RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『モンパルナスとルヴァロワ』ジャン=リュック・ゴダール 感想

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こんにちは。 RIYOです。
今回は映画作品です。

 

1954年、映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」に掲載された記事が映画界を変革するほどの大きな影響を与えました。それは、のちに自ら映画を監督することになるフランソワ・トリュフォーの文章で、既存の脚本重視の作品は「芸術としての本質」に欠けているという主張でした。「良質の伝統」を守り続けるフランス映画はリアリズムを求めている、しかし決まり文句や使い回された洒落ではリアリズムはより遠のいて行く。こう主張して「真のリアリズム」を映し出そうと模索することが必要であると説きました。脚本を元に監督が脳内でイメージを創り上げるならば、撮影される作品がそれ以上のものと成り得ることはなく、現実を映像に収める芸術性が持つ偶然を含めた「真のリアリズム」とは対極的に掛け離れてしまうという考え方です。この考えに賛同した若手映画監督たちは、挙って多種多様な個性を用いて表現技法を模索しながら多くの作品を生み出していきました。


この頃のアメリカでは第二次世界大戦争を終えて、特需により国民の多くが中流階級の生活を味わう豊かなものでした。好景気に訪れた娯楽を求める波は映画に波及して多くの監督が成功を収めました。主流になっていたミュージカル映画は浮かれた世間を表現したような豪華さや華麗さがあり、数多くの民衆を楽しませました。しかし、バーレスクアミューズメントパークなど、他の娯楽も溢れていたことから流行が過ぎる速度がはやく、徐々に下火になってきました。そこで映画に新たな価値、或いは新たな芸術性を求めようと試みていた監督たちがいました。アルフレッド・ヒッチコックハワード・ホークスなど、新たな映像表現を試みた革命児たちです。当時のアメリカでは斬新さが受け入れられずあまり良い評価を得られていませんでしたが、物語を多角的に映し出す技法に「真のリアリズム」を求めるフランスの映画監督たちは大きく感銘を受けて議論を延々と繰り返しました。


フランス映画史において、これらの若手映画監督たちから生み出された変革運動をヌーヴェルヴァーグ(新しい波)と称します。「真のリアリズム」を多角的に映し出そうとする新たな試みは、フランス映画界を大きく動かしていきます。口火を切ったフランソワ・トリュフォーはもちろん、犯罪映画を中心に退廃主義を描いたクロード・シャブロル、「演技と現実の二層構造」を構築したジャック・リヴェットなどが挙げられ、本作『モンパルナスとルヴァロワ』を手掛けたジャン=リュック・ゴダール(1930-2022)もそのひとりです。彼らは「作家主義」を主張し、それぞれの作家が抱く個性を活かした作品を生み出して、そこに多様な芸術性を込めることに熱心に取り組みました。特に共通している点は、現実世界を巻き込んだロケ撮影、そして資金不足による低予算撮影であることです。また、横のつながりを活かしたオムニバス作品が多く作られていることもひとつの特徴です。「作品など存在しない。存在するのは作家だけだ」というフランソワ・トリュフォーの言葉が全てを物語っています。

また1993年にパリで封切りされたゴダールの作品『ゴダールの決別』に合わせて行われたインタビューで、ゴダールは映画と芸術に関してこのように述べています。

〈芸術〉とは本質的にヨーロッパ的なかなり厳格な概念であり、早くからキリスト教の一部として取り込まれたものだ。〈創作=神による創造〉、〈創作者=造物主〉という概念があるように……。〈文化〉は全く別のものだ。〈文化〉とは非物質的な、あるいは精神的なものと交換可能なものなんだ。すべてが〈文化〉だ……。文化は長い間、商業だった。アメリカ人は最初から〈文化〉が国力を発揮するということをよくわきまえていた。〈芸術〉という概念は、インディペンデントの芸術家を通じてしか表現されない。その大半は呪われている。メルヴィル、ポー、フォークナーといった人々……ベートーヴェン、それが〈芸術〉だ。バスティーユオペラ座(国立第二オペラ座)で演奏される「第五」はコロンビア・レコードを通じて普及する。こうしたある種の〈芸術〉の〈普及〉の形態が〈文化〉なんだ。ヌーヴェルヴァーグとともに、ぼくたちはいつも、「映画も芸術だ」と主張した。「映画監督も芸術家であり、単なる作業員ではない優れた存在だ」とね。ドン・シーゲルシャトーブリアンと同じ集団に属するんだよ。


ゴダールの代表的な撮影手法として、フィルムの途中を意図的にカットして、映画の時間軸を不透明にする「ジャンプ・カット」と呼ばれる表現があります。ほぼ構図が変わらない中での時間のズレは一瞬にして違和感を生み出します。コラージュのように継ぎ接ぎ感を思わせて、現実の切り取りを鑑賞者へ強制的に認識させます。また、登場人物が観客に向かってメタ視点で話し掛ける表現も、ゴダールの大きな特徴といえます。超現実的視点で切り取られた現実世界の描写は「真のリアリズム」を表現していると言えます。

 

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本作『モンパルナスとルヴァロワ』は、オムニバス作品『パリところどころ』に収められている二十分とない短い作品です。1965年に上映されました。ジャン=ジロドゥのコント『勘違い』をモチーフとしており、大筋も似通っています。本作は、女性が恋人と愛人にそれぞれに手紙を送りますが、投函したあとで封筒に入れ間違えたと気付きそれぞれの元へ駆けつけるという物語です。パリ南部のモンパルナス(芸術家)、セーヌ川右岸のルヴァロワ(職人)、それぞれ象徴的な男性の登場人物で、会話や表情や仕草などで特徴が描かれています。また、カメラワークの指示は「ドキュメントのように追ってくれ」という指示のみで撮影されました。

人物たちがクロースアップでとらえられているときでさえも、そのかたわらの人生は存在している。たとえカメラは人物たちに向けられていても、この映画は彼らを中心にしてつくられているわけじゃない。ぼくがつくったのは界隈についての映画、時代についての映画なんだ。そしてその界隈というのはモンパルナスのことだ。この映画はぼくにとっては、モンパルナスについてのある観念、ぼくが絵画と人々についてもっているある観念、つまりヘンリー・ミラーふうのある観念と対応しているわけだ。


本作が発表されたその数年後、フランスでは経済発展至上主義のド=ゴール体制に向けて、若い世代のニューレフト(新左翼)が市民運動を起こします。大戦後のベビーブーム期に生まれたこの世代を受け入れるために儲けられた新たな大学施設は、金銭的な投資を政府が怠り、施設そのものや教員、そして社会的信用性までもが一般大学とは激しく異なり、大きな格差を生み出すことになりました。この抗議の意味で起こされた学生運動の渦は大きくなり続け、労働格差を訴える運動とも融合し、対ド=ゴール政権への反発運動として激化していくことになります。五月危機と言われるこの革命運動に、ヌーヴェルヴァーグも関与していきます。フランス政府が大部分を出資する私立施設シネマテーク・フランセーズというものがあります。ここは、映画作品や資料の保存や配給を目的とした施設で、フランス映画の発展や普及の中心となる存在です。当時の責任者アンリ・ラングロワはヌーヴェルヴァーグの精神的父として、彼らの実践的な新しい表現技法を肯定的に受け止めて成長を促していました。しかし、ド=ゴール政権はフランス映画界を商業的に利得が貧弱な方向へと誘導していると見做して、ラングロワを更迭し、より大きな利潤を得ようと画策しました。これに対してヌーヴェルヴァーグの代表的な監督たち、トリュフォー、シャブロル、ゴダール、リヴェットをはじめとしてシネマテーク擁護委員会を結成します。これに国民的映画監督であるジャン・ルノワールマルセル・カルネたちまでが賛同し、遂にはラングロワ解雇撤回にまで至らせることができました。


ゴダールはこれを機に政治的運動を主目的として活動していきます。カンヌ映画祭権威主義的な旧体制を排除すると、彼は商業映画作品を拒否するようになりました。或る意味で一貫していたその信念は、フランス映画界に大きな変革を与えた衝撃を、映画人の権威として生きながら世に与え続けたように感じられます。

「私が死ぬ時、映画も死ぬ」

1983年ヴェネツィア国際映画祭 インタビュー

彼が亡くなったいま、彼の一貫した信念による衝撃を誰かが引き継ぎ、今後も映画を発展させ続けてくれるものと願っています。


少し手に入りにくい作品ですが、ぜひ観ていただきたい作品です。機会があればぜひ。

では。

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