RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ヴェローナの二紳士』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

本作『ヴェローナの二紳士』は、シェイクスピアが執筆した最初の喜劇と言われています。劇中には、女性の男装や情欲の森など、彼が後の作品に活かす発想が随所に現れています。舞台となるイタリア北部にあるヴェローナは『ロミオとジュリエット』でも知られています。


ヴェローナの紳士であるヴァレンタインとプローテュースは、互いに固い友情を交わし、何事も隠し事のない強い絆で結ばれていました。しかし恋愛についての考え方は正反対で、ヴァレンタインはそのようなものに関心を持つことができず、見識を広めたいという思いからミラノ公爵のもとへと旅立ちます。反してプローテュースは恋人ジュリアのもとを離れる気が起きず、ヴェローナに残ることを決めて遊学を見送りました。しかし、社会を学ばせて立派な紳士とさせるため、プローテュースの父親が計らって強引にミラノ公爵家へと彼を送ります。公爵家に着くと、ヴァレンタインは人が変わったように公爵令嬢シルヴィアに激しく恋をしていました。それを見たプローテュースは憤る感情を抱く間もなく、彼自身もジュリアという恋人がありながら、シルヴィアへ一目惚れをしてしまいます。ヴァレンタインとシルヴィアは駆け落ちの計画を立てており、その助力をプローテュースに依頼します。友情と恋心に挟まれたプローテュースは、友情を切り捨てることを決意しました。駆け落ちを公爵へと密告し、ヴァレンタインをミラノから追放させ、嘆くシルヴィアを慰める役を買い、自分を売り込むために近寄ります。その頃、寂しさで恋焦がれていたジュリアはヴェローナに止まることができず、男装して姿を変え、プローテュースに会うためにミラノへと向かいます。そこには、詩に乗せてシルヴィアへ思いの丈を伝えているプローテュースがいました。男装に気付かない彼はジュリアを小姓として雇い、シルヴィアへの遣いを言い渡します。また、追放されたヴァレンタインは森で山賊と出会って意気投合し、山賊の頭領となって森に住まいます。一方、シルヴィアは公爵に当てがわれた貴族との婚姻から避けるために森へ逃げ込みました。しかし、その後を追いかけてきたプローテュースに捕まり、シルヴィアは襲われますが、そこへヴァレンタインが現れました。

 

オルフェウスの竪琴は
詩人の神経を弦にしたものだ、
その黄金の調べは鉄を溶かし、石をやわらげ、
虎の心をなごませ、巨鯨リヴァイアサンをして
底知れぬ海より出でて砂の上に踊らせたという。

第三幕第二場

このプローテュース(Proteus)の詩に乗せた「リヴァイアサン」という言葉からは、海神プロテウス(Prōteus)を想起させられます。ギリシャ神話において「海の老人」と呼ばれ、ポセイドン以前の大海の統治者であり、預言者であったプロテウスは、その預言の能力を用いることを厭悪していました。この預言を聞くために多くの勇ましい英雄たちは駆けつけますが、プロテウスは獅子や大蛇、樹木や氷河など、様々なものに姿を変えることができる能力を有していたため、捕まえること自体が困難な存在でした。外見を様々に変化させるプロテウスを、内心を次々に変化させるプローテュースと呼応させて、シェイクスピアは一つの個性を築き上げています。


恋愛は「女性上位」という価値観を、シェイクスピアはその作品群へ一貫して描写しています。そして、女性は嫉妬をせず、忍耐強く愛を守るという行為を徹底しています。本作のジュリアもこのような行為を貫くことに苦悩します。小姓の変装をして更に外面から心を覆うという立場は独白によって本心を吐き漏らしますが、プローテュースの前ではひたすらに耐え忍び、直截的に嫉妬の感情を見せることはありません。このような強く逞しい女性の愛は、移り気で身勝手な男性の愛とは大きく異なることを対比的に捉え、より神聖で美しい態度であるということを劇中で訴えています。プローテュースが移り気を起こしているのではないかというジュリアの抱く恐怖の感情は、男性のそのような非道な行動が当時の社会的に許容されていたという事実が根底にあります。本作は、この社会環境を生きる女性の観客が実際に言い寄ってくる男性や付き合っている男性に移り気の可能性があることを示唆し、当時の全ての女性が脅かされていた「欺瞞的な恋人に騙される」という悲劇を未然に防ぐことができるようにと訴えているように感じられます。


暴走したプローテュースが森でシルヴィアを捕まえて強姦しようとする場面は、色欲の情念の恐ろしさが急激に迫る場面です。公爵家では紳士であろうと努めていた彼を変えたものは「森」そのものであると言えます。幾つかのシェイクスピア作品で用いられている手法と違わず、森は恋愛感情を高め、欲情を剥き出しにする効果があり、プローテュースもまた、シルヴィアに触れたことで一線を越えようとするほど気持ちが高まったのだと考えられます。それを山賊に身を落としたヴァレンタインが見事に救いますが、森を棲家とする山賊となっていたがために、ヴァレンタインは正気を保ち、紳士らしく卑劣な行為を制することができたのだと言えます。


ヴァレンタインに制されてプローテュースは我に返り、恋愛の面でも友情の面でも、自分が非道な行為を働いたと恥じてヴァレンタインに心から謝罪します。そこでヴァレンタインは驚異的な寛大さを見せてプローテュースの思いを受け入れます。そして友情の証に、救ったばかりのシルヴィアを譲ろうと言い放ちました。襲われかけていたシルヴィアを思うと突拍子も無い進言です。しかし当時は、いかにロマンスに溢れていたとしても「男女の愛」は社会的に軽視されていました。男性上位である社会においては、男性同士の友情の方が高貴であり、階級社会に有用なものと考えられていました。その中でも「贈与」は、平等な関係にある男性特有の信頼行為であり、最も深い友情の表現でした。そして、ヴァレンタインにとって最も愛するシルヴィアを与えるという行為は、何よりも大切な友人であると証拠付ける意味合いを持っています。しかしながら、「女性上位」の恋愛観を持つシェイクスピアが本心からその台詞を言わせたとは考えられません。強姦未遂という卑劣な行為を目の当たりにした直後、一つの謝罪で全てを許し、未遂被害者を実行犯に与えるという急展開は、観客は当然ながら、シェイクスピア自身も正当ではないと考えていたと思われます。つまり、シェイクスピアは「男性上位の社会」による身勝手な考え方自体を批判しており、女性がこのように虐げられているのだと、本作をもって提示しているのではないかと考えられます。


題名には「紳士」(The Two Gentlemen of Verona)と入れられていますが、ヴァレンタインもプローテュースも、かなり未熟な若者です。口先ばかりがくるくると回り、本心では身勝手極まりないことばかりを独白します。ヴァレンタインも終盤こそ紳士らしさを見せ始めますが、冒頭では恋愛などくだらないと言い放っておきながらシルヴィアに惚れ込んでしまいます。またプローテュースもジュリアと離れることを惜しんで公爵のもとへ出向くことを先延ばしにしていましたが、シルヴィアを見た途端にジュリアの姿は消え失せてしまいます。本作は、若者の愚かな点を全面に打ち出した劇だと言えます。終幕に公爵を登場させて、半ば強引に喜劇へと仕立て上げていることも注目すべき点です。当時、喜劇は比較的堅苦しくない若者も多く観覧する場で演じられました。そこにシェイクスピアの狙いがあったと考えられます。若者の、特に恋愛の絡んだ愚かさを喜劇という受け入れやすい形に乗せて、若者自身たちへ届け、実際に若さゆえの愚かな行為をしないようにと啓蒙していたように思えます。

 

彼があの人のなかに見いだしている美点で、私のなかに見いだせないものがどこにあるの、愚かな恋が盲目の神様でさえなければ?


ジュリアの言葉の通り、若者はより一層に恋をすると盲目になります。欲情が先走り、手段を選ばずに愚かな行為へと突き進みます。男性上位という社会に置かれた若き男性たちは、徐々に自身の置かれた優遇された立場に気付き、欺瞞と傲慢に溺れていきます。次代を担うべき若者に、真に大切なものを見つけて、愚かな過ちを負って欲しくないというシェイクスピアの優しさを本作で感じました。作品としても登場人物が非常に少なく、読みやすい作品となっている本作『ヴェローナの二紳士』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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