RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『河鍋暁斎』ジョサイア・コンドル 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

幕末明治期の天才画家河鍋暁斎。その群を抜いた画力に惹かれた弟子の中には、かの鹿鳴館の設計者コンドルがいた。「暁英」の画号を持つ愛弟子が、親しく接した師の姿と、文明開化の中で廃絶した日本画の技法を克明に記し、暁斎の名を海外にまで広めた貴重な記録。

1853年に江戸湾近くの浦賀マシュー・ペリーが率いるアメリカの黒船が強行上陸しました。江戸幕府は他国との折衝を最小限に行っていましたが、アメリカに対しても同様の姿勢を取ろうとします。しかし翌年のペリー艦隊の軍力に屈して交渉を余儀なくされ、遂には日米和親条約を締結します。オランダ、イギリス、ロシア、フランスも後続し、各国と修好通商条約を結ばされ(安政五カ国条約)、半ば強制的に日本は開国することとなりました。イギリスに始まった産業革命の影響を受けた各国の競争(商業、貿易、植民地など)は、大航海時代により拓かれた航路を用いて激化していました。日本に対しても属国を増やす目的であった各国は、この条約を決して対等とは言えない条件での締結を迫りました。日本の鎖国が産んだ外交上の無知と、産業国の発展的野心が領事裁判権規定と関税自主権放棄を実現させてしまいます。とくに関税自主権では植民地程では無いにしろ、大きく資源を搾取される結果となりました。この外交に意を唱えた国民たちは徐々に同じ方向へと集約され攘夷論を掲げて、やがて討幕への運動へと激化していきます。薩長土肥の四藩を中心とした激しい内戦の結果により倒幕された日本は中央集権の統一国家へと変化していきます。1868年から約二十年間続いた明治維新は米欧を倣う形で国政を固め、資本主義国家として発展するために諸外国への窓口を開いていきました。


この政治的変化は日本における文化にも少なからず影響を与えます。1862年にロンドンで行われた万国博覧会で初めて日本の芸術作品が世界に披露されました。イギリスの医師であり外交官であったラザフォード・オールコックが自身のコレクションを出展したことが発端でした。数年後におこる明治維新の影響で日本文化の露出は拍車を掛け、フランスを先駆けとして「ジャポニスム」嗜好がヨーロッパ全土で急速に広まります。芸術家たちにも大きな影響を与え、歌川広重『名所江戸百景』に惹かれたフィンセント・ファン・ゴッホや、日本画の収集で有名なクロード・モネなどが挙げられます。そして、本作で語られる河鍋暁斎も「ジャポニスム」代表画家の一人です。

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諸外国への窓口を開いた日本は、先進的な政治や行政を取り入れるべく欧米化を進めました。それだけにとどまらず、産業、経済、文化、芸術、宗教、思想など多面的に吸収しようとする近代化を目指しました。具体的な対応として、諸外国の優秀な人材を高額で雇い、国民に向けて教鞭を執らせる方法を選びました。軍人や学者が次々に流入され、知識と技術は続々と日本の国民へと伝えられていきます。そこに含まれる優秀な建築家こそ、本作の著者ジョサイア・コンドルです。歩く英国紳士とも言える、礼儀正しく、真摯に穏やかに耳を傾けて教鞭を執る姿勢は、受講者の大きな支持を得ます。またコンドル自身、日本の文化に強く惹かれて互いに教え合う理想的な交流を続けます。特に惚れ込んだ画家の河鍋暁斎には弟子入りし、自らで日本画を描く術を学びます。もちろん自身の授業もあるため、合間の時間を用いる程度でありましたが、熱心な取り組み姿勢と元来の建築画を描く技術が相まって、僅か二年で雅号「暁英」を授かるほどの技量となりました。


コンドルは本業の建築家としても日本で大変に活躍しています。日本庭園や華道に強い関心を抱いていた彼は、「侘び寂び」を理解していたと考えられます。その観念を持った上で西洋建築をアレンジし、より日本に映える洋館を創り上げることに成功しました。「鹿鳴館」「東京復活大聖堂」「三菱一号館」など、日本の代表的な洋館の悉くを建築しており、「日本の西洋建築はコンドルに辿り着く」とまで言われています。

このように多才なコンドルは、自身が敬愛する河鍋暁斎の芸術性を世に知らしめんと思い立ち、目録だけでなく、暁斎の経歴や人となり、画法や好んだ画材、使用した印章や雅号などを凝縮した書をまとめました。それが本作『河鍋暁斎』です。弟子であり実質的なパトロンであったコンドルと師暁斎の関係は、親愛や敬愛に溢れて読むものを強く引き込みます。また本作は現代における暁斎作品の真贋鑑定研究にも用いられるほどの信憑性を持っています。

 

西洋画の写生はただ一編の詩を読んでそれを後で引用することができるという程度、それに対し日本画の写生は詩集全体を記憶してそのすべてを諳んずることができる、というところに違いがあると言ってよかろう。

目に見えても紙に写すことが困難な「動き」「躍動」「侘び寂び」などが日本画には描かれているとコンドルは言います。これは暁斎の異常とも言えるほどの被写体に対する執着愛に敬意を表しているもので、コンドル自身が感銘を受けてのめり込んだ理由の一つでもあります。


河鍋暁斎は当時、戯画・狂画・浮世絵などいわゆる俗画の名手として名を知られており、流派の問題があったことからも国内では過小評価されていました。しかしコンドルが惚れ込んだ芸術性は海外では「ジャポニスム」の流れも相まって広く認められていました。本来あるべき評価を広めんとする彼の熱意が本作『河鍋暁斎』から滲み出ています。

現代では「暁斎展」が頻繁に行われています。コンドルはこのような評価を求めていたのかもしれません。芸術に対する強い情熱を感じることができる本作、未読の方はぜひ読んでみてください。

では。

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