RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『濁った頭』志賀直哉 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

明治37年の『菜の花と小娘』から大正3年の『児を盗む話』まで、著者の作家的自我確立の営みの跡をたどる短編集第一集。瓢箪が好きでたまらない少年と、それをにがにがしく思う父や師との対立を描く初期短編の代表作『清兵衛と瓢箪』、自分の努力で正義を支えた人間が、そのために味わわなければならなかった物足りない感じを表現した『正義派』など全18編を収録する。


志賀直哉(1883-1971)は、現在の宮城県石巻市で誕生しました。父親は、第一銀行石巻支店に勤務しながら、鉄道会社、薬品会社、保険会社などの専務や取締役も兼ねた大実業家でした。志賀が二歳のとき、父は銀行を退職してまもなく東京に移ります。志賀には兄がいましたが僅か三歳で早逝、その原因を母の銀にあると見た祖父母は、家督を絶やしてはならないと、自らで養育するために一家を東京へ越させました。この祖父は華族である相馬家の家令を務め、古河市兵衛と共に足尾銅山の開発に携わりました。志賀はあらゆるものから守られるように大切に育てられ、豊かな環境で育ちます。そして彼が初等科を卒業した十二歳の夏に、心労も合わさって母親が亡くなります。すると間も無く、その秋に父は後妻を迎えます。彼は母の死を「初めて起こつた取りかへしのつかぬ事」と受け止め、後日、『母の死と新しい母』で書き綴っています。こうして一層、志賀は祖父母に育てられました。ちょうどその頃に学習院の中等科へ入学すると、画家の有島生馬とともに「倹遊会」を結成して会誌を発行し始めます。和歌を中心とした作品で、文士としての初めての活動でした。十八歳になると、彼は志賀家の書生に勧められて思想家の内村鑑三の講習会に出席します。真実さの籠った熱弁にいたく感銘を受けた志賀は、そこから七年間、内村に師事し、キリスト教の思想を学びました。この頃より文士への意志が目覚め始め、夏目漱石をはじめ、尾崎紅葉徳冨蘆花、その他に海外文学にも多く触れて執筆の土台を構築していきます。東京帝国大学に入ると、武者小路実篤や木下利玄とともに読み合わせ会「十四日会」を開き、他の「望野」、「麦」、「桃園」などと合流して「白樺」を結成しました。


祖父母の溺愛によって強く育った志賀の自我は、父と幾多の口論を起こし、不和な関係が続いていました。実業家として名を馳せていた父は、やはり志賀を実業家として育てたい思いがあったためでもあります。この十八歳のときに、足尾銅山鉱毒問題が世間に広まりました。志賀は、銅山の視察を計画しましたが、祖父は元より父親自身の世間体から強く反対され、不和は決定的となりました。その後、二十四歳のときに、志賀は家の女中と深い仲となって、彼女との結婚を望みましたが、当然のように父親に反対され、修復困難な不和となります。募った父親に対する憤怒と憎悪は、志賀自身の心身を蝕み、強い自我を刺激して、父親に対する恐ろしい想像をはじめます。誰かが父親を殺さないだろうか、居なくならないだろうか、自分が殺さねばならないだろうか、殺せるだろうか、といった考えを延々と巡らせていました。この自我の暴走を抑えるため、志賀は筆に向かいます。恐ろしい空想は、事実と創作が入り乱れた恐ろしい作品群を生み出します。そのなかの一つが本作『濁った頭』です。当時の彼の異常な精神状態が垣間見える犯罪小説です。


本作は、夢から着想し、彼自身の神経衰弱の経験をもって書き上げたもので、作中にも多くの乱れた精神状態が見られます。筆者が津田という青年の語りを聞き及んで、作中で書き連ねていくという形式をとっています。癲狂院から出てきた津田は、キリスト教の「姦淫する勿れ」(婚前の性的交わりを禁ず)という教義に従うも、溢れ出る性欲に苦しみ、心的圧迫を感じていました。そんな状態のある日、母方の親族であるお夏という女性が一つ屋根に住まうことになります。津田はお夏の誘惑を受け、姦淫に及んでしまいました。毎日のように繰り返される行為は、二人の関係を滲ませ、家族に暗黙の了解として認識が広まります。環境に苦痛を感じ始めた津田はそこから逃げ出そうと考えますが、お夏は賛同して、結果的に駆け落ちすることになりました。家を飛び出した二人はさまざまな観光地へ向かい、旅の宿にて性行為に耽ります。頽廃的な生活を繰り返すことで、津田の自我は徐々に不安と不満が溜まり、その原因はお夏にあるように感じ始めます。その芽生えた負の感情は、やがて大きな憎悪へと変貌します。しかし自我に反して性欲は溢れ、淫蕩生活は続けられていきます。お夏から離れたい憎悪と、お夏から離れたくない性欲という、自我における矛盾が精神を蝕んで、この生活から逃れるにはお夏の死が必要であると思い至ります。すると、津田は畳屋が使う錐を用いて、冷静沈着にお夏の首を貫きました。しかしながら、この描写は端的であり、現実か空想か区別がつきません。津田自身も理解が出来ていない様子でした。そして津田は癲狂院に入れられたと語ります。


津田の「濁っていく頭」の描写は秀逸で、まさに実体験が無ければ描けないようなものです。志賀自身が感じた神経衰弱のなかの「濁った思考」がまざまざと描かれています。また、作中における津田が錯乱に至った根元は「汝、姦淫するなかれ」という教えであり、宗教の教えをアイロニックに描いているところにも、自己矛盾の根源を探し至った経験を感じさせられます。本作では、津田が癲狂院に入れられていたことが語られていますが、どのようにして癲狂院から出たのか、どのようにして語り手の宿へ辿り着いたのか、なぜその宿へ訪れたのか、といったことは語られていません。読後の妙に釈然としない感情は、津田、或いは志賀が感じた「頭の濁り」を伝えているようで、さまざまな想像を読者に求めます。

総ての力を尽し、力尽きて遂になると云うのが本統に絶対的な絶望でしょうが、私にはそれだけに力を尽す気力も第一にありません。寧ろ、それを以って申し訳とする絶望です。問題の解決とする絶望です。誇張です。宗教もない、道徳もない、社会もない、家庭もない。──今から思えば実に無意味な事です。その当時でも一方にはそんな気分を笑うような心持も、どうかすると出ては来ますが、私はそれを無理におさえて、緊張した、多少人工的な苛々した気分で、生活していました。然しそういう気分も止む時なしに続ける事は到底出来ません。ややもすると錦魚の為に蚯蚓を探してやる時の気分にもなるのです。


自我を強く高めるように溺愛のなかで育てられた志賀は、極端に我儘な感性を持っていたと言えます。言い換えれば、絶対的な自己肯定と言え、自身の感情、その元となる感受性の尊重は志賀文学の一つの大きな要素となっています。そして、流麗で緊密な文体には、直截的に感情を伝え、美しい文芸性を感じさせています。

自然と人間、そのあらゆる接触関係において、「快」と「不快」のいずれかを嗅ぎわけて生きている、この異常な潔癖で、エゴイスティックな感受性、それを信頼することが生きることのすべてであるかのような生きかた、──志賀直哉の文学が、それと切りはなすことのできないものである。

臼井吉見志賀直哉集』「人と文学」


志賀にとって文学とは、衝動的感情を吐き出すものでした。彼の高まった負の感情により沸き上がる「憎悪」「倦怠」「憤怒」「頽廃」を現実に発散できないが故に、執筆をもって発散していました。ここには、彼の実生活における経験が遠隔的な要素となって溶け込み、受けた負の感情に対して「どのように取りかへしをつけるか」ということが焦点となって、作品が構築されています。与えられる負の要素は至るところで生まれます。遊郭で、友人との談論で、芝居で、美術鑑賞で、どのような場面でも、志賀は「快」「不快」を受け取ります。しかし、そこで得られる感情は単純な正負の差し引きとはならず、「不快」が負の感情として蓄積していきます。その負を潜り抜けた精神は衰弱し、「頭を濁らせて」いきます。このように陥らせた絶対的な自我の強さを、志賀は自己の肯定をもって芸術という形へ昇華しました。彼は生涯、自分の感情や、それに振り回される自分の精神と、執筆という形で戦い続けました。


彼が「小説の神様」と呼ばれる根源には、強すぎる自我と、頽廃に苦しむ精神が存在していました。生み出された作品からは、自己の肯定、自己の探究、自己の救済、自己の自覚、などが感ぜられますが、何よりも根源にあるものは「衝動的感情の抑圧」であったと考えられます。この苦悩の連鎖は、長年不和であった父親との和解を契機に解消されていきます。彼が自身を護るために生み出した自己の肯定は、何よりも強い存在の父親に肯定されることによって、全てが浮かばれました。また、生死を彷徨った経験から得た「死」に対する目線は、より一層に現実を見つめる態度を高め、彼は晩年、随筆を綴ることが多くなりました。

白樺派」の代表的な作家であり、誰よりもその「自己肯定」を目指した志賀直哉。そのなかでも精神混濁の苦しむ最中に描いた本作『濁った頭』。未読の方はぜひ読んで、その感情を受け取ってください。

では。

 

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