RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

ヴェニスの若き商人アントーニオーは、恋に悩む友人のために自分の胸の肉一ポンドを担保に悪徳高利貸しシャイロックから借金してしまう。ところが、彼の商船は嵐でことごとく遭難し、財産の全てを失ってしまった。借金返済の当てのなくなった彼はいよいよ胸の肉を切りとらねばならなくなるのだがーー。機知に富んだ胸のすく大逆転劇が時代を越えてさわやかな感動をよぶ名作喜劇。


種本として中世イタリアの物語集『イル・ペコローネ』(阿呆)の一つから取られており、借金、貿易、ユダヤ人、人肉担保、法学博士、求婚など、大筋の設定が活かされています。


当時のユダヤ人は、イギリス内での地位や富に関わらず、人間以下の扱いを受けて社会から排斥されていました。当時のキリスト教下において、ユダヤ人がイエス・キリスト磔刑に処したとされていたことが一つの要因です。人間として、人間の感情を持って、人間の身体を持って、意志を持って、ただ暮らしているだけでも、通りを歩くだけで罵詈雑言を浴びせかけられます。次第に生活できる環境は狭まり、大手を振って歩くことができなくなっていきます。そうなると生きる道は闇の中へと突き進まざるを得ません。当時のキリスト教下では金利貸しが蔑視されていましたが、実際には当然の如くに需要があり、闇取引が多く行われていました。ここにユダヤ人たちが流れ着きます。蔑視されている者が蔑視されている職を持ったところで、借り手にとっては関係なく、金銭と証文が全てであるという環境でした。この生業を大きく成長させたユダヤ人の成功者たちは、富を武器にイギリス人たち、キリスト教徒たちと正面を切って話をすることができるようになりました。それでも蔑視されていることには変わりなく、借りていることを棚に上げて、金の亡者、守銭奴などと口罵られることが多くありました。


1594年にエリザベス一世を暗殺しようと企てられた事件がありました。主犯はポルトガルユダヤ人の侍医ロダリーゴ・ロペス(ロデリゴ・ロペス)で、被告として裁判を受け、六月に処刑されました。前述の種本における金貸しのユダヤ人と掛け合わせて、本作の登場人物シャイロックが誕生しました。


シャイロックは悲劇的な人物として象徴的に描かれています。登場するすべてのイギリス人に毛嫌いされ、妬みすらない者からさえ、嫌悪を面と向かって吐き出されるような扱いを受けています。過去に理不尽な暴力さえ受けている発言も見られるほど、人間として扱われず、イギリス人たち、クリスチャンたちに対して憎悪を募らせています。そのシャイロックが合法的に直接の制裁を加えることができる千載一遇の機会を得て報復に直走るものの、裁判における詭弁と多勢の敵視に脅しのような反論を受けて心を折られてしまいます。培った豊かな富を法的に取り上げられ、残りの生涯さえ憎きキリスト教へと強制される人道破壊は、行末の苦悩を大いに想像させられ、極限までに悲劇的であると言えます。


しかし、本作が喜劇として括られている以上、喜劇的人物(喜劇における役回り)を演じる側面が見られます。寓話における悪役としての極端な性格や言動は、他の登場人物たちの清浄な友情を際立たせ、大団円を演出する強固な試練として存在感を放っています。当時のイギリスではユダヤ人がそれほど多く歩き回っていたわけではなく、一般人にとっては見たこともないような存在として認識されていました。宗教的敵視だけが強まり、より一層に悪魔的な印象を持たれていたと言えます。だからこそ、観客側、演者側、ともにこのような認識に対して罪悪感が薄く、喜劇の悪役として平然と蔑視していたことは、ある意味で自然な状況でした。


アントーニオーがシャイロックへ借金をすることになった理由であるバサーニオーのポーシャへの求婚では、箱選びという困難があります。王族を恋敵として行われる金、銀、鉛の三つの箱から正しい箱を選ぶという試みは、世界中の数々の寓話に認められるように人の欲に対する教訓を帯びています。自身にとって何が重要か、何を求めているのか、自身をどのように評価しているか、自負と傲慢を秤にかけられるような試練に挑みます。ポーシャの好意も幸いして、バサーニオーが無事に乗り越える場面では、彼の境遇と友情の恩恵に報いようとする純粋な意志が感じられて、観るものの心の清らかさを刺激します。


喜劇として見られる主筋のアントーニオーとバサーニオーの純真潔白なる友情は、犠牲と苦悩と幸福が見事に織り交ぜられて、美しさと安堵が広がる幕引きとなっています。そして、妻たち女性の機転が救いとなり、男性たちよりも数段聡明に描かれている点も、エリザベス一世に対しての敬意を含みながら、穏健なその後の夫婦生活を想像させられます。

また、終盤に於いて、指輪の授受によってさらに愛を深める二つの夫婦は、物語の最後を喜劇らしい空気で締めくくります。直前まで束縛されていた死と恐怖の圧力から解放されて、より一層に明るい印象で幕を下ろします。

裁判と大団円の場でグラシャーノーの発言が、シェイクスピア劇における道化的(観客目線)な役割を演じ、観客(読者)の気持ちを煽って物語の高揚を牽引する効果を生み出しています。喜劇に求められる安堵と爽快感は、観客の感情を巻き込んで明るい雰囲気に包まれて幕を閉じます。

 

慈悲は強いられるべきものではない。恵みの雨のごとく、天よりこの下界に降りそそぐもの。そこには二重の福がある。与えるものも受けるものも、共にその福を得る。これこそ、最も大いなるものの持ちうる最も大いなるもの、王者にとって王冠よりふさわしき徴となろう。手に持つ笏は仮の世の権力を示すにすぎぬ。畏怖と尊厳の標識でしかない。そこに在るのは王にたいする恐れだけだ。が、慈悲はこの笏の治める世界を超え、王たるものの心のうちに座を占める。いわば神そのものの表象だ。単なる地上の権力が神のそれに近づくのも、その慈悲が正義に風味を添えればこそ。


それでも、観劇後(読後)には心に引っ掛かるものが残ります。シャイロックの印象付けた彼の悲劇的結末、誰かを排斥して大団円を結ぶという不条理は、諸手を挙げて喜ぶような感情は生まれません。確かに、法を悪用して恨みを晴らすために人の生命を奪おうと試みたことには、破滅的な罰が必要ではあります。しかし結果的には、ユダヤ人差別を肯定的な思想として登場人物の全員が受け止め、彼が抱いた恨みの根本を何ら解決されることなく追い出してしまいます。

世の風潮に合わせて、喜劇の一要素としてユダヤ人の扱いを取り上げたシェイクスピアですが、喜劇として仕上げるにはあまりにも印象の強いシャイロックという人物を立ち回らせたことには、観劇後に我々が抱いた違和感を当時の観客にも気付いて欲しいという意思が感じられます。明確なユダヤ人排斥に対する反対意識ではなく、キリスト教における慈悲の在り方、慈悲の対象が限定されてしまうという考え方自体に、シェイクスピアは疑問視を抱いていたように思います。


現代の我々の価値観を鑑みて観るならばらシャイロックが改宗を受け入れる、つまり迫害を受け続けながらも誇りを貫き続けたユダヤ人が、敵とも言えるキリスト教へと改宗する苦悩は計り知れないものであり、唯一の「法の保護」からも見放された絶望の極致での決断であると考えられます。だからこそ、観劇後(読後)の不条理が漂う違和感を抱くのだと考えられます。


問題劇としての側面を持ちながらも、主筋は喜劇として構成された素晴らしい作品となっています。時代を跨ぎながら、思考を巡らして読むと、心に幾つもの感情が生まれます。現代の社会を見つめ直すきっかけともなるこの作品、未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

 

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