RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『空騒ぎ』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

青年貴族クローディオーと知事の娘ヒーローのめでたい婚礼の前夜、彼女に横恋慕するドン・ジョンの奸計から大騒動がまきおこる『空騒ぎ』。


貴族レオナートーは美しき娘ヒーローと、才気煥発な姪ベアトリス、そしてその父であり自身の兄であるアントーニオーと、メッシーナに在る城に住んでいました。彼の親友ドン・ペドローが、二人の若き貴族クローディオーとベネディックを引き連れて戦争より帰ってくるため、迎えの準備をします。その一行にはドン・ペドローの腹違いの弟ドン・ジョンもいました。ベアトリスとベネディックは見知りの口喧嘩仲間で、早速話に花が咲きますが、その傍らでクローディオーがヒーローに出会うと瞬く間に恋に落ちて婚姻を結ぶに至ります。ドン・ペドロー、クローディオーともに憎むドン・ジョンはこの縁談を破滅させる一計を案じます。ヒーローとクローディオーは結婚式の場で企み通りに立ち回り、無実の罪をヒーローが突きつけられ昏倒します。しかし、結婚式に登壇した心優しき修道僧が一つの提案をして物語は喜劇へと移っていきます。


1600年に出版された本作『空騒ぎ』は、歴史的事実などを軸としたものではなく、現実社会での生活や行為のなかに見られる出来事から発展していく物語です。これは「風俗喜劇」と呼ばれ、現代に至る英国喜劇の基調となっています。執筆年代からもシェイクスピアの喜劇時代に書かれているとされており、その終盤である悲劇時代の手前に書き上げられています。これはシェイクスピアが書いた最後の風俗喜劇であり、その次の時代へと変化を見せる過渡期の作品でもあります。古典劇における喜劇とは、物語のなかで生じた双方の敵意が消滅して、憂いなく互いに幸福が授けられるものを指します。そして劇調も、仲違いがあるにせよ一貫して穏やかで和やかな空気が劇中を包みながら進行します。しかし、シェイクスピア演劇では、悲劇的要素の場面では死の脅威が襲うほどに強い悲愴な場面が演出されます。そのため、喜劇に浮かばれるのか、悲劇に転じるのか、劇調だけでは判断できません。そしてこの場面で仕掛けられるシェイクスピア独特の転換「コミック・レリーフ」(喜劇的救済)が織り込まれます。喜劇性の強さが転調となって、それまでの悲劇性が喜劇の前兆であったと理解され、晴れやかな終幕へと進んでいきます。この構成は、後に訪れるシェイクスピア晩年のロマンス劇時代で多く見られる展開となっており、浪漫劇(ロマンス劇)と呼ばれます。


本作の特徴として挙げられる点の一つに喜劇の転調があります。冒頭より始まる主筋のヒーローとクローディオーの物語は、典型的な悪役ドン・ジョンの奸計により悲劇性を帯びてきます。ドン・ペドローと付き従うクローディオーは気付かぬまま計略の罠へと突き進んでいきます。そこに挟まれるベアトリスとベネディックの物語は風俗喜劇の調子を見せて、天邪鬼どうしの機智合戦が繰り広げられます。互いに恋などくだらないという姿勢で、馴れ合いの度を超えた非難の応酬を顔を合わせるごとに繰り広げます。しかし奸計が成り、真実を把握したベネディックと、知らずに報いを求めるベアトリスは初めて真剣に対話をして、物語の調子はがらりと変わります。そして主筋はヒーローとクローディオーからベアトリスとベネディックへと入れ替わって進みます。この主筋の交差は非常に珍しく、そして見事な組み方で物語を仕上げています。


『お気に召すまま』『十二夜』『空騒ぎ』をシェイクスピア三大喜劇と呼ぶことがあるほど、今作は喜劇として秀でた作品です。特に登場人物の持つ個性の描写は、物語に深みを持たせる重要な役割を果たしています。なかでも目立っているのはベアトリスで、劇全体を喜劇へと導く中心人物として、女性の徹底した純血性と激しい愛情を持っています。この力強さでベネディックを引き込み、二人が善の引率者となって悲劇調から喜劇へと転換させていくさまは、それまでの道化的な機智合戦の役割を興味深い意味で観客(読者)の予想を裏切ってくれます。


また、ベアトリスとベネディックの機智合戦と対比的に描かれる真の道化役が第三筋として存在しています。ドン・ジョンの奸策を偶然にも暴いてしまう警保官ドグベリーと村長ヴァージズです。彼らの学の無さはマラプロピズム(言葉の誤用)で表現され、只管に滑稽さを醸し出して緊張感が高まるはずの場面で喜劇調を目一杯に演出してくれます。主筋の悲愴感、第二筋の機智合戦、第三筋の喜劇性、これらが互いに印象を高め合って濃厚な劇作が出来上がっています。そして、最終的に喜劇へと転じさせる重大な役割を第三筋のドグベリーたちが担っているという皮肉に、本作の裏に隠された笑劇的な面白味が含まれています。


本作では「欺瞞」が重要な要素として物語に通底しています。ドン・ジョンの部下によるヒーローとクローディオーを貶めようと発案する奸計はもちろん、ドン・ペドローがクローディオーに代わってヒーローを口説くのもまた欺瞞であり、ヒーローが死んだと流布し後の幸いを引き起こそうとするレオナートーの企みもやはり欺瞞です。ベアトリスとベネディックによる機智合戦で溢れ出る発言は、真のことなど少ないとも感じられるほど欺瞞で溢れています。細かなものを含めると欺瞞を発していない登場人物を探すことが困難なほどです。しかし、自他共に認める悪漢のドン・ジョンただ一人が「俺は自分を隠せない男だ」(第一幕第三場)と自身に正直に生きることを謳っています。正直に生きる悪党ドン・ジョンと欺瞞を振り撒く正義の父レオナートーは、善悪と真偽を持って対比的に描かれ、且つ、それが一辺倒に定められない人の心を示しています。


併せて、シェイクスピアは当時の結婚制度について、その欺瞞性を描いて皮肉を添えています。嫉妬に狂った自身が犯した罪を理解し、クローディオーは見ず知らずの仮面の女性を盲目的に愛を受け入れる婚姻を覚悟します。これは確かにクローディオーが抱く罪の意識の深さ、それを償おうとする真摯な姿勢が感動を見せ、仮面の裏で彼を見つめるヒーローに赦しの意識を育ませる説得性を持っています。しかし側面から見れば、クローディオーは愛のために結婚する訳ではなく、ヒーローとその父レオナートーへの償いの意識から婚姻しようとするのであり、そこに見られる欺瞞性は否定できません。シェイクスピアは欺瞞を肯定しているわけではありません。善か悪かという単純な区分けの行為ではなく、人間が目的に到達するための一つの手段が欺瞞であり、その目的と動機にこそ善悪が備わっていると説いています。

 

娘御の死は、飽くまでそういう事にしておかねばなりませぬが、罪を責め立てられての事、そうなれば、聞く者は誰しも歎き、憐み、ついには許すに至る事必定、と申すのも、人情とはかくあるもので、己が手中にある物は、その恩恵を受けながら、人、これをさのみ珍重せず、一たび手を離れ、これを失うに至って、始めてその値に心附き、かつては持ち慣れて手許では光を見せなかった美点が始めて目に映じてくるからにほかなりませぬ

 

悲劇性の物語を最終的に喜劇へと昇華する、ヒーローの生命の再生とベアトリスの包み込むような逞しい愛は、生きる歓びと愛の温かさを確認させてくれます。とくに女性の逞しさと意志の強さは、嫉妬に狂う男性の脆弱さを強く際立たせています。

本作『空騒ぎ』は喜劇ではありますが、人間性について考え直させられる美しい作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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