RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『もしもし(VOX)』ニコルソン・ベイカー 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

全編これ二人の男女の電話の会話からなるおかしなおかしな「電話小説」。しかもこの電話は会員制のセックス・テレホン。二人は想像力の限りをつくして自分たちが何にいちばん興奮するかを語り合う!全米でベストセラーとなった本書のテーマは、いわば想像の世界における究極の「H」。


ニコルソン・ベイカー(1957-)は、アメリカのニューヨーク州北西部にあるオンタリオ湖沿いの都市ロチェスターで育ちました。イーストマン音楽学校でクラシック音楽を中心に学び、ファゴットの奏者として腕を磨いていました。蒸気機関のような印象の楽器から生み出される中音域の美しい音色に、彼は夢中になり熱心に取り組んだことでロチェスターフィルハーモニー管弦楽団に加わるほどの腕前となりました。しかし、持ち前のストイックさから、自らが音楽家として進んでいくことに限界を感じ、その道を断念するに至ります。その後、ペンシルベニア州のハヴァフォード大学へ移り、英語学科を専攻して英文学へと関心を移していきます。作家という職業を早々と見据えながら執筆をはじめ、出版社や雑誌へと投稿を重ねて徐々に認められていきます。


イカーは、小説、ノンフィクション、エッセイなど、さまざまな手法で作品を生み出しています。特に彼の小説は、圧搾した多くの情報量を持たせ、それを慎重なまでの几帳面な描写で綴ります。しかし、そこには物語性を重視することはなく、寧ろ、圧搾して凝縮した情報を展開するだけで一つの作品が終わってしまうというものも存在します。世に認められた初期の作品である『中二階』や『室温』が正に該当し、前者はエスカレーターに乗っているだけ、後者は父親が赤子に授乳しているだけ、という場面で一作品が完成しています。このように、ベイカーは登場人物の意識の流れを緻密に観察し、それらを凝縮され、几帳面に綴り上げるという手法を作風としています。前述の二作品に続けて1992年に出版された本作『もしもし(VOX)』はSEX三部作の一作目とされています。(二作品目は『フェルマータ』、三作品目は『House of Holes』未訳)出版当時にSEXを主題とした作品を発表したことは、ベイカーにとって意味のあることでした。


1960年代終盤のアメリカでは、カウンターカルチャーの一つとして「ゲイ解放運動」と呼ばれる社会運動が起こりました。同性愛者が周囲の同情ではなく、明確な理解と受容を求め、性の自認とともに自己を正当に確立させる目的でした。繰り返されるデモ行進と、その他のカウンターカルチャーの勢いが合わさって、この問題が社会的に認識されるようになります。しかし1980年代に、勢いを持った解放運動のなかで重大な問題が起こります。HIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染によるAIDS(後天性免疫不全症候群)の問題です。これによりゲイの多くの人々が亡くなりました。また、その感染はゲイの人々に限らず、驚異的な広がりを見せ、社会として捉えなければならない大きな問題へと認識が変わります。社会運動となったゲイ解放運動は、ポスト構造主義へと傾倒を見せていた西洋の人文学と融合する形で、社会的に認知されるようになりました。そして、WHO(世界保健機関)が1990年に「同性愛」を精神疾患から除外し、その直後には、性的マイノリティの社会理解を目指す新しい学問「クィアスタディーズ」が生まれました。

この「性革命」とも言える出来事に合わせ、文学の世界にも多くの変化が起こっていました。特に「性の描写」に性的マイノリティの要素が組み込まれ、今までに無い読書体験を呼び起こす作品が多く生み出されました。この新たな「性の描写」にベイカーが臨んで書き上げた作品が『もしもし(VOX)』です。


本作はテレフォン・セックスのマッチングサービス「2VOX」を用いた二人の男女の会話から成り立っています。彼らは目的が明確でありながら、互いの会話を楽しむように、互いの価値観を確かめ合うように、ゆっくりと会話を行い、徐々に互いの性体験を打ち明けていきます。この近付く会話には、殆どフェティシズムとも言える独自の性癖が含められ、そしてそれに話者が同調しながら話を促していく様子が綴られます。フェードアウトする曲に隠された性的要素、傷付いた銀食器から生まれる性的空想、自慰行為における突拍子も無い性的妄想など、延々と繰り出される共感しづらい打ち明け話に、双方は理解を見せて促し、興奮を互いに高めていきます。また、読者はこの会話を盗み聴きしているような立場に追いやられるほどに会話だけで成立されており、熱心な二人の長電話に耳を傾け続けることになります。


現実と空想の境界線に起こるような出来事を話し続ける二人は、作り話が空想と結び付き、妄想が実際に電話の向こう側で起こり得ると想像し始めると、やがて性的興奮は高まっていき、テレフォン・セックスの様相を帯び始めます。これは現実世界と妄想世界は、性的思考においては混乱することを提示しているとも言え、その混乱が垣間見せる「平常の生活」からフェティシズムを経由して性的思考へと流れ込んでくる意識の動きは、人間の本能と理性の境界線のようにも思えてきます。そしてベイカーによる神経質なほどに緻密で繊細な描写が端から端まで展開され、なぜか整合性が取れている二人の会話は、近しい性的価値観を持ち合っていることを裏付けるように、互いの言葉を助長させて興奮を盛り上げていきます。実に、エロティシズムにおける人間の性的思考を会話という形式で表現したものであると言えます。

 

また、『中二階』、『室温』と同様に、本作『もしもし』でも意識の流れを凝縮させています。状況の説明なども無く、突然始まる会話は最後まで続き、この作品そのものが一度の電話の会話によって構成されています。ベイカー自身、経過単位時間当たりの最大の考えを詰め込むことを意識して執筆し、会話における思考を想像と妄想を交えて膨大な言葉で繰り広げられていきます。この二人の独白は競い合うようにエスカレートして、熱量も互いに高まっていきます。会話を方向転換し、促し、質問し、創造し、刺激し合うという繰り返しが、性的熱量と比例して高まっていく興奮も、意識の流れとして明確に見えてきます。この強い感情と情熱的な執着は、ベイカー自身の持つ個性にも繋がり、作風の一側面としても確認することができます。

 

思うに、言葉のポルノが一番刺激的なメディアであるとすれば、それは単なるイメージではなく思考を記録したもので、というか、イメージをすべて思考でくるんで差し出すものだからなんじゃないかな。下半身に限ったテレパシーとでもいうか。


本作『もしもし』は、社会運動家モニカ・ルインスキーがホワイトハウス実習生時代に、ビル・クリントン大統領にプレゼントしたという話もあります。題材のために読者を選ぶ傾向がありますが、露骨な性描写は少なく、明るい雰囲気で進められる読みやすい作品ですので、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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