RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ミーチャの恋』イワン・ブーニン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

ミーチャの恋・日射病 他十篇 (岩波文庫 赤649-1)

 

「文字通り貫かれたのだ。この恐るべき日射病に、甚だしい愛に、甚だしい幸福に!」──亡命ロシア人作家イワン・ブーニンは人間を捕らえる愛の諸相を精緻な文体で描いた。見知らぬ女性との一夜の記憶が鮮やかさを増す「日射病」、初恋の歓喜が嫉妬の情に蝕まれていく「ミーチャの恋」など、作家が自ら編んだ中短篇集。


イワン・ブーニン(1870-1953)は地主貴族の家庭に生まれました。由緒ある家系で、「全ロシア帝国貴族紋章集」にも掲載されるほどでしたが、父親の代で大きく没落し、貴族としては非常に貧しい環境でブーニンは育ちました。クリミア戦役後に帰国した父親は、持ち前の情熱と寛大さで家庭を愛しました。そのため、ブーニン自身は貴族としての没落に反し、父親に対して強い尊敬の念を抱いていました。また、母親も慈愛に溢れ、感受性の豊かな女性であり、彼は貧しいながらも幸福な幼少期を送りました。ブーニンは、家庭教師の影響で読書に耽ることが多く、早い時期からホメロスの『オデュッセイア』などに触れ、彼の詩性を刺激していきました。十歳でギナジウムに入ったブーニンでしたが、環境や勉学の内容に肌が合わず、結果的に退学してしまいます。これ以後の家庭教師は兄ユーリに任せられましたが、ここからブーニンの文士人生は始まっていきました。ブーニンが人文や哲学に関心を持っていたため、ユーリはその方面を強化していきます。この教育の影響と、持ち前の詩性が合わさり、ブーニンは僅か十五歳にして小説『情熱』を書き上げました。また、1887年の冬に、詩人セミョン・ナドソン(作曲家セルゲイ・ラフマニノフなどに影響を与えたことで有名)の死を受けて綴った『セルゲイ・ナドソンの墓の上で』という詩が雑誌に掲載されるなど、その詩性は徐々に形を成していきます。


文学の聖地サンクトペテルブルクに居を移したブーニンは、ロシア文壇で活躍する文士たちと次々に交流しました。文学評論家で思想家のニコライ・ミハイロフスキー、自然主義作家ドミトリー・グリゴロヴィチ、社会諷刺作家アレクセイ・ジェムチュジニコフなどと言葉を交わしたのち、ロシア黄金期の代表作家レフ・トルストイの家を訪ねて議論し、戯曲と短篇の旗手アントン・チェーホフとも文学について議論しました。こうしてロシアの文壇の中心へと足を進めたブーニンは、写実主義作家たちによる文芸サークル「水曜会(スレダ)」に参加し、幅広い芸術の交流を叶えます。前述のチェーホフをはじめ、社会を切り取るように描いたマクシム・ゴーリキー、表現主義の先駆者レオニード・アンドレーエフや、ロシアロマン派の代表的作曲家セルゲイ・ラフマニノフといった音楽家も参加し、ブーニンは芸術的な研鑽だけでなく、穏やかな友情も築き上げていきました。


執筆も好調で、作家としての立場を築き上げていったブーニンですが、第一次世界大戦争の勃発によって大きな精神的失望を味わいます。ドイツ帝国によるランス大聖堂砲撃を受け、ブーニンは暴力による世界支配を目指す姿勢を強烈に批判しました。そして、ロシアにおける二月革命、第一次世界大戦争という歴史の流れは、ブーニンにはロシア崩壊の前兆として捉えられ、のちのソビエト連邦による権力を全て否定する態度を貫きました。当時は、「アレクサンドル・ブロークは革命の音楽を、イワン・ブーニンは反乱の不協和音を聴いていた」と囁かれたように、詩人たちによる革命推進に対し、ブーニンは反戦的な意味合いでの保守的な立場を取っていました。この感情が基盤となって、1920年に彼はフランスへと亡命します。黒海を渡るとき、ブーニンは「これまでの人生はすべて終わってしまった」と絶望を露わにしており、失意の底にあった精神による決断の亡命であったことが窺えます。


パリに落ち着いたブーニンは、失意のためか、なかなか執筆活動を始めることができませんでした。いわゆる「創作の貧困」と呼ばれる状況にありましたが、これは亡命後も気持ちを整理できず、変わりゆくロシアの情報を耳にするたびに気持ちが落ちていくという性質のものでした。しかし、その後に『刈り取る人々』を書き上げて話題となり、革命前の作品がパリでも出版され、亡命作家としての活動がゆっくりと本格化していきます。そして1924年に開催された「ロシア亡命者の使命」と題された文学の催しで、イワン・シメリョフ、ドミトリー・メレシュコフスキーなどの亡命作家とともに、ブーニンは「レーニンの命令を拒絶することが使命だ」と宣言し、亡命作家は進みゆく革命の道とは異なるロシアの道を示すことだと訴えました。このような活動の効果もあり、翌年に発表した本作『ミーチャの恋』は、大きな話題となりました。本作以降のブーニンの作品には、革命前まで一貫して込められ続けたロシア社会への啓蒙的な訴えは完全に消滅し、根源的な自然界における生物としての人間の存在が書き上げられています。


物語はミーチャという青年の一人称で進められます。彼は私立演劇学校に通う美しい女性カーチャに恋をしています。カーチャの美しさには目を見張るものがあり、貴族層の若者たちに注目されています。こうした様子を目の当たりにするミーチャは強烈な嫉妬心に駆られ、カーチャへも直接的に訴えるようになっていきました。彼女は、ミーチャの嫉妬心を抑えようと、自分には彼が唯一無二の存在だと伝え、何度も宥めます。嫉妬をするたびに宥められるうち、ミーチャはある時、彼女の心のなかで変化が起きていると感じました。そこからはカーチャに何を言われても嫉妬心がおさまらず、彼は耐え難いほどの苦痛に苛まれていきます。カーチャが演劇に没頭している理由のひとつに、一人の演出家の存在がありました。彼は演劇学校の校長で、カーチャを褒め称え、女優としての輝かしい将来を想像させます。彼女は演出家の言葉と、その情熱に惹かれ、時間を共に過ごすことが多くなっていきました。しかし、この演出家には生徒を誑かすという噂があり、カーチャはまさに標的となっていました。やがて彼女は「心の優しい純真無垢な少女」から「着飾って忙しなく愛想を振り撒く令嬢」へと変化し、ミーチャと恋の言葉を交わしていた時とは別人のようになってしまいました。ミーチャは嫉妬の苦しみから逃れるため、しばらくモスクワを離れて田舎の実家へ帰ることになりました。カーチャは賛同し、二人は療養後にクリミアで再会しようと約束します。

帰郷後、ミーチャはしばらく療養に努めていましたが、環境の変化による嫉妬心の抑制効果は見られず、むしろ一層にカーチャのことを思う時間が増えていきます。そこに居ないはずのカーチャの面影を探し、想いは募り、幸福な時間を思い出すたびに嫉妬心が溢れてきます。ミーチャは彼女に手紙を送りました。返事が来る前に、さらに手紙を送りました。カーチャが筆不精であることを理解しているミーチャでしたが、返事が届かないということは、やはり嫉妬心に繋がっていきます。手紙を待つあいだ、彼は図書館で恋愛誌を読み耽り、恋心を刺激し、また苦悩の渦に呑まれていきます。一向に届かない返事を求めて、ミーチャは毎日、自ら郵便局へと出向くようになりました。しかし、手紙が届くことはなく、新聞だけを持ち帰る日々が続きます。嫉妬の苦悩が心の底に突き当たると、ミーチャは「一週間のうちに手紙が届かなければ自殺するしかない」と決意します。そして彼は、郵便局へ通うこと、愛の手紙を書き送ることを禁じ、自分の苦悩と向き合うことにしました。このような苦悩を見兼ねた村の長は、ミーチャに気晴らしの娯楽を提案します。それは、少額の料金で村の若い女性と二人きりで過ごし、性的快楽を得られるというものでした。アリョーンカという女性が引き合わされ、二人きりで落ち合ったミーチャでしたが、家族の動向や自身の苦悶に心を掻き乱されます。幾つもの感情によって、ミーチャの神経は激しく過敏になっていきます。そして、性的な快楽を得た瞬間に、ミーチャは大きな失望感に包まれました。性行為に求めていた純粋性や幸福がそこにはなく、ただ一面の虚無だけが広がっていました。苦悩と絶望の板挟みとなったミーチャは、一つの大きな決断をします。


ロシア亡命者に向けたパリの雑誌「ソヴレメンヌイ・ザピスキ」に初掲載された本作『ミーチャの恋』は、大きな反響を呼び、さまざまな書評が寄せられて話題になりました。ブーニン自身の失恋経験が色濃く反映されていながら、自伝的な雰囲気を感じさせない点も一つの特徴です。ミーチャという青年の強烈な個性も理由に挙げられますが、何より嫉妬心の芽生え方の普遍性と焦燥感の表現が強烈な印象を与えています。快活な女性に見られる奔放さは、恋する青年にはもどかしさを生み出し続ける原因であり、恋愛感情の熱量が嫉妬の妄想を膨らませる原因にもなります。そして、このような登場人物の感情を剥き出しにした表現技法が「現代的」であると評価され、また、読者を物語へ没頭させる要素ともなっています。そして、読者が感じ取るミーチャの苦痛や嫉妬は、ブーニン自身が感じたものであり、読者が共感するものでもあります。


ミーチャの持つ「情熱と純粋性」は、彼に悲劇的な終幕を与えます。カーチャが演出家に誑かされる以前、二人は良好で純粋な恋愛感情で結ばれていました。恋の感情は相手を偶像化し、やがて異性の理想像へと昇華させます。この時点でも、カーチャの奔放さには「理想との相違」があり、小さな諍いを生み出していました。しかし、カーチャに変化が見えだすと、理想との乖離は激しくなり、比例して苦悩や嫉妬も激しくなっていきます。このようなミーチャの態度に、現実のカーチャの心は一層に離れていきました。遠く離れて暮らすことで、ミーチャが見るのは理想のカーチャだけとなり、それは絶対的な偶像となって嫉妬心が爆発的に膨らみます。そして会うことができないという事実が嫉妬を絶望へと変化させ、終盤の情事を招きました。


自然描写が緻密で豊富な点も、ブーニンの亡命後の作品に見られる大きな特徴です。人間という存在は自然の一部であり、自然と一体であるという考えから、登場人物の感情の機微は自然描写と共に詳細に描かれます。本作では特に顕著で、モスクワでの生活においては殆ど自然描写は見られず、田舎へ移り住んでからは非常に豊富に描かれています。モスクワでは、ミーチャが抱く嫉妬などの感情はカーチャへ直接的に放たれるため、その瞬間に発散してカーチャに宥められていました。しかし、カーチャと離れて暮らすことでミーチャは抱く嫉妬や苦悩を精神の内へと溜め込み、極度の葛藤という形で苦しみます。こうしたミーチャの感情変化や精神的負荷を、ブーニンは沈鬱な感情を准えるように自然を描写し、読者の心へ刷り込んでいきます。陽の明るさや暗さ、自然の優しさや厳しさ、蝶の舞いは蛾の羽ばたきへ、ミーチャの精神変化を自然描写によって緻密に描いている点が、印象の強さと美しさを本作に備えさせていると言えます。

 

愛は、情欲は、魂は、肉体は?いったい何なのだろう?いやそんなものはない──存在するのは、何か別のもの、まったく別のものなんだ!まさにこの手袋の匂い──これだってカーチャじゃないのか?愛、魂、肉体じゃないのか?農夫たちも、車内で働いている人たちも、不恰好な赤ん坊を洗面所に連れていく女性も、コトコトと鳴るランプの淡い焔も、春の荒れ野を覆う薄闇も──すべては愛であり、魂であり、苦しみであり、いまだ語られざる喜びなのだ。

イワン・ブーニン『ミーチャの恋』


ブーニンのノーベル文学賞受賞には、確かに当時の「亡命ロシア文学」を活性化しようという世界の文壇が描いた思惑が影響しました。しかし、彼の文学には並外れた熱量と表現技法が作品に込められており、間違いなく芸術性の高い作品が多く発表されていると言えます。本書に収録されている表題作の『日射病』にも当てはまることですが、頽廃文学の要素は備えているものの決して主題がそこにあるわけではなく、人間という存在を追究し、現実と理想における幸福の乖離を、自然を通して描いているところにブーニンの特異な文才が現れているのだと思います。ロシア亡命作家イワン・ブーニンの『ミーチャの恋』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『わが夢の女』マッシモ・ボンテンペッリ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

わが夢の女: ボンテンペルリ短篇集 (ちくま文庫 ほ 5-1)

 

自分の頭蓋骨をとりだした男の話、患者に模した蝋人形で患部を治療する医者の話、賭ルーレットの数字をピタリと当てる男の話等々ナンセンスの中にアブノーマルなグロテスクさの満ちた短篇群。現代イタリア作家の中で最も評価することの難しい作家といわれる、異才マッシモ・ボンテンペルリの戦後初のまとまった短篇集。まことに奇妙キテレツ・痛快な一冊である。

 

マッシモ・ボンテンペッリ(1878-1960)は、イタリアの最北西部に位置するロンバルディア地方のコモに生まれました。彼はトリノ大学を卒業後、教職に就きながら戯曲や短篇小説を執筆していましたが、希望する中学教諭の職を得られなかったため、これを契機にジャーナリストの道へと転向しました。程なく第一次世界大戦争が勃発すると、ボンテンペッリは戦地へ従軍記者として向かい、その戦禍を実感しました。戦後に生きてミラノへ戻ると、戦争による社会不安から十九世紀末より表出した「表現主義芸術」が隆盛していました。表現主義は芸術性に作者の感情を反映させた芸術で、技法は主に抽象表現が用いられました。この表現方法に階級闘争の思想を加えた思潮を「未来派」と呼び、のちの芸術運動を席巻していきます。未来派は「階級闘争における暴力性を肯定」したもので、権力者側が抑圧する暴力と被支配者が権力に立ち向かおうとする暴力を、破壊的ではなく社会を正そうとする創造性であると提唱した『暴力論』(フランスの哲学者ジョルジュ・ソレルの主著)を屋台骨とした芸術運動です。ボンテンペッリは、この「未来派」の影響を受け、彼は自身の文学に変化を与えていきました。フランスのパリへ彼はジャーナリストとして向かうと、未来派の芸術家たちと交流し、自らも文学者として、この思潮を拡大させる活動に取り組みました。


未来派宣言を発表したフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ、形而上絵画のジョルジョ・デ・キリコ、その弟である作家で作曲家のアルベルト・サヴィニオ、大胆奇抜な劇作家ルイージ・ピランデッロなど、現代の芸術に大きな影響を与えた面々と交流することで、自身の文芸性はこれまでにない新たな思潮を発現させます。過去のイタリア文学より継承されていた思潮のなかで、ボンテンペッリはヴェリズモ運動と頽廃主義運動の流れに与していました。ヴェリズモ運動は、現実をありのままに描写しようとした自然主義に近しい運動ですが、どちらかと言えば犯罪などを含めた社会の闇を映し出そうとしたノンフィクショナルな性質を持っていました。ここに、未来派の抽象表現と暴力性が合わせ、彼は自然界のなかに想像上の独自世界を描写しようと試み、言い換えれば、両方の世界を融合させた幻想的現実を描き出し、理性と自然の二元論を成立させようとしました。これを「マジックリアリズム」と呼び、ボンテンペッリは独創的な文学を誕生させました。


彼の短篇小説『鏡の前のチェス盤』や『エヴァ・ウルティマ』は典型的なマジックリアリズムで書かれ、現実と虚構を二つの社会として抽象的に描いたものでした。この手法は当時のシュルレアリスム芸術に通ずるものがあり、友人であるジョルジョ・デ・キリコやアルベルト・サヴィニオらと共に、彼はイタリアでのシュルレアリスム運動に大きく貢献しました。その後、ローマに移り住んだボンテンペッリはルイージ・ピランデッロと親交を深めました。ピランデッロは彼に戯曲の創作を提案すると、『ミニー・ラ・カンディダ』(1927年)という現代のイタリア演劇で代表的とされる作品を生み出しました。こうした多岐にわたる執筆活動だけでなく、自らを含めた様々な実験的な作家を紹介した雑誌『900(ノヴェチェント)』を創刊するなど、イタリア文学の最前線で活躍しました。寄稿した作家には、モダニズム作家のジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフ、詩人のマックス・ヤコブやライナー・マリア・リルケなどがあり、ボンテンペッリは文芸批評家としても、その名を知らしめました。


本作『わが夢の女』も、マジックリアリズム創生期らしい作風で描かれ、ある種の幻想的で頽廃的な要素が融合されています。遠く離れなければならない男女が、別れの前の思い出を作るため、公園に構えているいくつかの見世物小屋に赴き、その催しを楽しんでいました。別れが脳裏にちらつきながらも楽しもうとする様子には切なさが秘められています。最後の催しへ入ろうとすると、加工された鏡が二つ備えられており、映すものを極端に変形させていました。男性はこの鏡に映った醜悪な女性の姿が脳裏に焼き付いてしまいます。直後に、女性を迎えにきた親族に声を掛けられ、二人は別れを告げて互いに立ち去ります。翌朝、悪夢にうなされた男性は慌てて目的の離れた地へ向けて出発しますが、女性を思い出そうとしても醜悪に映った鏡の姿しか思い出せません。何度試みても変化のない思い出に浸るうち、現実と虚構の狭間へと思考は落ち込んでいきます。


別れの前の切なく幸福な時間は、鏡に映るという行為によって、全くの別世界のように変化させられてしまいます。時間の速度も急激に変化し、記憶や思考も一挙に変化します。まさに、世界を変化させる引き鉄のような存在が鏡であり、男性は変化してしまった世界から抜け出せなくなってしまいます。虚構を虚構と認識できない男性は、過去の美しい女性の姿を思い描くことができず、醜悪な鏡の姿が記憶の全てとなり、実在すると理解している美しい女性への想いが維持されながらも、結局は厭悪の感情で心を満たしてしまいます。

 

幾度も私は、両手で頭をかかえ、アンナのことを、ほんとうのアンナのことを考え、実物の美しい彼女を、ふたたび見ようと思うのだが、だめだった。いまだに、だめなのだ。だから私は、いまだに、手紙を書いていないのだ。私は、彼女を失い、彼女は私を失った。きっと、私を恨んでいることだろう。


想像的な独自現実のなかで物語は進められますが、そこには美しさ以上の頽廃性が込められており、ヴェリズモ運動の潮流にあることが作中から窺えます。一見、怪奇性と捉えられる作風ですが、マジックリアリズムの手法で「あくまで現実」であるという点が特徴的で、だからこそ、読者には現実と虚構の狭間という恐怖を感じさせています。


年代から考えると、本作は日独伊の三国同盟の時代で、当時の日本ではファシズムが国家を握っていました。ボンテンペッリも当時はファシズムを称揚し、第一線で啓蒙に取り組んでいました。こういった背景から、早い段階で日本にはボンテンペッリは紹介されていましたが、第二次世界大戦争以降、こうした文学は姿を消しました。ボンテンペッリ自身は、ムッソリーニの第二次世界大戦争参戦の表明からファシズム反対派に寝返りましたが、この一定期間のファシズム支持という事実が、作家人生を大きく狂わせることになり、終生は恵まれない環境で過ごしました。作家としても文芸批評家としても、結果的にはあまり認められず世を去りました。


このように不遇な作家人生を過ごしたボンテンペッリですが、日本では数年前に『鏡の前のチェス盤』の新訳が出版されたようです。イタリアのシュルレアリスム運動を文学で支えたボンテンペッリの『わが夢の女』、手に取る機会があればぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

 

 

 

『風知草』宮本百合子 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

風知草

 

二十世紀初頭、1904年に日露戦争、1914年に第一次世界大戦争と、日本は国家規模以上の激しい侵略戦争を繰り返していました。しかし、国家を潤すという侵略目的に反して、連続した戦争は軍需ばかりが嵩み、結果的に人命被害と国民への貧困だけが与えられました。日本国民は尊皇による軍事称揚を押し付けられていましたが、1917年に起こったロシア革命による共産主義運動が国内に流入し、国民の生活にもその思想が浸透していき、やがて身を守るための共産主義運動が活性化していきます。一定層による偏った資本の占有を認める私有財産制に対する反発をきっかけとして、運動規模は拡大し、やがて君主制国家そのものを否定した運動へと発展していきました。尊皇の世に国民の反抗的な運動は許される筈もなく、政府は軍事国家らしく武力で弾圧していましたが、1925年に恐ろしい法律「治安維持法」を制定してしまいます。これは、私有財産制に限らず、国家の定める法、或いは活動自体に反発する者を「政府の判断により罪人と定める」という理不尽なもので、共産主義を是とする国民を片端から裁いていきました。治安維持法の制定と同時に共産主義運動に参加していたものは次々と逮捕され、拷問され、行方不明者や死者となって消えていきました。最も大掛かりなものは1928年の三・一五事件で、共産主義運動の中心組織を絡げて数百人を検挙し、全国へ見せしめのように取り上げたものです。このような不条理な国家による弾圧を、文学を通して世に訴えようとした人々をプロレタリア作家と呼び、共産主義運動に参加した人々が多くありました。三・一五事件を題材とした作品を発表した小林多喜二はプロレタリア作家の第一人者であり、共産主義運動の重要人物として活躍しました。そして翌年、つまり1929年に発表した『蟹工船』で全国的な代表作家として文壇の地位を確立しましたが、反政府の影響が強くなり過ぎたことにより、延々と国家に拷問を与えられ、最期(1933年)には非人道的な扱いを受けて死亡しました。

このように、治安維持法は政府が国民を自由に弾圧するための法律として存在し、国民は自由な思想や意思を持つことさえ許されず、ただ尊皇だけを神の如く扱うように強要されていたため、政府に対して声を上げることなど殆ど不可能な環境でした。

 

これまでの日本はいつも天下りの戦争にならされていました。天皇制の封建的な、絶対的な教育の下で、人民は戦争を「思惑の加った災難」として、無批判に服従してきました。
そして今日の破局に到りました。日本に戦争反対の心がなかったかといえば、小田切秀雄の「反戦文学の研究」をみてもわかるとおり、いつもときの戦争に反対した人道的な精神はありました。天皇制の権力はそういう文学を非国民の文学とし最近の数年は治安維持法でとりしまりました。

宮本百合子『戦争と婦人作家』


死を意味する「共産主義運動」でしたが、それでも命をかけて活動を続けようとする人々は、モスクワより戻った活動家の風間丈吉を中心とした「非常時共産党」を結成します。プロレタリア革命を掲げた彼らは、1931年に思想を同じくする小林多喜二をはじめとしたプロレタリア作家を加えて地下活動を活発に行いました。このとき、後の共産党指導者の宮本顕治と妻である宮本百合子(1899-1951)も同様に入党し、活動に参加しました。前述した小林多喜二の経緯があるように、他の党員も同様の危険を纏いながら、日々の生活を、例えば百合子であれば「党員」と「作家」という二重の生活を過ごすことになりました。しかし、政府が反国的な作家を野放しにすることはなく、出版社への強い圧力と作家への直接的な「出版禁止」を命じ、度重なる逮捕と勾留によって、百合子は執筆活動期間を僅なものしか確保できませんでした。1934年、日本共産党スパイ査問事件の加害者として逮捕された顕治は、彼の病や第二次世界大戦争の影響で裁判が長引き、終戦までの十二年ものあいだ投獄されていました。一方で、1938年に徹底的な出版禁止と活動の取り締まりを受けた百合子は、顕治と意思の疎通さえも図れない環境に置かれ、1939年に出版を解放された直後に、今度は第二次世界大戦争時の尊皇徹底が敷かれ、先の見えない執筆の禁止を余儀なくされました。


敗戦後、尊皇という絶対的な信仰とも言える国民の柱はGHQにより取り払われ、悪法である治安維持法も撤廃されました。しかし、プロレタリア作家たちは、これまで弾圧され続けた影響により堂々と作品を発表する気概さえ、恐怖に取り憑かれて思うように活動することができませんでした。その間、復刊や創刊された文芸雑誌には永井荷風などの安定した知名度の作家や、焼け野原となった社会をどのように生きるかを提示する第一次戦後派、或いは、戯作的な救いとなる大衆へ向けた作品を生み出す新戯作派などで誌面は埋め尽くされ、世間の文学的風潮からプロレタリア運動の影は薄くなっていきました。このような状況のなか、百合子は五年間も全く作品を発表できていなかったことで、溢れ出る意欲と使命感を糧に、これまでの思想を貫き通すように、立て続けに執筆して作品を発表しました。その主題は明確で、これまで地下に埋まり続けていた共産主義運動を公に日の下へ照らし出す、実際の自身の経験を踏まえた作品群でした。

終戦日の1945年8月15日、軍事国家の日本が解体され、悪法も撤廃され、ようやく解放された顕治は、二か月かけて百合子の元へと帰ってきました。十二年ものあいだ引き離されていた夫婦は、信じ続けた互いの感情、生きているという実感、心身ともに喜びと安堵で震える瞬間を、再び出会うということで確かめ合いました。そして、百合子はその経験を活かして『播州平野』と本作『風知草』を書き上げました。

 

文筆の仕事の上で、可能なかぎり、戦争反対と平和の確保、原子兵器禁止の態度を明かにして居ります。平和を守る会、知識人の会、民主主義擁護同盟に参加して居ります。科学者たちが、適切な共同声明を発表しているのに、文学者は、なぜそのようにあっさりと、はっきりと行為しないのでしょうか。このことについてしきりに考えます。

宮本百合子『戦争・平和・曲学阿世』


百合子と顕治は、それぞれ「ひろ子」と「重吉」に置き換えられ、再会から数日後の場面から物語は始まります。満足な健康管理ができなかった重吉の身体検診を行うため、協力的な医者を待つ二人は、何処かしら時間を押し留めようとするほどにゆったりと過ごしています。荒れ果てた土地に道を迷う顕治の行動や、投獄経験が滲み出る技術などは、瞬間ごとに複数の感情が沸き起こり、独特の穏やかで切ない描写が続けられていきます。そして、二人の今後の活動をどのように方向付けて行くかということを、互いに具体的な言葉で説明することは少ないながらも、二人は十二年のあいだ繋がれていた共有の思想を体現しようと歩み出します。そして、再び赤旗編緝局を立ち上げ、日本共産党は合法政党として始動していきます。


治安維持法の被害を最も集中的に受けた共産主義運動者たちは、検挙され、拷問され、殺された大切な同志を胸に抱き、自らも恐怖と弾圧に耐えながら戦い抜いてきました。そして敗戦により尊皇ファシズムは消滅し、プロレタリア革命者の文字通りの枷を外したことで、ひろ子は大切な同志と抱く思想を、十二年越しに再び手にすることができました。そして、この出来事の象徴的存在とも言える日本共産党の始動は、日本国民が国内で革命的政党を組織したという事実としても強烈な印象を与えています。

 

十二月はじめに、はじめての大会がもたれることになった。赤旗編韓局という表札と同様に衆目の前でもたれる大会として、それは最初のことであったが、歴史の中では第四回目に当った。
いろいろの大衆的集会も活気にみちてもたれていて、一九四五年の冬は、日本の民主主義の無邪気な発足の姿であった。
木枯の吹く午後おそく、ひろ子は、前後左右ぎっしり職場の若い婦人たちで埋った講堂で、ニュース映画を観ていた。それは「君たちは話すことが出来る」と云う題であった。十月十日に、同志たちが解放される前後を中心として、治安維持法と、その非道な所業、その法律の撤廃を描いた映画であった。山本宣治を殺して出来た治安維持法が、小林多喜二を虐殺し、渡辺政之輔その他たくさんの人々を犠牲とした。

宮本百合子『風知草』


本作の抱く主題の「重さ」は通底しているものの、読者は不思議と穏やかな人間性を終始にわたって感じることができます。特に、作中で陽の感情が起こるときには、特に共感的に伝わってきます。苦痛を乗り越えた幸福という効果もあると思われますが、それ以上に、解放された後をどのように希望を抱くかという二人の感情が流れてきているように思われます。ひろ子が百合子であり、重吉が顕治であることには違いありませんが、それ以上に、作中の二人は共産主義運動に関わらず「戦争から解放された二人」であり、「尊皇ファシズムから解放された二人」としての性質が強く現れており、それらの言動自体から離れた「叙情性」が強く滲み出ています。ここに込められた解放から齎される清々しい感情こそが、主題以上に百合子が表現したかったものではないかと考えられます。そして、二人の姿勢はこれまでの軍国主義や君主主義に対抗し続けようとする意思が込められ、その熱量が二人の絆として刻まれているようにも思われます。

 

まず第一に、多くの作家の作品は、戦後現象的であった。
百合子も、戦後を題材として書いている。しかし、宮本百合子そのものは、戦後的ではなかったのである。

中島健蔵「人と文学」


当時の共産主義運動は、プロレタリア革命を目指したものでした。侵略戦争を是とし、君主主義の横暴に国民は苦しめられていました。それでも立ち向かおうとする二人の姿勢と覚悟は、間違いなく愛情によって繋がれていたのだと考えられます。宮本百合子『風知草』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

 

『国際エピソード』ヘンリー・ジェイムズ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

国際エピソード (岩波文庫 赤 313-2)

 

イギリスの貴族ランベス卿と生粋のアメリカ娘ベッシーの恋物語。イギリス気質とアメリカ気質を対照的に描いたジェイムズの中篇。

 

アメリカのニューヨークで生まれたヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)は、旅する文学者でした。アメリカで生まれた彼は、哲学者の父の意向に沿って法律家を目指しましたが、自身にとって、どうしても興味が湧かないことを悟り、関心の強かった文学の道へと方向を変えました。彼は、ボストンやマサチューセッツなどで作家と交流し、多くの知識人との関わりを持つようになり、文学者としての礎を少しずつ築いていきます。この頃、『若草物語』を書いたルイザ・メイ・オルコットと食事を共にするなど、そほ関わりは非常に幅広いものとなっていました。二十六歳となったジェイムズは、芸術的な側面での文学が活発であったヨーロッパへと興味を抱き、約十四ヶ月間の欧州旅行へ出かけます。特に英国では、それぞれで開かれている大小のサロンへと顔を出させてもらい、当時に活躍していた多くの作家と交流することに成功しました。ヴィクトリア時代の代表的芸術批評家ジョン・ラスキン、英国社会風刺の巨匠チャールズ・ディケンズ、英国耽美派詩人マシュー・アーノルド、アーツ・アンド・クラフツ運動の指導者ウィリアム・モリス、心理洞察に優れた作家ジョージ・エリオットなど、錚々たる芸術家たちと関わり、彼はその感性を刺激されました。


一度帰国した彼は数年後、今度はフランスのパリへ移住します。この十九世紀末のパリは「ベル・エポック」の最盛期で、新芸術と呼ばれるアール・ヌーヴォーの文化運動が活性化していました。アルフォンス・ミュシャの手掛けるポスターが街を埋め尽くし、絵画では印象派からフォーヴィズムやキュビズムまでが隆盛、音楽ではリヒャルト・シュトラウスやグスタフ・マーラーなどが活躍し、建築ではエッフェル塔で初めてエレベーターが取り入れられました。芸術の祝祭的とも言える発展は、当然ながら文学でも巻き起こっていました。芸術至上主義の第一人者であるギュスターヴ・フローベール、自然主義文学の旗手エミール・ゾラ、君主主義の自然主義文学者アルフォンス・ドーデ、厭世的な自然主義作家ギ・ド・モーパッサンなど、現代の作家にも多くの影響を与え続ける作家たちが競うように自然主義文学を発表し、文壇の地位を固めました。ここでもジェイムズは持ち前の交渉術と勇気を持ってサロンへと顔を出し、パリの文壇を席巻する作家たちと次々に懇意になっていきました。


その後には、また英国へと向かい、再び文化の牽引者たちと関わりを持ち、そこで受けた政治的な印象とフランス文学者たちの自然主義の思想を重ね合わせて、自らの文学作品を生み出していきます。自身の旅行記とも言える挿話をフィクションとして展開し、自らの存在を消し去って自然主義的な作風で創作しました。彼の実際に体験した事実を、完全な客観性で描く彼の作品には、主観的な感情は薄まり、当時の社会と風俗に翻弄される「実際の生きる人々」が前面に浮かび上がっています。この作風は1877年から顕著になり、『アメリカ人』、『ヨーロッパ人』、『デイジー・ミラー』などを立て続けに発表し、大西洋を股に掛けた欧州と米国での名声を強固なものとしました。この時期に発表した作品が、本作『国際エピソード』です。これらの作品が好評であった一つの理由として、欧州の伝統的な社会規範から掛け離れた行動を起こす「女性」の活躍を描いた点が挙げられます。


本作では、英国上流貴族の男性二人と米国中流階級の女性二人が交流する様子を描き、各国の社会制度や風土を浮き彫りにしている作品です。古い歴史を持つ英国の階級社会や嗜みを背景とする男性たちが、国家として新しい米国の資本主義社会で認められる奔放さを持つ女性たちと交流するうちに、互いの価値観の相違を魅力と捉える一方で、やがて広がる歪みとなっていきます。本作は二部構成で、第一部では英国人男性が米国へ行き、第二部では米国人女性が英国へ向かうという流れで進んでいきます。第一部の自由奔放で開放感のある景色のもとで、礼儀や柵から解放された英国のランベス卿は、堅苦しい英国の風習は辟易だと言わんばかりに置かれた環境を楽しみます。同行する従兄弟パーシ・ボーモントは、羽目を外しすぎないようにと釘を指しますが、ランベス卿の気持ちの高揚はおさまりません。相手をするウェストゲート夫人は米国に誇りを持ち、客人を満足させるもてなしを徹底する反面、心の奥底に強固な傲慢さを秘めています。そして、その妹ベッシー・オールデンは歴史を重んじ、芸術を愛する、知性あふれる美しい女性です。ランベス卿は時間を共にするうち、ベッシーに恋心を抱くようになり、ボーモントは一抹の不安を抱きました。貴族であるランベス卿とベッシーは決して結ばれることがないという英国の「しきたり」を、この開放的な米国の空気にランベス卿が浮かれて不幸を招こうとしていると考えます。その危険を避けるため、ボーモントは一計を案じてランベス卿の母親と協力し、急ぎ帰国するように取り計らいました。


数ヶ月が経ったのち、今度は米国の姉妹が英国へと旅行に訪れます。ランベス卿への気持ちが高まっていたベッシーは、なかなか到着した旨をランベス卿たちに伝えようとしない姉に痺れを切らします。英国では米国人は自由に振る舞えず、彼らは米国人を蔑んでいると決めつけているウェストゲート夫人は、英国全般に向けた猜疑心が溢れており、いつものような放埒な様子は微塵も見せません。そのような理由から、ランベス卿たちも自分たちのことなど記憶に無いだろうと決め付けて、ベッシーの期待を満たそうとはしません。しかし、ある日の散歩中にランベス卿たちとともに滞在していた英国人の一人と偶然に出会い、これをきっかけにしてベッシーはランベス卿との再会を果たします。感動的な再会を喜ぶランベス卿にベッシーも嬉しい表情を見せますが、ウェストゲート夫人から猜疑心は消えません。ランベス卿のどのような相槌にも難癖を付け、自分たちへの侮蔑を探り続けます。それでも日を重ねるごとに距離の近付くランベス卿とベッシーは、二人で語り合う場面が増え、お互いをよく「知り合う」ようになっていきました。ベッシーが、社会において立派である人は中身も立派でなくてはならないという、至極真っ当な意見を述べると、ランベス卿は意にも介さず、社会的に立派であればそれが全てだと当たり前のように返答します。社会は歴史が作り上げたもので、その社会を動かす立場の人間は歴史を理解していて然るべきでは、というベッシーの意見も、ランベス卿は全く必要がない、と取り付く島もありません。徐々に社会や立場といった環境以上に「人間的な価値観の違い」を突き付けられたベッシーは、高まっていた気持ちが急速に和らいでいきます。そのようなこととは想像もしないランベス卿は、婚姻話のために自分の母親との話の場を設けようとして、終幕へと物語は進んでいきます。


第一部では、米国人の掲げる「自由」と抱く「自信」がウェストゲート夫人の言動に現れていましたが、第二部になると、環境が変わったことで顕著に疑心暗鬼や猜疑心が溢れ出します。米国は欧州からの移民で発展した国ですから、根源的な伝統文化は同様にあるはずです。しかし、歴史が作り上げた英国の風習や社会制度は、新しい国家とは全くの異国文化であり、そうした環境で過ごす国民にも、それぞれの気質や価値観が齎されています。自由であるという誇りと環境の心地よさを肯定せんがために、ウェストゲート夫人は「歴史ある風習や社会制度」を徹底的に嫌悪します。ここから滲み出る疑心暗鬼や猜疑心は、繰り返し描写されることによって段々と滑稽に映り、やがて読者は愚かしくさえ感じてしまいます。

一方で、歴史の生んだ文化や芸術を尊重し、一貫した憧れを保ち続けるベッシーは、(本作における)米国においては異端な人物として描かれています。しかし、そこに抱かれる憧れは哲学や詩性に対する敬意が表れており、確かな審美眼を持とうとする意思が感じられます。だからこそ、歴史を軽んじて社会を動かしている英国貴族や階級制度そのものを嫌悪するベッシーの姿勢には、読者は同調的な感情を抱き、迎えた物語の結末に納得せざるを得なくなります。姉妹は双方共に英国に対して嫌悪感を抱く結果になりましたが、理由が全く別のものであることから、社会に向けるべき姿勢はどちらであるかを対比的にジェイムズは描いているように思います。

 

ところがベッシー・オールデンがつくった影繪は、肝腎の侯爵の姿と一致しなかった。そしてその不調和が時として彼女を、自分でも譯が解らないくらい、苦しめた。彼が傍にいないときには、不調和は勿論大して目立たなかった。そういう時の彼は高い責任と愛すべき性質とが充分美しく結合したもののように思われた。ところがいったん眼に見えるところに坐って、いつもの快活さと單純さとで笑ったり喋ったりしていることになると、勢い彼女はより正確に測るようになり、ランベス卿の地位は堂々たるものだが、青年自身にはあまり堂々たるところがないことを痛切に感じるのだった。そういう時には彼女の想像は彼から離れて──遠く離れてさまようのだった。


前述のように、ジェイムズはフランス文学で隆盛していた自然主義作家たちに関わり、彼自身の作品にも大きな影響を与えました。同時的に、彼はベッシーの求める芸術性の尊重を持っており、自身の筆で追究できないかと試み続けていました。自然主義とは作者の主観や主張を排除して社会を現実的に映し出すことにあります。徹底した作中における作者の排除は、物語に作者の片鱗さえ感じさせず、一貫した社会描写の語り部を生み出させました。この、文学における芸術形式の完成を目指した強い意識は、登場人物たちに台詞による性格の披露を体現させました。そして追究を続けるジェイムズは、この時期(本作発表)以降、戯曲によってその性質をより強化させたのち、1898年発表の『ねじの回転』などに見られる「意識の流れ」を描く文学を生み出していきました。意識の流れを描くことは、地の文そのものが登場人物が支配するということであり、作者が踏み入る余地は無く、完全なる作者の排除と言え、追究した結果にこのような手法が生まれたことは実に納得させられます。この作風は文学における一つの作風として構築し、以後のモダニズム作家ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフなどに受け継がれていきます。


ジェイムズは旅する文学者として、多くの国の歴史や文化を見つめてきました。併せて、彼は、彼自身の精神における故郷という性質の国も強くは持っておらず、観察した国々の社会を「既にあるもの」として肯定的に受け止めることができたのだと思います。つまり、生まれ育った米国さえも客観的に眺めることができ、俯瞰的に観察することでウェストゲート夫人の滑稽さや歴史に憧れと尊重を抱くベッシーを、主観を添えずに描くことができたのだと考えられます。英米の両国を称揚もせず否定もしない姿勢だからこそ、より一層に双方の問題点が浮き彫りになっているように感じられました。ベル・エポックに颯爽と登場した米国人作家ヘンリー・ジェイムズの『国際エピソード』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『赤毛のアン』ルーシー・モード・モンゴメリ 感想

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今回はこちらの作品です。

 

 

ちょっとした手違いから、グリン・ゲイブルスの老兄妹に引き取られたやせっぽちの孤児アン。はじめは迷惑がった二人も、明るいアンを愛するようになり、アンは夢のように美しく移り変るカナダの自然の中で、少女から乙女へと成長してゆく……。愛情に飢えた、愛すべき人参あたまのアンが巻き起す、愉快で滑稽な事件の中に、人生のきびしさと暖かい人情が織りこまれた少女文学の名作。


カナダの東側、大西洋のセント・ローレンス湾に浮かぶプリンス・エドワード島は、国内最小の州として知られています。カナダは大航海時代より西洋人が流入し、植民地戦争を経て英国が治めるようになりました。白人の多い植民地であったことから、連邦から独立国となった先駆けの国でもあり、独自の文化を築いた国でもあります。流入した西洋人はアイルランド人やスコットランド人が多く、彼らの持ち込んだケルト文化が現在でも主流となっています。自然崇拝による祭礼などがよく知られますが、幾何学的な模様を身の回りに取り入れる点も特徴で、現在まで受け継がれるキルト民藝は誰もが知るところです。1867年の建国から西方で起こった1896年のクロンダイク・ゴールドラッシュにかけて、十九世紀末のカナダは怒涛の勢いで近代化に目覚めていきます。しかし、プリンス・エドワード島民は独自の時計を持つかのように、広大な自然に囲まれてゆったりと過ごしていました。赤い土地と広範な森林、美しい湖と移り変わる農作地の色々は、彼らの精神が表れているように落ち着いた力強さを持っています。農作業や身繕いはもちろんのこと、自動車なども殆ど使わず、毎日が人の手で賄われていました。


ルーシー・モード・モンゴメリは、1874年にこのプリンス・エドワード島で生まれました。彼女が二歳になる前に母親が病で亡くなり、父親は出稼ぎのためにカナダ西方へと移り住みました。そのため、モンゴメリは島の北部に位置するキャベンディッシュの祖父母へと預けられました。彼女はこの幼少期に、集中して読書をしました。小説は読むものを制限されましたが、詩は存分に触れることができ、彼女の内にある詩性は着々と磨かれていきました。こうした詩への没頭は彼女の感性を刺激するだけでなく、後に生み出す彼女の文学作品にも少なからず影響を与えています。雑誌や新聞に詩や短編小説を投稿し、職業作家という立場を築き上げた彼女は、長編小説に挑戦します。これが本作『赤毛のアン』です。完成直後に持ち込んだいくつかの出版社から拒否され、失意のあまりに原稿を保管していましたが、三年の時を経て読み返すと出版への意欲が再燃し、ようやく発表となりました。


本作は、十九世紀後半のプリンス・エドワード島にある架空の町アヴォンリーという場所で繰り広げられます。農業を営み女性が苦手な中年男性マシュウ・クスバートと、その妹マリラが、農作業の手伝いとして男の子を養子に迎えようと考えていました。彼らの住むグリン・ゲイブルスは自然の美しさに溢れており、穏やかな日々が永遠に続くかのような印象を持っていました。そこへ養子を迎えるという事件が近所を騒がせましたが、手違いによって女の子が訪れたために二人は一層に困惑してしまいます。しかし、彼女の境遇と幼さ、そして明るく天真爛漫な活気が二人に新たな感情を与え、結果的にグリン・ゲイブルスへと迎えることになります。そして、幸福な孤児アンは、描く幸せと実際に触れる社会に翻弄され、精神の成長と真の幸福を見出していきます。


細々とした家事は経験を活かしてこなすことができるアンでしたが、同学年と接する機会や学校という社交的な場は経験が無く、大小さまざまな失敗を起こします。しかし、アンの幸福を夢見る空想や一本芯の入った言動に周りも心を動かされ、やがて新たな社会に存在感を放つようになっていきます。そして、想像の中でしか得られなかった「腹心の友」ダイアナと心を通わせ、その関わりの中で精神的な成長を見せていきます。


アンの空想癖は周囲を混乱させます。溢れる想像力と持ち前のロマンティシズムは、家事の最中でも、会話の最中でも、突如として彼女に取りつきます。いわば彼女の「内面世界」は、彼女の精神を構築しているものであり、これまでの非社交的な環境が産んだものであるからこそ、周囲からは社会性の欠如として映ります。これに対して、マリラは非常に実際的な思考の持ち主で、社交の場における礼儀や作法を重んじており、アンの非社交的な性格を正そうと試みます。そこには、アンが家庭で受けることができなかった「愛のある敎育」としてマリラは自負しており、引き取ったからには責任を持って淑女に育て上げなければならないという決意さえも感じられます。しかし、強制的な押し付けであった教育的感情は、アンが引き起こすさまざまな出来事によって考え方が変化し、やがてはアンの「幸福を描く空想」を肯定していきます。実際的な性格のマリラは、空想により描いた幸福の未来が訪れなかった不幸や落胆を恐れていましたが、やがてアンの「未来に待つ幸福を描く」という行為が、「未来を幸福に切り開く努力」なのであると理解するようになり、一概に悪い面だけでもないと思うようになっていきます。また、アンの方でも、学校や友人との社交場での経験によって社会性の重要さに気づき、アン自身の心身が成長することによって空想に耽るばかりではなく、結末に見せるような実際的な決断をするように変化します。こうした二人の関わりによる歩み寄りは、当然ながらアンが居なければ起こらなかった変化であり、双方にかけがえのない存在として認め合う大切な関係性であったと言えます。


アンのロマンティシズムは、グリン・ゲイブルスに来るまでに得られなかった経験の欠如から齎されているもので、アン自身が夢や憧れとして抱いているものです。この感情は劇的に精神へと影響を与えているため、極端に感受性が豊かになっていると言えます。真実の愛情、永遠の献身、超越的な悲劇、極端な劇性、こういったものを無意識に望むが故の空想癖であり、アンから滲み出る危うさは自ら欲しているという側面も見られます。幼少期に満足を得られなかった家族愛、そして目の前に無いからこその憧れは「未知であるが故の魅力」となってアンの精神に刷り込まれています。しかし、前述のような環境による社会経験が彼女の精神を成長させ、アン自身が実際的な判断をくだすことができるようになりました。感傷に浸る「妄信的なロマンティシズム」は、やがて現実に直面する「感情を揺さぶる出来事」の強い影響に追いやられ、精神的な成長によって消滅します。そして、アンの成長は周囲にも影響を及ぼし、アンの放つ魅力として浸透していきます。この成長の集大成とも言える言葉が、終盤でマシュウによって放たれます。

 

そうさな、わしには十二人の男の子よりもお前一人のほうがいいよ
いいかい?──十二人の男の子よりいいんだからね。そうさな、エイヴリーの奨学金をとったのは男の子じゃなくて、女の子ではなかったかな?女の子だったじゃないか──わしの娘じゃないか──わしのじまんの娘じゃないか


人間は未来を予想することはできても、未来そのものを感じることはできません。この未来をどのように迎えるかは、人それぞれの心づもり一つと言えます。終幕で大きな喪失感を覚えるアンですが、この時に「真の喪失」を体験します。精神が成長したアンは、喪失を現実として受け止め、それでもなお生きていくことを前向きに捉えています。そして最後の決定的な決断では、アンが未来を「前向きな現実」として見据え、生きていこうとする姿勢が垣間見得ます。アンがマリラに放つ言葉には、空想ではない幸福を求める未来、つまり「希望」を未来に見ています。モンゴメリは、希望を持って未来を生きていくことを読者に語りかけているように思われます。

 

あたしがクイーンを出てくるときには、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲り角にきたのよ。曲り角をまがったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。それにはまた、それのすてきによいところがあると思うわ。


本作ではアンを通して、人間としての個性や友情、幸福と未来といったものを、各々がどのように捉えて生きていくのか、そして捉え方が人生にどのように影響を与えるのか、そのような感情を彼女の成長とともに考えながら読むような印象を与えられました。作中でのプリンス・エドワード島の美しい描写はモンゴメリの詩性が存分に発揮され、情景が目の前に浮かび上がるようです。そして、アンの抱く豊かな感情の動きは、読者を惹き込み、物語へと没頭させてくれます。現代でも愛され続けている本作『赤毛のアン』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『気がかりな結末』ユーリイ・トリーフォノフ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

気がかりな結末 (1975年) (現代の世界文学)

 

現代の精神の危機への深刻な警鐘。功利的な妻リータ、黙然と自己の運命を生き抜く家政婦ニューラ。モスクワのインテリ家庭を舞台に、この二人を対照的に描きながら、近代化の進む現代ソビエト社会で、伝統的なロシア女性の純朴な心の喪失と、それに伴う夫婦関係の崩壊を指摘した。社会主義制度の中で物質的にもめぐまれながら、なおかつ心は空洞化するソビエト市民の苦悩を捉えた異色中篇集。


1964年にフルシチョフが第一書記の任を終え、レオニード・ブレジネフの時代が始まりました。継続する雪解けは全体主義的なスターリニズムの社会を和らげ、経済や文化の発展へと目を向けるようになっていきました。ブレジネフは、第二次世界大戦争の終戦後から続いていた、西洋思想との対立や資本主義との対決に起因する「米ソ冷戦」を緩和させようと試みました。いわゆる緊張緩和(デタント)を図るために、ブレジネフはアメリカへ核軍縮などを推進する外交に熱を入れましたが、スターリン批判以来、国内で高まった東欧社会主義国による自由主義運動の影響を受け、これを抑えつける活動に回らざるを得ず、結果的に任期中の緊張緩和は実現させることができませんでした。特に、1968年に起こったチェコスロバキアでの改革が、ブレジネフ政権を傾斜させる大きなきっかけとなりました。これは、アレクサンデル・ドゥプチェク第一書記が「人間の顔をした社会主義」を掲げて言論の自由化を求めて起こした革命ですが、この出来事が同様に抑圧された周辺諸国に伝播し、他の社会主義国にも革命が波及していきました(プラハの春)。ソビエト連邦の共産党体制基盤を揺るがすこの脅威をブレジネフは看過できず、ドゥプチェクを「修正主義者」と非難したうえでワルシャワ条約機構軍を用いた武力弾圧を行い、革命の波を収束させました。こうした、ソビエトにおける社会主義体制維持のための周辺社会主義国に対する介入の正当化は、ブレジネフの「制限主権論」として知られるようになりました。


しかし、ブレジネフが敷いた国内政治体制は、スターリンのような粛清やフルシチョフの行った極端な降格人事などは見られず、政敵に対する権力収奪の配置変更などを中心に行いました。そのため、国民に対しては恐怖を振るう支配者とは映らず、中央集権的な経済政策も円滑に受け入れられます。1950年代は戦後の復興も相まった結果を見せて経済成長の兆しが見えましたが、1960年代に入ると経営悪化企業への助成金を目当てに多くの企業が不正を働き、経済の発展は急速に鈍化していきました。また、ブレジネフ自身の西欧高級車嗜好の露見や身内が率先して不正を行うなど、冷戦下における行動としては説得力に欠けたものがあり、経済的な発展はあまり実現しませんでした。一方で、週休二日制の導入、労働不能者や戦傷者への手当、年金受給条件の緩和など、市民への福利厚生にも力を入れていたおかげで、市民は安定した豊かな生活を与えられたことも事実として残されています。


ブレジネフは「ロシア・ナショナリズム(民族主義)」を押し進めていました。国内政治基盤を固めるため、政治体制の内側と国民の支持という二面を見据えていた経緯があります。言い換えれば、スターリンが広げてフルシチョフが狭めた政策を、ブレジネフは再興させたのだと言えます。前述の戦後復興はこの政策転化が功を奏しており、特に都市部での工業発展を支えた労働力は、農村部より都市へ向かった人々の尽力によるものでした。こうした都市部への人口移動は、農民だけでなく多くの知識人も行いました。特に注目すべきは作家たちで、ソビエト連邦全体が都市に労力と希望を注ぐなか、彼らは都市文化称揚に反し、農村が培う素朴で力強い人間性を肯定しました。具体的にはダム建設による環境破壊の非難などといった主題を打ち出しており、当時は「農村派」作家として人気を博しました。一見すると、ブレジネフの政策方針に逆行するような思想が強いように思われますが、彼はこれを受け入れ、大いに支援します。この優遇の理由として、ロシアにおける農業の投資に対する国民の理解を得る目的があったと言えます。前に述べた1960年代に都市部の経済成長が鈍化した時期、ブレジネフは再び農業活性化の必要に迫られました。彼は農村派を称揚するかたちで農業復興の「大義名分」を手にし、政策の方針転換を堂々とすり替えるかたちで実現させました。


しかし、このことにより、ロシア文壇では都市活性化を支持する「ロシア・ナショナリズム」と、政策転換による「農村派称揚」とのあいだに矛盾が発生します。ロシア帝政期のスラヴ派を持ち出す右派に対し、ロシア中央政権はどのような姿勢を取るべきかが困難になりました。そこにチェコ事件が勃発することによってブレジネフが取る態度は強引なものとなり、ロシア・ナショナリズムに対しての緩和策を設け、その手段として文学作品に対する検閲という手段を持ち出しました。当初は実際に必要に迫られた激しい論調のものを取り締まるだけでしたが、やがてブレジネフの中央集権に反抗を示すものを制裁する性質へと変化していきました。こうして、戦前戦後に活躍(のちに粛正)した銀の時代の後の世代、つまりペレストロイカまでの約二十年間を生きた作家たちは、ロシア文学の停滞期として自由に執筆できない時期を過ごしました。


この時代に、表面は社会的に豊かでありながら、精神の不協和音を感じ続けるインテリゲンチャ(知識人層)の都市生活を描き続けた「都会派」と言える作家が生まれました。豊かになったはずの市民生活は、やがて娯楽に侵されて虚無的なものへと変化し、心の内部から歪みが生まれ、都会人としての幸福の崩壊が始まるという事実を直視した市民の精神を、彼らは実存主義的な筆致で描いています。こうした一般市民の現実的な豊かさと不自由の矛盾を、登場人物の意識の流れによって描き出した作家がユーリイ・トリーフォノフ(1925-1981)です。

 

巨大なロシアの氷塊は割れることも、ひびが入ることもなく、震えることさえなかった。しかし、氷塊の奥深くで何かが動いたのだが、それは数十年後にようやく明らかになった。

ユーリイ・トリーフォノフ『焦燥』


トリーフォノフは、抑圧された社会主義的政治、強制的な道徳的状況、いわば強力なイデオロギーの弾圧が始まった時代に、自身が描くべき主題に出会い、実際に才能が花開きました。自身の体験と感情を反映した「生活に垣間見える自己理想の裏切り」を、時代の重要な問題と定義し、その独白とも言える独特の文体を構築し、概ねの作品に見られるように不幸な結末を迎えるように描いています。スターリン批判によって行われた雪解けを「瞬間的な英雄現象」として捉え、ブレジネフによる強制的な検閲によって「永続的に求められる順応」という現状を、作家であるトリーフォノフは「窒息的絶望」というかたちで社会に問題提起しました。これに勘付いた当局の息がかかった批評家は「俗物的」と批判しましたが、その些細な日常描写のなかにこそ、自己理想の裏切りに抗う姿が描き出されています。そして、独白のようなかたちで会話さえも地の文に埋め込んでしまう描写が、インテリゲンチャの抱える矛盾と苦悩を、作中で「意識の流れ」としてイデオロギーを表出させています。


トリーフォノフの作品には、当時の文士や歴史家といった知識人が重要な登場人物として描かれています。自身の経験した感情や意識がそこには反映され、その心理描写には実存主義的な現実が込められています。この感情や意識の機微が「流れ」として描かれることで、政権に対してもナショナリズムの面でも賛同していないにもかかわらず、その点に起因しない日常の瑣末さに左右される実際的な登場人物の思考が前に出されることで、厳しい検閲を免れていました。このような手法を見抜いた他の知識人たちは、意図に賛同するとともに、彼らを率いる思潮の中心人物としてトリーフォノフを拠り所としました。雪解けにより与えられた精神的な自由、スターリニズムからの脱却という風潮は、ある意味で終息しており、新たな息苦しい社会の到来を受け止めて苦悩する現実をトリーフォノフは社会に訴えるように描き、この風潮は高まっていきます。そして、行き場のない息苦しさを意識の流れで如実に描いた作品が、本作『気がかりな結末』です。


語り手となるゲンナージイは、多くの言語を理解する詩の翻訳者で、トリーフォノフを投影した知識人として描かれています。作中は彼の独白が中心となっており、そこには突発的な思考の切り替えや感情の変化が見られ、彼の目線で日常の「些事」が語られていきます。彼は、息子に指摘されるように自身の翻訳という仕事に誇りは持っていない一方、生活を支えてきた大黒柱としての誇りから奔放な生活と敬いの無い言動を見せる息子に激怒します。ゲンナージイは、根本として詩や哲学に理解を示していません。実に現実的な社会を生き、そこに必要な倫理や道徳性を重要視しています。この考えに反する行動を見せるのが妻リータで、実際社会に不適合な言動を選択する様子に、ゲンナージイは蟠りを覚えています。収入は不安定ながらも平均水準以上の家庭を守るゲンナージイですが、そこに精神的な満足は無く、家族に対する否定的な感情が募っています。ソビエトに生きる市民の感情は、満たされた社会的経済状況に反して、行き場のない鬱屈したものばかりで溢れ、家庭が精神的な崩壊を見せていました。このような内部分裂を起こすインテリゲンチャ家庭に、トリーフォノフは本作で家族を繋ぎ合わせる存在としてニューラという下女を登場させています。彼女は、ナロード(民衆的)出身の忍耐と献身を兼ね備えており、そこに現実的な生活力を兼ね備えた人物として行動します。自身の意見や思考を持たずに他人に流されて無為なものに投資する妻と対象的に描くことで、ニューラの持つ献身と生活力が現実社会でいかに必要とされているのか、そしてゲンナージイが必要であると考えているのかを、実際の社会へ問いかけています。


ゲンナージイの意見や思考は、最終的に社会の全てに嫌悪感というかたちで現れます。これは、或る種の自己中心的思考であり、自分の理想に固執する人間像であると言えます。これは、当時のインテリゲンチャが置かれた立場から生まれた憎悪であり、知識人そのものの頽廃の象徴でもあります。そして、トリーフォノフはこのようなインテリゲンチャに対しての嫌悪感を示すため、ゲンナージイの独白という手法を選択しました。検閲から生まれた虚偽や日和見主義といった態度、知識人そのものの頽廃的堕落は、確かに国政が生み出した社会に起因しています。しかし、本来あるべき知識人の姿である「創造性の追求」を、トリーフォノフは当時の知識人に対して強く求めました。

 

それは新しい時代思想を身につけた翻訳者たちで、実務的で敏捷でどんな仕事でもたちまち片づけることのできる人たちだった。そのうちの何人かは三か国語、四か国語を知っていたが、別にそれで本質が変わるものではない。要するに若き実務家たちである!彼らには実現されなかった希望にこだわるような過去もないし、いずれも若々しい爪を光らせて仕事に立ち向かっていく。その上、馬のように筋骨たくましく、きわめて正常なる血圧と頑丈な歯とをそなえている。

ユーリイ・トリーフォノフ『気がかりな結末』


インテリゲンチャの置かれた「知識人としての苦悩」は、トリーフォノフ自身も大いに感じていました。しかし、自らをも含む知識人層を俯瞰的に眺め、置かれた状況でも為すべきことがあるのではないかと考え、他の知識人へその考えを投げ掛けた姿勢は、ロシア文学の停滞期と呼ばれた時代にありながらも、強い思想を維持したトリーフォノフの強さであったと思います。実際の社会に見られる些事的現象を注視し、当時における重要な問題意識を表現した熱量は、独特の内的独白という意識の流れで描かれました。この手法だからこそ、トリーフォノフの思想が強く描かれているのだと感じました。


トリーフォノフ自身は、ペレストロイカ後の文壇を見ることができませんでした。しかし、彼の功績が後の文学作品の礎を担っていることは間違いありません。ユーリイ・トリーフォノフ『気がかりな結末』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

『斜陽』太宰治 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

敗戦直後の没落貴族の家庭にあって、恋と革命に生きようとする娘かず子、「最後の貴婦人」の気品をたもつ母、破滅にむかって突き進む弟直治、滅びゆくものの哀しくも美しい姿を描いた『斜陽』は、昭和二十二年に発表されるや爆発的人気を呼び、〝斜陽族〟という言葉さえ生み出した。


第二次世界大戦争の最中、日本では超翼賛社会が国家によって広められていました。国のために、天皇のために、そのようなプロパガンダによって国民の意思や個人の思想は抹殺され、「国のための国民化」が進められました。この尊王一色の思想を与えられた国民は、敗戦後に荒地と廃墟が広がる社会へと放り出され、今まで信じてきた国と天皇に頼ることはできなくなり、やがて絶望を抱いて目の前の食糧を追い求めることになりました。それでも戦後の社会を生きなければならないという意思を、一人の国民として、一人の個人として、多くの作家たちは社会へ向けてそれぞれの思想を打ち明けました。苦しい戦争経験と敗戦を経て、戦後社会をどのような思想で生きていくのかを示した戦後派や、鬱屈した社会や生活環境に娯楽要素を提供した新戯作派など、作家それぞれが理解と衝突を繰り返して戦後文壇を発展させていきました。この活性化する文壇において、戦後の絶望を受け入れながら戦後権力に反抗を示す姿勢で立ち、自らを作中で「無頼派」と名乗って独自の思潮を最後まで貫いた作家が太宰治(1909-1948)です。


青森県津軽郡における有数の大地主である津島源左衛門を父親に持ち、太宰は六男として生まれました。父親は県会議員、衆議院議員、貴族院議員などを務めた地元の名士で、近所では「殿様」と呼ばれるほどの裕福な家庭で太宰は育ちました。殿様の子らは、小学校では実力に関わらず全て優良な成績を与えられ、屋敷での身の回りは乳母や下女が全て世話をしてくれます。中学生になる直前、殿様である源左衛門が肺癌によって亡くなると、太宰は緊張が緩和して勉学に身を入れなくなっていきます。彼は、勉学の代わりに文学に耽溺し、芥川龍之介、志賀直哉、室生犀星、井伏鱒二などの作品に影響され、自らも小説家を目指すようになっていきました。全寮制の高等学校文科に入ると、津島家の権能によって下宿を許可させて親戚筋の屋敷で自適に過ごしていました。このころに芥川の自殺を受け、精神に大きな影響を与えられます。翌年、世間で大きな畝りとなっていたプロレタリア文学に触発されて同人作品を発表しましたが、これは津島家の意向に沿わないため、連載を差し止められてしまいました。その後、懸賞小説に応募するも落選が続き、彼はカルモチン自殺(鎮静催眠剤の多量服用)を図りました。ひと月ほど母親と温泉で療養し、体力はすぐに回復しましたが、精神には蟠りが残りました。大学では受験者が少ないために試験が無いと聞いていた東京帝国大学文学部仏文科を志望しましたが、実際には試験が行われ、これに試験官に対して泣き寝入りをして特別に入学させてもらいました。フランス語を全く学ばずに入学したため、当然のように講義内容を理解できず、太宰は美学科へと転入を考えますが、同時に小説家の道を切り拓くために井伏へ弟子入りを願い出ます。


太宰は、高校時代から交際していた芸者の初代と結婚したいと考え、津島家へ決意を伝えました。しかし、名士の子が芸者との結婚を許されるわけもなく、大きく反対されます。意地でも曲げない太宰の意思に、津島家は考えを変えて太宰を分家除籍するかたちで結婚を認めました。太宰はこの結果を受けて、喜び以上に財産分与の対象外となったことに落胆してしまいます。除籍となった十日後、自棄を起こすようにバーの女給と勢いでカルモチン自殺を図りました。そして、女給だけが亡くなり、太宰は生き残りました。この事件で太宰は自殺幇助の罪に問われましたが、津島家に泣きつき、起訴猶予処分で収まりました。津島家長男は太宰に対して、大学を無事に卒業すること、問題行動を起こさないこと、この二点を約束する条件で仕送りを継続することにします。そして、初代が上京して入籍はしないものの結婚生活が始まり、ようやく落ち着きを見せ始めたころ、太宰は周囲の空気に流されるように左翼活動に身を投じて抜け出せなくなると、こちらもやはり長男に助け出されました。仕送りは減額されましたが、最後まで継続されました。


執筆活動に精を出していた太宰でしたが、大学の受講は惨憺たるもので、大学生活が五年目に突入してしまいます。大学を無事に卒業するという約束に触れていると自覚した太宰は、仕送りが打ち切られることを恐れて新聞記者になって生活を維持しようと試みました。しかしながら、入社試験は不合格、立ち行かなくなることを恐れて首吊り自殺を図ります。その後、体調不良が重なったこともありますが、学費の滞納によって大学を除籍されてしまいました。この闘病生活の際、太宰は頻繁に打った鎮痛剤パビナールの依存症となります。執筆活動は継続しており、佐藤春夫などにも評価されるなど、少しずつ文壇に顔を見せ始めるようになりましたが、パビナール依存症の治療を先輩文士たちに勧められてしまいます。権威を早く得たい太宰は、周囲に死を仄めかして回るなどの不安定な言動を見せていましたが、何度も繰り返した自殺未遂を引き合いに出されて、記者からは愛想を尽かされてしまいました。パビナール依存症は一向に治らず、薬を買うために初代の着物を売り捌き、知人への借金は膨れ上がっていきました。あまりに酷い症状と生活に、井伏は強制的に太宰を入院させます。一ヶ月の療養で少しは症状が治りましたが、入院中の初代の不貞行為が発覚し、太宰は初代とともにカルモチン自殺を図り、二人とも生き延びて離別しました。


井伏の紹介で、太宰は美知子という地質学者の娘と見合いをします。人生をもう一度正す、幸福な生活を新たに築く、そのような思いを合わせて、太宰は美知子と結婚しました。その決意が実ったのか、実際に二人の結婚生活は安定し、太宰の執筆活動も順調で、この時期に『女生徒』や『駆込み訴え』などの作品が発表されました。執筆の依頼も増え続け、収入が安定してきたことからも、太宰にとって幸福な時期であったと言えます。


1941年、世界戦争が拡大していたころ、太宰は文士徴用令を受けましたが、肺浸潤を理由に徴兵を免れました。その直後、太宰の『虚構の彷徨』に影響を受けた歌人の太田静子が、早逝した我が子の日記風の告白文を彼に送り付けました。関心を持った太宰は、彼女に遊びに来るようにと働きかけました。これがきっかけとなり、静子は太宰の愛人へと確立していきます。美知子に疑いの眼差しを向けられるも、太宰は策略を用いて誤魔化し続けました。戦争が激化しても太宰は変わらずに作品を発表し、『新ハムレット』や『御伽草子』など、勢い衰えずに執筆を続けました。そして、1945年の東京大空襲では美知子の実家の甲府へ疎開しますが、今度は甲府空襲によって津軽の津島家へ疎開しました。その後、戦争は敗戦という形で終わりを迎えます。


敗戦した日本政府は、GHQ(連合国軍総司令部)の命によって農地改革を発表しました。これは、日本国内での貧富の差を排除し、戦争の引き金となった軍国主義を消滅させるために行われました。国内の地主から強制的に土地を取り上げ、小分けにして安価に小作人へ売りつけました。国民から思想を取り上げ、戦後の食糧不足を自らで解消させようとしたこの国策は、一見すると効率的に思われますが、細かく土地を分配したための農民の零細化が進み、抜本的な解決には至らず、現在まで続く問題として残っています。津軽の大地主であった津島家は典型的な搾取を受け、抱えていた人や資産は恐ろしい勢いで消滅していきました。多くの財産を取り上げられた津島家を見た太宰は、アントン・チェーホフの『桜の園』を思い起こし、この光景を題材とした作品を生み出そうと考えました。これが、本作『斜陽』です。


静子の子を認知した太宰は、別の愛人である山﨑富栄とも関係していました。肺の病は進行し、病状がひどくなっていたことから、富栄は愛人兼看護師のような役回りをしていました。太宰の面倒を見続けた彼女でしたが、やがて不安定な関係性が問題となり、彼女自身も精神を病んでいきます。そして、強い意思を持って太宰に迫り、ともに心中することになりました。太宰は享年三十八歳でした。


太宰は、上記のような反倫理的と言える生活を過ごしました。しかしながら、彼の日常生活は極めて規則的で、几帳面なものであったと言われています。定刻に起床し、午前中に執筆を行い、午後には読書や交友を、そして夜は自らを見失うほどに飲み明かすなど、全てが無法者のような生活であったのではなく、彼自身が衝動だけでなく理性を持って野放図な生活を送っていました。これらの理由の一つとして、周囲への奉仕の精神という、自分を道化の存在へと落とし込んだ意図があったのだと考えられます。

彼の作品には、独自に解釈した聖書の引用が多く記述されています。カトリックでも、プロテスタントでもない、彼自身によって信じようとした神の存在がそこにがあり、彼の強い求道精神が導いていたのだと見ることができます。作品のなかには、上記の人生が随所に素材として現れ、背徳感や頽廃思想が滲み出ています。このような、頽廃を自ら求める姿は、彼の心の芯に確固たる思想が根付いていたからだと考えられます。自分を人間失格者であると、そしてそれを求めようとする思考には、太宰の生い立ちが強く影響しています。


津島家という貴族として生まれた彼は、全てに満たされた環境を見て、この先には衰退しかないのだという考えが頭を過ります。奪われる者、壊される者、貴族がそういった対象として見えた彼は、いつ訪れるともわからない恐怖に取り憑かれます。読み漁った芥川龍之介やプロレタリア文学からは、悲痛な民衆の声と、持つ者への敵意が伝わってきました。そして事実、農地改革によって全てを取り上げられた津島家を見て、これこそが為されるべき鉄槌であったと確信を抱きます。太宰は、革命を起こされる側の人間としての理解を持ち、そこに対して正当性さえ認識していました。このような革命を望む被革命者としての思想は、すでに手にしていた求道精神によって裏付けされ、自らを頽廃へと導くことが彼自身の為すべき革命行為であったのだと、太宰自身は理解して作品へと思いを昇華させていきました。


こうした彼自身が執筆した作品には、彼の持つ「運命論」とも言える思想を随所に埋め込んでいます。また、頽廃を求めるものとしての「堕落者」としての自身の投影をも試みています。彼の作品には幾つも彼自身の経験や心情が反映している点も、このことが影響しています。しかし、彼の作品には日本の自然主義文学のような赤裸々な告白を中心に据えたものはなく、感傷や同情といったものから寧ろ遠ざけようとする描写が多く見られます。自分が頽廃を望み、堕落を望んだからこその状況であり、それは被革命者が受けるべき罰とも言える運命であると主張するかのようです。こうした既成の倫理に自ら反しようとする行動を正当化した姿勢を、太宰自身は「無頼派」と呼びました。彼は同情から遠ざかるように、根底に告白するかたちでその思想を作品に織り込みました。


社会主義に傾倒し、プロレタリアに賛同し、それらを「貴族」である津島家に否定された太宰は、自らが抱いた思想を否定され続けました。この苦悩は、自らが社会革命に手を染めることが叶わないならばと、自己を抹殺する頽廃を選んでしまいます。本作『斜陽』の主題に置かれた「革命」は、自身の身代わりである中心的な登場人物に委ねられ、それぞれの行末を提示しています。弟の直治は青春期の姿を、母親には幼年期の姿を、語り手の姉には革命を起こして頽廃を求める姿を、太宰は貴族の没落劇に隠し込むように自身の告白を記しました。

弟の麻薬中毒と貴族であるという羞恥心は、終幕で明確に綴られています。貴族に嫌悪感を抱きながら、自身から溢れてしまう貴族としての振る舞いと意識に耐えられず、弟は激しく苦悶します。一方で、没落していく身の回りを受け入れることなく、また抵抗もしない母親には、無知な貴族としての結末が据えられています。双方とも、太宰自身が生涯を通して苦しんだ自己嫌悪の情が根源にあり、それぞれに彼が描く「こうあるべき」結末が用意されています。

革命者である姉は、前述の愛人である静子が投影されており、子を宿した点や認知した点は事実を元にしています。貴族の子が頽廃を求めて革命を起こす熱量や、社会的貴族の価値観に対する厭悪の熱情は、こうした現実的な描写が拍車を掛けて有無を言わさぬ説得力を示しています。


太宰の文章は、とくに戦後において、柔軟な文体が特徴であると言われています。これは彼自身が意識して取り組んでいたことで作品にも記されていますが、戦後に浸るべき文体は「軽み」であると断言しています。過剰な漢字の使用を避け、句読点をこまめにおいて、読み手が軽みを感じるように工夫されました。

 

この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。

太宰治『パンドラの匣』


戦後、津軽より東京に帰ってきた太宰は、敗戦の跡を目の当たりにし、強烈な怒りを覚えます。打ち荒れた街に文化の影は無く、目の前を飢餓が埋め尽くし、再び自分は貴族の名に守られたことを悟りました。復興しようとする文化によって、やがて文士たちも息を吹き返し、それぞれが思想を持って寄り集まり、各所で文芸サロンを開いていました。しかし、掲げる思想に誇大な印象を得た太宰は、これら全てのサロンを厭悪します。

 

私はサロン芸術を否定した。サロン思想を嫌悪した。要するに私は、サロンなるものに居たたまらなかつたのである。
いまではもう、社会主義さへ、サロン思想に堕落してゐる。私はこの時流にもまたついて行けない。
日本の文化がさらにまた一つ堕落しさうな気配を見たのだ。このごろの所謂『文化人』の叫ぶ何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにほひがしてならない。

太宰治『十五年間』


目の前の惨状を見ようとしないサロンの姿勢に、現状を理解して伝えようとしない報道姿勢に、太宰は怒りを露わにしました。文化人を気取る者たちの馴れ合いとしてのサロン、そのように目に映った太宰は、この社会そのものを厭悪し、自己の革命が必須であることを確信しました。彼が自らを親の仇のように傷付けて生み出した作品は、彼が起こそうとした革命の一端であり、そこには強い覚悟と思想が込められています。しかし、それでも、太宰は他人に情を掛け続けました。彼は心底、人間を嫌っていた訳ではありませんでした。

 

ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。

太宰治『斜陽』


貴族の生まれと斜陽貴族の生まれ、共に徴兵を病で逃れ、共に身を賭して社会を憂い、共に自死を選んだ二人の作家、太宰治と三島由紀夫は意外と多くの共通点を持っています。しかし、それぞれが相容れなかったことは残された作品からも理解できます。それでも、違った形で交友があったなら、まだ見ぬ理解の上で、二人に違った未来があったのではないかと考えてしまいました。太宰治の『斜陽』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『氷』アンナ・カヴァン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

異常な寒波のなか、私は少女の家へと車を走らせた。地球規模の気候変動により、氷が全世界を覆いつくそうとしていた。やがて姿を消した少女を追って某国に潜入した私は、要塞のような〈高い館〉で絶対的な力を振るう長官と対峙するが……。迫り来る氷の壁、地上に蔓延する略奪と殺戮。恐ろしくも美しい終末のヴィジョンで、世界中に冷たい熱狂を引き起した伝説的名作。


芸術としての文学は、思想や哲学を主題に置いて詩や散文が書かれますが、サイエンス・フィクション(SF)などの大衆小説を基盤としてこれらの主題が織り込まれるものを、アメリカでは「スリップ・ストリーム」と呼ばれています。最近では「スペキュレイティブ・フィクション」と言われる想像性豊かな非現実世界を描く分野にも影響を与えており、1960年代のSFにおける「ニュー・ウェーブ」の流れの延長線上に位置します。本作『氷』は、この「スリップ・ストリーム」に分類されることがあり、実際に「英国ニュー・ウェーブ」の代表作家であるブライアン・オールディスやJ・G・バラードによって賞賛されています。しかしながら、本作はそういった「ニュー・ウェーブ」の延長線上にはどうしても収まらない作風と印象があり、そこには作者アンナ・カヴァン(1901-1968)の壮絶な人生と思考が関わっています。


英国で醸造業を営む裕福な家庭の一人娘であったカヴァンは、幼少期から西欧諸国を渡り歩いて過ごしていました。この両親は娘にあまり関心を払わず、カヴァンは充分な愛情を受けることができませんでした。一家がアメリカへ移り住み、カヴァンが十一歳のとき、経済的な困難が無かったなかで、父親は船首から身を投げて自殺してしまいます。精神的な不調が原因とは目されますが、カヴァンの生活はここから一層に厳しいものとなっていきます。母親は父親以上にカヴァンを蔑ろにし、育児放棄とも言える環境に置いて、自らは自由に活動をしていました。成長したカヴァンが進学を希望すると、彼女の意思を無視した母親は、強引に十歳差の男性と結婚させてしまいます。そして、この男性は母親の元恋人でした。暴力的で支配的な結婚生活はカヴァンを社会から隔離させ、彼女は執筆活動と生まれた息子に神経を注ぎました。当然の如く結婚生活は破綻し、カヴァンと息子は英国へと戻ります。


カヴァンはロンドンで暮らしていましたが、そこで執筆を行う傍ら、芸術工芸学校へ通って絵画を学びました。生涯を通して、彼女は執筆と絵画を継続しました。このころ、カヴァンはフランスのリビエラへ定期的に出掛けていました。高級な保養都市として知られるこの地で、彼女は精神を落ち着かせるために通っていたのだと考えられます。しかし、この地で癒しだけでなく、生涯を苦しめるヘロインとも出会います。いわゆる現代の鬱病の治療としてモルヒネを処方されていましたが、出会った男性の誘いもあり、彼女はヘロインの常用者となっていきます。当時は、ヘロインを危険視はしていましたが、違法ではありませんでした。1929年になると、彼女はヘレン・ファーガソン名義で『魅惑の輪』を発表し、以後も数作を出版しました。変わった作風ではありましたが、どちらかと言えば基本的なビルドゥングス・ロマン(教養小説)で描かれていました。


作家として歩み出していた彼女でしたが、再婚相手の不倫が明らかになり、精神を追い詰められたカヴァンは自殺未遂を起こしました。療養のためにスイスの病院へと移りましたが、鬱病は酷くなる一方で、自殺未遂を何度も繰り返し、ヘロインからも抜け出せない状態になりました。1940年にアンナ・カヴァン名義で出版した『アサイラム・ピース』はこの激しく乱れた精神状態で生み出されたもので、奇妙な精神世界と崩壊、監禁拘束と虐待や疎外感などが散りばめられた短篇集です。これはペンネームだけでなく、作家としての姿勢、作品を覆う作風などが劇的に変化しており、アンナ・カヴァンという作家が新たに生まれたとも言える作品でした。こうした実験的とも考えられる作風を、女性の性愛小説を描いたフランス作家アナイス・ニンは「夜の言語」と呼び、本作は文壇で大きく話題となりました。


作家生活も安定し始める一方、各国では第二次世界大戦争が激化していき、カヴァンの息子も徴兵されてしまいます。そして、1944に息子の戦死が告げられると、カヴァンの安定しかけた精神は崩壊し、鬱病とヘロイン中毒が激しくなっていきました。さらに、これまで暗黙の了解で認められていた処方箋としてのヘロインも1950年代に入ると徐々に規制されていきます。カヴァンは正式に違法となる前に必死になってヘロインをかき集めました。これより彼女は、執筆と絵画、鬱病とヘロイン中毒という、不安定な精神での創作活動の日々を送ります。当然ながら、そのような生活は身を蝕むものとなり、1968年にカヴァンは自宅で死を迎えました。本作『氷』は死の前年に発表された作品です。執筆中の作品名は『冷たい世界』でした。


カヴァンは、美しい文体で頽廃的な作品を生み出したデューナ・バーンズや、曖昧性や不確実性を肯定するモダニズム文学の代表作家ヴァージニア・ウルフなどと比較されることが多くあります。とくに、バーンズとは悲劇的な生い立ちが齎す世界に向けた「頽廃的な価値観」と「歪められた性愛感情」が共通しており、それぞれの作中の文体に漂う不穏さには重なるものが感じられます。双方の作品に通底する主題は「普遍的な頽廃と呪縛」であると考えられ、登場人物には現実性よりも象徴性(iconic)が優先されていると見受けられます。こうした厭世観とも言える厳しい社会への眼差しは、苦痛を伴った人生を歩んだからこその価値観形成であったと言えます。

本作『氷』に関して、カヴァンは「繰り返し襲われる悪夢の一つ」と捉え、写実性を拒否した現代の寓話であると告白しています。傷ついた彼女の精神は不眠症を引き起こし、症状を抑えるためのヘロインは悪夢を呼び起こしました。進行する鬱病は心の傷を大きく広げ、精神へと与える打撃は現実と夢の両方で彼女を苦しめ続けます。鬱病とヘロインによる意識混濁は現実と夢の境界を曖昧なものとし、彼女が見る景色は起きていても寝ていても悪夢に染まっていきました。恐るべき感覚として、彼女は作家として、この状況に僅かながらも楽しさを覚えていました。


『氷』は、核を用いた戦争によって地球に異変が起こり、巨大な岩の氷棚が地の果てから覆い尽くそうと迫る終末的な世界が舞台となっています。語り手の男性は某国の諜報機関に所属していると思われる言動で、銀髪のアルビノ少女を追い求めて救い出そうとします。少女は長官と呼ばれる彼女の夫に束縛され、監禁状態に置かれていることがわかります。語り手は少女との恋人同士であった記憶を頼りに、彼女を長官の支配から逃れさせるため、迫り来る極寒の氷棚をも恐れずに追跡します。


物語はこのように進みますが、本作の文章構成は非常に複雑で、読者の理解を避けるように綴られていきます。情景描写が続いたかと思えば、何の前触れもなく語り手の回想が繰り広げられ、突如として幻覚的な妄想が描かれると、語り手が知ることのできないはずの場面を語り始めます。また、固有の人名や地名が出されないため、物語の筋書きは一層に捉えづらく、読者は不安な感情を煽られ続けます。しかし、繰り返される語り手と長官の追走、語り手と少女の追走、氷と人類の追走によって、やがて抽象的な印象の塊が読者のなかで構成されていき、形のある悪夢としての存在が目の前に見えてきます。予兆なく起こる場面の転換は悪夢の性質を、語り手が知り得ない場面の描写は精神の分裂を感じさせ、読者はカヴァンが見せる「頽廃的な悪夢の片鱗」を読み取ることになります。カヴァンは、『アサイラム・ピース』で表出させた幻覚と現実の曖昧な境界線を、本作『氷』によって自らが向かい合い、意思を持って芸術作品として完成させたのだと言えます。


カヴァンが描く頽廃的な終末世界は、確かに核や自然の異常を描いていますが、彼女は決して科学について書いているわけではありません。彼女の作品は、SFにおける「ニュー・ウェーブ」が描く主題とは大きくかけ離れています。同様に、スリップ・ストリームのような母体を大衆小説に置く分野とも一線を画しています。世界を覆い尽くそうと迫る氷には、科学的な異常気象の根拠は求められず、そうではなく終末が迫る精神世界が反映されています。カヴァン自身に迫る精神世界の終末を、本作の「襲いくる氷」で表現し、前触れの無い場面転換で「襲いくる悪夢」を表現しています。そして、彼女は恐怖や悪夢を受け止め、偏執的な不信感(paranoia)や鬱屈した精神世界さえも一つの要素として織り込み、本作を彼女の心のメタファーとして構築してしまいました。完全に個人的な精神から生み出されたものだからこそ、描かれる頽廃性と恐怖は他の作品よりも不穏に感じられるのだと思われます。


そう考えると、少女の置かれた状況や受ける屈辱など、読者の捉え方が変わってきます。彼女は常に所有物のように描写され、度を超えた性的な暴行や拷問、さらには人間としての自由や尊厳は全て剥奪されています。被支配者である少女は、語り手からも長官からも逃げ出そうとしています。救いの手を差し伸べる語り手から逃げる点、そして支離滅裂な語り手の思考と回想、これらを踏まえると語り手の記憶に疑いを向けざるを得なくなります。少女との恋人時代は事実なのか否か、少女と語り手が優しく語り合った記憶は事実か否か、これらを否と見た場合、少女が見せる恐怖の表情と逃避行動は仮説を裏付けるものへと変化します。語り手と長官が同一の存在ではないかという疑問も、象徴的な意味では同じだと言わざるを得なく、第三者視点のような語り手の知り得ない描写も、語り手と長官の同一性を暗に示しているとも言えます。こうした支配的で攻撃的な男性の描写は、カヴァンの「歪められた性愛感情」が生み出した印象的な男性像であり、少女が見せる嫌悪感と導かれる終末には、然るべく彼女の厭世観が込められています。


本作の断片的な表現技法は悪夢の展開だけでなく、読者へ視点の転換をも強制しています。突如として切り替わる場面では、物語の整合性は無くとも、そこには目を向けるべき視点が提示されています。執着心、支配欲、破壊衝動、攻撃性、恐怖、精神分裂、逃避行動、それぞれの場面で描かれる感情表現は、人間の持つ倫理を超えた本能的なものであり、その被害者(少女)が抱く厭世的で頽廃的な感情は、カヴァン自身の精神と交わっています。本作は、彼女の精神の根源を曝け出した作品であると言えます。

 

少女は強烈な寒さに耐えられず、ずっと震えつづけて、ヴェネツィアンガラスのように砕けていった。その崩壊の過程は実際に見て取ることができた。少女は次第にやせ細り、さらに白く、さらに透明に、亡霊のようになっていった。この変容は何とも興味深いものだった。少女は完全にエッセンスだけの存在となり、動くことすらなくなった。


物語を追いかけて楽しむような作品ではありませんが、そこに込められた苦悩と頽廃性は、読者に強烈な印象を与えてくれます。カヴァンの精神を垣間見るような作品だと思います。文学の在り方に新たな分野を開拓したアンナ・カヴァンの『氷』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『十五少年漂流記』ジュール・ヴェルヌ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

14歳のゴードンを頭に15人の少年たちだけを乗せたスクーナー船が、ふとしたことから荒海に出てしまった。大嵐にもまれたすえ、船は、とある岸辺に座礁。島か大陸の一部かもわからないこの土地で、彼らは生きるためにさまざまな工夫を重ね、持前の知恵と勇気と好奇心とを使って冒険に満ちた生活を始める……。〝SFの祖〟ジュール・ヴェルヌの手になる冒険小説の完訳決定版。

 

ジュール・ヴェルヌ(1828-1905)は、1863年に発表した出世作『気球に乗って五週間』で冒険小説作家としての地位を築き、非常に多くの作品を生み出しました。その作品群には、当時の科学技術と進歩の期待が綿密に織り込まれており、この点からサイエンス・フィクションの祖としても知られています。彼は五人兄弟の長男で、厳格な弁護士の父親に育てられました。教育はカトリック信仰に沿った学校で受け、彼の作品にもその教えは随所に現れています。普遍的で教示的でさえもある彼の作品は、フランス国内にとどまらず多くの言語へ翻訳され、諸外国へと広められました。外国語に翻訳された作家としてはアガサ・クリスティに次ぐ二番目の翻訳数で、その数はウィリアム・シェイクスピアを凌いでいます。


ヴェルヌがパリへと移り住んだ1848年は、二月革命(三度目のフランス革命)の最中でした。国王ルイ・フィリップは追放されて第二共和政が樹立、その後も激しいデモが継続的に行われたため、暫定政府は軍による武力を行使しました。銃弾や砲弾で穴だらけとなった家屋、粉々になったバルコニーや看板、至る所に見られる砲弾の跡など、ヴェルヌは恐ろしい光景を目の当たりにします。そして追い打つように1849年のパリを襲ったコレラの流行は、ヴェルヌの心に更なる恐怖を植え付けました。この頃、学業を優秀な成績で収めていた彼は、外の激しい社会から離れ、熱心に文学作品を読み耽りました。シェイクスピアやモリエールといった古典からアレクサンドル・デュマまで、多くの作品を幅広く読みましたが、最も彼に強い影響を与えたのはヴィクトル・ユーゴーでした。


ヴェルヌは自らも戯曲の執筆を学業の傍らで行っていましたが、その姿を見た叔父が文学サロンに誘いました。サロンでは暴動や争いといった喧騒から遠く離れた空気が漂い、彼に安らかな憩いを与えました。サロン参加者の繋がりで、ヴェルヌはデュマと知り合うことになります。作品から影響を受けていた彼は熱意を持って言葉を交わすと、デュマの息子と引き合わされました。この息子は『椿姫』を書いたデュマ・フィスで、ヴェルヌは意気投合し、合作で喜劇を上演するなど、彼の活動は少しずつ作家の道へと進められていきました。父親が求める弁護士の道も進んではいましたが、やはりヴェルヌは執筆したいという欲が勝ち、少年のころに抱いた「空想での冒険」を継続させるため、文学の道へと歩み続けていきます。


ヴェルヌは十一歳のとき、従姉妹のカロリーヌ・トロンソンという女性に恋心を抱いていました。なんとか男性として見られたい、喜ばせたいという気持ちで珊瑚のネックレスを贈ることに決めました。しかし、小遣いを貯めて店で買うわけではなく、自らで珊瑚を集め、これを加工して贈ろうと考えました。家の近くに珊瑚を取れる場所がないため、彼は一人、インドへ向かう商船に密かに潜り込んで旅立とうとします。その頃、ヴェルヌの不在を不審に思った父親は方々を探し、出発間際にようやく彼を発見して、大目玉を喰らわせました。そして、ヴェルヌは「冒険は頭の中だけ」と約束します。突拍子もない発想と冒険心ですが、この熱意こそがヴェルヌの作家人生の創作源でした。そして、前述の『気球に乗って五週間』が大いに受け入れられ、年に一作を超える速度で作品を発表し続け、フランス文学に欠かせない大作家へと大成しました。


1871年の普仏戦争の敗北に伴ってフランス第二帝政が崩壊すると、民衆はボナパルティズムを嫌悪し、共和主義を否定しました。新たな選挙で民衆は改めて君主政治を望み、議会では王党派が再び権力を得ます。これは、1789年に起きた革命の原動力となった「権利と自由を保障する立憲君主主義」を呼び起こすもので、オルレアニスム(この政治思想を率いたオルレアン家に賛同する人々)が息を吹き返す形になりました。ここにヴェルヌも賛同し、生涯を君主主義者として過ごしました。

しかしながら、彼の根源的な思想には共和主義も強く息づいており、オルレアニスムとの共存は成し得ないものかと苦悩して生きることになります。そして、1894年のドレフュス事件(ユダヤ系の陸軍大尉がドイツへの密告者であるという容疑で軍政が起こした冤罪事件)により、民衆は軍政に対する疑念を大きく強めることになりました。エミール・ゾラが『私は告発する』という公開状を突きつけたことで、事態は一挙に大統領糾弾への流れとなり、ヴェルヌもゾラの行為に賞賛の意を示しました。この事件により、ヴェルヌが晩年にかけて反軍国主義の姿勢を貫くことになりました。


ヴェルヌが本作『十五少年漂流記』を書き始めたのは、世に広まる少年冒険小説という形式を完成させるためだとしています。本作はヴェルヌが発表した作品のなかでも、豊かな冒険心と科学知識が活かされ、さらにはヴェルヌ自身の追い求める思想が情熱的に描かれています。そして、未知の世界へ向かう少年たちを通して、ヴェルヌは人生の本質的な価値とは何かを、強い意志を持って訴えています。

「残されたのは、島に置き去りにされた八歳から十四歳の子供たちが、国籍の違いによって引き起こされる情熱の中で生き残るために奮闘する姿を描くことだった。」

本作原版『ロビンソン寄宿学校』序文


ニュージーランドのオークランドにある同じイギリス系寄宿学校に通う八歳から十四歳までの生徒十四人と十二歳の黒人少年船員一人が、休暇中に島巡りクルーズに出かける予定でした。気の早い少年たちは前夜から船に取り込んで楽しんでいましたが、彼らの気付かない間に或るアクシデントがあり、少年たちだけで広大な太平洋を漂流する事態になりました。数週間の船上での悪夢の後、彼らは見知らぬ無人島と思しき海岸に漂着しました。彼らは頼る大人もなく、自分たちで生き延びなければならない運命と悟り、いずれオークランドへ帰るため、知識と能力を持ち寄って島内生活を始めます。島では、自分たちを取り巻く探検をし、定住できる住処をつくり、襲いくる嵐や獣との試練を受け、偏見や意見の違いから仲間の分裂が起こり、そして外部からの脅威が到来します。果たして、彼らは団結して家族の待つ我が家へと帰ることができるのか、という物語です。


年長のアメリカ人であるゴードンは、率先して年少の子供を守ろうと尽力します。ときに優しく、時に厳しく、自身が思い描く理想的なリーダーを務めようとした彼は、少年たちの信頼を得て島内での大統領に選ばれます。次に年長のブリアンはフランス人で、争いや競い合いを嫌う共和的な生活を望む少年です。起点と勇敢さが特徴で、正義を心に持つ優しい人物です。また、ブリアンと同年のドノバンは誇り高い地主の息子で、狩りと銃の扱いに大きな自信を持っています。しかし、傲慢さと嫉妬深さが強く、特に同級のブリアンには事あるごとに敵対します。ゴードンとブリアン、そしてブリアンの弟のジャック以外は、全てイギリス人です。小さな諍いや困難はありましたが、クルーズのために積み込んでいた大量の食材と調理器具、さらには書物や大工道具が揃っていたおかげで、彼らは原始的な環境に放り込まれながらも、さほど不自由なく長期間を過ごすことができました。


ヴェルヌは、彼ら少年たちに象徴的な性質を備えさせました。ゴードンには君主主義を、ブリアンには共和主義を、ドノバンには軍国主義を、それぞれの性格に反映させて行動を描いています。また、ドノバンの性格には当時のフランスにおけるイギリス人への嫌悪感も含めています。ナポレオン一世の死後、フランスではイギリス人を魅惑的と感じる気持ちを持つ反面、憎悪の感情も同様に持ち合わせていました。貴族的な傲慢さ、嫉妬深さ、支配欲の深さなど、これらがドノバンの性格に色濃く反映されています。また、ブリアンにも同様にフランス人が理想的と考える平等で共和的な思考が、彼の性格に反映されています。


物語では、ドノバンの支配欲とブリアンの共和的行動が対立の軸となっていますが、生死をかけた冒険のなかで彼らは気持ちを通わせ、互いに尊重し合う関係へと発展します。この和解から、二人は今まで以上の力と魅力を発揮し、外部からの襲撃では大きな活躍を見せます。この展開には、ヴェルヌが望む「思想の調和」が込められています。君主主義、共和主義、軍国主義、これらが手を取り合って共生することができれば、いかに素晴らしい力を発揮し、いかに大きな幸福が得られるのか、そのような思いを或る意味で教示的に描き、当時の若い読者へ啓発していたのだと考えられます。

 

そんな小さなことで──と思うかもしれない。だが、少年たちの生活は社会の縮図である。人間は、子供の時から、一人前の大人のように扱ってもらいたいものなのだ。


この教示的で幸福な物語の展開は、ウィリアム・ゴールディングを始めとして多くの批判を受けました。しかし、彼らの長い島内生活からは、溢れる探求心を、冒険への意欲を、そして今を精一杯生きるという勇気を与えてくれています。人生の本質的な価値を、少年たちの冒険譚で伝えようとしたジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『盲目の梟』サーデク・ヘダーヤト 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

ペルシア語文学史上に現われた「モダニズムの騎士」による、狂気と厭世に満ちた代表作を含む中短篇集。「人生には徐々に孤独な魂をむしばんでいく潰瘍のような古傷がある」──生の核心に触れるような独白で始まる「盲目の梟」。筆入れの蓋に絵を描くことを生業とする語り手の男が、心惹かれた黒衣の乙女の死体を切り刻みトランクに詰めて埋めにいくシュルレアリスム的な前半部と、同じ語り手と思しい男が病に臥しての「妻殺し」をリアリスティックに回想する後半部とが、阿片と酒精、強烈なペシミズムと絶望、執拗に反復されるモチーフと妄想によって複雑に絡み合う。ドストエフスキーやカフカ、ポーなどの西欧文学と、仏教のニルヴァーナ、イランの神秘主義といった東洋思想とが融合した瞠目すべき表題作と、さまざまな傾向をもつ九つの短篇に加え、紀行文『エスファハーンは世界の半分』を収める。


1920年にイランの新聞に掲載され、1953年にレージュ・レスコーによってフランス語に翻訳された本作『盲目の梟』は、サーデク・ヘダーヤト(1903-1951)がこれまでのイラン文学を打ち壊した歴史的的傑作の一つとされています。イラン文学では全て韻文で作品が発表されていましたが、ベルギーやフランスで培った文才を発揮したヘダーヤトは、イラン初の散文小説を発表しました。新たな境地を文壇に突きつけたヘダーヤトの作品は、イラン国民に衝撃と熱狂を与え、反発と受容の双方を呼び起こしました。彼がフランスで活動していた際、シュルレアリストのアンドレ・ブルトンが絶賛したように、彼の作品は散文小説という特徴以上に「革新的な芸術性」が顕著で、これまでの古典的な慣習を悉く打ち壊してしまいました。当時の国民は「反小説」といった態度で受け入れながら、やがて「新小説」として定着していきました。特徴を幾つか挙げるならば、物語性の欠如、超現実的現象、不明瞭な過去や未来の描写などが挙げられ、現代でも群を抜いた特殊性を持っています。本作も同様にこれらの特徴を有しており、且つ、そこには独特な「死への渇望」が滲み出ています。


ヘダーヤトは、テヘラン有数の裕福な名門家庭に生まれました。彼が生まれてすぐに、イランでは立憲革命が始まります。これは、イランを支配していたガージャール朝に対し、フランス革命に端を発する自由主義の影響を受けた国民が、民族主義を基盤とした専政反対を掲げ、革命家や宗教家と手を結んで押し広げた革命です。この革命後、勃発した第一次世界大戦争時にはイランは英露に支配され、1925年にはヨーロッパ諸国の戦後の混乱に乗じてクーデターが起こり、ガージャール朝に代わるバフラヴィー朝が開かれ、イランの近代化が加速しました。このような政治的変革を次々と受けたためか、ヘダーヤトはベルギーやフランスへと留学に国外へ向かいます。フランスでは反戦芸術運動であるシュルレアリスムが隆盛していましたが、彼の持つ独特の文才と価値観が彼らに呼応し、独自の作品を創作するに至りました。彼が触れた外国文学は彼の価値観を揺るがし、彼の奥深くに潜んでいた恋愛観や死生観を水面へと引き上げました。ヘダーヤトは、「死」を渇望していました。実際に、何度も自死を試み、1951年の彼の最期はフランスの貸しアパートでのガス自殺でした。


ヘダーヤトの厭世的な死の渇望は、作品のなかでも浮かび上がっていますが、本作『盲目の梟』は、これが主題となっている作品です。シュルレアリスムの文体で描かれた中篇ですが、そこには恍惚と倦怠、幻想と現実、真実と虚偽が入り乱れて描かれています。語り部である「わたし」が阿片を常用していることから、思考は支離滅裂であり、不可思議であり、超現実的である描写が見られるとも捉えられますが、その原動力は「死への渇望」であり、死の定義を模索しています。心理小説とも言えるほどの多くの心理描写は、幻想と現実が交錯し、精神が不安定に起伏を見せています。現在から過去へ、過去から現在へ、そのように出来事を語っているかと思えば、意識が混濁したように、感情の乱れによる怨嗟が膨れ上がって死へと直結する思考が生まれるなど、読者は精神制御のできていない意識を覗き込んでいるような印象を与えられます。入り乱れる虚無感や自殺願望、孤立や厭世感情は、語り部が与えられた不条理な人生経験から齎されたものとも考えられますが、やはりそこには、ヘダーヤト自身が持つ感情や思考が強く投影されていると見ることができます。


社会から隔絶した商業画家は、長いあいだ同じ絵柄を筆箱に描き続けています。蓮の花を持った天女のような少女、腰の曲がった老人、これらの同じ構図を何度も繰り返して描いています。厭世的な画家は家の中から穴を通して、この絵と同じ構図を実際に目の当たりにしました。何としてもこの少女に会いたい、探し出したい、そのような感情が芽生えたのも束の間、あったはずの家の穴がいつの間にか無くなってしまいました。語り部は精神を病んでいます。従姉妹であった妻の非常な裏切り、乳母の優しさに見え隠れする死の教唆、父か叔父かもわからない老人など、厭世的な眼鏡を通したためか、異様な言動を見せる登場人物たちに「わたし」の精神は神経質になっていきます。精神の病と認識されている「わたし」は阿片を常用しています。意識の混濁と爆発寸前の欲望、死の渇望と阿片の効果が複雑に合わさり、同じ景色を同じ文面で繰り返し、過去と現在の境界線が無くなっていきます。出来事は現実なのか夢なのか、「わたし」もわからないまま思考は進められ、死で溢れかえった町、遺体となった少女の身体の切断などが描かれると、老人が不快な笑いとともに付き纏ってきます。しかし、自分の絵の中にこそ少女がいることに気付いた「わたし」は、阿片に与えられる恍惚の世界で、精神の死こそ「真の死」であると気付きます。


求め続ける「死への渇望」は、物語のなかで具現化していきます。数少ない登場人物は、幻想であれ現実であれ、その描写に濃い死の印象が付き纏います。彼らの死は、意識混濁の語り部が肉体的な死の描写を事細かに伝えます。しかし、物語が進むにつれて、語り部の存在は実体が薄まり、精神的な存在へと変化していきます。死の渇望者は、肉体が有ろうが無かろうが、人間としての精神崩壊こそが「真の死」であるという境地へと辿り着きます。魂は肉体ではなく精神に宿る、だからこそ精神の死は魂の死である、そのようなヘダーヤトの思想が滲み出ているようです。


出版当時、未成年は本作を読むことはできないという、倫理的な問題と政治的な検閲によって、本作は多くの制限を受けていました。しかし、そのような政治支配、あるいは政治的混乱の最中に国民が抱く厭世的な感情は、作品と同調し、熱狂的な支持者を生み出しました。孤立、欺瞞、不信、異端など、国に対して負の感情を持った社会は、この「死の渇望者」を大いに受け入れたことは、皮肉的でもあります。そして、ヘダーヤトの自死によって、本作は強い思想の作品として見なされるようになりました。


梟は知恵や知識の象徴として知られています。しかし、盲目となった梟はその象徴を失い、知恵や知識、つまりは「理性」を失うことに他なりません。必要なものを失った梟は厭世的な印象を与えます。同様に、シュルレアリスムは戦争を引き起こす「理性」を否定しています。戦争の世を厭う姿勢は、ヘダーヤトの抱く厭世的な感情と「死への渇望」を飲み込んで重なり合い、本作の精神の死を強く強調していきます。ヘダーヤトは芸術において、新たな形式を生み出すだけでなく、新たな思想を訴えてもいました。

 

昔の人間の行動や思想、願望や習慣はこのお噺という手段を通じて、後世の人々に伝えられて来たのではあるまいか。このお噺は我々の生存にとって必須欠くべからざるものの一つなのではないか。幾千年となく、人類は同じようなことを喋り、同じようにセックスし、同じように子供じみた悩みを抱いてきたのだ。人間の一生というのは、始めから終わりまで一つの面白可笑しいお話、信じられないほど馬鹿馬鹿しいお噺にすぎないのではないか?私が今書いているのだって自分のお話なのではないか?ものを書くというのは、挫折した願望にとっての排け口であるにすぎない。所期の目的を達し得なかった願望、作家自らが受け継いだ知力の範囲内で抱かれた願望にとっての。


ブルトンが二十世紀の二十の傑作の一つに選び、ヘンリー・ミラーが「いつか自分が書きたいと思うような本だ」と絶賛した本作『盲目の梟』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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