RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『春にして君を離れ』アガサ・クリスティー 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。が、娘の病気見舞いを終えてバグダッドからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる……女の愛の迷いを冷たく見据え、繊細かつ流麗に描いたロマンチック・サスペンス。


1944年の英国、すでに推理小説作家として文壇に揺るがない立ち位置を築いていたアガサ・クリスティー(1890-1976)は、長年のあいだ構想を続けていた作品の執筆に取り掛かりました。この作品は謎解き小説とは一味違った雰囲気の「ロマンス小説」なるもので、ミステリーを期待する先入観を持った読者には望ましい印象を与えない可能性がありました。そのため、本作『春にして君を離れ』を含む六作のロマンス小説はメアリー・ウェストマコットというペンネームで出版されました。事件を解決するような謎解きなどはありませんが、筆致は間違いなくアガサ・クリスティーであると感じさせる見事な作品です。


語り手であるジョーン・スカダモアは、郊外で代々弁護士事務所を営む夫を持つ、世間的地位としては申し分のない裕福さと幸福を併せ持っていました。本作は、バグダッドに住む娘夫婦を訪問したのち、ロンドンへと戻る道中での一人語りで進められます。悪天候により交通機関が停止してしまい、乗り継ぎ駅のレストハウスで立ち往生してしまうところから物語は始まります。東西南北を見渡しても一面沙漠しか見えず、その真ん中に駅とレストハウスが存在するような場所で、持ち合わせていた幾つかの本は読んでしまい、手紙を書くための紙とインクも無くなり、話し相手になるような人間もいない、ただベッドと椅子があるだけといった環境で時間だけが存分に与えられた状態でした。そこで彼女は思考を逡巡させて、自分の心や幸福に対する自問自答を始めます。直前に出会った落ちぶれた旧友の言葉に引っ掛かりを覚え、そこからジョーンは他者と自分を比較していきます。


彼女は自分の行動と結果に満足しています。愛する夫の人生を狂わせかねない危険な判断の制止、愛する子供たちの教育や人付き合いへの配慮、いずれも世間的地位を築き、それを守り、人生の成功者へと向かう矛先へ熱意を持って取り組んできました。夫は地方の名士たる弁護士事務所の経営、子供たちも幸福な結婚を掴むことができました。そして彼女を取り巻く周囲の人々の落差、法を犯して前科者となった夫を持つ不憫な夫人レスリー、怠惰な男性趣味の為に堕落した女学院時代のマドンナ的存在ブランチなど、比較すればするほど自分の幸福を噛み締めることができます。このような幸福を自らの努力で手にしたという自信が満足となり、改めて自身の行動を賞賛して快い気分に浸っていました。


しかし、回想を繰り返すことで、夫との会話、子供たちとの会話、周囲の発言の数々から、不愉快な連想を呼び起こします。自分の求める幸福のため、家族は夢や幸福を諦めたのではないか。そのような仮定が何度振り払っても思い返されていきました。夫の農業をしたいという夢を弁護士事務所経営と比較して断固反対したという事実、娘の交友関係に介入して関わる友人を選択させたという事実、落ちぶれた旧友から憐憫の眼差しを注がれた事実、周囲の人々には献身的に接しながらも自分には好意をあまり見せない夫の行動など、実際に感じた不愉快な感情が疑問となって次々とジョーンに襲い掛かります。彼女は、幸福であるに違いない自分が不愉快な疑問を抱くのは、沙漠という広大さと暑さを持った恐ろしいものが与える精神的な不愉快であると理解しようと試みます。しかしながら、逡巡の末に辿り着いた夫とレスリーとの愛情の結び付きを想像すると、これは自己本位に行動してきた自分自身の咎であり、他者の幸福を奪い続けてきたのだと自覚するに至ります。そして、夫や子供たちだけでなく、友人や知人、または使用人に対しても自己本位の行動を繰り返してきたことを理解して愕然とし、自責の念に苛まれます。そしてジョーンは回心するため神に祈り、夫や子供たちに罪を償おうと決意をして心を晴れやかにします。神の思召しのように「ちょうどいいタイミングで」到着した汽車に乗り、夫ロドニーの元へと希望を持って向かいます。彼女は、自分の人生についての自分が招いた不愉快な真実を理解したのでした。

ここから終幕、エピローグへと続きますが、人間の醜さと虚しさが映し出される哀しい最後へと展開していきます。人間の心が一日にして再構築され、生まれ変わることが如何に困難かを物語る哀しい結末です。


ジョーンはロドニーを真剣に愛しています。子供たちも愛しています。しかし彼女の思考基盤には、利己的な幸福判断基準が存在しています。善か悪か、賢明か愚鈍か、明か暗か、それらを自分の幸福を優先的な価値基準として、あらゆる分岐を判断していきます。それは打算的なものであっても、ジョーン自身にとっては真剣に相手の幸福を願っての判断であり、決して悪意のもとには働いていません。しかしながら、根本では全ての判断がジョーンの幸福に連なっているものであり、極端に言えば、ジョーンの幸福こそが相手の幸福であると迷い無く考えているうえでの判断であるため、相手は利己的な判断を押し付けられていると感じられます。この利己的な思考を沙漠の真ん中で逡巡により気付かされた彼女は、ロドニーへの愛の深さから強烈な罪悪感を覚えて、悶えながらも受け止めて回心するように神へ祈ります。そして、帰宅して心より謝罪して心を入れ替えようと決意したのでした。


そのような回心ののちではありましたが、帰りの汽車で乗り合わせた貴婦人との会話のなかで、ジョーンは自分が片田舎の弁護士夫人に過ぎないという事実を突きつけられます。満ち足りたと感じていた幸福に不満を覚え、最上の幸福を与えられていたという感情は薄らいでしまいます。また、ジョーンは社会(世界)を自分の利己的な価値観で眺める習慣を変えることはできておらず、ナチスとの戦争を危惧されている最中でも、彼女は戦争が起こるわけがないという自分の価値観から外れた事実を受け止めようとせずに拒絶します。そして、その価値観をさらに強めたのが到着した故郷の空気でした。


1944年の英国の文芸誌「タイムズ・リテラリー・サプリメント」の書評では、「アガサ・クリスティーは、多くの技術的な困難を抱えながら、回想的に語られるこの小説を実に読みやすくすることに成功した。彼女はジョーンを浅薄で粗野な性格にはしていない」と述べられています。自覚の無い利己的な判断の押し付けの善悪を見極めることは困難です。だからこそ、ロドニーや子供たちは、ジョーンに気付かせようと試みず、諦めて耐えることを選んだのだと考えられます。彼女は「少し近視である」という描写は、皮肉めいた比喩として的確に性格を表現していると言えます。


題名にも用いられているウィリアム・シェイクスピアソネットは、本作において重要な要素として存在しています。ロドニーとの会話のなかで引用されている「ソネット116」からは、彼の秘めた心情を汲み取ることができます。

実ある心の婚姻に、許すまじ、邪魔だては。
世は移り、人は変われど、まことの恋は
摘まれて朽つる花のごとく
はかなきものにあらざれば。
そはさながら天の一角に
嵐を下に見て、巌としてゆるがざる、
かの不動の星、荒波に揉まるる小舟の
変わりなき道しるべ、
いと高く輝きて、限りなきものを内に秘む。
まことの恋、そは時の道化にあらず
よし、あえかな唇、ばらのかんばせは、
時の利鎌の一振りにうつろうとも
恋はかりそめならずして
世のきわみまで恋うるなり。
変わらぬ恋は世になしと証しさるれば
わがすべての詩はむなしく
およそ人のすべての愛もまたむなし。

そしてロドニーは、「本当にすばらしいのは、彼も我々同様、悩み多き人の子だってことだろう」という言葉で繋ぎました。レスリーへの想いからソネットの混同(18を思い起こす際に116を連想した)があったことから、ここで引用される「実のある心の婚姻」とはロドニーとレスリーが対象であると受け取ることができます。レスリーの墓碑の上に落ちたロドリーの赤いシャクナゲは、レスリーをしのぶ思いを連想させ、涙や悲しみが表現されているように見えます。ロドリーの心にあるレスリーへの強い想いがソネットの混同を生んだと考えられます。


この物語では、ジョーンが自己本位な心に気付き、それを認めようとする自省的な感情と、愛情から行動を起こしているという自己正当化による煩悶が入り混じりながら、それでも家族を愛するために回心しようという善行的な進み方をします。しかし、本当に大切なものは「勇気」でした。レスリーの勇気を讃えたロドニー、非難したジョーン、ここに根本の相違があったのだと終盤に向けて提示されていきます。ロドニーの寛大な心は幸福に結びつくのか、そこにも何らかの勇気は必要ではないのか、愛する勇気は双方に必要がないのか、読後も考え続けさせられる作品となっています。

謎解きの事件は起こりませんが、最後まで感情を揺さぶられ続ける興味深い作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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