RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『いさましいちびのトースター』トーマス・M・ディッシュ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

だんなさまは、いったいどうしたんだろう?森の小さな夏別荘では、主人に置き去りにされた電気器具たちが不安な日々を送っておりました。ある時ついにちびのトースターが宜言します。「みんなでだんなさまを探しに行こう!」かくしてトースターのもとに電気毛布、掃除機、卓上スタンド、ラジオなどが集結し、波乱に満ちた冒険の旅に出たのですが……けなげでかわいい電気器具たちの活躍を描く、心温まるSFメルヘン!


第二次世界大戦争後、あまり戦禍を被らなかったアメリカでは特需景気が巻き起こり、資本主義的に世界を牽引するようになります。娯楽や歓楽が賑わう一方で、音楽や文学などの文化的発展も著しく成長しました。そのなかでも、娯楽作品として認識されていた「サイエンス・フィクション」という文学区分は、戦争という経験によって大きく進化します。化学と戦争の関連性、空想でしか有り得なかった荒廃的な世界、ファシズムの持つ恐怖など、現実体験によって刺激された想像力が「新たなサイエンス・フィクション」を構築して文学的な作品を多く生み出していきました。異世界的に描かれ続けていた舞台には、主義や思想、哲学や諷刺が織り込まれていきます。戦後から1960年頃までこの成長は続き、サイエンス・フィクションによる社会諷刺が力強い運動となって広まっていきました。しかし、このような破滅や滅亡を題材とした作品群はエスカレートを始め、暗く過激な作風は読み手を辟易させていきます。この倦怠的な風潮を脱却させたのが、「ニュー・ウェーブSF」の筆頭ジェイムズ・グレアム・バラードです。過激性のインフラ合戦になっていたサイエンス・フィクションを見つめ直し、外的な要因ではなく人間の内面に焦点を当てた新しい視点によって描かれる作品は、読者を強く惹きつけただけでなく、作品自体の文芸性をより高みへと導きました。今までの外宇宙から内宇宙(インナースペース)へと視点を移して描き出す作風は、他の文学性を備えた心理描写によって、含まれる文芸性はより幅広いものに進化しました。この「ニュー・ウェーブSF」を代表する一人がトーマス・マイケル・ディッシュです。


1970年代はアメリカにおいて家電製品が目紛しい進化を見せていました。Mr.Coffeeのコーヒーメーカーを皮切りに、ホットドッグ専用トースター、同じ型のクッキーを簡単に並べることができるパーティピストル、卓上に置くことができる小さな冷蔵庫や、コーヒーやソーセージを同時に作るトースターなど、ユニークな製品が数多く生み出されます。このような家電製品を販売する小売業も隆盛を極め、次から次へと販売しては新たな製品が店頭に並びました。しかし、1980年代に入ってから、小型でリーズナブルな日本車がアメリカで受け入れられ始めると、それに伴って日本の小型家電製品も同じように普及していきます。小売店の店頭には日本から輸入された家電製品が並び、アメリカメーカーの品物は影を潜めていきます。このような経済の流れは、アメリカの鉄工業やガラス工業といった車部品を請け負っていた会社、家電製品を任されていた工場などに大きな被害を与えました。そしてこの貿易摩擦によって、ジャパン・バッシングといった反日キャンペーンが行われ、通商に関わる規制が取られていきました。


このような不遇を受けたアメリカのユニークな家電製品は、現代ではレトロ趣味として受け入れられ、デザインや発想を維持したまま、安全な設計によって多くの人々に楽しまれながら愛されています。そして、これらの家電製品が主となる冒険活劇を描いたのが前述のディッシュであり、本作『いさましいちびのトースター』がその作品です。別荘に置き去られた時代遅れの家電製品たちは、主人の不在を慮り、自分たちだけで主人の住まいへと向かおうという、寓話的な活劇が繰り広げられます。


擬人化された家電製品たちは、驚くほどに動き回ります。主人を思う一心で力を合わせて、各々の電源コードを翻しながら森を颯爽と突き進みます。車の予備バッテリーを活用して、キャスターを付けた椅子に乗っかって、雨に降られながら傷つきながらも、懸命にひた走ります。危険なことは人間に見つかることで、その瞬間に身体は固まってしまいます。それを避けるために、見つからないように、ハイウェイを避けて向かっていきました。トースター、掃除機、ラジオ、電気毛布、スタンドライト、彼らは各々に自己を持っており、誇りもしっかりと秘めています。しかし彼らは大きな問題に直面します。川を渡る必要がありました。彼らは立ち止まり、近くに置かれたボートを見つけて意見が分かれました。勝手に用いて良いものか、泥棒と同じ行為なのではないか。意見が割れている間にボートの持ち主がやってきて、彼らの身体は硬直します。そして、彼らはその持ち主に連れ去られてしまいました。そこから寓話らしく、『ブレーメンの音楽隊』を彷彿とさせる展開によって危機を脱して冒険の終わりが見えてきます。


児童文学とも言えそうなこの物語には、当時のアメリカで問題視されていた「資本主義における産業労働者の窮状」を表現しています。日本の家電製品によって目紛しく市場が掻き乱されたことで、アメリカメーカーなどの産業側は大きな被害を被りました。そして、そのもとで労働に励んでいた人々は職を失われて危機的な状況に陥りました。この環境に負けまいとする意思を束ねた「労働者間の結束」を、実に明快で軽快に擬人化された家電製品たちは見せつけてくれます。さらにディッシュは、辿り着く結末で見事な新天地を彼らに与え、窮状脱出の自発的な行為を称賛しています。


このディッシュによる人道主義的な描写は、作中の随所でも感じ取ることができます。ボートを使用するか否かの場面でラジオから流れる「各自の能力に応じて働き、各自の必要に応じてとる」というカール・マルクスの言葉は、自然と心に響きます。また、電気製品たちによる冒険活劇は当然ながら人間たちには知られず、主人も気付かないままに終幕を迎え、彼らは新天地で「主人のために働く幸福」を手に入れることができます。主人への従順さと自己の幸福を誤解しないように、自身が見極めて行動することが必要だと訴えているようにも感じられます。

 

それにしても、なんとたくさんの品物がこのゴミ捨て場にほうりこまれていることか!しかも、ベビー・カーとおなじように(また、それをいうなら、電気器具の一行とおなじように)まだ充分役に立つのにです。ヘアドライヤーや四段ギアの自転車、湯わかし器やゼンマイじかけのおもちゃ、どれもこれも、ほんのちょっと修理してもらえば、まだ何年もはたらくことができたでしょう。それがぜんぶゴミ捨て場にほうりこまれているのです!


本作はサイエンス・フィクションとして世に知られていますが、ディッシュは寓話を意識して執筆しています。このことは『いさましいちびの仕立屋』から捩った題名や、『ブレーメンの音楽隊』のオマージュなどからも、裏付けされています。しかしながら、込められたメッセージには社会を生きる大人にも響くものであり、彼もそのような対象を意識して描いています。組織への帰属意識が持つ危険性と、自己の幸福を見失わないようにという訴えは、現代の我々にも通用すると思われます。読みやすくも考えさせられる本作『いさましいちびのトースター』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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