RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『二人の貴公子』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

古代ギリシアを舞台に、従兄弟同士の騎士が王女の愛を競い決闘する。新たにシェイクスピアの作品と認定された傑作戯曲!人間の運命がもたらす悲哀を謳い上げた五幕の悲喜劇。


近年の研究により、ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)の執筆と認められる作品が増えています。シェイクスピアは国王一座の作家であったことから、演劇台本を書くことが仕事であり、役者が演じるために用意するものであったことから、署名の無い作品が多数存在していました。本作『二人の貴公子』も同様に正規作品と見做されていませんでしたが、初版のタイトルページに名前があったこと、そして文体研究の賜物から、シェイクスピアの後継者ジョン・フレッチャー(1579-1625)との共作であることが概ね認められました。一般には、シェイクスピア最後の執筆作品として研究が続けられています。


ジェフリー・チョーサーカンタベリー物語』の中にある「騎士の話」が大筋として使用され、展開や登場人物に変化をつけて独自の演劇に仕上がっています。王であるテーセウスは婚姻の式典の直前に、三人の寡婦に足を停められます。敵国の軍勢に夫を亡き者にされ、死体もそのままに遺棄されていると嘆き、報復の助力を求めます。妃ヒッポリテと妹エミーリアに説得され、彼は自軍を動かして敵国へ進軍させます。軍勢は、手に掛けた騎士二人を捕らえて戻ると、テーセウスは闊達で快活な二人に感動して、即処断ではなく投獄の指示を出します。二人は牢内で友情を誓い合い、互いを称え合います。しかし、そこにエミーリアを見ると二人ともが恋に落ち、一転して恋敵へと変化します。騎士の一人アーサイトはテーセウスの好意により牢から放たれ、自国へ戻りこの地へ戻らぬよう約束をさせます。エミーリアを忘れられないアーサイトは変装して戻り、五月祭の催しに参加して近付こうと試みます。一方、もう一人の騎士パラモンは、牢番の実娘に惚れられて脱獄を助けられます。変装したアーサイトと脱走したパラモンは森の中で出会い、決闘を約束します。


獄中での二人は憂いながらも改めて友情を誓いあい、騎士然として立派な態度を見せます。しかし、直後に現れたエミーリアへ恋した二人の恋心は、互いに奪い合おうとする醜い言い争いを起こします。この場面における急激な態度の変化は恋の熱情が起因ではありますが、あまりに不自然です。これは、彼らを支配する感情が「友情」ではなく、騎士としての「名誉」であったが故に、互いを尊重して契り合っていたと考える方が自然であると言えます。「二つの魂が二つの高貴な体に宿っている」という言葉からも見られるように、二人の精神には根源的な隔たりがあります。当時の慣用されていた表現に当てはめると、絆の強い友情は「一つの魂」と言われ、アーサイトの言葉からとは決定的に差が見えます。また、エミーリアを巡って「死」を恐れずに相手を凌駕しようとする名誉欲は、純然たる騎士同士の決闘心からくるものであり、味方(友情)の繋がりは薄いと言えます。


また、パラモンに惚れた牢番の娘は、命を懸けて逃走を補助します。激しく純粋な恋心は、大胆な行動を呼び起こします。一方、救われたパラモンは心からの感謝を込めて接するものの、彼女の恋には一切応えません。エミーリアへの想いの強さは常に表現されていますが、同時に身分の大きな隔たりも見えます。恋愛の対象とならない原因としては、彼女の献身が仕える身分であれば当然の行為と受け止められていることが考えられます。また反対に、パラモンの騎士道が娘に優しく映り、娘の恋心をより加速させていることが不遇を助長させています。気持ちが伝わらない、自分を求めようとしないパラモンの感情に、娘の精神は崩壊していきます。精神を治そうと牢番は医者を呼びますが、パラモンの代役を立ててまずは心を落ち着かせようとさせます。以前から気持ちを寄せていた求愛者は喜び勇んで娘に近付こうと努力します。


テーセウスの計らいにより決闘で決着をつけることとなったアーサイトとパラモンですが、エミーリアの受け入れる姿勢は絶望感に溢れています。彼女の過去の描写から女性同士の絆を重んじる性格が見えますが、エロティックな表現が織りぜられており、同性愛的な印象も受けます。決闘前にどちらかを選択して双方の命を救おうと考えますが、言葉で二人の貴公子を褒めながらも選ぶことができない独白は、真の性的感情が感じられず前述の印象をより濃くさせます。


決闘を始めるにあたり、アーサイト、パラモン、エミーリアがそれぞれ祭壇に向かって神々に祈ります。アーサイトは決闘に勝利するために軍神マルスに、パラモンは恋を成就させるために愛の女神ヴィーナスに、エミーリアは貞淑の月の女神ダイアナに。本作ではテーセウスの弁舌を代表として、数多の神々の名が挙げられます。そして、運命と神々の関係性に説得性を持たせる流れを演出しています。決闘はアーサイトに軍配が上がります。しかし、いざパラモンの処断という場面で物語は一変し、テーセウスの声で命が救われ、彼はエミーリアを手に入れて結ばれます。マルスが勝利を与え、ヴィーナスが恋を与えたのでした。描かれない結ばれた後のエミーリアにダイアナはどのような操を与えたのか、二人の神の賜物から想像するのみですが、固く守り通したのではないかと考えられます。また、牢番の娘も月の女神に祈ることから考えられるように、操を重視しています。パラモンになりすました求愛者に対し、夢うつつながらも接吻を本能的に拒否する場面には神の助力が働いているように見受けられます。テーセウスの言葉からも見てとることができるように、本作では、プロビデンスキリスト教下における神の摂理)が強く主張されています。

これが勝利ですか?ああ、天の神々よ、お慈悲はどこに?神々がこれでよいのだとおっしゃるのでなければーーこの私に生き永らえて、最愛の友を失った惨めな貴公子を慰めよ、全女性よりも貴重な命を自分から切り離したこの方を慰めよとお命じになるのでないとしたら、私は死ぬべきだし、死にたいと思います。


冒頭の三人の寡婦から重い死の印象が漂い続ける劇中を、挿入されるモリスダンスによって引き起こす五月祭の祝祭的雰囲気が死の緊張を緩和させ、そして怒涛に流れる結末で現実的な死を突き付けるという空気の落差は、読む者の気持ちを揺さぶります。本作は、名誉と愛、絆と運命を対比的に描いた問題劇と言え、騎士道の見直しを訴えています。騎士の心は決闘という暴力を生み、築いた絆を断ち切る悪的側面を持っています。また、女性の意思尊重も問題として提起されており、心の在り方を現代の読者にも訴えるものとなっています。


紙では非常に入手し辛くなっていますが、電子書籍が用意されているので、ぜひ読んでみてください。

では。

 

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