RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『終わりよければすべてよし』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

前伯爵の主治医の遺児ヘレンは現伯爵バートラムに恋をしている。フランス王の難病を治して夫を選ぶ権利を手にし、憧れのバートラムと結婚するが、彼は彼女を嫌って逃亡、他の娘を口説く始末。そこでヘレンがとった行動は──。善と悪とがより合わされた人物たちが、心に刺さる言葉を繰りだす問題劇。


この作品は1601年から1606年の間とされており、一般的にシェイクスピア作品のなかで「問題劇」と呼ばれる『トロイラスとクレシダ』及び『尺には尺を』などと共に括られています。三作どれもが、暗く苦い笑いと不愉快な人間関係を軸に描かれており、これはシェイクスピアの喜劇時代に執筆された『十二夜』や『お気に召すまま』のような幸福感が表現されている喜劇とは明確な違いが見られます。本作『終わりよければすべてよし』は喜劇でありながら、そのシニカルな心的リアリズムが強調されていることで、当時を含めてあまり上演されることはありませんでした。特に作品前面に出される現実的な性的関係性や、家父長制における身分違いの一方的な恋の成就は、観客が理解して受け入れることが困難であったと考えられます。


国王さえも認める有能な医師の娘ヘレン(ヘレナ)は、父を亡くしたのちにルシヨン伯爵夫人に抱えられ、養われています。この伯爵夫人の息子であるバートラム伯爵はフランス国王の元へと仕えに行きますが、ヘレンは彼に一途な恋愛の感情を抱いています。美しい容姿と闊達な性格で魅力に溢れていたヘレンですが、身分の低い生まれであることから貴族のバートラムは彼女に対して冷淡であり、恋の成就は非常に困難な状況にありました。しかし、国王が病気であるとの知らせが届くと、彼女はフランスへと向かって国王に謁見を願い、命懸けで王の信頼を得て、亡き父親から受け継いだ秘術を用いることで病気を治療します。その貢献の対価として、ヘレンは国王配下の男性を自由に選び結婚することを望みました。名指したのは当然、バートラムです。しかし彼はその婚姻を激しく嫌悪し、急ぎフィレンツェ公の軍へと参加して、実質的に結婚から逃亡しました。そしてヘレンは伯爵夫人の元へと返されると、バートラムからの手紙を受け取ります。彼の指から代々受け継がれる指輪を手にし、彼の子をヘレンが妊娠しなければ、真実の配偶者とはならないという不可能とも言える条件を突きつけられます。伯爵夫人は取り乱し、ヘレンは「巡礼の旅」へと向かうためにルシヨンを出発しました。

フィレンツェでは、バートラムが公爵軍の将軍を任されており、自信も生気も取り戻している様子でした。ヘレンは巡礼の旅の途中に訪れた街で、バートラムが美しい処女の娘ダイアナを熱心に口説いていることを知ります。このダイアナとその母に近付いたヘレンは一計を案じます。ダイアナがバートラムの誘惑に応えて承諾する代わりに、彼の指輪を真実の愛の担保として欲します。そして灯りを落としたダイアナの床でヘレンが待ち受け、バートラムはダイアナと思い込んだまま二人は愛し合います。その後、ヘレンが亡くなったという虚偽の知らせがバートラムへと届き、戦争も終わりに近づいていたために彼はフランスへと帰国します。ルシヨンに到着すると、国王をはじめとして誰もがヘレンの死を悲しんでいました。バートラムは悲しみを越えるための新たな婚姻を持ちかけられ、前向きな思いで同意します。しかしその時、国王はバートラムの指に嵌められたヘレンの指輪に気付き、なぜ嵌めているのかと彼に対して激しく詰問します。それは、国王が治療の例として渡した、他に二つとない贈り物の指輪でした。バートラムは釈明に行き詰まり、言葉が出なくなっているところへ、ダイアナとその母が現れ、全ての話を暴露し、死んだはずのヘレンが登場します。罪を認めて贖罪を求めるバートラムに対して、ヘレンは全てを許して改めて婚姻の契りを結び、喜劇的な終幕を見せます。


本作は、初期ルネサンス文学の代表的な作品であるジョバンニ・ボッカッチョ『デカメロン』の第三日目第九夜から創作されたものです。シェイクスピアは、元となる閨房における人物のすり替わりや、フィレンツェでの戦争などの重要な要素は維持しながらも、ラフュー卿、伯爵夫人、パローレスなどの登場人物を追加して、より豊かな物語を書き上げました。


本作でまず目を惹く点が、老若二つの世代間に明確な対比が見られることです。劇中の年配者たちは死を恐れて悩まされています。伯爵夫人は夫を失い、自分自身も老いています。医師であったヘレンの父親も亡くなっています。ラフューは病弱であり、ダイアナの母親も夫を亡くしています。そして劇が幕を開けると、国王は死の淵に立たされています。対して、闊達なヘレン、若々しい魅力的なダイアナ、生気溢れるバートラムといった若い世代は結婚適齢期を迎えている活力旺盛な時期にあります。子を手放す親たちに迫る死の影が、本作において非常に現実的な要素となっていると言えます。親世代たちは死に悩まされていながらも、知恵と洞察力が優れており、パローレスの打算を見抜き、身分の低いヘレンの真の価値を見出し、バートラムの奔放を非難します。若年世代は、このような知恵や洞察力を持たないことによって、ヘレンの異性を評価する力の無さ、バートラムの冷淡で傲慢な思い上がりなどが露呈して、フランスの時代を担う若者たちの頼り無さを示しています。


また、シェイクスピア作品には屡々見られる「卑猥さ」が、本作では特殊な扱いを受けています。多くの作品においては、恋愛の清潔さを強調するために取り入れられることや、悪党の卑劣さを強調するために使用されることが多く見られますが、『終わりよければすべてよし』では、この「卑猥さ」こそが中心の軸となって描かれています。閨房でのすり替わりは勿論のこと、その計画を赤裸々に話すヘレンの台詞や、バートラムとパローレスの蔑視的な卑猥な表現は、作品の流れの中心の話題となって幾たびも述べられています。主題が恋愛や婚姻にありながら、視点は不快的リアリズムに焦点が当てられており、観客(読者)は醜い現実を突き付けられているように感じさせられます。付随して、男女の関係を流れの中心においていながら「清廉なロマンス」はどこにも見えてきません。中心人物である二人、ヘレンの断固的な一方通行の恋、バートラムの女性蔑視の快楽主義的な性交は、特にこの点が顕著であると言えます。唯一、救いとも言える「月の女神」の名を与えられたダイアナの純潔だけが、一服の清涼剤として輝いています。


さらには、ヘレンは愛すことには熱心ですが「愛し合う」ことには執着していません。どのようにして「バートラムを手にするか」といった行動原理さえも感じさせるほどに相手の感情は無視したまま、国王の権利とバートラムの不可能問題を活用した「栄誉」を手にすることに執着します。ここには家父長制社会で虐げられた「身分の低い女性」の欲望を描いているようにも感じられます。伯爵夫人に愛された環境とはいえ、身分の低さから与えられる貴族からの蔑視、それを受けて芽生える栄誉の欲が、ヘレンが起こす行動の原動力となっているようにも思えます。バートラムの美しさに惹かれたことに違いはないと思われますが、それ以上に、貴族へ嫁いで自らも貴族となるという目的が先行しており、だからこその一貫した行動が、観る者は恋愛感情からは理解できなくとも、ヘレン自身には理に適った一計であると頷けます。裏付けるように、ヘレンは「巡礼の旅」に出ます。キリスト教聖地巡礼を思わせる行動には、俗世からの離脱、即ち家父長制社会被害者からの離脱者となることを暗に示しているようにも取れ、彼女の行動は常に一貫していることを改めて感じさせられます。


終幕にてバートラムは、全てを明かされ国王及びヘレンの言葉に従うことになり(突き詰めれば自身の言葉を遂行しただけとも)、最終的にはヘレンと婚姻の契りを交わして大団円の空気に包まれます。しかしながら、ここまで不快的リアリズムを示してきた以上、その後の(幕後の)二人の関係は歪なものとなることは目に見えています。契りを破らないとしても、円満な家庭を築くという未来はなかなか思い描くことができません。題名『終わりよければすべてよし』というものさえ、諷刺的な気色を覚えさせます。婚姻の喜劇であれば「愛の勝利」である筈でありながら、どこかしら「権力の勝利」のような印象を受けます。このような煙に巻いたような終幕は、国王さえも「終わりがこうもめでたければ、すべてよしらしい」という曖昧な言葉を残しています。そして、このような歪な幸福感の中で実際に「幸福を感じている」人物はヘレンただ一人です。誰にとっての「すべてよし」なのか、という問いを投げるならば、それはヘレンであると言わざるを得ません。

 

人生は、善と悪とをより合わせた糸で編んだ網なのだ。我々の美徳も過ちによって鞭打たれなければ、傲慢の罪を犯すだろうし、我々の罪は美徳によって抱きとめられなければ、絶望するだろう。


シニカルな物語に仕上げられてはいますが、不快的リアリズムを認めるならば、ヘレンの渇望した「栄誉の愛」は一概に悪徳な意味合いは持ちません。原動力となる根源には、人間としての清らかさが虐げられた結果によるものであり、望む幸福に必要なものが栄誉であっただけであり、「真の悪意」からなる奸計ではなかったと言えます。だからこそ、ヘレンにとって「すべてよし」であれば、幕は降り、喜劇と成立するのだと解釈できます。晴々しい幸福感に満ちた喜劇とは一線を画す『終わりよければすべてよし』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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