RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『薔薇日記』トニー・デュヴェール 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

眩ゆい陽光と熱気のなか、何の遠慮も、隠しだてもなく描かれた少年愛の世界──無垢な魂の際限のない性の形。

スペインの仮面の街、静かな夜の裏通りで、私は毎日少年たちを選ぶ。無邪気で飾り気のない少年たちだ。食べ、歌い、そして野生の悦びに耽る。笑いと皮肉にみちた儀式、戦慄の快感、それは明るく楽しいもう一つの性の世界だ。衰弱した同性愛ではない純粋な聖者の時と美をうたう異色作。


トニー・デュヴェール(1945-2008)は、フランスのパリ南東に位置するヴィルヌーヴ=ル=ロワで生まれました。幼少期より非常に優れた頭脳で優秀な成績を収め、ピアノなど音楽の才能にも秀でていましたが、僅か八歳でその後の人生を左右する大きな経験をします。彼は三人兄弟の末っ子で兄たちに付いて回って育っていました。持ち前の好奇心と、早く兄たちに追い付きたいという想いから、年嵩の遊びを真似ようとします。このような感情のなか、彼らは戯れの一環として同性の性行為を行いました。植え付けられた性の目覚めは、感情の内側から湧き起こるのではなく、強制的に呼び起こされます。得た快感はデュヴェールの性的価値観を構築していき、ペデラスティ(少年性愛)として完成されました。若年のうちに経験した性行為は夢中にさせ、性行為に及ぶ頻度や相手は増加して、叶う限りの放蕩を繰り返します。両親はこれを心配し、精神科医の治療を受けさせますが、その治療が苦痛となり、彼は自殺を図ります。混濁した精神と湧き上がる性欲に苦しみながらも、持ち前の明晰さで学業は継続してパリへ進学すると、内に秘める苦悩を執筆という形で発散していきます。二十二歳で書き上げた処女小説『累犯』(Récidive)を出版社の深夜叢書(Edition de Minuit)へ送付すると、瞬く間に認められて出版に至りました。


深夜叢書は、第二次世界大戦争後のフランス文学を牽引したアンチ・ロマンと呼ばれる「ヌーヴォー・ロマン」を支えた出版社です。既存の伝統的な美しい文芸性、或いは文学作品の形式など、それまでに築き上げられた文学概念を揺すぶる思潮は、世界を魅了して幾人もの素晴らしい作家を世に放ちました。ヌーヴォー・ロマンの代表的作家であり映画監督のアラン・ロブ=グリエ、時間と叙情性を抽象的に描いたクロード・シモン、リズムを駆使して不条理を描くサミュエル・ベケット、愛と性欲を芸術的に描くマルグリット・デュラスなど、錚々たる面々を輩出した前衛的思想の出版社です。この代表者ジェローム・ランドンは、即座にデュヴェールの文才を見抜きます。しかし、描かれる作品に溢れるポルノグラフィックな表現は万人に受け入れられることはなく、早いデビューでありながら、なかなか成功を掴むことはできませんでした。そのようななか、1973年の長篇小説『幻想の風景』(Paysage de fantaisie)がメディシス賞を受賞して世間から脚光を浴びます。この賞は画家のギャラ・バルビザンと劇作家ジャン・ジロドゥによって創設された「いまだ注目を浴びていない比類ない文学作品」に与えられる賞で、前述のクロード・シモンや、クロード・モーリアック、ジョルジュ・ペレックなどが受賞しています。


この脚光をデュヴェールは喜ぶ以上に息苦しさを覚えます。得た賞金で逃げるようにモロッコへと移住し、パリの文壇から逃避しました。そして、これには別の意図があります。自身の性癖であるぺデラスティの欲望を満たすためでした。異国の地へ移り住むと、社会的地位の低い貧困層の少年と主に関係を交わし、数え切れぬほどの性行為に及びます。彼の抑圧されていた性欲は解放され、著作の成功によって得た財力で数多の少年たちとの思い出を積み重ねていきます。この経験を端的に、非常に具体的に、そして叙情的に綴った作品が本作『薔薇日記』(Journal d'un innocent)です。原題は『無実者の日記』と訳せます。


この原題通りに少年性愛に対する自身に向けた否定的な感情は全く感じられません。そして世の異性愛に対する批判的な眼差しを持って、醜いもの、劣ったものという感情を隠さずに、徹底的に描いています。相手を変え、場面を変え、体位を変えて、延々と繰り返される少年との具体的な性描写には、純粋な快楽性を追求していながらも、その文体からは詩的な叙情性が滲み出ています。ポルノグラフィのようで(本文にも何度も自身を「春本作家」として記述)ありながらも、そこに潜む哀愁と世間に対する憎悪が込められており、自身の正当性の理解を得られないことに対する怒りが見えてきます。少年の身体に感じる彫刻のような美しさ、表情に見える芸術性など、デュヴェールが何に「美」を感じているかを事細かく描き、それを愛でる純粋性に読者は圧倒されます。文体から見える既存の価値観を否定的に相対化し、自身を含む少数派の思考を文学に反映させた点に、彼の文学性が現れています。そして彼の境遇が作り上げた性的価値観を込め、一つの文学作品として昇華させたことに、彼の文芸性が見られます。デュヴェールは自分の労力と情熱と怒りをもって執筆し、彼が抱いた厭世的な孤独を埋めようとしていました。

わたしたちの苦悩は趣味や行動や風采、年齢、地位の不一致から生じる。従って、そうした違いを埋めることのできる事柄はすべてよいのだ。たとえば、全般的な訓練はもちろんのこと、すべての者が同時に行なう行動とか、同じ事柄を前にしてすべての者が抱く考えや憤慨、賞賛、笑いにおける一致、同じ通貨の採用、意見の不一致の排除、反逆者たちの矯正、社会にとけこむことのできない者たちの排除、非生産的人間の再教育、監獄、収容所、養育院、文化会館、養老院、有刺鉄線で囲った身体障害者の収容所、移民のための不潔な住居、孤児院、その人種や肌の色、年齢、過去、活動、健康状態、風習、意見、癖、拒絶が正常な人々の平和を乱すあらゆる人間を投獄するための地下牢がそうである。わたしたちは現にそうしている。


執拗なほどの性描写と性的価値観の提示は、物語の破壊とも言える行為です。断片的に語られる彼の視線は、作品を象るイメージを作り上げては分解して、読み手に「抽象的な印象」のみを植え付けていきます。断片的に語られる会話や細かく挟まれる会話など、掴みかけては遠のいていく具体的対象がいつまでも眼前には現れません。このような「抽象的な印象の具現化」という独特の作風こそ、デュヴェールの持つ文芸性の中心的な価値のように受け止められます。このような小説の破壊、文学の破壊は「ヌーヴォー・ロマン」の文学思潮を汲んでいるといえ、ジェローム・ランドンが惹かれた文芸性であると考えられます。

デュヴェールの求めたぺデラスティに溢れた生活は現代において決して許容されるものではありません。しかし彼の目線は構築された性的価値観を通した眼差しであり、正当な感情を批判されていると感じています。この世間との隔絶は、彼の人間性批判に繋がり社会を厭悪します。この感情の差異を文学に昇華させたことが、彼の文学思潮的偉業と言えます。


社会に対する厭世的な態度は作中を一貫しています。しかしながらデュヴェールの持つ本質的な苦悩は彼の内に存在し、その苦悩をどのように消化させるかという、自己への抑圧が執筆の原動力となったと言えます。この苦悩を抱きながら向ける少年たちへの愛情は、どれほど抑圧的で、どれほど陰鬱的であったかは想像できません。ただ、このような感情は「抽象的な印象の具現化」として文体の隅々に広がり、悪夢のなかに居るような、重苦しく湿度の高い、暗い空気に纏わりつかれるような読書感として受け止めることができます。苦悩に包まれた叙情的作品、文面は非常にポルノグラフィックに描かれ、人によっては嫌悪感を抱くかもしれませんが、第四章に書かれる彼の思想弁論は非常に読み応えがあります。彼の苦悩が詰まった本作『薔薇日記』、未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

 

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