RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『雨のしのび逢い』マルグリット・デュラス 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

若い未婚の女性は結婚に憧れている。だが、若い女性たちの夢見ているほど、安定したものだろうか。また純粋な状態のものだろうかーーこうした疑いを抱いた方はこの小説を読まれるといい。この小説の主題は、現代の『ボヴァリー夫人』の悲劇である。あるいはもうひとつの『菜穂子』である。そして、若い娘たちの大部分にとって、将来待ち伏せている不幸なのかもしれない。この小説は、読みおえて数年たって、はじめて深刻な意味をもつだろう。 「特に若い女性へ」中村真一郎(帯より)

マルグリット・デュラス(1914-1996)は第一次世界大戦争が勃発した年に、当時はフランスの植民地であったインドシナ(現在のベトナム)のサイゴンで生まれました。父は現地の学校長で、母も同じく教師でした。両親は白人入植者として住人たちを蔑視するだけでなく、人種や性についても差別していました。兄が二人おり、長男は粗暴で頑強、次男は穏やかで病弱でした。この長男は母の価値観における「男らしさ」を兼ね備えており大変甘やかして可愛がりました。


病気による父の早逝後、十五歳のデュラスは華僑の青年男性に性的に買われます。母は人種差別による屈辱、貧困による苦しさでデュラスを叱咤しました。しかしペドファイルの買春行為を、金銭目的と割り切り認め、本来持っていた女性蔑視の価値観で「致し方ない」と考えます。固定された「娘の価値」は母にとって生涯変わらず、どれほど作家として成功してもデュラスを決して認めませんでした。彼女自身、著作にて「わたしが書いたものを母は好きではなかった」と話しています。


長男のみを愛した母に育児放棄されてもなお、デュラスは母の愛を求めます。1938年、母の教職定年を延長出来ないかという思いを叶えるべく、精通していた現地の言語を活かして植民地省へ入省します。そこで保守派の政治指導者ジョルジュ・マンデルに文才を見出され執筆を始め作家の道を歩み始めます。

マンデルは対ナチス派を牽引し、休戦を拒否し続けドイツや親独派を否定します。フランスはドイツに支配され、傀儡であるヴィシー・フランスが発足すると国内から反発運動が徐々に増加し始めました。そして打倒を掲げるレジスタンスが結成され、この運動にデュラスは参加します。参加者には、サルトルコクトー、ジュネなども共に居ました。

マンデルの牽引による対ナチス反発運動は激化し、ヴィシー・フランスへ激しい交戦を仕掛けるレジスタンス活動が目立ち始めます。フランス警察署長ジョセフ・ダーナンドは見せしめのため、マンデルへの射殺命令を出しレジスタンス活動の鎮静化を図りました。デュラスも例に漏れず逮捕され、解放された時には心身ともに疲れ果てていました。しかしそれでも左翼的運動は変えず、共産党に入り反体制の姿勢を継続し続けます。


この頃から執筆活動は大成し始め、1958年に本作『雨のしのび逢い』が五月賞を受賞し、ヌーヴォー・ロマンの代表的な作家として認められていきます。この作品はピーター・ブルックにより映画化もされています。そして第七芸術において独自の表現が出来ないかという思いから、自身で脚本や映画さえも手掛けます。

1984年には著作『愛人 ラ・マン』にて異例のゴングール賞を受賞します。前述の華僑男性に買われた物語は社会問題である「ペドファイル」に抵触し、この関係を純愛であると示したのでした。

フランスにおける左翼はカトリックの伝統的な性道徳に懐疑的で、女性の自由恋愛を提唱していました。これは女性の権利尊重が発端となっていますが、結果として数多の性癖を容認するあまり「ペドファイル」自体をも純愛として受け入れたのでした。


雨のしのび逢い』(moderato cantabile)は西海岸の港町を舞台に、製鉄所長の妻アンヌが顔見知りの工員ショーバンに情欲を燃やし、互いに惹かれて愛を交わす物語です。

対話を中心とした駆け引きは、余計なものをすべて剥ぎ取った文章で描写され、時に駆け足に、一足飛びに進展します。そこには具体的な性を交わす表現が全く無く、心情さえ汲み取ることが困難な場面もあります。

こうした対話に含まれるフラストレーションは、読者に向けて二人の心を苦しめる表現として用いられます。出会うことさえ困難な彼らは、その苦しさを具体的な会話で伝え合いません。それだけでなく、明確な性描写が無いことからもプラトニックにさえ感じられることもあります。

対話について訳者の田中倫郎さんは解説でこのように述べています。

本書における会話の扱い方は、話者それぞれの内在律をもった音列を結び合わしたポリフォニックな音楽技法を想わせる。論理的に平気で錯綜し、ほとんど無意味に近いアンヌとショーバンの会話の裏側に、何かを探ろうとする試みはむだである。そこには何もない。重要なのは関係であり、読者が想像力を働かすことを要求されているのは空白においてである。この操作によって読者もまた、登場人物と並行して、みずからの空洞を意識し愕然とする。そして、登場人物と読者の空洞が完了に照応し合った時、両者の間に真のコミュニケーションが成立しうるかもしれないーー作者のねらいはこの一点にある。


しかし、この愛は成就されません。ショーバンに「君は死んだほうがいい」と突き放され関係の終わりを告げられます。アンナは絶望感に包まれ、ただひたすらに「恐怖」を感じます。何度も「こわい」と言う彼女に歩み寄ることなく、ショーバンは立ち去ります。この瞬間にアンナの心は、愛を消されると同時に死んでしまうのでした。


「本性的な愛」を求める姿が物語を通して印象的に残ります。また、それはデュラス自身が生涯を通して求め続けたものであり、生の本来性こそ「愛」であり、原動力は「情欲」であると訴えます。そして得られない恐怖が対比して描かれ、「死」に至るほどの絶望であると受け取ることができます。こうした訴えは、文章に性描写が見られない点からも、デュラス自身の価値主張に潔白さを表しているように見受けられます。


愛を与えられず、愛に不自由を感じ、愛に自由を求めたマルグリット・デュラス。一心不乱に愛に呑み込まれる物語は、鮮烈な印象を与えます。

未読の方はぜひ。

では。

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