RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『作者を探す六人の登場人物』ルイージ・ピランデッロ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

イタリアの劇作家ルイージピランデッロの名を世界的に轟かせた戯曲『作者を探す六人の登場人物』です。初公演での大事件は大変印象的です。

ある劇団が芝居の稽古をしている最中、喪服姿の六人が舞台に乗り込む。父親、母親、継娘、息子、男児、女児。この家族は「自分たちは創造されたにもかかわらず未完のまま放り出された劇の登場人物」であるという。乗り込んだ劇団の座長へ自分たちの作家となり、未完で終えたままの演目を完結させたいと願い出る。現代演劇の先駆け的作品。

 

ルイージピランデッロ(1867-1936)は過去の演劇における常識を覆し、現代演劇の幅広い可能性を切り開いた偉大な劇作家です。若い頃より詩作に励み、短編小説を中心に執筆していました。1915年頃、「シチリア方言劇」を書き、好評であったことに後押しされ本格的に戯曲を手がけます。本作の『作者を探す六人の登場人物』が世界的大成功を収め、劇作家として不動の座を確立しました。

しかし、1921年ローマのヴァッレ劇場で行われた『作者を探す六人の登場人物』の初演の一夜は町を大混乱に陥れます。

観客のうち、若い連中は拍手喝采したが、ボックス席や値段の高い席の観客は口笛を吹いたり、笑ったり、声を合わせて「ブッ/フォー/ネ」(阿呆)と音節を区切って、三拍子で囃したてたりした。また、「マニ/コ/ミオ」(気違い)とも怒鳴っていた。俳優たちは辛抱強く芝居を続けたが、せりふはほとんど聞こえなかった。

伝記作者のフェデリーコ・ナルデッリは観客席の様子をこのように伝えています。その後、観客席では殴り合いの乱闘となり、ピランデッロ派の作家や友人は擁護のために拳を振るい、大混乱となります。初演挨拶の後、楽屋に居たピランデッロは責任を取るため舞台に上がりますが収拾はつきません。劇場の裏手から帰ろうとしますが、真夜中にもかかわらず六百~七百人もの人々が彼を待ち構えていました。大喝采と怒号が入り混じる中、ようやく劇場を離れます。

ところが、四ヵ月後の同劇団によるミラノ公演では、上演中は静粛で、演じ終わると同時に大喝采が投げられました。脚本が出版され、世に広まっていた事実もありますが、ローマとミラノの地域性も見過ごせない点です。

 

『作者を探す六人の登場人物』は舞台の上だけでなく、舞台下や観客席までもが演劇場となり、観客を未知の刺激が襲い掛かります。また、内容も「演劇そのもの」を問題視するテーマであり、その描写も随所に現れます。「六人をめぐる劇」を、乱入された劇団員がそれぞれ「六人に扮し」演じようと試みますが、役者の演技自体を否定します。

そこなのです、俳優でいらっしゃる!お二人とも私どもの役を誠に上手に演技して下さいます。でも、私どもから見ると全然違うのでございます。同じとお考えですが、そうではないのです。

その後、父親は俳優の演技を「遊び」と表現します。この演劇論にも通ずるやり取りは伝統ある演劇の格式を傷つけたと感じる観客も少なくありません。しかし、新しい芸術性として受け取ることができる若い世代は感動し、喝采を浴びせます。このピランデッロの芸術に対する疑問符が、ローマ初演時の大混乱を引き起こしたのです。

 

ピランデッロの芸術観はさまざまな作品に散りばめられています。

詩人が自分の芸術作品を永遠に不変の形に定着させることで、魂の開放を得て、静謐に到達したと信じた時はそれは幻想にすぎません。その作品は単に生きるのを止めただけです。魂の開放も静謐も生きるのを止めて初めて得られるのです。

『今宵は即興で演じます』という作品での一節です。ピランデッロは「芸術に内包される生命」という観念を強く打ち出します。人が人生を創造するように、芸術家は芸術を創造する。生命の宿りを芸術性に訴える作品は「メタ的な視点」で描かれています。『作者を探す六人の登場人物』『(あなたがそう思うならば)そのとおり』『今宵は即興で演じます』は劇中劇三部作と呼ばれ、演劇における「演出の必要性」或いは「演出の不要性」を、角度を変えて問いかけてきます。そして、俳優は「演じる」のか「生きる」のか、演劇は「俳優」によるものか「演出」によるものか。演出家に投げかける劇作家の強い信念の問いかけです。

 

彼の芸術観は、元々哲学教授であった背景から構築されていると言えます。一見「奇を衒っている」ように感じかねない戯曲ですが、そこには逆とも言える強い現実主義が見られます。

世には多くのピランデルロ嫌いがある。あたかもピランデルロを無責任な手品師か、ダダイストの酔漢の如く心得てる人がないこともない。少くとも自分の見るところはその反対である。ピランデルロを詳しく論ずる機会は他日あると思うが、自分の分類からはこの作家はドストエフスキイに属すべきことだけを言っておく。

イタリア文学訳者の能美武功さんの言葉です。ドストエフスキーの作品に内包される哲学同様、ピランデッロの作品にも哲学が滲み出ています。そして最も大きな共通点としては、作品の結末が「明確な顛末」として、演劇を裁きます。この顛末を迎えた時、それまでの演劇を踏まえて伝わる衝撃が「作者の哲学」として押し寄せます。そしてこの哲学を表現する手法は、古典文学における魂ともいえる重要な内包物であったのです。

 

ピランデッロは1934年に、劇的且つ美しい芸術を、大胆且つ独創的に復活させたこと、でノーベル文学賞を受賞しています。その2年後、あの混乱を起こしたローマの地にて、亡くなります。

 

伝統的な市民劇の常識を打ち壊し、現代演劇に見られる斬新な演出と形式を生んだ記念碑的作品『作者を探す六人の登場人物』。
未読の方はぜひ読んでみてください。

 

では。

 

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