RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『リア王』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

老王リアは退位にあたり、三人の娘に領土を分配する決意を固め、三人のうちでもっとも孝心のあついものに最大の恩恵を与えることにした。二人の姉は巧みな甘言で父王を喜ばせるが、末娘コーディーリアの真実率直な言葉にリアは激怒し、コーディーリアを勘当の身として二人の姉にすべての権力、財産を譲ってしまう。老王リアの悲劇はこのとき始まった。四大悲劇のうちの一つ。

エリザベス女王一世の死後に『リア王』は発表されました。ジェームズ一世がイングランド王を継ぎ、スチュアート朝となってもシェイクスピアへの寵遇は変わりませんでした。シェイクスピアはこの変化を契機に絶対王政への憂いを抱いた訳ではなく、本来的に絶対王政という制度そのものに危険性が孕んでいると見ていたのだと考えられます。絶対権力者の周囲に集まる人々の数だけ「欲」が含まれ、真意の伴わない甘言を浴びせられ続け、権力者は虚飾で塗り固められていきます。本質的に人間が持っている「愚」を膨張され続けた権力者の言動は、全てに「愚」を帯びた振る舞いへと変化します。『リア王』では、この危険性を強く訴えています。甘言に酔いしれる権力者自身を糾弾する訳ではなく、それを生み出す絶対王政そのものを否定するのでした。


「愚」を帯びると「本質」が見えなくなります。上辺の言葉、耳触りの良い言葉ばかりを受け取っていると、言葉による快楽に慣れ、身を委ねていきます。最も求めているはずの「本質」が、最も遠い存在へと離れて行っていることに気付くことができません。劇中でリア王は「本質の愛」を求め、三人の愛娘に注いだ心血に対する報いを求めます。

お前達のうち、誰が一番この父の事を思うておるか、それが知りたい、最大の贈物はその者に与えられよう、情においても義においても、それこそ当然の権利と言うべきだ。

三女コーディーリアは「本質の愛」を持った人物として描かれます。ゴネリル、リーガンという二人の姉は、夫を含めた世の全ての者よりも父を愛すると答えます。ここでコーディーリアは「何も。」(Nothing)と一言だけ答えました。これにリア王は憤慨し、財産分与権の剥奪だけでなく家族の縁を切る勘当さえもします。


リア王の問いと求める答えは、愚の骨頂とも言える考えです。婚姻の契りさえも反故にする自身への愛を求める姿、また至極当然に返答されると考えている驕りの極みとも言える愚かさは冒頭から違和感さえ覚えさせられます。ここに現れる「愚」こそ何年も掛けて塗り固められた虚飾から生み出されたものであり、リア王自身はそれに気付いてさえいない愚かさを表現しています。二人の姉の甘い言葉はすぐさま財産分与後に偽りであることを突き付け、城から追い出されたリア王は嵐のなかの荒野を彷徨います。


この彷徨に付き従う者がいます。道化師(ジェスター)と言われる存在で、当時の王侯貴族に雇われた、哲学のままに身分を気にせず罵詈雑言での指摘を許可された職業です。リア王へ向かい「おっさん」などと言う失礼千万な言葉を発しながらも、会話や詩で本質を指摘し続けます。絶望の嵐のなか、追い打つように指摘する言葉の数々がリア王にこびり付いた虚飾を剥がしていきます。塗り固められた価値観が崩れて自身の存在を卑下し、狂人のように振る舞いはじめます。たどり着いた「持たざる者」という存在となって、遂には「本質の愛」の持ち主に気付きます。

ここまで道化が導くと、勤めを果たしたかのようにその場を去っていきます。この演出はあまりに見事で、特筆する点は道化が読者の目線であるところです。読者が違和感を抱き続けているなか、さらりとリア王へ辛辣に問い、或いは「愚」を指摘します。リア王から虚飾を剥がしていき、丸裸の「持たざる者」となってようやく「愚」を認め、その胸に取り込むと「愚」の指摘者は不要となり退場するのです。


また本作では副筋が存在します。リア王の部下であるグロスター伯が主軸となり、その庶子エドマンドが嫡子エドガーに奸策を弄する物語です。旧封建主義を生きるグロスターは当たり前のこととしてエドガーを世継ぎと考えていますが、これを良しとしないエドマンドは、エドガーを陥れて城から追放します。そしてグロスターさえも追い出し、虚飾を愛する二人のリア王の娘たち、ゴネリルとリーガンを誑かします。グロスターが受ける仕打ちは酷く、目も当てられないほどの苦しさとなり、リア王の絶望と調和して助長させていきます。


エドガーは狂人を装ってエドマンドの追手から逃れます。そして絶望の嵐の中でリア王と出会い、共に過ごします。狂人を装っているため正体を隠したままではありますが、リア王も精神に異常を来しているため対話は絶望の淵の詩の応酬の如しです。そこに訪れた父グロスターの変わり果てた姿に絶望以上の絶望を与えられ、苦しみながら救いへと導こうと懸命な努力を見せます。ここにある種の「救い」が見られるとも言えます。

グロスターの救いがエドガーであるならば、リア王の救いはコーディーリアです。対比するようにリア王も「本質の愛」を持つコーディーリアと再会します。虚飾を剥がして「本質」を見る目を得たリア王は自分の「愚」を認識し、コーディーリアを真っ当に見ることができるようになりました。リア王の心が浄化され、「救い」が見えます。しかし、シェイクスピア四大悲劇である『リア王』はその通りの結末を迎えます。


旧封建秩序(リア王グロスター伯)から新世界秩序(エドマンド、ゴネリル、リーガン)への移行は、心醜い者が報われる世界なのか、という大きな問いが見えてきます。そうであってはならないと世界を憂うシェイクスピアは「愚」を指摘する道化師と、「救い」を象徴するエドガー、コーディーリアを対比的に描き「本質の愛」を聖性を持たせて描いています。『リア王』には権力により生まれる悪意と「愚」の問題が込められています。

 

これらの問題提起は演劇における演出で、時勢に合わせたさまざまな解釈をされながら、上演され続けてきました。

権力者の孤独感とそれゆえに精神的な平衡、あるいは平静さを失う人間の弱さや、惨めさに焦点をあて、それは時代や民族の生活習慣を越えて普遍的な事実なのだということを強く主張しようとしたためである。つまり、イングランドの王リアという時代と空間において特殊に規定された人がすさまじい孤独と狂気を生きたのではなく、権力者というものが、いつの時代でも、どこの国でも、リア王と同じような孤独と狂気の人生を生きる可能性があることを示そうとした私の演出上の作戦である。

鈴木忠志『日露文化フォーラム2006』

世界あるいは地球上は病院ではないか、その目線で世の中を見て演出を行う鈴木忠志さんは『リア王』をこのように解釈しました。世界が病院であれば「医師」や「看護師」も病院の中にいることになり、それらが「病気」であるとも考えられます。世界が病に侵されているならば恢復の見込みは薄くなり、狂気と絶望に覆われることになります。この「病気」こそ『リア王』における虚飾であり、「愚」であるのです。世界は虚飾に包まれて「愚」を膨らませる人間が溢れてしまいます。これを治癒させる「本質の愛」を自身で持ち、与え、伝えて行くことができるのかを問い掛ける演劇となっています。

シェイクスピアは演劇の一つの規範である。それはブレヒトベケットの両方を含み、しかも両方のどちらもこえている。ブレヒト以後の演劇においてわたしたちがなすべきことは、前方へ通ずる道ーーつまりシェイクスピアへ戻る道ーーを見出すことである。

ピーター・ブルック『なにもない空間』

シェイクスピア劇に現代性が見られる理由は、作品の主題に普遍性が備わっているからと言えます。現代における権力者の「愚」、そして周囲の悪意が虚飾の社会を作り出して「本質」を見失わせている世界を、彼は憂えていたのかもしれません。


四大悲劇で最も優れていると言われることの多い本作『リア王』。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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