞われたターサスへと向かい、大量の穀物を持参して救うとともに、身の安全を願い出ます。これにターサスの太守クリーオンと妻ダイオナイザは感謝とともにその願いに応じようと伝えます。するとその後、ヘリケイナスよりペリクリーズへと手紙が届き、アンタイオカスの刺客が今にも弓を引き絞るように迫っていることを伝え、タイアに程近いターサスは危険の域にあると伝えます。長居できなくなったペリクリーズは再び船で旅へと向かいますが、雷鳴轟く大嵐の被害に遭い、船の難破によってその旅は途絶え、ペンタポリスの岸辺に打ち上げられます。幸いにも気の良い漁師たちの救いがあり、王のサイモニディーズが開く馬上槍試合に参加することになりました。これは王の娘タイーサの結婚相手を選ぶための催しであり、それに勝利したペリクリーズは王とタイーサの双方から気に入られて結婚することになりました。そのころ、タイアでは国王不在を嘆いた他の臣下たちから詰め寄られたヘリケイナスは、悪王アンタイオカスと娘が天罰により焼死したことを伝えるとともに一度タイアに帰還するように訴える手紙を送ります。

ペンタポリスで事態を把握したペリクリーズは、身籠った妻タイーサと乳母リコリダとともに、船でタイアを目指します。しかしまたもや大嵐に巻き込まれ、その最中にタイーサが子を産み落として死んでしまいます。嘆く間もなく船長が信じる迷信に従い、死者であるタイーサの遺体を船外へ投げ出さなければならなくなり、丁寧に大きな箱へ埋葬して海に流しました。この箱は翌朝のエフェソスの岸辺に流れつき、貴族であり医者であるセリモンに拾われました。するとセリモンの観察によりタイーサが死亡していないことを見極め、懸命な救命措置で奇跡的に生命を繋ぎ止めました。一方のペリクリーズは、我が子マリーナを連れて混乱の海をタイアへと連れて危険にさらすことは避け、ターサスへと立ち寄りクリーオンとダイオナイザを信用して匿ってもらいます。ようやくタイアへと戻ったペリクリーズは、ヘリケイナスと再会を果たして無事にタイアの王として戻りました。

時が経ち、タイーサはエフェソスの神殿で女神ダイアナの巫女となり、マリーナは芸に秀でた美しい女性に育ちます。しかし、マリーナの美しさと多芸に嫉妬したダイオナイザは、我が子の可愛さのあまり、マリーナの暗殺を試みます。殺されるまさに直前、海賊が襲いかかってきてマリーナを誘拐しました。エフェソスの北方にあるミティリーニの売春宿に売られたマリーナは、自分の運命を嘆きながらも、客に説教を与えながら貞潔を守り続けます。そんな折、ミティリーニの太守ライシマカスが訪れてマリーナに会うと、その説教にいたく感動し、大金を与えて今の環境を変えることを指示します。そのころ、ペリクリーズは我が子へ会うためにターサスへと向かいますが、そこで知らされた事実は娘マリーナの不幸な死の顛末でした。クリーオンとダイオナイザは過去の飢饉の恩を忘れたばかりか、彼らの悪行を全て闇に葬ろうと、マリーナの墓石を見せて一芝居うったのでした。墓を前にして悲嘆に暮れるペリクリーズは、精神を乱して船に飛び乗り旅を続けます。誰とも話を交わそうとしないペリクリーズを嘆きながら、同行するヘリケイナスは食糧の調達のためにミティリーニへと立ち寄ります。そこで迎えた太守ライシマカスは、ペリクリーズ一行を歓迎し、なんとか力になりたいと挨拶を申し出ます。塞ぎ込んだペリクリーズを見たライシマカスは、マリーナの歌を聴けば精神にも変化を与えるだろうと提案して、彼女を呼ぶようにと計らいます。ここでペリクリーズとマリーナが互いの不幸を語り合い、奇跡的な再会を果たすことになります。我が子を抱きしめた幸福と、我が子を殺そうとした悪人への憎悪とに挟まれながら、ペリクリーズは眠りにつきます。そこへ女神ダイアナが姿を現し、エフェソスの祭壇へ祈りを捧げるようにと啓示します。辿り着いたペリクリーズが祈りを捧げると、愛する夫の姿と声に感動して巫女タイーサは失神しますが、セリモンが救命措置の一連を説明すると、家族全員が再会したことを理解して幸福に包まれます。


『ペリクリーズ』は、舞台が何度も変化して、慌ただしく纏まりが見られない劇であると言えます。登場人物はそれぞれに深みがあまり無く、性格にも突出した激しさは見られません。本作、または他の悲喜劇でも言えることですが、このようにシェイクスピアは意図的に「特定の登場人物」を深く掘り下げるのではなく、「物語全体で主題を訴え」ようとして執筆していたように考えられます。前述した「二重性」において、謎解きと槍試合、王アンタイオカスと王ペリクリーズ、二度の嵐など、事態や事象の繰り返しが見られ、双方の対比が顕著に表現されています。そして、対比の根底にあるものは「善と悪」であると言え、登場人物たちの道徳観が運命という形で神々によって審判され、それぞれに応じた結末が用意されています。これらの二重性は、物語の世界における一貫性として存在し、本作を纏め上げる一つの構成要素として役立っています。


女神ダイアナが登場する点から、本作の世界は我々の住む地とは別の世界を見せ、古典的な表現で物語を描写しています。時を超えて長い苦労の期間を歩み、重なる危険な航海を見せ、家族が引き離される不幸を乗り越え、神による超常的な力に助けられ、奇跡的な再会によって結ばれるという構成は、より一層に現実から離れた御伽話の要素を含んでいます。しかし、物語の筋が破綻するわけではなく、通底するキリスト教の摂理に則り、善を救済する清々しい劇へと昇華させています。作中で見せる二重性のなかでも、サイモニディーズ(善)とアンタイオカス(悪)、セリモン(善)とダイオナイザ(悪)などが立場に合わせて対比的に描かれ、勧善懲悪としての結末を明確に見せています。

 

ああ、ヘリケイナス、頼む、私を殴ってくれ、
深傷を負わせいますぐ苦痛を与えてくれ、
さもないと、押し寄せる歓びの津波
呑みこまれ、命の岸辺は崩れ、
嬉しさに溺れてしまう。


そして、劇の構成としても、物語の進行としても、終幕までを一貫して纏め上げる存在が、進行役の詩人ガワーです。場面が変化する状況説明や、時間を駆けるあいだの黙劇を説明するだけではなく、ペリクリーズの忍耐や、ヘリケイナスの忠誠、セリモンの慈善などの、登場人物たちに作者が付与した人間性を代弁するようにガワーは語ります。


ガワーと同時代に活躍した「英詩の父」ジェフリー・チョーサーは、彼を「道徳的な詩人」であると評しています。シェイクスピアが種本にガワーの作品を用い、ガワー自身にも登場させて劇を進めようとしたことは、ガワーの持つ道徳観によって見つめ語られるペリクリーズたちの物語を、現在(発表当時)のエリザベス女王亡き後に不安定を見せた世に、訴えかけるように書き上げたのではないかと感じました。

シェイクスピア晩年の悲喜劇の始まりとして大きく変化した演劇形態を持つ本作は、観客から賛否両論ではありましたが、現代では非常に人気の高い作品となっております。『ペリクリーズ』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『尺には尺を』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

公爵の代理に任命された貴族アンジェロは、世の風紀を正すべく法を厳格に適用し、結婚前に恋人を妊娠させた若者に淫行の罪で死刑を宣告する。しかし兄の助命嘆願に修道院から駆けつけた貞淑なイザベラに心奪われると……。性、倫理、欲望、信仰、偽善。矛盾だらけの脆い人間たちを描き、さまざまな解釈を生んできた、シェイクスピア異色のシリアス・コメディ。


本作『尺には尺を』は一般的に「喜劇」として扱われています。結末を婚姻の成就で締めくくり、道化的なやり取りを据えていることからも、「シェイクスピア喜劇」の枠内に収められる要素は多くあります。しかしながら本作は、作中を通底する「死と欲」が空気を満たして作品全体を陰鬱さで覆っています。この絶頂期に生み出された『尺には尺を』は、『トロイラスとクレシダ』と『終わりよければすべてよし』と共に合わせて、「問題劇」として認識されています。どれも晴々しい結末を迎えるわけではなく、提示された問題を幸福で解決するというものでもなく、劇中で解決せずに劇場を出た観客が提起された問題を考えさせられるといった性質を持っています。シェイクスピアが成長時代に見せた「寓話的幸福な物語」から一線を越え、四大悲劇と同時期に描いた喜劇らしく、現実に直面するであろう倫理的苦悶を、作中に悩ましく組み込んで作られています。その問題劇のなかでも『尺には尺を』は提示する問題が生々しく明確であることから、より一層に舞台を陰鬱な空気が支配して進められていきます。


ウィーンを統べる公爵ヴィンセンショーは不在中、自身の権限を臨時的に冷静で決断力のある貴族アンジェロ卿へ譲渡し、他国との交渉のために出国します。アンジェロは公爵代理としてウィーンでの全権を委ねられ、自身の道徳に従って思うように統治することを任せられました。しかし実際には、公爵はウィーンを出ずに変装して「ロドウィク神父」として修道院へと身を隠します。目的は二つあり、一つは道徳的で忠誠深いアンジェロがどのような統治を行うのかを見るため、そしてもう一つは、散々に風紀が乱れてしまったウィーンの街を浄化させるためでした。アンジェロが真っ先に取り掛かったのは「性の乱れ」を正すことでした。ウィーンには中心部から郊外まで売春宿が溢れかえり、法に反した性行為(姦淫)が自由に行われていました。アンジェロは、キリスト教に則った過去に作られて実質的に眠っていた「姦淫を処断する法」を利用し、未婚の状態で相手を孕ませたクローディオという男を逮捕して処刑しようと試みます。これは見せしめとしての狙いが強く、特別に世間では珍しい違法行為ではありませんでした。その孕んだ相手は、婚姻を約束して持参金の用意ができ次第に結婚する予定であったジュリエットという女性で、当然ながら合意の上での性行為でした。しかしアンジェロは、聖書に記されているように「婚姻外の性行為は全て姦淫(違法な性行為)である」ため、この点を厳格に執行しようとします。

クローディオの妹イザベラは美しく清廉潔白で、見習いとして修道院へ入るところでした。そこに兄の逮捕と処刑の報せが届き、アンジェロのもとへ慈悲を乞いに向かいます。対面した際、断固として処断の意向を曲げる気がなかったアンジェロは、イザベラの持つ内面的な清廉潔白で強い意志と、外面的な容姿と肉体の美しさに惚れ込んでしまいます。そして彼は、権力を盾に「身体を委ねれば兄を救おう」という非道な提案をイザベラに向けました。貞潔なイザベラはこれに憤慨し、提案に対して断固拒否の意向を示して、兄に命を投げ出してもらうために事情を伝えに行きます。ところがクローディオは、彼女に身体を投げ出して自分の命を救ってくれと嘆願し、兄にも失望させられました。このイザベラとクローディオの会話を影から眺めていた公爵ヴィンセンショーは、一つの提案を示します。

ヴィンセンショーはアンジェロが以前、婚約していた女性に対して持参金が用意できないという理由で突き放し、その女性を不幸の底へ陥れたという事実を持ち出します。このマリアナという女性は今もなおアンジェロを想い慕っており、婚姻を変わらず望んでいるのだといいます。ここでアンジェロが示した非道な提案を逆手に取って「寝台でのすり替え」を図り、イザベラの身体を救い、マリアナの想いを遂げさせようと画策します。これに合意したイザベラは、アンジェロへ観念したように見せかけて身体を投げ出す約束を取り付けてマリアナと入れ替わり、マリアナはアンジェロと真っ暗闇での性行為を成し遂げました。

ヴィンセンショーの計画は見事に成功しましたが、アンジェロはイザベラとの約束を反故にして、即座にクローディオの首を落とせと監獄長に命令を通知します。イザベラとの性行為が成ったと思い込んでいるアンジェロは、それを知ったクローディオからの復讐を恐れるあまり、即座に処断しようと考えたのでした。ここでも偶然に助けられながらヴィンセンショーの知恵が回り、別の病死した者の首をすり替えてアンジェロへ信じ込ませることに成功します。一方で、ヴィンセンショーはイザベラに対して首のすり替えを伝えずに、クローディオは処断されたという偽りを伝え、まもなくウィーンに帰還する公爵に被った不幸を打ち明けよと指示します。公然の場で、公爵に対して「アンジェロの不道徳」を訴えよというものでした。

ヴィンセンショーが変装を解いてウィーンに帰還すると、指示通りにイザベラは嘆願しますが、彼は話を信じずにアンジェロの肩を持ちます。そしてマリアナの嘆願にはアンジェロを差し出して、ヴィンセンショーは席を外します。そこに再度変装を施したヴィンセンショーが戻り、ロドウィク神父として二人の女性を援助し、さらに自身がヴィンセンショーであると正体を明かします。これにより登場人物の全員が言い逃れできなくなり、アンジェロはイザベラに対する悪行を認めてマリアナと婚姻を約束し、クローディオは放免されてジュリエットと結ばれ、そしてヴィンセンショーがイザベラへ求婚して物語の幕となります。


公爵代理という権利と誘発された欲望によって本性を表したアンジェロは、厳粛な性質の仮面を剥がした偽善者としての存在へ堕落します。それに対して、ヴィンセンショーは自身の道徳観を曲げることなく、舞台全体を支配して善き者を救う存在として神の如くに立ち回ります。しかしその救済は直接的に行われず、各登場人物の持つ徳によって左右され、真実の心をヴィンセンショーが見極めるように暴き出し、成るべき勧善懲悪の形へと導きます。

「正義はどこにあるのか」という問いは、本作においては「法と罪」によっても問題提起されています。アンジェロが「十九年ものあいだ手も触れずに放っておいた」法を持ち出したことに対して、クローディオは不満を抱き、すぐさま何故だと問い掛けます。この不満は、長い間ヴィンセンショーが執行していなかったことからも、法と罪に見られる道徳観の不一致が世間に認められ、誰もがそれを遵守していなかったことを裏付けています。「姦淫」とは婚外性行為を指しますが、宗教的なパラダイムから見ると、確かに悪行であると言えます。しかし、これを国法に採用して執行するという行いは、国家統治の側面から見て直接的な影響ではなく、キリスト教のための国法という意味合いを強める行為であり、実態的に倫理を超えた強制であるとも考えられます。1604年に英国では「教会法改正」が行われましたが、その先駆けとして1602年の売春宿撤廃の布告を皮切りに、男女の「婚姻」に関する取り決めを厳しくしていきました。婚姻様式の統一を目指した一連の取り締まりは、国民に対して強く締め付ける一方、教会側がその法に対する態度を一貫しなかったことで、国民はより一層に不満を募らせました。このような事実を背景としていることから、読者(観客)にはアンジェロの行動は見せしめとしての意図が見え、ヴィンセンショーが長い間この法を執行しなかったのであるということが理解できます。恐らく、教会側の意図を国法は汲まざるを得ず、しかしヴィンセンショーの道徳観から婚前の性交渉は、悪とは見做さなかったのだと考えられます。


また本作をより複雑に展開させているのがイザベラの存在です。彼女は「修道女見習い」のため、厳格な規則や制限はまだ与えられていません。そのことにより、自分の考えを尊重して自由に発言を繰り返しています。修道女は口数が少ないことを美徳としているにも関わらず、イザベラは誰に対しても饒舌に自分の思いを語り続けます。さらに、姦淫を悪として認識していながらマリアナとの「寝台のすり替え」を躊躇なく承諾して行動します。そして自分を縛る「制限」に対する異常なほどの欲求を見せ、自分をより「清廉潔白な存在」へとなるように望みます。これは自己欲求の明確な表れであり、アンジェロの「謹厳実直な存在」でありたいとする欲求に呼応します。双方ともに自己欲求を満たすため、自身の立場を存分に発揮して主張したことによって衝突し、事態を複雑にさせています。このことから登場人物による自己認識の欠如が見せる愚かしさが、本作で主張するひとつの問題提起であると言えます。

 

当時の実社会で家の存続と子孫繁栄以外に結婚に男女のパートナーシップを求め、セクシュアリティを肯定する風潮が強まってはいたものの、なお女性のセクシュアリティはアンビヴァレントなものとして危険視された。
身代わりの女性は愛する男性に不当に裏切られ、屈辱を味わうことを知りながらこの道を選ぶ。しかもトリックの発覚後、女性は許婚者を許し、結婚を現実的に見据えてなお男性に従順な姿勢を示さねばならない。

河合祥一郎「結婚」『シェイクスピアハンドブック』


終幕でマリアナがアンジェロを救うために、イザベラへ共に嘆願してくれと願う際、イザベラは初めて清廉潔白な修道女らしい態度を取ります。この場面でようやく、劇中を覆い続けた陰鬱な空気が晴れて喜劇性が見えてきます。しかし、この場面での婚姻は「罰」としての性質が強く表れ、手放しで喜ぶ他のシェイクスピア喜劇とは違った雰囲気で結ばれます。婚外の性行為を、ヴィンセンショーは法的な処断ではなく、「婚姻という罪」を着せることで償わせました。これを鑑みると、最後にヴィンセンショーが唐突にイザベラへ求婚した際、彼女が沈黙という形で拒否を見せたことは理解しやすくなります。

 

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

新約聖書』「マタイによる福音書第七章」


自身の行いは自身に返ってくるという教えは、自己認識を怠らず、行動原理そのものを正さなければならないという意味が込められています。現状の置かれた立場や権力を用いる行動ではなく、自身の道徳観に則った清廉潔白と謹厳実直を目指すことが、結果的に自身の幸福へと繋がるのだと思います。本作『尺には尺を』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『恋の骨折り損』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

十六世紀後半、カトリック国のフランスではルターの思想を契機に勢いづいた新教派(カルヴァン派)が、フランスの商工業者層を中心に活動を強めて勢力を拡大していました。国教に背く行為であるとして、フランスは新教派に対して厳しい弾圧を与えましたが、商工業者たちが繋がっている各貴族たちをも取り込み、王権の強化に対する反発と相まって、カトリック(旧教派)との激しい対立の構図が生まれます。カトリックは新教徒を「ユグノー(乞食者)」と蔑み、反対にカルヴァン派カトリック教徒を「パピスト(教皇の犬)」と読んで、対立は一触即発の緊張感を帯びていました。そのようななか、フランスは王権強化を成し得るため、1562年に新教派の支持を得ようと「新教徒の信仰自由」を発布しました。これに激怒したカトリックの貴族は私軍を挙げて礼拝中の新教徒74人を虐殺しました。この事件によって張り詰めていた両派の緊張が一気に解け、激しい宗教戦争ユグノー戦争」が勃発します。


フランス宮廷で実権を握っていた国王の母である摂政カトリーヌ=ド・メディシスは、自身の娘マルグリット(マルゴ)とブルボン家アンリ(新教派)の政略結婚による両派の融和を図ります。アンリはヴァロワ家の血縁にあるナヴァール王でしたが、これを受けてフランスでブルボン朝を創始します。しかし、ユグノー戦争の最中でこの婚姻は穏やかには進まず、二人の結婚式では大きな事件が起こります。新教徒のなかで融和を受け入れようとする者たちは、パリでの婚礼式典に向かいました。そこを、新教徒の国王を認めないカトリック教徒が暴動により多くを殺害しました。1572年に起こったこの事件を、サン・バルテルミの虐殺と呼びます。アンリは幸いにも難を逃れましたが、宮廷に閉じ込められて強制的にカトリックへと改宗させられました。それでも自由は与えられず、業を煮やしたアンリは強引に幽閉されていた宮廷から脱出して新教派を連れ、カトリックの軍勢と争いを継続しました。フランス国内の情勢は非常に荒れたものとなり、商工業界隈から始まったブルジョワたちの教派分裂は、国を動かす政治家や大貴族にまで及び、もはや国政もままならない状況にまで陥っていました。その乱れを突いてスペインが国政に介入してきたことで、アンリは王権制を正すべく、この両派の争いを収めるために正式にカトリックへと改宗します。これにより国家に反発していたカトリック教徒たちは争いを止め、両派一体となってスペインを打ち破り、アンリはカトリックからも国王として認められました。これに対して一部の新教徒たちは「裏切り」であるとして抗戦の構えを崩さず、カトリックに抵抗を続けていました。アンリは、国教がカトリックとはなったものの、新教派の活動を認めるという「ナントの王令」を出し、活動を制限しながらも信仰の自由と政治的な平等の立場を確保し、新教派たちの怒りを鎮めて長く続いたユグノー戦争を終わらせました。


このアンリ四世は、好色で名を馳せていました。愛人を多く作り、妻マルグリットとの生活はいかにも政略結婚といった内容で、二人の間に子供もいませんでした。一方のマルグリットも、外に情夫を持つような生活で、結婚生活は荒んだものへとなっていきます。アンリは別にガブリエルという想い人がおり、彼女と結婚するためにマルグリットと離婚をしようと企みます。しかしながら、カトリックへと改宗したアンリが離婚をするためには「ローマ教皇にこの結婚が過ちであったと特別に認めてもらう」必要がありました。その企みを知ったマルグリットは、自身のプライドから離婚は絶対に認めないという姿勢を保ち、教皇へ先に根回しをして離婚を認めないように進めます。問題が拗れていくうちにガブリエルが病死し、アンリは離婚を進める表向きの理由が無くなりました。なんとしても離婚をしようと考えたアンリは、トスカーナ大公の姪マリー=ド=メディシスに目を付けて、大公に対して求婚の意を伝えます。フランス国王との縁戚という魅力と、ローマ教皇へ働き掛けやすいという環境から、アンリの思惑は身を結んで、マリーとの結婚が成立しました。


本作『恋の骨折り損』は、国王アンリと王女マルグリットが、離婚の和解交渉のために顔を合わせる場面が財源に使われています。この話し合いは祝祭の合間に行われましたが、マルグリットの要求をまともに聞き入れず、事前に伝えた和解の誓いさえも破り、碌に交渉を進めなかったアンリに批判が向けられ、新旧両派の争いが再燃する寸前にまで及んだと言います。しかし、本作ではシェイクスピアの特異な連想と想像から「滑稽な喜劇」へと変化させられています。アンリが奔放で好色であったという特徴点を存分に押し広げて、ナヴァール国王ファーディナンド(アンリに該当)という登場人物を作り上げました。


ナヴァール王と付き従う三人の貴族は、欲を捨てて学問に専念するという誓いを立てます。三年間のあいだは「女に会うべからず」「一週間に一日は食を断つ」「夜の睡眠は三時間を越えるべからず」といった、守ることが非常に困難な内容でした。デュメーン、ロンガヴィル、ビローンの三人は不安や不満をそれぞれ抱きながら、誓いに基づいた生活を送る必要に迫られます。しかしながら、フランス王女が領土問題に関して話し合いに訪問することを失念していた王は、立てた誓いをすぐさま反故にしなければならない事態に陥ります。会わないわけにはいかない立場である以上、ビローンは会うことを屁理屈によって正当化し、誓いをまるで破らないかのように納得して、王と三人の貴族は城外で、王女と三人の侍女と対面することにしました。すると四人の男は、四人の女と想いが重なることなくそれぞれに一目で恋に落ちます。


自分が恋に溺れるなど想像もしていなかったビローンは、戸惑いながら自分の思いを否定しようとし、そしてそれは叶わず憂鬱に陥りながら物思いに耽ります。恋に煩わされながら庭園を歩いていたビローンは、王が気付かずに近付いてきたため、咄嗟に木に隠れます。すると王は自分の恋の詩を語りながら、恋に落ちた心の独白を始めました。次にロンガヴィルが気付かずに近付いてきたため、王は咄嗟に物陰に隠れます。ロンガヴィルは誓約を破って恋に落ちたことを後悔しながらも、恋の詩を語りながら心の独白を始めます。するとデュメーンが気付かずに近付いてきたため、ロンガヴィルは咄嗟に物陰に隠れます。デュメーンは恋に溺れる思いを吐露しながら、恋の詩を語り始めました。ロンガヴィルは影から姿を現してデュメーンを責めようとしますが、すぐさま王が飛び出して追い打つように二人を責め始めます。するとビローンは悠々と登場し、三人を饒舌に責め立てました。そこにビローンが恋文を届けるように伝えていたコスタードが舞い戻り、ビローンもまた恋に落ちていることが暴かれてしまいます。


男性四人全員が恋に落ちた状況から、この立てた誓いそのものが無理なものであったと王も認めざるを得なくなり、仲違いを止めにして、全員が恋の成就を目指そうと協力する姿勢に変わります。しかし、王女に仕える貴族に企みを嗅ぎつけられ、惚れられた側の王女と侍女たちは徹底的に揶揄おうとまともに相手をしません。仮面仮装や余興劇をもって気を惹こうと試みますが、すべて相手にされず、全員の恋心を否定されてしまいます。そのような場面に使者が王女を訪れ、父親が亡くなったことを告げます。急ぎ帰国しようとする王女たちに対して恋を伝えようとする王たちは、これから先の一年間、本当に先の誓約に述べたような生活を過ごすことができるならは、そのときは受諾しましょうという提案を受けて幕となります。


本作では、誓いを立てたにもかかわらず、男性というのは実に恋に負けてしまうという点を、滑稽な描写に乗せて作中を貫いています。

その必要ってやつのおかげで、三年間に三千回、われわれはみんな誓約を破らねばなりますまい。

第一幕第一場

ビローンが予め予想を立てていたように、恋に一撃で敗れた男性たちは、自分の愚かさを認めることができないばかりか、公然と誓約を破ったことをも認められないといった身勝手な感情から、自分たちを正当化しようとする屁理屈を捻出します。このような行為こそ嘲笑されるべき点ではありますが、こともあろうか読者(観客)に対しては、あれだけ恋を断とうとしていたにも関わらず恋の詩を高らかに謳いあげるという姿も見せられるという恥まで晒してしまいます。そして結局、誓約を破るといった行為が人間としての信用を無くし、その恋を成就させることができないという点は、まさに自業自得と言うべき結果として示されています。


アンリの好色と誓約破りを見事に紡いだ作品ではありますが、他のシェイクスピア作品と比べると、物語の起伏は弱く単調に感じ、登場人物の個性もかろうじてビローンが「らしさ」を持ってはいますが、劇全体で見たときにどうしても魅力が薄く感じてしまいます。実際に、上演史を見ても1640年ごろから約200年間ものあいだは、本作を演じられた形跡がありません。


1665年のペストによる「ロンドンの大疫病」は広く知られていますが、この年に極端に蔓延したということで一つの事件とされているだけで、ペスト自体は1330年ごろから何度も蔓延しており、時代や時期によって被害の度合いが変わっていました。1600年ごろにもやはりペストの流行はあり、ロンドンの政治家や貴族たちは郊外の邸宅へと逃れていました。公設の劇場が蔓延防止策として閉鎖され、劇団員たちは仕事を賄うために貴族たちの私的公演に駆り出されました。本作は、そのような「貴族を相手に作られた演劇」と目されており、韻律の異常な多さや、貴族趣味(滑稽さを帯びた喜劇)を中心に描かれているのは、これが理由であると考えられます。広義のルネサンス的な作品としての位置付けであるため、一般の観客には理解の及ばないことも多く、そのため後年であまり上演されなかったのだと推測できます。


観客である貴族たちは労働から解放された優雅な暮らしから、サロンや舞踏会での「会話的活動」が中心となっていました。その話題にあがるのが「政治」「経済」「芸術」が中心となっており、自然とそれらに精通するようになります。つまり、本作が「貴族の私的公演を目的」として描かれているならば、本作の背景である「アンリ四世」「王妃マルグリット」「ユグノー戦争」「フランス政治へのスペインの介入」「改宗騒動」「離婚騒動」などへの理解の深い観客を相手に創作しなければなりませんでした。そして貴族趣味の言葉遊びや韻律の多さも詰め込んで、一つの演劇へと昇華させたシェイクスピアの手腕は、やはり天才性を帯びていると言わざるを得ません。さらに、本作はシェイクスピアの喜劇作品でありながら、最後に婚姻による大団円を「迎えない」という特異さを持っています。これには、アンリのカトリック改宗という騒動によって、イギリスの反仏感情が関係しています。新教派(プロテスタント)が国教であるイギリスにとって、カトリックへと改宗したアンリには否定的な感情が政治的にも世間的にも広がっていました。イギリスの貴族たちは特に敏感に反応し、サロンなどでも散々に蔑んだと言われています。仮に、本作がシェイクスピアの喜劇作品として婚姻による大団円を迎えるならば、カトリックへ改宗したアンリを救い出すような筋書きとなってしまうため、イギリス貴族を相手とした作品には不適切であると考え、アンリに幸福が訪れない筋書きこそが「観客にとっての喜劇」であるという考えを、シェイクスピアは抱いて終幕を書き上げたのだと考えられます。本作は、シェイクスピアが筋書きを中心に熱を入れたと言うよりは、劇の構成や展開に趣向を凝らしている作品であると言え、背景や情景を把握しながら読む(観る)と、印象が大きく変わります。

 

われわれの結婚申し込みは昔の芝居のようには終わらない、ジャックとジルが結ばれて大団円というぐあいにはな。ご婦人がたがやさしければこの芝居も喜劇になったのにな。

第五幕第二場


他のシェイクスピア作品に比べると冗長に感じる場面は多くありますが、アンリ、マルグリット、ユグノー戦争、改宗騒動などを理解したうえで読むと、スペインへの揶揄や宗教の信仰問題、そして学問への諷刺が散りばめられているという気付きがあり、各所で楽しみが得られる作品となっています。『恋の骨折り損』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『書店主フィクリーのものがたり』ガブリエル・ゼヴィン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

島に一軒だけある小さな書店。偏屈な店主フィクリーは妻を亡くして以来、ずっとひとりで店を営んでいた。ある夜、所蔵していた稀覯本が盗まれてしまい、傷心の日々を過ごすなかで、彼は書店にちいさな子どもが捨てられているのを発見する──本屋大賞に輝いた、すべての本を愛する人に贈る物語。


三十九歳のA・J・フィクリーは、妊娠中の愛妻を交通事故で亡くし、絶望の淵から逃れられないままでいます。彼の営むアリス島唯一の書店「アイランド・ブックス」は観光シーズンの夏場に多少の売上が見込めるばかりで、さほど繁盛はしていません。それでも彼は余生を憂うことなく、ある意味で気ままな運営を行っています。彼の手にはエドガー・アラン・ポオの稀覯本がありました。これを手放すことで大金を得て、余生を過ごそうと考えていました。しかし、ある夜に酔い潰れた彼は、この大切な本を盗まれてしまいます。ひと月の捜索でも何の成果もあがらず、彼は持病の精神病を加速させました。その後日の閉店作業中、彼は驚くべきものを店内で発見します。マヤと名乗る僅か二歳の少女が、母親の書き置きとともに店に残されていました。A・Jは自分に懐くマヤに困惑しながらも、そこに失った我が子を重ねたためか、愛しさが強く湧き起こります。福祉施設へ移そうと考えましたが、この子の将来を考え、何の経験もないまま育児の道へと進んでいきます。


本作では、読書への愛と家族の愛が並走して進められていきます。A・Jは、学生時代にポオを研究していたこともあり、「文学」に関して並々ならぬ拘りを持っています。しかし、この拘りは非常に偏っています。ポストモダン、最終戦争後の世界、死者の独白、マジック・リアリズム、ヤング・アダルト、ゴーストライター、セレブの写真集、スポーツ回想録、ヴァンパイア、などなど、これら全てを好まず(価値ある本として認めない)、そして長篇よりも短篇を好むというもので、そこには自分の趣味嗜好を芸術的に肯定しようという意識さえ感じられます。しかしながら、これも歴とした読書への愛であり、その熱量は読んでいても心地が良いほどです。各章の冒頭にはA・Jがマヤへ向けた作品紹介が添えられており、ここでも彼の作品への愛が感じられます。

そのような全ての愛情を本へと注いでいるような彼も、マヤとともにする生活によって、頑なな考え方も和らいでいきます。失った家族への愛は、やがて自分の新たな家族へと向けられ、その湧き上がる愛がA・J自身をも変えていきます。そして愛すべき家族と「共感」という繋がりを「書籍」という媒介によって持ち、深い愛に包まれた「新たな家族」が構築されます。本へと向けた強い愛情は、その熱量を保ったまま家族へと向かい、彼の人間としての人生を大変豊かなものへと変化させました。


絵画、彫刻、建築、音楽、舞踏、文学、これら芸術は何世紀も前から人間が生み出し、引き継がれてきました。ハイデッガーの語るように、芸術には「真理」が込められています。その真理を発見した芸術家は「詩性」をもって芸術作品へと「樹立」させます。芸術性は実用性ではありません。言い換えれば、芸術作品とそれに該当しない作品は「創作の目的」が違います。鍬や鋤などは、田畑を耕すことを目的として生み出され、実用性に富んでいます。しかし、そこには真理は込められず詩性はありません。新たに建てられた高層マンションは、免震性などが優れており、快適な住居環境を与えてくれます。最先端のデザインが活かされていたとしても、そこに信仰や哲学が込められているわけではなく、やはり詩性はありません。我々の生活は多くの発明により、実用性に溢れた豊かさで覆われています。その実用性には「娯楽」も多く提供されています。観光地や映画、遊園地などのエンターテイメントは毎日のように新しいものが生み出され、人々の生活に潤いを与えてくれています。しかしながら、このような娯楽が与える感動を「詩性と混同」することで、芸術との境界が「曖昧」に認識されていることも事実です。


A・Jは確かに偏屈で一方的な認識ではありますが、このような「娯楽と芸術との誤認」に憤りを感じています。特に文学に関してですが、大衆小説と文芸(芸術における文学)を明確に切り分けようとしています。実際、娯楽を目的とした大衆小説は、その娯楽性を創作の目的としており、真理を詩性で樹立させているわけではないため、起伏の激しい物語が描かれているだけで、受け手の感情を「揺さぶろう」として描かれています。しかし文芸においては、作家が詩性をもって真理を映し出しているため、受け手の感情は湧き上がるように感情を「揺さぶられ」ます。同じ書籍という媒体であるため、実際に読まなければ理解できないということもあり、このような識別の混同は致し方ないとも言えますが、A・Jは読むことによる理解の放棄を好ましく思いません。とは言え、彼もプルーストの『失われた時を求めて』を僅か一巻で挫折しているという側面もあり、自身の感性で強引に結論づけようとしている姿勢も見られます。


そのような性格のA・Jでしたが、マヤの存在と彼らを取り巻く人々との関わりによって意識が変化していきます。愛妻を亡くした悲しみは、マヤの育児による忙しなさと育まれていく互いの愛情によって、ゆっくりと温かいもので癒されていきます。他者を寄せ付けないほどの偏屈さは緩和し、友人たちの歩み寄りに応えていくようになりました。文学に関する認識も、たとえ大衆小説であろうと、その人にとっては大切なものと成り得ることを理解し、自分もまた、好まない作風も読んでみて印象を変えるということを体験します。本とは「文芸」というものが全てではなく、人によってはその人生と経験から「救済」となる作品は様々であることを受け入れました。


日本では、娯楽的な大衆小説が盛んですが、これらを辿ると戦後に行き当たります。敗戦後の日本は「大日本帝国」という絶対的な価値観が崩壊し、瓦礫と焼け野原のなかで茫然と立ち尽くす国民で溢れました。戦時中に与えられた「死は義務である」という恐ろしい犠牲の美徳や、軍国主義に基づく道徳感といった、天皇を絶対的な存在として崇める価値観は、「敗戦」という事実によって雲散霧消します。太宰治織田作之助坂口安吾などの「無頼派」(新戯作派)と呼ばれる作家たちは、虚無に立ち尽くす人々へ向けてひとつの文学運動を試みました。叙情的な描写を控え、心の声を直截的に文章へ込め、崩壊した社会を個人としてどのように生きていくかという姿勢を提示した作品を多く発表します。既存の文学に込められていた思想や哲学といった要素は薄れ、人間の内的感情を前面に押し出しました。これによる読み手の共感は、「苦しんでいるのは自分だけではない」という救済として受け止められ、当時の絶望を経験した人々は、今一度という一心で立ち上がることができました。


絶対的に信じる存在を亡くした絶望感は、人間の虚無と孤独を与えます。A・Jもまた、自らがマヤという存在に救済されたように、あらゆる作品によってあらゆる人々が救済されたということを理解したのだと言えます。そして、その真理は彼が愛妻ニックと共に「アイランド・ブックス」を開店させたときに、既に店先の看板に掲げられていました。

アリス島唯一の優れた文学書籍販売元
人間は孤島にあらず。書物は各々一つの世界なり


芸術は何世紀ものあいだ、戦争や破壊を乗り越えて現代まで受け継がれてきました。そこに込められた「真理」は代え難いものであり、意思を受け継いでいく必要があると思います。しかしながら、そのような芸術に該当しない作品も、人々の救いになるのではないかと考えさせられる作品でした。

 

自分たちに魅力がないから孤立するという事実は、秘めたる恐怖である。しかし孤立するのは、自分たちには魅力がないと思いこんでいるからである。いつか、それがいつとはわからぬが、あなたは道路を車で走っているだろう。そしていつか、それがいつかはわからぬが、彼、あるいはきっと彼女が、その道のどこかに立っているだろう。そしてあなたは愛されるはずだ、なぜなら、生まれてはじめて、あなたはもうひとりぼっちではないのだから。あなたは、ひとりぼっちではない道を選ぶことになったのだから


今後も新たな作品と出会い、読書の時間を大切にしていきたいと思います。ガブリエル・ゼヴィン『書店主フィクリーのものがたり』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『水晶』アーダルベルト・シュティフター 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

短篇集〝石さまざま〟中の1篇。クリスマスの前日、兄と妹はアルプスを越えて祖父母の許へ行き贈物をもらって帰途についた。妹ザンナは黒衣に落ちる一ひらの雪を捉えて大喜び、それが遭難の前触れとも知らずに。


フランス革命より展開したナポレオン・ボナパルトによるヨーロッパ侵略は、ワーテルローの戦いにより終結し、オーストリア外相メッテルニヒが主導となってヨーロッパ諸国は「絶対王政」の姿へと戻っていきました。この1815年に確立したウィーン体制は、ナポレオンによって排除された君主たちを元の地位に据えることが目的でしたが、再び革命が起こらないようにと、フランスではより一層に国民へ強い締め付けを与える政策を打ち出していきます。「選挙権が欲しければ資産を持て」という強硬な抑圧を与え続けられた国民は、生活苦が重なり、絶対王政に対して不満を募らせていきます。その後、国民の不満は王政に対する反対運動へと変化して、1848年の2月に市民が蜂起して王政を否定すべく革命を起こしました。この王政の否定はヨーロッパ諸国へと波及し、翌月にドイツのベルリン三月革命オーストリアのウィーン三月革命ハンガリーでの民族運動、イタリアでのミラノ蜂起など、次々と変革が波及しました。これらのウィーン体制を終わらせた1848年革命は「諸国民の春」と呼ばれ、各国の真の意味での自立へと繋がっていきます。


ドイツ(プロイセン)とオーストリアにおける三月革命では、メッテルニヒの退陣や王政の否定といったものだけでなく、ドイツの統一を目指すという民族主義的な意味合いが含まれていました。メッテルニヒの退陣によって国政における規制は緩和し、思想や哲学は自由主義的な方向へ傾き、集会や出版などは検閲が緩くなっていきます。しかし、ドイツの統一へ向けては、全統一を望む「大ドイツ主義」とオーストリアの合併を望まない「小ドイツ主義」による意見対立が起こり、一年の期間を経て、結果的に統一は失敗に終わりました。これに乗じた保守貴族たちによる反動時代(絶対王政への回帰を望む運動)がすぐさま始まり、大多数の市民は失望し、政治への関心は「諦めの心」によって離れていきます。市民は再び苦しい環境へと追い込まれることを恐れ、少しでも財を築こうと経済へ関心を強め、産業革命を推し進めながら世界的にも認められる技術革新の先端を進むことになりました。


再び抑圧された立場を与えられた市民の間では、文芸の思潮も徐々に変化していきました。革命によって高まった理想主義は影を潜め、目の前の技術革新によって潤った経済のなかで、想像力から科学力を重んじるようになり、その認識によるリアリズムの風潮が強まっていきます。しかし、人間の内面にある抑圧された「感情」はおさまることなく、ある種の懐古的な思想が見え隠れする思潮も併存していました。このような蟠りのある感情による文芸思潮は、技術革新の恩恵である輪転機の普及によって書籍の流通量が増したことで加速し、市民の識字率は向上し、文学というものが貴族層から市民層へと読者を拡大させていきます。


ドイツロマン派が中心となっていた思潮は、リアリズムへの移行と市民層への拡大によって、身近な現実を題材とした「客観的な視点」での作品を生むように変化していきます。日常の出来事や風景、そして口語的な会話で進められるリアリズム文学は、「既成の作り上げられた価値観を見直す」という行為として認められ、新たな読者層である市民たちへ強い共感と新たな目線を与えました。そして作家は次代へと希望を繋ぐように未来ある青年へ「教養的要素」を踏まえて読みやすい作品を生み出します。読者の内面へと訴えかける強い思想は、身近で現実的な物語のなかで信条や信仰を併せて説き、その精神を次代で開花させようとする作家の意思が窺えます。本作の著者アーダルベルト・シュティフター(1805-1868)も、この時代に苦悩し、次代へと思いを馳せた作家の一人です。


彼はボヘミア王国の山村の織物商を営む父親のもとに生まれ、自然の豊かな地で育ち、詩性溢れる感性に導かれるように画家を目指しました。彼は十二歳にして父親を事故で亡くし、苦しい経済状況での生活を与えられますが、その後成長し、経済状況を改善させるために法律を学びながら家庭教師として生計を立てるため、ウィーンへと乗り出します。そこで彼は、田園的な独自の世界を描いた作家ジャン・パウルに心酔し、持ち前の詩性を発揮して短篇『コンドル』を執筆しました。幸いにもこれが文壇に受け入れられ、画家の道から作家の道へと歩みを変化させていきます。本作『水晶』は、その後に発表した「石さまざま」という短篇集に収められている作品で、厳かで美しい大自然を背景として、与えられる試練と忍耐を、強靭で純粋な人間愛が精神を高め、そこに信仰と神的な力が働きかけるという、とても輝かしい理想的な世界が描かれています。彼が込めた思想は、「石さまざま」の序文に書かれています。

 

内的な自然、すなわち人間の心についても事情󠄁はおなじである。ある人の全生涯が、公正、質素、克己、分別、おのが職分における活動、美への嘆賞にみちており、明るい落ちついた生き死にと結びついているとき、わたしはそれを偉大だと思う。心情󠄁の激動、すさまじい怒り、復讐慾、行動をもとめ、くつがえし、變革し、破壊し、熱狂のあまり時としておのが生命を投げだす火のような精神を、わたしはより偉大だとは思わない。むしろ、より小さいものと思う。なぜなら、それらは、嵐や、火山や、地震などとおなじく、それぞれの一面的な力の所產にすぎないからである。われわれは人類のみちびきとなるおだやかな法則をみつけることにつとめたい。

アーダルベルト・シュティフター「石さまざま」序


都市部から遠く離れた山間部の盆地にあるクシャイトという村で、道楽者であった靴職人が隣村ミルスドルフに住む愛しい女性との結婚を認められるため、心を入れ替えて熱心に職に取り組み、名実ともに素晴らしい職人となって結婚が叶いました。数年が経ち、生まれた男子コンラートと妹のスザンナは恵まれた環境で育ち、心清らかに愛し合いながら成長しました。靴職人と舅の関係はどこかよそよそしいものがありましたが、二人の兄妹は双方を愛し、祖父母の待つ隣村まで数時間を掛けて何度も訪問していました。山間部の二つの村は、その距離や文化による違いによって深く関わり合うような様子は無く、「別の地の人々」という他族意識を持っていました。靴職人とその妻は、いわゆる異例の婚姻を成したわけで、この家族そのものが双方の村人から「どこかしら他族的」に感じられており、会話や関わりにおいてもどこか距離を保ったような関係性の状態にありました。

ある年のクリスマス・イヴに、兄妹は普段の如く祖父母のもとへ向かおうとします。晴れ渡る冬の空を見上げて両親は許可を出し、慣れた道のりを二人で歩いていきます。聖夜を前にした訪問は祖母に大きな幸福を与え、歓待したのちに食糧や贈物を持たせて早い時間に帰らせました。時間が早いことを理解していた兄妹は山道を遊びながら歩きます。すると、あれだけ晴れ渡っていた空はすっかり雲で覆われて、しんしんと雪が降り始めます。その美しさに兄妹は喜び、舞う雪と戯れるように歩いていきました。しかし、美しい雪は大自然の脅威へと変化して、少しずつ舞っていた雪は視界を遮るほどの強さで降りだし、やがて山道を全て白で覆ってしまいます。兄妹はあたり一面の白い景色を眺めながら、方角も高低差も分からず、勘のみを頼りに歩き進みます。当然のように道に迷った二人はそれでも歩みを止めず進み続けると、やがて万年雪の地帯へと辿り着き、教会の如く聳え立つ氷の世界へ足を踏み入れます。雪から身を守るため、氷の狭間にできた洞窟へと身を宿し、夜深くなった時間を眠気と闘いながら避難します。妹を襲う睡魔を追い払うように、兄は必死に優しく語り掛け、その注意を会話や景色や希望へと移していきます。そして雪が止み、見上げた満天の星空には、リボン状の幻想的な緑の帯が現れ、兄妹はそこに「イエス・キリスト」を認めました。


舞い降りる雪から豪雪へと変化する自然の脅威は、幼い兄妹の対照となり、より強大な印象を与えるとともに、人間の弱さや脆さを象徴的に表現しています。そして辿り着く堅固な氷の城は、自然が保っている絶対的な強靭さを見せ、恐ろしさを感じさせながらもその強さで兄妹を守るという寛大さをも併せ持っています。これは自然による「絶対的な強さ」とも言えるもので、地球上のひとつの法則であり、これに対して「反抗ではなく順応」しようとする兄の行動に、「自然」の或いは「神」の加護が与えられています。そして、その兄に健気に寄り添って全てを肯定する妹の姿には、人間の弱さと善の心が「信仰的」な行いに映り、自然が呼応するように緑の帯という「オーロラ」を神的に映し出しています。シュティフターは、自然の絶対性と人間の理性を「信仰」というオーロラで繋ぎ、描写こそ幻想的であるものの全てをリアリズムで描き、その理性には緻密さを埋め込んでいます。そして根底に潜ませる理想主義が、自然と人間の「信頼性」という繋がりと、「信仰」という救いを美しく描きだしています。

 

それは綠にかがやき、しずかに、しかも生き生きと、星のあいだを縫って流れた。と見ると、弓形の頂點に、種々の度合でひかっている光の束の群が、王冠の上べりの波形のように立ちのぼって、燃えた。その光は、あたりの空を照らして、あかあかと流れた。また、音もなく火花を散らし、靜かにきらめきながら、ひろい空間をつらぬいた。空中の電光の總量が、前󠄁代未聞の降雪󠄁のために緊張して、このような無言の荘麗な光の大河となって、ほとばしったのであろうか。それとも、それは別のきわめがたい自然界の法則によるのであろうか。


三月革命から失望までを過ごしたシュティフターは、その後に産業革命による経済成長へと舵を切った「社会や民衆」に対して警句を発しています。人口の都市集中化や工業の拡大と発展は、謂わば「自然から離れようとする行為」であり、自然と人間の信頼関係の放棄とも言える行いでした。自然からの恩恵やその強大な存在は、共存により信頼を得て「信仰」として繋がることこそ「人間の幸福」へと繋がるという表現で、当時の産業発展に熱を入れた民衆へ批判を与えています。


シュティフターが思い描いた理想郷は、実際としては実現は困難かもしれませんが、そこに見られる自然と信仰への姿勢は、現代にも通ずる精神的な教養を含んでいるように感じられます。聖夜の奇跡を映し出す本作『水晶』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『嵐が丘』エミリー・ブロンテ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

寒風吹きすさぶヨークシャーにそびえる〈嵐が丘〉の屋敷。その主人に拾われたヒースクリフは、屋敷の娘キャサリンに焦がれながら、若主人の虐待を耐え忍んできた。そんな彼にもたらされたキャサリンの結婚話。絶望に打ちひしがれて屋敷を去ったヒースクリフは、やがて莫大な富を得、復讐に燃えて戻ってきた……。一世紀半にわたって世界の女性を虜にした恋愛小説の〝新世紀決定版〟。


イングランド北部ヨークシャーで村の牧師を務める父親のもとに、エミリー・ブロンテ(1918-1948)は生まれました。僅か三歳にして母親を病で亡くし、厳粛な叔母によって育てられました。残された三人の姉と兄、そして妹の四人と父親は西部のランカシャーへと移り住み、キリスト教を基盤としたカウアン・ブリッジに寄宿して学ぶことになりました。産業革命によって激しく国が変化し、とくに工業の発展が民衆に影響していました。働き方が変わり、農業は縮小を始めるなか、思想は福音主義とカルヴィニズムが入り混じり、世の中は時代の変化を体現していました。カウアン・ブリッジもまた規律を正そうとする色が強く、生徒は非常に厳しい管理体制のもとで過ごしていました。しかしながら、生徒に与える心的信仰の脅迫とは裏腹に、衛生面や食事は酷いもので、当時に流行したチフスが校内に蔓延するという有り様でした。そして姉二人がこの病で亡くなり、エミリーの姉シャーロットは校内の実態を父親に進言し、学校から身を引くことを提案します。そして、自宅であるハワース牧師館へと居を移し、独学で姉妹で協力しながら勉学に励みます。時間の融通と環境が改善されたことで、彼女たちは勉学だけでなく、文学に触れ、自らでも詩作を行い、その文才を育てていきます。


育ての親である叔母は非常に信心深い人で、福音主義を全面に打ち出すような人間でしたが、エミリーはこの叔母の思想に共感することはできず、独自の宗教的信念を築き上げていきます。どこか自分の殻に閉じ籠るような様子で、社交性は見られず、家族以外とはろくに話もしませんでした。代わりに動物をこよなく愛し、何かと話し掛けるような性格でしたが、心が穏やかというわけではなく、一度拒否をすると絶対に心を曲げないという頑なさを持ち合わせていました。また、独自の信念を持つことによって、教会の礼拝には参加せず、自らの信仰を保ち続けていました。


このころ、姉妹たちは独自の世界を詩のなかで生み出して、それらを紡ぐことで楽しみを見出していました。父親が十二体の木製兵士を息子ブランウェルに送ったとき、この楽しみは始まりました。はじめは姉シャーロット、兄ブランウェル、エミリー、妹アンの四人で「アングリア」という世界を共有していましたが、やがて詩作のなかで仲違いが始まり、エミリーとアンは別の「ゴンダル」という世界を築きます。この詩篇はエミリーとアンの文才を育むとともに、その特性を色濃く表していました。とくにエミリーの詩篇は重く陰鬱な色を放ち、しかし独自の信仰性が表現されて、独特の文才を見せています。詩篇全体には、厭世主義から克己主義へと遷移し、遂には独自の神を見出すという魂の物語が描かれ、エミリーの精神を映し出したような世界が広がっています。この魂に対する価値観が、彼女の文才の核であると感じられます。


三姉妹は蓄えが多くあったわけではありませんので、何らかで生計を立てる必要がありました。語学を身に付けて家庭教師となり、各地へ働きに向かい、その後は私塾を開いて運営しようと試みました。しかし生徒を集めることはできず、教師として生計を立てることは困難になっていきます。そこで彼女たちは、恵まれた自らの詩才を信じて「作家」として生きることを目指しました。何百と生んだ詩篇を糧として、自分たちが培った文才を用い、創造力を存分に発揮してそれぞれが小説を書き上げました。姉シャーロットは『プロフェッサー』を、妹アンは『アグネス・グレイ』を、そしてエミリーは本作『嵐が丘』を、出版社へ届けて後者二作品に良い返事をもらうことに成功しました。出版を認められなかったシャーロットは、悔しさを励みにして自伝的要素を含めた『ジェーン・エア』を執筆すると、出版社は称賛して直ちに発表されて、広く世間に認められました。


それとは対照的に、本作『嵐が丘』は困惑と不評で世間に受け止められました。構成の複雑さ、語り手の変化、時代の往復、描写の残酷さなど、読者たちは辛辣な意見を多く寄せました。物語を覆う陰鬱な空気は、主題である愛憎劇という特質から致し方ないものですが、中心人物のヒースクリフの残忍性や、登場人物たちの言葉や態度の悪さ、そしてそれぞれの持つ強いエゴイズムの心に、当時の読者は激しい嫌悪感を抱いたようでした。


産業革命によってイングランドは、国内外に大きな変化を及ぼしました。発明を諸外国へと展開したイングランドは莫大な資本を手にすると、大西洋を渡って植民地を獲得し、国内では中流階級が産業の発展に合わせて力をつけていきます。大西洋横断奴隷貿易も活発化し、これによって労働者階級との格差がさらに広がり、低所得層はそこから抜け出すことができなくなりました。また、中流階級の人々は貴族的な性質に憧れ、家父長制を各家庭で強め、女性の自立はより困難なものとなっていきました。そして、このような世の動きのため、伝統的な農業を粗野のものと見做し、過去の文化を打倒しようとする風潮が、社会格差をより一層に広げることになりました。本作ではこのような社会の片田舎、荒野が広がる土地に建つ二つの地主貴族の、三代にわたる愛憎劇が描かれます。


1801年の晩冬に、語り手のロックウッドが荒野の「鶫が辻」という屋敷を借りて住まうことになりました。家主ヒースクリフが住まう四マイルほど離れたもう一つの「嵐が丘」へ訪れると、空気の悪い家族の雰囲気のなかで非情な冷遇を受けます。自分の屋敷へ戻り、昔からこの両家で勤めているという家政婦のネリー・ディーンに事情を話すと、これまでに繰り広げられた両家での悲劇を、ネリーの「主観」を交えて語り始めました。本作は、概ねがネリーによる回想録で構成されています。ネリーは少女のころ、嵐が丘の家主アーンショー氏に仕えていました。息子ヒンドリー、娘キャサリンと、召使という立場以上の関わりで、友人のようにともに遊び回る仲でした。ある日、アーンショー氏が出張から帰ると肌の黒い少年を連れていました。ヒースクリフと呼ばれた少年をアーンショー氏は「我が子同様に大切に」扱うようにと屋敷の者へ通達します。ヒンドリーは酷く嫌っていましたが、キャサリンはすぐに打ち解けて、二人でよく遊ぶようになります。アーンショー氏は妻を病で亡くすと、一層にヒースクリフのみを可愛がり、ヒンドリーは苛立ちを募らせてヒースクリフに残酷な態度を取り続けるようになります。これを見てアーンショー氏はヒンドリーを屋敷から離すため、強制的に大学へと向かわせました。


三年後にアーンショー氏が亡くなると、ヒンドリーは嵐が丘の一切を相続するため、妻フランシスを連れて屋敷に帰ってきました。ヒンドリーはヒースクリフへ復讐しようと、彼の立場を家人から作男へと落とし、労働者として酷い扱いを与えます。しかし、それでもキャサリンヒースクリフとの親睦を深め続け、密かにともに行動していました。ある夜、彼らは近くの鶫が辻へと向かい、冒険心から中の様子を窺っていました。するとキャサリンは番犬に噛まれ、家主に見つかって介抱され、治療のために鶫が辻へ滞在することになりました。肌も黒く、労働者然としたヒースクリフは鶫が辻の家主から脅すように追い出され、結果的に五週間ものあいだを離れて暮らすことになります。完治したキャサリン嵐が丘へと帰ってくると、鶫が辻の家主リントンの息子であるエドガーと恋仲のようになっており、ヒースクリフとの関係は複雑なものとなりました。ヒンドリーはアルコールと賭博によって生活が破綻し、ヒースクリフに当たり散らすなか、キャサリンは階級社会に則るようにエドガーと婚約してしまいました。環境に耐えられなくなったヒースクリフは、突如、嵐が丘から姿を消して失踪してしまいます。それから三年の時が経って、ヒースクリフは莫大な富、屈強な肉体、そして揺るがない「復讐心」を携えて嵐が丘へと舞い戻りました。ここから、ヒースクリフによる激しい復讐を伴う愛憎劇が始まります。


作中で描かれる「超自然の現象」は、ゴシック様式の文学性を帯びています。しかしながら、なかに込められる精神にはその様式を凌駕するエミリー独自の「キリスト教的ではない」信仰に満たされ、彼女が信ずる魂の在り方、そして死生観によって、物語の主題を支えています。ヒースクリフとキャサリンは精神が共鳴し合い、同じ「ひとつの魂」を分け合っていました。生まれも、育ちも、性格も、肌の色も、境遇も、全てが無関係に思われるほど魂は同化して、互いが自分の存在であるという認識にまで愛し合っていました。この恋愛を超えた人間としての愛は、周囲の策略とすれ違いで誤解され、互いに結びつくことのないまま離れることになりました。そしてキャサリンエドガーとの子を産んだことで死に、ヒースクリフに絶望を残します。ヒンドリーやエドガーなど、両家そのものを憎み、その全てを蹂躙しようとした復讐は、ヒースクリフ自身の精神を蝕みながら彼の言動を悪辣なものへと育て上げました。狂人とも感じられるヒースクリフの行動は、すべての人々へ嫌悪感を与えます。


しかし、目指した復讐が成就し、最後の血縁に不幸を与えるのみという場面になって、ヒースクリフに突然の変化が現れます。両家に対する復讐や、その子孫に対する関心は薄れ、常に上機嫌な感情を維持し続ける興奮状態に陥ります。目は幸福に輝き、溢れる豊かな気持ちを抑えきれないという様子です。食事は全く取らず、そして眠らず、特定の部屋に籠りながら笑顔を絶やさずに独り言を呟く様子に、ネリーは不安に駆られます。この場面の描写や台詞には、主題となる「魂の愛」が描かれています。物語冒頭でロックウッドが真夜中に出会ったキャサリンを、ヒースクリフは渇望していました。

キャシー、さあ、こっちだよ。ああ、お願いだ──せめてもう一度!ああ、わが心の愛しい人、こんどこそ聞き届けておくれ──キャサリン、今日こそは!

長いあいだ彼女に出会うことの叶わなかったヒースクリフは、物語の終盤で出会うことができたのではないかと考えられます。この極端なヒースクリフの変貌は、キャサリンに願いを聞き遂げられたことによるものと推測できます。両家の子孫が惹かれ合う姿に、過去に引き裂かれたキャサリンヒースクリフ自身を重ね合わせたのではないかと見ることができます。そして、憎悪していた子孫の幸福のかたちをヒースクリフが受け入れるということが、キャサリンが強く望んでいたことであり、それが叶ったことで姿を現したのだと考えると、非常に美しい魂の愛物語が映し出されます。

生けるものも死ぬものも、なにかを目にすれば、ある普遍概念に結びついてしまうんだ、無理に気をそらさないかぎり……望むことはただひとつだ。俺はそれをつかみたいと、全身全霊で切に願っている。あまりに長いこと一筋に焦がれてきたから、じきに手が届く気がするんだよ。それも、まもなくのはずだ。それほどに俺という人間は、そこに首まではまりきっている──願いがなかう予感に飲みこまれているんだ。


ヒースクリフの悪辣な行動や思考は、ロックウッドも実際に目の当たりにしてはいますが、ごく僅かです。気難しく口の悪い田舎地主という程度で、悪の化身というものではありません。しかし、ロックウッドにしても読者にしても、ヒースクリフは悪の権化ではないかと感じる印象を読み進めるほどに与えられます。これには、召使ネリーの存在が大きく関わっています。ネリーは幼少期からヒンドリーを良く知り、ヒースクリフを心良く思っていませんでした。このようなネリーの主観によって眺められた情景や事実が、彼女が抱いた感情を含めて語られることで偏向的に描写されるため、ロックウッドや読者に与える印象はより一層に激しいものとなっており、ヒースクリフを「悪者」として強く訴えています。だからこそ、ヒースクリフの変貌が不気味であるように語られ、キャサリンヒースクリフの「魂の愛」が雲で覆われるように伝わり難くなっています。この複雑な表現は、福音主義が隆盛し、家父長制への回帰が蔓延していた世の中に発表するための「覆い」としてエミリーが仕組んだものだと感じられます。独自の魂の在り方と死生観を全面的に肯定するわけではなく、ひとつの物語として、そしてヒースクリフの心情の奥底に潜めて描いたのだとすれば、そこにはとても奥深いエミリーの詩性を感じることができます。

 

嵐が丘』は『ジェーン・エア』よりも理解が困難な作品である。なぜなら、エミリーはシャーロットよりも偉大な詩人であったからだ。……彼女は巨大で無秩序に裂けた世界を眺め、それを一冊の本にまとめるという力を自分のなかに感じた。その巨大な野心は小説全体を通して受け取ることができる……人間性の幻影の根底にあるこの力の暗示と、それを偉大さの存在へと引き上げる力こそが、この作品を他の小説のなかよりも大きな地位に押し上げているのだ。

ヴァージニア・ウルフ「The Common Reader」


エミリーは秘密主義者であったという見方も残っています。自身が社会に対して違和感を感じ、独自の信仰と魂の在り方をどのように肯定するべきか、そしてどのように世に訴えるべきか、それを考えた末に生まれた作品が本作『嵐が丘』であったのだと思います。時代や場面が複雑に変化して、確かに読み進めることは容易でないかもしれませんが、それ以上に惹きつける熱量が全篇にわたって込められています。独特の読後感から、何かしらの感動が必ず押し寄せてくる作品です。エミリー・ブロンテ嵐が丘』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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