こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

第一次世界大戦争が引き起こそうとする平和の乱れや崩壊に対して、交戦を推し進めようとする世界や社会への抵抗を、芸術家たちは作品を通して世に提示しようとする運動が勃こりました。戦争を肯定しようとする秩序や概念などの否定を目的とした芸術運動はダダイズムと呼ばれ、既存の芸術を打ち破るものであり、フランスの詩人トリスタン・ツァラが牽引しました。これに同調したフランスの作家アンドレ・ブルトンが、1924年にツァラと方向性を違えたことで新たな芸術運動シュルレアリスムが持ち上がります。「内面の自己」を追究しようとするこの試みは、ジークムント・フロイトの精神分析による無意識研究や、革命家カール・マルクスの思想を基盤として行われ、「どのように無意識下の意思を引き出すか」という取り組みのもと、芸術活動が行われました。
シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。
アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』
百科事典。(哲)。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の主要な諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。
理性や思考が「無意識下の意思」の妨げとなるため、自分の内面を如何にして芸術作品に表現できるか、という主題をそれぞれに抱えて、シュルレアリスム運動に参加した芸術家たちは各々の手段で活動します。ダダイズムの頃よりブルトンが取り組んでいた「自動記述」(オートマティスム)と呼ばれる手法もその一つで、何かを書こうとする意思を抑制して自然と内から浮かび上がるものを描くという困難な作業です。ミヒャエル・エンデの父親エドガーもシュルレアリスムの画家でしたが、彼は暗闇の部屋のなかに画布を前にして座り、思念が浮かび上がることを待って描いていました。詩だけでなく絵画でもオートマティスムは用いられ、浮かび上がる環境を各芸術家は熱心に模索しました。写真家マン・レイや画家サルバドール・ダリなどもこの運動によって大きく名を知られるようになりました。そして今作を描いたマックス・エルンスト(1891-1976)はブルトンと非常に近しい距離で活動を続けた一人です。
エルンストは「詩的霊感」という表現を用いて、自らの創作活動を打ち明けています。彼が編み出したフロッタージュ(凹凸のあるものの上で描き、自然に不規則な図柄が浮かび上がる手法)や、コラージュ(既成作品を明確な意図を持たずに詩的霊感によって組み合わせた貼り合わせの手法)の作品は、彼の代名詞とも言えるほどに認知されて今日でも影響を与え続けています。そしてコラージュ絵と文章を共生させた新たな芸術は「ロマン・コラージュ」と呼ばれています。そして『百頭女』、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』と本作『慈善週間または七大元素』を合わせてエルンストの「ロマン・コラージュ三部作」としています。無意識下の意思を浮かぶままに紡いでいく作品は、長篇小説として形成され、読む者の無意識へと呼び掛けていきます。
たえず変化する夢幻的現実を描く画家たちこそがシュルレアリストだというとき、それは彼らが画布の上に自分の夢をコピーしているのだとか(とすれば素朴で描写的な自然主義に等しくなってしまう)、あるいはまた、ひとりひとりがくつろごうとするにしろ悪意を示そうとするにしろ、自分の夢の要素を組みたてて自分用の小世界をつくっているのだとか(『時代からの逃走』などはそうだろう)いう意味にとってはならない。それは反対に、彼らが内的世界と外的世界との境界領域──いまも不明瞭ではあるにせよ、物質的にも精神的にも完全な現実性(「超現実性」)を有する領域──のなかを、自由に、大胆に、しかもごく自然に動きまわっているという意味であり、また、彼らはそこに見えるものを記録し、革命的本能にかられて出動すべきところへ出動している、という意味である。瞑想と行動との根本的な対立(古典的-哲学的概念による)は、外的世界と内的世界との区別もろともに崩れさる。そこにこそ、シュルレアリスムの普遍的な意味は存するのだ。
マックス・エルンスト『シュルレアリスムとは何か?』
本作『慈善週間または七大元素』では、古代人が定めた自然界を構成する基本要素である「四大」(地、水、火、風)の考えを根本にして、エルンストは「七大」(泥、水、火、血、暗黒、視覚、未知)へと変化させて構成しています。そして神による天地創造を想起させる「一週間」と重ね合わせて、本作をより一貫性のあるものへと作り上げています。
第一のノートは日曜日から始まります。元素は泥、例は「ベルフォールの獅子」といったように、すべての曜日に要素と例があてられて進みます。本作は創世記に反抗するように、創造ではなく暴力と死が溢れて始まります。神が土の塵で人間をつくり生命を吹き込んだという「原始の泥」と性質を反対にするものが初めに据えられます。主に男女で描かれるなかに、迫害、誘惑、拷問、処刑などがあり、死が空間を支配しています。また、中心的な人物である獅子には権力的な装飾が多く散りばめられ、社会的または宗教的な権力者であることを表現しています。
第二のノートは月曜日で、元素は水、例も「水」です。獅子によって与えられていた暴力と死は、水という強大な自然の力によって流され、パリの街を水没させてしまいます。多くの人間も流されて、女王然とした女性が支配した世界に辿り着きます。
第三のノートは火曜日、元素は火で、例は「龍の宮廷」です。水という自然の脅威的な力から逃れる上流階級は、龍や蛇と一体となり自らに翼を備えます。しかし、一見、出会いを喜ぶような描写のなかには鏡や絵画が描かれており、そのなかには陰惨な恐怖や潜んだ欲望が映し出され、上流階級の持つ悪魔的な要素が浮かび上がっています。
第四のノートは水曜日、元素は血、例は「オイディプース」。父親の暗殺やスフィンクスの謎など、オイディプスの神話をなぞる様に物語は進みますが、主要な登場人物はすべて鳥の顔になっています。彼が負った足の怪我から連想して、鳥頭の人間が裸の女性の足を短剣で突き刺しています。
最後のノートには木曜日、金曜日、土曜日がまとめられています。木曜日は、元素が暗黒で、第一例が「鶏の笑い」です。ここから鳥頭の人間が行う暴虐と殺戮が展開されます。もう一例として「イースター島」が挙げられています。鳥頭の人間はモアイ像に変えられ、快楽は性的なものへと移り変わっていきます。
金曜日は元素が視覚、例は「視覚の内部」として三つの見える詩を描きます。これまで激しい描写が続いていましたが、一転して抽象的な画が並べられます。人間の身体をオブジェのように並べたものが多く、不可解さを増しています。
そして土曜日、元素は未知、例は「歌の鍵」となっており、半裸の女性が霊的な力を与えられ、重力を無視して空へと跳ね上がります。与えられ続けた圧迫から解放されるように、無重力を漂います。

獅子男や鳥頭の人間など、それぞれの曜日に繰り返し登場することで物語としての一貫性が窺えますが、場所や相手人物などは突然に挿げ替えられ、統一した状況や設定は理解しにくいものとなっています。また、前述したように鏡や絵画に映し出される予言的な近未来が差し込まれていることによって、さらに時間の概念が加わり、物語の状況を読み解くことを困難にさせています。しかし、本作を通して読むことで「連なった物語的印象」が記憶に留められ、日曜日の猟奇的な圧迫から土曜日の霊的な解放に至るまでの「物語的読後感」は小説同様に感じることができます。作品全体を通して、エルンストはコラージュ絵と文章の共生を成し得たのだと言えます。
本作全体を通して、権力、暴虐、処刑、災害などに重きを置かれ、非常に重苦しい印象を与えています。これは1934年当時、いわゆる戦間期に漂う不安定な政治情勢と拡がる戦禍に対する不安で包まれていた世界の空気が滲み出ています。そして、権力者の思想や独裁政権の危険性に警鐘を鳴らし、世界的危機という意味での第二次世界大戦争の恐怖と戦禍を予感していたとも受け取ることができます。そこでエルンストは、創世記、神話などを思い返し、人間が無意識下で本質的に望む「圧迫からの解放」を、詩的霊感を通して導き出したのだと考えられます。
第一次世界大戦争において、エルンストはドイツ軍の砲兵として従軍しました。身体以上に心に傷を負い、帰国後も精神的な恐怖に苛まれました。あの戦地の恐怖がまた訪れるのではないかという不安が深層意識まで達し、恐怖観念が心の圧迫となっていたことで、彼は真に詩的世界への解放を望んでいたのだと言えます。
「ロマン・コラージュ」という奇書にも数えられる本作を含む三作は、現代においてシュルレアリスムの本質を体感できる貴重な作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。