RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『女ひと』室生犀星 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

「夏になると女の人の声にひびきがはいり、張りを帯びてうつくしくなる」。声、二の腕、あくび、死顔、そして蛇、齢六十を超えた作家が抱き続ける「女ひと」への尽きぬ思い、美男というにはほど遠い自分が女性の麗しさから離れられぬ哀しみとおかしみを軽やかに綴る。晩年の犀星ブームを導いた豊潤なエッセイ集。

 


廃藩置県まで加賀藩足軽頭であった父親は、女中を妊らせて一人の子が生まれました。世間の目から非難を逃れるため、真言宗雨方院の住職である室生真乗へ相談して、その内縁の妻に引き取らせることになりました。この子供が室生犀星(1889-1962)です。この義母は、他にも私生児を引き取り、男児は働き手として自分を養わせるため、女児は娼婦として売り払うため、そして幼い時分は憂さ晴らしに理不尽な折檻を与えて小間使にするという、非道の悪女でした。目の前で繰り広げられる不条理と怠惰は、犀星に絶えず不快感を与え続けました。そのような意図で育てられていたため、満足な教育を与えられることもなく、義母の醜悪さと淫蕩を見せつけられる日々を送ります。そして犀星は、義母の意向で高等小学校(現中学校)を中途退学させられ、地方裁判所の給仕として奉公に出されます。自分の意思に反した生活はただ苦しく、不快と苦悩を募らせていきます。このように高まった義母への感情は、恐怖と痛苦が混在する憎悪として一つの核を心に形成します。しかしこの裁判所に、河越風骨、赤倉錦風といった俳人があり、幸いにして犀星は俳句の手解きを受け、文士への道を照らし始めます。新聞や雑誌への投句、句会への参加などを続けると、やがて犀星の才が文壇に認められ始め、詩や小説などをも手掛けていきます。この影響で詩人の表悼影と友人になり、互いに違った性格を持って精神を高め合い、腕を磨き合いました。しかし、表悼影は弱冠十七歳にして肺病で亡くなり、犀星に不幸が襲います。価値を理解して認め合っていた存在を失い、悲嘆に暮れる日々のなか、犀星は自身が表の影を追っていたことを自覚して、自分の道を歩むため、精神的な独り立ちをしようと決意します。そして彼は、義母へ反旗を翻し、裁判所を退職して自らの手で文士として歩み始めます。


赤倉錦風を頼りに上京するも、貧しく辛い文士生活の日々でした。苦しい義母の囲いの生活から救ってくれた文学は、現実生活の厳しさという試練を与えます。結果的に、東京と金沢を何度も往復するという貧乏詩人となった彼は、徐々に一つの世界を心に抱き始めました。それは、現実とは異なる輝かしい未知の世界でした。学歴、教養の無さ、更には自身の容貌に強い劣等感を抱いていた彼は、現実から逃避するように美しい世界を心に見て精神を保ちます。そして、この心的世界で最も輝いていたのが、見たこともない生母の存在でした。犀星のなかで、二度と会うことのできない生母は憧れと理想が融合し、想いを重ねるほどに美しく昇華されていきます。このような現実からの逃避は、彼の精神を穏やかにさせると共に、作品への空想力を担うものとなり、独特の世界を作り出していきました。作品を次々と生み出すうちに、犀星は良い作品を生み出すには目標が必要であることに気付きます。表悼影の美しい詩に感化され、それを超えたいと願って溢れた創作力と熱量のように、明確な目標を掲げようと試みます。そして、義母への復讐を目的とした「文士としての成功」を目標としました。現実逃避から復讐という目標の変化は、「生母への憧憬」と「義母への憎悪」の二つの柱を明確に打ち立てることになります。犀星は、過去と現実と理想から、女性の本質を見抜く目を養い、凄まじい観察眼で作品に「女性」を描いていきました。

 

そして今夜見た公園にあるいろいろな生活が私に手近い感銘であつた。小唄売、映画館、魚釣り、木馬、群衆、十二階、はたらく女、そして何処の何者であるかが決して分らない都会特有の雑然たる混鬧が、好ましかつた。東京の第一夜をこんなところに送つたのも相応わしければ、半分病ましげで半分健康であるような公園の情景が、私と東京とをうまく結びつけてくれたようなものであつた。

『洋灯はくらいかあかるいか』


明治を終えて大正元年(1912年)を迎えると、日本の近代詩は黄金時代を迎えます。人気詩人の北原白秋をはじめ、抒情詩が全盛期となり、白秋主催の詩集『朱欒(ざんぼあ)』にて後押され、萩原朔太郎大手拓次らとともに、室生犀星は詩壇に堂々と名を見せることになりました。

犀星の『抒情小曲集』(1918年)は、近代抒情詩の頂点と言われ、手に取った読者だけではなく、同業詩人の数多くに絶賛の声を寄せられるなど、詩界に強烈な衝撃を与えました。その作風は文語体で書かれており、感情が鮮烈で、直截的な詩的表現を見せています。詩壇に見られる多くの抒情詩が短歌的発想であるのに対し、彼の根源は俳句であることから、その発想が独自性を帯びています。このような大胆で率直な感情表現は今までの詩壇では見られず、過去の詩が瞬時に色褪せて見えるほどの型破りな作風でした。犀星の義母によって与えられた苦しさから芽生えた復讐心、憧れと理想によって美化された生母への愛、二つの相反する女性像から生まれる独自の感情は、既存の詩の型さえも破壊して鮮烈に迸りました。

 

私はやはり内映を求めてゐた
涙そのもののやうに
深いやはらかい空気を求愛してゐた
へり下つて熱い端厳な言葉で
充ち溢るる感謝を用意して
まじめなこの世の
その万人の孤独から
しんみりと与へらるものを求めてゐた
遠いやうで心たかまる
永久の女性を求めてゐた
ある日は小鳥のやうに
ある日はうち沈んだ花のやうにしてゐた
その花の開ききるまで
匂ひ放つまで永いはるを吾等は待つてゐた

『万人の孤独』


実生活においても犀星は女性に対して、あらゆる方向へ情熱と観察を投げ掛けます。恋愛し、求愛するも、想い人と成就しなければ、犀星は娼婦の元へ足を運びます。すると、その貧しい身売りの女性に、真の美を見出そうとします。これは薄幸の境遇(犀星がそう捉える)にある女性像が、生母への思慕と繋がり、より一層の美しさを犀星に感じさせることにより生じています。無教養で野蛮とも言える野生を筆に漲らせる犀星は、熱情と復讐に駆られた作品で着々と義母への復讐を果たしていきます。そして彼は、自分の詩を愛した故郷の女性と結婚します。今まで得ることも感じることも無かった肉親女性の愛を知り、そして男女としての責任を知った犀星は、「愛」という人間性を受け止めて理解していきます。野生的に手を伸ばし続けた「美」に、倫理的な「愛」を得たことで、劣等感を単純な熱量に変換するだけでなく、感情の激しさを登場人物に取り入れて、物語にして描く手法を取り入れました。彼が生み出す小説は、シャルル・フィリップのように薄幸の美と、フョードル・ドストエフスキーのように激しい感情を描きます。そこに描かれる二つの核は「生母への憧憬」と「義母への憎悪」であり、名や姿を変えて何度も物語に登場します。女性を観察し、女性を描いてきた犀星にとって、作品を生み出す熱量の根源は、やはり女性であり、二つの核を通して精神に昇華されていきます。描く対象から願望へと変わった「女性」という存在は、やがて犀星にとって「世界」そのものとなりました。そして、描かれる「薄幸な女性への執着」は清廉な生母への愛着が見られます。

 

犀星にとって小説とは、女ひとを書くことであり、生きることにほかならなかった。それが犀星にとっての社会への復讐であり、人間への役立ちなのだ。その理想的女性像は、つねに静止することなく、永遠に満たされないものとして、未来に向いている。

奥野健男 室生犀星集「人と文学」


本作である晩年の随筆『女ひと』は、犀星の人生の全てを覆い、世界の全てを埋め尽くした「女ひと」を、成熟した観察眼と筆致で振り返りながら書き連ねた渾身の作です。そして磨き続けた聖性を纏う薄幸の美は、揺るがない強固な理想の柱として存在し、「あわれ」という姿勢を持って精神で包むように慈しみます。

 

我々の何時も失うてならないものは、女のひとへのあわれの情である。それはまた、女の人のすべてが、我々にあたえてくれなければならないのも、このあわれみ一すじなのだ、これが二人の人間のあいだに朝夕に編みこまれているあいだは、至極無事なのである。理解するとか何とかいうが、そんなものは百年経ってもだめだ、ただ相あわれむことである。


犀星の人生と心的世界を、生涯に渡って掻き乱し続けた「女性への愛と憎悪」は、端的な対比だけではなく、追究すべき対象として存在し続け、結果的に作家としての熱量を供給し続けました。そして辿り着いた「あわれ」という一つの姿勢は、憧憬も憎悪も冷静に見つめることを犀星に与えたのでした。彼の精神の核として存在した「女ひと」を書き連ねた集大成である本作。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

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