RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『生まれいずる悩み』有島武郎 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

「私たちの愛はお前たちを暖め、慰め、励まし、人生の可能性をお前たちの心に味覚させずにはおかないと私は思っている」──妻を失った作者が残された愛児にむかって切々と胸中を吐露した名篇『小さき者へ』。ほかに、画家を志す才能ある青年が困窮する家族を見捨てられずに煩悶する姿を共感をこめて描く『生まれいずる悩み』を収めた。

 

有島武郎(1878-1923)は、東京で大蔵官僚として成功を収めた元薩摩郷士である父のもとに生まれました。幼い頃より恵まれた環境で育ち、隅々まで教育を与えられてきましたが、常にどこか心が晴れないような心持ちで日々を過ごしていました。札幌農学校へと進学しましたが、内村鑑三に影響を受けてキリスト教の洗礼を受けると、渡米してハバフォード大学の大学院へ、さらにハーバード大学へと進んでキリスト教とともに西欧の哲学や文学に触れていきます。そこからヨーロッパへと留学して帰国しますが、その頃にはキリスト教区内で受けた人種差別によって信仰心そのものが薄らいでしまいました。帰国後は語学教師として勤めますが、弟の有島生馬の紹介で志賀直哉武者小路実篤と出会い、「白樺派」に参加して文芸作品を生み出し、作家としての道を歩み始めていきます。1909年、文壇に名前が広まり始めたころ、陸軍少将の神尾光臣の娘である安子と結婚しました。若き十九歳の妻を持った有島は三十一歳でした。年子の三人の子に恵まれましたが、安子は肺結核により僅か数年の結婚生活を過ごすと闘病生活へと入ります。そして二十七歳にして安子は病死しました。この苦しみを受けて生み出された作品『小さき者へ』は、本書に併録されています。この若き妻の死が、結果的に文学熱を強めることになりました。『カインの末裔』、『迷路』などが立て続けに発表されました。そして、本作『生まれいずる悩み』も同時期の一つです。


白樺派」は、満たされた環境が全てであるとは捉えず、世を苦しみながら渡る人々に目を向け、鋭く観察し、自身の描く人道主義に則って理想を掲げる文芸思潮持っていました。多くの作品は「人間の肯定」、「自己の肯定」、「個の尊重」が根付き、世の不条理に対して憤りを覚え、それを乗り越えようとする讃歌的な思想を含んでいます。そこには苦悩や憂鬱が多く描かれますが、これらの「個」を肯定的に捉えることで、このような苦悩や憂鬱が普遍的なものであると認め、それを抱えて理想へと目指すという意図があり、志賀直哉武者小路実篤は体現してみせました。弟である画家の生馬がすでに参加していたこともあり、有島自身、そして弟の里見弴も後に参加しました。生馬が残した有島に対する目線は、「健全な精神なり、肉体なりをもった兄」という言葉からも窺えるように、穏和で柔軟な接し方の人柄であったことが理解できます。年齢的にも志賀や実篤よりも上であったことから、よく慕われ、精神的に頼りにされる処遇であったようにも考えられます。しかし彼の作品からは、当然ながら暖かい眼差しと強い理想は感じられますが、明朗で快活な要素はあまり見出せません。心の奥底に潜む、「荒々しい何か」を随所に感じ取ることができます。


本作は、有島と画家の木田金次郎による実際の交流を元にして執筆された小説です。木田は、札幌より西に位置する海岸沿いの漁師町である岩内(いわない)を拠点とした画家です。木田の作品は、自然の持つ力強い生命力を鮮やかな色彩で描き、さまざまな角度から立体的に筆を走らせて圧倒する存在感を表現しています。しかし、貧困に悩む実家の漁暮らしを背負っていたため、思うままに筆を走らせることができず、思い悩むことが多くありました。この悩みを共有し、激励を送り続けた有島は、木田からの経験談から創意を得て物語として仕上げました。とは言え、作中には多くの木田の体験談が描き出されており、漁場の問題や自然の脅威など、迫力のある描写が綴られています。そして、家庭を守ろうとする愛と絵を描きたいという芸術欲に挟まれて、苦悩を続けて涙する画家の姿が胸を打ちます。


終わらない苦悩の根源は「情熱」にあると言えます。内から迸る芸術熱を理性で抑えようとするものの、噴出する勢いを発散するために愛する山を描きます。そこには家庭の者に迷惑を掛けて、実るともしれない画家の道を歩もうとする自分の意思は正しいことなのかと苦悩する心が伴っています。それでも、描きたい、描かなければならないという思いが画家を覆い、二つの生活双方に抱く愛を往復するように心が動きます。荒れ狂う海上での転覆事故では、家族への愛と自然の強大さが極限まで描かれ、その後の画家の生死にまで苦悩が襲いました。双方の両極端に揺れ動く心の動きは画家の持つ情熱の強さにあり、この作用が生死の極端へと悩みを深めることになったと言えます。


これには、有島自身の持つ精神の二極性が表現されています。彼自身、温厚な表面からは想像もできないほどの激しい観念と愛が潜んでいました。悩みは、その悩みを生むことができる観念を持っていることが必要です。同じ事柄でも、その点に関する気付きがなければ悩みに至りません。この気付きを与えるものが観念であり、有島は非常に敏感な観念を持っていました。人間を自然と対比して、人間全て同一の存在であると考え、おしなべて全ての人間を愛すべきであり、外見は如何であれ心は全て同一であるという考えです。そして彼の持つ強い感受性は、接する人の心を汲み取り、苦悩を汲み取り、苦痛を受け止めようとします。一方、その感受性は雄大な自然にも向けられます。隆起する山の生命、荒れ狂う海の生命、或いは風や雲など、超大な存在を自然に認めます。人間の奥底に潜む苦悩から、遥か海の果てまでを受け止めようとする感受性は、当然の如く彼の精神を両極端に揺らします。そして、それでも自分の成したいことを「自我」として持ち、情熱で精神に押し上げようと試みます。

 

人心とは、同じで、ただ一つのものなのだ。人心は、限りなく、凡てに拡がり、凡てに充満して居る。君も我も、この人心を分ち持って居る。伝統と肉の衣を脱し去ったならば、そうしたならば、その時、我等は皆一にして、同じである。

日記「ファニーに捧ぐ」


しかし、有島には揺れ動き続ける精神に振り回されていたことで、真に成したい「自我」を捉えることができませんでした。「自我」を見出さなければならないという自己的強迫観念は、彼に出口の無い苦悩を与え続けます。そのような焦燥感を常に持ち、他者を強く受け入れてしまう感受性は、一見して優柔不断な様子を帯びさせ、掴みどころの無い存在感を見る者に与えます。そのように自身でも心に不調和を感じるような状況で、ひたすらに欲するものが「愛」でした。


婦人公論』の記者である波多野秋子と出会ったのは1923年です。とても美しいことが当時の文壇で話題となり、芥川龍之介などの多くの作家が出会うことを望んだほどに広まっていました。有島と秋子は激しく恋愛感情を高め合って、深い関係を築きます。しかし、関係が世に明らかとなり、秋子の配偶者から金銭などを要求される事態に陥ります。そして二人で失踪した後に、軽井沢の別荘にて心中しました。秋子の強い感情を有島は受け止め、鋭敏な感受性と敏感な観念によって、唯一見出して欲し続けた「愛」によって死を受け入れることになりました。


有島を苦しめ続けた「荒々しい何か」は、観念の目を通した「愛」であると言えます。その愛は、自然にも人間にも向けられ、感受した生命力は彼の情熱を生み出します。キリスト教によって築かれた人道主義の礎が、「白樺派」の理想主義文学へと導き、最愛の死をもって敏感な観念を養われ、「自我」を求めた末の「愛」によって死を選びました。流されるように周囲の影響を受けながら、それでも自我を、愛を、究極的に求めようとしていたその情熱は、どの作品にも込められており、読む者に憂鬱以上の荒々しい重さを感じさせます。

 

余は余自らよく知るが如く人の中最も弱し。余は嘗て人より「汝強し」と云われたる事なし。神は余が弱きを選び給いぬ。.....余は余が弱きに依りて傲らん。人皆我よりも強し。しかも余の如く愛し得るもの幾人ぞや。


有島は、諸国外遊前の日記にこのように書いています。彼は誰よりも弱さを自覚していました。それでも全く消えない根強い情熱は彼の生涯を燃やし続け、苦悩を抱えながらも生を見据え、芸術を讃え、愛を求め続けました。彼の心中と、本作の画家の行動が対比的に相違している点を、有島が描いた理想と現実という受け止め方をすると、受ける感情は感慨深いものがあります。

 

もう自然はもとの自然だった。いつのまにか元どおりな崩壊したようなさびしい表情に満たされて涯もなく君の周囲に広がっていた。君はそれを感ずると、ひたと底のない寂寥の念に襲われだした。男らしい君の胸をぎゅっと引きしめるようにして、熱い涙がとめどなく流れ始めた。君はただひとり真夜中の暗やみの中にすすり上げながら、まっ白に積んだ雪の上にうずくまってしまった、立ち続ける力さえ失ってしまって。


迫力のある船上の描写や、精神の揺れ動きと自然の呼応は、終生の有島の持つ苦悩を予見して描き切っているようにも思えます。本作『生まれいずる悩み』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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