RIYO BOOKS

RIYO BOOKS

主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『誰がために鐘は鳴る』アーネスト・ヘミングウェイ 感想

f:id:riyo0806:20221103091847p:image

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

全ヨーロッパをおおわんとするファシズムの暗雲に対し、一点の希望を投げかけたスペイン内戦。1936年に始まったこの戦争を舞台に、限られた生命の中で激しく燃えあがるアメリカ青年とスペイン娘との恋を、ダイナミックな文体で描く代表作。義勇兵として人民政府軍に参加したロバートは、鉄橋爆破の密命を受けてゲリラ隊に合流し、そこで両親をファシストに殺されたマリアと出会う。


1914年のサラエボ事件を発端とした三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)によるヨーロッパでの衝突は、戦禍の火を広げて第一次世界大戦争を引き起こします。当時のアメリカは両勢力からの移民、或いは移民の子孫が半数以上を占めており、双方のプロパガンダが世間に溢れ、強制的に関心を向けられていました。アメリカは第一に国民の保護を掲げながら軍需の提供を行なっていましたが、1915年のドイツによる英国客船ルシタニア号撃沈によってアメリカ国民128人が死亡したことで抗戦的に姿勢を変えていきます。巨大な援軍が敵勢力についたことで三国同盟側は不利な形勢となり、1918年に代表国としてドイツが休戦条約に調印しました。

アメリカ国内を漂っていた不況は、戦争による軍需で潤い、工業や商業を発展させて急速に経済を成長させます。アメリカ政府はこの特需を他国へ流さないよう、貿易などに高額な税率を掛けて自国の企業を守ろうと支援を厚くします。しかしながら、こうした危うい政策の上で潤っていた経済は、1920年代半ばから徐々に足元から崩壊を見せていきます。他国への劣悪な貿易条件提示は、ヨーロッパ諸国との健全な貿易を妨げ、遂には製造企業などから報復措置を取られてしまいます。これを足掛かりに1929年には株式の暴落を生み、アメリカ経済を発端とした世界恐慌が起こります。

世界的不況が続くなか、第一次世界大戦争の責任を一手に押し付けられたドイツでは、誇りと名誉を建て直す名目でアドルフ・ヒトラーを筆頭にナチスが民衆の支持を集めていきます。全責任を押し付けたフランスへの憎悪を沸々と滾らせながら、近く訪れる抗戦のために着々と国内の軍事を整えていきます。


1931年にスペインでは国王独裁政治を崩壊させて第二共和政を発足させたスペイン革命が始まります。この頃から世界中でヒトラーをはじめとしたファシズムが広がり、イタリアファシスト運動の主導者ベニート・ムッソリーニ、日本のクーデター未遂である二・二六事件の首謀者のひとりである野中四郎など、歪んだ全体主義が蔓延していました。このような世界的ファシズムの勢いから国を守ろうと、スペインは共和国として成立し、スペイン革命を起こします。しかしながら、世界恐慌の波がスペインに押し寄せて未熟な政府は公約通りに政策を進めることができず、信仰の自由・人権の尊重に次いで重要視されていた「農地改革」にまで手が回りませんでした。農夫たちは不況の煽りを受けて生きることもままならず、ストライキを起こして国に不信感を露にします。そして「真の自由」を求めて、国に対して反発的な気持ちを高めていき、無政府主義者アナキスト)たちが生まれます。ブルジョワ層は再度の革命を恐れて反発因子を抑え込む強力な政府を望んでいました。この時にナチスを模範としたファシズム政党「ファランヘ党」が姿を現します。

ファシズムの抑圧は無政府主義者たちの言論だけでなく、社会主義を望む労働者全般にまで及び、暴力措置が繰り返されていました。対抗する意志を強めた労働者たちは「アストゥリアスの蜂起」と呼ばれる武装蜂起を起こし、労働運動からファシズム対抗戦線へと移行して、1936年に「スペイン人民戦線」を結成します。彼らが国民の支持を得てファシズム政権を打倒すると、ファランヘ党を率いるフランシスコ・フランコは同年のうちに「反人民戦線」と掲げて選挙結果に抗うように挙兵します。こうして勃発した戦争が「スペイン内戦」(スペイン戦争)です。


ファランヘ党武装された軍組織であり、圧倒的な武力を自負していたため、早期に戦争を収束させることができると考えていました。また、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニによるファシズム間軍事支援を受けます。政権側も他国へ軍事支援を呼び掛けますが、それに応えたのはソビエト連邦のみでした。イギリス、フランス、アメリカなど、国政上や閣内での反発によりこの内戦に不干渉とする立場を見せます。しかしながら各国の社会主義者共産党員たちは自国の不干渉な姿勢に反発して自らの意思で支援に向かいます。こうして集まった国際義勇軍たちは旅団を組織してファランヘ党へ立ち向かいました。こうした義勇兵たちの存在と、オーストリアを巡るヒトラームッソリーニの牽制合戦により戦いは長期化しました。

フランコ軍という目標が統一され、外国軍が入り乱れる戦況は、内戦から戦争と呼ぶに相応しい様相を呈します。この激しい戦地に義勇兵として参加した活動家の中には、イギリスのジョージ・オーウェル、フランスのアンドレ・マルロー、そしてアメリカのアーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)などが挙げられます。両軍の中心的な攻防は首都マドリードでした。軍事力で圧倒しようとしたフランコ軍に対して、義勇兵たちは強い抵抗を続けて陥落を阻止します。思うように戦況を支配することができないフランコマドリード北部の工業都市バスクへ進軍します。独立自治体であったこの地をドイツ空軍を用いて大型爆撃を集中的に行い、小さな町を吹き飛ばして人口の三分の一を奪います。この地がキュビズムの先駆者パブロ・ピカソが描いた「ゲルニカ」です。フランコ軍は空爆によってバスク地方を奪うと、ゲルニカから西へ移動して、ソビエト連邦軍が守る義勇兵を続けざまに打ち倒し、スペイン北部を制圧します。そして戦況の流れがフランコ軍へ傾き始めると、バルセロナ空爆してカタルーニャ全体を総攻撃します。政権側は義勇軍の奮闘もあり、脅威的な粘りを見せましたが、弾薬や食糧が尽きてしまい、1939年にフランコ軍へ降伏して戦争が終結します。

ピカソゲルニカ f:id:riyo0806:20221103092918j:image


しかし、ファシズム枢軸国(ドイツ・イタリア・日本)の闘争は潰えません。ポーランドへの侵攻を皮切りに再び始まった戦争は、スペイン戦争を引き継ぐように世界全土を巻き込む第二次世界大戦争へと発展しました。枢軸国に対する連合国(イギリス・フランス・中国・ソビエト連邦)はファシズムを潰えさせんと各地で奮起しました。ヒトラーによる西欧への進軍はムッソリーニの協力を得て、フランスでの親独政権「ヴィシー・フランス」を発足させるに至り、ナチズムの勢力を拡大し続けていきます。また、遠く離れたアジアにおいては、制圧した満州国を防衛する日本の関東軍による暴走、モンゴルで対峙した日本とソビエト連邦ノモンハン事件、その背景として繰り広げられ続けている長期化していた日中戦争など、ドイツ・イタリア・日本はファシズムの暴力を烈火の如く奮い続けます。一向に沈静化が見えず、争いの長期化が見えてきたなかで、アメリカはファシズムを危険視し、遂に戦争へ介入します。1941年に連合軍への軍需供給を目的とした「武器貸与法」を制定し、間接的に戦争へ関わっていきます。ちょうどその頃に、中国及びアジア大陸へ侵攻しようとする日本を警戒して、アメリカは真珠湾に海軍を集結させて、いつでも制止できるように構えていました。日米の交渉が決裂すると、年末に日本がマレー半島への奇襲上陸と同時に真珠湾へ突然の空爆を繰り広げます。これにより大義名分を得たアメリカは自らの手を持って第二次世界大戦争へ参戦します。圧倒的武力を得た連合国は、日本への原子爆弾投下を決定打として枢軸国に勝利することになりました。


第一次世界大戦争、世界恐慌、スペイン内戦、第二次世界大戦争、そして前述に無い同時期の戦争を抱えた半世紀は、各地で数多の地獄絵図を生み出し、数え切れない不幸な民衆を生み出しました。そしてこの時代を青年期に迎え、数多くの試練が降り注いだアメリカ人作家の世代を「失われた世代」(ロストジェネレーション)と言います。アーネスト・ヘミングウェイ、F・スコット・フィッツジェラルドウィリアム・フォークナー、ジョン・ドス・パソス、マルカム・カウリーなどが挙げられます。彼らの作品には、人生のなかで「建造と破壊」を繰り返されたことによる「虚無・退廃」の観念が背景に漂っています。


ヘミングウェイは医師である父親に、軍へ入隊することを強く反対されて新聞記者として働きます。しかし軍への思いを諦めることができず、赤十字救護隊に志願し第一次世界大戦争の戦地へと向かいました。負傷兵の救援として駆けつけたものの、彼自身も瀕死の重症を負う危険な目に遭いました。幸いにも生命を取り留めた彼は、複数の新聞社の特派員記者としてパリへと渡ります。そこにはブラッサイの描く夜のパリが存在して、異邦人画家(エコール・ド・パリ)たちによる芸術の都の盛り上がりがあり、異邦人文士たちによる交流が酒を囲みながら行われていました。その時に彼は、文士ガートルード・スタインと親交を持ちます。「失われた世代」という言葉は彼らの会話によって生まれたとされています。ヘミングウェイは戦争により植え付けられた退廃観を持って渡仏しましたが、種々の芸術家たちの影響により与えられた熱意と生気で、個の人生を見つめ直す精神を取り戻します。


行動派の作家として活動を広げるヘミングウェイは、国際旅団へ参加して、記者として、文士として、スペイン内戦の戦地へと馳せ参じます。目で見た殺戮光景、耳で聞く銃声、肌で感じる爆風は、直に触れた経験として生々しい描写で作品に込められていきます。本作『誰がために鐘は鳴る』では、この実体験が随所に活かされて、匂いや温度まで感じるほどの強烈な筆致で描かれています。主人公ロバート・ジョーダンは「ファランヘ党」打倒を掲げる義勇軍の旅団に参加して、現地ゲリラと協力しながら軍事作戦における重要な役割「橋梁爆破作戦」に取り組みます。農夫上がりの無骨な集団は、既にフランコ軍と交戦済みであり、死地を潜り抜けてきていました。彼らの性格や習慣を理解して信頼を得ながら、危険が付き纏う作戦の協力と遂行を目指す臨場感と焦燥感は読者を掴み続けます。


描かれる具体的な暴力は、人間の醜さや思想の悪用が入り混じり、酔漢の分別ままならない野次に左右される意志薄弱な非道なものが多く描かれます。それに伴う死の描写は、積み重ねるように端的に事実として語られる冷たさがあり、またそれに反して、各々自身の死を思う際には聖母マリアに何度も祈り、高尚なものとして高く掲げる人間らしさが表現されています。現地ゲリラたちが心に抱くストイシズムは、一見、都合の良い文句として聞こえますが、その本質には望んだ戦争ではないこと、望んだ殺戮ではないこと、ただ平和を求めただけであること、などが奥底にあり、人を殺める側もまた苦悶の末であることが見受けられます。

 

ヘミングウェイの作品を読むものは、その虚無的な否定と冷酷な突放しとにもかかわらず、むしろその反対の旺盛な現実肯定ないしは現実謳歌を感じとるにちがいない。

福田恒存老人と海』の背景

本作でヘミングウェイは、「失われた世代」でありながらパリの魅力に運命を励まされた彼らしく、「積極的な人生の肯定」を描きます。個の生涯に潜む素晴らしさは、世界を愛して自身も世界の一部であると理解することで見いだすことができます。そして、個の人生をどのように謳歌するかを見つめ直すよう訴えています。『誰がために鐘は鳴る』という題名はジョン・ダンの詩句からつけられています。

なんぴとも一島嶼にてはあらず
なんぴともみずからにして全きはなし
ひとはみな大陸の一塊
本土のひとひら そのひとひらの土塊を
波のきたりて洗いゆけば
洗われしだけ欧州の土の失せるは
さながらに岬の失せるなり
汝が友どちや汝みずからの荘園の失せるなり
なんぴとのみまかりゆくもこれに似て
みずからを殺ぐにひとし
そはわれもまた人類の一部なれば
ゆえに問うなかれ
誰がために鐘は鳴るやと
そは汝がために鳴るなれば

ジョン・ダン誰がために鐘は鳴る


ヘミングウェイは1954年、『老人と海』に代表される、叙述の芸術への熟達と、現代のストーリーテリングの形式に及ぼした影響に対してノーベル文学賞を受賞しました。しかしその後、二度の航空機事故で重症を負い、後遺症として躁鬱状態の症状が激しくなり執筆が困難となります。そして彼は父親と同様に、散弾銃を用いて自殺しました。

いや、いけない。なぜなら、まだおまえにできることが残っているからだ。それがわかっているかぎり、おまえは、それをやらなければならない。それを忘れずにいるかぎり、おまえは、それを待たなければならない。早くこい。敵のやつらをよこしてくれ。やつらをよこしてくれ!

病の症状が酷くなり、文士として自分にできることが無くなったと悟ったことで、彼に自殺を決意させ、実行させたと考えられます。


激動の時代を生きながら、個の人生を人類ごと愛した作家ヘミングウェイによる本作『誰がために鐘は鳴る』は、人生を見つめ直す良い機会を与えてくれます。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

riyoriyo.hatenablog.com

 

privacy policy