RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『バッハの生涯と芸術』ヨハン・ニコラウス・フォルケル 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

楽家フォルケルの手に成る本書(1802)は、バッハの生涯を略述した上で、作品、作曲の方法、演奏の仕方、弟子の養成等について語り、ドイツの国民的財産としてのバッハを顕彰した最初の本格的評伝。諸処に挿入された訳注によって、19-20世紀のバッハ研究の変遷を辿ることができ、恰好の入門書ともなっている。


音楽学創始者として名を知られるヨハン・ニコラウス・フォルケル(1749-1818)は、靴屋の息子として生まれました。ドイツのバイエルン州メーダーで過ごした彼は早くから音楽に関心を持ち、また良きオルガニストの元で学びました。彼の才覚はすぐに現れ、十八歳にしてシュヴェリーン大聖堂の聖歌隊の合唱団長となり、そこでオルガン演奏を身に付けました。その後、ゲッティンゲン大学にて音楽史を学び、大学教会のオルガニストとして活躍します。また、在学中から教授と変わらぬ知識と感覚を見せて講義を行うなど、当時の音楽界でも一目を置かれる優秀さを披露していました。1779年に大学の音楽監督になり、コンサートの指揮やオルガンの演奏など、生涯を終えるまでゲッティンゲンで才能を発揮し続けました。


彼が研究を続けていたものは、結果的に未完に終わった『一般音楽史』についてです。フォルケルはヨハン・ゼバスティアン・バッハの熱烈な信奉者でした。音楽史におけるバッハの重要性を世に説くため、熱狂的にバッハを論じ、音楽界にその偉大さを伝えようと声を枯らしました。

 

天性と教育によって足ることを知り、生活のために多くを必要とせず、自分たちの芸術によって与えられる内心の楽しみがあるために、当時著名な芸術家に特別な名誉の印として貴紳から与えられた黄金の鎖を欲しいとは思わず、それなしには幸福になれないような他の人々がそれをつけているのを、少しも羨むことなしに眺めることができたのである。


当時のバッハの評価は作曲家としてではなく、「偉大なオルガニスト」としてのものでした。即興演奏や即興作曲、或いは即興編曲が素晴らしかったことはもちろん知られていましたが、どちらかと言えば特殊技能のような扱いで、音楽家としての作曲の評価ではありませんでした。このような評価を覆そうと、バッハの生活とプロテスタントとしての生涯を、バッハが生んだ曲の数々と照らし合わせて研究し、著作としたものが本作『バッハの生涯と芸術』です。本書では、いかにバッハの作曲が素晴らしかったか、といった内容が様々な角度から語られ、裏付けるように曲ごとに分析されています。

 

一つの芸術への抗いがたい衝動をもった最大の天才とは、その本来の性質から言って、素質すなわち一種の肥沃な土壌以上のものではない。しかしこの土壌には、芸術家が飽くことなく入念に耕すのでなければ、芸術はまともに育つことができない。元来すべての芸術と学問の元となる勤勉こそ、そのための第一の、もっとも不可欠な条件のひとつである。


ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)は、十八歳のとき、アルンシュタットの新教会に製作されたオルガンの鑑定を任されました。鑑定者としてだけでなく、その試奏の素晴らしさから奏者としても教会に認められ、新教会のオルガニストに選ばれました。比較的に自分の時間を持つことができた職務であったため、家族との時間を持ちながら先人たちの音楽を吸収していきました。しかし、まだ若きバッハには自身の感情を抑えることが困難で、指導していた聖歌隊隊員たちとの意見の食い違いや、聖職議会とも方向性の違いで軋轢を生んでいきました。四週間の休暇を取ったバッハは、聖母マリア教会のディートリヒ・ブクステフーデのオルガン演奏を聴きに行きます。半音階や不協和音の使用、大掛かりな転調など、その演奏はバッハを大いに魅了します。しかし、のめり込むあまり、結果的に十六週間も帰ってこなかったことが問題となり、バッハはアルンシュタットを退かなくてはならなくなりました。その頃、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストが後任を探していると知り、そちらへ移ります。カンタータ「キリストは死の絆につきたまえり」(BWV4)、葬送カンタータ「神の時は最上の時なり」(BWV106)、「結婚式クォドリベット」(BWV524)、大規模なカンタータ「神はわが王」(BWV71)など、多くの楽曲をこの地で生み出しました。その後、バッハはザクセン=ワイマール宮廷楽団への移籍を願い出ました。宮廷オルガニストの後任を探していること、城内教会が改修されたこと、俸給が倍近くあったことなどが理由とされています。


バッハの主君であるヴィルヘルム・エルンスト公は、宗教政策の推進と宗教音楽の保護に力を入れていました。ワイマールは、宮廷楽団十五名、軍歌隊七名だけでなく、市内にも町楽師が溢れ、多くの職業音楽家の住む城下町でした。職務もエルンスト公はよくバッハの意見を聞き入れ、楽師となっても良い待遇は変わらず、また、家庭生活も順風満帆で、子どもに囲まれながら幸福に過ごすことができました。後に大成する二人の息子、ヴィルヘルム・フリーデマン、カール・フィリップ・エマヌエルも、この時に生まれます。作曲活動においては、エルンスト公の助言もあり、アントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲様式を取り入れた作品などを手掛けるなど、さらに楽曲を幅広いものとしています。「トッカータアダージョとフーガ ハ長調」(BWV564)などはその例です。また、ワイマール宮廷オルガニストとしての職務を果たし、「カンツォーナ」(BWV588)、「ドリア調のトッカータとフーガ」(BWV538)、コラール前奏曲「オルゲルビュヒライン」(BWV599-644)など、現代に残されるオルガン曲の殆どを、このワイマール時代に作り上げました。

その後、ハレの聖母教会が専属オルガニストの後任を探しているということでバッハの心は揺らぎましたが、結果的にエルンスト公が俸給昇格と楽師長への昇進を提示してワイマールに踏み留まりました。この昇進によって教会音楽を任され、毎月一曲のカンタータ作曲と上演が義務付けられました。「天の王よ、よくぞ来ませり」(BWV182)、「泣き、嘆き、憂い、畏れよ」(BWV12)、「歌声よひびけ」(BWV172)、「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」(BWV61)など、次々と作曲し、演奏しました。その後も滞りなく義務を果たしていたバッハでしたが、領主エルンスト公と、その甥エルンスト・アウグスト公との対立に巻き込まれ、環境に居心地の悪さを感じ始めます。状況に悩んでいる最中、アウグスト公の妃の兄であるアンハルト=ケーテン侯レオポルトが助け舟となり、ケーテン宮廷楽長に招聘されました。しかし、これを良しとしないエルンスト公はバッハを投獄してしまいます。約一ヶ月の禁固処分から釈放されると、ようやくケーテンへと向かうことができました。


ケーテンでは宗教改革の影響に悩まされます。ルター派カルヴァン派が領主の実権を握るごとに、その作曲も左右されていました。レオポルト侯はカルヴァン派であり、バッハはその思想に基づいて職務を果たすことになりました。侯は音楽を愛し、音楽に理解を示していました。バッハが宮廷楽団に必要だという進言は悉く受け入れます。もちろん俸給も前任者の倍以上を与えられるなど、破格の厚遇でした。またレオポルト侯も自身で演奏を振るうなど、バッハは宮廷楽師長として存分に力を発揮する環境を与えられます。この頃に作られた楽曲は、「ヴァイオリン協奏曲」(BWV1041-1043)、「ブランデンブルク協奏曲」(BWV1046-1051)などが挙げられます。また、本来の職務における作曲は、「高められし肉と血よ」(BWV173)、「イエスの復活を知る心は」(BWV134)、「いまぞ去れ、悲しみの影よ」(BWV202)などがあります。レオポルト侯とバッハは有効な関係を継続して、貴族たちの保養地カールスバートへ連れ立つなど公私共に行動していました。ところが二度目の保養地訪問から帰宅すると、バッハの妻が病により急死してしまいました。家庭の急変に合わせて、この頃を境にレオポルト侯の音楽熱は下がり始め、バッハは公私共に苦しい環境に立たされてしまいます。その頃、ハンブルクの聖ヤコビ教会のオルガニストが亡くなり、その後任を探しているということで、応募します。コラール「バビロンの川のほとりにて」の即興演奏は、オルガニストの大家ラインケンが見守るなか、見事な熱狂の渦を生み、聴衆の大きな喝采を受けました。それはラインケンの言葉からも伝わってきます。

「私は、この芸術は死に絶えたと思っておりましたが、今それがあなたの中に生きているのを目のあたりにしました」

バッハの採用は間違いなく、また本人にも伝えられましたが、結果的にバッハはこの申し出を断ることになりました。後にこの地位に収まった人物が多額の寄付を行ったという事実がわかったことから、バッハが官職売買の慣習を否定したことが原因であると見られています。この頃、自筆楽譜で書かれたものは、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001-1006)、「無伴奏チェロ組曲」(BWV1007-1012)、「無伴奏フルートのためのパルティータ」(BWV1013)などであると言われています。

翌年にバッハは再婚しました。共にケーテン宮廷楽団で励まし合いながら、公私を共に支え合います。妻のアンナ・マグダレーナはソプラノ歌手で、バッハの半分の俸給を貰うなど、経済的にも大きく安定し、バッハも創作に力を込めることができる環境でした。また、妻にも音楽の教育として「音楽帳」を贈り、それを用いて作曲などを行っていました。この頃よりバッハの家庭に向けた音楽熱が高まり、「御身がともにあるならば」(BWV508)などからその感情が見られ、長男フリーデマンのために書いた「クラヴィーア小曲集」などが出来上がり、これらの教育用曲集をまとめ上げた「平均律クラヴィーア曲集第一巻」が完成します。しかしケーテン宮廷楽団での職務熱は反比例して下がっていきました。レオポルト侯が「音楽嫌い」の従姉妹アンハルト=ベルンブルク公女フリーデリカと結婚したことにより、著しく音楽熱が冷え切ったためでした。


ライプツィヒのトマス・カントル(プロテスタント教会での音楽的行事一切を任される者)であるクラヴィーア曲「聖書ソナタ」の作曲家ヨハン・クーナウが亡くなったことで、後任の選定が始まりました。先方にとっては、「最良の人」ではない妥協的な選定でしたが、結果的にバッハが正式に契約を結びました。三時間以上の礼拝式の間、延々とオルガンの前に座り、前奏曲やコラールを続けざまに演奏しました。そのような忙しさのなかで、バッハは三百曲以上の教会カンタータを作曲しました(現存するものは二百曲程度)。「イエスよ、わが喜び」(BWV227)、「マニフィカト 変ホ長調」(BWV243a)、「ヨハネ受難曲」(BWV245)などが演じられました。また着任翌年の復活祭には、「復活祭オラトリオ」(BWV249)が聖ニコライ教会で上演されました。こうした熱心な新曲作成によって、向こう数十回分の礼拝用の曲を蓄えたことで、少し精神に余裕を持つことができました。そして遂に生み出されるバッハ声楽曲の代表的存在「マタイ受難曲」(BWV244)が世に現れました。こうした名作の数々を生む創作活動の隆盛に反して、職務における方々の対立は激しいものがありました。聖パウロ教会が取り入れていた「新礼拝」の監督権争いや、礼拝におけるコラールの選定権限など、音楽の外で繰り広げられる争いに、バッハは疲弊してしまいます。半ば職務放棄の状態を続けてしまい、減法処分をうけ、創作熱も冷めてしまいます。住みにくいライプツィヒに居ながら、旧友や他の音楽に惹かれ、彷徨うように心は留まりませんでした。そのような中でも、機会あるごとに貴族への訪問は欠かさず、またそのような時にはすばらしい曲を生み出しています。ロシア公使ヘルマン・フォン・カイザーリンク伯爵の不眠改善のために書かれた「アリアと種々の変奏」(ゴルドベルク変奏曲)(BWV988)、「平均律クラヴィーア曲集第二巻」、そして、声楽曲の代表的な作品「ミサ曲ロ短調」(BWV232)などを生み出します。


カイザーリンク伯爵は音楽界におけるバッハの擁護者となり、フリードリヒ大王との仲介に尽力しました。貴重なジルバーマン製のフォルテピアノと共に出迎えた大王は、早速バッハにフーガの即興演奏を依頼します。期待に応えた素晴らしい演奏は、大王から大いに称され、その後も聖霊教会でのオルガン演奏も依頼されました。ライプツィヒに戻ると、バッハは即興演奏を基に大王を主題とした厳格なフーガを仕上げます。同じ頃に、以前より薦められていた「音楽学術協会」へ、「BACH」を表す14番目の会員(B=2、A=1、C=3、H=8、合わせて14)として入会します。こうした晩年と言われる頃に、大作「フーガの技法」(BWV1080)は仕上げられました。しかし、ライプツィヒにおける誹謗中傷や争いによる精神疲弊によって脳卒中を起こして倒れます。一度は回復しますが、以前から患っていた内障眼が酷くなり、二度の手術失敗で体力は尽き、帰らぬ人となりました。

 

一七五〇年にこの世を去るまで、バッハには、懐疑や内面的誘惑に陥ることもなくひたすら創作に専念し得るという幸福が与えられました。啓蒙主義がその世俗的な考えをしだいにあからさまに押し出してきた時代であったにもかかわらず、バッハは泰然自若として彼のプロテスタント正統派の立場を守りつづけます。私たちが今から教会暦にもとづく祝祭日にのぞんで数々のコラール前奏曲、つまりバッハが言葉──「主の御言葉こそ進みにすすめ」という意味での言葉──に忠実に奉仕しながら作曲した復活祭、聖霊降臨祭、クリスマスなどの聖書章句を聴いてみれば、バッハに見られるこのような信仰が人生にもたらす確固不動とした態度を再認識するでありましょう。多声的音楽がより和声的に基礎づけられた音楽に席をゆずり、すでにソナタという新しい形式が胎動し始めていた時代であったにもかかわらず、ヨハン・ゼバスティアン・バッハは『フーガの技法』によって彼の作品と古き時代とをみごとに完結したのであります。

エーミール・シュタイガー『音楽と文学』


バッハはバロック音楽の時代の最後の人と言われています。その後に開かれた時代を、フリーデマンやエマヌエルといった息子たちが牽引しました。バロック音楽からロマン派へという、革命とも言えるこの変化はハイドンモーツァルトベートーヴェンへと連なり、現代まで続くクラシック音楽の基盤となっています。バッハは「マタイ受難曲」、「平均律クラヴィーア曲集」、「フーガの技法」などを作り上げ、そのバロック音楽自体を完成させました。

 

バッハにおいては、音楽的な出来事は実に精緻そのもののように経過します。しかし主題は独立した生命を持ちうるほど分離して展開されていません。作品と作曲者との間の臍帯はまだたち切られていず、音楽はまだその創造主とぴったりと直接に結びついています。それゆえ彼の場合、ベートーヴェンの音楽が生命としている主題と主題の対立、「創造的な対位」というところまでは行っていなかったのです。しかしこの二人においては、──あらゆる差異があるにもかかわらず、──偉大であることの源泉は、客観的な創造への意志と巨大な主観性との両極端性を持っているという一致した点にあると思われます。
これこそロマン派がバッハにおいて共感し、バッハに魅せられた所以でありました。メンデルスゾーンは、彼の生涯にわたって、彼自身の作曲や、彼自身作曲したオラトリオの中でバッハの感動から免れることはできませんでした。このメンデルスゾーンによるバッハの再発見以来、ロマン派はバッハの音楽の中に理想の典型を見つけた、と信じました。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー『音と言葉』


フォルケルの、多くのバッハの資料による知識と、バッハの息子たちによる情報提供によって進められた研究は、やがて本書の完成によって形となります。1802年のこの発表より、徐々に当時の音楽界ではバッハ芸術の見直しが行われました。そして1829年の、若きメンデルスゾーンによる百年ぶりの「マタイ受難曲」再演は聴衆へ凄まじい衝撃を与えて、バッハの天才性を再考するに至りました。ここから、バッハの声楽曲が見直され、改めて光が当てられました。時代の変化によって埋もれかけていた「名オルガニストとして知られた真の音楽家」を掘り起こし、世に再考させる機会を設けます。フォルケルのかき集めた資料や楽譜は、現存する貴重なバッハの遺物として残され、現代においても研究材料とされています。

 

ライプツィヒ定期演奏会第十三回から第十六回について)
最も深い印象を与えたのは、クルツィフィクスス(Crucifixus)だったろう。これは、バッハのほかの曲以外には匹敵するもののない傑作で、あらゆる時代のあらゆる大家たちがすべて頭を下げるにちがいない。
第二部はヘンデルの作品だったが、こういって失礼でなければ、バッハの前にききたかった。バッハの後では、あまり深い感銘を与えない。

ロベルト・シューマン『音楽と音楽家


クラシック音楽の父」と言われる評価の根源は本書にあります。フォルケルの狂信的なバッハへの熱意が、新たな時代の流れを畝らせ、結果的にロマン派隆盛の足掛かりとなったと言えます。前述した多くの作品の殆どが、地方の名オルガニストという評価だけで、過去に埋もれてしまっていたままだったらと考えると、現存するクラシック音楽がどれほど欠けていたか想像もつきません。偉大な作曲家を生んだ根源的な作家であるバッハ。未読の方はぜひ読んで、また、聴いて楽しんでみてください。

では。

 

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