RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『地獄の季節』アルチュール・ランボオ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

16歳にして第一級の詩をうみだし、数年のうちに他の文学者の一生にも比すべき文学的燃焼をなしとげて彗星のごとく消え去った詩人ランボオヴェルレーヌが「非凡な心理的自伝」と評した散文詩『地獄の季節』は彼が文学にたたきつけた絶縁状であり、若き天才の圧縮された文学的生涯のすべてがここに結晶している。

 

1868年に悪政を轟かしていたスペイン女王イザベラに対抗すべく、政府は軍事クーデターを起こしてフランスへ亡命させるに至ります。空位となったスペイン王座を利用しようと、プロイセン首相のビスマルクは自国のポルトガル王家血縁者を推薦し、傀儡政権を成立させようと企みます。スペインとプロイセンの密な繋がりはフランスにとって脅威となる恐れがあったため、ナポレオン三世はこの推薦を阻まんとプロイセン王ヴィルヘルムに撤回を求めました。このとき、大使を送って会談を行いましたが、ビスマルクは撤回要求を悪意に満ちた誇張をして、ヴィルヘルム王へナポレオン三世が脅迫をしたかのような伝文を周辺諸国へ送り付けます(エムス電報)。この挑発と国内の反プロイセン感情が合わさり、ナポレオン三世は宣戦布告して普仏戦争が始まります。軍備を整えた四十万人のフランス軍勢は恐れもなく乗り込んで行きましたが、プロイセン側には南北ドイツが加わった百二十万人もの軍勢が待ち構えていました。十ヶ月の奮闘も虚しく、ナポレオン三世は白旗を掲げます。


ロレーヌ地方の一部と五十億フランを譲渡するという大損害を受けたフランスに、プロイセン軍は入城してパリの街を闊歩します。飲食店は無償で喰らい尽くされ、邸宅に蔓延って住人を召使のように扱い、女性を娼婦の如く呼び寄せます。フランス国民の怒りは募り、遂に命懸けの抵抗を始めます。集団となった対抗組織は止めどない求心力を持って、パリを中心に国政を脅かすほどの団体となりました。労働者政権として拡大したこの組織は、その意思表示として軒先へ黒旗を掲げ、パリ=コミューンと名乗って全面的対抗組織として活動を始めます。この政権の大統領として任命された革命家のルイ・オーギュスト・ブランキは、権力と人権の保護を訴えてコミューン内から支持を受けていました。彼が目指す革命的共産主義は、組織から国土全体へ広まり、新政府としての求心力をさらに強めていきます。しかし、プロイセンビスマルクはこの組織を放置することなく、圧倒的な軍事力で抑圧に乗り出します。コミューンの拠点がパリにあることから四方を塞いで孤立させ、炙り出すように武力で攻め寄ります。逃げ道を無くしたコミューン兵士たちはパリの街路へ火炎瓶を投げ入れて抵抗するものの、約一週間を掛けて戦力を削がれ、ペール=ラシェーズ墓地へ追い込まれて全滅に至ります(血の週間)。これによって四万人以上のコミューン参加者が逮捕され、三百七十人が死刑、四百人以上が強制労働を与えられました。


アルチュール・ランボオ(1854-1891)は、陸軍大尉の家庭に生を受けました。裕福な環境と敬虔で信心深い母の元で健やかに過ごします。勉学で優秀な成績を収めた彼は、シャルルヴィル高等中学校へと進み、修辞学教授ジョルジュ・イザンバールと出会います。彼は革命思想の持ち主で、ランボオも思考を刺激され、詩作に触れながら影響を受けていきます。自らも詩作に没頭すると、イザンバールにシャルル・ボードレールと並ぶ高踏派詩人テオドール・ド・バンヴィル詩篇を送ってみるように助言されます。こうして、僅か十五歳にして第一級の詩篇を生み出す詩人が誕生しました。


ランボオはその年、1870年のパリ、つまり普仏戦争真っ只中のパリへ家出同然で駆けつけます。動乱の空気を直接吸い込んで、血や煙を目の当たりにしました。程なく彼は無賃乗車の罪でシャルルヴィルへ送り返されますが、その後も家出を繰り返します。フランスだけでなくベルギーにまで足を伸ばす傍らで、戦地に纏わる詩篇を幾つも生み出しました。目に映る戦地の光景、戦争が与える不幸、絶望に蹲る民衆、貧困による諍い、希望を無くした虚な目が、彼の心を支配していきます。やがて個を客観的に捉える目、地獄のような世界に佇む個を見つめる目を手に入れます。数度目のパリへ向かう際に携えた『酔いどれ船』には、パリ・コミューンの運命を題材にしていながら、人生の達観を含んだ凡そ十代にして創り上げだとは思えない詩篇でした。そして、その詩篇を手に取って感銘を受けたのが詩人ポール・ヴェルレーヌです。

しかはあれども、われはあまりに哭きたり。
あけぼのはなやまし、
月かげはすべていとはし、日はすべてにがし、
切なる戀に醉ひしれてわれは泣くなり、
龍骨よ、千々に碎けよ、われは海に死なむ。

『醉ひどれ船』上田敏


ヴェルレーヌは詩の韻律を巧みに用いて、音楽的に流れる美しい詩篇を作ることが特徴的で、十九世紀後半を代表する作曲家クロード・ドビュッシーなどにまで影響を与えたフランス詩史における重要人物の一人です。ランボオの才は瞬間的にヴェルレーヌに認められて、詩作の成長と後押しを目的として共に行動するようになります。やがて、彼らの関係性は信頼から愛情へと変化して、公私共に互いに離れない生活を送ります。二人は居住地をパリから転々と移動させて暮らしました。そしてベルギーにまで辿り着いたとき、ランボオはパリへ帰還したいとヴェルレーヌへ打ち明けます。構築した幸福な二人だけの世界の崩壊を突き付けられたヴェルレーヌは、絶望と怒りに身を任せて拳銃をランボオに向けます。それでも自らの意志を唱えるランボオに、正気を失ったヴェルレーヌは発砲してしまいます。こうして終えた二人の甘い閨房生活は、苦い絶縁で幕を閉じました。その期間に生まれた詩作品が本作『地獄の季節』です。1873年にこの詩篇をまとめ終えたランボオは、手掛けていた作品や世に出した作品を全て暖炉で燃やしてしまい、一切の文学を捨て去ってしまいます。育てられた詩才にヴェルレーヌの影が強く見えていたからかもしれません。


英語を学ぶためにイギリスへ向かうと、そこから放浪の旅が始まります。イタリア、オランダ、オーストリア、文学を捨てた彼は何かを探すように諸国をまわり、各地の芸術や社会を眺めます。それでも彼の芸術家として、もとい個の根源としての心が満たされないまま時だけが過ぎていきます。この数年間は語学の習得に専念します。学ぶために軍への入隊さえ志願します。目的があるかのように必死に学び、各地の文化を吸収していきます。1880年キプロス島へ渡ると、幸運な出会いから貿易を生業とする商社に新事業要員として雇用されます。アラビア半島の南端にある港湾都市アデンにてキャラバンと共に交易を行う仕事でした。そこから時を経て、海を渡り、砂漠を越えて、企業が倒れ、新たな商取引を始め、続く半生を貿易商として暮らしました。

ランボオが文学を捨てたあと、ヴェルレーヌがフランスで発表した『呪われた詩人たち』によって、結核により早逝したトリスタン・コルビエール、語法を無視した難解な詩作で知られるステファヌ・マラルメ、などと名を連ねてランボオが書かれて国内で賞賛されました。そして、後世にまで名を残して詩人たちに影響を与え続けています。


『地獄の季節』では、景色を彩る樹々や土、砂、風、空、星などが、血煙と硝煙に包まれているような、息苦しく烟った空気のなかを歩くような、陰惨な印象の言葉をもって綴られています。目に映る全てが暗く、手に取るものが全て腐敗して、聴こえるものが全て嫌悪を齎す、苦しみの世界です。彼の身の回りを包む世界はそのように息苦しく、生きる希望さえも削がれる景色に感じられました。そして、取り巻く社会に対する諦めの達観とも言える人生の総括を十代にして吐き出してしまうのです。しかし、僅かに残った希望は、自らが自らに救済を求める姿勢のように、どこかに違う世界はないかと探し求めます。家族、親族、友人、そして愛するもの、全てを得ても満たされない違う世界を望む意思は、自分を含めた世界を客観視します。そして柵や制限の無い真の自由を求めて意識を詩作に傾け続けました。パリ・コミューンが目指した「自由と友愛」と、自身の達観した社会を混ぜ合わせた詩篇は、苦悩と無情に包まれています。

頌歌はない、ただ手に入れた地歩を守る事だ。辛い夜だ。乾いた血は、俺の面上に煙る、このいやらしい小さな木の外、俺の背後には何物もない。……霊の戦も人間の戦のようにむごたらしい、だが正義の夢はただ『神』の喜びだ。


ランボオが文学を捨てたのちに多言語を学んで貿易商となって多くの国々と接点を持ったことは、文学の深みに意識を潜らせて燻った意識を世界へ解放するために行ったことであると捉えることができます。世界に対して、諦めの達観から世界への飛翔へと移行させた意識の変化は、「自由と友愛」を求め続けた結果であるとも言えます。


本作『地獄の季節』には、ランボオの意識の片鱗が幾つも散りばめられています。悲観的で否定的な文面の中には、自身への救済を望む声が潜んでいます。彼の意識を感じることができる作品、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『アンセム』アイン・ランド 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

米国議会図書館の調査で「聖書に次いでアメリカ人に最も影響を与えた本」とされた『肩をすくめるアトラス』の著者アイン・ランドによるディストピア短編小説。集団・平等主義が極限まで推し進められた結果、「私(I)」という概念が排除され「われら(we)」に置き換わってしまった遠い未来。主人公は自由を取り戻す闘いに立ち上がる。


ロシア帝国最終皇帝のニコライ二世政権下で領土拡大を目的とした南下政策が行われました。朝鮮半島から満州までの広範囲を目的とした進軍は、同様に進軍政策を進めていた大日本帝国との衝突を生みます。互いに武力行使が激しくなり、1904年に日露戦争が勃発します。ロシア側は次第に劣勢となり、各戦地で敗北を喫し、苦しい状況へ追い込まれました。軍需や食糧をさらに追加しようと試みますが、その影響で都市部の民衆は貧困と強制労働に苦しめられ、帝政に対する不満が募っていきます。それを嘆いた聖職者であるガポン司祭が、民衆への憂いと帝政への怒りを動力源としてペテルブルクで労働運動を起こします。皇帝、官僚、貴族たちに非があるという訴えは、十万人の集団へと膨らんで巨大な請願行進となりました。あくまで平和的な訴えであるとして一切の武装をせず(軍需に回されたことも理由)、各所を帝政へ強く訴えながら練り歩きます。これを制止するため軍は武装して対抗しますが行進の勢いは止まらず、武力行使を行い、街路は血と死者で溢れました。この事件が「血の日曜日」と言われるものです。国を内外から崩されたロシアは立ち行かなくなり、遂にはアメリカが仲裁に入る形で日露戦争を収束し、朝鮮半島樺太の一部権益を日本に譲ることになりました。

国益を大きく減少されたロシアは国内での復興に励みますが、当然のように大衆からの支持を得ることは困難でした。立て直す見通しがつかないまま、第一次世界大戦争へと雪崩れ込んでいきます。ドイツ、オーストリアの猛攻を直接受けたロシアは軍の抵抗も虚しく各戦地を占領されてしまいます。そして食糧や燃料を軍需に回され、民衆は生きることが困難なほどに経済が悪化します。この苦悩は戦争に反対する意識を高め、帝政批判へと繋がります。武器を手に取った民衆は、帝政を批判的に見る兵士たちと結託して武装デモを各地で起こします。このようにして1917年に始まったロシア二月革命により、帝政は追い詰められて皇帝ニコライ二世は退位します。成り代わった臨時政府の主導者として社会革命党(エス=エル)アレクサンドル・ケレンスキーが就くと、戦争は終わるかに思われました。しかしながら、連合国との国際関係を重視したケレンスキーは、民衆が革命に求めた「戦争の即時講和(戦争中止)」の意に反して、戦争の参加を継続させました。怒りを露わにした民衆と兵士たちは、今度は臨時政府に対して抗議デモを行います。このデモの主導者がウラジーミル・レーニンでした。武装弾圧で対抗した臨時政府は「七月暴動」と言われるこの反旗を押さえ込み、レーニンを筆頭とした活動家たちを亡命に追いやります。しかし、その後すぐに今度は軍内部から反乱が爆発して臨時政府を脅かします。ロシアに戻ったレーニン武装蜂起した民衆と兵士たちを引き連れて再び息を吹き返し、臨時政府を占拠して新たな革命を起こします。これが十月革命です。ブルジョワ共和制(臨時政府)から幾つかの共和国の結集を経て、1922年にソビエト社会主義共和国連邦が成立します。レーニンは国内の経済復興と国際社会での貢献を目指して、生産力向上を目的とした自由的な市場経済活性化を図るNEP(新経済政策)を進めました。しかしレーニンの死後に権力を握ったスターリンはこの自由経済を全面的に否定して、社会主義経済を建設し、民衆を貧困と労苦に落とし込んでいきます。


アイン・ランド(1905-1982)は、日露戦争からスターリン主導政権までを、生を受けてから二十年間でその身に体感します。ランドは中産階級ユダヤ人薬剤師の子として生まれ、帝政の恩恵を受けていました。しかし帝政の崩壊に伴い、経営する薬局はボリシェビキレーニン派)独裁によって取り上げられ強制転居をさせられます。臨時政府に匿われる形でクリミアへと内戦から避難しましたが、革命後にサンクトペテルブルクへと戻りました。女性解放の情勢に合わせる形で大学へと入学すると、ランドは思想と哲学の造詣を深めていきます。アリストテレスプラトンフリードリヒ・ニーチェの著作に影響を受けて、自身でも頭の中で哲学を構築していきます。


彼女の中で形成された考えは、やがて一つの思想を作り上げます。1943年に発表した思想小説『水源』で、全面的に表現を試みました。十社以上で出版され七百万部を超えるベストセラーとなった作品には、オブジェクティビズム(客観主義)が表現されて、強固な個人主義者は集団主義社会を凌駕するという訴えが込められています。

オブジェクティビズムの根本は、「絶対的な理性を持って、現実を受け入れ、私欲を見定めて自由を勝ち得る」と言え、自身の行動、自身の価値観、自身の目標を見定める必要があると唱えています。この考えは神への信仰、因習への狂信を否定しています。人間は何かに仕えるために存在しているのではなく、「個」としての尊重を自らで行い、道徳に基づく私欲を満たすために存在すべきであるという主張です。言い換えると「I love you.」を理解してそれを求めるには、「I」(わたし)を主体的に捉えて理解する必要があるという考えです。神の否定は現実の肯定であると言えます。超常的な存在に願いを伝えても叶うわけではありません。願いは自身の私欲として現実に存在し、叶えるために必要な事実を受け入れて、求めるために道徳に基づいて行動しなければなりません。この考えを満たす経済社会は、国家あるいは宗教から分離された「個にとって帰属先のない自由」な環境が必要です。これをランドは「自由放任資本主義」と提唱しています。利益や財産が国家や宗教に帰属せず、自身の私欲を満たすためにあることが可能な社会が、個の人間存在を尊重する環境となり得ると説いています。


ランドは二十一歳で社会主義経済から逃れるように渡米すると、雑多な職を掛け持ちながらも、幸いハリウッドでシナリオライターとして採用されることになりました。また、当時はシナリオと並走する形で作品の執筆にも取り組んでいました。二十六歳で米国市民権取得すると本格的に作品の執筆に取り掛かります。オブジェクティビズムの思想を込めた作品『水源』のプロット構築を綿密に行うものの、困難な作業の中で行き詰まりを感じます。思い悩みながら過ごすなかで手に取った「サタデー・イヴニング・ポスト」に掲載された近未来小説を読んで、サイエンス・フィクションが文芸作品として評価されることを理解しました。そこで、ロシア時代に構想していた戯曲を小説へと作り上げた作品が本作『アンセム』です。

アメリカでは1933年から世界恐慌脱却を目指すニューディール政策が進み、自由主義経済に国家が市場経済に介入するようになっていました。銀行が支配力を持っていた金銀と紙幣の交換制度を廃止して国家に帰属させると、過剰な農作物を海外へ捌いて利益を得る行為を制御し、商工業企業の生産と就労を国家が管理するという、「自由放任資本主義」と真逆な社会が広がっていました。当然のように出版社は難色を示して、思い通りの作品出版には至りませんでした。第二次世界大戦争が終結し、自由主義や解放運動がアメリカ国内で盛んになったことで、ようやく本作が大衆に受け入れられるようになりました。


集団主義、平等主義が突き詰められ、文化レベルが衰退した未来。「わたし」や「あなた」の主体的概念が消滅して「われら」や「諸君」が心身ともに浸透している世界で、「個」を抱いた主人公「平等七-二五二一」が社会から隠れて密かに書き記す独白のように進む物語です。名前が消滅して国家の管理番号のみで呼び交わされ、生涯を命じられた職業から離れることなく、性行為は生産計画に則った交配作業でしかない、毎日のスケジュールを国家の指示に従う生活を、国民は何ら疑いや不満を持つことなく暮らしています。利益を多く望むことは罪であり、他者へ特別な感情を持つことは罪であり、国家に疑いを持つことは罪であり、失われた過去を探ることは罪であり、〈地図に描かれざる森〉に足を踏み入れることは罪であり、国家の指示に従わないことは罪である。全てが管理された社会は利益を均等に分配し、平等による幸福を与えられるという考えのもとで正当化されています。「個」を抱いた「平等七-二五二一」は、自身の気付きを平等社会の貢献に活かそうと試みます。しかし他者との相違や環境の変化は、統制社会が認めません。「個」の制御は、思想、哲学、芸術、開発、経済、福祉、あらゆるものの発展を妨げます。ランドは人間の根源的な原動力として「私欲」を提示します。より良い人生を神に祈るのではなく、「私欲」を理解して道徳的に見定め、現在を生きる自身のために「私欲」を満たす努力をすることが、より良い人生に近づくと訴えています。そして、自己は権力者に都合よく作られた社会に屈することなく、意思を貫き保つことができると作品で描いています。「アンセム」(anthem)とは「神的存在への賛歌」という意味です。神への、あるいは国家への絶対的存在に向けた賛歌として語られた本作は、集団主義を徹底的に批判したものと言えます。そして描かれている大衆に含まれるコンフォーミズム(絶対的なものへの順応性)は、ロシアの辿ったスターリンによる強制社会主義を批判していると考えられます。

人間にとって命とは、兄弟全員のために被る労苦にしか存在しない。だが兄弟たちのための労苦に服していたとき、われらは生きてなどいなかった。ただ消耗しているだけだった。人間にとって喜びとは、兄弟全員と共有する喜びの他に存在しない。だがわれらに喜びを教えたのは、われらが創り出した針金を通る力と、〈金色の人〉だけだ。どちらの喜びも、われらだけに属している。どちらの喜びも、われらだけに由来する。兄弟たちとは何の関係もない。兄弟たちは何の関心もない。だから、わからなくなる。


人間の存在、自己の意味、人生の目的、これらをオブジェクティビズムによって強烈に描かれた本作は、読後に本当の「私欲」を見出すことの大切さを教えてくれます。非常に読みやすい作品となっていますので、未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

 

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『アルケミスト』パウロ・コエーリョ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

羊飼いの少年サンチャゴは、アンダルシアの平原からエジプトのピラミッドに向けて旅に出た。そこに、彼を待つ宝物が隠されているという夢を信じて。長い時間を共に過ごした羊たちを売り、アフリカの砂漠を越えて少年はピラミッドを目指す。「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」「前兆に従うこと」少年は錬金術師の導きと旅のさまざまな出会いと別れのなかで、人生の知恵を学んで行く。


二十世紀初頭のブラジルではサトウキビ、コーヒーを中心とした農業大国でした。しかし、その恩恵は国内全土には広まらず、商業や工業に携わる民衆は貧困に苦しんでいました。民衆間の格差は対立へと変化して、政権対立にまで及びます。1930年にジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは労働者の保護と資源の国有化を掲げて大統領選に臨みますが、敢えなく敗北します。ところが、彼は当時の政治腐敗と選挙不正を指摘して軍事クーデターを起こして政権を奪取します。独裁的中央集権の政府でしたが、国民を保護するという公約に民衆の支持を得ていました。第二次世界大戦争時には連合国側に参加してアメリカとの関係性を深めます。このポピュリズム改革は好調に見えましたが、1954年にヴァルガスが任期中に自殺して政権の流れは変わります。

その後に就任したジュセリーノ・クビチェック大統領は、諸外国からの資本を導入し、工業を発展させて活発な農業との経済格差を埋めようと推進します。その象徴として1960年に近代主義の建築家ルシオ・コスタを中心に新たな首都ブラジリアを構築しました。国会議事堂、最高裁判所、各国の大使館が立ち並ぶと早々に遷都します。首都として機能を果たすこと自体にはあまり混乱はありませんでしたが、建設や移転費用による巨額の財政負担が残ったため、ブラジル内に超インフレーションを起こしてしまいます。クビチェック大統領が1961年に任期を終えると、ジャニオ・クアドロスが大統領に就任します。インフレを抑えるため財政の収縮を図り、資本の委譲で関係が密になり過ぎたアメリカと距離を開こうと試みます。共産主義陣営を中心として、ソビエト連邦、中国、ルーマニア東ドイツなどと関係を深めていきます。そして1959年のアメリカ支配から解放を目的としたフィデル・カストロ指揮の社会主義武力革命である「キューバ革命」以来、孤立していたキューバに近づきます。しかしクアドロスは突如、志半ばで大統領を辞任します。


クアドロス任期中の副大統領であったジョアン・ゴラールが大統領に任命されます。ヴァルガス政権下で労働大臣を務めていた彼は労働的共産主義思考を持っていたため、変革を望む民衆に支持を受ける傍ら、軍部側からは快く思われていませんでした。この軋轢はブラジル共産党内でも分裂を起こして、ソビエト連邦をモデルとした「労働者国家」を目指すブラジル共産党「PCB」(Brazilian Communist Party)、プロレタリア国際主義による「社会主義革命」を目指すブラジルの共産党「PCdoB」(Communist Party of Brazil)とに分かれます。同じ共産主義を目指していながらゴラールの支持が統一されないなかでは、進める政策も円滑に進めることができず、次第に派閥間の諍いが強まっていきます。結果的に経済成長は外資流入に頼らざるを得ず、彼が掲げた農地改革および社会改革は上手く進めることができませんでした。そしてインフレは一向に改善せず、民衆の支持に反して財政難は酷くなる一方でした。このような流れのなか、軍部側のカステロ・ブランコ将軍は国民投票で敗することを予測して、1964年の選挙前にアメリカを背後に付けて軍事クーデターを起こします。ここに軍事独裁政権が成り立ち、更なる親米政治が始まります。ゴラールは武力抗争を好まぬ形でウルグアイに亡命し、前政権側も目立った抵抗は見せませんでした。しかし、強制的に政権交代させられた党員たちは徐々に体勢を立て直してPCdoBとして武装し、ゲリラ活動を進めていきます。軍事独裁による弾圧はPCdoBだけでなく、民主主義者、ブルジョワジーにまで及び、合法的な抵抗ができなくなっていきます。野党たちは社会主義者や民主主義者である労働者たちを引き連れて、それぞれの武装ゲリラを組織して独裁に牙を剥きます。しかし、1968年に制定された軍事独裁に都合の良い強化された弾圧法によって、殆どの組織は軍事制裁を受けて消滅してしまいました。それでも一握りの対抗ゲリラは一矢報いようと、裏で軍事政権を支援するアメリカの大使を拉致して拘束された主要な野党政治家たちの解放を要求します。この事件は独裁政権を酷く刺激して、全ての反乱因子を淘汰すべく徹底抗戦の意識を呼び起こします。そして国民の人権を奪うかのように、国家安全政策の重要な要素として拷問を制度化し、国家破壊活動分子として少しでも疑わしいものに対して広く行われました。このような、思想を持って生きることが死を意味するという絶望的な独裁政権は約二十年間続きました。ブラジル内の長い武装弾圧は、隣国のアルゼンチンが1982年のフォークランド戦争(対イギリス)に敗れたことで、外交関係の緩和と軍部の闘争意識が下火になったことから弱まり、遂には1985年に政権は民主化しました。


クビチェック大統領時代の都市開発は、国内文化の発展を伴い、数多くの芸術家たちを輩出しました。サンバから派生した新感覚ボサノヴァの発起人アントニオ・カルロス・ジョビン、フランス映画改革ヌーヴェルヴァーグやイタリア映画新写実主義ネオレアリズモに影響を受けて起こったシネマ・ヌーヴォ運動を牽引したネルソン・ペレイラ・ドス・サントスグラウベル・ローシャなど。また文学においては、元共産党員でプロレタリア作家のジョルジェ・アマード、ブラジル版『ユリシーズ』と謳われる『大いなる奥地』の著者で多言語を扱う外交官でもあるジョアン・ギマランエス=ローザなどが活躍しました。経済低迷期であったが故に、なおさら芸術家たちの熱量が上昇し、民衆へ強く受け入れられたとも言えます。


リオ・デ・ジャネイロに住む敬虔なカトリック信者夫婦の元に生まれたパウロ・コエーリョ(1947-)は、イエズス会学校へと進みます。親の期待に応えようと勉学に勤しみ、好成績を収めていました。この幸せな中産階級の家庭を一つの意志が軋轢を生んでいきます。十八歳のときにコエーリョは「芸術家」になりたいという自身の夢を家族へ打ち明けます。当時の軍事独裁政権時代には、「芸術家」というものに反社会的あるいは反道徳的な意味合いが込められていました。独裁政権は前ゴラール政権を支持する共産主義者への弾圧から派生して、左派的思想者、左派的芸術家、同性愛者、麻薬中毒者なども一絡げにして、精神異常者と見做して厳しい取り締まりを行います。コエーリョの両親は独裁政権と同様の捉え方で我が子を見て、コエーリョの精神が異常を来したと考えて精神病院へ入院させました。厳しい環境ではありませんでしたが、自身は正常であるという苦悩から病院を脱走して家へと辿り着きます。しかし、暫くすると同じように芸術家への道へ進もうとする考えが両親に伝わり、再び精神病院へと入れられてしまいます。このときに別の患者と交わした会話で、自分の置かれた奇妙な状況を改めて考え、人生の方向性を定め始めます。当時のブラジルでは精神病院へ厄介になった者は「社会不適合者」というレッテルを貼られたのと同義でした。これは、もはや失うものは何もないという思いに変わり、自分の本当にしたいことをしようという意思を固めます。再度の脱走から帰宅すると、両親の異変に気付きます。精神病院へ入れることを半ば諦めていたようでした。彼は入院と脱走のサイクルで手に入れた自由を取り戻すため、狂人を装うものの精神科医師は詐病と判断して入院させませんでした。そうであればと、コエーリョは固まりつつあった芸術家への道を志すため、知識人たちや仲良くしていた劇団員たちと親交を深める目的でバーへ赴き、そこで夜通し過ごします。こうして得た知見や思考を記事として出版社に送り始めたことが芸術家作家としての始まりでした。しかし独裁政権は弾圧の徹底をますます烈しくして、コエーリョの接していた劇団は解体され、バーではスパイが蔓延り摘発を繰り返していました。


固まり始めた将来の行先は再び暗くなり、何の社会経験も学歴も無い青年は立ち尽くします。そして泡沫の自由を求めるため、再び狂人を装うものの、二度と精神病院へ帰ることはできませんでした。心身ともに何もかもを失った彼は、南アメリカから北アフリカ、そしてヨーロッパ諸国をヒッピーとして旅をします。そこで見出したものは「芸術家としての運命」でした。全てを捨てても残るものを理解した今、彼はブラジルへと帰国します。帰国後、彼は諸外国により受けた感銘を言葉に変え、音楽に乗せる作詞家として活動を始めます。幸いにも、国内で最高の歌姫エリス・レジーナ、ブラジリアンロックの父ラウル・セイシャスなどの成功に肖り、一定の人気を確立することができました。しかし、成功によって目立った彼は独裁政権に目を付けられ、歌詞が左翼的であるという理由で三度も投獄されました。前述のように、合法化された拷問はコエーリョも取り調べと称して厳しく与えられます。このときに受けた人権侵害は制裁の目的に反して、彼を作家として目覚めさせる切っ掛けとなりました。彼は執筆を熱心に行って徐々に作品を世に出していきます。1980年にエコアートの先駆者クリスティーナ・オイチシカと結婚します。精神に落ち着きを取り戻し始めると、今一度、自身の心を見つめ直すため、1986年にサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼(聖ヤコブに至る巡礼の道)に旅立ちます。そこで現れた運命の前兆、心との対話、人生の肯定が『星の巡礼』という自伝的著作を生み出しました。

そこで私は「芸術家」という運命、私の場合は作家であるという運命から逃れられないことに気が付きました。三十八歳のときに私は最初の本を書き、意識しないままに恐れていた戦い、つまり夢をめぐる戦いへと挑戦することにしました。

パウロ・コエーリョ ブログ記事より


軍事独裁が終わり民主主義となった社会で、彼の作品は次第に受け入れられ始めました。しかし執筆活動は順調なものではなく、すぐに行き詰まりを見せます。書くべきもの、書くべきことが彼の内に溢れていながら、書く意欲が湧かないという精神状態にありました。そこで「今日、白い羽を見たら書こう」という決め事を自身の中に植え付けました。すると街を歩く中で見かけたショーウィンドウの中に、白い羽を見つけます。「これは運命の前兆だ」と解釈して、気持ちを整えて一気に書き上げたものが本作『アルケミスト』です。


作品に込められたコエーリョの精神的支柱が、寓話を通じて直裁的に伝えられています。夢よりも強い確信を「運命」と捉えて、気持ちを揺らしながら一つの意志を貫いていきます。迷うたびに、崩れるたびに、主人公は「心と会話」をします。そしてそれは、強い意志で願えば夢は叶う、などという単純明快なものではありません。何が正しいのか、自分はどうしたいのか、困難は災難を回避するための試練として受け止め、心の底の底にある「真の望み」を目の前に引き出して、意志を貫き通すことが人生の使命であり、魂が導く成すべきことであるとの理解が実現への道だと訴えます。

愛とは、大いなる魂を変え、より良いものにする力なのです。僕がはじめて大いなる魂と触れ合った時、僕は大いなる魂は完全だと思っていました。しかし、その後、大いなる魂もまた、他の創造物と同じであり、情熱も持っていれば争いもするということがわかりました。大いなる魂を育てるのは、私たちなのです。そして、私たちが良くなるか悪くなるかによって、私たちの住む世界は良くも悪くもなります。そして、そこで愛の力が役に立つのです。なぜなら、私たちは愛する時、もっと良くなろうと必ず努力するからです


作中では「大いなる魂」という表現で全能なる神的存在が描かれています。生きるなかで出逢う運命の前兆は、魂の囁きであると言えます。前兆を心の底の底で「真の望み」が感じ取り、震えながら自身の心の表面へと浮かび上がり、心が声高に訴えます。心との会話によって引き出す「真の望み」を自分が理解できるとき、前兆から大いなる魂に触れることができます。その前兆を貫く意志で信じ、意思を持って歩み始めることが運命を掴む一歩となるということを、寓話を通じて語られています。そしてこの思想は、人間として奇異な経験を多く積んだコエーリョが語ることで、想像を超える説得力を持って、一つの作品として仕上げられています。

私は一つの出版社に出会うと、『星の巡礼』へと導かれます。その作品は、私を『アルケミスト』へと導き、それは私を多くの読者に導き、作品は多くの翻訳へと繋がり、世界中での講演や会議の参加に繋がりました。私はずっと夢を先延ばしにしていましたが、最早そのようにはできません。宇宙はいつでも「自分が望むもののために戦う者」を見守っているということに気が付いたからです。

パウロ・コエーリョ ブログ記事より


込められた思いはとても力強く、圧倒される勢いで描かれていますが、寓話として仕上げられているため非常に読みやすく、理解もしやすい作品だと思います。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『掃除婦のための手引き書』ルシア・ベルリン 感想と一日一篇

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

知る人ぞ知る優れた短篇作家、アメリカで守られ続ける文学の秘密、など幾つもの肩書きを持つルシア・ベルリン(1936-2004)ですが、世界的な評価を受けるに至ったのは、つい最近の2015年になってからでした。

父の仕事に合わせて転々とした住居、生まれつきの脊椎側彎症(背骨が横にS時に湾曲)、内向的な性格による嫉みといじめの被害、貧困層と富裕層の双方を経験、祖父からの性的虐待、掃除婦や救急救命看護師や電話交換手といった多くの職場経験、母と叔父はアルコール中毒者、本人もアルコール中毒者、デトックス成功後に刑務所で囚人相手の教師、三回の結婚と四人の息子、誕生日に愛する本を抱きながらの永眠。何回分の人生を過ごせば味わうことになるのか想像もつかないネガティブな印象の強い数多くの経験は、彼女の精神に大きく影響を与えて独特の感受性を構築します。1960年代から執筆を始めていた彼女は、七十六篇の作品を残しました。


実体験を元にした作品群は、突飛に浮かび紡がれる奇妙な語彙と、熱量が急変する緩急をもって書かれています。出来上がる文体は「オートフィクション」(auto-fiction)で描かれ、自伝を誇張して変容させた小説となっています。特殊な環境下において、特異な人生を歩んだ数多くの経験は、少しずつ局地的に切り取られて、各短篇の核として存在し、多面的で多様的な作品群を形成しています。また、アルコール中毒時に体験した幻覚や幻聴も同様の「経験」として心に蓄積し、特殊な方法で事実の変容を齎しています。


彼女が捉える対象は極めて単純化され、生々しい経験を元にその対象の中から抉り取るように核を抜き出します。その核は感情や幻覚で変容されて、読む者へ直裁的に突き付けます。しかしながら読み手は、不快感以上の興奮や悦楽を感じ取り、作品の世界へ引き摺り込まれます。そして、多くの作品の最後に待ち受ける「タロットを逆位置に」くるりと回すような感情落差を感じさせられ、虚無感ではない居た堪れなさが心の底へ重みを感じさせます。


本書『掃除婦のための手引き書』を「一日一篇」としてTwitterで投稿しました。それを以下に列記いたします。「一日一篇」の発起人みもれさん(@mimorecchi)、「一日一遍ルシア・ベルリン」にお誘いいただいたありむらさん(@arimuuu0211)に、この場でお礼を申し上げます。楽しい企画に参加させていただき、ありがとうございました。そして、本書を未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。


一日一篇ルシア・ベルリン

「エンジェル・コインランドリー店」

先住民族の集落が点在するアルバカーキ。「わたし」は近くの整備された清潔な店ではなく、断酒会で捧げられる祈りが掲げられた、凹み、汚れた、錆びた店に赴く。いつも言葉をかわす酒気帯びインディアンのトニーに会うために。鮮やかな色彩と、酒に溺れる心の共鳴。


「ドクターH.A.モイニハン」

祖父の神経質で歪んだ「わたし」への絆は、互いにのみ通じ合う意気を含む。酒で潤ける痛覚麻痺した祖父の歯茎からペンチで歯を捻り抜いていく彼らは、目的を見据えて一心不乱に完遂を目指す。抜かれた歯と、旧い面影を見せる入れ歯の対比は、祖母が過り生死が想起する。


「星と聖人」

シスターへの憧れは神的聖性を持って強さを増し、聖マリアへの熱心な祈りは自身の清廉潔白を研ぎ澄ませる。幼い「わたし」は炎の揺らぎに神を見て、聖職者の告解室で響く声に神を聞く。精神科医に届かないように、神の慈しみであるシスターにも胸の中の祈りは届かない。


「掃除婦のための手引き書」

神々よりシーシュポスが科せられた不条理な刑罰と重ねるように、「わたし」は掃除婦としての日々を語る。その都度に見出す享楽や嘲笑も泡沫のように無に帰する。バス停を辿る不毛の道は灰色の空が映り込むように濁り、それでも死を否定する心を涙で満たす。


「わたしの騎手」

落馬した騎手たちは砕かれた骨と共に緊急救命室へやってくる。迫害を受けた聖セバスチャンを受け入れるように彼らを五感で抱く「わたし」は、横たわる姿にエロティシズムを感じながら慈愛する。その感情はやがて母性へと変わり、子を労わるように震える歓喜を齎す。


「最初のデトックス

泥酔で事故を起こし、郡立病院のデトックス棟で目を覚ます。居心地の良さを求めて周囲へ気の良い嘘を振りまく。彼女が思い返す日常は、日毎に酒の濃度を増すシングルマザーの憩いの時間。抗酒薬を恐れてリンゴ酢で凌ごうとする儚い意志は、嘘に慣れた甘えに霞む。


ファントム・ペイン

くずかごに話し掛ける程の幻覚は、娘を認識できなくなるまで父の正気を失わせる。ピクニックで登った大気の濁った丘の上、死と出会った景色との同化に感化されて、父は正気に戻り死を望む。「わたし」は亡くしたものの痛みから、愛に触れた過去を想う。


「今を楽しめ」(カルぺ・ディエム)

コインランドリーで他人が回し終わった洗濯機を誤って運転開始してしまった「わたし」。気の良い係員オフィーリアに、更年期を理由に庇われながら事なきを得る。乾燥できずに肩に掛けた洗い晒しの重いカーテンを家で干しながら、更年期と時を受け入れて焦燥を捨てる。


「いいと悪い」

支配する側であるアメリカの立場は「わたし」に富の生活を、チリの貧民には憎悪を与える。政治を理解しないまま、革命を望む家庭教師に連れ回され、貧民層と交流する。物事の価値は、立場と環境と性格で左右する。それでも築かれた感情は、心に一つの後悔を生む。


「どうにもならない」

死の淵に寝そべる魂は、激しい動悸と共に震える身体へ鞭打って、四ドルの生命の水を求めて走らせる。部屋に戻った「わたし」は生命の水を涙しながら飲み干して、死を逃れたことに感謝する。しかし、息子の目には生を遠ざける死の水に感謝する魂が見える。


エルパソの電気自動車」

滑稽と悪ふざけを兼ね備えた聖書を引用する会話は、カビだらけの電気自動車の中で軽妙に愉しく弾む。汚れた聖なる個室は景色を驚くほど緩やかに運びながら、後続の車を苛立たせる。荒々しく迫る警察は本分を見失い、彼女たちへ悪罵した直後、神の鉄槌を受ける。


「セックス・アピール」

億万長者に目が眩んだ美しい従姉は、「わたし」を小道具のように用いて巧みに誘い込む。掴んだ名声を喜び讃える伯母は、色香で惑わせたという「わたし」の言葉に激怒する。欲に眩み堕落した愛娘ヴィーダに、裏切られてもなお愛そうとするミルドレッドのように。


ティーンエイジ・パンク」

幼い反骨心は、社会に刃向かう危うさと思いもよらない成長を兼ね備える。大麻やアシッドに憧れを抱き、ビート世代が訴えた自由を求める個の尊厳を重視する。自由とセックスとドラッグを重要視するヒッピーの予備軍は、今はまだ純粋な感性によって社会から守られている。


「ステップ」

デトックス内のテレビを囲んでボクシングの試合中継を見守るアルコール中毒者たち。開始前のベットを忘れる彼らの意思の弱さは、劣勢の選手に惹かれてアンダードック効果に呑み込まれる。神に祈るように膝をつく敗れた姿を見て、自身を重ね神に救いを求める。


「バラ色の人生」(ラ・ヴィ・アン・ローズ)

母の浅い愛を受けていた二人の少女は、過保護な父たちに守られて休暇を過ごす。捩じくれ始めた少女たちの心は、友情の絆だけを強めていく。父に叱咤される彼女たちは、母の偉大さに項垂れる『秋のソナタ』のリヴとは違い、煙を薄く昇らせる火山のように静かに蠢く。


「マカダム」

囚人が道路舗装でマカダムを踏み固めるときに、ガリガリとした氷を齧る音が鳴る。囚人を縛り付ける鎖の硬質な音が混ざり合い、「わたし」は心地良く椅子に揺られながら聴く。踏みつけられ、押し固められるマカダムに、音の響きと言葉の響きに親近感を覚える。


「喪の仕事」

スラム街にひっそりと佇む手入れされた聖人の家。遺品整理を引き受ける「わたし」は、静かな部屋で遺された物の声を聞く。死の間際に贈られた真新しい家電製品は、息子が大事そうに車へ詰め込む。死は人に許すことを教えるが、その許しは死人には向けられない。


「苦しみの殿堂」

メキシコが放つエロスの香りと死の危険を毛嫌いした母。赤紫と橙で鮮やかに飾られた死の祭壇オフレンダは、魂を送り出す賑やかな祭。不快が漂う町と人から逃れるように酒を浴びて泣く母と、対照的にメキシコを愛す妹は、同じように肉体の死を孤独で迎える。


「ソー・ロング」

救いの手を差し伸べる成功者との情愛は、幸せを得て人生のB面を謳歌した。犠牲にした人々への罪悪は消えない。倫理に背く自身の行為を悔いることも、ロサンゼルス暴動で感じた怒りも、全てを手放すように死に向かう流れに身を任せる。じゃあね、と言って旅立つために。


「ママ」

愛を毛嫌いする皮肉屋の母は、実の娘たち以上に自分を愛した。自分の欲、自分の心、自分の思いを優先して、娘たちの未来の長さを憎み、怒りを娘たちにぶつけた。酒量を無視して自分の不幸を他者のせいにした。死を前にしてその母を許す妹の愛を「わたし」は理解しない。


「沈黙」

無言の抵抗は、更なる罵倒と不信を生む。奥底へ押し込められる心は、ただ盲目の信用のみを求める。無言の罪悪は、友を裏切り、妹を犠牲にする。誓いを破る浅はかな好奇心は、掛け替えのない宝を失わせる。盲目に信じてくれた叔父の罪悪は、「わたし」のみが理解する。


「さあ土曜日だ」

先進的な刑務所では労働に直結した資格取得や学びが提供される。文学教室では詩や散文を生み、クラス内で個を尊重し合いながら教師と信頼を結ぶ。精神は安定して穏やかになるが、心に秘めた決意を魂の気高さが呼び起こす。解放の日に喜びは無く、確実な死だけが在る。


「あとちょっとだけ」

突然やってくる死の恐怖は、周囲の時間を巻き込んで烈しく動き出す。生を痛感する自身の心は残してきた欲に絆され、心残りと後悔に包まれて先を憂う。死神が手招きをすると「本物の時間」が動き出す。時は恐怖を乗せて、捉え難い速さで進む。時が止まるまで。


「巣に帰る」

遠い過去には幾つもの未練と後悔が置き去られている。もう一つの選択肢に豊かな幸せの可能性を見る。犯した罪悪から目を逸らした「もしも」という空想は、自身が願う希望的可能性に過ぎず、やがて現在へと帰結する。カラスがカエデの木に帰るように。

 

『誰がために鐘は鳴る』アーネスト・ヘミングウェイ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

全ヨーロッパをおおわんとするファシズムの暗雲に対し、一点の希望を投げかけたスペイン内戦。1936年に始まったこの戦争を舞台に、限られた生命の中で激しく燃えあがるアメリカ青年とスペイン娘との恋を、ダイナミックな文体で描く代表作。義勇兵として人民政府軍に参加したロバートは、鉄橋爆破の密命を受けてゲリラ隊に合流し、そこで両親をファシストに殺されたマリアと出会う。


1914年のサラエボ事件を発端とした三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)によるヨーロッパでの衝突は、戦禍の火を広げて第一次世界大戦争を引き起こします。当時のアメリカは両勢力からの移民、或いは移民の子孫が半数以上を占めており、双方のプロパガンダが世間に溢れ、強制的に関心を向けられていました。アメリカは第一に国民の保護を掲げながら軍需の提供を行なっていましたが、1915年のドイツによる英国客船ルシタニア号撃沈によってアメリカ国民128人が死亡したことで抗戦的に姿勢を変えていきます。巨大な援軍が敵勢力についたことで三国同盟側は不利な形勢となり、1918年に代表国としてドイツが休戦条約に調印しました。

アメリカ国内を漂っていた不況は、戦争による軍需で潤い、工業や商業を発展させて急速に経済を成長させます。アメリカ政府はこの特需を他国へ流さないよう、貿易などに高額な税率を掛けて自国の企業を守ろうと支援を厚くします。しかしながら、こうした危うい政策の上で潤っていた経済は、1920年代半ばから徐々に足元から崩壊を見せていきます。他国への劣悪な貿易条件提示は、ヨーロッパ諸国との健全な貿易を妨げ、遂には製造企業などから報復措置を取られてしまいます。これを足掛かりに1929年には株式の暴落を生み、アメリカ経済を発端とした世界恐慌が起こります。

世界的不況が続くなか、第一次世界大戦争の責任を一手に押し付けられたドイツでは、誇りと名誉を建て直す名目でアドルフ・ヒトラーを筆頭にナチスが民衆の支持を集めていきます。全責任を押し付けたフランスへの憎悪を沸々と滾らせながら、近く訪れる抗戦のために着々と国内の軍事を整えていきます。


1931年にスペインでは国王独裁政治を崩壊させて第二共和政を発足させたスペイン革命が始まります。この頃から世界中でヒトラーをはじめとしたファシズムが広がり、イタリアファシスト運動の主導者ベニート・ムッソリーニ、日本のクーデター未遂である二・二六事件の首謀者のひとりである野中四郎など、歪んだ全体主義が蔓延していました。このような世界的ファシズムの勢いから国を守ろうと、スペインは共和国として成立し、スペイン革命を起こします。しかしながら、世界恐慌の波がスペインに押し寄せて未熟な政府は公約通りに政策を進めることができず、信仰の自由・人権の尊重に次いで重要視されていた「農地改革」にまで手が回りませんでした。農夫たちは不況の煽りを受けて生きることもままならず、ストライキを起こして国に不信感を露にします。そして「真の自由」を求めて、国に対して反発的な気持ちを高めていき、無政府主義者アナキスト)たちが生まれます。ブルジョワ層は再度の革命を恐れて反発因子を抑え込む強力な政府を望んでいました。この時にナチスを模範としたファシズム政党「ファランヘ党」が姿を現します。

ファシズムの抑圧は無政府主義者たちの言論だけでなく、社会主義を望む労働者全般にまで及び、暴力措置が繰り返されていました。対抗する意志を強めた労働者たちは「アストゥリアスの蜂起」と呼ばれる武装蜂起を起こし、労働運動からファシズム対抗戦線へと移行して、1936年に「スペイン人民戦線」を結成します。彼らが国民の支持を得てファシズム政権を打倒すると、ファランヘ党を率いるフランシスコ・フランコは同年のうちに「反人民戦線」と掲げて選挙結果に抗うように挙兵します。こうして勃発した戦争が「スペイン内戦」(スペイン戦争)です。


ファランヘ党武装された軍組織であり、圧倒的な武力を自負していたため、早期に戦争を収束させることができると考えていました。また、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニによるファシズム間軍事支援を受けます。政権側も他国へ軍事支援を呼び掛けますが、それに応えたのはソビエト連邦のみでした。イギリス、フランス、アメリカなど、国政上や閣内での反発によりこの内戦に不干渉とする立場を見せます。しかしながら各国の社会主義者共産党員たちは自国の不干渉な姿勢に反発して自らの意思で支援に向かいます。こうして集まった国際義勇軍たちは旅団を組織してファランヘ党へ立ち向かいました。こうした義勇兵たちの存在と、オーストリアを巡るヒトラームッソリーニの牽制合戦により戦いは長期化しました。

フランコ軍という目標が統一され、外国軍が入り乱れる戦況は、内戦から戦争と呼ぶに相応しい様相を呈します。この激しい戦地に義勇兵として参加した活動家の中には、イギリスのジョージ・オーウェル、フランスのアンドレ・マルロー、そしてアメリカのアーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)などが挙げられます。両軍の中心的な攻防は首都マドリードでした。軍事力で圧倒しようとしたフランコ軍に対して、義勇兵たちは強い抵抗を続けて陥落を阻止します。思うように戦況を支配することができないフランコマドリード北部の工業都市バスクへ進軍します。独立自治体であったこの地をドイツ空軍を用いて大型爆撃を集中的に行い、小さな町を吹き飛ばして人口の三分の一を奪います。この地がキュビズムの先駆者パブロ・ピカソが描いた「ゲルニカ」です。フランコ軍は空爆によってバスク地方を奪うと、ゲルニカから西へ移動して、ソビエト連邦軍が守る義勇兵を続けざまに打ち倒し、スペイン北部を制圧します。そして戦況の流れがフランコ軍へ傾き始めると、バルセロナ空爆してカタルーニャ全体を総攻撃します。政権側は義勇軍の奮闘もあり、脅威的な粘りを見せましたが、弾薬や食糧が尽きてしまい、1939年にフランコ軍へ降伏して戦争が終結します。

ピカソゲルニカ f:id:riyo0806:20221103092918j:image


しかし、ファシズム枢軸国(ドイツ・イタリア・日本)の闘争は潰えません。ポーランドへの侵攻を皮切りに再び始まった戦争は、スペイン戦争を引き継ぐように世界全土を巻き込む第二次世界大戦争へと発展しました。枢軸国に対する連合国(イギリス・フランス・中国・ソビエト連邦)はファシズムを潰えさせんと各地で奮起しました。ヒトラーによる西欧への進軍はムッソリーニの協力を得て、フランスでの親独政権「ヴィシー・フランス」を発足させるに至り、ナチズムの勢力を拡大し続けていきます。また、遠く離れたアジアにおいては、制圧した満州国を防衛する日本の関東軍による暴走、モンゴルで対峙した日本とソビエト連邦ノモンハン事件、その背景として繰り広げられ続けている長期化していた日中戦争など、ドイツ・イタリア・日本はファシズムの暴力を烈火の如く奮い続けます。一向に沈静化が見えず、争いの長期化が見えてきたなかで、アメリカはファシズムを危険視し、遂に戦争へ介入します。1941年に連合軍への軍需供給を目的とした「武器貸与法」を制定し、間接的に戦争へ関わっていきます。ちょうどその頃に、中国及びアジア大陸へ侵攻しようとする日本を警戒して、アメリカは真珠湾に海軍を集結させて、いつでも制止できるように構えていました。日米の交渉が決裂すると、年末に日本がマレー半島への奇襲上陸と同時に真珠湾へ突然の空爆を繰り広げます。これにより大義名分を得たアメリカは自らの手を持って第二次世界大戦争へ参戦します。圧倒的武力を得た連合国は、日本への原子爆弾投下を決定打として枢軸国に勝利することになりました。


第一次世界大戦争、世界恐慌、スペイン内戦、第二次世界大戦争、そして前述に無い同時期の戦争を抱えた半世紀は、各地で数多の地獄絵図を生み出し、数え切れない不幸な民衆を生み出しました。そしてこの時代を青年期に迎え、数多くの試練が降り注いだアメリカ人作家の世代を「失われた世代」(ロストジェネレーション)と言います。アーネスト・ヘミングウェイ、F・スコット・フィッツジェラルドウィリアム・フォークナー、ジョン・ドス・パソス、マルカム・カウリーなどが挙げられます。彼らの作品には、人生のなかで「建造と破壊」を繰り返されたことによる「虚無・退廃」の観念が背景に漂っています。


ヘミングウェイは医師である父親に、軍へ入隊することを強く反対されて新聞記者として働きます。しかし軍への思いを諦めることができず、赤十字救護隊に志願し第一次世界大戦争の戦地へと向かいました。負傷兵の救援として駆けつけたものの、彼自身も瀕死の重症を負う危険な目に遭いました。幸いにも生命を取り留めた彼は、複数の新聞社の特派員記者としてパリへと渡ります。そこにはブラッサイの描く夜のパリが存在して、異邦人画家(エコール・ド・パリ)たちによる芸術の都の盛り上がりがあり、異邦人文士たちによる交流が酒を囲みながら行われていました。その時に彼は、文士ガートルード・スタインと親交を持ちます。「失われた世代」という言葉は彼らの会話によって生まれたとされています。ヘミングウェイは戦争により植え付けられた退廃観を持って渡仏しましたが、種々の芸術家たちの影響により与えられた熱意と生気で、個の人生を見つめ直す精神を取り戻します。


行動派の作家として活動を広げるヘミングウェイは、国際旅団へ参加して、記者として、文士として、スペイン内戦の戦地へと馳せ参じます。目で見た殺戮光景、耳で聞く銃声、肌で感じる爆風は、直に触れた経験として生々しい描写で作品に込められていきます。本作『誰がために鐘は鳴る』では、この実体験が随所に活かされて、匂いや温度まで感じるほどの強烈な筆致で描かれています。主人公ロバート・ジョーダンは「ファランヘ党」打倒を掲げる義勇軍の旅団に参加して、現地ゲリラと協力しながら軍事作戦における重要な役割「橋梁爆破作戦」に取り組みます。農夫上がりの無骨な集団は、既にフランコ軍と交戦済みであり、死地を潜り抜けてきていました。彼らの性格や習慣を理解して信頼を得ながら、危険が付き纏う作戦の協力と遂行を目指す臨場感と焦燥感は読者を掴み続けます。


描かれる具体的な暴力は、人間の醜さや思想の悪用が入り混じり、酔漢の分別ままならない野次に左右される意志薄弱な非道なものが多く描かれます。それに伴う死の描写は、積み重ねるように端的に事実として語られる冷たさがあり、またそれに反して、各々自身の死を思う際には聖母マリアに何度も祈り、高尚なものとして高く掲げる人間らしさが表現されています。現地ゲリラたちが心に抱くストイシズムは、一見、都合の良い文句として聞こえますが、その本質には望んだ戦争ではないこと、望んだ殺戮ではないこと、ただ平和を求めただけであること、などが奥底にあり、人を殺める側もまた苦悶の末であることが見受けられます。

 

ヘミングウェイの作品を読むものは、その虚無的な否定と冷酷な突放しとにもかかわらず、むしろその反対の旺盛な現実肯定ないしは現実謳歌を感じとるにちがいない。

福田恒存老人と海』の背景

本作でヘミングウェイは、「失われた世代」でありながらパリの魅力に運命を励まされた彼らしく、「積極的な人生の肯定」を描きます。個の生涯に潜む素晴らしさは、世界を愛して自身も世界の一部であると理解することで見いだすことができます。そして、個の人生をどのように謳歌するかを見つめ直すよう訴えています。『誰がために鐘は鳴る』という題名はジョン・ダンの詩句からつけられています。

なんぴとも一島嶼にてはあらず
なんぴともみずからにして全きはなし
ひとはみな大陸の一塊
本土のひとひら そのひとひらの土塊を
波のきたりて洗いゆけば
洗われしだけ欧州の土の失せるは
さながらに岬の失せるなり
汝が友どちや汝みずからの荘園の失せるなり
なんぴとのみまかりゆくもこれに似て
みずからを殺ぐにひとし
そはわれもまた人類の一部なれば
ゆえに問うなかれ
誰がために鐘は鳴るやと
そは汝がために鳴るなれば

ジョン・ダン誰がために鐘は鳴る


ヘミングウェイは1954年、『老人と海』に代表される、叙述の芸術への熟達と、現代のストーリーテリングの形式に及ぼした影響に対してノーベル文学賞を受賞しました。しかしその後、二度の航空機事故で重症を負い、後遺症として躁鬱状態の症状が激しくなり執筆が困難となります。そして彼は父親と同様に、散弾銃を用いて自殺しました。

いや、いけない。なぜなら、まだおまえにできることが残っているからだ。それがわかっているかぎり、おまえは、それをやらなければならない。それを忘れずにいるかぎり、おまえは、それを待たなければならない。早くこい。敵のやつらをよこしてくれ。やつらをよこしてくれ!

病の症状が酷くなり、文士として自分にできることが無くなったと悟ったことで、彼に自殺を決意させ、実行させたと考えられます。


激動の時代を生きながら、個の人生を人類ごと愛した作家ヘミングウェイによる本作『誰がために鐘は鳴る』は、人生を見つめ直す良い機会を与えてくれます。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『デカメロン』ジョバンニ・ボッカッチョ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

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1348年、当時、フィレンツェの町ではペストが流行、郊外の別荘に避難した10人の紳士淑女たちは退屈しのぎに1人、毎日1話ずつ10日間にわたって物語りを話すことに決める。下賤な馬丁が王様と姿が似ているのを利用して、深夜王妃の寝室にしのび込むという話、親しい友人同士の一方が相手の妻と密通したことがきっかけで互いの妻を共有しあう話など、王侯貴族、僧侶、商人、農民といったあらゆる階級の人物がまきおこす、好色、皮肉なもの、ロマン的なもの、悲劇的なものを話題として底抜けな明るさで物語られる。作者ボッカッチョは暗い中世ののちに、自我に目覚める人間像を、生命の歓喜と笑いを、新しいルネッサンス時代にもたらした。本書は百話中、もっとも興趣に富む30話を選んで1冊とした。


十四世紀にイタリアでは、ギリシャやローマの古典を復興させようという試みから文芸運動ルネサンスが起こりました。フランスの歴史学者であるジュール・ミシュレが定義したもので、「Renaissance」という語は「再生」という意味のフランス語から取られています。ローマ教皇による「神の絶対視」「人間は罪人」という教えに縛られている時世を「暗黒時代」と捉えて、思想や芸術を自由へ解放させるために今一度生まれ直そうとする運動を指します。神の存在を中心とした世界からの脱却は、本質的なヒューマニズム人文主義)の主張であると言え、世の芸術家たちが挙って抑圧されていた能力を存分に発揮しました。


この文化変革運動とも言える文芸家たちの取り組みは、絵画、彫刻、音楽、演劇、建築にまで派生し、十六世紀半ばまで続きました。絵画においては、最初にビザンティン美術(キリスト教画的)を放棄したジョット・ディ・ボンドーネを先頭に、「ヴィーナスの誕生」を代表作として神秘主義的作品を多く残したサンドロ・ボッティチェッリ、数多の才能を世に見せてきた万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ、新プラトン主義を掲げた三大巨匠に挙げられるラファエロ・サンティなど、建築では、彫刻作品を中心に神話的な才能を見せたミケランジェロ・ブオナローティ、古代建築の礎を築いた遠近法の発明者フィリッポ・ブルネレスキなど、思想に関しては、『君主論』のニッコロ・マキアヴェッリが挙げられます。このように枚挙に暇がないルネサンスの芸術家たちですが、文学においても同様に、後世に影響を与え続ける文士たちが存在しました。


十三世紀までの「真の神への信仰」に基づいた精神で当時の教皇を痛烈に批判したダンテ・アリギエーリは、美徳や罪悪に詩と哲学を織り交ぜて『神曲』を書き上げました。この著作に感銘を受けて育ったジョバンニ・ボッカッチョ(1313-1375)は、誰よりも早く真意を理解し、ダンテの偉大さに心酔します。元々『戯曲(La Commedia)』という題名を『神曲(La Divina Commedia)』と世に広めたことが深い敬意を示していると言えます。そして彼はルネサンスの潮流が徐々に加速し始めた時期に、やはり文士として活躍します。本作『デカメロン』(十日物語)は、ヨーロッパ近世文学の祖として語られることになった大作です。スコラ神学の価値観が芸術の基盤であった当時において、主体を「人間」に視点を当てて描きました。世に出た衝撃はあまりに強く、批判を受けながらも多くに受け入れられ、現代では散文小説の基礎として語り継がれています。そして、『神曲』に対を成すように『人曲』と呼ばれており、十四世紀ルネサンスを存分に表現するように、人間の持つ欲、謂わば金銭や肉体を求めようとする性が直截的に描かれています。


ペスト(黒死病)に侵された街から避難していた七人の淑女と三人の紳士は、郊外の別荘に寄り集まって安堵の気持ちを共有するように多いに語らいます。落ち着きを見せて饒舌に語る彼らの話には、痛烈な諷刺や揶揄が溢れ、人間の金欲や肉欲が前面に出ています。批判となる対象で最も多いのが聖職者層で、神の使いとして相応しくない「欲」に溢れた人物が次々に登場します。他にも、密告、姦通、虚言、策謀が数多に語られ、生々しい「人間らしさ」が浮き出てきます。そしてその感情を全面で批判的に捉えるわけではなく、寧ろ策謀における努力や報いを称賛する流れがあり、「信じる者は馬鹿を見る」というローマ教皇に真っ向対立する思想で埋め尽くされています。ここには「人間価値の回帰」が込められており、封建社会教皇社会を否定するルネサンス運動の本質が如実に現れていると言えます。目の前の現実的な欲を満たす快楽は、人間の自我を刺激して歓喜と解放を呼び込み、新しい自由と解放の時代を望んでいたことが示されます。


英仏の封建諸侯による王位継承争いで幕を開けた百年戦争、そして最中に蔓延したペストでの重なった大衆の疲弊は、心身の抑圧を受け続けていました。それらを救う筈のローマ教皇を始めとする聖職者たちの不貞にとどめを刺され、「真の神的存在」を認めながらも人間性を取り戻そうと芸術家たちがルネサンス運動を起こしたことは必然であったとも言えます。そしてボッカッチョは「想起改善」(レミニッセンス)を起こす啓蒙的な意図で本作『デカメロン』を書き上げたのだと考えられます。

そしてカテッラは、この愛人の接吻が夫の接吻よりもはるかに甘美であることを知り、リッチャルドに対するそれまでのかたくなな心をやさしい愛情に変え、この日以来彼を深く愛するようになりました。そして二人は賢く立ち回って、二人の愛を何度も娯しみました。神よ、われらに恋を娯しませたまえ。


文章を表面的に見ると猥雑と悪徳が入り混じっていますが、固められた教会的価値観から解放された人間本質の強さと美しさが個性としてその根底を流れ、強いヒューマニズムの思想が打ち出された著作となっています。各篇は短く書かれており非常に読みやすい作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『獨樂園』薄田泣菫 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

詩集『白羊宮』などで象徴派詩人として明治詩壇に一時代を劃した薄田泣菫は、大阪毎日新聞に勤めてコラム「茶話」を連載し、好評を博する。人事に材を得た人間観察から、やがて自然や小動物を対象にした静謐な心境随筆へと歩をすすめ、独自の境地を切り拓いた。本書は泣菫随筆の絶顚であり、心しずかに繙くとき、生あるものへの慈しみと読書の愉悦とに心ゆくまで浸るにちがいない。


ロマン派そして象徴派に挙げられる薄田泣菫(すすきだきゅうきん 1877-1945)は、詩人として日本で初めてソネット(絶句)を発表し、文士として芥川龍之介を文壇に立つ足掛かりを与えました。

詩人の島崎藤村土井晩翠による「藤晩時代」が切り開いた詩壇におけるロマン主義は、明治後期に活躍した「泣菫・有明時代」が引き継ぎました。語彙や拍に工夫を凝らした蒲原有明漢詩や古語を活用した薄田泣菫は、素晴らしい詩篇を数多く残します。当時の泣菫の代表作『白羊宮』は古典ロマン主義の絶頂に達したと言われ、後世に名を残す一因となっています。しかし時流の動きは速く、島崎藤村の小説にも見られるように文壇が自然主義へと傾倒していくと、象徴派の有明は批判を強く受けて精神を病み、泣菫はパーキンソン病の罹患で療養を余儀なくされ、二人の詩壇における活躍は徐々に遠のいていきました。

 

「星と花」

星が空から落ちて來て、
花が代りに撒かれたら、
空はやつぱり光らうし、
野路もきつと明るかろ。


天の使がおりて來て、
星は殘らず取り去ろが、
み空の花を拾ふには、
ああ羽はなし、しよんがいな。

薄田泣菫全集』


泣菫は病が発症する少し前の1915年に、大阪毎日新聞社でコラムの先駆けと言える『茶話』の随想連載を始めます。これが大いに読者に受け入れられ、後の彼の代表作の一つに挙げられるものとなりました。泣菫は手足の自由が利かなくなり始めると休職して治療に励みながら、夫人に口述筆記を依頼して随筆を幾つも発表します。本作『獨樂園』もその一つで、晩年の作品にあたります。


同じ「自然」から創作すると言っても、自然の在り方から飛躍して想像力を働かせる島崎藤村とは異なり、泣菫は、自然そのもののを仔細に見つめて感情を共鳴させる表現が多く見られます。花びら一枚、雫の一滴、風の流れ、虫の所作、熟れた果実の爆ぜ、日々の生活において気付くことのできない細かな息吹に、泣菫は目と耳を凝らします。そこから語りかけてくる「自然の声」は病床の彼を励まし、生気を与えます。詩人としての感性が小さな一つの変化に美しさを添えて文章を生み出し、自らを悲嘆から抜け出させる励みの力を打ち出しています。そして感じられる生命の萌芽、溢れる活力は、病で疲れた彼の心にこそ強く響いていたと思います。また、その感銘の強さこそが、随筆の美しさに昇華されていたとも考えられます。


病に臥しながら命を紡ぐように書き上げられた文章の一つ一つは、築き上げられた人生観を形作るように綴られていきます。生活における喧騒で目も耳も閉ざされている日々の中で、豊かな生命が身の回りに溢れていることを本作は気付かせてくれます。そして自身の魂が痩せ細り、心を狭く苦しめることとなっていることを目の前に突き付けて省みさせられます。

 

顧れば、私は詩の國へ旅立ちのそもそもから一人ぼつちで、道連れといつては誰一人ありませんでした。道中も全く一人ぼつちでした。詩歌の國の仕事は、自分ひとりでなくてはいけないと思つたからです。

私はこの間、自分で自分の魂をのみ見つめて暮しました。それがためには、仕事と名聞と生活とに便宜の多い帝都の生活から離れて、京都や、大阪や、また郷里やで、今日まで暮して來ました。お蔭で寂しくはあるが、自分自身の生活をたどることが出來たやうです。

『泣菫詩集』


自邸を「雑草園」と名付けた泣菫。そこで暮らして見出した生命の息吹は、彼の心と魂を救いました。「獨樂園」と名付けた本作は、闘病中に出会った自邸に溢れる生命で埋め尽くされています。抱えていた苦悩や苦痛を吐き出すのではなく、詩才を存分に発揮した魂の美しさを文章に宿して書き貫いていることが、彼の魂が清く浄化されていることを強く感じさせられました。


生活に追われて幾つもの大切な魂を見失っている現代人にこそ、響くものが多くあると言える本作『獨樂園』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『深夜の酒宴』椎名麟三 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

文学における第一次戦後派は、戦争時代の体験によって起こった精神変化、情勢変化、生活変化を文学に収め、観念や倫理を社会に映し出そうとした作家たちです。野間宏武田泰淳埴谷雄高梅崎春生などが挙げられ、椎名麟三(1911-1973)も代表者作家のひとりです。彼は貧窮の少年時代を過ごします。ともに愛人を持つ両親は、二人ともが自殺、拠り所を無くした彼は文字通りに世界を失います。生きるために至るところで雑役に就き、命を繋ぐようにして過ごしました。私鉄の車掌となった彼は、カール・マルクスに強く影響を受けて共産党に入党し、労働運動に没入します。世界を失った生活は一変し、芯からの党愛を持ち、大衆への愛を自ら感じながら激しく活動を行います。


党においても目立ち始めた彼は、当時の特別高等警察に検挙、投獄されます。文学に対する蔑視を持っていた彼は、獄中でフリードリヒ・ニーチェ『この人を見よ』に出会います。この読書は彼にとって、失意の思想転換とも言える運命的な変化を齎し、文学そのものの見方に変化が起こります。人間らしさとは、生き方とは、革命の手段とは。投獄に至った己の行動を省みて、自身が声高く思想を叫んでいたことは、真に思想を伝えるもので無かったと気付かされます。マルクスの「共産主義」からニーチェの「自我主義」への転向は、彼にとっては「脱落」の意味合いも持っていました。革命によって劇的な変化を齎すことが大衆への愛に報いることと信じていた彼には、革命を諦めて自我主義へ傾倒することに空虚さを感じます。

そして手に取ったフョードル・ドストエフスキーの『悪霊』に触れると強烈な「叫び声」が聞こえ、彼の中の文学の目が開きました。答えが見つからない、生き方がわからない、そんな思いのままで「助けてくれ」と叫ぶことは構わないのだと理解します。彼は胸の内に渦巻いていた不安や恐怖を「叫び声」にして執筆を始めます。


本作『深夜の酒宴』は、第二次世界大戦争を終えた間もない1947年に発表されました。特別高等警察による暴力的な取り調べを受け続けて「思想の破棄」を余儀なくされました。彼は取り戻した愛情の矛先を取り上げられ、虚無に打ち拉がれ、思考を無にする空虚な精神へと仕立て上げられました。その心に吹き込んだドストエフスキーの思想は、生命力の復活の兆し、或いは命を繋ぐ目的を見出させることになりました。彼は虚無の中において居所を見つけられませんでした。言い換えるならば「ニヒリズムの拒否」を正当化し、そこからの解放を望む心を手に入れます。彼は虚無を克服して心を解放する、「ほんとうの自由」を探求します。


椎名麟三の心の底には「両親の自殺」という事実が観念に影響し、「死」という概念に束縛され、引き摺り込まれようとしていました。彼自身が吐露する文章に自殺を仄めかせるものまで見受けられます。

襲いくる「死」の束縛に捕まれた自身を、本作では「幽霊」と表現します。探し求める「ほんとうの自由」が手に入らず、行くあてもなくさまよい続ける精神は、成仏できない霊の彷徨と重なります。鏡に映った自らの顔を「されこうべ」と感じる彼は、自覚を裏付けると同時に、向かい合う自身を確かめるように受け入れます。空虚の日々の中に居ながら、成仏せずに自由を探し続ける自身を認めています。しかし、「虚無の克服」には至りません。死から解放される「ほんとうの自由」は、死を持ってしか得ることができないのか、答えが出ぬまま彷徨を続けます。実存を持たない幽霊は、実存的な自由を求めながら現在を堪えて過ごします。

彼は、被虐を堪え、空腹を堪え、貧困を堪え、現在を堪えています。堪えること、堪え続けることは、「ほんとうの自由」を探し続けることと同義的であり、生きていることと同義的です。生きることで「ニヒリズムを拒否」し、死に負けまいと抗います。

僕はそれにじっと堪えた。堪えるということは、僕にとって生きるということなのだ。堪えることによって僕は一切の重いものから解放されるのだ。そしてまた堪えることによって、あの無関心という陶酔的な気分を許されるのだ。全くそれでなくても、この世の中は、堪えるより外に仕方がないではないか。思想にさえ、僕はどれほど堪えて来なければならなかったであろう!


そして何故堪えるのか、堪えて何をするのか、その意義を本作の翌年に発表した『永遠なる序章』において、次のような文章で語っています。

その彼は、人間が死から自由になるときにはじめて、それらの革命が有力な意味を持ちはじめるのではないかという疑惑にとざされ勝だった。そうなのだ。人間が自由になったとき、革命が、真実のそして唯一の革命となるだろうという気がしたのである。

『永遠なる序章』

死から自由になるために堪える、それは「ほんとうの自由」を手に入れるために堪えることになり、明確な「虚無の拒否」となります。つまり、堪えることは「生きること」と言えます。


朧げで漠然とした心を持った加代、仙三の妾の血の繋がりのない子である彼女は、語り手の実在を求める「ぼく」と対比的に描かれ、彼自身も彼女に対して侮蔑的な印象を覚えます。しかし、どこかに鏡写しのような錯覚を覚える点に苛立ちが現れます。虚無を拒否し、生に意義を持たせようとする姿勢が共鳴したとも言えます。彼女から語られる言葉は、掴みどころがなく、不明確な表現ばかりです。それでも彼女との対話において、彼は探し求めていた「ほんとうの自由」を手に入れるための手段を明確に理解します。

そうですよ。世の中って、全くつまらない。それにまた何かが起こる筈がない!
そうです。何かがですよ!朝ふと眼を覚ますと、世界がすっかり変わっていて極楽浄土のようになっているということですよ!


一夜にして大革命が起こり、世界が幸福に溢れるということは幻想である。そして世界が一挙に変化しないのであれば、変わる必要があるのは自分自身である。小さな行動を一つずつ続けて変革の一歩とするしかない。このように受け入れました。

椎名麟三はひとつの決断をします。1950年にキリスト教へ入信します。洗礼を受けても、ただ作業的に感じるほど信心は浅いままでした。彼は純粋な信仰心ではなく、「ほんとうの自由」を求めて入信しました。イエス・キリストに賭けたとも言えます。聖書を斜め読みしながら、小説を読むように頁を捲ります。そして、イエスが自分を霊ではないという証を見せるために、自分の身体を弟子たちに見せる描写を読んで、急激に靄が晴れるような強烈な感銘を受けます。喜びの感情に溢れて目が覚めるように気持ちが晴れやかになっていきます。その数年後、芸術選奨文部大臣賞を受賞した『美しい女』を書き上げました。

私はどんなに崇高な理念であろうと、私の死を与えるには、いささか貧乏くさい感じがするのである。私には、ほんとうのものと思えないからだ。そしてもしその理念が一転して、私に私の死を要求するならば、指先に押えられた蟻のような情けない滑稽なあがきにすぎなかろうとも、私はどこまでもその滑稽なあがきを、その理念の崇高さに対立させてやるつもりなのである。

『美しい女』

蟻のような小さな一歩であろうとも、死ぬまで歩き続けるという独白は、彼の決心を言語化したように感じられ、読者の心に強く響きます。


同じ第一次戦後派の同志である埴谷雄高は、椎名麟三に対して以下のように感じたことを述べています。

個人内部の解決にとつては科学ではなく宗教がはいり易いとして、嘗てコムミュニストたりしものがひとりのクリスチャンとなることは、私にとつて脱皮の過程とうつるよりいささか他の士気を沮喪せしむる退歩と思われた。われわれはわれわれをめぐる渦の中心のような生活の中に単独者として生きているけれども、遥かな地平の向うの目標を引き去つてそのまわりの生活に執すれば自己自身の革命性を失い勝ちである。ところで、私がこのように勇ましくも気負つて彼の戦線よりの後退を責めると、私の論拠は飛躍した錯誤に充ちていると、苦痛と憐憫をたたえた情けなさそうに眉を顰めた目付で覗きこまれて逆に説得されるので、すでにそうした問題を検討済みの彼は手もとからとらえがたくするするとぬけてゆく一つの風船玉の境地にもはや達し、私自身は相も変わらぬ暗黒大陸にいまなおへばりついて動きがとまつている観があつた。

埴谷雄高『酒と戦後派』


椎名麟三が踏み出す小さな一歩は、彼の作品の一頁であり、一文字であり、その決心の通り彼の死の際まで歩み続け、小説、随筆、映画脚本、戯曲台本などを合わせて五十以上もの作品を生み出しました。彼が堪えた数だけ文字が生まれ、彼が書いた数だけ変革の道が歩まれました。この多くの作品に触れた人々は、少なからず意識に影響を与えられ、生きることへの意味を見直すことができた筈です。彼が共産党に入党した頃に抱いた大衆への愛は、彼の地道な歩みにより多く伝わったように思います。

生きる目的を改めて考えさせられる本作『深夜の酒宴』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『居酒屋』エミール・ゾラ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

洗濯女ジェルヴェーズは、二人の子供と共に、帽子屋ランチエに棄てられ、ブリキ職人クーポーと結婚する。彼女は洗濯屋を開くことを夢見て死にもの狂いで働き、慎ましい幸福を得るが、そこに再びランチエが割り込んでくる……。《ルーゴン・マッカール叢書》の第七巻にあたる本書は、十九世紀パリ下層階級の悲惨な人間群像を描き出し、ゾラを自然主義文学の中心作家たらしめた力作。


1852年から約二十年間続いたフランス第二帝政は、ルイ=ナポレオンが治めるボナパルティズム末期を指し、プロイセンオットー・フォン・ビスマルクの挑発に乗って普仏戦争による敗北を招き、終焉を迎えます。1830年代にイギリス交通革命から始まった産業革命の恩恵は、一部のフランス人たちへも与えられました。成り上がった者たちは資産家としてブルジョワジー階級を構築し、プロレタリアート(労働者階級)と明確な分かれ目を作ります。社会は資本主義化し、格差社会が顕著になり始め、労働者の苛立つ感情は高まっていきます。

産業革命により鉄鋼業が発展したイギリスから安価な工業製品輸入が激しくなっていきます。工場労働者たちの雇用条件は悪くなり、目に見えるように手に入る賃金が減少していきます。そして追い打つように工業機械さえも流入し始め、工場労働者たちは仕事を取って代わられることが増え、路上に失業者たちが溢れ始めます。ルイ=ナポレオンは大衆のためと掲げるボナパルティズムに則り、労働運動における団結権およびストライキ権などの保護などを率先して法改正を行いました。実際には、産業革命の波が民衆にとっての追い風となっていたため、真っ当な労働意欲さえ持っていれば貧困から抜け出す機会は多くありましたが、成り上がった者たちへの嫉妬、職を追われた憎悪、誇りを失った絶望などを理由として働く意志を削がれ、労働運動に逃げ込む人々も多くありました。


明確になった階級社会には、階級ごとの欲望、罪悪、幸福、慈善が存在し、さらに個々人による性質によって幾倍もの心の葛藤が生まれていました。エミール・ゾラ(1840-1902)は、この社会を「時代」「環境」「遺伝」という要素を通して、真実の人間を解き明かそうと試みました。ダーウィン進化論完成を加速させた精神科医プロスペル・リュカの遺伝論は、当時、精神疾患が遺伝によって継承するとしていました。この遺伝という法則、フランス第二帝政の時代、階級社会という環境、これらを要素として一貫した大きな文学実験を始めます。ある一族の人間たちを二十の物語で書き上げました。「ルーゴン・マッカール叢書」と名付けられた連作小説には、「第二帝政下における一家族の自然的・社会的歴史」という副題にある通り、一貫して生々しい人間社会が書かれています。

ルーゴン家(資産家)、マッカール家(労働者)、ムレ家(ブルジョワジー)という血の連なる一族は、それぞれの作品において中心人物となり、個の持つ性質に沿った自然の生き方を見せてくれます。「時代」「環境」「遺伝」によって生まれる個別の苦悩や葛藤には、現実的な人間の生き様が見られ、そこにこそ「真実の人間」と「真実の社会」を見出すことができます。


描写される写真のように切り取られた情景は、背景の隅々を細かく点検するように綴られ、事象や印象の大小に関わらず端的に述べられる文章が続きます。また、人称や視点が入り乱れ、登場人物だけでなく周囲の背景ごと脳内に入り込んで全体の印象を強制的に読み取らせられます。このような観念的な描写がない、或いは観念が入る余地がない文章でもって、目の前で繰り広げられる断片を一文一文に書く作風を「自然主義」として、ゾラは世に掲げて賛否を齎しました。

意想が真であるか否かを疑問とするやうになる。クロオド・ベルナアルによれば、懐疑者こそ真の科学者なのである。何となれば、懐疑者は、自分自身について、自分の解釈については疑ひをもつけれども、一つの絶対的原理、即ち、現象の決定性をかたく信じてゐる。これを信じないでは、疑問も起りはしないのである。而して、この意想、及びそれに対する懐疑、並びにそれをたしかめるための実験のしかた等は、全く個人的なものであり、そこには芸術家の創意の余地が十分に存するのである。芸術家は決して写真師ではないのである。

平林初之輔『エミイル・ゾラの文学方法論』

社会を「時代」「環境」「遺伝」で描きながら、そこに創意を込めて作品を生み出します。


本作『居酒屋』は、産業革命の進行に伴い、世に資本主義が浸透していく中で、貧困に襲われ鬱屈した精神を持ちながら排斥されていく、プロレタリアートの苦しい生活が生々しく描かれています。原題『L’Assommoir』は「悲惨を齎すもの」という意味がありますが、これが転じて世間では「偽造酒を出すような低俗な居酒屋」に対する通称となりました。酒に溺れて翌日に後悔をするという揶揄から来ています。この題名から連想できるように、本作ではアルコール依存者による碌でもない行動が溢れています。男尊女卑社会での巷に溢れていた悲劇が何度も繰り返されます。女性に家事を押し付けながら飲み歩き、手に入る金は全て酒に変えてしまう、酒場では管を巻き、帰宅すれば暴力に明け暮れる。フランス第二帝政下においては、パリ=コミューン発足前であり女性の参政権など認められていなかったことから、国全体の印象として女性蔑視の生活が根付いていたと言えます。そこに酒の力が加わり、貧困による苛立ちが加わり、ブルジョワジーに対する嫉妬が加わり、その全てを集めて家庭内へ暴力で発散するという悪循環が毎日のように女性へ与えられていました。


本作では、マッカール家の血筋にあたるジェルベーズという女性が主人公です。彼女のささやかな願いは、ひとりのブリキ職人によって叶えられます。しかし事故をきっかけに生活が少しずつ軋んでいきます。その軋みを悪化させるように過去の男が押し掛けてきて、寄生虫のように彼女の元に住み着きます。彼女の周囲の人々も善人ばかりではありません。憎悪、嫉妬、暴力、嘲笑、哄笑が溢れています。また、挿話的に語られる少女ラリーの話には胸を抉られ続けます。貧困が蔓延していたパリの下町は、生きるのも精一杯な社会を呪いながら酔っ払う現実逃避者たちを多く生み出していました。

物語における救いとなる鍛冶屋グージェの存在は、読者を何度も希望の光で包みます。酒に溺れず、真っ直ぐにジェルベーズを慕う優しさは大きな癒しとなっています。この癒しを受け入れる勇気を彼女はなかなか持つことができません。この抵抗は本能的とも言え、無自覚な意志の態度に感じられます。遺伝的に染み付いているアルコール依存にジェルベーズ自身が立ち向かう義務を感じており、グージェの救いを避けてまでも、身内の酒乱者と向き合おうとすることが「彼女の真に生きようとする姿勢」のように受け止められます。倫理ではなく使命で拒絶する描写は苦痛に溢れています。

いいえ、いいえ、もうたくさん。恥ずかしくてたまらない……。後生だから!立ってちょうだいな。跪ずきたいのはあたしのほうよ
でも!どうにもならないわ、あたしにはわかっているの……。さようなら。さようなら。こんなにしていると二人とも苦しむばかりだもの


ゾラによって「自然主義」で書かれた本作は、真実の濃淡を鮮やかにして、プロレタリアートの抱える苦悩を鋭く読者に突きつけました。そして、その鋭さゆえに世間を賛否両論の意見で埋め尽くしました。しかし、賛否双方の共通する意見は「直接的」であることでした。当時は古典主義からようやく抜け出て、革命の影響を受けたロマン主義、善悪双方に着眼点を当てる現実主義などが世に出始めたばかりで、ゾラの自然主義は衝撃的すぎました。何より、大衆よりも批評家たちが面食らってしまいます。古典作品に慣れた批評家たちは、目線に観念を通すことが前提となっていたため、ゾラの直接表現を受け付けませんでした。しかし、前述のように文章に観念を織り込まないことで読者に直接的に伝わるため、理解しやすく、どの時代のどの人間が読んでも作品を理解できるという間口の広さを持っています。そしてゾラの作品は、本質的な大衆における共感性、親和性を含んでいると言え、プロレタリアートの本質的、実際的な苦悩を世に伝えることに成功しています。

労働者階級を描いたわたしの絵は、ことさらの陰影もぼかしもつけずに、描きたいと思ったとおりにわたしが描いたものです。わたしは、わたしの見たものを口にし、見たものを言葉にするまでのことです。そこから教訓を引きだす仕事は、道学者先生におまかせするのです。わたしは上層部の傷口を裸にしました。下層部の傷口をかくすこともしないでしょう。わたしの作品は、党派的なものでもなければ、プロパガンダでもない。真実の作品なのです。

「アルベール・ミョーへの手紙」

フランス第三共和制下でのスパイ冤罪を引き起こした「ドレフュス事件」で、大統領を糾弾した『私は告発する』(J'accuse)という公開状に連なって残した言葉は、ゾラの思想を貫くものとして強く残っています。

「いまや、真実が歩みだしたのだ、もはや何ものもこれをとどめることはできない」


「ルーゴン・マッカール叢書」は全二十巻ですが、どの作品も独立した物語として読むことができます。頁を捲るごとに当時を生々しく感じることができ、同時に現代にも通じる幸福の在り方を読者の我々に全ての行間から問い掛け続けます。複雑な表現が少ないながら情感豊かに描かれる世界に、一気に引き摺り込まれる作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『夏の夜の夢』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

妖精の王とその后の喧嘩に巻き込まれ、さらに茶目な小妖精パックが惚れ草を誤用したために、思いがけない食い違いの生じた恋人たち。妖精と人間が展開する詩情豊かな幻想喜劇。


本作『夏の夜の夢』の一つの特徴として種本が無いということが挙げられます。婚礼式典の余興として描かれていることから、貴族の結婚式で披露する目的でシェイクスピアが自ら書き上げたと考えられています。


Midsummer-dayは「夏至」を指します。キリスト教文化圏においては、この日に洗礼者聖ヨハネの誕生を祝う日として催しが行われます。それに関わる「ヨハネの聖水」という風習があり、夏至前夜に泉へ草花を浮かべ、夜に高まる月や森による自然のエネルギーを浴びせて、翌朝に豊かになった泉で顔を洗うというものです。これはキリスト教の普及以前の古代の農耕民族によって持たれていた信仰から、豊穣を願う伝統的な行いとして、聖ヨハネの祝祭が交わった形で現在でも受け継がれています。この前夜をMidsummer-night(夏至前夜)と言います。

言い伝えでは、この前夜は深い森の中で妖精たちが舞い、薬草や呪いの効果を増幅させると考えられており、恋仲の男女は関係をより深く強固なものにするため、夜通し森に篭って過ごす風習がありました。この当時では妖精(超常的)の存在が実しやかに囁かれており、信仰にも関わりを持っている時代でした。そして、どちらかと言えば呪術的な印象で恐れられている存在でもありました。だからこそ、若者たちはある種の神秘的な力を信じて(縋って)夜の森へと駆け込んだのでした。


しかし「夏至前夜の夢」と謳っていながら、舞台は五月祭(メーデー)となっています。ヨーロッパでの五月祭は古代ローマから発生した春の訪れを祝う祝祭です。花の女神フローラを崇めて成長や健康を願うものでしたが、派生して恋の成就や婚姻の加護なども求められるようになっていきました。やはり自然に由来する女神であることから、森には精霊の力が宿ると考えられ、若い男女が夜に祈りながら過ごすことが多くありました。このときの祝祭的開放感とも言える感情に当事者の若者たちは大胆な決断をできるようになり、実際にカップルが成立することが数多くあったようです。彼らは花の女神、花の精霊たちに感謝して森を後にします。

しかし、無事に森から出られる若い女性はごく僅かであると言われるほど、悪漢たちによる非道の行いも同時に頻発していました。そして、当時の妖精に対する認識は悪魔的・魔女的であり、人々に害を及ぼす印象を持たれていました。この畏怖と、前述の実際に起こる危険が潜んでいることを踏まえて、劇中における男女の行動は、試練的な危険を冒して成就を願うという意味合いが込められていたと考えられます。これを鑑みて題名を解釈すると「夏至前夜にみるような夢」と言えるかと思います。

 

高級と低級、貴族的世界と庶民的世界の混交は、カーニヴァル的世界に通ずる。『夏の夜の夢』では、現実とその異界が、正気と狂気が、理性と欲望が、人間と妖精がまざりあうカーニヴァル的世界が現出する。貴族社会からみれば、アテネの森は狂気と錯乱のグロテスクである。だが、そこにユートピア的共同体原理がある。

シェイクスピア ハンドブック』

祝祭を背景に置きながら描かれる妖精の施しは、当時の世間が抱いていた悪魔的恐怖は影を潜め、人間に滑稽さを持って跳ね回りながら迂闊な間違いで観客を楽しませます。人間と精霊、貴族と職人、対比的でありながら物語に融合していく雰囲気は、まさに祝祭的と言えます。そして開放的な雰囲気は心に留めた日常の秩序を崩壊させ、本音を直接的に相手へ発散する勇気を与えています。


進展の中心となる妖精の王オーベロンと使い妖精パックによるスラップスティック的コメディは、劇中全体を明るい空気に演出しています。中心となる四人の若者が生命を懸けて訴えるそれぞれの主張さえ、現実に靄が掛かっているような印象を常に与えて、超常現象の只中の空間に閉じ込められているように感じられます。幻想的な妖精たちの言動に、観客までもが振り回されて、夢うつつの心持ちで舞台を眺めることになります。本作におけるこういった喜劇的な妖精たちの描写は画期的であり、現代における妖精のイメージを最初に示した作品であると言えます。


また、庶民の職人たちによって繰り広げられる劇中劇の悲劇を滑稽な描写に仕立て上げている点は、先述の婚礼式典用の台本であることが理由として裏付けられます。悲劇が説く戒めを心穏やかな姿勢で受け入れることができる描写は、結婚式スピーチを聞く姿勢と似通っており、シェイクスピアが新婚の男女へ向けた温かいメッセージと見ることができます。

恋仲と婚姻という直結していながら質が全く変わる二つの要素は、今後の生涯に関わる重要な決断として強く表現されています。特に口数の多かった女性ふたりが婚姻の取り決めが為されたあと、全くと行って良いほどに語りません。これは当時の女性に求められた姿勢、或いは実際の女性の立場を現していると見られ、心を決めた描写として観るものに訴えかけます。

 

強い想像力には、つねにそうした魔力がある。つまり、何か喜びを感じたいとおもえば、それだけで、その喜びを仲だちするものに思いつくし、闇夜にこわいと思えば、そこらの繁みがたちまち熊と見えてくる、それこそ、何のわけもないこと!

契りを交わした二人に訪れる困難や仲違いに負けることなく、仲睦まじい夫婦生活を過ごして欲しいという、人生の教訓を交えたシェイクスピアなりの暖かい言葉であったのだと思います。


非常に読みやすく、心が暖まる穏やかな作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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