RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『プラテーロとわたし』フアン・ラモン・ヒメネス 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

真っ青な空と真っ白な家が目にいたいほど明るい、太陽の町モゲール。首都マドリードで健康を害したヒメーネスは、アンダルシアの故郷の町の田園生活の中で、読書と瞑想と詩作に没頭した。月のように銀いろの、やわらかい毛並みの驢馬プラテーロに優しく語りかけながら過ごした日々を、138編の散文詩に描き出す。


スペインの最も西側、アンダルシア州ウエルバにある小さな自治都市モゲル、村と呼ぶ方が似つかわしいほど、自然が美しい牧歌的な土地です。そこでワイナリーを営むカスティーリャ人の父と、アンダルシア人の母のあいだに生まれたのがフアン・ラモン・ヒメネス(1881-1958)です。大変裕福な環境で育てられた彼は、ウエルバの南東にあるカディスのイエズス系教育機関で充分な教育を与えられ、ブルジョワジーたちの子供と共に進学していきます。同アンダルシア州にある名門セビリア大学へ進むと、家業であるワイナリーを継ぐために法学を学びます。しかし、彼は大学内での絵画の授業に触れるうち、彼の詩性は開化し始め、芸術に強い関心を持つことになりました。これに父親は寛容な理解を示し、絵画などの美術に傾倒し、その後に古典文学に耽溺することを優しく見守ってくれました。恵まれた環境と、持ち前の詩性によって、芸術への理解を深め、彼は「詩」という芸術表現に辿り着きます。その頃隆盛していたスペインの叙情詩人たちに、自分から積極的に触れ、詩作を重ねて出版社へ投稿し、徐々に文壇と世間に認められ始めます。


1900年にヒメネスは、スペインの詩人や劇作家として活躍したフランシスコ・ビジャエスペサ・マルティンに誘われて、首都マドリードへと向かいます。そこでは、ラテンアメリカニカラグアから訪れていた詩人ルベン・ダリオが精力的に活動していました。「美」を鮮烈な印象と音楽的な韻律で見つめ、カスティーリャ叙情詩の革新をめざすというモデルニスモ運動(Modernismo、モダニズム)の一貫で、アルゼンチンの作家レオポルド・ルゴネス、キューバの作家ホセ・マルティなどが支持した運動です。発足当初は、叙情詩の革新を異端的な行為と見て、批判的な評価を受けていましたが、ルベンの著書『青』(『AZUL…』)の発表により、詩の定められた形式からの脱却が理解されて、多くの支持を受けて運動が隆盛しました。西欧への運動拡大のために訪れていたルベンに、マドリードヒメネスたちは出会います。内なる情熱、視点、旋律、韻が、新たな目線で捉えられ、ヒメネスの詩性はさらに開花していきました。


モデルニスモの影響を受けたヒメネスは激しく机に向かいますが、突然の不幸が襲います。最愛の良き理解者である父親が急死しました。「死」という恐怖がヒメネスを襲い、精神が激しく衰弱して、執筆だけでなく生活もままならなくなります。彼は、南フランスのサナトリウムで療養することになりました。心を休めるための療養でしたが、詩に対する熱意は消えず、その地で生まれた南フランスの詩に触れはじめました。そして、そこには、強烈な詩性が込められていました。シャルル=ピエール・ボードレールが、フランス韻文詩が与えていた雁字搦めの道徳観を破壊し、本質的な「美」を表現した新たな詩でした。悪と美を主軸に表現された新たな詩は、ヒメネスに強い衝撃を与えます。


宗教によって束縛されていたカスティーリャ叙情詩を解放したモデルニスモ、道徳の啓蒙によって束縛されていたフランス韻文詩を解放した散文詩、これらはヒメネスにとっての「詩の在り方」を根源的に揺さぶりました。そして彼は、彼が辿り着いた「純粋な詩性」という概念の表現を目指すことになります。こうして芽生えた新たな概念を、サナトリウムでの療養期間に筆に込め、書き上げたものが『プラテーロとわたし』です。


本作で語られる出来事は、一年の季節に合わせて綴られています。春に起こり、冬に最高潮に達するという流れは、138の詩篇を繋げるものではなく、「わたし」の意識の流れと一致するものであり、「プラテーロ」の短い生命との一致でもあります。全ての短い詩篇は、アンダルシアにおける田園生活の自然に人生を照らし合わせ、陽の光とともに人間の明暗を細かな描写で映し出しています。その喜びや悲しみを、親近感を持ち合ったプラテーロとわたしの愛情によって会話が生まれ、出来事を客観的に捉えています。そこには鋭い観察眼が見えますが、見えたものを突き詰めるのではなく、そうした痛みや苦しみを分かち合おうとする二人の優しさが、全篇にわたって込められています。そして季節の終わりにプラテーロを失った喪失感と悲しみを、「わたし」はどう受け止めて、どう歩んでいくのかが、物悲しさ溢れる幸福で綴られます。


星の美しさ、花の美しさ、果実の美しさ、幾つも「美」が視界に広がるような筆致は、そのものが大変美しく輝きさえも帯びています。反して、カナリアの死、犬の死、馬の死、少女の死など、「死」は現実であるという、ヒメネスサナトリウムで最も苦しんだ概念も、目を逸らさずに見据えられています。また、象徴主義の影響が「霊魂」を表す「蝶」となって、幾たびも詩篇に登場します。こうした「美」と「死」の共存は、人間の本質的な感情に結び付き、それを純粋な詩性へと昇華し、そして、明暗や寒暖、剛柔などを巧みに綴り、自然や現象を美しく表現して、詩篇を隈なく彩っています。

 

この花はね、プラテーロよ、ほんの数日しか生きないだろう。けれどもその思い出は、いつまでも消えうせることはあるまい。この花のいのちの長さは、きみの一生のなかの春の一日か、わたしの一生のなかの春の一つにひとしいものだろう……もしかりに、この聖い花と交換できるならば、プラテーロよ、わたしは秋の季節にたいして、何をあたえてもかまわないのだが!なぜってこの花にはね、わたしたちの日ごろの生き方の、素朴な、永遠の手本になってもらいたいからさ。

「道ばたの花」


幾多の事物がプラテーロとわたしに関わろうとも、決して直接的に彼等のあいだには入り込みません。あくまでも彼等の外側に存在し、観察される側の立場から変わることはありません。彼等が交わす会話は、堅固な世界の中で構成され、一層に親近感を高めています。ヒメネスは本作を、子供時代に過ごした田園の世界と、彼が生まれた土地そのものに戻ることを想定して描いています。彼は詩的な散文を使い、元々抱いていた懐古的な思い出の風景を、「美」を特化して映し出し、純粋な詩性を表現しています。それを助長させる存在が「プラテーロ」であり、彼等の友情や愛情が溢れるばかりに織り込まれています。

 

プラテーロは存在するのかと多くの人に尋ねられました。もちろん、彼は存在しました。アンダルシアの農場主は馬、雌馬、騾馬に加えて、驢馬を飼っています。驢馬は、馬や騾馬とは違った役目を与えられており、世話はあまり必要ありません。徒歩の遠出をする時に軽い荷物を運んだり、疲れた子供を乗せたり、移動中に病気や怪我をした人を乗せたりします。「プラテーロ」は銀色の驢馬の一般名(しろがね号のような意味合い)で、「モヒノ」は黒い驢馬、「カノ」は白い驢馬です。実際に存在した私のプラテーロは一頭の驢馬ではなく、複数の銀の驢馬の思い出を合成したものです。私は、少年時代や青年時代に何頭か飼っていました。彼らはどれも、銀細工のようでした。彼らとのすべての思い出が一頭の「プラテーロ」となり、作品の中で姿を現してくれました。

ゼノビア・フアン・ラモン・ヒメネス博物館 インタビュー


本作には、「アンダルシアのエレジー──一九〇七-一九一六年」という副題が付けられています。哀歌や挽歌といった意味合いを持つ「エレジー」ですが、詩においては「悲しみを歌ったもの」という意味が強くなります。本作で描かれる暖かさやおかしみは、「プラテーロ」の最期を迎えて懐古的に描いたものであると受け止めると、非常に胸の詰まる悲しみが襲ってきます。そして季節が秋から冬へと変化して終わりが近付くと、蝶(霊魂)が舞う表現が目につき始めます。ゆっくりと想起させる「プラテーロの最期」が遂に訪れると、「死」の恐怖が強く覆い被さってきます。しかし、プラテーロのいなくなった厩に舞う美しい蝶は、儚くも幸福を帯びた感情を思い起こさせ、愛されて過ごした記憶がより美しいものへと昇華されます。


スペイン内戦によってプエルトリコへと亡命し、その地で亡くなったヒメネスとその妻は、彼の出生の地へと帰り、ともに眠っています。「プラテーロ」となった幾頭かのしろがね号も同じ地に眠り、何匹かの蝶が美しく待っている景色を想像してしまいます。児童書としても用いられ、教科書などでも使用されているほど読みやすい本作『プラテーロとわたし』。未読の方は、ぜひ読んでみてください。

では。

 

 

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