RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

アンナは兄のオブロンスキイの浮気の跡始末に、ペテルブルグからモスクワへと旅立った。そして駅頭でのウロンスキイとの運命的な出会い。彼はアンナの美しさに魅かれ、これまでの放埒で散漫だった力が、ある幸福な目的の一点に向けられるのを感じる。


十九世紀ロシアを代表する二人の偉大な作家、フョードル・ドストエフスキーレフ・トルストイ。内なる感情の劇的な興奮やその明暗に渡る高揚を、奥の奥まで突き詰めたドストエフスキーに対し、トルストイは当時の社会そのものを詳細に描きながら思考の流れや意識の動きを初めて読者に提示しました。トルストイは、大作『戦争と平和』の後に生み出した本作『アンナ・カレーニナ』で、主要な登場人物の心の声を通して、置かれた立場から揺れ動く思考を情景描写の流れに合わせて見事に描き出しています。その思考は意識を通して行動に繋がり、心理的な描写を映し出すリアリズムとして完成されています。冒頭に打ち出される「幸せな家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という言葉から生み出された原則は、1870年代当時のロシアを背景に、上流社会から下層社会まで幅広く描きだして証明されていきます。それぞれの登場人物が置かれた立場から、必要な礼儀、抑えられない衝動、譲ることのできない誇り、守るべき世間体、貫きたい愛などに苦悩し、感情と行動が絡み合う物語は、人間の持つ魂の闘争とも言える様相を呈しています。


本作の主軸となる二人の登場人物、アンナ・カレーニナとレーヴィン(コンスタンチン・ドミートリィチ)は、物語も交互に進行して対比的に描かれています。愛のために家族を捨て、自分と他人の人生を台無しにする世俗的な女性と、家族に愛と真実を求める理想主義的な地主という二人から、社会とは、立場とは、家庭とは、愛とは、といった問題に焦点を当てて様々な要素から切り込んで描いています。これによって作品には、善悪の混沌が渦巻いた道徳的統一性の欠如が現れ、主観と世間という観察眼の相違から、各個人の主眼が社会の断片を映し出させています。また、心の中で繰り広げられる思考の流れが魂の底にまで辿り着き、非常に深い位置での心理的な変化あるいは発達が見えてきます。登場人物たちはそれぞれ象徴的な立ち位置(アンナは破滅的なファム・ファタル、レーヴィンは堅固な意思を持つ地主、ウロンスキイは好色の貴公子)にあるものの、各自の意思や思考によって独自の性格が現れ、一辺倒の社会の典型とは成り得ない個性を持たされています。その効果は彼ら自身にも及び、彼らの思考や意識が魂を形成し(あるいは掘り起こし)ており、その結果がより一層にリアリズムを構築しているところに、トルストイの恐るべき筆致と物語構成力を感じることができます。心理学的見地にまで辿り着いている心象描写は、彼らの自己欺瞞や傲慢といった、人間だからこそ持ち得る醜さが如実に現れ、彼らの衝突から生まれる熱量が物語をより深いものへと昇華しています。特に、場面や対する人々によって移り変わる彼らの態度の変化は、ドレスのように着飾るような見栄や驕りとして表面に現れ、それを受けた側の見透かした接し方に、当時の社交のなかで行われた醜さが描かれ、社会性を浮き出しています。


アンナは良人への裏切りに対して、自分を責めるような思考は持っていません。好きな人を愛すること、そして自分らしくいようとすることに固執し、その行為さえも満たされることがありません。トルストイはアンナを非常に魅力的に描いています。容姿や仕草を、誰もが惚れ込むような形容で、そして登場人物たちは実際に褒め上げています。しかしながら、その自己本位な思考回路は、心理描写を通して読者に疑問と不快感を与えます。トルストイ自身、夫人として求める貞淑さをアンナの行動によって反面的に表現していますが、反対に男性が欲情を抑えられないほどの魅力を持ち合わせていることも同時に表現しています。この矛盾は、彼が抱いていた両面の男性としての感情から出ているもので、良人カレーニンと情夫ウロンスキイがそれぞれ抱く感情として見えてきます。一概に区別できない人間的な感情がリアリズム的であるとも言えます。


アンナを軸にして破壊的な愛、そして積極的な愛の物語を語っていますが、これは当時の家父長制社会における女性にはあまり見られない行動でした。彼女の根源にある「誇り」は魂に根付いているもので、男性に従うべきであるという世間的考え自体は頭で理解していますが、魂では従順になれずに相手を屈服させようと行動します。その意思の強さによる言動が情熱的で燃え上がる欲情を演出し、ウロンスキイを真剣な恋へと導きました。しかしながら、欲情同士が結び付き、苦労も好まない二人は互いに心がすれ違っていきます。諍いが多くなると堅固な魂は憎悪の方へと傾き、アンナはウロンスキイを激しく求めながら激しく憎みます。家族を裏切り、世間から見放され、頼る知人も消え、身を委ねた社交界からは爪弾きにされたアンナは、そのいずれにも屈服したくないという傲慢な誇りを守るため、彼女は自己解放としての死を選びます。そしてこの結末は、アンナとウロンスキイの初めての出会いのときに警備員の礫死体を目撃するという形で提示されていました。


なぜカレーニンは離婚しなかったのか、アンナは離婚を願わなかったのか、という問題がありますが、これには当時のロシアの法律が関係しています。弁護士がカレーニンに説明していますが、離婚が成立するための理由が三種類に限られていました。一つ、配偶者の一方の長期不在。二つ、出産を妨げる身体的障害。三つ、証明された不倫。不倫の証明は、配偶者の一方が三人の証人の前で不倫の事実を文書などを用いて証明しなければなりません。この場合、有罪判決を受けた人間は配偶者の存命中は結婚する権利を失います。カレーニンの場合は、この三つ目の方法のみが可能でした。しかし、このときの彼は聖性に魂が包まれ、妻の名誉と将来の幸福を危険にさらさないようにするため、三人の証人へ彼自身が姦通をしたと偽りの証明を行おうとまで考えてアンナへ離婚を提案しました。しかし、アンナの堅固な魂はこれを「屈服」と受け取り、恵みの提案を放棄してウロンスキイとイタリアへと逃げていきます。これによってカレーニンの不興を買い、離婚の成立は果たせませんでした。


アンナにとってウロンスキイへの欲情は、敷かれた道を歩むような今までの人生から新たに芽生えた「自己の情熱」のようなものでした。何不自由なく、家族、親族、世間、社交界に受け入れられていた生活を放擲してでも手にしたい「本物の自我」でした。これは、抑圧された女性の立場から爆発した悲劇的な情熱であったとも考えられます。社会に対してアンナが大々的に不倫関係を公表していたことは、トルストイによる当時の父権制社会に対する批判的な態度の描写としても受け取ることができます。


もう一方の軸であるレーヴィンは、無信仰でありながらも堅実で生真面目な人間です。1861年農奴解放令後に、農業はどのように発展すべきかと、地主の立場で考えます。歳下の女性キチイに対する純粋な思いや、彼女に手を出そうとするウロンスキイへの嫌悪、彼女の義兄オブロンスキイとの親交など、いずれの行動にも沈思黙考するレーヴィンには、真剣に物事を考えて自己を省みる神経質な精神を感じ取ることができます。彼の心の声の描写は、悲観的で自分を苦しめるような結論へ導くことが多く、その苦しみが感情を昂らせて接する人との口論を繰り返すということもあり、周囲は彼の持つ真剣な心よりも当たり散らす変わり者という見方をしてしまいます。しかし、彼の本質的な自己犠牲と正義に溢れる魂に触れるキチイは、彼を後押しするように、支えるように、自分の意思を奥ゆかしく伝えていき、やがて結ばれます。


レーヴィンは自身を愚かしい存在であると理解し、無信仰であることにごく自然な認識を持っていました。しかし、キチイと結ばれるとき、結ばれたいと願うとき、そこに聖性の欠片を見出します。神という存在を認めないながらも、信仰心が芽生えるという奇妙な感覚に襲われながら、厳粛な結婚式を挙げることになります。式の最中、神父に対してはその信仰心が動きませんでしたが、キチイと視線を交わすたびに何かが脳裡を過ぎっていました。その後、無信仰である自分がキチイと結ばれて暮らすことは認められることなのであろうか、という疑問が浮かびます。そしてキチイは身籠り、出産を迎えるとレーヴィンは只管に救いを願います。「──主よ、あわれみたまえ!ゆるしたまえ、助けたまえ!──」無信仰である彼が熱心に乞う祈りは、彼の全存在を包むものに対してであるに違いなく、故に神への信仰が成ったのだとも言えます。


無信仰のなかの信仰は、崇拝する対象を定めないままに生まれた真の信仰心から生まれたものです。レーヴィンの無信仰な心に「信仰心」を与えたものは「愛」です。キチイへの愛、キチイからの愛、キチイと築く家族の愛、これらの愛が信仰を持たせました。一方のアンナは「恋」を追い求めていました。灰色に染まった景色の結婚生活に鮮やかな欲情を見せたウロンスキイとの出会いが、能動的に自分の人生を謳歌するための恋を与えます。ウロンスキイへの恋、ウロンスキイからの恋、全てを投げ捨ててでも結びつけたい恋、これらの恋が全ての信仰を排除して、神を冒涜した行為に及びます。この対比で明確な違いを挙げるならば、それは「主体が己か、相手か」ということが言えます。レーヴィンが本来持ち得ていた自己犠牲と正義の心が相手(キチイ)を幸福にしたいと真に願い、自らの欲望を抑えつけて大切にしようと努力します。対して、アンナに芽生えた欲情は社会や世間から見た幸福は望まず、己(アンナ)の恋が望むもの(ウロンスキイの心の全て)を強く願います。レーヴィンとアンナは、守りたいという意思と手に入れたいという欲望の対比を「信仰」という題材によって、結末さえも対比的に描かれています。

 

もしこの信仰をもたず、自分の欲得のためではなく、神のために生きなければならぬということを知らなかったら、おれはいったいどんな人間になっていたか、またどんな生活を送ってきたか。掠奪を働いたり、うそをついたり、人殺しをやったかもしれぬ。現在おれの生活の大きな喜びとなっているものなど、一つもおれにとっては存在しなかったかもしれぬ。


この小説は「ロシア報知」(Русскій Вѣстникъ Russkiy Vestnik)誌に掲載されたましたが、最終章は政治的な理由で掲載されませんでした。自費でもって義勇兵として戦争に参加し、セルビアへと向かったウロンスキイに対して、登場人物たちの会話のなかで批判的な意見が交わされていたことが問題でした。この自費で出征する義勇兵は、尊敬されるべき行為であると国が誘導したいという意図があったためですが、平和主義なトルストイはこのような意見に賛同はできませんでした。また、実際に義勇兵たちは「死に場所を求めるようなもの」として認識されていましたが、ウロンスキイは情婦の死による悲しみから逃れるという動機であったため、批判的な意見が出るのも当然であり、当時の社交界では出世も発展も見えないような人々はそのように出征していたという事実もあったからこそ、トルストイはこのような思想のない気紛れとも言える行動を批判したのだと考えられます。

 

アンナ・カレーニナ』は芸術作品としての完成度が高く、現代のヨーロッパ文学においてこれに匹敵するものはない。

フョードル・ドストエフスキー


アンナの激しい性格と行動に目を奪われがちですが、レーヴィンの深い思考と意識の変化、そして信仰への目覚めは読む者に力強い光を当ててくれます。傑作と呼ばれる本作『アンナ・カレーニナ』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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