こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

スタニスワフ・レム(1921-2006)は、戦間期のルヴフに生まれました。現在はウクライナ領リヴィウとなっていますが、当時はポーランドに属していました。オーストリア=ハンガリー帝国軍医師を務めていた父の意思が強く、レムは早くから軍医への道を進むように教え込まれます。1939年のソヴィエト連邦によるポーランド侵攻、その後のナチス占領によって裕福で幸福な家庭生活が崩れると、レムたち一家は偽書を用いてナチス支配から逃れる生活を送ります。大戦後、ルヴフはウクライナ領とされ、レムたち一家はポーランド南部のクラクフへと移住しました。父の計らいでヤギェウォ大学にて再び医学を学びますが、この軍医への道を逃れたいと考えたレムは最終試験をボイコットし、目指したかった文学の道へと歩み始めます。
スターリン主義下にあったソヴィエトでは、すべての文学作品出版は国家の承認が必要であったため、レムが執筆した初期の作品は検閲を潜り抜けることを意識した自伝的なものが中心となりました。しかし、自身の思想や哲学を込めた作品を描きたいという欲求は潰えず、レムは手法として検閲の網が緩いサイエンス・フィクションに目を付け、ジャンルを集中させて取り組みました。
第二次世界大戦争が終結すると、ソヴィエトは主にアメリカに対して「資本主義への対決姿勢」を打ち出し、戦前より押し進めていた社会主義というイデオロギーを改めて掲げました。こうして国民の思想は厳しい統制によって制限されるとともに、反思想的または反体制的な言動は慎まざるを得なくなります。この統制は芸術全般に強く影響を与え、文学においては、セラピオン兄弟やアクメイズムなどの文芸運動は悉く粛清されてしまいました。こうした社会主義リアリズムの強制は、やがて芸術全般の指標を「明快で理解しやすいもの」へと変化させていき、世に出される(検閲を通過できる)作品は一様に文化統制されたものばかりとなりました。
1956年、スターリンの死後にソヴィエト内の統制変化が見え始め、フルシチョフによる「スターリン批判の演説」が行われると大きなうねりとなって変化が広まっていきます。ポーランドでは指導者ボレスワフ・ビェルトが亡くなり、ポズナンでの暴動を経て、国民のスターリン主義に対する批判が露になりました。そして、ヴワディスワフ・ゴムウカが率いる民主主義改革が勢いを増し、ゴムウカがポーランド統一労働者党(PZPR)の第一書記に任命されたことで「ポーランドにおけるスターリン主義」が終わりを告げました。レムが真の意味で創作を始めたのは、この「ポーランドの雪解け」からであり、イデオロギーの圧力から解放されたように多くの作品を生み出していきます。本作『ソラリス』は、1961年に発表されました。
赤と青の二つの太陽の間を周回する惑星ソラリスは、地表の多くを海で覆われていました。この海には無機物には見られない有機的な活動が確認され、惑星が発見されて以来、解明できない謎が多く生まれています。この謎から多くの学術論文が発表され、地球では「ソラリス学」なる学問が盛んに研究されていました。ソラリス近隣に設けられた観測ステーションでも不可思議な現象が認められており、これらの謎を探るために心理学者ケルヴィンが地球より派遣されます。しかし、ソラリス到着後、すぐにケルヴィンはステーション内の異変に気付きます。先行で在籍していたギバリャンは自殺、スタウトとサルトリウスはまともに会話をしようとしない、さらには居るはずのない大柄の黒人女性を見かけるなど、謎が深まるばかりでした。そしてスタウトから、誰のもとにも「お客さん」はやって来ると聞かされ、ケルヴィンが半信半疑で構えているところに、十年前に自殺した恋人ハリーが現れます。
レム自身の言葉にあるように、本作では異星とのファースト・コンタクトが「人間同士で行われる形」では繰り広げられません。レムは作中で、「人間中心主義」「人間形態主義(アントロポモロフィズム)」といった言葉の表現を用いて、人間が「人間の知性こそ全宇宙において普遍的である」とする傲慢を痛烈な皮肉として描いています。では「人間とはなにか」という問いが生まれますが、ここにソラリスの海によって「他者とはなにか」と重ねて問いかけることで、どのような視点で両者を追求するべきなのかを模索しています。砕いて示すならば、「人間中心主義」の批判がある以上、人間にとって他者とはなにか、ではなく、他者の存在そのものを認めて受け入れる姿勢が必要であるとレムは訴えています。
レムの作品に一貫して通底する主題は、近くにいる人間の心や意思さえ理解できないにも関わらず壮大な宇宙を把握しようとする矛盾であり、やはり人間は「人間中心主義」から逃れられていないことを突きつける作品が多く見られます。ペシミシズムとも言えるこの思考からは、レム自身の生い立ち、ユダヤ人の家系にありながらもカトリックに属し、やがて無神論者となった「神の存在に対する姿勢」が反映しています。本作では、恋人ハリーの行動にその思想は映し出され、記憶をもとに造られた擬態形成体であるにも関わらず、ケルヴィンへの愛ゆえに再び自ら命を断とうとします。このハリーの意思と行動は、ケルヴィンの「記憶に求める願望」を帯びて存在化されたことが原因であると考えられ、ここにもケルヴィンの傲慢さ、いわば人間中心主義が現れていると言えます。
しかし、レムはそのような愚かな人間を突き放すわけではなく、人間の存在や心を尊重しようとしています。ケルヴィンは、惑星ソラリスに留まる道を選びました。二度と現れない恋人ハリーを待つためとも、未だに明かされない謎に包まれた海と対峙するためとも考えられます。人間と異星とのコンタクトは、人間の意思によって「人間と神」の関係性に変化します。ケルヴィンは亡き恋人ハリーへの「贖罪」を果たすために残ったのではないかと考えると、人間の愚かな思考は救済にも繋がるのではないかと感じられます。
始まりさえも覚えていないこの存在が経てきた、様々な経験や感情の一覧表だろうか?束の間の生を享けて解放された山々の願望と情熱、希望と苦悩の記述だろうか。数学が存在に、孤独と断念が豊穣に変容することだろうか。しかし、このすべては伝達不可能な知識なのだ。もしもそれを地球のいずれかの言語に翻訳しようとしても、価値と意味のあらゆる探索は無残な失敗に終わり、向こう側に残ったままだろう。しかし、結局のところ、『信者』たちが期待しているのは、そういった科学より詩学の名に相応しい新発見の数々ではないのだ。なぜならば、彼らは自分でもそれとは知らずに、〈啓示〉を待ち望んでいるのだから。それは人間自身の意味を説明してくれるような啓示なのだ!
人間の科学的探究心を傲慢で批判しながらも、人間の希望と心を尊重して滑稽でありながらも肯定する姿勢は、本質を見極めようとするレムの観察眼と美徳が作品に表れています。スタニスワフ・レム『ソラリス』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。