RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『林檎の樹』ジョン・ゴールズワージー 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

銀婚式の日、妻と共に若い日の思い出の地を訪れた初老のアシャーストの胸に去来するものは、かつて月光を浴びて花咲く林檎の樹の下で愛を誓った、神秘的なまでに美しい、野生の乙女ミーガンのおもかげ、かえらぬ青春の悔いだった……。美しく花ひらいた林檎の樹(望んでも到達することはない理想郷)の眩ゆさを、哀愁こめて甘美に奏でたロマンの香り高い作品。

 


イギリスに根付いていた階級社会は二十世紀初頭においても顕著であり、貴族階級や中産階級が資本を支配する格差社会が固く構築されていました。人口の約80%は労働者階級として貧困に悩まされて暮らしていました。産業革命によって機械化が広がり、都市部の発展は留まることを知らずロンドンは世界有数の大都市となりました。反して、広大な農地が広がる郊外は、時代をゆっくりと進むように変化を見せず、経済的な乖離を生んでいきます。発展は国益に貢献するものの、一部の国民の生活を豊かにしたのみで、機械化に職を失わされた労働者階級の人々は革命以前の農耕時代を懐古することも多くありました。当時の英国文壇、とくに詩においてはそのような風潮が強く、貧困に苦しむ者の救いとして世に出て支持されます。

ジョン・ゴールズワージー(1867-1933)はイングランド南西部デボンジャー(現デボン州)で弁護士の家に生まれ、自身も法学を修めて法曹界へと進みます。しかし、性分に合わず、別に父が手を広げていた船舶業の厄介になりながら世界を回ります。この頃にロシア帝国キエフ生まれで壮絶な幼少期を経たジョゼフ・コンラッドと出会い、親交を結んで後の作家への道を後押ししています。


ゴールズワージーは、代表連作「フォーサイト・サーガ」でも描かれているように、富裕階級社会の精神や姿勢を強く批判しています。彼は、真に優れた精神は人間の内に潜在しているという思考で、「真の善意」が人生を豊かにするという信念を持って執筆していました。本作『林檎の樹』が1916年、つまり第一次世界大戦争の最中に出版され、陰鬱な時代が到来しているからこそ、人は人生の幸福というものに心を向かわせる必要があると訴えています。


語り手のアシャーストが銀婚式の祝いの旅で訪れた荒野で過去を追想するところから物語は始まります。昔、同地を訪れて出会った少女との出来事を思い返していきます。素朴で飾らないからこその美しさを備えた少女ミーガンと、僅かな期間で心の距離を縮め、都会に住む富裕層の自分は騎士然とした心持ちで接し、愛を急速に育んで契りを結ぼうと持ち掛けます。田舎の農地で暮らすミーガンには、手の届かない階級で都会人らしく紳士を装うアシャーストは天上の人の印象を持ち、二つ返事で受諾します。彼は一度都心へ戻り、金銭の工面や礼装の手配などの婚姻の準備を行います。その最中に旧友の貴族と出会うと、懐かしさから意気投合して食事へと向かい家族を紹介されました。そこには美しくも嫋やかな淑女ステラが友人の妹として存在していました。礼儀作法や機知に富み、親愛の心を見せるステラにアシャーストの心もまた揺れ動きます。婚姻の準備ができ次第に農場へと戻るというミーガンとの約束は、一日、一日と反故にされ、破り捨てられます。そして遂に、約束とともにミーガンを捨て去ろうと決意します。旧友の事故を救ったアシャーストはステラとの仲が睦まじくなり、家族ぐるみで行動をともにします。そして車での移動中に、彼は思いも掛けない姿を目にします。都心から郊外へと向かう歩道に、鎮痛な面持ちのミーガンが都会へ急ぎ歩いている姿でした。物語は悲劇へと突き進んでいきます。


富裕者であるアシャーストの根底に潜む階級意識は、無意識の中にあり、貧困層の人へ騎士然と向かって「白馬の王子の真似事」のような気持ちをミーガンへ向けます。自己満足的な快楽の道具にされた彼女は、それさえも想像できず、まさに救いの手と映り、恋心は尊敬と幸福で満たされていきます。アシャーストが一生の問題をある種の浅はかで端的な思考のもとで決断した原因には、開放的な田舎での非現実的意識が挙げられます。性分として持っていたロマンティストの資質を膨大させ、目の前に広がる金色に輝く美しい農地と果樹は、自身に気持ちを寄せる無垢で美しいミーガンを愛の女神アフロディテと見紛うほどに心を奪われます。そして、この出会いを運命的なものと捉え、共に過ごす将来に理想郷を見たと言えます。しかし、都市部へ戻ると豊かに溢れたロマンティシズムの感覚は現実へと帰し、富裕層の持つ品位、文化的豊かさへの魅力が湧き戻ってきます。そこで出会った美しき麗人ステラに、富裕層であるからこそ持つ美しさを面前に受けて慈しむ心が芽生えます。感情豊かに包み込むような愛を見せる彼女に月の女神ダイアナを重ね合わせて、心はミーガンから離れていきます。階級意識が生んだ偽善的騎士道は、置き去りにしたミーガンに対する罪悪の心を抱きます。この罪の意識は、義務的な思考から生まれたものであり、決して強いものではありません。旧友の言葉尻を捕まえて自身の行動、そしてステラへの感情を正当化します。あれだけ思い悩んでいたと自覚しながらも、言い訳を見つけた途端に心は晴れていき、ミーガンをさっぱりと忘れきってしまいます。


作中の初めと終わりで挟むように、エウリピデス『ヒポリタス』が引用されます。本作の恋模様と「結果的には」同じような結末を迎える悲劇です。エウリピデスにおけるフェードラは、愛の相手ヒポリタスの純潔を守るために身を引きます。しかし本作におけるアシャーストは、階級意識のために身を引くという雲泥の違いがあり、彼の欺瞞性を浮き彫りにしています。また、本作を抒情性豊かに描くことで富裕層の行為の残酷性を鮮やかに突き付けてきます。そして、本作の締めくくりであるエピローグでアフロディテによる復讐がアシャーストを襲います。銀婚式という特別な祝いの日に、この上ない精神の打撃を打ち付けられます。


このような筋書きでありながら、本作は抒情性豊かな散文詩として仕上げられています。農地に広がる輝く自然と、純粋性を備えたミーガンの美しさを表す描写は、理想郷の一端を垣間見るようです。それは彼女の魂を反映しているとも言え、初めて開かれたかのような涙に濡れた瞳は、無垢性を十全に表しています。そして、その美しさと幸福は手に入りません。理想郷を目の当たりにしていながら、人間は自身の浅はかさによって遠退けてしまいます。本作に通底する思想は、まさにここにあります。

 

美的感覚をもつ男にとっては、この世に求めうる理想郷も、永遠につづく幸福の港もありえないのだーーそれらの空しさにくらべれば、絵画や詩歌の中にとらえられた美は永遠に存在し、それを見、それを読むことによって常に同じ感嘆すべき高貴な感覚と、心地よき陶酔とを味わいうるものである。たしかに人生にも美の要素をもった、胸おどる大歓喜の瞬間があるだろう。だが、それらは太陽の前をよぎる一片の雲よりもはかないもので、芸術が美をとらえて不朽のものとするようなわけにはいかない。それらは、自然の中にあって、ひらめくとも輝く女神の金色の幻か、はるけく思いにふける妖精の一瞬のきらめきかのように、はかなく消え去るものである。


読後は確かに気分の晴れない作品ではありますが、ゴールズワージーは英国農耕時代に人々が持ち得ていた「真の善意」を高次の段階で表現して、富裕層社会を痛烈に批判しています。心の奥底にあるはずの高潔な善の心は、慌ただしさと困難で埋もれていきます。魂を掘り起こして日頃の感情や行為を省みる良い機会になる本作『林檎の樹』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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