RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『秘密の花園』フランシス・ホジソン・バーネット 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

両親を亡くし、ヨークシャーの伯父にひきとられた少女メアリー。やせっぽちで顔色の悪かった彼女が温かい人々、輝く太陽、澄んだ空気に触れるうち、バラ色の頬をした快活な少女に生まれ変わっていきます。荒れ地の「魔法」はさらに、病弱で寝たきりだったいとこコリンにも勇気と生きる力を与えます。彼女が秘密の花園の扉を開く時、閉ざされた心の扉も同時に開かれていくのでした。

 

1830年にスティーブンソンが実用化させた蒸気機関車マンチェスターリヴァプールを繋いで開通し、イギリス産業革命は成熟期に入ります。機関車や線路の原料である鉄、燃料として使用する石炭、運ぶ売買目的の商業品(紡績、綿織物、工芸品、食品など)は、交通革命の恩恵で莫大な利益と工業地帯への人口増加を呼び起こします。フランシス・ホジソン・バーネット(1849-1924)は、マンチェスターに住む銀装具製造で財を成した裕福な父の元に生まれます。何不自由の無い生活を約束されていましたが、バーネットが僅か三歳の時に父が急死してしまいます。資本主義社会の厳しさに当てられ、瞬く間に貧困の暮らしを余儀なくされました。親戚の元へ身を寄せ、目の前の生活を暮らしていましたが、バーネットにとっては家に備えられていた庭園が遊び相手でした。祖母からもらった花の図鑑を片手に、熱心に植物を観察して大切に育てていきます。父の死と花の生を受けて、生命に関心を芽生えさせていきます。その後、母は兄の助言を受けて、移民を受け入れる新天地アメリカへと子供を連れて渡り、豊かな生活を思い描きます。


1860年に行われたアメリカ大統領選挙で当選した共和党エイブラハム・リンカーンは、公約していた奴隷制度の拡大阻止を改めて掲げました。アメリカ南部諸州では奴隷を用いたプランテーションを中心とした農業が収入源であったため、大きな反発が生まれます。南部諸州は、北部の商業を中心とした生活や環境の違いによって連邦制との整合性を失っていき、遂にはテネシー州を含む旧南部十五州(オールドサウス)が合衆国から分離します。離れた諸州はアメリカ連合国(CSA)という国を立ち上げて、北部のアメリカ合衆国(USA)と真っ向対立します。この激しい戦争は1865年の南部降伏まで続き、アメリカにおいて最も多くの死者を出して終戦します。北部の勝利により公には黒人奴隷は解放されましたが、経済的に自立することが困難な環境であったため、シェアクロッパー(分益小作人)として白人に従い続ける貧困生活を続けました。

南北戦争では軍需によって鉄鋼業、製鉄業を中心とした工業が活性化します。また、スティーブンソンの蒸気機関車技術に感化されるように、サミュエル・モールスの電信技術、タイプライターや輪転機などの商業進化、トーマス・エジソンによる白熱灯や蓄音機の発明などが次々と実用化され、農業大国であったアメリカは巨大な都市国家へと変貌しました。


バーネットは1865年、この国家成長の只中にアメリカのテネシー州へ渡ってきました。しかし国として大きな潤いがあるものの、大衆の多くは貧困に悩まされており、母子家庭であった彼女たちの生活は苦しいものに違いはありませんでした。そこで、飛び抜けた空想力、想像力を持ち合わせていたバーネットは執筆を試みます。僅か十六歳が書け上げたとはとは思えない作品は、家庭の希望となります。出版社もこれを受け入れて、彼女は作家の道を歩み始めました。

しかし数年後の1870年に最愛の母が亡くなります。訪れた悲しみの中でも執筆を続けて作家として成長を続け、徐々に作家として名前が広まり始めます。その悲しみを支えたスワン・バーネットという眼科医と結婚し、二人の子供が生まれました。この次男をモデルとした作品『小公子』を1886年に発表して社会現象となるほどの影響を世に与えます。二年後には『セーラー・クルー』(後に『小公女』と改題して再執筆)を発表し、児童文学作家としての名声を不動のものとします。


幸せはなかなか長続きせず、またも不幸に見舞われます。1890年に長男が病死します。十代半ばの我が子を失った悲しみは深く、家庭内でも不和が起こり始めます。1898年に正式に離婚したバーネットはイギリスへと戻ります。成功を手にした彼女は、ケント州ロルヴェンデンにあるグレイト・メイサム・ホールを住まいとして暮らすことにしました。広大な庭園を持つ美しい建物は1893年に大部分を火災で消失してしまいましたが、住居として利用できる部分は充分残っており、バーネットは改修して移り住みます。この庭で彼女は、蔦に覆われて見つけられない扉をコマドリに教わります。背の高い壁に囲まれた朽ちた薔薇園がそこにあり、僅かな息吹を感じて再び蘇らせようと決意します。まさに本作『秘密の花園』のメアリーが体感したことを、バーネット自身が経験したのでした。このグレイト・メイサム・ホールの庭園は今もなお美しさを保って健在しています。

アメリカでの市民権を1905年に獲得したバーネットはその三年後にニューヨーク州のロング・アイランドにあるプランドームという村に、念願の庭園を備えた家を購入します。丹念に設計された庭園は、彼女の人生の生き甲斐として、伴侶として、最期まで共に過ごしました。

ほとんどいつもひとりきりでしたが、よく知っている花と一緒にいると、決して独りぼっちではありませんでした。ごく自然に、花に話しかけたり、かがみこんでやさしい声をかけたり、キスしたり、友人や愛するものを見るようにその子を見上げる様子がかわいいと褒めたりしました。

『バーネット自伝』


彼女の中で、幼少期に過ごした親戚の家で見た庭園はエデンの園として心の底に染み付いていました。晩年におけるグレイト・メイサム・ホール、プランドームでの日々は彼女に生きる活力を漲らせていました。『秘密の花園』においてもエデンの園を感じさせる描写が数多あります。


朽ちているように見えた樹々を丹念に世話をすると、種々の植物が芽吹き、遂には春がやって来ます。コリンの母リリアス、ディコンの母スーザンは聖母マリアのような面影と心を持って登場人物を優しく包みます。そしてディコンの持つ優しさは自然と言葉を交わし、不思議な暖かい力で触れるものを少しずつ幸福にします。キリストのような印象を持つ彼の聖性を帯びた力は「魔法」と作中で呼ばれています。そして無垢に荒んだ心を持ったメアリーは自然や人々との出会いで心が生まれ変わり、マグダラのマリアの如く美しくなるように描かれています。生命と聖性に溢れた本作の描写は、バーネット自身が庭園を聖的なものとして捉えていたことが窺えます。


しかしながら本作『秘密の花園』は、神の愛や奇跡の物語ではなく、心と心が通う親愛が精神的あるいは肉体的幸福を与え合う物語として描かれています。コリンが自身に起こす奇跡的変化は、「魔法」という自己暗示と、メアリーによるセラピーが起こしています。メアリーは塞ぎ込んでいた彼の心の扉を開き、干渉によって心に変化を与え、交流と衝突で心の在り方に変化を齎します。生きたい、生きようと心の在り方が変化したコリンは望みを唱え続け、自身で「魔法」と解釈した自己暗示による努力を熱心に行い、メアリーは傍らで優しく支え続けます。緩やかな身体的変化はコリンの中で歓喜と感謝で溢れます。明確な神の認識が無い中での神への感謝は、無自覚な信仰として彼の中に現れ、ディコンの教える賛美歌に心が震えます。彼らは神という概念に縋る努力ではなく、親愛による努力と心の在り方を持って彼ら自身を幸福へと導いています。

おら、今までそんな「マホウ」だなんて名前は一度も聞いたことはねえだが、名前なんてどうだっていいだ。おら、ほんとに、フランスでもドイツでも、それぞれちがった名前で、そのことをいってると思うだ。そりゃ、種子をふくらましたり、お日様の光で、おめえ様が丈夫な子になるのと同じ力だから、「いいもの」にちがいねえだよ。

ただ、おめえ様がよろこんでいるかどうかが、かんじんなことだったんだよ。なあ、坊ちゃん、おらたちを楽しくしてくれるえらい方には、名前なんかどうだってかまわねえだ


バーネットの人生には身近な死があまりに多すぎました。生死を見つめる時間は「生命」を考える時間となり、自然との関わり方、心の在り方が与える精神的変化や奇跡的な力を見出しました。晩年になり成熟した思考を持って執筆された本作『秘密の花園』は、読者の心に春を訪れさせる物語と言えます。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

『ベートーヴェンの生涯』ロマン・ロラン 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

少年時代からベートーヴェンの音楽を生活の友とし、その生き方を自らの生の戦いの中で支えとしてきたロマン・ロラン(1866-1944)によるベートーヴェン賛歌。二十世紀の初頭にあって、来るべき大戦の予感の中で自らの理想精神が抑圧されているのを感じていた世代にとってもまた、彼の音楽は解放の言葉であった。

神聖ローマ帝国の末期、現在のドイツ西部にある国境沿いの大都市ボンは十三世紀より続く代々のケルン大司教によって、選帝侯としての自治が担われていました。不安定な情勢において他国からの侵攻を望まない姿勢を、その治世によって表明します。絵画、彫刻、音楽、文学、演劇など、公費の予算を軍備ではなく芸術へ注ぎ続けていきます。政策効果は歴然とあらわれていき、後のボン大学の存在やノーベル賞受賞者の輩出からも裏付けされています。このような背景から当時の芸術は宮廷に属して、権力者や宗教のために作られ、描かれ、奏でられていました。


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)は選帝侯に楽長として仕える歌手の祖父、同様に宮廷歌手の父の元に、音楽的な強い期待を抱かれて生まれました。当時の話題を席巻していた神童モーツァルトのように育てたい父ヨハンは、虐待とも言える厳しさで音楽教育を与えます。音楽的資質を持ち合わせた彼は身体に痣を作りながらも、才能を開花させて期待に応えていきます。しかしアルコールに溺れる父は散財し、祖父の援助を受けながらもひどい貧困の中でベートーヴェンは育つこととなります。まだ幼いながらも飲み屋などでピアノを弾かされ、得た日銭を父に巻き上げられていました。成人間近となったベートーヴェンは最愛の母マリアを亡くします。悲しみに覆われたのも束の間、父ヨハンの酒量が増加してアルコール依存性が加速、遂には宮廷歌手を失職してしまいます。悲しむ間も無く幼い弟たちの面倒を見るため、父と入れ替わるように宮廷楽師となり、結果的に音楽家としての道を歩みはじめました。


宮廷楽師となった1789年、フランス王国では「自由、平等、平和」を掲げた貴族体制崩壊を目指した市民革命が勃発します。貴族による政治、経済、思想、芸術の支配からの解放にベートーヴェンも共感して、強く影響を受けます。教養を身に付けるため、ボン大学の聴講生となっていた彼は、同時に芸術的感性を磨くため、音楽以外の芸術にも積極的に触れていきます。そして生涯の主題ともなる運命的な詩と出会います。フランス革命の思想を先駆けて掲げていた詩人フリードリヒ・フォン・シラーの「歓喜に寄す」です。「歓喜」に込められた自由思想は、ベートーヴェンの音楽観、芸術観を高みへと導きます。貴族から解放された音楽には別の芸術性を込められるのではないか、音楽芸術だからこそ表現できるものがあるのではないか、音楽の在り方とは芸術的なものではないのか。彼の中で音楽芸術の追求こそが自身の使命であると徐々に形造られていきます。また、その探究心から、ハイドンに師事を受けるべくヴィーンへと旅立ちボンを離れることになります。彼はこの頃から作曲家として次々と楽曲を生み出していきます。


フランス革命の立役者であるナポレオン・ボナパルトの存在に、ベートーヴェンは強く惹かれます。ブルジョワジー革命が成り、宮廷貴族支配から解き放たれた商工業者たちは政権を握り、租税改革を行って宮廷へ不要に注がれていた財を食い止めて商工業へと流します。しかし実態的には改革を行った最上級位(ブルジョワジー)たちにのみ直接的に利潤が回っただけで、大衆の殆どは異常な税負担は軽減されたものの、苦しい生活に変わりはありませんでした。それでもベートーヴェンはナポレオンを英雄的に讃え、交響曲第三番《英雄》(エロイカ)を書き上げます。大衆にとっての英雄として、敬愛を込めて献呈しようとしていました。しかし、彼はナポレオンが皇帝に即位したと知って失望し、憤慨し、献呈の言葉を紙が破れるほど訂正して「ある英雄の思い出のために」と書き直しています。権力社会に立ち向かった英雄が、最大権力者の座についたことが、ベートーヴェンにとって赦し難い行為であったと言えます。


またこの頃から原因不明の難聴に苦しめられます。音楽家としての生命とも言える耳の不自由は、音楽芸術に使命感を覚えた彼にとって絶望的な事態でした。遂に死までも覚悟し、「ハイリゲンシュタットの遺書」と言われるものを認め、苦悩は最大限に高まります。しかし、溢れ出る創作意欲と異常なまでの使命感で、この得た難聴を「神の業」と捉えるところまで昇華し、苦境に立ち向かう決意をします。彼が持ち得ていた情熱は、時に気性を激しくさせて瞬間湯沸かし器のように周囲に思われていましたが、自ら輪を掛けるように傲岸不遜な振る舞いを意図して行い、厭世人であるように思わせて人を遠ざけ、自身が難聴であることを気取られないようにしました。これが貧困に拍車を掛けることとなってしまいましたが、「音楽は芸術である」という誇りも相まって、頑として貴族への商業的作曲を拒み、音楽芸術の追求に集中していきます。


ベートーヴェンは、交響曲第三番の発表から「傑作の森」と言われる多作の時期が訪れます。難聴を「神の業」と捉えてその後の使命を神格化した交響曲第五番「運命」、貧困と難聴の苦しみから逃れて心の静穏を図った交響曲第六番「田園」など、彼の代表的な作品が次々と創作されます。

しかし、名声が広がるのと同じくして、彼の耳はいよいよ殆どの聴覚を失います。焦燥感と使命感に挟まれて苦しみの淵に舞い戻った彼に、追い討つように良くない報せが届きます。愛甥の拳銃自殺未遂でした。軍への入隊を希望していた甥と、芸術家への道を歩ませたかったベートーヴェンの諍いの果てでした。更なる苦しみを負った彼は、ただ一人で悩み続けます。そして彼は一つの光を思い起こします。シラーの「歓喜に寄す」です。苦しみの果てに歓喜がある、歓喜のための業である、神の業を歓喜へ。貴族社会からの解放、難聴による苦境からの解放、近しい人々を襲う不幸からの解放、貧困からの解放、人と関わることのできない不遇からの解放、名声による周囲との不協和音からの解放、これらが綯い交ぜになった苦しい精神を音楽芸術によって歓喜へと導くことを自身の運命であると受け止めて作曲します。そして晩年の傑作の一つ、交響曲第九番が完成します。

これこそそうだ、見つかった。歓喜

ベートーヴェン『音楽ノート』


今までの常識を打ち破り、声楽の導入、ピッコロや大太鼓などの軍楽器の導入など、曲に触れるものに驚きと感動を強く与えます。暗雲や靄が覆う重く暗い始まりを持つ第一楽章、悪魔と天使が激しく戦う壮大な第二楽章、安息と美に包まれて安らかな印象を受ける第三楽章、これらの素晴らしい音を全て否定する第四楽章。そして天啓のように声楽が吹き込まれ、「この音ではない、みなで歓喜の歌を歌おう」と繰り返されます。ベートーヴェンは奇を衒った訳では決してなく、「より良い音楽を、全てに歓喜を」の一心で作曲したのでした。

神の、美しく偉大な意図に沿って、
太陽は天空を巡る、そのように、
兄弟たちよ、喜び勇んで君たちの道を進め、
歓びに満ち、英雄が勝利に向かって進むように!
抱きあおう、幾百万もの人々よ!
この口づけを、世界中に!
兄弟よ、あの星空の、その上に、愛すべき、
父なる神が住んでいるに違いないのだ。


交響曲第九番完成当時のヴィーンではフランス革命の思想余波を皇帝は懸念して検閲に力を入れていました。「自由、平等、平和」は、まだ広がり始めたばかりでした。これらを踏襲する芸術家や思想家は逮捕という弾圧にあい、思いのままに表現することができませんでした。ベートーヴェンも慎重に、周囲へ細心の注意を払って発表したいと訴えます。実現した発表会は、国から危険な思想の持ち主と指定された作曲家でありながら、多くの民衆が駆けつけて開かれ、大喝采にて終えることができました。そして後世の作曲家へ大いなる影響を与えます。


ベートーヴェンはその振る舞いから人嫌いであると思われていました。しかし、彼は誰よりも全人類、全世界、音楽芸術を考え、苦悩しました。交響曲第九番はそれらの思いを込めた集大成とも言える作品で、後世に博愛を届け続けています。シラーの詩に出会って三十年以上経ち、遂に交響曲へと昇華させた偉業は今後も讃えられ続けます。


本作『ベートーヴェンの生涯』は平和主義作家ロマン・ロラン(1866-1944)の研究を踏まえた執筆作品です。ベートーヴェンが苦しみから歓喜へと導いた生涯に向けた愛のこもった讃歌です。ヒューマニズム、反ファシストを込めて世に出した彼の作品はフランスではあまり認められませんでした。しかし彼は、アンリ・バルビュスと共に結成した「反ファシズム国際委員会」での活動を中心に世界に認められ、国際的な交流による支持者を多く得ることができました。ロマン・ロランもまた全人類、全世界の幸福を視野に捉えていたのでした。彼にとってベートーヴェンの思想だけでなく、生き様、またそれを踏襲した音楽芸術は尊敬に値するものでした。得た感動、尊敬の念をこの一冊に熱い思いで込めています。悲劇的な人生、宿命による挫折と再起、運命への挑戦と苦悩、それを表現した音楽芸術作品群は、研究の深さは勿論ですが迸る熱量は読むものを圧倒します。

自分の芸術を他人のために役立てようという考えは彼の手紙の中で絶えず繰り返されている。ネーゲリへの手紙の中で、あらゆる利害関係的な考えから、あらゆる「ちっぽけな虚栄心」から自己を防ぎながら、彼は自分の生活にただ二つの目的を決定している。それは「聖なる芸術への」献身と、他人を幸福にするための行いとである。


十九世紀前半の代表的指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)も、ベートーヴェンへ強い敬いの心を持つ偉大な音楽芸術家の一人です。若くしてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者となりますが、勢力を拡大するナチス・ドイツに翻弄されます。反ナチズムを掲げるも、アドルフ・ヒトラーの芸術観、ナチズム啓蒙への使用、ホロコースト隠蔽への利用など、様々な目論みでフルトヴェングラーの奏でる音楽は悪用されます。特に使用されたのは交響曲第九番でした。反抗的な思いを持ちながらも彼は亡命せずドイツに留まり、第二次世界大戦争末期まで指揮棒を振い続けます。そこには大きな博愛の精神がありました。迫害されていたユダヤ人音楽家たちの亡命の援助、ヴィーン・フィル解散の危機を防ぐなど、ナチス政権下で過ごす民衆を見過ごすことができず、そのため亡命することなく音楽を愛して奏で続けたのでした。

第二次世界大戦終戦後の1951年、バイロイト音楽祭で指揮者として登壇します。ナチズムに翻弄されて抑圧され続けた環境から、終戦により音楽表現の自由という解放を得たフルトヴェングラーは、交響曲第九番そのものをも歓喜へと昇華する熱演を披露しました。

ベートーヴェンでは、音楽家と詩人のあいだのあの締まりのない、いわば中途半端な出会いというものが全然ありません。このことが、なぜベートーヴェンシューベルトのように抒情詩人たりえなかったか、なぜヴァーグナーのように音楽劇作家にならなかったかという理由なのです。つまり、ベートーヴェンは、こうした人たちより以上に音楽家であり、より以上に音楽家以外のなにものでもなかったのであって、彼らよりも音楽家ではなかったというのではないからなのです。いいかえると、ベートーヴェンでは、純粋に音楽的な要求が強く、それが他の人たちよりも、きびしく働いていたからなのです。

フルトヴェングラー『音楽を語る』


現代に残るベートーヴェンの数多ある名曲は、演奏されるごとに聴くものを博愛の精神へと導きます。人生の全てを音楽に捧げた心優しき彼の偉業は、貴族との主従関係により存在していた音楽を、全人類が等しく幸福を感じることができる芸術へと在り方を変革させたことであると言えます。音楽芸術に詳しくなくても、ロマン・ロランの熱意が充分に伝わる本作『ベートーヴェンの生涯』、未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

『河鍋暁斎』ジョサイア・コンドル 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

幕末明治期の天才画家河鍋暁斎。その群を抜いた画力に惹かれた弟子の中には、かの鹿鳴館の設計者コンドルがいた。「暁英」の画号を持つ愛弟子が、親しく接した師の姿と、文明開化の中で廃絶した日本画の技法を克明に記し、暁斎の名を海外にまで広めた貴重な記録。

1853年に江戸湾近くの浦賀マシュー・ペリーが率いるアメリカの黒船が強行上陸しました。江戸幕府は他国との折衝を最小限に行っていましたが、アメリカに対しても同様の姿勢を取ろうとします。しかし翌年のペリー艦隊の軍力に屈して交渉を余儀なくされ、遂には日米和親条約を締結します。オランダ、イギリス、ロシア、フランスも後続し、各国と修好通商条約を結ばされ(安政五カ国条約)、半ば強制的に日本は開国することとなりました。イギリスに始まった産業革命の影響を受けた各国の競争(商業、貿易、植民地など)は、大航海時代により拓かれた航路を用いて激化していました。日本に対しても属国を増やす目的であった各国は、この条約を決して対等とは言えない条件での締結を迫りました。日本の鎖国が産んだ外交上の無知と、産業国の発展的野心が領事裁判権規定と関税自主権放棄を実現させてしまいます。とくに関税自主権では植民地程では無いにしろ、大きく資源を搾取される結果となりました。この外交に意を唱えた国民たちは徐々に同じ方向へと集約され攘夷論を掲げて、やがて討幕への運動へと激化していきます。薩長土肥の四藩を中心とした激しい内戦の結果により倒幕された日本は中央集権の統一国家へと変化していきます。1868年から約二十年間続いた明治維新は米欧を倣う形で国政を固め、資本主義国家として発展するために諸外国への窓口を開いていきました。


この政治的変化は日本における文化にも少なからず影響を与えます。1862年にロンドンで行われた万国博覧会で初めて日本の芸術作品が世界に披露されました。イギリスの医師であり外交官であったラザフォード・オールコックが自身のコレクションを出展したことが発端でした。数年後におこる明治維新の影響で日本文化の露出は拍車を掛け、フランスを先駆けとして「ジャポニスム」嗜好がヨーロッパ全土で急速に広まります。芸術家たちにも大きな影響を与え、歌川広重『名所江戸百景』に惹かれたフィンセント・ファン・ゴッホや、日本画の収集で有名なクロード・モネなどが挙げられます。そして、本作で語られる河鍋暁斎も「ジャポニスム」代表画家の一人です。

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諸外国への窓口を開いた日本は、先進的な政治や行政を取り入れるべく欧米化を進めました。それだけにとどまらず、産業、経済、文化、芸術、宗教、思想など多面的に吸収しようとする近代化を目指しました。具体的な対応として、諸外国の優秀な人材を高額で雇い、国民に向けて教鞭を執らせる方法を選びました。軍人や学者が次々に流入され、知識と技術は続々と日本の国民へと伝えられていきます。そこに含まれる優秀な建築家こそ、本作の著者ジョサイア・コンドルです。歩く英国紳士とも言える、礼儀正しく、真摯に穏やかに耳を傾けて教鞭を執る姿勢は、受講者の大きな支持を得ます。またコンドル自身、日本の文化に強く惹かれて互いに教え合う理想的な交流を続けます。特に惚れ込んだ画家の河鍋暁斎には弟子入りし、自らで日本画を描く術を学びます。もちろん自身の授業もあるため、合間の時間を用いる程度でありましたが、熱心な取り組み姿勢と元来の建築画を描く技術が相まって、僅か二年で雅号「暁英」を授かるほどの技量となりました。


コンドルは本業の建築家としても日本で大変に活躍しています。日本庭園や華道に強い関心を抱いていた彼は、「侘び寂び」を理解していたと考えられます。その観念を持った上で西洋建築をアレンジし、より日本に映える洋館を創り上げることに成功しました。「鹿鳴館」「東京復活大聖堂」「三菱一号館」など、日本の代表的な洋館の悉くを建築しており、「日本の西洋建築はコンドルに辿り着く」とまで言われています。

このように多才なコンドルは、自身が敬愛する河鍋暁斎の芸術性を世に知らしめんと思い立ち、目録だけでなく、暁斎の経歴や人となり、画法や好んだ画材、使用した印章や雅号などを凝縮した書をまとめました。それが本作『河鍋暁斎』です。弟子であり実質的なパトロンであったコンドルと師暁斎の関係は、親愛や敬愛に溢れて読むものを強く引き込みます。また本作は現代における暁斎作品の真贋鑑定研究にも用いられるほどの信憑性を持っています。

 

西洋画の写生はただ一編の詩を読んでそれを後で引用することができるという程度、それに対し日本画の写生は詩集全体を記憶してそのすべてを諳んずることができる、というところに違いがあると言ってよかろう。

目に見えても紙に写すことが困難な「動き」「躍動」「侘び寂び」などが日本画には描かれているとコンドルは言います。これは暁斎の異常とも言えるほどの被写体に対する執着愛に敬意を表しているもので、コンドル自身が感銘を受けてのめり込んだ理由の一つでもあります。


河鍋暁斎は当時、戯画・狂画・浮世絵などいわゆる俗画の名手として名を知られており、流派の問題があったことからも国内では過小評価されていました。しかしコンドルが惚れ込んだ芸術性は海外では「ジャポニスム」の流れも相まって広く認められていました。本来あるべき評価を広めんとする彼の熱意が本作『河鍋暁斎』から滲み出ています。

現代では「暁斎展」が頻繁に行われています。コンドルはこのような評価を求めていたのかもしれません。芸術に対する強い情熱を感じることができる本作、未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

『リア王』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

老王リアは退位にあたり、三人の娘に領土を分配する決意を固め、三人のうちでもっとも孝心のあついものに最大の恩恵を与えることにした。二人の姉は巧みな甘言で父王を喜ばせるが、末娘コーディーリアの真実率直な言葉にリアは激怒し、コーディーリアを勘当の身として二人の姉にすべての権力、財産を譲ってしまう。老王リアの悲劇はこのとき始まった。四大悲劇のうちの一つ。

エリザベス女王一世の死後に『リア王』は発表されました。ジェームズ一世がイングランド王を継ぎ、スチュアート朝となってもシェイクスピアへの寵遇は変わりませんでした。シェイクスピアはこの変化を契機に絶対王政への憂いを抱いた訳ではなく、本来的に絶対王政という制度そのものに危険性が孕んでいると見ていたのだと考えられます。絶対権力者の周囲に集まる人々の数だけ「欲」が含まれ、真意の伴わない甘言を浴びせられ続け、権力者は虚飾で塗り固められていきます。本質的に人間が持っている「愚」を膨張され続けた権力者の言動は、全てに「愚」を帯びた振る舞いへと変化します。『リア王』では、この危険性を強く訴えています。甘言に酔いしれる権力者自身を糾弾する訳ではなく、それを生み出す絶対王政そのものを否定するのでした。


「愚」を帯びると「本質」が見えなくなります。上辺の言葉、耳触りの良い言葉ばかりを受け取っていると、言葉による快楽に慣れ、身を委ねていきます。最も求めているはずの「本質」が、最も遠い存在へと離れて行っていることに気付くことができません。劇中でリア王は「本質の愛」を求め、三人の愛娘に注いだ心血に対する報いを求めます。

お前達のうち、誰が一番この父の事を思うておるか、それが知りたい、最大の贈物はその者に与えられよう、情においても義においても、それこそ当然の権利と言うべきだ。

三女コーディーリアは「本質の愛」を持った人物として描かれます。ゴネリル、リーガンという二人の姉は、夫を含めた世の全ての者よりも父を愛すると答えます。ここでコーディーリアは「何も。」(Nothing)と一言だけ答えました。これにリア王は憤慨し、財産分与権の剥奪だけでなく家族の縁を切る勘当さえもします。


リア王の問いと求める答えは、愚の骨頂とも言える考えです。婚姻の契りさえも反故にする自身への愛を求める姿、また至極当然に返答されると考えている驕りの極みとも言える愚かさは冒頭から違和感さえ覚えさせられます。ここに現れる「愚」こそ何年も掛けて塗り固められた虚飾から生み出されたものであり、リア王自身はそれに気付いてさえいない愚かさを表現しています。二人の姉の甘い言葉はすぐさま財産分与後に偽りであることを突き付け、城から追い出されたリア王は嵐のなかの荒野を彷徨います。


この彷徨に付き従う者がいます。道化師(ジェスター)と言われる存在で、当時の王侯貴族に雇われた、哲学のままに身分を気にせず罵詈雑言での指摘を許可された職業です。リア王へ向かい「おっさん」などと言う失礼千万な言葉を発しながらも、会話や詩で本質を指摘し続けます。絶望の嵐のなか、追い打つように指摘する言葉の数々がリア王にこびり付いた虚飾を剥がしていきます。塗り固められた価値観が崩れて自身の存在を卑下し、狂人のように振る舞いはじめます。たどり着いた「持たざる者」という存在となって、遂には「本質の愛」の持ち主に気付きます。

ここまで道化が導くと、勤めを果たしたかのようにその場を去っていきます。この演出はあまりに見事で、特筆する点は道化が読者の目線であるところです。読者が違和感を抱き続けているなか、さらりとリア王へ辛辣に問い、或いは「愚」を指摘します。リア王から虚飾を剥がしていき、丸裸の「持たざる者」となってようやく「愚」を認め、その胸に取り込むと「愚」の指摘者は不要となり退場するのです。


また本作では副筋が存在します。リア王の部下であるグロスター伯が主軸となり、その庶子エドマンドが嫡子エドガーに奸策を弄する物語です。旧封建主義を生きるグロスターは当たり前のこととしてエドガーを世継ぎと考えていますが、これを良しとしないエドマンドは、エドガーを陥れて城から追放します。そしてグロスターさえも追い出し、虚飾を愛する二人のリア王の娘たち、ゴネリルとリーガンを誑かします。グロスターが受ける仕打ちは酷く、目も当てられないほどの苦しさとなり、リア王の絶望と調和して助長させていきます。


エドガーは狂人を装ってエドマンドの追手から逃れます。そして絶望の嵐の中でリア王と出会い、共に過ごします。狂人を装っているため正体を隠したままではありますが、リア王も精神に異常を来しているため対話は絶望の淵の詩の応酬の如しです。そこに訪れた父グロスターの変わり果てた姿に絶望以上の絶望を与えられ、苦しみながら救いへと導こうと懸命な努力を見せます。ここにある種の「救い」が見られるとも言えます。

グロスターの救いがエドガーであるならば、リア王の救いはコーディーリアです。対比するようにリア王も「本質の愛」を持つコーディーリアと再会します。虚飾を剥がして「本質」を見る目を得たリア王は自分の「愚」を認識し、コーディーリアを真っ当に見ることができるようになりました。リア王の心が浄化され、「救い」が見えます。しかし、シェイクスピア四大悲劇である『リア王』はその通りの結末を迎えます。


旧封建秩序(リア王グロスター伯)から新世界秩序(エドマンド、ゴネリル、リーガン)への移行は、心醜い者が報われる世界なのか、という大きな問いが見えてきます。そうであってはならないと世界を憂うシェイクスピアは「愚」を指摘する道化師と、「救い」を象徴するエドガー、コーディーリアを対比的に描き「本質の愛」を聖性を持たせて描いています。『リア王』には権力により生まれる悪意と「愚」の問題が込められています。

 

これらの問題提起は演劇における演出で、時勢に合わせたさまざまな解釈をされながら、上演され続けてきました。

権力者の孤独感とそれゆえに精神的な平衡、あるいは平静さを失う人間の弱さや、惨めさに焦点をあて、それは時代や民族の生活習慣を越えて普遍的な事実なのだということを強く主張しようとしたためである。つまり、イングランドの王リアという時代と空間において特殊に規定された人がすさまじい孤独と狂気を生きたのではなく、権力者というものが、いつの時代でも、どこの国でも、リア王と同じような孤独と狂気の人生を生きる可能性があることを示そうとした私の演出上の作戦である。

鈴木忠志『日露文化フォーラム2006』

世界あるいは地球上は病院ではないか、その目線で世の中を見て演出を行う鈴木忠志さんは『リア王』をこのように解釈しました。世界が病院であれば「医師」や「看護師」も病院の中にいることになり、それらが「病気」であるとも考えられます。世界が病に侵されているならば恢復の見込みは薄くなり、狂気と絶望に覆われることになります。この「病気」こそ『リア王』における虚飾であり、「愚」であるのです。世界は虚飾に包まれて「愚」を膨らませる人間が溢れてしまいます。これを治癒させる「本質の愛」を自身で持ち、与え、伝えて行くことができるのかを問い掛ける演劇となっています。

シェイクスピアは演劇の一つの規範である。それはブレヒトベケットの両方を含み、しかも両方のどちらもこえている。ブレヒト以後の演劇においてわたしたちがなすべきことは、前方へ通ずる道ーーつまりシェイクスピアへ戻る道ーーを見出すことである。

ピーター・ブルック『なにもない空間』

シェイクスピア劇に現代性が見られる理由は、作品の主題に普遍性が備わっているからと言えます。現代における権力者の「愚」、そして周囲の悪意が虚飾の社会を作り出して「本質」を見失わせている世界を、彼は憂えていたのかもしれません。


四大悲劇で最も優れていると言われることの多い本作『リア王』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『あのころはフリードリヒがいた』ハンス・ペーター・リヒター 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

ヒトラー政権下のドイツ。人々はしだいに反ユダヤの嵐にまきこまれてゆくーーその時代に生き、そして命をおとしたひとりのユダヤ人少年フリードリヒの悲劇の日々を、ドイツ人少年の目から克明に描いた話題作。

1870年に起こった普仏戦争で領土を制圧したプロイセンは、首相オットー・フォン・ビスマルクが中心となってドイツを統一します。フランスに残った傷はやがて怨恨へと変わり、反ドイツの意識が高まり続けていきます。ビスマルクはこの報いを警戒し、フランスへの軍需輸出を停止して、周囲の国々と関係を強めて自衛を図ります。オーストリア、ロシアへ歩み寄り三帝同盟を結びますが、この結束は固いものではありませんでした。ドイツに対して強気の条件を提示するロシアは非協力的でした。ビスマルクはより強固な防衛網を形成するため、オーストリアとの独墺同盟、そこにイタリアが加わった三国同盟、そしてドイツ・ルーマニア同盟が結ばれていきます。さらにはイギリスとの国交を良好なものに進めて、フランスは孤立した存在となっていきます。

しかし、ロシアがドイツに見切りをつけるようにフランスへ近付き、露仏同盟が結ばれました。また、同時期からイギリスとドイツの商業摩擦(主に工業、貿易、植民地など)が激しくなり、イギリスはフランス、ロシアと立て続けに協商を結びます(三国協商)。さらには出し抜くようにイタリアがフランスと秘密中立条約を交わし、ドイツが正式な同盟国と言える国はオーストリアのみとなりました。領土、資源、植民地を中心とした各国の、各同盟の小競り合いは徐々に激しくなっていきます。


1914年、オーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が陸軍演習を視察するため、ボスニアへ訪れます。オスマン帝国主権下の施政権を得たオーストリアは、フランツの指揮によりボスニアヘルツェゴヴィナを併合しました。そしてハンガリーチェコをも併合してオーストリア帝国の三元化を目指していました。これをよく思わない汎スラブ主義(バルカン半島におけるスラブ民族統一を掲げる)は、フランツ・フェルディナント夫妻を暗殺します。このサラエボ事件を発端として三国同盟三国協商がぶつかり合うヨーロッパ戦争が起こり、第一次世界大戦争へと肥大化していきます。両陣営は幾箇所で紛争を起こして、双方に多大な被害を齎していきます。そして軍需、資源、食糧が底をつき始め、国民は苦しい生活を強いられます。それでも止まない戦闘は更なる被害を生みました。イギリス商船をドイツの潜水艦が撃沈しました。そこには中立宣言をしたアメリカの国民が大勢乗り合わせており、これを引き金にドイツへ宣戦布告して三国協商側につき支援を開始します。戦力差が決定的となり、1918年にドイツが休戦条約に調印し、大戦争終結しました。


1919年に連合国(三国協商側)がドイツに対して、全ての植民地権益の放棄、軍備制限と徴兵制度の廃止を求めるヴェルサイユ条約を弁明の余地無しに調印させました。そして「戦争の全責任はドイツにある」として賠償金1320億マルクの支払いを命じました。フランス首相クレマンソーのドイツに対する報復が全面に取り入れられた理不尽な内容でした。この天文学的な賠償額と全責任を押し付けられた条約を、ドイツ国民は受け入れることができず、Diktat「強要」と呼び、強い怨恨へと変化していきました。


異常な額の賠償金は円滑に支払うことができるはずもなく、遅滞されていきます。1923年にフランス軍とベルギー軍が共謀して、遅滞の代償にドイツ工業の中心であるルール地帯を占拠します。これに怒りの火がついたドイツ国民は、ルール地帯での労働者へストライキを呼び掛けます。しかしドイツの中央政府は軍同士の衝突を恐れ、対抗的な姿勢を見せないままでした。遂にドイツ国民は自国の中央政府に向かって蜂起します。ミュンヘン一揆と言われるこのクーデターは大きな被害を出す前に鎮静化させられましたが、政府と国民の溝が決定的に刻まれた格好となりました。この一揆の首謀者の一人がアドルフ・ヒトラーでした。


捕らえられたヒトラーは、一揆とその後の裁判による弁舌で益々の国民支持を得て、バイエルン州の地方政党であったドイツ労働者党が、国民支持率第一党へと躍進します。ルール占領の弊害的インフレ(労働者へストライキさせる代わりに与える報酬を紙幣増刷で対処したために貨幣価値が著しく低下した)に拍車を掛ける形でドイツを襲った世界恐慌で、国民感情は貧困と疲弊と怨恨で充満します。そこに掲げられた「打倒ヴェルサイユ体制」は当然のように支持され、ナチズム運動を加速させることになりました。


国政に反ユダヤ主義を備えたナチス党は、ユダヤ人迫害を実権の拡大とともに激しくさせていきます。ユダヤ系ドイツ人はゲシュタポ(秘密警察)に追い立てられ、厳しく責め立てられました。しかし、ユダヤポーランド人は国交の混乱を避けるため、迫害の対象外となっており、在住外国人としての権利が保証されていました。ドイツにおいて免罪符のように使用できたポーランド旅券ですが、1938年に効力を失うことになります。反ユダヤ主義であるポーランドとしてもユダヤ人排斥を望んでおり、ドイツから戻ってくることができないように、ポーランド旅券の検査印を新たに設定し、無いものを無効とする旅券法を交付します。つまり、現在の旅券の効力を無くしてポーランドへ入国できないようにと目論みました。布告から施行まで約四週間しかなく、ポーランド側の意向は明確でした。これに憤慨したドイツはユダヤポーランド人をポーランドへ強制的に送り返すため、ゲシュタポを用いてポーランド国境まで一万七千人以上を運びます。施行前に移動させられたユダヤポーランド人を、ポーランドは法を無視して受け入れを拒否しました。ポーランド警察が国境を封鎖し続け、行き場を失ったユダヤ系ドイツ人たちは、荒廃した無人の国境付近を、食糧も無く寝床も無い環境で彷徨い餓死者まで出すことになりました。

その翌月、フランスのドイツ大使館で書記官エルンスト・フォム・ラートが殺害されます。ポーランド入国拒否をされた家族を持つユダヤ人、ヘルシェル・グリュンシュパンによる凶行でした。ドイツの非人道的行為を世に示すためと供述し、ユダヤ人迫害を訴えるためという行動でした。


事件を知ったドイツ国民は憤慨します。ドイツ国内の各地で反ユダヤ人暴動が幾つも起こり、ユダヤ教会堂(シナゴーグ)やユダヤ人経営の商店、企業、病院、墓地などあらゆる施設が襲撃されました。抵抗したユダヤ人は怪我を負い、死亡した人々も多くいました。傷つけられた建物は壁紙が剥がされ、マットレスは引き裂かれ、家具は倒壊され、全ての窓ガラスが割られました。地面に散らばった無数のガラス片が光に反射して輝いていた光景から、この事件は「水晶の夜」と呼ばれます。


本作『あのころはフリードリヒがいた』では、この実態を「ぼく」の一人称で語られ、民衆の目線で描かれています。迫害の詳細を伝える臨場感や高揚感は、強制的に読者を物語へ引き込んでいきます。

「ぼく」の幼馴染であるフリードリヒは一つ上の階に住むユダヤ人でした。家族ぐるみでの付き合いは微笑ましく、穏やかな印象さえ与えていました。しかし、時代の流れに合わせた環境の変化、価値観の変化、人々の態度の変化が政情を知らない子供にも違和感として伝わり、不穏な空気が漂い始めます。


大ドイツ青年運動を礎とした「ヒトラーユーゲント」(ヒトラー青少年団)は、国家による加入義務がある以前に、青少年たちの憧れの的でもありました。打倒ヴェルサイユ体制を具体化したかに感じるこの組織は、ドイツ国民の誇りを守ろうとするヒトラーの行動に、若年ながら参加できるような感覚を持っていました。著者のハンス・ペーター・リヒターもその一人でした。虐げられたドイツの誇りを取り戻そうとする思想に共感し、憧れを抱きます。


「ぼく」はフリードリヒを青少年団の集会に連れて行きますが、そこでユダヤ人排斥のイデオロギーを直接的に打ち付けられます。そして物語は、ユダヤ人家族の息苦しさを目立たせていきます。

一人で下校している「ぼく」は、暴動を目にします。何が起こっているか理解しきれないまま、いつも新聞を配達する女性が暴動者を扇動していることに気付きます。女性がこちらに気付くと手伝うように強要し、騒ぎの中へ参加させます。戸惑いながらも暴動を手伝う「ぼく」は、徐々に気持ちが昂まり、破壊衝動に身を任せる快感さえ覚え始めます。無自覚でありながら「ユダヤ人迫害」に加担していたのでした。


ナチス・ドイツでは帝国国民啓蒙宣伝省というプロパガンダを管轄する組織がありました。ラジオなどの報道機関を統制することによって、情報や印象を操作して、国民の意識を政党の意向と統一しようとする試みです。中でも重要であった「新聞」はその特色から権力の集中化を大々的に謳うことはありませんでしたが、新聞記者としての資格を制定する「編集人法」や、国民投票時期の新聞紙面からも見受けられるように、明らかに管理されていたことがわかります。つまり新聞を含めた報道機関は政府によって掌握され、政党の指示で行動していたと言えます。


「ぼく」が目にした暴動の煽動者である女性新聞配達員も国家に管理されていた一員であると考えられ、暴動を「国家ではなく民衆が自発的に起こした」とするために行動を指揮されていたと見て取れます。ヒトラーミュンヘン一揆周年記念式典を前にラートの訃報を受けて、予定していた演説を切り上げてナチス突撃隊(SA)に指示を出したことが明るみになっていることからも把握できます。

煽られた民衆は、貧困と疲弊と怨恨で溜まったフラストレーションを刺激され、憂さ晴らしのような暴れ方をします。「ぼく」も興味本意から小さな破壊を行い、そこに快感が伴い常軌を逸した行動を平然と取ります。そして民衆暴動はエスカレートし、国が誇りを掲げて禁止している、略奪や強姦、殺人に至るまで止まることを知らず暴虐の限りを尽くします。本作の「ポグロム」の章では迫力ある描写で、こちらの鼓動を激しくさせる臨場感を持っています。


「水晶の夜」からユダヤ人迫害が国を挙げて激化していきます。明確な排斥意思を持った国の命令が次々に発令されていきます。商店や手工業の営業停止、劇場や映画館への入場禁止、ドイツ学校からの退校、自動車運転に関する許可証の没収、有価証券や宝石の没収、外出の時間制限、電話機所有の禁止、毛皮製品の没収、衣服に「ユダヤの星」(ユダヤ人証明バッジ)貼り付けの義務、交通機関の使用禁止、散髪屋への入店禁止、タバコの配給禁止、暖房された部屋の使用禁止など、非人道的な命令を受けました。


ハンス・ペーター・リヒターは、「ぼく」には責任がないのかを問い続けます。熱心なヒトラーユーゲントであったことは、それまでのドイツの受けた情勢を鑑みると寧ろ自然であるとも言えます。しかし幼馴染フリードリヒを、庇う力が無かったことも事実であり、また無理をして家族を危険に晒すことは正しいことであるとも言いきることができません。

本作を出版した後に「ぼくはわたしです」という告白をしたハンスは、心に残った苦しみと後悔を、少しでも多くの人々へと伝えたかったのだと思います。読者の印象をフィクションから半自叙伝へと変化させたこの告白は、現実的な憂鬱と恐怖を読者に与えることになりました。その境遇を生きた苦悩と、歴史に振り回された生涯は一個人で解決できるものでもなく、社会全体で考える必要があることだと感じます。

 

フランスからドイツが受けた理不尽を、ユダヤ人が請け負うことになった負の連鎖は、大量虐殺によって口を閉じられました。『あのころはフリードリヒがいた』は、現在のドイツでも差別意識、戦争による弊害を考えさせる最も重要な著作として今もなお読み続けられています。

ヒトラードイツ国民がなぜ支持したのか、ユダヤ人排斥がなぜ民衆の手で行われたのか、見つめ直す良い機会となる著作であると思います。

未読の方はぜひ。

では。

 

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『クォ ヴァディス』ヘンリク・シェンキェヴィチ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

シェンキェヴィチは、古代の異教徒的世界とキリスト教世界との抗争を描き、後者の勝利の必然性を暗示した。しかし作者の究極の目的は、当時独立を奪われ、列強の圧制に苦しんでいたポーランドの同胞に、希望と慰めを与えようとするにあった。

フランス革命で広められたナショナリズムを否定して、絶対王政を復活させ、ヨーロッパ各国君主が共同支配した過去の秩序を取り戻そうと1814年に開かれたウィーン会議は、民衆を弾圧する反動体制として形成されていきます。これを受けて神聖同盟、四国同盟とヨーロッパ諸国同士が個々に連なり、ウィーン体制は堅固なものとなっていきます。各諸国の芸術家は民衆と緊密に繋がり、自由主義ナショナリズムを提唱して弾圧に抵抗を見せます。この抵抗を各国の保守派だけではなく、「ヨーロッパの憲兵」とい言われたロシアが武力を持って弾圧していました。

ナポレオンがプロイセンに建国した国家であるワルシャワ大公国は、彼の衰退に併せて凋落しましたが、この跡地にロシア皇帝アレクサンドル一世がポーランド人国家を建国するように進言します。ウィーン議定書で建国が決定された「ポーランド立憲王国」は、ある程度の自治を認められていましたが国王はロシア皇帝が兼ねることとなりました。


このポーランド立憲王国は、ロシアの支配下にあったため、議会決定権はすべてロシア皇帝に委ねられ、実質的に独裁政権と言えました。同時期のヨーロッパ各国と同様に、ポーランド立憲王国でも芸術家と民衆の反抗が見えました。小さな反発運動が次第に数を増やして激しくなっていきます。そして1830年にフランスで起こった七月革命に触発されて、ポーランド人による大きな反乱が起こります。この「ポーランドの反乱」は一年近くも闘争が続き、民衆は大きな被害を被ります。

前期ロマン派の中心人物であるポーランドの作曲家フレデリック・ショパンは、この独立戦争に参加しようとしたができず、外地でワルシャワ陥落の悲報を聞き、行き場のない嘆きや憤激を音楽にこめました。これが「革命のエチュード」です。

その後もポーランドは何度も反乱を試みますが、ロシア軍を中心に阻まれ、独立には至りませんでした。ナショナリズムが報われる独立は、ロシア革命あるいは第一次世界大戦争が終わるまで実りませんでした。


ヘンリク・シェンキェヴィチ(1846-1916)はポーランド立憲王国の貴族として生まれました。しかしロシアの圧政下では貧困を余儀なくされ、決して裕福とは言えませんでした。ポーランド東部のヴォラ・オクジェスカで育ちますが、その後転々と場所を移し、十代の終わりにはワルシャワに定住します。ここで家計のために家庭教師を始めますが、同時に執筆を始めます。そして書き上げた作品を皮切りにエッセイなども手掛け、ジャーナリストとしても活動を始めます。執筆は快調に進み、1880年代には、愛国心の強い彼の著作群が国民の心を掴んで認められ、ポーランドにおける人気作家となります。


『クォ ヴァディス』(クオ ワディス)は1896年に出版されました。本作はロシアによる圧政からの独立を願うポーランドを、ネロの時代に迫害されたキリスト教徒たちと重ね合わせて描いた作品です。隅々まで研究されたローマ帝国の描写は、優雅さも醜さも鮮明に目の前に浮かび上がります。そして史実に織り交ぜた創作は重厚感を与えて、舞台の中に読者をのめり込ませていきます。


物語は二人の男性を中心に進められていきます。暴君ネロに「趣味の審判者」として重用される大詩人ガイウス・ペトロニウス、そしてその甥であるローマ軍大隊長マルクス・ヴィニキウスです。


ローマ帝国で最も「美」と「詩」を愛したペトロニウスは、自身が大切にする「美しさ」の価値観を基盤として考え、どのような時でも優雅に落ち着いて行動します。見目麗しい神々のような外見を持った彼は、考え方や行動を賞賛され、ネロだけでなく貴族や民衆、奴隷に至るまで周囲から愛されています。そして彼を心から愛した人物は、彼の女性奴隷エウニケでした。ペトロニウスは奴隷たちに対して、美しくない行為という理由から厳罰を与えることを好みません。彼らがペトロニウスの邸で享楽の一端を楽しもうとしても、見て見ぬ振りをしてやり過ごします。その中で女性奴隷のエウニケはペトロニウスを慕うあまり、ペトロニウスの彫像に向かい愛を表現します。ペトロニウスもまた、彼女の美しさと想いを理解して惹かれていき、奴隷の身分から解放して自身の傍らへ置くことにします。この美と愛の場面を描いた絵画があります。描いたのはアール・ヌーヴォーを代表する画家アルフォンス・ミュシャです。表題は「クォ ヴァディス」。ミュシャが本格的に画家として活動を始めた作品の一つで、ポーランドと同様にロシアの圧力を苦しみ耐え続けたチェコを憂えて描いたと考えられます。

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一方のヴィニキウスは軍隊長らしい筋骨隆々でありながら、その相貌は闘神のように美しく、どの身分の女性の目も惹かれる人物です。貴族の暮らしに構築された価値観に疑いを持たず、享楽に耽りながらも紳士であろうと努める姿は、とても勇ましく理想的な青年貴族として描かれています。彼を慕う女性はリギアという精霊のような美しい少女です。彼女は過去に「元老院ならびにローマ市民の人質」として捕らえられた他国の王の娘です。もはやネロも含めて国に忘れられた存在で、ある貴族の元へ預けられています。そこで出会った二人は互いに急速に近付いて惹かれ合います。

リギアはキリスト教徒でした。ユダヤ教徒との区別もつかないローマ帝国においてはキリスト教は稀な存在であり、持っている教えを国民は理解できないほどでした。ヴィニキウスも同様に考えを受け入れることが出来ませんでしたが、それを上回る愛情で理解しようと努力します。


ネロ帝の暴虐性は水源のように生まれ出る物ではありません。彼自身は臆病で心配性な面があり、側近たちの意見を聞く習慣がありました。これに付け入ったのがペトロニウスを敵視する近衛隊長ティゲリヌスです。ネロ帝が吟じる「詩」をより高尚なものにするため、多くの悲劇を目の当たりにして感性を揺さぶる必要があると説きます。絶対的な「詩」の自信を持っていたネロは翻弄され、民衆からの賞賛を得られると誤解して残虐行為の数々に及びます。そして遂に対象がキリスト教徒となってしまいました。次々に苛烈さを増す迫害は、ヴィニキウスとリギアを追い詰めていきます。財産を使い、人脈を使い、何度となく抵抗しますが押し寄せる力に抗うことができません。そのような時に精神的支柱となったのがキリスト教であり、聖ペテロでした。


人口百万人を抱えた街は、木造建築が多く、強い風が煽るため、たびたび火災に見舞われました。鎮火しづらい性質の頻発する火事は、遂に未曾有の大火災を招きます。ローマ全土が火の海に包まれ、民衆の多くが焼け死んだ「ローマの大火」は、本作の終盤でも衝撃を与えます。報せを届けられたネロは急いで近くまで駆けつけて鎮火の指揮をとります。しかし、ティゲリヌスの助言やネロ自身の言動から、この火付けを皇帝の仕業であると民衆は考え始めます。この風評を逸らさなければならないとして充てがわれたのがキリスト教徒でした。

あらゆる帝国に属する人の口を用いて、この大火災はキリスト教徒の陰謀であると触れ回ります。そして印象を覆えす決定的な策として、キリスト教徒を民衆の前で虐殺することをティゲリヌスに進言され、ネロが実行に移します。ペトロニウスはこの策を耳に入れるやいなや、ヴィニキウスへ伝えてリギアを護るように伝えます。徐々に広がっていたキリスト教は大勢の信者を抱えていましたが、帝国軍の総力を持って行われた捜索には手も足も出ず、夥しいほどの大勢の人々が捕らえられました。

聖ペテロは捕らえられたキリスト教徒たちから、逃げてくれとせがまれます。彼は自分だけが逃げ果せることは恥であり、教徒たちと共に死を受け入れて召されることを望みました。しかし教徒たちは他の地で苦しみながら待つ未来の教徒たちのため、教えを広げることこそ重要であると訴え、遂にペテロはローマを後にする決心をします。若い青年ナザリウスと共に他の地を目指して歩いていると、前方より太陽が転がるように眩しい人影が近付いてきます。これがキリストでした。

「おおクリスト……クリスト。」
そうして頭を地に附けて誰かの足をキスしているようであった。
長い沈黙が續いてから、靜けさの中に咽び泣きに途切れる老人の言葉が響いた。
「クォ ヴァディス、ドミネ。……」
(主よ、何處に行き給ふ。)
ナザリウスにはそれに對する答は聞えなかったが、ペテロの耳には悲しい甘い聲がこう云うように聞えた。
「なんぢ我が民を棄つる時我ローマに往きて再び十字架に懸けられん。」


非暴力を貫くキリストの教えは、迫害に耐え抜き、そして報われることを、強い祈りのように描かれています。改宗したヴィニキウスと教徒リギアが一心に祈り続ける姿は神聖さを帯びています。しかし、対照的に描かれる大詩人ペトロニウスとエウニケは「詩」と「美」を貫き、全ての運命を受け入れる姿で、「愛」そのものを具現化しているとも言えます。


シェンキェヴィチはポーランドの独立を願い、ネロ圧政下のローマに準えて本作を執筆しました。報われかけては突き落とされ、成就しかけてはすり抜けていく物語の希望は、ロシア圧政下の「消えた独立宣言」や「諸国民の春」を思い起こさせます。


読者に重厚な問いとして語りかける「信仰の愛」と「詩美の愛」は心の底に読後も残り続けます。

未読の方はぜひ読んで、考えてみてください。

では。

『富士』武田泰淳 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

秘密の重い扉が開かれるとき、一抹の暗い不安と不思議な幅をもった恐怖を私達は覚えるけれども、さて、いま心の秘密の扉が開かれる。《心の秘密》ーーその頑強な扉を敢えて開くことは底知れぬ恐怖にほかならぬが、武田泰淳ならではもち得ぬ全的洞察力を備えた視点によって、さながら時間と空間の合一体を時空と呼ぶごとく、敢えて新造語をもって《セイニク》とでも呼ぶべき精神と肉体の統合された一つの装置の扉がいまここに開かれるのである。

精神と性のグロテスクで真剣な《セイニク》の刻印を帯びた存在の諸相が精神病院のかたちをかりた現世の曼陀羅として悠容たる富士に見おろされているこの作品は、いわば大乗的膂力をもつこの作者ならではなし得ぬ貴重な作業であって、武田泰淳は私達の文学の宝蔵のなかに巨大な作品をさらにまた一つつけ加えたのである。


第一次戦後派作家とされる人物たちは、第二次世界大戦争直後に、戦争による凄惨な経験と精神に与えた強烈な影響から文学を通して思想や哲学を訴えた人々のことを指します。野間宏埴谷雄高梅崎春生椎名麟三などが挙げられますが、本作『富士』の作者である武田泰淳(1912-1976)も代表作家のひとりです。

戦後文学は、死者たちの上にひたすら支えられてきたけれども、しかし、仲間や「敵」の兵士達の重い死を負わねばならなかつた大岡昇平野間宏武田泰淳とも、また、愛する妻や原子爆弾によるおびただしい大量死を自身の傍らに絶えず寄りそう「伴侶」としてもちつづけた原民喜とも、福永武彦が携えつづけた死のかたちは違つている。

埴谷雄高『酒と戦後派』


浄土宗の寺で禅僧であり学者の父のもとに生まれた泰淳は、生まれてすぐに厳かで往生を願う死生観に包まれて過ごします。

1931年から大学で出会った竹内好と共にアンチ・ミリタリズム(反戦主義)を掲げて活動します。この左翼運動は警察の手により阻まれ、約一ヵ月の拘束を受けることになりました。釈放後、挫折からの無気力により大学を中途で辞め、元来周囲に願われていた僧侶としての道へと足を踏み出し始めます。しかし泰淳自身にとってこの転換は前向きな歩みとは言えず、迷いと苦悩を纏いながらの決断でした。大きな要因のひとつとして「僧侶としての矛盾と葛藤」が挙げられます。僧侶である以上、庶民のもとへ訪問して死者を悼みますが、その際に触れる庶民の生活は苦しさと貧困に溢れていました。その庶民が御布施として泰淳に手渡す金銭は、寺を豊かに、暮らしを豊かにしてくれます。僧侶は清貧であり、生活に苦しむ庶民に救いの手を差し伸べる立場にあるべきではないのか、僧侶としての精神的な意味での資格が自身にあるのか、御布施を受け取るごとに金額が気になる心は苦悩の海へと陥ります。その海からの脱却として手にしたのが文学でした。僧籍は亡くなるまで存在していましたが、文学と僧職の両立は困難であるとして、親族へ告白して僧侶から離れて文筆家の道を歩み始めます。


1937年に日中戦争で戦線に駆り出され、二年間兵役を体験します。この戦地での経験は思考深く考える癖を身につけて、生来の性分である神経質とも言える超観察眼をもって社会を見つめる能力を開花させます。帰国後、徴兵を免れる意図も含めて中日文化協会へ所属して、1944年に二度目の中国渡航を行います。たどり着いた上海では母国の国民精神を扇動する書物の執筆に勤しみますが、1945年に第二次世界大戦争が終結し、日中戦線も終わりを迎えます。この上海で敗戦を迎えた泰淳は、虚無感に襲われながらも執筆する意義を見出します。それは「征服する民衆」と「征服される民衆」を目の当たりにしたことが大きな要因でした。後者の抗いながら懸命に生き続けようとする姿に、泰淳の中で思想家としての基盤が構築されました。


本作『富士』では女性、妻としての在り方を多様な描き方で綴られています。これには泰淳の妻である百合子さんの存在が大きく反映しています。埴谷雄高が「女ムイシュキン」と名付けたほどの純粋無垢性、天真爛漫性は泰淳の生涯における絶望と苦悩を救済します。戦後の文学者たちが夜な夜な集っていた神田の喫茶文壇バー「らんぼお」で勤めていた百合子さんに心を惹かれた泰淳は、徐々に交流を深めて結婚するに至ります。上海からの帰国後、戦後の虚無感に襲われ続けて憔悴しきった泰淳を「献身的な愛」で救った百合子さんは、枯渇した心を蘇生させて作家「武田泰淳」の大成を支えます。こうして小説家として開眼した泰淳は第一次戦後派作家の代表的人物へと確立させる作品群を執筆していきます。『ひかりごけ』を筆頭に、思想を深く込めて社会における「征服される民衆」を描き、人間存在を世に問い考えさせる作品を発表していきます。


『富士』が発表された1970年ごろは、日本における精神病院批判が活発に行われていました。最も社会へ大きく影響した出来事はジャーナリストが詐病で入院して(院内へ潜り込み)、その実態を世に暴露したことでした。これが世間の流れを助長させ、多くの精神科医、精神病院が糾弾されて苦しむことになりました。槍玉に挙げられた隔離病棟や拘束治療は、事実として存在した一片に過ぎず、その治療の必要性や患者の症例などは汲まれませんでした。話題性のみを追求した報道による誤った印象で、世間の目が精神科不信一色となり、精神科の権威たちは弁明に奔走することとなりました。

ヒューマニズムの観点から精神科医擁護の立場で描いた本作は時代を超えた精神科医が持つ普遍的な苦悩を描き、世に問うている作品です。作中の精神科医の主義や治療方法には確かに現実離れしたものが感じられ、当時に持ち上がった批判も致し方ありません。しかし、泰淳が描こうとした本質は「精神病に対して向き合う姿勢」に重きが置かれており、僧侶としての経験から持つ「個の尊重」が感じられます。


作中終盤にて院内集団発狂状態が起こりますが、このとき読者は精神病とは何かという判断が下しにくくなります。正常が異常に、異常が正常に思われる状態は正と負の両端が個の内部で融解すること、つまり正常な精神を持った者が異常化でき得ることを示しているとも言えます。人間が何を軸にして生きているのか、社会性とは何か、与えられた環境に適合できなければ異常なのか、などの生物論的な人間の存在を考えさせられます。


劇中で登場人物たちに語らせるミスティシズムは、それぞれ別個の観念的思想を描き出しています。偏執的とも言える彼らの主張は確かに社会を逸脱しています。しかし、その社会とは何かという大きな疑問を投げかけてきます。作中戦時下に国から与えられた社会そのものは正常であるのか否か、そこに適合できない精神の持ち主は異常か否か、そのような根本から投げられる疑問は、発表当時、そして現代にも置き換えて問い続けられています。

互いに救済を求めるものの、相入れることはなく糾弾し合うさまは、信仰するもの、絆、誇り、観念の差異により起こります。他者を排斥する信仰は「信仰たり得るのか」という宗教者としての疑問も含められています。

もし宗教者と文学者がむすびつくところがあるとすれば、すべてのものは変化する、すべてのものは変化しながら結びつく、しかも、ほとんど不可能であるが、平等論にむかって、少しずつ動きつつあるということにおいてであります。しかも、これは定められたものではあるが、決してわれわれの力を拒否するものではない、われわれが、それに参加することを拒否するものではないのであります。

武田泰淳『冒険と計算』


泰淳が禅僧時代に抱いた仏教真理である「諸行無常」は、万物の流転を受け入れ、地道な研鑽が快楽(けらく)へと導くという考え方です。しかし、報いは生前の世にこそ与えられ、現世こそ、この社会こそが極楽浄土であらねばならぬという強い思いを持っていました。泰淳が超観察眼で感じ取った社会には、変革を必要とすることがあまりに多くあったのだと感じられます。


第一次戦後派作家の代表作、深く考え込まれた観念論は読む者を圧倒します。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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『ダイヤモンド広場』マルセー・ルドゥレダ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

三十以上の言語に翻訳されている、世界的名作。現代カタルーニャ文学の至宝と言われる。スペイン内戦の混乱に翻弄されるひとりの女性の愛のゆくえを、散文詩のような美しい文体で綴る。「『ダイヤモンド広場』は、私の意見では、内戦後にスペインで出版された最も美しい小説である」(G.ガルシア=マルケス)。

スペイン北東部にあるカタルーニャ州では現在も引き続き激しいデモが行われています。スペインの中央政府カタルーニャ民族を蔑視し、高額の税金を搾取することからスペインからの離脱、いわゆるカタルーニャ独立運動が行われています。主だって活動している人々はカタルーニャ語母語としている民族で「カタルーニャ人」としての誇りを強く持っています。代表的な人物としては、シュルレアリスム画家のサルバドール・ダリ、チェロ奏法改革を行ったチェリストパブロ・カザルスサグラダ・ファミリアを代表作とする建築家アントニ・ガウディなど、錚々たる偉人が名を連ねます。カタルーニャ人は独自の文化的見解を持っており、各種芸術で輝かしい才能を発揮してきました。


カタルーニャ州バルセロナで生まれたマルセー・ルドゥレダ(1908-1983)の両親は、どちらも文学と演劇の愛好家でした。両親の経済的問題により、彼女は九歳で学校を辞め家庭内で教育を受けます。宗教観による束縛を受けることなく自由奔放な生活を続けますが、翌年に叔父のペラ・グルギが同居してから環境が一変します。彼は、後期ロマン主義「ラナシェンサ」(ルネサンス)の復興を掲げたカタルーニャ最大の詩人ジャシン・バルタゲル(司祭であり詩人)の友人であり、雑誌の編集者でした。ペラはカタルーニャの持つ文化感情をルドゥレダに植え付けていきます。そして二人の感情は近付いて、近しい親族でありながら婚姻に至ります。やがて恵まれた子を産み、生活が落ち着き始めると彼女は執筆を始めました。


快調に執筆作品を出版していくなか、1937年に作品『アロマ』が、カタルーニャ語で書かれた最優秀文学作品に贈られるジュアン・クラシェイス賞を受けます。そのような輝かしい状況でありながら、彼女は父権制社会による妻としての束縛を嫌い、スペイン内戦の直前に一児を連れて夫の元を離れます。その直後、共和党側が劣勢となり、1939年に息子を母親に預けて、単身でフランスへ亡命しなければならなくなりました。作家であることが左翼運動者と見なされたためです。当時、作家の避難所とされていたパリの東に位置するロワシー・アン・ブリー城に定住することになり、ここでルドゥレダは多くの知識人たちと親交を深めます。

内戦が終わりを迎え、作家である私たちはスペインを離れなければなりませんでした。私は政治に携わったことはありませんでしたが、カタルーニャ語で作品を書いたという事実と、雑誌で執筆したという事実により左翼とみなされました。この時に母からアドバイスを受け、数ヶ月後には家に帰ることができると思っていましたが、それは叶いませんでした。

1981年のインタビューより


三年経った1940年に、フランスへ侵攻したドイツ軍から逃れるため、ジャンヌ・ダルクゆかりの地オルレアンへ救いを求めて向かいます。しかし、そこは既にドイツ軍に襲われた火の海でした。ルドゥレダは独仏休戦協定が締結するまでの約二週間を付近の農場で過ごすこととなりました。

協定締結後はフランスを更に南下しボルドーへ向かい、しばらく定住します。針仕事を終日続ける大変な貧困時代を過ごしたのち、第二次世界大戦争が終わり、落ち着き始めたフランスのパリへ戻ります。過去に執筆していた雑誌の共同編集者として本来の仕事に戻ることができたルドゥレダは、その傍らで作品の執筆に励みます。


1951年より、独自の世界観で描くスイスのパウル・クレーや、キュビズム・ムーブメントの発起人であるパブロ・ピカソなどの画家たちから影響を受け、自らも絵画を描きはじめます。因みに、本書の表紙はピカソ「女性と鳩」が使用されています。辛く苦しい過去の経験と、落ち着いた世界が広げる見識は、ルドゥレダの感性を鋭敏にして人生を俯瞰し始めます。恵まれ始めた環境を活かして、彼女はスイスのジュネーブを永住の地とするために移り住みます。その閑静な環境での執筆は以前の快調さを取り戻して次々と各種の賞を受けました。そして1959年に彼女にとって最高と言える作品が執筆されます。それが本作『ダイヤモンド広場』です。


物語は主人公ナタリアの心的独白で語られます。幼い少女から大人へと成長し、心境や感情が移ろいながら人生が綴られます。そして文章は彼女の意識に合わせて、好奇心で溢れた目に映るものの細かな描写、胸がいっぱいになる愛の描写、押し潰されそうな陰鬱な描写、何にも囚われない純粋な描写、など時期や環境によって変化していきます。


舞台であるグラシア街は、カタルーニャ文化において重要な位置付けにあるTeatre Lliure de Gràcia「リウレ劇場」があり、古典を再考して現代の解釈へと昇華させたカタルーニャ語演劇が上演されていました。この劇場は2001年にムンジュイック城近くに移設されましたが、それまではグラシア街の中心的存在でした。その跡地の周囲は、ハイブランドフラグシップショップやグローバルブランドの専門ショップ、観光用宿泊施設が建ち並び、カタルーニャ広場の見学を中心に観光の場として活性化しています。


スペイン内戦から第二次世界大戦争が終わるまで、または終えて数年間、国内は大変な貧困状態にありました。僅かな食糧は内戦両軍に吸い上げられ、食べるものがなく飢えに苦しみます。当時のグラシア街は観光的要素はあまり無く、市場や質素な飲食店など、貧しい下町という印象でした。主人公であるナタリアは、とても美しい父子家庭の娘でした。彼女が「ダイヤモンド広場」という小さな公園をはじめとした近所の「狭い世界」で繰り広げる現実的な生活は現代の読む者に鮮明な印象を与えます。


描かれるナタリアの目線は父権制社会に抑圧されており、国際情勢や国内政治の関心は見られません。これは彼女の無関心を責める必要は無く、それほどにただ目の前の生活を過ごして食べることが困難であること、女性は男性を補助する存在と思い込まされた風習を守っていたこと、これらが原因です。結婚相手のキメットは典型的な男尊女卑者で、身勝手で嫉妬深く、幼さが残る少年のような男性でした。

ナタリアのことを「クルメタ」(小鳩ちゃん)とあだ名して自分の価値観を押し付け続けます。経営していた家具屋は時流に合わず廃業に追い込まれ、代わりに親族が行っている鳩の飼育販売を模倣して成功を夢見ます。しかし、そのような土地や環境がある訳がなく、住んでいる借家の屋上の小屋で飼育を始めます。増え続ける鳩には小屋が窮屈になり、遂には天井に穴を開け、家屋内の小部屋まで鳩が進出します。しばらくすると、スペイン内戦勃発に合わせてキメットはアナキスト側の解放軍に参加して家を長期間も空けることになります。この間の鳩の飼育は全て、ナタリアに押し付けられるのでした。


ナタリアはダイヤモンド広場でキメットに「心」を囚われます。自分の欲望、意見、感情、全ての心を「無」によって押さえつけられます。「クルメタ」と呼ばれて名も心も抑圧し、家族のために、目の前の生活のために、無自覚なほどに自我を無で覆い隠します。

しかし戦争による衝撃が身近なものとなり、生きる環境が変化していくにつれ、感情を抑圧することが困難となり、精神的異常が現れ始めます。既に離れてしまった鳩小屋の借家に、朦朧とする意識の中でたどり着いたナタリアは当然ながらその扉を開けることができません。そして感情を吐き出すようにナイフで「クルメタ」と扉に刻みつけます。そして意識が不明瞭ななか、外に出て彷徨いながら精神の限界値を超えて「地獄の叫び」をあげます。その声とともに吐き出す「無」によって自我が解放されます。この叫び声をあげた場所がダイヤモンド広場でした。


ナタリアは「クルメタ」と決別し、心に被さっていた「無」を吐き出して「純心」を見出します。心は濁りを無くして聖女のように清らかに変化します。そして彼女は「純粋な心の愛」に触れることになります。

頭を彼の背中にくっつけて、死んじゃ嫌だって思った。彼に私の考えていることを全部言いたかった。私はことばにするよりもたくさんのことを考えているんだって。ことばにすることができないことも。でも何も言わなかった。私の足が温かくなってきた。そのまま二人で寝てしまった。眠りに落ちる前、お腹を撫でているときに、おへそに出くわしたので、私は中に指をつっこんで蓋をした。彼の全部がそこから外に出てしまわないように……


スペイン内戦直前の1933年に第二共和制のもとで初めて女性による参政権が認められました。女性による社会への影響力が拡大し始めた矢先の戦争は、女性の権利を解放することを更に先延ばしにしました。この物語は抑圧された女性の自我、自由、自尊心の解放を訴えた作品であると言えます。

おそらく私は自分自身を肯定するために書いています。私がここにいるのだと感じられるために...…

「Mirall Trencat」(壊れた鏡)序文


カタルーニャ文学の最高峰で最も美しい「愛の物語」である本作。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

『オセロー』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

ムーア人の勇敢な将軍オセローは、サイプラス島の行政を任され、同島に赴く。副官に任命されなかったことを不満とする旗手イアーゴーは、策謀を巡らせて副官を失脚させた上、オセローの妻デズデモーナの不義をでっちあげる。シェイクスピアの後期の傑作で、四大悲劇の一つ。


十五世紀に始まった大航海時代は、インド航路開拓を皮切りに新しい土地へヨーロッパ諸国が次々と足を踏み入れることになりました。そこで出会う土地、産物、人々は商業的な見方をされ、やがて壮絶な植民地支配合戦へと変貌していきます。この時代のきっかけとなった航海術の飛躍的な向上(羅針盤・快速帆船・緯度航法などの遠洋航海術)によって地中海や大西洋は多くの船で行き交う場へと変貌を遂げます。開拓を続ける航路は商業航路として続々と使用されますが、限られた航路は各国の争いの種となっていきます。やがて圧倒的な国力を持つオスマン帝国が大きな実権を握っていきました。


このオスマン帝国の地中海支配によって航行を困難にさせられていたスペインとフランスは、1571年にローマ教皇ピウス五世へ協力を仰ぎ、地中海の征圧を目的としてレパント沖で海戦を勃発させます。アリ=パシャ率いる200隻を超えるオスマン艦隊を300隻近い連合艦隊で押し潰す大海戦となりました。戦力差で押し切った連合艦隊は、支配されていたヴェネツィアキプロス島(サイプラス島)を奪還します。この戦いによる功績でスペイン海軍は無敵艦隊と呼ばれるようになりました。ローマ教皇はこの勝利を弾みとして脅かされ始めていた宗教改革の勢いを跳ね返すべく宗教戦争へ拍車を掛けることとなります。しかしオスマン帝国の国力はこの敗戦では揺るがず、二年後にはキプロス島を更に奪い返し隆盛を続けました。


シェイクスピアが執筆したこの時代のイングランドでは、宗教改革における宗教統制をしている時期で、カトリックをはじめ異教徒を排除する動きが強まっていました。しかし、異教国であるオスマン帝国の止まらない隆盛は、イングランドにとって負の効果をもたらすだけではありませんでした。文化的発展、貴重な輸入品などで国を潤す要素が多く存在し、外交上のスペインへの牽制にも影響します。拡大するスペインは徐々に脅威へと変わりつつあったため、イングランドの発展を考えると何か手を打つ必要がありました。これを円滑に解決する方法として異教国であるモロッコと協力関係を結ぶという結論に至ります。イスラムの文化価値はイングランドを魅了し、エキゾチシズムを介した憧れへと国民感情を揺さぶります。そして遂には、北アフリカへ渡りイスラムへ改宗する者まで現れるようになりました。この矛盾を孕んだ国政はやがてイスラムが起こした風として内政を脅かし始めます。肌の黒い人種の異教国民は奴隷としてだけではなく、一般人として、或いは権力者としても流入し始めました。


イングランド国民は個別に宗教価値や人種価値を構築し始めます。異教国の肌の黒い人種を「ムーア人」と呼んでいました。エリザベス女王一世が二度の黒人追放を指示しましたが、この「ムーア人」も含まれていました。ピューリタン信仰を重んじる人々は排斥を、エキゾチシズムに魅了された人々は憧れを抱きます。


ヴェニスヴェネツィア)を舞台とした本作『オセロー』の主人公であるオセローは「ムーア人」です。丹精で美形、度量が大きく強靭で、義を重んじ部下を愛する、理想的な武人として描かれています。彼を見事に表した台詞があります。

閃く剣を鞘におさめろ、夜露で錆びる。

このオセローを奸策へ貶める悲劇の種が「悪の知」イアーゴーです。困難を乗り越えて結ばれたオセローとデズデモーナは絶頂の幸せを、元老院議員の指示を受けてオスマン帝国の攻勢に対抗すべく派遣されたキプロス島で迎えます。イアーゴーは同行し、奸計を持って徐々に亀裂を入れ、この二人の仲を引き裂こうとします。イアーゴーはオセローの絶対的な信頼を得ている部下です。生粋の武人らしさから軍人的上下関係を絶対としているオセローは、実直に見せるイアーゴーの態度を信じきっています。この軍人的思考に付け入ってイアーゴーは次々にオセローへ言葉巧みに毒を注ぎます。


悪意の根源となるイアーゴーの動機は、彼の「誇りに勝る驕り」と言えます。彼が悪行に着手するきっかけとなった出来事は軍人事でした。イアーゴーはオセローの絶対的な信頼を得ている自分が次期副官となるように信じていました。しかしながら、実践経験の無いオセローの旧知の友キャシオーを副官に据え、イアーゴーは旗手に甘んじることとなり、怒りを覚えます。

口はばったいが、自分の値打ちは自分で知っている、どう踏んでもそのくらいの地位は当然だ。

芽生えた怒りは多くの要素を呑み込み膨れ上がります。己の真の実力を発揮するだけでは覆すことができない絶対的な階級制度への不満、誰もが羨む清廉で美しい妻を娶ったオセローへの同姓としての劣等感、そして「ムーア人」でありながら上官であり、将軍であり、貴族であるオセローへの嫉妬。これらが渦巻く相乗効果で怒りは殺意へと突き進みます。


『オセロー』という悲劇は作中で、「白」という表現は清廉や美しさ、「黒」という表現は穢れや醜さ、という明暗対照法で描かれています。オセロー自身が肌の色を揶揄しながら自分の愚かさを説く場面もあり、彼自身が白人至上主義社会に埋もれた異質物である自覚を持っています。事実、作中でも「オセロー」よりも倍以上の回数で「ムーア人」と呼ばれていることからも裏付けられます。しかしオセローの武人的態度や紳士的態度は、当時の白人貴族における理想像であり、誰よりも高潔に描かれています。謂わば「黒に包まれた白」と言えます。劇中で苦しみ抜いたオセローは終幕で全てを悟り、イアーゴーによって真っ黒に染められた心は、とても悲しい結末とともに清廉な心を取り戻すことになります。


本作『オセロー』は「嫉妬の悲劇」が描かれていますが、込められた問題は、植民地支配の行く先を懸念していると考えられます。白人至上主義に対する問題提起、或いは人種差別の不要性、宗教差別の不毛性など、多くの角度から突き詰められた問題意識が集結されています。

一九〇九年シカゴの某劇場で『オセロー』の上演中のこと。悪漢イヤゴーがオセローに、夫人デズデモーナが不義をしていると吹きこみ、ついにオセローが無実の愛妻を殺そうと決心する場面に来たとき一階の客席から突然一発の銃声が起こった。イヤゴーに扮した名優ウィリアム・バッツは舞台に倒れ、そのまま絶命した。やがて我に返った発砲者は、同じピストルを自分のこめかみに当てて、その場で自殺した。正義一徹の青年将校であった。真に迫った演技に、虚構と現実の境を見失った結果だった。人々は射った青年と射たれた名優を一つの墓に埋め、碑にこう刻んだ、「理想的な俳優と理想的な観客のために」ーーと。

河竹登志夫『演劇概論』


現実再現の追求を求める西洋演劇、その素晴らしい演技による同化効果が起こした悲劇でした。演劇による社会への問題提起の力はとても強いものです。シェイクスピアが恐れていた人種差別や宗教差別による負の連鎖は、一七世紀のイギリス革命で実現し、多くの被害者を出すことになりました。現在でもいまだ根絶しない多くの差別は問題として生き続けています。「自身の驕り」による差別を無意識に行っていないか、改めて見返すのも良いかもしれません。

シェイクスピア「四大悲劇」の一作、未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

 

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