RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『野火』大岡昇平 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

敗北が決定的となったフィリピン戦線で結核に冒され、わずか数本の芋を渡されて本隊を追放された田村一等兵。野火の燃えひろがる原野を彷徨う田村は、極度の飢えに襲われ、自分の血を吸った蛭まで食べたあげく、友軍の屍体に目を向ける……。平凡な一人の中年男の異常な戦争体験をもとにして、彼がなぜ人肉嗜食に踏み切れなかったかをたどる戦争文学の代表的作品である。


第二次世界大戦争では、ファシズムの繋がりである日独伊三国同盟を中心とした枢軸国が、その苛烈な攻撃によって優勢に進めていました。日本は日中戦争の激しい勢いのまま、アジア東南部に広がる欧州植民地の資源を確保しようと、戦争の範囲を広げていきます。イギリス領のマレー連合州、オランダ領東インド、フランス領インドシナ連邦などへ、戦禍を広げるように日本は南下を計画します。しかし、これらの地域から資源を運ぶシーレーン海上交通路)には、米比戦争を経たアメリカが支配するフィリピンがありました。仮に欧州の支配地を奪ったとしても、その資源を運ぶ最中にアメリカが阻むことは明確で、この点の安全を確保しなければ計画を成功させることは困難でした。これを理由に日本はアメリカと対峙することを決定し、布告無しの真珠湾攻撃を実行し、アメリカ太平洋艦隊へ大きな打撃を与えました。その直後に日本軍はルソン島へと上陸、次いで首都マニラを占拠してフィリピンに地盤を築き、在比アメリカ軍とフィリピン軍を降伏させました。このときに捉えた捕虜たちを百二十キロメートル離れた収容所へ移動させる際、衛生面での問題や体力的な問題によって、捕虜たちは行軍中に次々と倒れて多くの人々が亡くなりました。この「バターン死の行進」と呼ばれる事件にあわせ、日本の占領によって破綻した経済状況や物資不足などが起因し、フィリピン人の対日感情は瞬く間に悪化していきました。フィリピン奪還のために上陸したダグラス・マッカーサーは、この「日本軍に対する反感」を利用して、現地の一般人にまで多くの武器を与えて「ゲリラ」を組織し、捕虜収容所から脱走させたアメリカ兵士と統合して戦力を強化させました。


フィリピン国内での戦線基盤を築いたアメリカは、日本からフィリピンを奪還する作戦を開始します。フィリピン周辺の海域で繰り広げられたこの大規模な海戦「レイテ沖海戦」は、奪還しようと攻め寄せる連合国海軍(アメリカとオーストラリア)に対して、日本海軍が全総力で迎え撃つかたちとなり、史上最大規模の海戦となりました。しかしながら兵力の差は歴然で、日本海軍は悉く壊滅し、日本陸軍はフィリピン本島に閉じ込められるという結果となりました。本国から海を経由した援軍や補給は断たれ、陸地からはアメリカ軍とゲリラが襲い掛かります。日本陸軍は主力部隊が壊滅すると、残された兵士はジャングルを隠れ蓑に彷徨いながら生き繋ごうと、倫理を失い、生きようとする本能のみで耐え忍びます。このような敗残兵たちは、餓死や伝染病、または戦傷が原因となって死ぬか、アメリカ兵士やゲリラたちによって殺されていきました。この「フィリピンの戦い」で戦死(戦病死含む)した日本軍兵士は、実に約51万8000人にも膨れ上がりました。


こうして1945年3月には、日本は南方の航路は全て封鎖され、資源の輸送は困難となりました。さらに、確保していたインドネシアの油田地帯も、アメリカによるシーレーン封鎖によって燃料補給もできなくなったなか、サイパン基地から飛んでくるB-29による本土空襲が本格化します。軍需を支えていた工場や、国民の住まう都市に激しい攻撃を加えられ、戦争の勝利など全く見えなくなり、日本政府が講和を模索し始めたころ、アメリカ軍による沖縄上陸が行われ、途轍もない被害を生む終戦へと向かっていきます。


大岡昇平(1909-1988)は相場師の父親を持ち、経済的に浮き沈みする環境で幼少期を過ごしました。社会的な身分が大きく変動するなか、経済的安定も見込めなかったこと、そして転居が多かったことから、大岡は主に図書館を利用して自身の読書欲を満たしていました。彼は「立川文庫」や「日本少年」などを中心に読み、自らも雑誌へ投稿してその文才を認められるほどでした。青山学院中等部へと進むと、そこでキリスト教の信仰に影響されて牧師を志すほどに気持ちは高まりますが、やがて夏目漱石芥川龍之介の作品、そしてゲーテマルクスの思想によって、その熱は収まっていきます。学校法人アテネ・フランセに進んでフランス語やその文学を学んでいると、小林秀雄に引き合わされ、直々にフランス語を教わることになりました。京都帝国大学文学部に入ると、小林秀雄から詩人中原中也を紹介されて意気投合し、のちに文芸評論家の河上徹太郎を交えて同人雑誌「白痴群」を創刊しました。こうして、大岡は作家として一歩踏み出しました。大学内では『赤と黒』『パルムの僧院』などの代表作を生んだスタンダールに傾倒し、その研究に没頭します。卒業後は、株が暴落したことによって父親が破産したため、自らも働く必要がありました。しかし、新聞記者や翻訳者として務めますが長く続かず、環境が落ち着かないなかで1944年3月に招集され、フィリピンへと配属されました。


「君、一つ従軍記を書いてくれないかな」と、大岡が小林秀雄に話を持ちかけられたのは、終戦を迎えて捕虜病院から帰国した翌年のことでした。大岡は復員すると、文学におけるあらゆる師である小林秀雄のもとを訪ね、このように勧められたことで『俘虜記』の「捉まるまで」を書き、認められて作家として文壇に立ちました。小林秀雄は「あんたの魂を書くんだよ」と助言しました。それは当時の作家が「商売のため」に引き受けた「空疎なロマネスク」「探偵小説」「春本」などの、思想や哲学からかけ離れた「商業作品」とは対置的なものを執筆するという行為の究極的なもので、まさに作家としては反時代的な行為に映りました。この小林秀雄の言葉は、大岡の作家としての終生の姿勢を貫かせるもので、また、大岡自身もそのように望んでいたものでした。大岡の魂がそれを望み、魂に宿った「何か」を小林秀雄が見出し、大岡が筆に乗せたことで戦後日本を代表する作家となったのだと言えます。


この大岡も含められる「第二次戦後派作家」と呼ばれる文士たちは、武田泰淳埴谷雄高に見られる第一次戦後派の「戦争体験を通して社会へ問う姿勢」を引き継ぎながらも、その作品には西洋の文学、思想、信仰、政治が踏まえられ、その作品の多くは長篇作品で描かれています。そして、大岡の魂に宿る「何か」は、彼の作品を覆い尽くし、読む者へ強烈な描写以上の心に訴える「何か」を感じさせます。

 

少年時から召集前までの生の各瞬間を検討して、私は遂に自分が何者でもない、かうして南海の人知れぬ孤島で無意味に死んでも、少しも惜しくはない人間だといふ確信に達した。そして私は死を怖れなくなつた。
私はスタンダールに倣つて自分の墓碑銘を選び、ノートの終りに書きつけた。「孤影悄然」といふのである。

大岡昇平『俘虜記』


大岡の言う「孤影悄然」は、戦争の只中にあるなかで感じ取ったもので、この抱える「孤独な悲しみ」は、「やがて戦闘で落とすであろう自分の命」と釣り合うものと認識し、人間の核としての感情であると考えました。しかし、大岡は戦争で生き残り、敗残兵として帰国します。釣り合うはずの「戦死」という運命は消え、「孤独な悲しみ」を抱えたまま生き続けることになりました。彼の抱えるこの「孤独な悲しみ」こそが「何か」であり、これこそが「魂の叫び」となって彼の執筆の原動力となっていきます。


この『俘虜記』という「魂の叫び」としての記録によって、日本の文壇は大岡へ「戦後作家」としての名声を与えました。世に映ったこの作品の印象は、「戦争の実体験」といった受け取られ方が多く、どのような酷い目にあった、どのような苦しみを抱いた、どのような理不尽な環境にあった、という表面的な「戦争」を描いたと見做されていました。しかしながら、大岡の「魂の叫び」は「孤影悄然」からくる「何者でもない自分の抱える悲しみ」であり、彼が突き動かされた執筆の原動力とは大きく乖離していました。


このような状況において、執筆に対しての嫌悪感さえ覚えていた大岡は、それでも「何か」を描き出さなければならない、描き出さなければ戦争で死んでいった「他の何者でもない同胞たち」に申し訳が立たないという強い使命感から、再び筆を取って執筆を始めていきます。この「何か」をどのように表現すれば良いのか、辿り着いた考えは、自身の文才に大きな刺激を与えたスタンダールの技法を参考にすることでした。写実主義、そして自我主義に傾倒したスタンダールは、徹底した分析と社会への観察眼、さらには内面への自己追求が合わさり、明確な熱量がこもった作品を生み出しています。大岡もまた、自身の実体験と自己追求を徹底させ、新たな作品へ「孤影悄然」を込めて書き上げます。そして生まれた作品が本作『野火』です。


肺病によって戦力から外された田村一等兵は、野戦病院からも「完治したとして」追い出され、居場所を無くしてフィリピンの原野へと放り出されます。彷徨うなかで遭遇する野火には原地ゲリラの存在を想起させ、その度に筋肉が硬くなる緊張が走ります。それでも空腹を満たさなければならないと、密林や小川を探索し、辿り着いたまだ荒らされていない打ち捨てられた現地人の芋畑に出会い、天国のように感じて滞在します。そこから見える高い木の間から、金の十字架が見えたことで勇気と冒険心が芽生え、「何かしらの救済」を求めて近付いていくと、古ぼけた教会が現れました。中はマッチひとつ無く、聖書のみがあるような状況で何の感慨も得られません。そこへ原地の男女が逢引のために教会へ立ち入ると、田村はマッチを欲するあまり彼らに姿を現し、弾みで銃を放って女性を殺害してしまいます。男は逃げていきましたが、その後に教会で塩を見つけると、小さな雑嚢へ目一杯詰めて満足を得ます。教会を後にして芋畑へ帰ると、そこには別の部隊の上官たちが芋を掘り起こしていました。状況と経緯を報告した田村は、塩を分け与えることで信用を得て本国へ帰る希望を抱きます。同行しながら帰国へ向けた目的地へと向かいましたが、ゲリラに待ち伏せをされて急襲され、上官は殺されてしまいます。間一髪で死を免れた田村は、またも原野を彷徨います。ある時、狂人となった同胞と出会いました。話す言葉や行動は破綻を見せていましたが、そこには何かしらの神的な存在を感じさせるものがありました。「俺が死んだら喰ってもいいぞ」という言葉を残した同胞の死体を前にして、田村は右手で手を掛けようとしたとき、左手がその行為を阻止しました。そこで意識に働き掛ける声を聞きます。結局、同胞を食べることなく彷徨を続けた田村は、偶然にも野戦病院で知り合った同胞たちと再会しました。様相は険しくなっていましたが、精神は鮮明で行動をともにすることになります。同胞は干し肉を持っていました。「猿が取れるのだ」と言い、狩りに出掛けます。しかし、田村はそこから壮絶な体験を与えられることになりました。


田村一等兵は、まさに「孤影悄然」とした存在です。何者でもない自身が、待ち受けるはずの「戦死」を受け入れていながら、それでも死なないために行動する姿は、肺病さえも凌駕した精神の戦いが映し出され、それとともに巨大な悲しみを帯びています。受け入れた「死」から逃れようと、肺病を恐れ、野火を恐れ、ゲリラを恐れる行動は、悲しみに溢れています。死に近づいている極限の状態、もしくは戦死を受け入れている精神の状態は、「神」の存在を求めやすい状態と言えます。人間が「人間」でいるということは「神の意志」によるものであり、神の存在は「人間としての生」を死から遠ざけるものであるとの考えが、描写より受けとめられます。冒頭に掲げられる「たといわれ死のかげの谷を歩むとも」というダビデの言葉は、「孤影悄然」とした死に近づく者が歩むとき、そこには神が感じられるのだと捉えることができ、「生」を与える神の意志はどのように彼に働くのかを問うています。


帰国後に「狂人」として受け入れられた田村は、病院の一室で横たわります。家を売り払い、妻とも別れ、治療に専念することになりました。妻は別れをすんなりと受け入れ、別の人生を歩むべく他の者と逢引を重ねます。フィリピンの若い男女と変わらぬ行為に対して、田村は悲しみを抱きません。

どうでもよろしい。男がみな人食い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよいのである。

では、そのようなものが人間であるならば、そのようになりたくない者はどうすればよいのか、神の意志はそのように働くものではない、いずれをも拒否する魂は悶え苦しみます。だからこそ、このような魂を持つ人間は「抗うように」狂うのだと考えられ、ここに大岡の「魂の叫び」が見られます。そしてこの魂を守るべく、神はあのとき、「左手を動かした」のだと考えられます。そして物語を結ぶ「神に栄えあれ」という言葉を、「魂の救済」のために放たれた一語であると見ると、「孤影悄然」に死のかげの谷を歩んだ魂へ向けた「祈り」であることが理解できます。


大岡は「ケンカ大岡」と呼ばれるほどの論争家でした。史実の改変や資料の曲解などについての論争が、多くありました。ここには大岡の作家としての矜持が窺えます。小林秀雄によって開花された「魂の執筆」は、戦地体験から与えられた「孤影悄然」が体現されています。そして、事実を正確に語ることが「他の何者でもない同胞たち」への餞となるという姿勢が込められています。「こういった行為こそが作家である」という自負が、他者の改変や曲解に対して激しい怒りを向けていたのだと考えると、大岡が非常に真摯な姿勢で執筆に取り組んでいたことを裏付けているように思えます。

 

つまりここでもまた比島の自然や戦場の情景は第一義の要素ではない。それは作者の「歌」を隠すための道具立てであり、ある意味ではやや不自然なまでに克明にととのえられた舞台だというにすぎない。もしこれが敗れた兵士の物語だから「戦後文学」だというなら、これは決して「戦後文学」ではない。しかしもし主人公の「孤影悄然」ぶりが戦後という時代に底流するひとつの地下水と共鳴するという特別な意味においてなら、これを「戦後文学」といってもあるいはさしつかえないかも知れない。

江藤淳 大岡昇平集「人と文学」


戦地での風景やその体験が克明に描かれてはいますが、その擬似体験的な意味合いでの受け取り方ではなく、その地で「壮絶」を経験した人間の「魂の叫び」として読むことが本書の深い理解に繋がると思います。大岡昇平『野火』、未読の方はぜひ、読んでその叫びを感じ取ってください。

では。

『無伴奏ソナタ』オースン・スコット・カード 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

生後6ヵ月でリズムと音程への才能を認められ、2歳にして音楽の天才と評されたクリスチャン。人里離れた森の奥で、いっさいの人工的な音から遮断され、ただ鳥の声や風の歌声だけを聴いて育った彼は……表題作ほか、異星人の攻撃から地球を守るため設立されたバトル・スクールで最高の成績を収めた少年エンダーの成長を描く処女作「エンダーのゲーム」(短篇版)など、独創的なアイデアと奔放華麗な想像力で描く傑作11篇


オースン・スコット・カード(1951-)は、現代を代表するサイエンス・フィクション作家の一人です。1985年と1986年の二年連続でヒューゴー賞ネビュラ賞を同時受賞した唯一の作家で、その後も多岐に渡る作品群を生み出して活躍を続けています。


カードは、末日聖徒イエス・キリスト教会の熱心な信奉者の家系に生まれ、彼もまたその教徒として活動しています。聖書だけでなく「モルモン書」という独自の聖典を持った非三位一体の信仰で、学生時代にはボランティアで布教活動にも参加していました。カードは幼いころよりフィクション小説や歴史書を熱心に読んでいましたが、同時にこれらの聖典も寓話的な関心として読むことが習慣になっていました。次々に押し寄せる好奇心を満たすように幅広い種類の書籍を読み続けることで、彼は「あらゆることについてすべてを学ぶこと」に楽しみを覚えます。このような探究心は社会人となっても衰えることなく、この感情は創作意欲へと変化していきます。しかし彼は読書だけでなく、母親の関心に影響されることで音楽への道も拓かれていきました。カードは少年時代から良い耳を持ち、ハーモニーを得意とするソプラノの歌唱を披露しました。流行歌を歌うこともありましたが、教会の讃美歌も歌い上げることができる力量で、母親はより一層に音楽の教育を施していきます。学生時代にはホルンやチューバなどを学び、その音楽的才能を発揮します。また、末日聖徒イエス・キリスト教会が演劇上演を奨励していたこともあり、音楽的関心を入口としてブロードウェイにも足を運んで、そして自らでも舞台公演などを試みました。


十六歳のとき、父親がブリガムヤング大学(末日聖徒イエス・キリスト教会が運営する私学)へ教職を務めるため、一家は所在地のユタ州へと引っ越します。カードはその付属高校で学び、大統領奨学金を獲得して考古学専攻で大学へと進学しました。しかしながら、彼は考古学以上に演劇学部への関心が強く高まり、そちらへ専攻を変えて演劇を学び、自ら台本を書くために執筆の勉強を始めました。卒業に必要な単位獲得まであと僅かというところで、カードは末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師としてブラジルへ旅立ち、多くの都市へ渡りながらポルトガル語を学び、ブラジルの文化に影響を受けました。帰国後に残りの単位を獲得すると、立ち上げていた自らの劇団を設立し、劇団主宰として台本執筆に勤しみます。しかし嵩んだ費用はカードの借金となり、それぞれの演劇作品自体は成功を収めたものの運営が立ち行かなくなり、結果的に劇団を解散することになりました。ブリガムヤング大学出版の校正員として職は得ていたものの、このままでは多額の借金を返済する見込みは無いとして、自らの執筆意欲を活かすかたちで商業的に間口を広く開けていたサイエンス・フィクションの世界へと飛び込みました。そして生まれた作品が、後に人気シリーズとなる始めの作品『エンダーのゲーム』でした。

 

作家の信仰が最も力強く、そして最も影響力を持って現れるのは、登場人物の宗教的見解ではなく、物語の世界が機能する方法、つまり何が機能して何が機能しないか、物事がなぜ起こるのか、どのような目的が崇高で、どのような目的が卑劣なのか、などです。無神論者であるが、善行を求めて活動する登場人物、そしてその善行が善の心を持つ人によって行われる場合、読者は実際に宗教を支持するフィクションを読んでいることになる。

オースン・スコット・カードのホームページより


本作『無伴奏ソナタ』は、演劇集団キャラメルボックスによってミュージカル化されたことで、サイエンス・フィクションファンのみならず、広く知られることになった短篇作品です。本書で四十ページにも満たない作品ですが、芸術と芸術家、取り巻く社会と人々、そして彼らを隔てる思想と仕組みが全体主義社会において濃厚に描かれています。


舞台はユートピアとされる全体主義社会で、社会は法律によって守られ、誰もが適性を活かした職に就き、幸福な人生を送っていると信じています。クリスチャン・ハロルドセンは、生まれながらに音楽の素質を見出され、僅か二歳でその才能を認められました。〈メイカー〉(創り手)として選ばれたクリスチャンは、家族から離されて森の奥深くの小屋へ移住し、身の回りを世話する者とともに、自然の発する音だけを聴きながら、音楽の創作活動へ取り組みます。誰もが聴いたことのない音楽、クリスチャンのなかでのみ湧き上がる音楽を、彼は特殊な〈楽器〉を用いて、次々に生み出していきます。この音楽を聴く人々〈リスナー〉(聴き手)は、クリスチャンと顔を合わさずに音楽だけを純粋に楽しみます。そして、このような接し方こそが法律で定められ、〈メイカー〉の芸術性に悪影響を与えないために、〈リスナー〉を含めた他の人々が接触することは厳しく禁じられていました。しかし、掟を破った一人の〈リスナー〉が「バッハの曲を録音したレコーダー」を手渡してしまいます。好奇心に負けたクリスチャンは、バッハの曲に込められたフーガとハープシコードの音を聴きました。このことで〈ウォッチャー〉(見張り手)に外部接触があったことに気付かれ、二度と音楽を創作することを禁じられてしまいます。ドーナツを運ぶトラックの運転手となったクリスチャンは、仕事で通いやすいひとつのバーに訪れます。そこには調律を随分と長い間されていない古ぼけたピアノが置いてありました。バーのマスターはクリスチャンの好奇心を察知して弾くことを促し、そこからクリスチャンは再び音楽を奏で始めます。しかし、またもや〈ウォッチャー〉に察知され、今度は二度と音楽活動が出来ないようにと厳しい身体的な罰を与えます。次に作業現場に移されたクリスチャンは、歌好きの作業仲間からの執拗な誘いによって、歌唱を始めました。美しい歌とその歌声は作業員たちを魅了し、別の現場に行っては伝染するように歌を広めていきます。そして、またもや〈ウォッチャー〉に気付かれたクリスチャンは、今度は歌うことの出来ない身体にされてしまいます。もはや音楽に携わることが困難な身体となったクリスチャンは、〈ウォッチャー〉へと任命されました。

 

<ウォッチャー>は首を横に振った。「この世はあまりに完璧で、あまりに平和で、幸福に満ちあふれている。法律を犯した社会不適格者がうろつきまわって災いのたねをまき散らすのを許しておくわけにはいかない。一般の民衆は気楽な音楽をつくり、それ以上のものを知らない。彼らにはそれを学ぶ素質がないからだ。


淡々としたカードの語り口は、全体主義社会の「冷たい幸福」をより一層に際立たせています。クリスチャンの苦悩や絶望、非人道的な罰を与える描写、社会が「冷たい幸福」のために法律を遵守する態度など、芸術の間違った在り方を滔々と語ります。また、さり気なく語られる〈ウォッチャー〉として「真の意味での幸福」を社会に与えた彼の功績は、才能を持った芸術家としてだけでなく、人間として実に「正しい道徳感」を持ち得ていたことを垣間見せ、クリスチャンの人間として生きる姿勢を読み取ることができます。そして、全篇を通して心理描写を細かく描かれることがなかったなか、終幕においてクリスチャンの心が僅かに描かれ、とめどない感動が押し寄せてきます。


無伴奏ソナタの代表的な作曲家としては、やはりヨハン・ゼバスティアン・バッハが挙げられます。1720年にバッハが作曲した「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001-1006)は、三曲のソナタと三曲のパルティータで構成されています。この三曲のソナタは四楽章が「緩→急→緩→急」という「教会ソナタ」と呼ばれる形式で作られ、厳かな空気を漂わせる曲に仕上げられています。無伴奏であるが故に、ひとつの楽器で奏者の魅力と能力を最大に表現することが望まれる楽曲は、含まれる熱量は激しく、芸術を極めんとする奏者の覚悟も伝わってくるほどです。伴奏や装飾のない「無伴奏ソナタ」は音楽の追究的な側面を見せて、聴く者に有無を言わさずその世界へと引き込む力を持っています。

クリスチャンは、自身が抱える芸術性とその意思を体現することに特化した教育を受け、芸術活動そのものが「生きる」ということに結びついていました。究極の音楽を奏でるため、既成の音楽から隔離され、自然界に存在する音のみを吸収して作られた彼の音楽は、誰にも頼らずに「ただ一人」で追究した作品として描かれます。しかし、他者からの誘惑や自身の音楽的衝動によって結果的に法律を侵すことになり、奏でる手段を非人道的に削ぎ落とされました。もはや奏でることのできなくなったクリスチャンでしたが、その芸術に対する姿勢、音楽に対する姿勢は、潰えることなく心のなかで奏で続けました。そして彼の芸術性が理解され、その作品が残り続け、さらには賞賛され続けることに彼はある種の報いと結果を見ることができました。このようなクリスチャンの生き方、もしくは生涯そのものが「無伴奏ソナタ」であり、読者はその生涯の持つ芸術性を受け止めることで、大きな感動を与えられます。

 

道徳的選択を扱わない物語を語ることは不可能だ。実際、物語の中で複数の出来事が起こる場合、誰かがどこかの時点で何らかの評価や、先に進むための何らかの決定を下す必要がある。その決定には、必ず何らかのかたちで道徳的な選択、既存のコミュニティの肯定または否定が含まれる。私は非伝統的な選択、明確なものが何もない状況を扱っている。

「パブリッシャーズ・ウィークリー」オースン・スコット・カード インタヴュー 1980年


終幕の情景から聴こえてくる「クリスチャンの歌」は、彼の芸術性を肯定するとともに、全体主義に苦しめられた芸術家の苦悩をも含んでいます。そして、読者には聴こえるはずのないクリスチャンの悲哀を帯びた音楽が、彼の心を通して伝わってくるように感じられます。カードは、ただ無慈悲な社会を描いたわけではありません。全体主義とその社会に甘んじる大衆の愚かさを描きながら、それでもペシミスティック(厭世的)に陥らずに、芸術としての可能性とその強さを信じて希望を失うことのない物語を描いています。強制して芸術が創られるわけがないという主張は、クリスチャンの心の傷が証左として提示されています。


本書は前述の短篇『エンダーのゲーム』も収められているだけでなく、毛色の違う優れた作品が多く含まれ、幅広い分野に精通したカードの知性と才能を感じさせる贅沢な短篇集となっています。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『あしながおじさん』ジーン・ウェブスター 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

お茶目で愛すべき孤児ジルーシャに突然すてきな幸福が訪れた。月に一回、学生生活を書き送る約束で、彼女を大学に入れてくれるという親切な紳士が現われたのだ。彼女はその好意にこたえて、名を明かさないその紳士を“あしながおじさん"と名づけ、日常の出来事をユーモアあふれる挿絵入りの手紙にして送りつづけるが……このあしながおじさんの正体は?楽しい長編小説。


アメリ南北戦争終結後、1866年に合衆国憲法修正第十四条が制定されたことで黒人を含む全アメリカ人に公民権が与えられました。プランテーション奴隷制度によって苦しめられていた黒人たちは、その後も選挙権などを獲得してようやく憲法上での立場の改善が進み始めました。ところが、この選挙権の条文で明らかになった「男性限定」の推進実態に、女性参政権運動の熱が高まり、各地で集会を催す全国組織が結成されました。ヨーロッパでの帝国主義推進の波がアメリカで広がっているなか、この女性参政権運動は進展が困難であり、各地での集会が実を結ぶことはありませんでした。しかしながら暫くして、帝国主義熱が沈静化を見せ始めたことで女性参政権運動に耳を貸す国民が増加し、1904年3月8日に行ったニューヨークでのデモ行進は、世に訴える大きな転機となりました。(ちなみにこの日を「国際女性デー」として、現在でも運動は継続されています。)当時のアメリカでは南北戦争を終えたとは言え、争いの原因となった州権主義が広く根付いていました。以前、黒人の公民権問題が北側の連邦議員選挙に影響したことを受け、立候補者は盛り上がりを見せる女性参政権運動に関心を寄せ、州独自の女性参政権を認める公約やその実現が徐々に進められていきます。1910年のワシントン州を皮切りに、カリフォルニア州オレゴン州と次々に州による女性参政権が認められていきました。このようなアメリカ国内での動きは第一次世界大戦争が近づくにつれて強くなっていきます。戦争での女性による貢献を求めていたアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは、女性参政権に根本では反対していたものの、戦争協力を円滑に進めるため、女性による政府の支持を目的として、この参政権に賛同するようになります。そして1920年アメリカ合衆国憲法修正十九条にて「投票権における性差別禁止」が認められました。


ジーン・ウェブスター(1876-1916)は、アメリ現代文学に大きな影響を与えた作家マーク・トウェインの姪を母に持ち、トウェインの出版を担っていた父とのあいだに生まれました。父自身もまた、小説家としての活動も行っていました。文才を培うのに凡そ必要なものは全て揃えられていた土壌にあったウェブスターは、古典や近代の作品を早くから読み始めて、その才能を成長するとともに磨き上げていきます。ニューヨークにあるヴァッサー大学へ進学すると、彼女は経済学の一環で障害者福祉施設や孤児院へと訪問し、その置かれた環境や実態、また当事者の人々とも意見を交わすことで新たな価値観を構築させていきます。そして、生い立ちに恵まれなかった人々も機会があれば大成できる可能性は充分にあるという考えに至りました。当時の女性は前述のように公民としても認められず、参政権も与えられていない状況にあったことから、社会的な地位は低く、当然ながら貧富の差は大きく開き、生活が困難なことによる理由で子供を手放す母親が多くありました。孤児院や一部の教会はそのような受け皿となっていましたが、子が多く集まることでその福祉施設では人手が足りなくなり、成長期に必要な多くの愛情や細かな配慮を与えられていないという孤児が多く存在していました。また障害者福祉施設も同様な状況にありました。このような環境下にある子供たちや障害者たちに触れたウェブスターは、彼らは生い立ちこそ不幸であれど、社会に出て活躍する資質が無いわけではなく、ただそこから抜け出す機会が無いだけで、成功する可能性はあるのだと考えました。そして、その考えをもとに若年層でも伝わりやすく読みやすい筆致と構成で書き上げたものが、本作『あしながおじさん』です。


ジョン・グリア孤児院で育てられたジルーシャ・アボットは、孤児院で過ごすことができる年齢を超え始めていました。孤児院を支援する評議員たちで彼女の今後を会議で話しましたが、そこで驚くべき結論が導かれました。彼女が書いた作文のなかに詩性と文才を認めた一人の評議員が、彼自身の援助で大学へと進学させ、彼女が社会に出る環境を整えて、彼女に作家を目指させようというものです。条件は二つあり、この評議員の名前は明かされないこと、そして月に一度は必ず評議員の仮名ジョン・スミスに宛てて手紙を書くこと、というものでした。ジルーシャは驚きと感謝のなか、女子大学の寄宿に入り、周囲との社交に必要な小遣いを与えられて、新しい世界を過ごしていきます。彼女は評議員の仮名を嫌い、「あしながおじさん」と命名して、約束を果たすべく手紙を書いていきますが、それは一方的でありながら近況と所感を交え、ユーモアと機知に富んだ愉快な手紙でした。本作は冒頭の経緯を除いて、全てジュディ(ジルーシャ自身で付けたあだ名)による手紙で構成されています。ジュディの綴る手紙には、新しい世界に対する興味や驚きが溢れています。それは、平均的な家庭環境で過ごしてきた人々には、むしろ当然のような文化のことであり、ジュディの観察や所感は、独自の俯瞰的な目線での発見として、興奮を帯びながら書かれます。

 

マザー・グース」も「デビッド・コッパーフィールド」も「アイバンホー」も「シンデレラ」「青ひげ」「ロビンソン・クルーソー」「ジェーン・エア」も「不思議の国のアリス」も知らなければ、ルドヤード・キプリングの作品一つ読んでいませんし、ヘンリー八世が一度以上結婚したことも、シェレーが詩人であることも知りませんでした。人間が大昔は猿だったこともエデンの園というのは美しい神話だということも知りませんでした。それから、R・L・Sがロバート・ルイス・スティーブンソンの略字だということも、ジョージ・エリオットが女性だということも知りませんでした。


このような新たな経験や教養、そして学問などを得られる感謝が綴られるだけでなく、その文章からは今まで得たことのなかった「家庭的な愛情」をジョン・スミスに感じ、大きな感謝を抱いていることを何度も窺わせます。このような愛情の繋がりは、ジュディ自身の精神的な成長を促し、心を豊かにしていきます。謙虚さは失うことなく、それでも「家族」であるからこそ意思を伝えることができるという関係性が、孤児院では得られなかった貴重な感情を生んだのだと理解できます。


またウェブスターは、世間を知らない無垢な心のジュディを通して、自身が抱く思想の片鱗を語らせています。ブルジョワジーたちの資本主義的態度と言動に違和感を覚え、自分なりに考えた思考をジョン・スミスへと投げ掛けます。キリスト教が成功していたならば、世はすでに幸福な社会主義世界になっていたのではないか。無政府主義ではなく、即座の社会革命を目指すわけでもなく、教育や福祉から着手して徐々に世界を幸福な社会主義へと導くべきではないか。このようなウェブスターが実際に経験して構築した思想を、無知なジュディを通すことで読者へと届けようと試みています。繰り返しになりますが、公民権も選挙権も与えられないという扱いを受けていた女性でありながら、世に思想を問おうとする姿勢は非常に勇敢なもので、当時の常識を大きく覆す行為でした。このような行動を可能にしたという意味合いでも、本作の構成は見事であり、世間が大きく受け入れたという事実からもその試みは成功したのではないかと思われます。


家族の愛を受けることなく困難な環境で育ったジュディは、卑屈になることなく自尊心を保ち、自己を評価して自信のある言動を見せて生きてきました。孤児院の外の世界に出るまでは、自分に厳しい扱いを与えた社会そのものを否定的な目線で見ていました。しかし、ジョン・スミスによって与えられた機会は冷えきった目線を温め、ジュディは寛大に情熱を持って世界を受け止め直し、「現在ある自分の幸福」を認めて、感謝をもって人生の喜びを得ました。自分が持ち得ていないものを欲するのではなく、「現在あるもの」を喜び、それに感謝するという決意は、ジュディから得られる我々への教訓であると受け止めることができます。恵まれた文化、恵まれた環境に、我々はなかなか気付きませんが、このような「当たり前の大切さ」を意識して感謝とともに生きていくことは、幸福のために非常に重要なことであると思います。

 

私は一秒一秒を楽しみ、しかも自分がそれを楽しんでいることを自覚しているのです。たいていの人は生活をしているのではなく競走しているのです。地平線の遙か彼方の決勝点に一刻も早く着くことにばかり熱中して、息を切らせてあえぎながら走っていて自分の通っている美しい静かな田園風景など眼にも入らないでいるのです。そのあげくにまず気がつくことは自分がもう老年になり、疲れ果ててしまい決勝点に入ろうが入るまいが、どうでもいいことになっているのです。


また、最後の場面では、ジュディの幸福を賛美するように物語が終わります。孤児院から大学への進学、自分を苦しめた世界との和解、見識の広がるさまざまな出会いなど、多くのものへ感謝と情熱で接してきたジュディには、受けてきたその苦難を充分に覆す幸福が最後に与えられました。

読後感も清々しく、現代に生きる我々に多くの気づきを与えてくれる作品です。ジーン・ウェブスターあしながおじさん』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『黄金の壺』エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

ドイツ・ロマン派の異才ホフマン自らが会心の作と称した一篇。緑がかった黄金色の小蛇ゼルペンティーナと、純情な大学生アンゼルムスとの不思議な恋の経緯を描きつつ、読者を夢幻と現実の織りなす妖艶な詩の世界へと誘いこんでゆく。初期の作品ではあるが、芸術的完成度も高く、作家の思想と表現力のすべてがここに注ぎこまれている。


1789年、フランスの封建社会に確立したアンシャン・レジーム(旧制度)に締め付けられていた市民階級は、「自由、平等、平和」を掲げて王権や貴族などの支配者層に対して、武装蜂起して市民革命を起こしました。このフランスで起こった革命は、ナポレオン・ボナパルトという新たな支配者を確立して近隣諸国へと勢力を拡大していきました。ドイツはライン川の左岸から順にナポレオンに取り込まれていき、イギリスからフランスへと流入していた産業発展の産物がドイツへと流れてきました。ドイツの封建主たちはフランスへ政治的干渉を図りますが、革命の勢いに押されるように政治的に迎合していきます。このようなフランス革命の動きは、ドイツの哲学者、思想家、作家たちに或る種の期待を抱かせました。プロイセンオーストリアを始めとする領邦国家分裂の問題や、土地貴族ユンカーによる農奴制度など、「自由、平等、平和」を望み、そして啓蒙しようと努めていたなかであったため、フランス革命の余波が社会変革の後押しになるのではないかと考えました。ところが、ナポレオンによる勢力拡大は各地へ思想の混乱と過激化した暴動を与え、目指す啓蒙は絶望へと変わります。真の自由を見失ったドイツは、国政を乱され、社会秩序そのものが消え失せてしまいました。しかしこの混乱は、作家たちに改めてドイツの後進性を理解させ、目指すべき社会を見つめ直す機会を作り、ドイツ文学を先進させようとする姿勢を正すことで新たな思潮が生まれました。


文明の進歩は人間に多くの益を与えました。しかしそれは、産業の発展のために人間を専門的にして、社会という目を見る視野を狭め、自身の益のみに固執する「功利主義」へと進めてしまいました。フランス革命の混乱も、王侯貴族による私利私欲の発展のすえに市民が蜂起したのであると考えると、近代人としての人間形成に問題があったのだと理解ができます。ドイツの作家たちはこのような人間としての反省を見出し、「ではどのような人間社会が望まれるのか」を考え、古代ギリシアまで遡ります。人間に備わる素質としての知性や感性を活かし、自然の世界に対して向き合うための「教養」を身につけることが重要であると辿り着きました。古代ギリシアに描かれる思想や人間像にこそ、人間のあるべき姿が描かれていると認識します。とは言え、ジャン=ジャック・ルソーのような「田園地帯での孤独」へと向かう訳ではなく、文明を構築した理性はそのままに、寧ろ理性を活かした古代ギリシアの人間像への傾倒を目指します。そして、自然から文明へと移行した人間は、自然に戻るのではなく、文明による混乱を乗り越えて、文明を維持した自然との共存こそが、訴えるべき思想であると作家たちは考えました。


作家たちは、古代ギリシアの模倣ではなく、文明の否定でもなく、理性をもって自然との和解を目指した新たな文学を探究します。そして、それまで啓蒙主義として抑圧され続けてきた文学的思想から逃れるため、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやフリードリヒ・シラーは、文明からの思想的解放としての「理性に対する感情の優越」をもって既存の文学から離れようとする「シュトゥルム・ウント・ドラング」(疾風怒濤)運動を起こします。抑圧から発散へと「個」が変化したことで、「個」の尊重と飛翔が描かれるようになり、啓蒙主義の対極へと逃れることができました。しかしシラーは、「個」の尊重から人間愛へ、「個」の飛翔から人類愛へ、つまり自然における人間の存在を改めて見直し、どのようにあるべきかを再び思考します。古典まで遡り、そこに見出した人間存在は、自然と文明が共存するという、新たな価値観となってシラーの目の前に広がります。古代ギリシアに見られた理想的な人間性は、自然と一体となった人類だからこそ現れたものでしたが、栄えた文明を手にした今(当時)、自然と文明の和解、或いは共存を原理として創作活動を行うという方向性に、ドイツの作家たちは共感して新たな文学思潮「ドイツロマン主義」を生み出しました。逃れる反発から精神の自由へと変化したこの思潮は、幻想を帯びた芸術として多くの作品が生み出され、そこには不可思議な奇跡が数多描かれました。


このような初期のロマン主義は1790年代後半より隆盛し、フリードリヒ・シュレーゲルノヴァーリスなどによって作品が生み出され、「芸術性」を至高のものと捉え、描く世界を幻想に包んだ美しい芸術世界として描いています。これには産業の発展による近代科学やその産物が大きな着想となっていることが窺え、それらの奇跡は芸術的な自由へと導く標となり、人間の文明発展が芸術との和解へと貢献する思想が込められています。しかし、これらには「政治的視野」を度外視した、自然と芸術の調和が主に描かれていました。芸術としての文学を突き詰めた人類の幻想世界は、現実世界の変化によって大きく揺らぎます。フランス革命は、市民革命から「皇帝ナポレオン」を生み出し、ドイツの主国であるオーストリアプロイセンを次々に侵略し、作家たちを取り囲む世界は変容します。1806年には神聖ローマ帝国までが解体され、封建諸国との争いから大陸の支配者ナポレオンによる民族解放戦争へと様相を変化させました。侵略(解放)された国々の民衆は、民族としての意識団結を図り、政府による近代化政策に背を向けるように「民衆尊重」が謳われて、文学もやはり、同様の変化を見せていきます。初期のロマン主義は「芸術へと導く詩人」こそが人類を幻想的な芸術世界へと導く原動力でしたが、ここから始まる後期のロマン主義は、「民衆こそが芸術の源泉」であると見て、伝承や民謡によるメルヒェンを見直して、民衆のなかの芸術性を原動力とした物語が描かれていきます。自然と文明との和解という思潮から、人間の持つ「人格」や「無意識」へと目を向け、芸術の源泉を人類の底に見出し、自然と文明をともに行き来する幻想世界を、彼らは詩的に描きました。特に詩人アヒム・フォン・アルニムやアーデルベルト・フォン・シャミッソーが代表作家として挙げられ、本作の著者エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(1776-1822)もその一人です。


後期ロマン主義になると、前期に見られる詩性に溢れた無条件な芸術の肯定描写から、現実の社会と芸術家の詩性との相違による葛藤が露わとなり、時に詩性を「社会から離れた狂気」として映し出します。現実社会に見られる文明の進歩は「功利主義」を肯定し、詩性を重んじる人間を排斥します。ホフマンは、このような功利主義社会で苦しむ芸術家の代表的な存在であったと言えます。その筆名に「アマデウス」を取り入れるほどに敬愛していたモーツァルトの存在は、ホフマンにとって代え難い存在であり、法律家の家系に生まれながらも、持って生まれた詩性を表現する場を探し求めるように生き続けました。法廷上級顧問官や裁判官などの法律家としての現実を生きる傍ら、幼少期から学んだオルガンやピアノの演奏に取り組み、モーツァルトを耽溺し、バッハを尊敬していました。また、絵画にも関心があり、自ら筆をとって描き上げることもできました。そして戯曲、小説なども手掛け、どの方面の作品にも輝く才能を見せつけ、芸術家という生活を現実から離れた(仕事を終えた)夜間に過ごしていました。まさに文明と芸術の二重生活を送っていたホフマンですが、残した作品は多岐にわたっています。


音楽ではモーツァルトへの敬意を感じさせる「ピアノ三重奏曲ホ長調」(Grand Trio in E major)、オペラではフリードリヒ・フーケから依頼されて創作した「ウンディーネ」、また、ホフマンの文学作品を基に作られたバレエ作品「くるみ割り人形」「コッペリア」「ホフマン物語」、同様にロベルト・シューマンに作曲された「クライスレリアーナ」など、作家として括ることは困難なほどに幅広い芸術活動を行いました。昼は法律家としての現実社会を、夜は友人たちと酒を酌み交わしたのちに創作活動を、言うなれば現実と幻想を交互に過ごす生活から、その作品にも特異な二重世界が反映されていきます。そのような二重世界を描いた代表的な作品が本作『黄金の壺』です。


十二回の夜話で語られるメルヒェンは、現実と幻想が接触し、主人公アンゼルムスを通して二つの世界を行き来して進められます。現実は芸術性を排他的に扱う「功利主義」の世界、幻想は四大元素が支配する「詩性溢れる」美しい世界で描かれ、アンゼルムスは両世界に挟まれて戸惑いながらも幻想世界へ憧れを抱きます。昇天祭(イエス・キリストが神の子として天に認められて迎えられる日、復活祭の四十日目)の日、りんご売りの老婆の出店に倒れ込んでしまい、大きく不興を買って彼は老婆から「呪い」をかけられます。手持ちの金銭を全て渡してしまったアンゼルムスは、にわとこの木陰で自分の情けなさに打ちひしがれていると、クリスタルの和音が聴こえ始めて三匹の金緑色の蛇と出会い、そのうちの一匹であるゼルペンティーナに一目惚れをして恋におちました。姿を消した彼女を呼び続ける彼は周囲に狂人として見られたため、この場を離れるようにします。肩を落としながら帰ろうとすると、彼の人間性を評価して世話をしてくれている教頭パウルマンに出会い、家での食事に誘われてありがたく向かいました。そこで一つの変化が与えられます。アンゼルムスは学生で職を探していましたが、知人の書記官ヘールブラントの紹介で枢密文書管理役リントホルストという不可思議な人物のもとで筆写の仕事を請け負うことになりました。仕事の初日、彼はリントホルストのもとへ向かいましたが、ドアの把手から恐ろしい老婆の顔が現れました。恐ろしさのあまりに逃げ帰ってしまったアンゼルムスは、後日にリントホルストへ事情を伝えると、あれは私の敵である魔女だと語ります。そして、リントホルストは火の精の王子であることがわかりました。ここから、火の精と魔女との諍いにアンゼルムスは巻き込まれながら、愛しのゼルペンティーナを求める日々が始まります。


リントホルストの屋敷のなかは外観からは想像できない構造の広さがあり、美しく輝く自然の花々が語りかけ、多くの鳥が騒がしく迎えます。ゼルペンティーナはリントホルストの娘で、彼はアンゼルムスと彼女との結婚を望んでいます。三人の娘にはそれぞれ黄金の壺が与えられており、婚姻が成ると大きく美しい鬼百合の花が咲くと言います。しかし一方で、パウルマンの娘ヴェロニカの恋心を悪用しようと、老婆は魔術を用いてアンゼルムスとの恋の成就を試みます。現実の恋と幻想の恋に挟まれたアンゼルムスは、惑いながらも自分の精神と対話をします。そして火の精と魔女の争いは激化して、恋の行方とともに決着を見せます。


詩性は超自然として描かれ、精神の逃避的な場所として象徴的に存在しています。1814年の発表当時、ドイツはナポレオンの解放戦争でのライプツィヒの戦いを経て、その支配から逃れようとするさなか、同時的に工業が発展して街は燻み、現実の世界は騒音と煙に包まれていました。政治的な緊張で社会から逃れようとする人々は、自分の精神を内部へと進め、「内なる自己」へと意識を向けました。そして、芸術家たちは内なる詩性を表現しようと、現実に対して幻想というかたちで表現しました。ホフマンは、本作で見事にこれらを表現しています。


副題「現代のメルヒェン」とある通り、ホフマンは詩性溢れる完全な幻想世界を描こうとはしていません。現実のドレスデンの街を描き、芸術を無視した「功利主義」を賛美する人々が作る社会を見せ、そこに強い詩性を持つアンゼルムスの苦悩を表現しています。幻想世界や幻想の出来事を理解する人と全くできない人が登場するという点も、現実に見られる詩性の有無が現れています。言い換えるならば、人々の「審美眼」の有無によって、幻想の受け入れ方に違いを見せており、アンゼルムスは強い詩性を持っていたからこそ幻想世界(詩的世界)へと足を踏み入れることができたのでした。そしてアンゼルムスの抱える苦悩や葛藤は、ホフマン自身が抱くものと重なり、現実と幻想の二重世界(昼と夜)に生きていたからこそ生み出すことができた作品であると言えます。このようなホフマンの文学作品はドイツ語圏で広く民衆に受け入れられただけではなく、フランスのシャルル・ボードレール、ロシアのフョードル・ドストエフスキーなどの他国の作家たちにも称揚され、その創作に影響を与えました。

 

そもそもアンゼルムスの味わっている至福の生活は、つまるところ詩のなかにある生命と通ずるものなのではないでしょうか。詩のなかでは、この世のあらゆる存在がきよらかな調和をとげ、それが自然の最も奥深い神秘となって現われ出ているのですからね


アンゼルムスはリントホルストに差し出された精霊界の物語を「詩性」を用いて筆写を成し得ました。幻想として現れる精霊界での出来事を、人間の力で描き出しました。つまり、この場合での幻想は「芸術」であり、これを詩性を用いて人間の言葉に置き換える作業が執筆であり、それを成す者が詩人であると言えます。「功利主義」に包まれて息苦しい詩人は、幻想的な「芸術」の世界へと憧れます。それは逃避ではなく二重生活の双方の調和であり、自然と文明の共存を思い描いています。


ホフマンは社会の発展が「芸術」を排他的に扱っているという認識を抱いていました。文学、絵画、バレエ、オペラ、作曲など、芸術に対する優れた審美眼を持っていた彼には、民衆が悩まされていた政治的背景による苦悩以上の葛藤が、心のうちにあったと思われます。そのような社会の認識を「メルヒェン」というかたちで世に問おうとした詩性こそ、まさに芸術家であると感じました。このような心の葛藤を見事に描いた本作『黄金の壺』、未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

 

『犬と独裁者』鈴木アツト 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

革命時代のソ連を生き、小説『巨匠とマルガリータ』を遺したミハイル・ブルガーコフは死の前年、「モスクワ芸術座」の依頼で、独裁者スターリンの評伝劇を書き上げるも、上演禁止の告を受けた。この史実をもとに、文学者が独裁者の評伝劇を書き上げるまでの葛藤を、想像力豊かに描出した戯曲。


1917年の十月革命より、ロシアではレーニンが導くボリシェヴィキが独裁を実現させ、世界最大の社会主義政権であるソヴィエト連邦が発足しました。このときにレーニンの片腕であったヨシフ・スターリンが書記長となり、その後、レーニンから権力を継承する形でソ連の独裁的権力を握りました。「一国社会主義論」を掲げるスターリンと、「世界革命論」を主張するレフ・トロツキーが、共産党の主導権を争って国政を不安定にさせていましたが、スターリンは対抗勢力を次々と排除して党の主幹を支持するもので固め、1929年にはスターリン政権と言われる独裁政権を確立しました。スターリン社会主義国家建設のため(世界大恐慌という経済改善の必要性もありましたが)、第一次五カ年計画、第二次五カ年計画と十年にわたる「工業や農業の集団化」を目指しました。これに反対する政治家や団体は徹底的に排除され、批判的な意見を持つ一般人も投獄されていきます。やがて処罰は激しくなり、シベリアへの強制収容による労働や死刑が与えられました。やがてスターリン政権は国政から崇拝へと変えられ、1936年にはソヴィエトにおける社会主義化の完了を告げる「スターリン憲法」が制定されました。


1939年にドイツがポーランドへ侵攻して第二次世界大戦争が勃発した際、ドイツと不可侵条約を結んでいたソヴィエトは国軍を送って支援しましたが、1941年にドイツは東方への勢力拡大のために突然ソヴィエトとの不可侵条約を破り、両国での戦争が始まりました。この経緯によりソヴィエトは、イギリスとアメリカへ連携を図り、連合国へと加わって終戦を迎えます。ドイツの降伏による領土分割にソヴィエトは参加して東ドイツ社会主義政権として樹立させましたが、アメリカ側の資本主義政権との対立を明確にしたことで、東西の主義相違による「冷戦」(冷たい戦争)が長く続くことになりました。


国内において、第二次世界大戦争の終結は圧迫された心身を解し、政府より抑圧され続けたプロパガンダによる強制やスターリン政権の崇拝から解放されたように錯覚しました。奴隷のような社会主義生活から、思想の緩和が図られるのではないかという「自由への憧れ」が高揚しました。しかしながら、冷戦におけるソヴィエトとしての姿勢を改めて表明するために、スターリンは1946年の公式演説のなかで「資本主義との対決姿勢」を改めて表明し、戦前のイデオロギー回帰、つまりは社会主義政権への崇拝を共産党としての方針として打ち出しました。これによって、国民の思想はより一層に厳しい統制が敷かれるとともに、反思想的または反体制的な言動は立場に関わりなく厳しく処罰されていくことになりました。


この思想の統制は当然ながら芸術に影響を強く与えます。スターリンの「資本主義との対決姿勢」表明を受けて、党中央委員会が決議し、文化政策担当政治局員のアンドレイ・ジダーノフが演説を行いました。まず糾弾されたのは文学でした。文芸サークル「セラピオン兄弟」の代表諷刺作家ミハイル・ゾーシチェンコと、銀の時代「アクメイズム」の代表的詩人アンナ・アフマートワが名指しで槍玉に挙げられ、「無思想で頽廃的な体制に対する反動文学」であると批判します。しかし実際としては、もともと「セラピオン兄弟」は政府のプロパガンダ文学を拒否した作家たちによる活動であり、「アクメイズム」もオシップ・マンデリシュタームなどに見られる芸術としての自律性を追求した活動であったため、ジダーノフが「プロパガンダを受け入れずに己の芸術性を尊重する姿勢」を徹底的に否定しようとしたのだと考えられます。そしてジダーノフは、「文学は社会主義思想の建設において、青年の士気を高めるものであらねばならぬ」という社会主義としてのリアリズムを国民へ強制しました。


このような「ジダーノフ体制」(文化統制政策)はスターリンが亡くなるまで(1954年)継続され、音楽、演劇、絵画などの芸術全般に締め付けを与え続けました。この姿勢は徹底したもので、西側の文化影響を受けた作品は全て排斥され、ソヴィエト独自の文化を尊重するように抑圧し、その認められるソヴィエト文化はプロパガンダに迎合したもののみを優遇しました。この排斥の手段は強硬的で、一方的な迫害であり、多くの芸術家は「迎合か強制労働か」の二択を迫られます。これに反対したマンデリシュタームはシベリアへ流された上に殺害され、多くの作家は逃避するように亡命しました。また、スターリンとジダーノフはともに音楽に精通していたこともあり、作曲家や演奏家も大きな被害を受けます。偉大な交響曲作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチ全音階の旋律を描くセルゲイ・プロコフィエフなどは「社会主義的な音楽ではない」(明快で理解しやすいものではない)という批判を受け、活動を継続するためにプロパガンダ作曲家としての汚名を担ぎ、表面上は迎合しているように見せかけて活動しました。さらに、シュプレマティスム(至高主義)の先駆者で「黒い正方形」などで知られる抽象画家カジミール・マレーヴィチも、ポーランドとドイツへの旅行で嫌疑をかけられて投獄、その後は政権讃歌の具象画を描かされました。そして、このような反コスモポリタニズムは矛先をユダヤ人へと向け、多くのユダヤ人芸術家が謂れの無い迫害を受け、投獄や処刑を与えられました。


芸術が国民へと伝える主義の解放を危惧したスターリンは、裏を返せば芸術の持つ力を理解していたと言えます。「スターリンは無知な指導者」という印象が一部には残されていましたが、これは共産党の主導権争いを行ったトロツキーによる印象操作によるもので、実際にはスターリンは教養深い知識人であったことが明かされています。スターリンは20,000冊の蔵書から毎日本を読み耽り、その文芸性などへの理解や追究も徹底していたと言われています。アレクサンドル・プーシキンニコライ・ゴーゴリなどのロシア黄金期文学はもちろんのこと、ギ・ド・モーパッサンオスカー・ワイルドなどのフランス文学などにも深く理解を示して好んでいました。また、スターリン自身も若いころ、出身地で用いられたグルジア(現ジョージア)語で詩作を行い、認められたという経緯も持っていました。さらには音楽にも造詣が深く、演奏会には足繁く通い、演奏家たちの楽屋へ訪問しては意見を交わしていたと云います。そして、スターリンは演劇場にも足を運んでいました。なかでも特に好んでいたのがミハイル・ブルガーコフの作品でした。


喜劇『ゾーイカのアパート』(1925年)、戦争劇『逃亡』(1926年)などを好み、ブルガーコフの作品は欠かさずに観に行くというほどの熱の入れようで、民衆にもブルガーコフは評判となりました。しかし、ジダーノフ体制が広まるにつれて、社会主義に対する皮肉や諷刺は認められなくなり、作家には民衆が理解しやすいリアリズムを求め、ソヴィエト讃歌を込めるように圧力が掛かります。これに迎合できないブルガーコフは、このような体制下にありながらも独自の姿勢を貫いて創作を続けますが、当然ながら演劇上演も作品出版も、検閲で全て却下されてしまいます。八方塞がりとなったブルガーコフは、スターリン政府に対して書面で「国外への移住」か「演劇の仕事の斡旋」を請願しました。これを受けてスターリンは直接ブルガーコフに電話をして、ゴーリキー記念国立モスクワ芸術アカデミー劇場(MKhAT)へ雇用申請するように伝えました。それでもやはりブルガーコフは「創作の自由」は与えられず、文学的苦境もしくは演劇的苦境にあり、苦悩が絶えない日々を送ります。我慢のならなくなったブルガーコフは1930年に再びスターリンへ書面を認め、「国外への移住」か「モスクワ芸術座 (MXAT)での雇用」を求めました。またもやスターリンは自ら電話をして、ブルガーコフにモスクワ芸術座に雇用申請をするように伝えました。


しかし、いくら雇用先を変えようとも「創作の自由」が真に与えられることはなく、ブルガーコフは閉じこもるように執筆を続けました。出版することができない作品を、自身の信念に則って只管に書き続けるという活動は、苦悩に包まれた日々であったと考えられます。この間に執筆が続けられていた作品が『巨匠とマルガリータ』です。

先の見えない執筆生活を何年も続けていたある日、ブルガーコフに「スターリンを題材とした演劇台本」の執筆依頼が舞い込みます。取材や研究を徹底的に行うブルガーコフにとって、この作品は「スターリンを愛さなければ」書き上げることができない題材でした。自身の作家人生を苦しめ続ける独裁者をブルガーコフは愛すことができるのか、書き上げて成功すれば再び作家人生の道が開かれるという究極的な依頼に、ブルガーコフは依頼を受けて執筆を始めます。そして戯曲『バトゥーム』を書き進め、スターリンの故郷グルジアへと仕上げの取材に向かうとき、政府より演劇制作中止の電報が届きました。その瞬間からブルガーコフは身体に不調をきたし、激しい勢いで視力を失い、重度の腎臓病と診断をされました。激しい痛みに耐えるためにモルヒネを用い、そのような闘病のなかでも妻の協力で『巨匠とマルガリータ』の完成を目指しました。


本作『犬と独裁者』はブルガーコフの評伝劇であり、「創作の自由」を奪われて部屋に篭って『巨匠とマルガリータ』の執筆に取り組んでいた最中に、「スターリンを題材とした演劇台本」の依頼が舞い込む場面から、『巨匠とマルガリータ』の完成を目指すまでの物語です。スターリンの物語を引き受けたブルガーコフのもとに、犬のような言動を見せる少年が現れます。言葉も上手く話せず、獣のような立ち回りでブルガーコフを困惑させますが、この少年はブルガーコフにしか見えません。政府からスターリンについて「書くべき内容」を含む資料がなかなか届かず焦るブルガーコフの前に、言葉を覚えて詩を生み出す才能を少年は見せ始めます。驚くべき速度で成長を見せる少年はブルガーコフを幻想世界へ連れて行き、やがてボリシェヴィキズムの思想家として活動し、部下を使って銀行強盗を働かせます。そして少年は独裁者として姿を変え、社会主義の世界を宣告します。この少年こそ、若き日のスターリンであり、ブルガーコフとの意識の繋がりによって目の前に現れたのだと考えられます。


実際にスターリンレーニンの片腕として活躍していた際、ボリシェヴィキの資金獲得において銀行強盗や売春宿経営などを行っていました。少年のころは治安の悪い農奴地区で育った様子を見せ、言葉が上手く通じなかったのはグルジア語を用いていたからだと理解できます。「詩作」に喜びを見出していた少年は、ツァーリ体制打倒を目指すレーニンの革命に感化され、ボリシェヴィキ独裁から社会主義独裁体制へと、その思想を変化させて行きました。詩性に溢れる犬と呼ばれた少年は、世界革命という「詩」、社会主義独裁という「詩」、ソヴィエトという「詩」を描き上げようとする独裁者へと変貌します。

そして『バトゥーム』という作品を書き上げたブルガーコフグルジアへと取材に向かおうとした矢先、政府より制作中止を告げる電報が届きます。体調を崩し、失意のなかにあるブルガーコフは、視力を失って妻エレーナに支えられながらも『巨匠とマルガリータ』を完成させる決意を見せて幕が下ります。


ジダーノフ体制下に置かれた芸術家は、例外なくこのような強制を与えられました。シベリアへ流刑される者、処刑される者、亡命する者、迎合する者、迎合したと見せかける者など、絶望的な選択肢だけを提示され、それでも芸術家としての誇りを胸に最後まで生きました。ブルガーコフは優れた才能を持っていたからこそスターリンに注目され、生み出す作品に注意を払われ、スターリンが手放さないようにソヴィエトに居続けることを求められました。繋がったブルガーコフスターリンの意識、そして電話は、作家と独裁者という関係性を超えた繋がりを感じさせ、それでもブルガーコフは「創作の自由」を求める姿勢を崩さないという点が、本作では力強く描かれています。スターリンは詩を「書く目」を捨ててツァーリ体制崩壊という「革命」を目指しました。ブルガーコフは作品を「書く目」を失い、妻と口述筆記で『巨匠とマルガリータ』を書き上げました。まさに、社会主義からの解放を望む「革命」的な作品でした。

 

暗闇に目を凝らすからこそ、見えてくるものがある気がするんだ。俺の「書く目」は暗闇でこそ輝くんだよ。春の満月が夜の闇の中でこそ煌々と光るように、この目を失ってからのほうが、「書く目」は鋭くなった気がする。


巨匠とマルガリータ』は1966年、ブルガーコフの死後26年目に妻エレーナの献身的な努力によって文芸雑誌「モスクワ」に掲載されて大きな話題となり、ブルガーコフへ現在の世界的な名声を与えるに至りました。この作品は時代を跨ぎ、悪魔ヴォランドが多くの場面を飛び回るという非常に複雑な世界観の「幻想小説」ですが、主題には「救済」が込められており、自己の救済、思想の救済、芸術の救済など、さまざまな角度からの救済が表現されています。

 

精神的受難者の救済というテーマは、奇想天外な物語と魔術の軽やかさによってひじょうに楽しい物語に仕上がっており、さらに、二つの対照的な舞台を設定することにより構成上の厚みを確保している。この非日常的な映像に彩られた幻想の物語を執筆していた作者の境遇に思いを馳せるとき、真の救済は想像力によってのみなされる、という作者自身の信念を見いだすことができる。

『はじめて学ぶロシア文学史』ミネルヴァ書房


本作でも「幻想」を効果的に用いて、思想の対比や意識の繋がりを見事に表現しています。また、ブルガーコフが貫いた真の救済は想像力によってなされるという点が、終幕で目の前に広がる闇を「自身のインクだ」と宣言し、ブルガーコフの芸術性とその表現意志が潰えていないことを表明するという形で、大きな感動を与えています。時代背景をある程度把握しておくと、芸術性の追求とその困難さに苦悩するブルガーコフの心情が、非常な熱量をもって描かれていることが理解できます。

劇団印象の主宰鈴木アツトによる熱い戯曲『犬と独裁者』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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『白の闇』ジョゼ・サラマーゴ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

「いいえ、先生、わたしは眼鏡もかけたことがないのです」。突然の失明が巻き起こす未曾有の事態。運転中の男から、車泥棒、篤実な目医者、美しき娼婦へと、「ミルク色の海」が感染していく。善意と悪意の狭間で人間の価値が試される。ノーベル賞作家が、「真に恐ろしい暴力的な状況」に挑み、世界を震撼させた傑作長篇。


ジョゼ・サラマーゴ(1922-2010)は、ポルトガルリスボン北東部にある寒村の農家の息子として生まれました。貧困に苦しむ一家は首都リスボンへ移住しますがそれでも苦しい生活には変わりなく、家を間借りするような暮らしでした。幼少期から文学を愛していたサラマーゴは、公立の図書館へ足繁く通い、古典文学を中心に読み続けて文芸性を養っていきます。幾つもの職を経てジャーナリストとして落ち着いた彼は、持ち前の文才で活躍し、日刊紙「ディアリオ・デ・ノティシアス」の副編集長に抜擢されます。


ポルトガルでは1932年よりアントニオ・サラザールによる独裁政権が続いていました。これは全体主義体制を敷くファシズムで、地主、教会、軍部を基盤とし、国民同盟一党独裁で検閲や犯罪取り締まりを一括で行い、独裁に対する反体制運動を押さえつけるものでした。しかし、第二次世界大戦争においては、イギリスと友好的な関係であったこと、また反共姿勢がヨーロッパ諸国に容認されていたことによって、大戦時は中立を守り続けて、打倒ファシズムから逃れることができました。こうして戦後も安定的な独裁政治を進めてきましたが、1960年代より起こったアフリカの植民地(アンゴラモザンビークなど)による独立運動を激しく弾圧したことにより、友好的であったヨーロッパ諸国から批判を浴びたことで、ポルトガル国内でもサラザール政権に対する反発が生まれます。1968年にサラザールは引退してマルセロ・カエターノがその後の独裁政権を引き継ぎましたが、1974年に反独裁を掲げるアントニオ・デ・スピノラ大将が率いる国軍(MFA)が大規模なクーデターを起こし、殆ど無血で政府を打ち倒しました。これをカーネーション革命リスボンの春)と呼びます。


サラマーゴはこの革命を誌面を通じて支持していました。しかし、革命後の政治情勢は混乱を見せ、右派左派ともに暴力的な騒動を巻き起こします。このような世情の混乱を鎮静化させようと、幾人もの思想家が自論を唱えましたが、サラマーゴは十九世紀に語られたスペインとポルトガルの統合「イベリスモ」を唱えました。これによって多くの議論が巻き起こされましたが、結果的に軍部が介入して「ディアリオ・デ・ノティシアス」を解雇されました。その後、翻訳家として生計を立てていましたが、過去に小説や詩を発表していたことから自らの作品を世に出そうと、専門作家の道を歩み始めました。1982年『修道院回想録』(Memorial do Convento)、1986年『リカルド・レイスの死の年』(O Ano da Morte de Ricardo Reis)など、議論を呼びながらも多くの読者を獲得し、ポルトガル作家の代表として世界に知られました。そして本作『白の闇』が1995年に発表され、これらの功績により1998年に「想像、哀れみ、アイロニーを盛り込んだ寓話によって我々がとらえにくい現実を描いた」としてノーベル文学賞を受賞しました。


「社会の全ての人間が突然失明したらどうなるのか」という頭に浮かんだ質問を発端に、非常に理論的に本作の物語は構築されました。明確な原因や理由が不明のまま、突如として発症した失明は怒涛の勢いで感染を拡大していきます。この盲目は、まるで視界がミルクの海に潜っているかのような「白い闇」であり、目を閉じて訪れるような真っ暗な闇とは異なっています。拡大を堰き止めるため、政府は発症した人々を隔離施設へと押し込み、国軍の管理下に置いて、患者は非道徳的な扱いを受けることになります。白い闇に覆われて盲目となった失明者たちは、滞る政府からの配給を奪い合い、倫理を失った環境で過ごさなければならなくなりました。食糧も何を食べているのか視認できず、手探りで寝床を探し、排泄を伴う生理現象には尋常ではない苦労が付き纏います。人間としての尊厳を毎時間のように削がれる人々は、やがて道徳と倫理を放棄して「野蛮」な動物へと導かれます。法律は当然ながら、規律や統率といったものは姿を消し、力と欲求が支配する地獄絵図へと変化します。さらには、政府からの配給も無くなり、軍の監視も消え去ったことで、隔離施設の外側も「無秩序」に満たされたことがわかります。実際的に隔離から解放された施設内の失明者たちは、さらなる苦悩の道へと歩み始めます。しかしながらこの隔離施設のなかには、信じられないことにたった一人だけ失明していない女性が存在していました。この女性の目と、語り部であるサラマーゴを中心に、本作は物語られていきます。


登場人物の名前は明かされず、また、語り部のサラマーゴが随所に介入することから、本作は非常に寓話的な作品として描かれ、黙示録のように読者の心へ訴えかけてきます。人々は盲目となり、世界は混沌に包まれ、人間的な弱さ、社会的な脆さ、政治的な欺瞞が溢れるように明示されていきます。さらに情景描写のあまりの衝撃と生々しさは、飢餓、腐敗、暴力、強姦、糞尿、死者といったものを、鋭い想像力で提示し、読む者へ強烈な印象を植え付けます。失明していない唯一の女性はこれらの「衝撃」を目の当たりにし、それらから自身を含めた周囲を守ろうという「義務感」で献身的に活動します。


この物語は、我々が日常生活に没頭していることによる「盲目」を取り上げています。自らの周囲が利便性に溢れ、豊かな暮らしを構築しています。水道、電気、ガスなど、当たり前のように用いることができる環境は、人間が人類として生存できる奇跡的な豊かさを提供しています。このような奇跡に対して、我々は「盲目」であると言え、一度「当たり前」が無くなった瞬間、構築されていた社会は崩壊し、道徳と倫理を失い、人間は尊厳を失います。このような「盲目」を問題として提起し、我々に現在を見つめ直させるという意味で、本作は重要な作品であると考えられます。本質的な恐怖として潜んでいるものは、自身に危険が及ぶまでは冷徹な感情と非常な合理性で権力を秩序的に行使していながら、自身に危険が及ぶと秩序を維持することはできずに、人間の奥に潜む「醜悪な本性」が顔を見せるという残酷性です。

 

わたしたちの内側には名前のないなにかがあって、そのなにかがわたしたちなのよ。


この寓話は、物事の発端から問題収束の兆しまでを描いています。なぜ失明が起こったのか、なぜ感染したのか、なぜ一人だけ失明しなかったのか、といったことは明らかにされません。原題は『Ensaio sobre a Cegueira』で、「失明に関するエッセイ」という意味を持っています。これは冒頭の疑問「社会の全ての人間が突然失明したらどうなるのか」というものを、論理的に追求し、人間の思考や行動を辿り、この物語そのものが「疑問に対する答え」となっており、いわばサラマーゴによる思考実験とも言い換えることができる作品です。そして、寓話として語ることで道徳的または倫理的な側面を持ち、読む者へこの結果を諭すように提示しています。サラマーゴは本作に関してこのように述べています。

   

「これは率直に言って残酷な作品で、私が執筆中に抱いた苦しみと同じくらい読者にも苦しんでほしいと思っています。長い拷問が描かれています。残忍で暴力的な作品であると同時に、私の人生で最もつらい経験の一つです。(原著で)300ページにわたる絶え間のない苦しみは、私たちが愚かであり、それを認識する勇気が必要であることを、作品を通して伝えようとしました。」


サラマーゴは本作を通じて、需要、無力、愚かさ、軽蔑、放棄などに対する人間の反応を示しています。また、地獄絵図のような受け入れがたい状況に直面する唯一の失明から逃れた女性の目を通して、道徳や倫理について考えさせています。彼女はその見える目で「多くの死」に直面します。その度に彼女の道徳と倫理は揺らぎ、苦行のような献身から逃れたいという願望から失明さえ望みます。最後の場面ではそのような願望を見上げた天から否定され、献身の継続が目の前に広がったことを印象的に見せて締め括っています。


無神論者であったサラマーゴは、この思考実験で強烈な皮肉をも添えています。目の見える女性は休息のために教会へと向かいますが、天井を仰ぎ見ると、全ての神的な存在は全て白い目隠しが施されています。このような地獄絵図の世界にある人々を救わない神々、つまり「神々こそが盲目」であり、それは実際的に神々は世界に不在であるという警告です。そしてその事実を知った教会に避難していた盲目の人々は阿鼻叫喚となり、信仰を根底から失って大混乱を起こし、教会から逃げるように去っていきます。その最中に、目の見える女性は食糧を確保して、結果的に目的を果たします。ここにサラマーゴによる「無神論者」の肯定が示されています。


過酷な状況やその描写に読み手は苦痛を与えられますが、その苦痛は読者自身の「盲目さ」から呼び起こされているとも考えられます。現代の、そして現在の生活環境における「当たり前」が、いつ無くなるとも限りません。そのような人類として生きる人々に向けた強い警告は、読後に必ず心に残るものと思われます。ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『大衆の反逆』ホセ・オルテガ・イ・ガセット 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットによる痛烈な同時代批判の書。自らの使命を顧みず、みんなと同じであることに満足しきった「大衆」は、人間の生や世界をいかに変質させたのか。1930年刊行の本文に加え、「フランス人のためのプロローグ」と「イギリス人のためのエピローグ」を収録。20世紀の名著の完全版。


第一次世界大戦争後、1920年のスペインでは、植民地として支配していたモロッコ北岸の反乱にあい、リーフ戦争が起こっていました。リーフの名家アブデル=クリムが率いる被支配者たちの軍勢は、スペイン軍を打ち破って独立を勝ち取ります。しかし、フランスの将軍フィリップ・ペタンとスペインは手を結び、大軍で攻め寄せてリーフを奪回します。この戦いで大きく名を揚げたのがスペインの将軍フランシスコ・フランコです。スペインではブルボン朝立憲君主制が行われていましたが、この一連の政治運びに民衆は王政に対して疑問を抱き始め、さらに世界恐慌による経済危機が追い打ちとなり、1931年のスペイン革命によってブルジョワ共和政が成り立ちました。しかし、国内の混乱は収まりを見せず、軍事クーデター、世界恐慌の被害に苦しむ農家、アナーキストたちによる教会襲撃など、矢継ぎ早に問題が起こっていました。この混乱に乗じて右派ファシストの勢力は膨れ上がり、フランコが大規模クーデターを起こしてスペイン内戦を起こします。争いは大きくなり他国を巻き込み始め、ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラー、イタリアのベニート・ムッソリーニフランコへ手を貸し、スペインを独裁政権へと導きました。


スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)は、幼い頃から秀でた知性を見せて、早くからジャーナリズムの土壌で影響を与えていました。両親と祖父が携わる日刊紙エル・ソルに掲載する形で、混乱する社会に自身の洞察を投げ掛けるように執筆していきます。オルテガは新聞という媒体が最も国民に対して直截的に訴え、集団としての知性に思想を流入できると考えていました。国政の混乱による民衆の戸惑いと、伝統的なヨーロッパ文化圏の民衆が持つべき誇りとの差異に、オルテガは民衆精神の衰退を見て悲観的な態度を示しました。そして民衆意識としてのこの問題を、オルテガは本作『大衆の反逆』によって明確に提示しました。彼は、ボルシェヴィキ独裁やファシズムのような「全体主義」を招く原因は、「大衆」にこそあると主張しています。


オルテガは「大衆」を、「人間としてあるべき行動を示さない人々」と定義しています。この「大衆」は社会的階層には囚われず、政治家や研究者のなかにも含まれるとして、量的表現の「群衆」とは大きく区別しています。いわば人間の精神的区分というもので、その他少数派「エリート」との性質を対比させながら、「大衆」の持つ愚かな危険因子を紐解くように、そしてオルテガ自身の怒りを添えて、ヨーロッパ文化圏に危険を及ぼす恐怖を「大衆による反逆」という表現で紐解いていきます。十九世紀以前では、そもそもヨーロッパ諸国は国家としての境界はあったものの、貴族をはじめとする血の繋がりが国を跨いで入り乱れており、本質的な人間性は各国民を血で繋ぎ止め、共通する矜持や貴族的義務を同じくしていました。このような人間としての性質は国境という区切りを曖昧にして、種族としての共通性でヨーロッパ文化圏を包み込んでいました。オルテガが何度も述べるヨーロッパ文化圏という言葉は、そこに居たはずの「世界を牽引する義務を背負った誇らしい種族精神」を持っていた人間たちによる成果としての文化圏の表現です。このような社会階級に関係なく存在した「立派な精神」の持ち主たちは、現代(1930年出版当時)には見られなくなり、代わりに「大衆」が世に蔓延ってしまったと述べています。


当時の目紛しい産業の発展によって、多くの国民は富、工業、娯楽、情報、安全、医療、権利など、十九世紀では凡そ得られなかったであろう多くの満足を手にしました。しかし、その満足を得たために人間としての「立派な精神」を多く失ってしまいます。工業の恩恵を受けるため、田畑を捨てた農民たちは雇われ人として規律を守る行動を身に付けます。その対価として、人間としての個性を多く失ってしまいました。ヨーロッパ文化圏人としての矜持などは無くなり、領土を区切った国家としての成長へ無自覚に貢献していました。これは国家が推し進めた風潮で、産業の発展に一人でも多くの国民をその成長の「歯車」に組み込もうとした目論見により、ヨーロッパ文化圏人たちが持ち合わせていた「立派な個性」を片端から剥奪したのだと言えます。


そのような「大衆」の性質は、社会に対して悪影響を与えていきます。実際に国家あるいは世界は著しい発展を見せていきますが、そこに住まう大衆の性質は人間的そして精神的に未開のもので且つ、原始的精神らしく欲求に満たされており、計画性も無く社会の流れに身を任せる浮標(ブイ)のような存在であると、オルテガは辛辣に説いています。そして何よりも、政治に与える影響として、他者と同じであることを苦に感じず、またそれを心地良いと捉えるいわば「平均人としての自覚」を抱き、無責任を自由と捉えた価値観によって「平均人としての平等意識」を「真っ当な少数派」へ押し付け、平等への権利は相手が持つべき義務へと変わり、自身の欲求を声高に主張することで、狂乱した不誠実な政治が成り立ってしまうという考え方です。オルテガは思想家の視点から「真っ当ではない権利や主張が罷り通ってしまう」という現実社会を受け止めることができません。ヨーロッパ文化圏が、どのような血の繋がりで、どのような崇高な精神を持って、世界を牽引してきたかという現代に至る歴史を理解せず、満たされた現代に胡座をかいて自らの言動を省みず、好き放題に欲求や権利を主張する平均人たる「大衆」が、芸術の審美眼を持たずに工業の技術的発展に心を躍らせる様を、苦悩的に捉えて説明しています。

 

つまり私たちは、信じられないほどの能力を有していると感じていても、何を実現すべきかを知らない時代に生きているのだ。あらゆるものを支配しているが、おのれ自身を支配していない時代である。おのれ自身の豊かさの中で途方に暮れている。かつてなかったほどの手段、知識、技術を有していながら、現代世界は、かつてあったどの時代よりも不幸な時代として、あてどもなく漂流している。


そしてオルテガは、あらゆる社会層に存在する「大衆」が一国の支配者に君臨するとき、その野生的エゴイズムによって「真っ当ではない政治主張」を推し進める「独裁」が為されるとして警鐘を鳴らしています。ヨーロッパ文化圏の高貴な精神は潰え、歴史的教養を失った野蛮の精神が、一国を狂乱した不誠実な政治へと塗れさせます。

 

ヨーロッパならびにその隣接地域でなされつつある政治の「新しい」二つの試み、つまり本質的退行の明らかな二例は、ボルシェビズムとファシズムだ。私がそれらを本質的退行とするのはその教義の内容のためではない。それだけを取り出せばもちろん部分的な真理を持っている──この世界に理性のひとかけらも持たないものがあろうか。彼らの理性を扱う際の反歴史的、時代錯誤的な手法によってそうなのである。大衆化した人間の誰もがそうであるように、凡庸で、間の悪い、昔のことを忘れた、「歴史意識」を持たぬ者たちに率いられた大衆特有の行動は、まるで初めから過ぎ去ったもののように、いまこの時に起こっていながら過去の領域に属しているかのように振る舞うのである。


このような「大衆」によるヨーロッパ文化圏への反逆に対して、オルテガは「優れた少数者」による国家統治を提唱します。自らを律し、自らを省み、自身に国家を前進させる困難や義務を受け止め、真っ当に政治を進めることができる、いわば「エリート」を国家支配者に据える必要があるというものです。ここにオルテガが「選民主義者」と非難された原因がありますが、どちらかと言えば、彼は「失望した理想主義者」であったと言えます。

 

思想は、真理への王手である。誰であれ思想を持とうと願う人は、真理を欲する姿勢、思想が課す競技の規則を受け入れることがまず必要である。思想や意見を調整する審判、すなわち議論を律する一連の基準が認められないような思想や意見は論外なのだ。これらの基準は文化の原理である。それが何かは重要でない。私が言いたいのは、私たちの隣人が拠るべき市民法の原理がないところに文化は存在しないということだ。討論の際に言及されるような、いくつか究極的な知的立場に対する尊敬の念がないところには文化もない。いざというときに拠りどころとなる商取引が経済関係を統括していないところにも文化はない。美学論争において芸術作品を正当化する必要性を認めないところに、文化はないのだ。以上のことすべてが欠けているところに、文化は存在しない。そこにあるのは、言葉の最も厳密な意味における野蛮(barbarie)である。


多くの面で世界を牽引したヨーロッパ文化圏は、今や「大衆」によってその特性は失われ、新たな進歩を滞らせる危機的状況にあることを、オルテガは危惧しています。真の意味での「貴族意識」、つまり人類という種を牽引しなければならないという義務と自負を自らに課すような「少数者」を生み出す社会を再構築しなければ、愚かな支配者に国を衰退させられ、ヨーロッパ文化圏そのものが崩壊してしまうという恐れを提唱しました。階級社会に対する平等主義は、他者との差異を指摘し合う誤った風潮へと社会を導きました。人間としての意識や能力に差異は必要であり、少数者の持つ突出した能力は、社会や国家を良い進歩へと発展させる原動力となります。この、少数者を平等の権利によって排斥しようとする現象を、オルテガは「モラルの喪失」と表現しています。過去のヨーロッパ文化圏において、高貴な精神を保ち、自らに課題を与えながら乗り越えてきた少数者たちは、見返りなど無くとも義務感(人間はそうあるべきだという思想)で進歩を手助けしてきました。それが現代では、あらゆる階層の人間にモラルが欠如して、野蛮なまでの自己肯定と承認欲求により、文化以上に自分だけを守ろうとしています。この状況を変化させるために、オルテガは「選民主義」のような教育の見直しを提唱しました。平等主義が失わせた文化を、少数者(エリート)たちが再び守り、国民がその利益と保護に感謝を見せ、そのような少数者たちが真っ当に活躍できるような社会を構築することが、何より国家の重要な義務であると訴えました。そして、このような考えを「選民主義」だと反発する精神こそ、当人が「大衆」であるという証明だと言えます。


我々の住む現在の社会でも、モラルの欠如が度々説かれています。しかし反面、必要以上に「平等」を押し付け、高貴な精神や意思を否定する風潮も存在しています。さらに輪をかけるように、資本主義によって強い発言権を持った「大衆」が、野蛮な自己肯定と自己主張を延々と繰り返し、芸術や文化を恐ろしい勢いで衰退させています。まさに「大衆娯楽」に溢れた世界となり、審美眼を持った少数者を排斥しようと躍起になっているようにすら感じます。現在の世界で、芸術や文化をどのようにして守っていくかを、オルテガによる本書によって見直す必要があるのかもしれません。『大衆の反逆』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『白鳥の首のエディス』「ルパンの告白」モーリス・ルブラン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

怪盗が名探偵に変身。太陽光線を利用した暗号の謎を解く「太陽の戯れ」、宝石細工師に化けたルパンが、かつての恋人の危機を救う「結婚指輪」、セーヌ河で発見されたショールから、異常な事件をかぎつけたルパンが殺人事件に巻きこまれる「赤い絹のショール」など7編を収録。痛快アクションの魅力と謎解きの面白さを満喫させる冒険ミステリー。


モーリス・ルブラン(1864-1941)は海運通商で成功を収めた父親と、染色業で成功した家庭の娘である母親とのあいだに生まれました。幼いころより非常に裕福な生活にあり、不自由なく学業を進めて成長していきます。彼が生まれる分娩に立ち会ったのがルブラン家のかかりつけ医であるアシール・フローベールで、あの写実主義作家ギュスターヴ・フローベールの兄でした。また、彼には姉と妹がいましたが、妹はオペラ歌手のジョルジェット・ルブランで、スターソプラノとして活躍し、詩人モーリス・メーテルリンクと長い愛人関係にありました。ブルジョワとしての生活環境にあったルブランは、優秀な成績を学業で収めながら、フローベールはもちろんのこと、ギ・ド・モーパッサンオノレ・ド・バルザックなどの文芸作品に傾倒していきます。

学業を収めたのち、彼は兵役につきますが、ブルジョワ特権の条件付きで配属され、本来五年のところを実質一年で解放されます。しかしこの僅かな期間が、ブルジョワとしての緩い生活と持ち前の神経質な性格が影響して、彼にとっては非常な苦しみの期間となり、帰郷後には鬱憤を爆発させるように放蕩な生活を繰り広げます。まさに「酒と女」に溺れる生活でしたが、彼は当時では大変高価であった自転車と出会い、只管に乗り回してフランスの全土を踏破するなど、実に活発に、自由気ままな生活を送っていました。しかし、愛する母親の死によって、遺産相続のため(親権を解除して自立する必要があるため)に、職に就く必要が出てきました。父親の伝手で工場勤務を始めましたが、気持ちの乗らない仕事はただ苦痛であり、そこから逃避する手段を考えて、ルブランは作家の道を歩んでいきます。


ジャーナリストを経て職業作家となったルブランは、戯曲なども手掛けて精力的に活動しますが、すぐには日目を見ることはなく、悶々とした気持ちを抱えながら執筆を続ける日々が続きます。文芸に魅せられた彼は、自分もその文壇に立ち、その世界の一人として認められたいという気持ちだけが原動力となって、熱心に執筆を続けます。しかしながら、ルブランは経済的な面で背に腹はかえられないという状況に陥り、自身が拘り続けた「文芸作品」から娯楽を目的とした「大衆小説」へと足を踏み入れ、作品を生み出すことになりました。彼の持ち前の洞察力と観察力によって描かれた心理小説は、忽ち世の読者に認められてその地位を確立します。そして「冒険短篇小説」(のちに長篇も書きます)の依頼が続くなか、生まれた絶対的な主人公が「アルセーヌ・ルパン」です。


神出鬼没にして比類なき名変装、女性や子供には優しさを振り撒き、どのような場面でも毅然とした紳士の態度を見せる、完全無欠で快刀乱麻、鮮やかな推理と奇術のような退場、誰もが憧れる怪盗紳士の要素を詰め込んだ人物こそ「アルセーヌ・ルパン」です。実に五十六もの作品に登場し、その活躍を存分に見せつけて、現代でも根強い人気を誇る、誰もが惚れ惚れする天下無双の義賊として知られています。

と、このように紹介しましたが、本書に収められた「ルパンの告白」では、その印象が少し揺らぎます。見誤り、阻まれ、窮地に陥り、なんとか九死に一生を得るといったエピソードを、ルパン自身が饒舌に語るという手法で、本書は進められていきます。どの作品でも、あの完全無欠で快刀乱麻なルパン像とは異なり、実に人間味のある「真の姿」を告白してくれます。そこには、ルパンが愛される根本的な魅力が潜んでいると言えます。


また、本書では鮮やかに推理を見せる「探偵的」な表情が色濃く描かれています。素晴らしい洞察力と「直観」が、事件を暴き、窮地を救い、獲物を懐へと導き、ルパン独自の爽やかな読後感を齎してくれます。「直観」は本来、事件を捜査する警察や依頼を受けた探偵は「重視しない」要素です。地道な検証や物証などを熱心に探すといったことは置き去りに、自らの推測と直観を重視して、実際に鮮やかに問題を解決してみせる手腕は、怪盗という「悪の立場」であるからこそ許容されるのであるとともに、反対の立場にある警察や探偵を否定的に見せるという効果も担っています。事実、ルパンの人気が隆盛していた当時、探偵シャーロック・ホームズなどが人気を博していたことから、それらへの対抗意識が見えていたということも認められます。作中でルパンを追い詰めるガニマール警部を含む警察たちを、いとも鮮やかに煙に巻いてしまうところも、こういった意識の表れであるとも考えられます。


本作『白鳥の首のエディス』は、ルパンの長年の宿敵として、その姿と関係性に大きな人気を得ていたガニマール警部との戦いが描かれた最後の作品です。

1066年、ノルマンディー公ウィリアムがイングランド王国へと上陸し、サセックス州のヘイスティングズイングランド王を自称していたハロルド王を打ち破り、全土を征服しました。それまで治めていたエドワード王が後継者を示さずに死去したために起こった混乱に、ウィリアムが乗じて征服を成功させた戦いです。この「ヘイスティングズの戦い」は、1851年にドイツ詩人ハインリヒ・ハイネによって詩性をもって描かれ(「Schlachtfeld bei Hastings」)、現代にまで語り継がれています。「白鳥の首のエディス」(Édith au Col de cygne)は、ハロルド王の抱えた長年の愛人で、その美しさを形容するようにこのような名で呼ばれています。

彼女の首は、とても滑らかな真珠のようだった
白鳥のように弓なりであった
そしてハロルド王は、その美しい娘を愛した。

ハインリヒ・ハイネヘイスティングズの戦場』

また、ウィリアム王の異父弟であったバイユー司教のオドンが、「ヘイスティングズの戦い」を讃えるように、絵巻物としてタペストリーを描かせて大聖堂に飾らせました。このバイユー=タペストリーは五十八の場面で構成され、現代では当時の服装や文化を伝える貴重な品となっています。


本作では、十六世紀にアラスの織師ジュアン=ゴッセという人物が、バイユー=タペストリーを模して生み出した十二枚のタペストリーに大きな価値が与えられており、それを手に入れたブラジルの富豪スパルミエントのもとへ、ルパンが怪盗として参上するという物語です。スパルミエントが待ち構える屋敷では、十二枚のタペストリーを厳重に保管し、多くの警官や警備員を動員して配備していました。多くの客人も細かな検査を受けて屋敷に入り、そこで盛大な宴を催します。誰もが見守り、盗難など不可能と思われていたなか、ルパンは姿も見せずに瞬間的な混乱を起こし、全てのタペストリーを持ち帰ってしまいました。スパルミエントは激しい怒りと衝撃のあまり、自殺をしてしまいます。「白鳥の首のエディス」と呼ばれる妻は落胆の淵に立たされ、一層に青ざめた表情となって打ちひしがれます。結果的に生命を奪うという卑劣な行動に、義賊として認めていた一部の大衆も怒りを覚え、世間ではルパンを強く非難するようになりました。そこへ、インドへ出掛けていたガニマールが帰国して捜査に加わると、ルパンの流儀を信じる彼は、見事な捜査と推理によって真相へと辿り着きます。


毎度のように揶揄われ、辛酸を舐め続けていたガニマールは、実は非常に優秀な人間であるというルパンの語りからも窺えるように、ガニマールとルパンには宿敵であるからこその「信用」があります。生命を奪う筈がない、女性を悲しませる筈がない、それらの不幸な結果を予測できない筈がないという信用から、ガニマールは不可能と思われる犯罪を紐解いていきます。否定されない可能性を削ぎ残すように捜査を続け、驚くべき事実に辿り着きます。遂にルパンを追い詰めると、ルパンが獲物を諦める筈がないという信用を一部裏切るかたちで、ルパンは一味とともに一足先に退散します。しかし、残された手紙にはガニマールへの大きな賛辞が添えられていました。

 

おおいに感嘆もしているさ。警視庁の諸君の特質である不屈の勇気に加えて、ガニマールはきわめて重要な資質をそなえている。すなわち、決断力、洞察力、判断力を。ぼくは彼の仕事ぶりを見たことがある。ひとかどの人物だよ、彼は。

どんなにチャンスに恵まれようと、この世のなにに代えても、たとえ何百万、何千万の大金のためであろうと、決してルパンは殺しはやらないし、死の原因となることすら望みません。


宿敵同士の二人が、熟知し合い、信用を互いに得ているという構図は、読む者を実に爽やかに感じさせ、読後を清々しいものへと導いてくれます。ガニマールが掲げる徹底的な正義に対して、ルパンは悪の矜持をもって対抗します。「怪盗紳士」という言葉は、ルブランがルパンを連作化させると決めた時に、すぐに頭に浮かんだようです。これほどアルセーヌ・ルパンを表現する言葉は無いように思われます。世界で探偵ものが受け入れられていたなか、ルブランはルパンのように、チクリと皮肉を効かすように「怪盗紳士」の活躍を明快に描きました。現代でも変わらずに愛され続ける魅力が、アルセーヌ・ルパンから溢れているように感じられました。

本書収録の他の作品も傑作揃いですので、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

「春と修羅」宮沢賢治 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

「無声慟哭」を中心として、死と愛を主題とする抒情詩を詠いあげ、詩人として開花した著者の「春と修羅」第1集。貧しい東北農村へ献身した時期「稲作挿話」「和風は河谷いっぱいに吹く」の秀作を収めた第3集。彼の描いた東北農村への理想像がくずれ失望と挫折感におそわれた時期の作第4集等、賢治の巨跡をあます所なく収載。


明治から昭和にかけて、伝統的な「定型詩」では表現できない個人の感情を自由に表現するため、日常的に用いられる言葉を使用した「自由詩」が生み出され、世に多く広まりました。島崎藤村北原白秋石川啄木高村光太郎など、多くの詩人が活躍し、現代でもその作品群は愛されています。『注文の多い料理店』、『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』などの作品を中心に童話作家として広く知られている宮沢賢治(1896-1933)も、この近代詩人と呼ばれる作家のひとりです。誰もが知る作品とその名前ですが、彼が生前に刊行した著作は『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』(第一集)のみで、世間からはほとんど無名に近い状態で、病により短い生涯を終えました。


本作は詩集ではなく「心象スケツチ」と冠されており、そこに賢治の持つ詩に対する姿勢が見られます。彼は、自らの世界の外側の変化を観察し、その観察によって生まれる自己に内在する印象を心に留め、与えられる印象変化を詩性をもって描き出すという手法を用いました。外側の事象によって与えられた印象変化は、あくまで事象として認めるにとどまり、観察者である立場を変えることはありませんでした。このような姿勢でありながら、「春と修羅」が起伏に満ち、心情変化に激しさを持っているのは、外側の変化が彼の自己に強く影響していたからに他なりません。父親との宗教的対立と負い目、良き理解者の妹とし子の死、法華経の自律と社会正義、これらの外界刺激が彼の自己内面を揺るがして、作品には大きな印象変化を表現させています。


春と修羅』第一集を刊行したあと、賢治は第二集以降の構想を進めていました。生み出された作品は数多く、現代では便宜上、第二集から第四集まで編纂されています。この区分は賢治の置かれた大きな外界変化に合わせた形でまとめられており、各集に彼の内面が反映されています。まさに人生の印象変化を書き留め続けたような作品群となっており、読者は彼の人生を辿るように読み進めることができます。彼の心に特に大きな悲哀を与えた妹とし子の死は、衰弱していく彼女の生命を救いたいという願い、そして救うことができなかったという喪失感を、彼女の死という事象だけではなく、彼自身の自己印象をも悲しみとともに描き出し、彼の詩性そのものをより精神的な内面を映し出す鏡へと変化させました。この事象により、彼の自己内面の表現は「悲哀」を帯びたものが多くなっていき、晩年に迫る彼の「闘病」が「死」というものと向き合わせていきます。

 

わたくしのかなしそうな眼をしているのは
わたくしのふたつのこころをみつめているためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない

宮沢賢治『無声慟哭』


賢治の人生に影を落とし続けた存在が「父親」でした。幼い頃からの闘病で助けてくれた「負い目」と、賢治と父親との宗教的対立が原因となっています。浄土真宗の信徒であった父親に対して、賢治が共鳴し門を潜ったのは国柱会でした。日蓮の宗派であったことから賢治と父親は教えの相違から口論が止まず、互いに分かりあうことができませんでした。浄土真宗は、民に寄り添い、慈悲と共感をもって理解をし、苦難の徒には手を差し伸べるといった教えを持つのに対し、日蓮宗は、法華経をもとに厳しい自己研鑽と精神の鍛錬を求め、公平と正義の社会を自らで作り上げようとする強い意志と行動力を求められます。この「社会正義」への貢献という点が賢治には顕著で、彼の作品にも多く描かれている主題となっています。


春と修羅』第一集を手掛けていたころ、賢治は花巻農学校の教職を退職し、彼はひとりで「羅須地人協会」という施設を設立しました。研究知識などを与えられない貧農たちに向けて、科学進歩による肥料の提供や田畑の耕作指導などを行う、利益を度外視した施設でした。このような形での社会正義と自己犠牲は『グスコーブドリの伝記』などの作品でも描かれ、彼の抱いたユートピアの夢を強い熱量を持って提示しています。賢治の抱いたユートピアは「イーハトーヴォ」と名付けられ、故郷の岩手と社会正義が合わさったもので形成されており、彼の幾つもの作品で度々登場します。第二集、第三集と詩を生みながら童話を執筆していた賢治は、貧農たちと直に触れて彼らを理解し、法華経の精神でより自己犠牲を強めていくなか、過労と持病によって病に倒れてしまいます。そして強く正義に溢れていた彼の作品には、より求道的で達観的な眼差しが加えられていきます。そして闘病のさなかに手帖に書き記された『雨ニモマケズ』が残されました。


雨ニモマケズ』は後年、挫折の極みのように説かれ、ヒューマニズムの極地とも言われ、彼の創作の成熟の詩とも呼ばれてきました。しかしながら、彼の人生と詩性、そして生み出された作品群を辿るならば、この詩は賢治のなかで一貫されてきた主義の表現であり、特別な変化や試みが見られるものではありません。このような達観に至った経緯を、彼の詩群はすでに見せてきたのであり、賢治が自己内面を顧みたに過ぎないと言えます。また、彼の詩性が見せる「悲哀」を、生々しいリアリズムをもって描き出した傑作があります。死の際に、闘病の苦しみのなか、達観の清々しさまでも込めた作品が『眼にて云う』です。「死」という無の存在へと向かう精神が、身体的苦痛を外界として捉え、その澄み切った自己内面を詩性で描き出した作品には、人間の美しさとともに「聖的救済」を訴える強い説得力を持っています。ここにこそ、宮沢賢治の詩性が極地として花開いていると言えます。

 

血がでているにかかわらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
ただどうも血のために
それを云えないがひどいです
あなたの方から見たら
ずいぶんさんたんたるけしきでしょうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとおった風ばかりです

宮沢賢治『眼にて云う』


彼が遺した童話や短篇には、このような「聖的救済」が早くから現れていました。それは童話にこそ「自由な幻想の世界」を存分に描くことができたためであり、言い換えるならば、彼の「純度の高い詩性」によって構築された世界を描いたからだと考えられます。童話でありながら、教示的に諭すこともなく、哲学を伝えることもない、この世界はこうであると「精神を見せる」ように描かれている点が、彼の童話の持つ魅力であると感じます。

 

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。

宮沢賢治銀河鉄道の夜

 

(これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色なのだよ。)

誰かが、或いは諒安自身が、耳の近くで何べんも斯う叫んでいました。

(そうです。そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから仕方がないのです。)諒安はうとうと斯う返事しました。

宮沢賢治マグノリアの木』


賢治の死の間際に父親が「何か言っておくことはないか」と聞くと、「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と伝えました。父親が「おまえもなかなかえらい」と答えて部屋を出ると、賢治は「おれもとうとうおとうさんにほめられたものな」と言いました。そして翌日、苦しみが消えていくように息を引き取りました。賢治の死後、宮澤家は日蓮宗へと改宗し、賢治が父親へ求め続けた教えの変化が遂に成りました。


「修羅」という言葉は、梵語アスラの漢字表記「阿修羅」の略語です。阿修羅はインドの神話で帝釈天インドラへ激しく闘争を投げ掛けた悪神とされています。この阿修羅を冠した六道のひとつの世界「阿修羅道」は、「瞋(いかり)」「慢(おごり)」「痴(おろかさ)」という三つの心を表しています。賢治が歩いた「修羅」としての道は、何に対してのものだったのか、そして自身の内面を「修羅」と見た人生はどれほど重かったのかなどと考えると、父親への闘争、病への闘争、死に対する闘争、社会正義を求めた闘争といったものから、賢治は死の直前に様々な「修羅」からの解放が見られるような気がします。凝縮された詩性に溢れた宮沢賢治の詩集「春と修羅」、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

『永遠平和のために』イマヌエル・カント 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

十八世紀の啓蒙時代を代表する哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)はプロイセン王国ケーニヒスベルクで生まれ、生涯のほとんどをその地で過ごしました。ルター派の敬虔主義的な家庭で育ち、その教えを基盤とした寄宿学校へと通います。ラテン語、宗教学、哲学などが基本の授業に組み込まれ、人生の早い段階で思想というものに触れることになりました。当時の西洋では「哲学」に関して現代ほどの理解が及んでおらず、政治や軍略を重視する国の姿勢が反映され、立場もさほど重要視されていませんでした。しかし、ヨハネス・ケプラーガリレオ・ガリレイによる研究、ルネ・デカルトやトマス・ホッブズジョン・ロックなどの理論から、西洋における啓蒙時代が隆盛していきます。絶対君主制と宗教的権威の狭間で、人間は何を成し、何を思うべきかといった思考から、人間個人の自由の理解を促す時代が到来します。これは、本書に収められているカントの『啓蒙とはなにか』という作品に、詳細に述べられています。


カントは『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』という「三批判書」を著しました。この「批判」とは「徹底的に追究する」という意味合いを持っているもので、彼の道徳観をもとに、人間は「何を知り」、「何をすべきか」、「何を望むか」をそれぞれ考究しています。この「三批判書」に通底する重要な考え方として「二律背反(アンチノミー)」が挙げられます。これは「同一の事柄について二つの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態」のことを言い、あり得ないという事実を提示しています。しかし、人間の生む理論にはこのような事態が生じるため、「それは何故か」を、カントは四組の二律背反事例をもとに二律背反論として考えを述べています。

例えば第一の二律背反を見てみます。

世界は時間的に端緒を持ち、空間的に限界を持つ、即ち有限である(定立命題)

世界は時間的に端緒を持たず、空間的に限界を持たない、すなわち無限である(反定立命題)

これまでの論理学において、互いに矛盾する命題が同時に真であることはなく、いずれかが偽でなければなりません。しかし、双方を論理的に否定と証明を繰り返しても、命題が崩れません。矛盾に対当するこの事態を、カントは「誤謬」に起因すると見出します。互いに真であることは不可能であるため、「双方を偽」とする「反対対当」という形で問題を解消します。そして、この「誤謬」を生むものは「理性」であると定義し、双方の命題が「成り得る」と経験や理念から「推測」してしまうことに原因があると考えます。


カントはこの「三批判書」を発表し、多くの論争に巻き込まれながらもそれに対抗して、やがて宗教論や汎神論などへと派生して道徳をもとにした啓蒙思想へと力を注ぎます。この熱量を後押ししたのがジャン=ジャック・ルソーの哲学でした。カントは奴隷制を否定していましたが、人種としての優劣は肌の色で明確に判断し、白人を絶対的な優等人種と認識していました。また、下層階級の人々に対しては無知による劣等性を携えていると考え、その存在を思想の外へと追いやっていました。そのような彼の思考に強烈な一撃を加えた著作がルソーの『エミール』でした。カントの無知な下層階級の人々に対しての認識が大きく是正され、各個人の「人間性を敬う」という道徳の根源的な認識を改めて与えられます。身の回りにある階級、財産、名声などに眩まされた「人間としての本質」を、彼はようやく取り戻します。


カントにこのような思考と認識の変化が行われたころ、フランス革命による周辺諸国への戦争が激しくなっていきます。(これはフランス革命初期の戦争で、1799年のナポレオン・ボナパルト第一統領就任後は一般に「ナポレオン戦争」と呼ばれます。)彼の住むプロイセンオーストリアが革命中のフランスへ干渉するため、宣戦布告を出して突進していきました。フランスは国内で革命に対する反乱も起こっており、戦力としても危機的な状況にありましたが、革命という熱量の爆発によって強制的な国家総動員を行い、結果的に侵攻国を押し返し、反対に相手国への侵略を進めるまでに至りました。これにより、プロイセンオーストリアはそれぞれ領土を犠牲にしてフランスと和平を図ります。この1795年に結ばれた講和が「バーゼルの和約」です。しかしこれは、領土を犠牲にして侵略を食い止めるという「戦を止める」ための和約に過ぎず、「決してこれは平和条約ではない」とカントは考えました。そして、本来持ち得た三批判書に見られる「追究された道徳観」と、ルソーの著作により発露された「人間を尊重する道徳観」をもとに、「永遠の平和を確立することは可能か」という問いに向き合いました。そして書き上げた作品が、本作『永遠平和のために』です。


本書の構成から鑑みると、バーゼルの和約を批判的に捉えていることは明らかです。予備条項、確定条項から成るこの内容は、一見すると「理想的な机上の空論」と読むこともでき、実際に発表当時には夥しい批判が投げ掛けられました。しかしながら、激動の戦争に塗れた二十世紀のなかで二つの大戦争を経て、国際連盟から国際連合、そして欧州連合(EU)が構築されたいま、ようやく本書は注目を浴び、カントの世界に対する先見の明を評価されるようになりました。その思想を本書に則って要所を控えていきます。


永遠平和を目指すためにはまず、「戦争原因の廃止」を成すことが必要です。平和条約とは「交戦の種を孕んだもの」であるため、他国侵略や領土拡大といった君主の思考そのものを放棄させる必要があり、それには平和条約に述べる必要など当然無く、むしろ平和条約そのものの存在など意味がないという考えです。他国を訪問することは両国の文化文明の繁栄に必要な刺激であり、人間としての発展が望まれますが、他国を侵害して自国を潤わせるという思考は無意味な争いしか生みません。

そしてカントは各国の「常備軍の廃止」を提唱します。自警の意味合いから軍隊を据えたいと君主は考えますが、隣接する国にとってはその常備軍は軍事的脅威でしかなく、その不安を払拭するために自国でも常備軍を固め、隣国よりもより強大なものを目指します。そして君主は自国の方が強大であると認識した場合、「勝つことができる戦」を仕掛けたくなる欲求を持ちます。このことにより、「本来勃発する必要の無かった戦争」が起こってしまうため、常備軍そのものを廃止することをカントは訴えています。

国家の体制としては、前述のことを含めて君主制政治は選択できません。貴族制政治は自らが戦地に向かうこともなく、優雅な暮らしを維持したまま下層民へ危険を押し付ける形で「自身が傷付くことなく戦争を起こすことができる」ため、これも選択できません。よって、国家としては共和政国家を目指す必要があります。国民が主権者となることによって、自らを危険に晒さなければならない不要な戦争を望むことは無くなり、平和を乱す行為そのものを避けることができるという考えです。そしてこのような共和政国家が増加して自由な諸国による連合を構築し、互いに尊重し合いながら友好的に関わり合うことこそが「平和的な環境」であり、その維持に尽力できると明示しています。この状況は「自然」による人間の在るべき姿への誘導であり、言語や宗教の相違を越えて、争いではなく和平による人間の繋がりが、自然と同様に人間そのものも永遠の平和を望むようになると著しています。


カントが辿り着いた二律背反に至る思考は理性の限界点とも言え、そこで巡らせる思考は人間の理性の頂点であると説かれています。「誤謬」と「推測」を取り除き、双方を偽と捉える反対対当を、結果の憶測に捉われず「いま・ここ」で考えうる最善を模索することが理性の最良手段です。道義的に言い換えるならば、目に見える結果のために手段を講じるのではなく、目指すべき目標に対して全力をもって実行する必要があります。つまり、このカントの唱える「永遠平和」とは、一見した理想論ではなく、「実行する必要のある理性的な行為」であり、努力して必ず叶えるという性質のものではなく、「人間が目指すべき絶対的な目標」であると、強い意志を持って提示されています。そして、「永遠」とは「いま・ここ」での努力を指すのであり、いわば「現在」であると読み替えることができます。

 

オランダのある宿屋には、墓地を描いた看板の上に、「永遠の平和のために」という皮肉な銘が書かれていたという。さてこの言葉は、すべての人間にあてはまるものなのか、それとも戦争に飽きることがない国の政治家たちにとくにあてはまるのか、あるいは死という甘い夢をみる哲学者だけにあてはまるのか


現代でも繰り広げられる戦争は、誰が起こしているのか、なぜ起こしているのか、どのように起こしているのかと問うていくと、世界が「永遠平和」と如何に乖離した状態にあるかを痛感させられます。それぞれの人間が真摯に「永遠平和」を問題として受け止め、「目指すべき絶対的な目標」に向かって努力をすることがどれほど必要か、そしてカントが著してどれほどの月日が流れてしまっているのか、といったことを改めて考え直す必要があるのだと実感します。イマヌエル・カント『永遠平和のために』、未読の方はぜひ読んで、何かを感じ取ってください。

では。

 

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