
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
カナダの東側、大西洋のセント・ローレンス湾に浮かぶプリンス・エドワード島は、国内最小の州として知られています。カナダは大航海時代より西洋人が流入し、植民地戦争を経て英国が治めるようになりました。白人の多い植民地であったことから、連邦から独立国となった先駆けの国でもあり、独自の文化を築いた国でもあります。流入した西洋人はアイルランド人やスコットランド人が多く、彼らの持ち込んだケルト文化が現在でも主流となっています。自然崇拝による祭礼などがよく知られますが、幾何学的な模様を身の回りに取り入れる点も特徴で、現在まで受け継がれるキルト民藝は誰もが知るところです。1867年の建国から西方で起こった1896年のクロンダイク・ゴールドラッシュにかけて、十九世紀末のカナダは怒涛の勢いで近代化に目覚めていきます。しかし、プリンス・エドワード島民は独自の時計を持つかのように、広大な自然に囲まれてゆったりと過ごしていました。赤い土地と広範な森林、美しい湖と移り変わる農作地の色々は、彼らの精神が表れているように落ち着いた力強さを持っています。農作業や身繕いはもちろんのこと、自動車なども殆ど使わず、毎日が人の手で賄われていました。
ルーシー・モード・モンゴメリは、1874年にこのプリンス・エドワード島で生まれました。彼女が二歳になる前に母親が病で亡くなり、父親は出稼ぎのためにカナダ西方へと移り住みました。そのため、モンゴメリは島の北部に位置するキャベンディッシュの祖父母へと預けられました。彼女はこの幼少期に、集中して読書をしました。小説は読むものを制限されましたが、詩は存分に触れることができ、彼女の内にある詩性は着々と磨かれていきました。こうした詩への没頭は彼女の感性を刺激するだけでなく、後に生み出す彼女の文学作品にも少なからず影響を与えています。雑誌や新聞に詩や短編小説を投稿し、職業作家という立場を築き上げた彼女は、長編小説に挑戦します。これが本作『赤毛のアン』です。完成直後に持ち込んだいくつかの出版社から拒否され、失意のあまりに原稿を保管していましたが、三年の時を経て読み返すと出版への意欲が再燃し、ようやく発表となりました。
本作は、十九世紀後半のプリンス・エドワード島にある架空の町アヴォンリーという場所で繰り広げられます。農業を営み女性が苦手な中年男性マシュウ・クスバートと、その妹マリラが、農作業の手伝いとして男の子を養子に迎えようと考えていました。彼らの住むグリン・ゲイブルスは自然の美しさに溢れており、穏やかな日々が永遠に続くかのような印象を持っていました。そこへ養子を迎えるという事件が近所を騒がせましたが、手違いによって女の子が訪れたために二人は一層に困惑してしまいます。しかし、彼女の境遇と幼さ、そして明るく天真爛漫な活気が二人に新たな感情を与え、結果的にグリン・ゲイブルスへと迎えることになります。そして、幸福な孤児アンは、描く幸せと実際に触れる社会に翻弄され、精神の成長と真の幸福を見出していきます。
細々とした家事は経験を活かしてこなすことができるアンでしたが、同学年と接する機会や学校という社交的な場は経験が無く、大小さまざまな失敗を起こします。しかし、アンの幸福を夢見る空想や一本芯の入った言動に周りも心を動かされ、やがて新たな社会に存在感を放つようになっていきます。そして、想像の中でしか得られなかった「腹心の友」ダイアナと心を通わせ、その関わりの中で精神的な成長を見せていきます。
アンの空想癖は周囲を混乱させます。溢れる想像力と持ち前のロマンティシズムは、家事の最中でも、会話の最中でも、突如として彼女に取りつきます。いわば彼女の「内面世界」は、彼女の精神を構築しているものであり、これまでの非社交的な環境が産んだものであるからこそ、周囲からは社会性の欠如として映ります。これに対して、マリラは非常に実際的な思考の持ち主で、社交の場における礼儀や作法を重んじており、アンの非社交的な性格を正そうと試みます。そこには、アンが家庭で受けることができなかった「愛のある敎育」としてマリラは自負しており、引き取ったからには責任を持って淑女に育て上げなければならないという決意さえも感じられます。しかし、強制的な押し付けであった教育的感情は、アンが引き起こすさまざまな出来事によって考え方が変化し、やがてはアンの「幸福を描く空想」を肯定していきます。実際的な性格のマリラは、空想により描いた幸福の未来が訪れなかった不幸や落胆を恐れていましたが、やがてアンの「未来に待つ幸福を描く」という行為が、「未来を幸福に切り開く努力」なのであると理解するようになり、一概に悪い面だけでもないと思うようになっていきます。また、アンの方でも、学校や友人との社交場での経験によって社会性の重要さに気づき、アン自身の心身が成長することによって空想に耽るばかりではなく、結末に見せるような実際的な決断をするように変化します。こうした二人の関わりによる歩み寄りは、当然ながらアンが居なければ起こらなかった変化であり、双方にかけがえのない存在として認め合う大切な関係性であったと言えます。
アンのロマンティシズムは、グリン・ゲイブルスに来るまでに得られなかった経験の欠如から齎されているもので、アン自身が夢や憧れとして抱いているものです。この感情は劇的に精神へと影響を与えているため、極端に感受性が豊かになっていると言えます。真実の愛情、永遠の献身、超越的な悲劇、極端な劇性、こういったものを無意識に望むが故の空想癖であり、アンから滲み出る危うさは自ら欲しているという側面も見られます。幼少期に満足を得られなかった家族愛、そして目の前に無いからこその憧れは「未知であるが故の魅力」となってアンの精神に刷り込まれています。しかし、前述のような環境による社会経験が彼女の精神を成長させ、アン自身が実際的な判断をくだすことができるようになりました。感傷に浸る「妄信的なロマンティシズム」は、やがて現実に直面する「感情を揺さぶる出来事」の強い影響に追いやられ、精神的な成長によって消滅します。そして、アンの成長は周囲にも影響を及ぼし、アンの放つ魅力として浸透していきます。この成長の集大成とも言える言葉が、終盤でマシュウによって放たれます。
そうさな、わしには十二人の男の子よりもお前一人のほうがいいよ
いいかい?──十二人の男の子よりいいんだからね。そうさな、エイヴリーの奨学金をとったのは男の子じゃなくて、女の子ではなかったかな?女の子だったじゃないか──わしの娘じゃないか──わしのじまんの娘じゃないか
人間は未来を予想することはできても、未来そのものを感じることはできません。この未来をどのように迎えるかは、人それぞれの心づもり一つと言えます。終幕で大きな喪失感を覚えるアンですが、この時に「真の喪失」を体験します。精神が成長したアンは、喪失を現実として受け止め、それでもなお生きていくことを前向きに捉えています。そして最後の決定的な決断では、アンが未来を「前向きな現実」として見据え、生きていこうとする姿勢が垣間見得ます。アンがマリラに放つ言葉には、空想ではない幸福を求める未来、つまり「希望」を未来に見ています。モンゴメリは、希望を持って未来を生きていくことを読者に語りかけているように思われます。
あたしがクイーンを出てくるときには、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲り角にきたのよ。曲り角をまがったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。それにはまた、それのすてきによいところがあると思うわ。
本作ではアンを通して、人間としての個性や友情、幸福と未来といったものを、各々がどのように捉えて生きていくのか、そして捉え方が人生にどのように影響を与えるのか、そのような感情を彼女の成長とともに考えながら読むような印象を与えられました。作中でのプリンス・エドワード島の美しい描写はモンゴメリの詩性が存分に発揮され、情景が目の前に浮かび上がるようです。そして、アンの抱く豊かな感情の動きは、読者を惹き込み、物語へと没頭させてくれます。現代でも愛され続けている本作『赤毛のアン』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。










