RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『青い麦』シドニー=ガブリエル・コレット 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

ブルターニュの海岸に毎年避暑にやって来る16歳の少年フィルと清純な少女ヴァンカは、芽ばえ始めた異性愛にとまどう。フィルは知り合った美しい中年女性の別荘を訪れ、はじめて時間をすごすが、ヴァンカは彼の突然の変化を感じ取り、二人はもはや無心な遊び友達ではいられなくなる……コレットが終生追究した肉欲のテーマを少年少女の混乱した心理を通して描いた散文詩的な小説。

 


フランスの中心からやや北部に位置するヨンヌ県、パリから南東へ200kmほど離れたサン・ソヴール・アン・ピュイゼ(Saint-Sauveur-en-Puisaye)にてシドニー=ガブリエル・コレット(1873-1954)は中産階級の家庭に生まれます。父はフランスの士官学校に所属する軍人でした。1859年にナポレオン三世サルディーニャ王国が手を組んでロンバルディアへ侵攻した第二次イタリア独立戦争(イタリア統一戦争)にて、軽装歩兵連隊として従軍します。激戦地区であったソルフェリーノで右足を失った彼は、妻の献身的な看護も報われず、治療の為に摂取しすぎたアルコールによって中毒者となり、富を失って亡くなります。これにより神への反抗心が高まり、妻はカトリックを捨てて無神論者として生きていきます。コレットはその家庭の四人きょうだいの末っ子で、強い自我と奔放な自由精神を持っていました。小さな頃より演劇に憧れた彼女は、舞台に立つことを夢見て過ごし、また読書を愛して、写実主義オノレ・ド・バルザック自然主義エミール・ゾラなどを読んで影響を受けました。


十六歳のとき、父の軍人時代の縁で、老舗大型出版社「ゴーティエ・ヴィラール」の御曹司と出会います。通称ウィリーと呼ばれるアンリ・ゴーティエ=ヴィラールは、作家や評論家と言った「肩書き」を多く持っていましたが、実態はゴーストライターに書かせていた曲者でした。幼少期より読書を愛していた彼女に作家の片鱗を見た彼は、やはり彼女をゴーストライターへと育てていきます。彼の名声を活用した社交界での売り込みは効果があり、彼女が書いた「彼の作品」は瞬く間に受け入れられ、『クロディーヌ』の連作は国内で大きく広まりました。しかし、もはや開花した彼女の才能はゴーストライターという肩書きを受け入れることはできず、ウィリーの同性愛者との浮気にも嫌気がさして、ついに離婚をするに至ります。彼への抵抗の一環として、既に活動していたもう一つの夢である舞台の仕事に専念します。彼女が魅せる官能舞踊や演劇上の激しい性的表現は、観客を強く惹きつけますが、その激しさから強い非難も受けました。このような、男性優位の時代を打ち壊す奔放で自由な発想と振舞いは、後の執筆人生に強い傾向として如実に現れます。


当時の人気日刊紙「ル・マタン」(Le Matin)にて、彼女自身の力で連載が始まります。主筆の一人であるアンリ・ド・ジュヴネルが社内の反対を押し切ってコレットを採用しました。この文芸欄には、報道を交えた随筆や随想も含まれていましたが、概ね読者の評価を得て長期的な掲載を実現しました。ジュヴネルの庇護の元で執筆を続けた彼女は、彼との距離を縮めてついに結婚に至りました。しかし、ジュヴネルの連れ子ベルトランとコレットとの関係が露見して、夫婦仲は崩壊、十年を超える結婚生活は幕を下ろしました。この離婚の原因となったベルトランとの関係や感情を滲ませて描いた作品が本作『青い麦』です。


出版された1922年のパリは「狂乱の時代」の真っ只中でした。第一次世界大戦を終え、芸術の都へと他国より訪れる多くの芸術家が相次ぎ、モンマルトルやモンパルナスのカフェでは夜通し交流が行われていました。パヴロ・ピカソマルセル・デュシャンなどの美術家、アンドレ・ジイドやジャン・コクトーなどの本国の作家、ジェイムズ・ジョイスアーネスト・ヘミングウェイなどの他国の作家、アンドレ・ブルトンサルバドール・ダリなどのシュルレアリスト。「エコール・ド・パリ」「ロスト・ジェネレーション」「ダダイスト」「シュルレアリスム」、数え挙げられないほどの後世に影響を与えた芸術の主義と人々は、たった一つの街中を同じ時間に歩き回っていました。そして芸術に対しての受け入れる姿勢が、パリの都全域で、多岐に、寛容に、辛辣に、熱量を帯びていきます。


青い麦』における十代の愛の物語は、ブルターニュのひと夏として、自然と官能を織り重ねて描かれています。思春期におけるイニシエーションとしての悦楽と安楽を性に求める未熟な行為は、妥協的な大人の世界を拒否する子供の未熟で頑なな精神が、愚かさを帯びて綴られます。レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』にも見られるような、思春期における未熟だからこその複雑さを持って描かれる心理は、コレットが感じたベルトランの持つ感情を受けた実体験から湧き出たものであり、だからこその粘り気と生々しさが強く読者の心へ入り込んできます。「作品を描くためには体験が必要である」という彼女の考え方に則って、本作は五感の全てで感じた悦楽と苦悩を封じ込めた作品として仕上げられました。彼女は愛の開花について描く本作で、初めての性体験によって起こる内面精神の変化を表現しています。そして、男性に起こる女性性、女性に起こる男性性が、性の対象への姿勢として内面変化から外面変化に映し出されます。このような試みは当時において非常に挑戦的な試みでした。性に対する現在のような需要態度ではない世間は、大きな非難を持って出版社へ抗議しました。


少年フィルは、どのような人間として生きたいのか、どのような社会的な地位を得たいのか、不安と慢心が心に溢れて将来を悲観的に受け止めていきます。幼馴染であり、恋人となるであろう、将来を添い遂げるであろう、美しい少女ヴァンカへ開け放した感情を無遠慮に投げつけます。彼の心の不安は、未経験の性体験によって募る負の感情が大きなものへと育て上げます。そして出会ったダルレー婦人に性的に魅了されて閨房で忍び逢います。またフィルやヴァンカの両親は、作中で度々「影」と呼ばれます。物語がフィルの心を軸に進められていることで、彼の心の視野が狭まり、異性への感情が精神を支配していることを表現しています。そしてその心は「性」と「死」を結びつけて心を暗く深いところへと押し込んでいきます。

昨夜、紅灯影ほの暗く匂うあたりで、強いて彼を一人前の男に、勝利者に、祭り上げようと企む美女の腕の間から、彼が得てきたものは、果して何であったろうか?悩む権利だろうか?気の強い無邪気な娘の前で、気弱に失神する権利だろうか?それとも、生物の生命のはかなさを、そのはかない生命が流す血を前に、理由もなしにわななく権利だろうか?……


コレット自身が同性愛者との愛人関係を持ち、ジャン・コクトーアンドレ・ジイドなどと親交を深めるなど、「性に対する受容態度」が非常に柔軟であったと同時に、彼女へ性が与える刺激は強烈なものであったと考えられます。性が与える感情変化は、快楽や不快を超えて「精神の生死」まで到達することを体験として得ています。そして、その体験を執筆の原動力として本作を描ききっているように感じられました。幼少期に受けた母による無信仰は、カトリック世界の価値観から解放して、自由な性の捉え方をする芸術家を育て上げました。


破天荒な生涯の印象を受けるコレットですが、本作『青い麦』には、彼女の持つ細かな観察眼と心の繊細な分析が詰め込まれています。そして、読者の心の奥底を掻き回すような描写に、実体験の感情記憶を呼び覚まされて、読後に憂いを漂わされます。未読の方はぜひ、体感してください。

では。

 

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