RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『二十歳の原点』高野悦子 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

独りであること、未熟であることを認識の基点に、青春を駆けぬけていった一女子大生の愛と死のノート。学園紛争の嵐の中で、自己を確立しようと格闘しながらも、理想を砕かれ、愛に破れ、予期せぬうちにキャンパスの孤独者となり、自ら生命を絶っていった痛切な魂の証言。明るさとニヒリズムが交錯した混沌状態の中にあふれる清洌な詩精神が、読む者の胸を打たずにはおかない。

 

第二次世界大戦争で広島と長崎を筆頭に甚大な被災を受けた日本は、イギリス、アメリカ、中国から与えられたポツダム宣言(日本への降伏を求めた宣言)を受け入れ、連合国へ降伏して戦争は終わりました。日本が支配していた朝鮮半島アメリカとソ連に、台湾は中華民国に、歯舞や色丹をソ連に、日本列島はイギリスとアメリカによって占領されました。日本は統治権を維持されましたが、アメリカによる間接的な統治は変わらず、継続して行われます。1951年にサンフランシスコで行われたこの戦争の講和会議に招聘された日本は、アメリカやイギリスを中心とした連合国48ヶ国(ソ連、中国などを除く)に対して平和条約を結ぶことになります。戦争状態の終結、日本の主権維持、領土の返還や制定、実質的な無賠償などを締結されました。しかしながら、武装解除された日本には自衛権がなく、他国からの侵略や内乱になんら対抗ができない無防備な状態でした。そこでサンフランシスコ条約と同時に日米安全保障条約が調印されます。日本の統治を守るという名目で、アメリカ軍を駐留させることになりました。これが、アメリカによる間接的な統治という形を成し、日本はアメリカにとっての対共産圏包囲網(ソ連、中国をはじめとする共産主義国の封じ込め)の一員とさせられ、米ソ冷戦に利用される立場に立たせられます。


実質的なアメリカによる保護は、日本の主権回復には程遠く、傀儡政権となることが見えていました。1955年に発足した与党の自由民主党は、自主憲法制定や自国防衛力の強化を目指して、日米安全保障条約を対等なものへと改定させようと取り組みます。そして1957年より日米による改訂作業が行われ、1960年に日米安全保障条約は改定に至りました。経済的協力の促進、武力の強化、他国による日本への防衛、10年契約など、幾つかの項目に変更が与えられました。

しかし国内では、広島と長崎に受けた被災における加害者であるアメリカと手を取る訳にはいかない、アメリカとともに新たな核戦争へと参加させられる訳にはいかない、と言った反発が社会党共産党を中心に広がり、学生を先駆けに国民へと伝播していきます。この軍事同盟反対運動の畝りは大きな流れとなり、全国的な規模の民衆運動へと発展しました。これに対する自民党政府は、(アメリカの保護下にあるからこそですが、)ソ連や中国などの共産主義国と起こり得る戦争の脅威から、アメリカの傘下にある安全を主張します。こうして政党同士の対立は、国家と国民という対立を生みました。


1960年5月20日日米安全保障条約改定の反対意見を押し切って、岸信介自民党内閣は強行的に採決します。これに対して議会は紛糾し、民衆運動は激しいデモと化して、全学連の樺美智子の死をはじめ、多くの負傷者を出しました。この「60年安保」と言われる民衆運動は、日本全土を巻き込んだものとなりましたが、岸信介が6月19日の条約締結を強引に成し遂げたことで、民衆には失意と悲嘆が溢れ、民衆運動の熱も冷めていきました。そして、その後に発足した池田勇人内閣による「所得倍増」のスローガンが浸透して、民衆の視線は資本へと向き変わり、高度経済成長の時代へと突入していきます。しかしながら、その陰では極左的な活動を見せる学生組織も乱立し、政党間での分裂や、民衆組織との関わりの複雑化が行われていきました。1950年の朝鮮戦争による特需を元に、日本は1960年代において年率10%の経済成長を見せ、その象徴とするかのように東京オリンピックを開催しました。また、アメリカがベトナム戦争により物資を必要としたため、それを支援する輸出が成長を高めたという背景もあります。しかし、これが「アメリカとの関わりは戦争との関わりである」という印象をより強め、マルクス共産主義者を刺激することになりました。


この時期から学生運動の動きが活発になっていきます。1965年の各大学による「授業料引上げ」「規定改悪」「大学私物化」「使途不明金」などの問題に対するバリケードストライキ、及び武力抗争が頻発しました。こうした運動を行う学生が学部やセクトを越えて結び付き、「全学共闘会議」(全共闘)が組織されました。新左翼によって行われる過激なストライキ行為は各大学で勃発し、機動隊の介入に至ります。新左翼と呼ばれる学生たちは、経済成長を見据えた社会に違和感を感じ、そこに生まれる虚無感を漂わせ、無政府主義(属する場所が無い)的な、一種の荒んだ感情を持って活動していました。そしてこの闘争は、全共闘で共有され、一つの大きな対抗勢力「国家」を掲げます。前述の対大学への抵抗だけでなく、反ベトナム戦争沖縄返還などの対国家といった活動が盛んになっていきます。この当時に、全共闘と最も対抗した組織が「日本民主青年同盟」(民青)です。対国家、或いは対大学といった姿勢や方向性は同じでありながら、民青は共産党の青年組織であったため、「国家破壊」「大学破壊」の思想とは相容れず、またその手法においても民青は妥協点を探る闘争であるに対して、全共闘は徹底抗戦を行うという相違があり、大学の内と外で争いが絶えませんでした。全共闘、民青、機動隊が入り混じって、学生運動という名の武力抗争が至るところで行われます。


この闘争が隆盛しているなかで、米ソ冷戦は激しくなり、日米安全保障条約の10年契約期日が民衆の関心の的となります。当然の如く全共闘の熱は高まり、一層の激しい学生運動が行われます。主要な大学では「70年安保粉砕」の文字が掲げられ、バリケードストライキを行います。民青であろうが、機動隊であろうが、全共闘は投石やゲバルト棒を用いて徹底抗戦します。また街頭での闘争も行われ、国際反戦デーに新宿で暴動を行った「新宿騒乱」、内閣総理大臣である佐藤栄作の訪米を阻止した「羽田事件」などを起こしました。そして、条約の自動継続を目の前にした1970年6月14日、国会議事堂前にて演説を含めた大きな闘争デモを行います。また、社会党共産党は全国規模で市民団体と共同し、デモを行いました。しかし、この全国的で大規模な民衆運動は叶わず、6月23日に条約は自動継続され、現在でも締結されたままでいます。

 

絶望的な失意に襲われた民衆は、目の前の生活を潤す経済成長の利益を手にして、反国感情は冷めていき、豊かな暮らしを追い求めていきます。一方で、蟠りの治らない極左思考の民衆は暴動をより過激化させ、警察署への火炎瓶投擲、機動隊への反戦を掲げた徹底抗争を続けました。その後、三島由紀夫が率いる「楯の会」によって引き起こされた憲法改正を求めるクーデター未遂「三島事件」、極左組織の内部ゲバルトによる暴虐事件「あさま山荘事件」などが起こり、民衆は日米安全保障条約の自動継続に受けた打撃に追い打たれるようにこれらの事件を受け止め、その行き過ぎた行動や思想に危機感を感じ、極左的組織への支持を薄めていきました。


高野悦子(1949-1969)は、まさに70年安保闘争の渦中に、その活動の参加、人生の意義、孤独と愛、自己発見に悩み、苦しみ、生きた人です。本作『二十歳の原点』は、一月の二十歳の誕生日から、亡くなる直前の六月までの彼女の手記をまとめたものです。将来に希望を抱き、胸を高鳴らせていた一人の少女は、学生運動に身を委ね、その思想と生活を変化させていきます。

大いなる「黒い怪物」こと、国家による抑圧は、圧倒的な力で学生を押し込めます。バリケードは破られ、男女関わらず全力の武力で尊厳を打ち砕きます。「沈黙は金」と何度も記述する彼女の感情からは、悔しさや虚しさの感情、そして諦めと不屈の揺れ動きが幾度も続けられたことが伝わってきます。学生生活、学生運動、アルバイト環境、仲間との交流、孤独な部屋、自分の行動を振り返るたびに、このままで良いのだろうか、なぜこのようなことをするのか、生きるとは何か、死ぬとは何か、異性とは何か、といった逡巡が延々と頭の中を掻き回します。そして、真の自由とは何か、支配から逃れる生き方とはどのようなものか、この考えに至ると、やがて「死」を求める自殺が頭を過ります。

何故私は自殺をしないのだろうか。権力と闘ったところで、しょせん空しい抵抗にすぎないのではないか。何故生きていくのだろうか。生に対してどんな未練があるというのか。死ねないのだ。どうして!生きることに何の価値があるというのだ。醜い、罪な恥ずべき動物たちが互いにうごめいているこの世界!何の未練があるというのだ。愛?愛なんて信じられぬ。男と女の肉体的結合の欲望をいかにもとりつくろった言葉にすぎぬ。しかし、私はやはり自殺をしないのだ。わからぬ。死ねぬのかもしれぬ。


彼女に「死の願望」を与えた孤独と虚無の精神は、なぜ闘うのかという自問に戻り、学生運動への参加にも悩みを抱き始めます。彼女は「死」に対する渇望を持っていました。国家の政策、姿勢、横暴、抑圧、それらを直接的に受ける彼女の精神は、反抗しようとする熱量以上に疲弊が勝り、活力を失っていきます。逃避的で厭世的な思考を抱きながら「死」を仰ぎますが、この世に対する未練とも言える、「死」よりも強い渇望の対象がありました。それは情熱的な愛情「エロス」の渇望でした。彼女は半ば強引に肉体を奪われ、そこから酒とタバコの生活へと逃れました。それでも「エロス」に対する憧れは強くあり、必ずあると希求する「幻想的な愛」を探し求めます。彼女の生活のなかでは、職場が一つの男女が交流する社会であり、その職場で知り合う男性へ「幻想的な愛」を重ね合わせます。しかしながら、幻想は幻想である、という現実を突き付けられるように、男性たちへ失望し、距離を置いて離れていきます。そして彼女が抱いていた「幻想的な愛」が打ち砕かれ、学生運動によって国家に武力による抑圧を受け、彼女を包む孤独と虚無が鉄道自殺という行動を与えてしまいました。彼女の手記の最後には、達観したような感情で、爽やかな虚空が覆い、ゆっくりと全てが沈んでいくような、ゆったりとした詩が締め括りとして書かれています。


戦後の独立回復と引き換えに日本が選んだ日米安全保障の体制は、他国からの侵攻こそ防ぐことができましたが、国内における民衆の蟠りを煽り、抗争を生み、死傷者を生み、絶望を与えました。争いを防ぐことは死者を生み出さないということと同義であるはずが、国内の死者を生み、米ソ冷戦の傀儡となって資本をアメリカに提供し続けるという矛盾は、皮肉という言葉だけでは収めることができません。過激な手法を称賛することはできませんが、当時の学生は国政を、将来を、或いは自己における矛盾や虚無を、苦しみながらもがき考える熱量と行動力を持っていました。現代において、これほどまでの政治に対する熱量を持ち、悩み苦しんでいる人がどれだけいて、政治の不正や過ちを糾弾し、社会を良くしようと考える人がどれほどいるのでしょうか。利益さえあればそれでよい、そのような資本主義社会に当たり前に慣れてしまっている現代人にこそ、本書が必要なのかもしれません。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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