RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『悲しみよ こんにちは』フランソワーズ・サガン 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

太陽がきらめく、美しい南仏の海岸を舞台に、青春期特有の残酷さをもつ少女の感傷にみちた好奇心、愛情の独占欲、完璧なものへの反撥などの微妙な心理を描く。発表と同時に全世界でベストセラーとなり、文壇に輝かしいデビューを飾ったサガンの処女作である。

1944年、第二次世界大戦争において連合軍のオーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)によりドイツ占領下にあったフランスを解放し、親独政権ヴィシー・フランスは終わりを迎えました。国内では小党の覇権争いが繰り広げられましたが、人民共和派と社会党の連立内閣が成立します。しかしこの内閣は対立を生み、戦後の復興に遅れを生じさせて国民に不信感を抱かせます。フランス外相ロベール=シューマンは戦後経済の主導権をアメリカに握らせないため、そしてフランス経済の回復のため、ヨーロッパ統合を見据えます。発表されたシューマン・プランを元に「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」(ECSC)を発足しました。絶えることのなかった独仏国境紛争を抑え、各諸国で資源管理をし、隣接する国同士で協力して運営を行うものでした。ルール、ザール両地方での工業は安定、発展して経済効果を両国にもたらします。この流れがのちのEC、EUへと繋がっていきます。


こうして戦後数年でフランスの復興と経済安定は進み、国民の感情は落ち着きを取り戻し始めます。生活力を取り戻した国民は過去の政治における過ちを許容し始めます。親独政権ヴィシー・フランスを恥ずべきものだとしていた風潮は、戦後直後に比べて緩和し見方を変え始めます。現実として保たれている生活はドイツとの協力関係がある事が裏づけとされているからでした。大きな声での主張こそ見られませんでしたが、大衆に向けた文化(文学、映画など)で描写されるようになります。戦争批判の内容から恋愛やエンターテイメントな内容へと変化し、「個人感情の自由」を感じられる作品が現れていきます。戦争の絶えなかった時代がようやく収束を見せ始め、国民は「自らの人生」をようやく見つめられるに至りました。


フランソワーズ・サガン(1935-2004)は、電気会社重役の父と地主の母という大変に裕福な家柄で育ちます。学校生活には馴染めず退学と転校を繰り返しながらも、その間に処女作の執筆を始めていました。「自分にできることは書くことしかない」そう自分に得心しながら書き上げた作品が本作『悲しみよ こんにちは』です。当時、サガンは十八歳でした。


ヒロインであるセシルは当時のサガンと重なる年ごろで十七歳。やもめの父は若々しい身体、若々しい精神を持った美形の男性。そして父と良い仲である若い女性エルザの三人で夏の別荘暮らしを謳歌する場面から物語は始まります。父とセシルは大変に仲が良く、親子を超えた個人の理解者として存在し、互いに心安らぐ大切な人として描かれます。二人の共通した主義は「刹那的快楽を愛する」という点にあります。いま、この瞬間を最高に過ごす、その想いを叶える為に全力で行動します。セシルは別荘付近で年上の男性シリルと良い仲になります。父はこれを歓迎し、暖かい目で見守りながら応援します。期間の限られた夏休みを存分に楽しむ生活に、身も心も開放されていたセシルを驚かせる出来事が起こります。母の友人であった女性アンヌが別荘に休息に来るという父の告白でした。規律を重んじ、世間体を重んじ、仕事もできる頭の良い「自立した女性」であるアンヌ。セシルは彼女と生活を共にした経験があり、とても窮屈に感じます。父の手前、反対することは全くありませんが、本心は拒絶したい思いでした。


父が徐々にアンヌへ心が傾いていることをセシルは悟ります。「このままでは夏休みだけではなく、この後の人生すべてが窮屈になってしまう」そのような不安に駆られたセシルは、エルザとシリル、二人がそれぞれ父とセシルに結ばれた未来を叶えるため、アンヌを追い出そうと画策します。

考える自由、常識はずれなことを考える自由、少なく考えることの自由、自分の人生を選ぶ自由、自分自身を選ぶ自由。私は「自分自身で在る」と言うことはできない。なぜなら私はこねることのできる粘土でしかなかったが、鋳型を拒否する粘土だった。


本作で描かれる十七歳セシルの観察眼は凄まじいものです。父の性格を完全に把握し、自尊心を煽り、感情を操作します。エルザ、シリルも同様に心の底を覗き込み、自身の思惑へと誘導します。彼女の計画は遂行され、大きな悲劇へと物語は疾走します。


そのような中でセシルは幾つかの矛盾した感情を抱きます。「アンヌを愛している」「アンヌにそばにいて欲しい」「計画が成功しなければいい」など、行動と逆の感情が渦巻きます。しかし、読者も経験したことのあるような矛盾であり、むしろ人間らしく共感を覚えずにはいられません。この心情描写の筆致がとても見事で、次々と頁を捲らされてしまいます。また男女の精神の交流を類を見ない表現で、そして現実主義的な不安定さを持って鋭く描かれる点は、サガンの観察眼とその表現力がもたらした賜物と言えます。

そしてこの物語を覆う「先を見据えない無計画さ」はセシルの、或いはサガンの「若さ故の無頓着な無責任さ」によるものと思われます。だからこそ、顛末として想像でき得る悲劇に頭を働かせることができず、苦しい最後を迎えることになりました。


作中の最後にセシルに訪れる罪の意識は、作品名『悲しみよ こんにちは』から「苛まれる」というよりは「受け入れる」という印象を受けます。これはセシル自身が罪から逃れようとするのではなく、自己の中に責任を理解して心の中で罪を背負うという描写に感じることができます。


サガンはこの処女作で一気にベストセラー作家となり、巨万の富を僅か十代にして手に入れました。社会に対する理解や恐怖を抱く前に金銭的不自由から解放されました。ここに社会の悪意が寄り集い、アルコールからギャンブル、ドラッグに至るまで、教え込まれたあげくに抜け出すことができなくなりました。金銭感覚を構築する間もなく感情と衝動のみで快楽を追求し続けたために、富、名声、栄誉を坂道を転がるように溢れ落とし、遂には貧困の末にドラッグ後遺症と共に別荘でひっそりと息を引き取りました。


渇望した自由は本当に幸せになることができるのか、世に問うているように思われます。しかし、サガン自身の人生の末路が結果を示していることは、皮肉的であるとも言えます。セシルもサガンも「快楽や衝動」に重きを置いています。その瞬間のみを自由に生きたいという欲望が強すぎたためです。せめてサガンの身近に「アンヌ」が居ればと思わずにはいられません。


「個人感情の自由」は誰もが欲しています。しかし、誰もが社会に身を置いていることも事実です。本当に大切なものを、自分を幸せにする愛し方を見つけることが「快楽や衝動」に振り回されず、本来的な「幸福」を手に入れることができるのではないかと感じました。


自身の感情を振り返り、行動を改める切っ掛けになるよい作品です。
未読の方はぜひ。

では。

 

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