RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『牡丹燈籠』三遊亭圓朝 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

旗本の娘お露の死霊が、燈籠を提げカランコロンと下駄を鳴らして恋人新三郎のもとに通うという有名な怪異談を、名人円朝の口演そのままに伝える。人情噺に長じた三遊亭圓朝が、「伽婢子」中にある一篇に、天保年間牛込の旗本の家に起こった事実譚を加えて創作した。改版。


江戸に生まれた三遊亭圓朝(1839-1900)は、祖父、父と同様に噺家の道へと進みます。七歳で高座(こうざ)、二十歳を超えてすぐに音や画を使った芝居話を披露して一躍人気を獲得します。当時の噺家(咄家とも)は、滑稽な話で笑いを誘い最後に落ちをつける「落とし噺」、大道具や小道具を用いて役者の声音を入れて芝居語りをする「芝居噺」、人と人との情を軸とした長篇の物語を語る「人情噺」などを、寄席で披露して凌ぎあっていました。寄席はそこまで大きな場所ではなく、せいぜい百名程度の客で満員となる広さでした。地声の抑揚で情景や心情を伝え、聴衆に直接的に訴える演目は、大衆にとっては何よりの娯楽となっていました。圓朝も例に漏れず寄席が主な活動場所でしたが、あまりの才能に嫉妬され、身内から多大な嫌がらせを受けることになります。圓朝がその日に演じる予定の演目を先回りして演じてしまい、圓朝に恥をかかせようという悪質なものでした。ならばと、圓朝は自身で作品を創作し、決して真似し得ないものを披露することに取り組むと、素晴らしい才能が瞬く間に開花され、それまで以上の人気を博すことになりました。更には音響や舞台仕掛けを用いて迫力を出し、現在にまで活かされる技法を編み出しました。


壇上での立場を確固たるものとした圓朝は、編み出した新技法での演目は後輩方に託し、彼自身は純粋な話芸に専念するようになります。観客から出された題目三つ(人物、品物、場所)を折り込んで、即興で話を作り上げて演じる「三題噺」を流行させました。『鰍沢』、『大仏餅』などは、この三題噺から生まれています。このように噺家として見事な演じ方と説話創作で活躍を続け、扇子一本で語る落語としての形式を完成させました。

そして大衆からの人気は止まることを知らず、圓朝が高座に出るときはいつでも満員でした。彼は長篇の人情噺を演じることが多かったため、毎夜連続となる講演を行っていました。しかし観客が百人以上入ると、次の日は弟子に「代ばね」(代わりの真打)をさせて圓朝は休み、観客が百人を切ると自身が真打に出るということを繰り返しました。前述のように、寄席の醍醐味は小規模で行われる演者と観客の距離の近さです。自身の芸が聴衆へ満足できるほど届けられない環境では演じたくないという芸人としての矜持から、圓朝は「代ばね」を立てることを続けていました。


東海道四谷怪談』、『番町皿屋敷』と並び、日本三大怪談として知られる本作は、幽霊が怨恨をもって生者へ襲い掛かるという端的な要素ではなく、生者と幽霊との悲恋が生前より描かれ、切なく辛い物語が繰り広げられます。恋に焦がれて煩い死に至り、想い人に会いたい一心が幽霊となって世に留まり、カランコロンと駒下駄を鳴らして、毎夜足繁く会いにやってくる「お露」。思い人には生前と変わらぬ美しい女性として見え、仲睦まじく肩を寄せ合い語り合いますが、側から見れば皮と骨ばかりの悍ましい幽霊の姿。これを使いの者が思い人に委細報告して、御守りや札を用いてお露を締め出してしまいます。それでも毎夜やってくるお露の姿には、悲しみと切なさが溢れ、ただ一心な愛を貫こうとする姿が見えてきて、観客(読者)の胸を締め付けてきます。『四谷怪談』の「お岩」は夫に毒を盛られて怨霊に、『番町皿屋敷』の「お菊」は主人の貴重な皿を割って厳しく責められ自死して幽霊に、という経緯があるため「うらめしや」の情念が明確に見えます。しかしながら、「お露」は恋しくて愛しい情念が恨みよりも遥かに勝り、一途な美しい感情さえ観客(読者)は感じられます。


さらに、この怪談と並走する復讐譚が後半で主軸となり、目紛しく激しい展開を見せます。「孝助」というお露の父に仕えていた者が、実の父の仇打ちを胸に秘めながら、良き主人に身を犠牲にして熱心に仕える姿は胸を打ちます。そこから驚異的な劇性を見せて、仇の正体、悪の策略、実の母親、といった要素がお露の怪談とも繋がり、大きな物語として構成されていきます。本作は人情話が主題となっていることから、人と人との関係性に強い作用が働いています。特に孝助と実の母親が交わす会話には何度も胸を締め付けられ、「縁」と「血」の繋がりが、濃くも儚いものであることを感じさせられます。そして、人間の悪意と憎悪は、どこまでも身勝手であり、容赦の無いものであることを痛感させられます。

 

それは何ゆえ縁が切れたと仰しゃいます、なるほど親は乱酒でございますから、あなたも愛想が尽きて、私の四ツの時に置いてお出になった位ですから、よくよくの事で、お怨み申しませんが、私は縁は切れても血統は切れない実のお母さま、私は物心が付きましてお母様はお達者か、ご無事でおいでかと案じてばかりおりましたところ、こんど図らずお目にかかりましたのは日頃神信心をしたお蔭だ、殊にあなたがお手引をなすって、お国源次郎を討たせて下さると仰しゃッたから、この上もない有難いことと喜んでおりました、それを今晩になってお前には縁がない、越後屋に縁がある、あかの他人に手引をする縁がないと仰しゃるはお情ない


本作『牡丹燈籠』は、実際に三遊亭圓朝が寄席で話している言葉を速記して一つの作品としたものです。この落語公演筆記は、直後に隆盛する「言文一致運動」に繋がり、文語から口語への変遷の先駆けとなるものでした。山田美妙、二葉亭四迷が運動の中心となり、現在の小説にも大きく影響を及ぼしています。また、劇化「精霊祀牡丹燈籠」、狂言「怪異談牡丹燈籠」など、形を変えて親しまれており、現代の文芸作品として見事に完成された素晴らしい作品であることが裏付けられています。


圓朝の社会風俗やその人々の心情に対する深い洞察力は、創造性豊かな想像力と、幾つもの要素を見事に纏め上げる説話構成力によって、他者と一線を画す作品を生み出しました。噺家として、徹底した職人気質と妥協を許さない芸風は、生み出す作品にも当然影響され、笑いやおかしみに傾倒せず、人間の人情と縁を一貫して突き詰めた怪談を作り上げました。


白山の方から森鴎外記念館を右手に見るかと思えば、そのまま団子坂を下り江戸川乱歩を思い返すと、谷中銀座の活気が迎えてくれます。夏目漱石が英国留学より帰って腰を据え、高村光太郎が父と共に暮らしたこの地域は、多くの作家が着想を受け、素晴らしい作品を数多生み出しました。この谷根千を舞台に繰り広げられる人情の交錯は、現代でも深い感銘を受けることができます。近くにお住まいの方は訪ねてみるのも一興です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

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