RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『山猫』トマージ・ディ・ランペドゥーサ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

一八六〇年春、ガリバルディ上陸に動揺するシチリア。祖国統一戦争のさなか改革派の甥と新興階級の娘の結婚に滅びを予感する貴族。ストレーガ賞に輝く長篇、ヴィスコンティ映画の原作を、初めてイタリア語原典から翻訳。

ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(1896-1957)は、代々宰相を務める大貴族の家系に生まれました。莫大な富の中でありながら、父からの愛情をあまり受けることなく、母親と家庭教師と共に広大な敷地で暮らしていました。

1915年に第一次世界大戦争のイタリア戦線、カポレットの戦いに行軍します。この戦いは当初イタリア側が優勢と見られていましたが、ドイツの援軍が決定打となりオーストリアハンガリー軍がイタリア王国軍を破ります。敗戦したランペドゥーサを含むイタリア王国軍は捕虜となりますが、彼は脱走してイタリア王国に戻り、中尉として迎えられたのち、シチリアに戻って穏やかな暮らしを満喫します。この頃に外国文学を研究していたこともあり、本作『山猫』の執筆を構想していました。本作の中心人物ドン・ファブリーツィオのモデルは曽祖父とされています。


1820年に始まったイタリア統一運動(リソルジメント)における貴族としての意識の流れや葛藤が描かれています。イタリア統一を大きく前進させた、ジュゼッペ・ガリバルディによる1860年シチリアナポリ占領の事件を皮切りに、ドン・ファブリーツィオの周囲の世界が変化していきます。リソルジメントが加速するにつれて、貴族として求められる選択や、台頭する新興貴族たちとの取引、前国王と新国王への関わりなど、次々と頭を悩ませる事柄が増加していきます。しかし貴族としての誇りや思考は変わることなく、変化を求めず、訪れる問題にも真摯に応えていきます。歴史的事実は物語においてはあくまでも背景であり、大貴族ドン・ファブリーツィオが、何を感じ、何を行い、何を問い、何を思うか、などが重視されて物語は進展していきます。


『山猫』では、世における生の意義、それを受け入れる死の希望が一貫して述べられています。人間は何のための運命を生きているのか、使命や義務を超えた自身の納得性を持つ客観的な生の理由を求めます。国に仕える兵士の死は、国のために命を懸ける理由を兵士自身が理解するだけでなく、その兵士の死が国のためであるという兵士の意志を他者(世の人々)が認識する必要があると説いています。しかし重要な認識として、常識的な理解としての「国のため」ではなく、兵士自身が国の礎として、国王を真に護ろうとする志を持たねばならないとしています。「兵士とはそういうものだ」という諦めのような理解ではなく、積極的な「死を受け入れた生」である必要があります。

こういった思考の飛翔は、ドン・ファブリーツィオが大貴族であるが故の国王にまで及ぶ人脈があり、そして代々受け継いできた家系に養われた貴族としての在り方という深い精神を持っているからこそ行われると言えます。この思考は「永遠」を否定します。死のための生を肯定する考えは、受け入れた死を希望として生が存在すると考えるためです。大切な死を否定する「永遠」をドン・ファブリーツィオは憎悪します。

冒頭から夜空を仰ぎ見る彼は天空に憧れます。悩み、疲れたときに、いつでも夜空で待ち迎えてくれる金星は死の希望としての象徴でした。何度も焦がれ、募らせた想いは、遂に報われて彼の元へと舞い降ります。生の終わりに迎えにくる美しい女性としての金星は、死こそが生における希望である象徴的な表現と感じられ、希望的な幸福を感じさせられます。


しかし、この「永遠の否定」は繁栄や隆盛からは掛け離れた印象を受け、実際に本作は退廃的な作品となっています。彼の生涯の断片を綴り続けた物語は、彼の死後にまで及びます。ドン・ファブリーツィオが抱き続けた死を希望とした生の観念が失われ、サリーナ家は衰退の一途を辿ります。彼が亡くなったことで、彼が体現していた思想は家系から剥がれ落ち、家系として生の意義が失われたと言えます。彼の死こそが実際的な「山猫」の死であり、貴族としての退廃が死後に明確に描かれており、生前のファブリーツィオが抱いていた意識こそが真であったことの裏付けとなったと言えます。そして、愛犬ベンディゴは身を持って一連を表現しています。

 

「われわれは自分たちの息子や、たぶん孫たちのことを、真剣に心配するかもしれない。しかし自分たちの手で愛撫できるものを越えては、義務はすこしもない。だからわたしは一九六〇年の偶然の子孫たちがいったいどうなるかなどと、ほとんど気にかけていられない」という公爵の没落意識は、階級的な没落意識であると同時に、一個のエロス的人間の没落意識であって、おそらくあらゆる時代、あらゆる文化の生んだすぐれたデカダンス文学が、この二つの精神のなかの「死」に直面したのである。

澁澤龍彥さんは書評でこのように述べています。向上心の放棄とも言えるドン・ファブリーツィオの思考は、怠惰の言い訳にも取れるものの、何のための生なのかを考え抜いた結果でもあると受け取ることができます。


ランペドゥーサにとって、イタリア統一後に台頭した新興貴族たちは貴族たり得ないということを思想的に訴えているように感じられます。これは、ドン・ファブリーツィオが新イタリア国家上院議員への推挙を、丁寧に感情を押し殺しながら、貴族の誇りを説き続けて断ろうとする会話で表現されています。利己主義で品性の無い言動を認めず、利他主義で永遠以外のものを愛し続ける彼こそが、貴族の誇りの体現者でもありました。


小説ではあるものの、物語の進行はドン・ファブリーツィオの思考の飛躍に伴われており、詩篇を読んでいるような印象を受ける作品です。生の意義や死の概念に刺激を与える本作、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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