RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『幽霊たち』ポール・オースター 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

私立探偵ブルーは奇妙な依頼を受けた。変装した男ホワイトから、ブラックを見張るように、と。真向いの部屋から、ブルーは見張り続ける。だが、ブラックの日常に何の変化もない。彼は、ただ毎日何かを書き、読んでいるだけなのだ。ブルーは空想の世界に彷徨う。ブラックの正体やホワイトの目的を推理して。次第に、不安と焦燥と疑惑に駆られるブルー……。'80年代アメリカ文学の代表的作品!


十九世紀末から二十世紀にかけて隆盛を極めたモダニズム文学は、それまでのリアリズム(写実主義)を否定するように作家の思想や意思を表現していきました。それまで文学として求められていた「あるべき流れ」を否定し、複数の対立意識を双方に存在させ、事物の曖昧性や不確定性を肯定しようとする文学運動で、ジェイムズ・ジョイスフランツ・カフカヴァージニア・ウルフアンドレ・ジイドなどが代表作家として挙げられます。この前衛的な文学運動は世界中に広がりましたが、第二次世界大戦争を迎えると更なる変化が見られました。世界は進歩と発展に向けて突き進んでいたという人間の理想が戦争という破壊と荒廃によって打ち砕かれ、人間や社会の持つ不条理や虚偽性が意識の上に昇ってきます。これによって生まれた新たな思想は文学の「外枠そのもの」を破壊するようになり、矛盾や不条理をさまざまな手法で描こうとするポストモダン文学が現れました。作家のサミュエル・ベケットホルヘ・ルイス・ボルヘスルイージピランデッロなどが挙げられます。また、フランスの哲学者ジャック・デリダによる脱構築の理論は、ポストモダン文学の論理批評に強い影響を与え、実存主義における存在理論をその文芸性の主軸に見出しました。そしてアメリカの作家ポール・オースター(1947-)も、このポストモダン文学における代表的な一人です。


オースターは、本作『幽霊たち』で自伝を比喩と暗喩をもって拡張させた探偵小説として描いています。フィクションのなかに自伝的要素を抽象的な観念として取り込み、彼の抱える焦燥、恐怖、悲観、疑念を物語として構築させていきました。舞台は新旧の建物が混在する緑の多い自然の変化を感じることができるニューヨークのブルックリン・ハイツで、1947年2月3日より物語は始まります。この日はオースターの誕生日で、自伝的要素を込めていることを示唆しています。登場人物には、ブルー、ブラック、ホワイト、ブラウンなど色の名が与えられ、彼らの存在が抽象化されていくとともに、色とりどりであるブルックリン・ハイツの景色が色を失っていく効果をも与えています。

探偵のブルーが、ある人物を監視して欲しいという依頼をホワイトから受けます。対象はブラックという男性で、彼の部屋を目の前から覗くことができる部屋を用意されて、週に一度の報告を求められました。ブルーの使用する部屋は快適で、ブラックの住む建物の向かい側にあり、監視が非常に容易であるように感じました。しかし、ブラックは一向に目立った行動を起こすことはなく、一日の殆どは窓に面した机に向かって紙に何かしらを書き付けることを続けているのみでした。単調なブラックの行動と、単調な自身に求められる仕事にブルーはやがて嫌気が差してきます。状況を打開しようと探偵としての変装に長けていたブルーは、大胆にもその力を発揮してブラックへと直接的に接触しようと行動を起こします。変装のうえでのブラックとの会話は実に自然に行われ、ブラックさえも待ち受けていたように感じられます。このような互いの思考は徐々に近付き、境界線が曖昧となるような同調的一体感に二人は包まれ、互いの意図さえ分かり合う状況に陥ります。そして、不可解な拘束感と疑心暗鬼を生じたブルーは、ブラックと決着をつけるために強引な手口で乗り込んでいきます。


ブルーとブラックは、陣取った部屋のように互いを鏡のように写し合っています。行動描写でも台詞においても、繰り返しのような同様の現象を起こし、合わせ鏡のように反射し合って言動を重ね合わせています。互いの反映が、事象の実存性を失わせ、互いの虚偽性となってブルーの感情を否定的に刺激して心的負荷を与え続けていきます。その感情は鏡に映った鏡のなかのように無限に繰り返されているように襲い掛かり、彼の心情から冷静さを失わせ、意識は鏡のなかに閉じ込められたような閉塞感を抱きます。この閉塞感を助長させているのが互いの部屋です。監視するため、監視されるため、彼らは部屋に閉じ籠ります。やがて、向かい合う二つの箱には鏡像のような実存性の無い二人の人間が収まっているように感じられ、思弁的な文章が二人の存在をより抽象化させ、実在化しない存在「幽霊」のように感じられるようになっていきます。


ブラックの部屋での行動は執筆であることが理解できます。そして、ブルーの強引な行動から、その執筆内容はブルーのことであることがわかります。また、本作が冒頭の日付から自伝的なものであることが窺われ、ブラックはオースター自身であると仮定できます。そして、鏡像のような描写と思弁表現によって同調したブルーもまた、ブラックと同様の存在であるとも繋げられます。ブラックを監視するブルーは執筆者を眺めるもの「読者」であるとも言え、オースター自身の視線とも捉えられます。本作はオースターが、執筆者と読者の両側から苦悶する彼自身の心象を描いているという結論が見えてきます。オースターは「執筆」における実存の懐疑と襲いくる恐怖を感じており、心の内部をブルーとブラックの二人によって分割して物語として書き上げました。


また「幽霊たち」という言葉には、過去に栄華を極めた偉大な作家や、誰もが知る有名な主人公たちを暗喩して、小説というものが抱える虚偽性や執筆による存在の不確定性を表現しています。創作された物語は実存することはなく、また、実存する人間を描いたものでさえ、言葉というもので綴られている以上、そこには「ありのままの存在を映すことは不可能的である」という意図が込められています。また、執筆者としての蟠りと恐怖は、四壁の部屋の存在によって助長されます。ブルーとブラックは、閉じ込められ、閉じ籠り、互いに孤独となり、あらゆる実存から遮断されているような閉塞感を与えられます。そのなかでも顕著な描写は、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』をブラックが読んでいるという場面で認められます。如何に生きるべきかという趣旨のもと、人間の本質や社会の在り方、倫理の持ち方などを考慮のうえ、ごく単純な自然を愛する生活へと向かおうという内容です。しかし、この理論は「孤独的な思考」が求められ、ブルーは恐怖と嫌悪を感じます。


また、ブルーとブラックを対比的に切り分けた場合、視点が変わって新たな見え方になります。ブラックは作者であるオースター、ブルーは主役にして読者として分解すると、立場が明確に変化します。読者に注目されたい、されなければ自認できなくなるという恐怖は、執筆という負荷、言葉の不確定性から生まれます。そして読むこと、書くことはそれぞれ孤独ななかで行われ、互いに閉塞感を持つようになります。時代は現代であり、舞台は1947年に始まって、1986年に発行されています。いつ終わるともわからない大著を書き続けたブラックは、実に39年ものあいだ孤独と戦い続けてきました。そして執筆者ブラックには読者ブルーが必要だったという結論に至り、ブラックは物語の終わりを予期していました。自伝の終わりは「死」であり、ブラックは死を受け入れるために女性との関係を断っています。また、読者であるブルーもまた、未来のミセス・ブルーとの別離もあり、ますます与えられた孤独のなかに閉じ込められます。ブラックとブルーの互いの孤独、作家と読者の双方の孤独によって完成する完全なる調和は、主観と客観の境界が曖昧になり、互いの実態の無さ、つまり幽霊たちによる思索の調和が共鳴へと変化して一つの作品を共同的に作り上げようとします。

脳味噌とはらわた、人間の内部。我々はいつも、作品をよりよく理解するにはその作家の内部に入り込まねばならない、とか何とか言っている。だがいざその内部なるものを目のあたりにしてみると、べつに大したものは何もない──少なくとも他人と較べて特に変わったところなんか何もないんだ。


偉大な検屍官ゴールドの脳の実体的な無意味さを、実存という側面から批判する姿勢からも、オースターが「個の存在の所在」を見出す困難さを伝えようとしていることが理解できます。本作では、執筆者と読者の同調と互いの孤独を、スペキュレイティブに描き出し、「本書の読者」をその思索へと引き摺り込もうとする熱量を強く感じさせます。また、当時における「現代」に溢れていた主観的物語の虚偽性と言葉の不確定性を思弁によって解体し、ジャック・デリダの唱える「脱構築」(再構築でも破壊でもない)を体現した作品であるとも言えます。その果てに浮かぶ自己実存を掴むことができないという存在的苦悩は、オースター自身の苦悩とも繋がり、読者への吐露と共鳴の望みを感じ取ることができます。


ニューヨーク三部作と呼ばれる作品群の二作目に該当する本作『幽霊たち』は、前後二作品と物語に繋がりがあるわけではありませんので、単独で楽しむことができます。アメリカン・ポストモダンの旗手ポール・オースターの傑作。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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