こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
1930年に世界恐慌の煽りを受けたコロンビア経済の安定を図るため、貧困に苦しむ労働者の支持により自由党が政権を握りました。コロンビア・ペルー戦争を経て、土地の改革を行った自由党は政権継続と思われましたが、政治の失策により保守党へと政権を移します。
1946年に保守党政権が誕生しますが、ここからコロンビアはLa Violencia(暴力)の時代に包まれます。保守党はあらゆる権力を用いて自由党を抹殺しようと試みます。政治的排除はいずれ暴力へと変化してテロ行為を繰り返します。抗争が激化している中で行われる選挙では自由党のカリスマ党首ホルヘ・エリエセル・ガイタンが当選確実となりました。しかし保守党にガイタンは暗殺されます。この事件を切っ掛けに押さえつけられていた市民感情は爆発し、両党の市民同士で大規模抗争を起こします。これがボゴタ騒動です。
カリスマを失ったコロンビアは争いを収める力を失くし、暴力の時代が十数年と続くことになりました。政権を握り続けた保守党はラウレアーノ・ゴメスという保守的思想の強い人物を大統領に就任し、情勢の収拾を図ります。しかしゴメスの激しい独裁政権と暴力の助長は、保守党、自由党ともに危険を覚えて不満を抱き、軍の介入に至ります。軍の英雄グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が軍事政権を発足し、統治を試みます。市民への武装解除を強制することで民間同士の「暴力」は抑えられました。しかし軍人気質が災いし、民衆を軽んじる考え方に不満が募り、市民が蜂起しました。ロハスへの敬意が失しているとしてこれらの民衆を虐殺します。これを機に国民、保守党、自由党、それぞれが反ロハス派となり、遂にはロハスを亡命させるに至ります。その後、両党で持ち回りの「国民戦線」体制が構築され、1974年まで継続します。この間に二十万人以上もの人が亡くなります。
ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928-2014)は、退役軍人の祖父と伝承話に精通した祖母の元で幼年を過ごします。祖父母が語る戦争や伝説は、真偽のほどがわからないままに驚きと感動をガルシア=マルケスに与え続けます。本作『百年の孤独』に登場するアウレリャノ・ブエンディア大佐は祖父の気質を要素に取り入れて描かれています。また、信仰、政治、軍事、文化、発明、商業、歓楽などの幅広い題材は、聞かされ続けた話から想起されたものや、ユナイテッド・フルーツ社、ボゴタ騒動、寡頭支配政治体制、牛の首輪虐殺事件、など想像に易い関係付けられた出来事も多く含まれています。
ボゴタ騒動の影響により、学業から強制的に社会へ出ることになった彼はジャーナリストとして働きます。貧困に苦しみながらも文学を愛し続け、ジェイムズ・ジョイス、フランツ・カフカ、ウィリアム・フォークナーなどの作品に影響を受けます。特にフォークナーにおいては、アメリカ南部の紛争、政治と庶民の苦悩、そして文学作品の構成そのものなどに感銘を受けます。読み終えた時に、作品の全体像と含ませた問題提起が現れる描き方は『百年の孤独』でも活かされています。
本作『百年の孤独』は1967年に発表されました。幻の村マコンドの共同体であるブエンディア一族の興亡が百年に渡って描かれます。感情を含まない筆致は読者以上に第三者的立場で語りかけてきます。目に留まった出来事を淡々と書き記したかのように描かれる文章は、現実的あるいは非現実的という問い以前に「そうである」という説得性を持って脳内に入り、読み進めさせられます。この描写方法が神話的印象を強め、俯瞰的視野による「物語に含めた問題提起」を浮き上がらせます。
この作品に対する批評家の絶賛と大衆の熱狂は、一部は『百年の孤独」がひとつの神話、失われた楽園の神話をみごとに再解釈してみせ、古い原型を破壊する傾きのあるわれわれの社会にそれを受け容れさせたことで説明される。
ジャック・ジョゼ『ラテンアメリカ文学史』
百年間を駆け巡る事象の羅列には、一貫した主題が背景に据えられています。それは「愛憎」と「孤独」です。
家族の愛に満たされなければ孤独となり、家族を愛すれば一族が破滅する。
紡がれた物語を読み終えた時、表紙を閉じると同時に、物語や記憶、本そのものまで消失してしまうのではないかとの想像をしてしまいます。しかし、手元に残り続ける本は記憶を留めさせ、「愛と孤独」を問い続けます。
本作では家族愛と恋愛の境界が不明瞭であり、近親相姦や私生児、もっと言えば性交と道徳が繋がっていないと思える程の情欲に任せた行為が散見されます。「本能的な愛」と「衝動的な愛」、そして「道徳的な愛」と「献身的な愛」など、多種多様な「愛」は、さまざまな登場人物がそれぞれ持った価値観と言動で描かれています。これらの「愛」を原動力とした行動を本作は「愛すること」と定義しません。そして孤独が付き纏い、幸福感を得ることができず、生命を終えていきます。
百年のあいだに孤独と不幸を積み重ねた一族は遂に「愛し合うこと」へとたどり着きます。末裔の男女は「愛」によって結ばれます。そしてこの愛は、一族を終末へと導きます。
日常的でしかも永久的な唯一の現実が愛でしかない空虚な世界を、彼らはふたりしてさまようことになった。
登場人物の言動や「愛と孤独」は、全てマジックリアリズムの表現で描かれ、感覚的な印象をより濃く記憶へ残していきます。この感覚印象の蓄積は、現実と非現実の融合、合理と非合理の混在、時間軸の撓みや循環、これらの不可解を違和感なく受け入れる事ができ、作中の世界へと没頭させられてしまいます。
また、激しい情熱の気性を帯びているからこその陥る深い孤独は、より一層に寂しさ、虚しさを感じさせます。「孤独」は愛に反して普遍的に描かれています。心の内の内へ、中へ中へと深く広がる孤独は「愛の衝動」と対比的に、鮮やかさを無くしたモノクロームで静止した印象を与えます。
暴れる「愛」の感情は、本能的な執念や衝動的な欲求にあり、因襲的な束縛を暴力で振り払う気質が見られます。それと同時に執念を抱く対象や振り払う束縛の無い、心の虚無とも言える「孤独」は現実的に、そして普遍的に描かれます。この逃げることのできない、避けることのできない事実は「死」と重ね合わせて読者の目の前に突きつけてきます。
しかし百年の間に一族以外の「死」は随所に多数の犠牲として描写されています。その死を特別視せずに通り過ぎる一族、そして作者は淡々とした一行で済ませています。
誰にでも付き纏う死の影は、自身に忍び寄ると何倍もの恐怖として受け止められます。他者への無関心を生命の平等性で糾弾しているようにも受け取る事ができます。
本作は、結末をもって清々しい読後感を与えるとともに、「愛と孤独」についての主題が鮮明に残り、本を閉じた後も考えさせられる不思議な作品です。未読の方はぜひ体感してみてください。
では。