RIYO BOOKS

RIYO BOOKS

主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ベートーヴェンの生涯』ロマン・ロラン 感想

f:id:riyo0806:20220520210955p:image

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

少年時代からベートーヴェンの音楽を生活の友とし、その生き方を自らの生の戦いの中で支えとしてきたロマン・ロラン(1866-1944)によるベートーヴェン賛歌。二十世紀の初頭にあって、来るべき大戦の予感の中で自らの理想精神が抑圧されているのを感じていた世代にとってもまた、彼の音楽は解放の言葉であった。

神聖ローマ帝国の末期、現在のドイツ西部にある国境沿いの大都市ボンは十三世紀より続く代々のケルン大司教によって、選帝侯としての自治が担われていました。不安定な情勢において他国からの侵攻を望まない姿勢を、その治世によって表明します。絵画、彫刻、音楽、文学、演劇など、公費の予算を軍備ではなく芸術へ注ぎ続けていきます。政策効果は歴然とあらわれていき、後のボン大学の存在やノーベル賞受賞者の輩出からも裏付けされています。このような背景から当時の芸術は宮廷に属して、権力者や宗教のために作られ、描かれ、奏でられていました。


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)は選帝侯に楽長として仕える歌手の祖父、同様に宮廷歌手の父の元に、音楽的な強い期待を抱かれて生まれました。当時の話題を席巻していた神童モーツァルトのように育てたい父ヨハンは、虐待とも言える厳しさで音楽教育を与えます。音楽的資質を持ち合わせた彼は身体に痣を作りながらも、才能を開花させて期待に応えていきます。しかしアルコールに溺れる父は散財し、祖父の援助を受けながらもひどい貧困の中でベートーヴェンは育つこととなります。まだ幼いながらも飲み屋などでピアノを弾かされ、得た日銭を父に巻き上げられていました。成人間近となったベートーヴェンは最愛の母マリアを亡くします。悲しみに覆われたのも束の間、父ヨハンの酒量が増加してアルコール依存性が加速、遂には宮廷歌手を失職してしまいます。悲しむ間も無く幼い弟たちの面倒を見るため、父と入れ替わるように宮廷楽師となり、結果的に音楽家としての道を歩みはじめました。


宮廷楽師となった1789年、フランス王国では「自由、平等、平和」を掲げた貴族体制崩壊を目指した市民革命が勃発します。貴族による政治、経済、思想、芸術の支配からの解放にベートーヴェンも共感して、強く影響を受けます。教養を身に付けるため、ボン大学の聴講生となっていた彼は、同時に芸術的感性を磨くため、音楽以外の芸術にも積極的に触れていきます。そして生涯の主題ともなる運命的な詩と出会います。フランス革命の思想を先駆けて掲げていた詩人フリードリヒ・フォン・シラーの「歓喜に寄す」です。「歓喜」に込められた自由思想は、ベートーヴェンの音楽観、芸術観を高みへと導きます。貴族から解放された音楽には別の芸術性を込められるのではないか、音楽芸術だからこそ表現できるものがあるのではないか、音楽の在り方とは芸術的なものではないのか。彼の中で音楽芸術の追求こそが自身の使命であると徐々に形造られていきます。また、その探究心から、ハイドンに師事を受けるべくヴィーンへと旅立ちボンを離れることになります。彼はこの頃から作曲家として次々と楽曲を生み出していきます。


フランス革命の立役者であるナポレオン・ボナパルトの存在に、ベートーヴェンは強く惹かれます。ブルジョワジー革命が成り、宮廷貴族支配から解き放たれた商工業者たちは政権を握り、租税改革を行って宮廷へ不要に注がれていた財を食い止めて商工業へと流します。しかし実態的には改革を行った最上級位(ブルジョワジー)たちにのみ直接的に利潤が回っただけで、大衆の殆どは異常な税負担は軽減されたものの、苦しい生活に変わりはありませんでした。それでもベートーヴェンはナポレオンを英雄的に讃え、交響曲第三番《英雄》(エロイカ)を書き上げます。大衆にとっての英雄として、敬愛を込めて献呈しようとしていました。しかし、彼はナポレオンが皇帝に即位したと知って失望し、憤慨し、献呈の言葉を紙が破れるほど訂正して「ある英雄の思い出のために」と書き直しています。権力社会に立ち向かった英雄が、最大権力者の座についたことが、ベートーヴェンにとって赦し難い行為であったと言えます。


またこの頃から原因不明の難聴に苦しめられます。音楽家としての生命とも言える耳の不自由は、音楽芸術に使命感を覚えた彼にとって絶望的な事態でした。遂に死までも覚悟し、「ハイリゲンシュタットの遺書」と言われるものを認め、苦悩は最大限に高まります。しかし、溢れ出る創作意欲と異常なまでの使命感で、この得た難聴を「神の業」と捉えるところまで昇華し、苦境に立ち向かう決意をします。彼が持ち得ていた情熱は、時に気性を激しくさせて瞬間湯沸かし器のように周囲に思われていましたが、自ら輪を掛けるように傲岸不遜な振る舞いを意図して行い、厭世人であるように思わせて人を遠ざけ、自身が難聴であることを気取られないようにしました。これが貧困に拍車を掛けることとなってしまいましたが、「音楽は芸術である」という誇りも相まって、頑として貴族への商業的作曲を拒み、音楽芸術の追求に集中していきます。


ベートーヴェンは、交響曲第三番の発表から「傑作の森」と言われる多作の時期が訪れます。難聴を「神の業」と捉えてその後の使命を神格化した交響曲第五番「運命」、貧困と難聴の苦しみから逃れて心の静穏を図った交響曲第六番「田園」など、彼の代表的な作品が次々と創作されます。

しかし、名声が広がるのと同じくして、彼の耳はいよいよ殆どの聴覚を失います。焦燥感と使命感に挟まれて苦しみの淵に舞い戻った彼に、追い討つように良くない報せが届きます。愛甥の拳銃自殺未遂でした。軍への入隊を希望していた甥と、芸術家への道を歩ませたかったベートーヴェンの諍いの果てでした。更なる苦しみを負った彼は、ただ一人で悩み続けます。そして彼は一つの光を思い起こします。シラーの「歓喜に寄す」です。苦しみの果てに歓喜がある、歓喜のための業である、神の業を歓喜へ。貴族社会からの解放、難聴による苦境からの解放、近しい人々を襲う不幸からの解放、貧困からの解放、人と関わることのできない不遇からの解放、名声による周囲との不協和音からの解放、これらが綯い交ぜになった苦しい精神を音楽芸術によって歓喜へと導くことを自身の運命であると受け止めて作曲します。そして晩年の傑作の一つ、交響曲第九番が完成します。

これこそそうだ、見つかった。歓喜

ベートーヴェン『音楽ノート』


今までの常識を打ち破り、声楽の導入、ピッコロや大太鼓などの軍楽器の導入など、曲に触れるものに驚きと感動を強く与えます。暗雲や靄が覆う重く暗い始まりを持つ第一楽章、悪魔と天使が激しく戦う壮大な第二楽章、安息と美に包まれて安らかな印象を受ける第三楽章、これらの素晴らしい音を全て否定する第四楽章。そして天啓のように声楽が吹き込まれ、「この音ではない、みなで歓喜の歌を歌おう」と繰り返されます。ベートーヴェンは奇を衒った訳では決してなく、「より良い音楽を、全てに歓喜を」の一心で作曲したのでした。

神の、美しく偉大な意図に沿って、
太陽は天空を巡る、そのように、
兄弟たちよ、喜び勇んで君たちの道を進め、
歓びに満ち、英雄が勝利に向かって進むように!
抱きあおう、幾百万もの人々よ!
この口づけを、世界中に!
兄弟よ、あの星空の、その上に、愛すべき、
父なる神が住んでいるに違いないのだ。


交響曲第九番完成当時のヴィーンではフランス革命の思想余波を皇帝は懸念して検閲に力を入れていました。「自由、平等、平和」は、まだ広がり始めたばかりでした。これらを踏襲する芸術家や思想家は逮捕という弾圧にあい、思いのままに表現することができませんでした。ベートーヴェンも慎重に、周囲へ細心の注意を払って発表したいと訴えます。実現した発表会は、国から危険な思想の持ち主と指定された作曲家でありながら、多くの民衆が駆けつけて開かれ、大喝采にて終えることができました。そして後世の作曲家へ大いなる影響を与えます。


ベートーヴェンはその振る舞いから人嫌いであると思われていました。しかし、彼は誰よりも全人類、全世界、音楽芸術を考え、苦悩しました。交響曲第九番はそれらの思いを込めた集大成とも言える作品で、後世に博愛を届け続けています。シラーの詩に出会って三十年以上経ち、遂に交響曲へと昇華させた偉業は今後も讃えられ続けます。


本作『ベートーヴェンの生涯』は平和主義作家ロマン・ロラン(1866-1944)の研究を踏まえた執筆作品です。ベートーヴェンが苦しみから歓喜へと導いた生涯に向けた愛のこもった讃歌です。ヒューマニズム、反ファシストを込めて世に出した彼の作品はフランスではあまり認められませんでした。しかし彼は、アンリ・バルビュスと共に結成した「反ファシズム国際委員会」での活動を中心に世界に認められ、国際的な交流による支持者を多く得ることができました。ロマン・ロランもまた全人類、全世界の幸福を視野に捉えていたのでした。彼にとってベートーヴェンの思想だけでなく、生き様、またそれを踏襲した音楽芸術は尊敬に値するものでした。得た感動、尊敬の念をこの一冊に熱い思いで込めています。悲劇的な人生、宿命による挫折と再起、運命への挑戦と苦悩、それを表現した音楽芸術作品群は、研究の深さは勿論ですが迸る熱量は読むものを圧倒します。

自分の芸術を他人のために役立てようという考えは彼の手紙の中で絶えず繰り返されている。ネーゲリへの手紙の中で、あらゆる利害関係的な考えから、あらゆる「ちっぽけな虚栄心」から自己を防ぎながら、彼は自分の生活にただ二つの目的を決定している。それは「聖なる芸術への」献身と、他人を幸福にするための行いとである。


十九世紀前半の代表的指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)も、ベートーヴェンへ強い敬いの心を持つ偉大な音楽芸術家の一人です。若くしてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者となりますが、勢力を拡大するナチス・ドイツに翻弄されます。反ナチズムを掲げるも、アドルフ・ヒトラーの芸術観、ナチズム啓蒙への使用、ホロコースト隠蔽への利用など、様々な目論みでフルトヴェングラーの奏でる音楽は悪用されます。特に使用されたのは交響曲第九番でした。反抗的な思いを持ちながらも彼は亡命せずドイツに留まり、第二次世界大戦争末期まで指揮棒を振い続けます。そこには大きな博愛の精神がありました。迫害されていたユダヤ人音楽家たちの亡命の援助、ヴィーン・フィル解散の危機を防ぐなど、ナチス政権下で過ごす民衆を見過ごすことができず、そのため亡命することなく音楽を愛して奏で続けたのでした。

第二次世界大戦終戦後の1951年、バイロイト音楽祭で指揮者として登壇します。ナチズムに翻弄されて抑圧され続けた環境から、終戦により音楽表現の自由という解放を得たフルトヴェングラーは、交響曲第九番そのものをも歓喜へと昇華する熱演を披露しました。

ベートーヴェンでは、音楽家と詩人のあいだのあの締まりのない、いわば中途半端な出会いというものが全然ありません。このことが、なぜベートーヴェンシューベルトのように抒情詩人たりえなかったか、なぜヴァーグナーのように音楽劇作家にならなかったかという理由なのです。つまり、ベートーヴェンは、こうした人たちより以上に音楽家であり、より以上に音楽家以外のなにものでもなかったのであって、彼らよりも音楽家ではなかったというのではないからなのです。いいかえると、ベートーヴェンでは、純粋に音楽的な要求が強く、それが他の人たちよりも、きびしく働いていたからなのです。

フルトヴェングラー『音楽を語る』


現代に残るベートーヴェンの数多ある名曲は、演奏されるごとに聴くものを博愛の精神へと導きます。人生の全てを音楽に捧げた心優しき彼の偉業は、貴族との主従関係により存在していた音楽を、全人類が等しく幸福を感じることができる芸術へと在り方を変革させたことであると言えます。音楽芸術に詳しくなくても、ロマン・ロランの熱意が充分に伝わる本作『ベートーヴェンの生涯』、未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

privacy policy