RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ダイヤモンド広場』マルセー・ルドゥレダ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

三十以上の言語に翻訳されている、世界的名作。現代カタルーニャ文学の至宝と言われる。スペイン内戦の混乱に翻弄されるひとりの女性の愛のゆくえを、散文詩のような美しい文体で綴る。「『ダイヤモンド広場』は、私の意見では、内戦後にスペインで出版された最も美しい小説である」(G.ガルシア=マルケス)。

スペイン北東部にあるカタルーニャ州では現在も引き続き激しいデモが行われています。スペインの中央政府カタルーニャ民族を蔑視し、高額の税金を搾取することからスペインからの離脱、いわゆるカタルーニャ独立運動が行われています。主だって活動している人々はカタルーニャ語母語としている民族で「カタルーニャ人」としての誇りを強く持っています。代表的な人物としては、シュルレアリスム画家のサルバドール・ダリ、チェロ奏法改革を行ったチェリストパブロ・カザルスサグラダ・ファミリアを代表作とする建築家アントニ・ガウディなど、錚々たる偉人が名を連ねます。カタルーニャ人は独自の文化的見解を持っており、各種芸術で輝かしい才能を発揮してきました。


カタルーニャ州バルセロナで生まれたマルセー・ルドゥレダ(1908-1983)の両親は、どちらも文学と演劇の愛好家でした。両親の経済的問題により、彼女は九歳で学校を辞め家庭内で教育を受けます。宗教観による束縛を受けることなく自由奔放な生活を続けますが、翌年に叔父のペラ・グルギが同居してから環境が一変します。彼は、後期ロマン主義「ラナシェンサ」(ルネサンス)の復興を掲げたカタルーニャ最大の詩人ジャシン・バルタゲル(司祭であり詩人)の友人であり、雑誌の編集者でした。ペラはカタルーニャの持つ文化感情をルドゥレダに植え付けていきます。そして二人の感情は近付いて、近しい親族でありながら婚姻に至ります。やがて恵まれた子を産み、生活が落ち着き始めると彼女は執筆を始めました。


快調に執筆作品を出版していくなか、1937年に作品『アロマ』が、カタルーニャ語で書かれた最優秀文学作品に贈られるジュアン・クラシェイス賞を受けます。そのような輝かしい状況でありながら、彼女は父権制社会による妻としての束縛を嫌い、スペイン内戦の直前に一児を連れて夫の元を離れます。その直後、共和党側が劣勢となり、1939年に息子を母親に預けて、単身でフランスへ亡命しなければならなくなりました。作家であることが左翼運動者と見なされたためです。当時、作家の避難所とされていたパリの東に位置するロワシー・アン・ブリー城に定住することになり、ここでルドゥレダは多くの知識人たちと親交を深めます。

内戦が終わりを迎え、作家である私たちはスペインを離れなければなりませんでした。私は政治に携わったことはありませんでしたが、カタルーニャ語で作品を書いたという事実と、雑誌で執筆したという事実により左翼とみなされました。この時に母からアドバイスを受け、数ヶ月後には家に帰ることができると思っていましたが、それは叶いませんでした。

1981年のインタビューより


三年経った1940年に、フランスへ侵攻したドイツ軍から逃れるため、ジャンヌ・ダルクゆかりの地オルレアンへ救いを求めて向かいます。しかし、そこは既にドイツ軍に襲われた火の海でした。ルドゥレダは独仏休戦協定が締結するまでの約二週間を付近の農場で過ごすこととなりました。

協定締結後はフランスを更に南下しボルドーへ向かい、しばらく定住します。針仕事を終日続ける大変な貧困時代を過ごしたのち、第二次世界大戦争が終わり、落ち着き始めたフランスのパリへ戻ります。過去に執筆していた雑誌の共同編集者として本来の仕事に戻ることができたルドゥレダは、その傍らで作品の執筆に励みます。


1951年より、独自の世界観で描くスイスのパウル・クレーや、キュビズム・ムーブメントの発起人であるパブロ・ピカソなどの画家たちから影響を受け、自らも絵画を描きはじめます。因みに、本書の表紙はピカソ「女性と鳩」が使用されています。辛く苦しい過去の経験と、落ち着いた世界が広げる見識は、ルドゥレダの感性を鋭敏にして人生を俯瞰し始めます。恵まれ始めた環境を活かして、彼女はスイスのジュネーブを永住の地とするために移り住みます。その閑静な環境での執筆は以前の快調さを取り戻して次々と各種の賞を受けました。そして1959年に彼女にとって最高と言える作品が執筆されます。それが本作『ダイヤモンド広場』です。


物語は主人公ナタリアの心的独白で語られます。幼い少女から大人へと成長し、心境や感情が移ろいながら人生が綴られます。そして文章は彼女の意識に合わせて、好奇心で溢れた目に映るものの細かな描写、胸がいっぱいになる愛の描写、押し潰されそうな陰鬱な描写、何にも囚われない純粋な描写、など時期や環境によって変化していきます。


舞台であるグラシア街は、カタルーニャ文化において重要な位置付けにあるTeatre Lliure de Gràcia「リウレ劇場」があり、古典を再考して現代の解釈へと昇華させたカタルーニャ語演劇が上演されていました。この劇場は2001年にムンジュイック城近くに移設されましたが、それまではグラシア街の中心的存在でした。その跡地の周囲は、ハイブランドフラグシップショップやグローバルブランドの専門ショップ、観光用宿泊施設が建ち並び、カタルーニャ広場の見学を中心に観光の場として活性化しています。


スペイン内戦から第二次世界大戦争が終わるまで、または終えて数年間、国内は大変な貧困状態にありました。僅かな食糧は内戦両軍に吸い上げられ、食べるものがなく飢えに苦しみます。当時のグラシア街は観光的要素はあまり無く、市場や質素な飲食店など、貧しい下町という印象でした。主人公であるナタリアは、とても美しい父子家庭の娘でした。彼女が「ダイヤモンド広場」という小さな公園をはじめとした近所の「狭い世界」で繰り広げる現実的な生活は現代の読む者に鮮明な印象を与えます。


描かれるナタリアの目線は父権制社会に抑圧されており、国際情勢や国内政治の関心は見られません。これは彼女の無関心を責める必要は無く、それほどにただ目の前の生活を過ごして食べることが困難であること、女性は男性を補助する存在と思い込まされた風習を守っていたこと、これらが原因です。結婚相手のキメットは典型的な男尊女卑者で、身勝手で嫉妬深く、幼さが残る少年のような男性でした。

ナタリアのことを「クルメタ」(小鳩ちゃん)とあだ名して自分の価値観を押し付け続けます。経営していた家具屋は時流に合わず廃業に追い込まれ、代わりに親族が行っている鳩の飼育販売を模倣して成功を夢見ます。しかし、そのような土地や環境がある訳がなく、住んでいる借家の屋上の小屋で飼育を始めます。増え続ける鳩には小屋が窮屈になり、遂には天井に穴を開け、家屋内の小部屋まで鳩が進出します。しばらくすると、スペイン内戦勃発に合わせてキメットはアナキスト側の解放軍に参加して家を長期間も空けることになります。この間の鳩の飼育は全て、ナタリアに押し付けられるのでした。


ナタリアはダイヤモンド広場でキメットに「心」を囚われます。自分の欲望、意見、感情、全ての心を「無」によって押さえつけられます。「クルメタ」と呼ばれて名も心も抑圧し、家族のために、目の前の生活のために、無自覚なほどに自我を無で覆い隠します。

しかし戦争による衝撃が身近なものとなり、生きる環境が変化していくにつれ、感情を抑圧することが困難となり、精神的異常が現れ始めます。既に離れてしまった鳩小屋の借家に、朦朧とする意識の中でたどり着いたナタリアは当然ながらその扉を開けることができません。そして感情を吐き出すようにナイフで「クルメタ」と扉に刻みつけます。そして意識が不明瞭ななか、外に出て彷徨いながら精神の限界値を超えて「地獄の叫び」をあげます。その声とともに吐き出す「無」によって自我が解放されます。この叫び声をあげた場所がダイヤモンド広場でした。


ナタリアは「クルメタ」と決別し、心に被さっていた「無」を吐き出して「純心」を見出します。心は濁りを無くして聖女のように清らかに変化します。そして彼女は「純粋な心の愛」に触れることになります。

頭を彼の背中にくっつけて、死んじゃ嫌だって思った。彼に私の考えていることを全部言いたかった。私はことばにするよりもたくさんのことを考えているんだって。ことばにすることができないことも。でも何も言わなかった。私の足が温かくなってきた。そのまま二人で寝てしまった。眠りに落ちる前、お腹を撫でているときに、おへそに出くわしたので、私は中に指をつっこんで蓋をした。彼の全部がそこから外に出てしまわないように……


スペイン内戦直前の1933年に第二共和制のもとで初めて女性による参政権が認められました。女性による社会への影響力が拡大し始めた矢先の戦争は、女性の権利を解放することを更に先延ばしにしました。この物語は抑圧された女性の自我、自由、自尊心の解放を訴えた作品であると言えます。

おそらく私は自分自身を肯定するために書いています。私がここにいるのだと感じられるために...…

「Mirall Trencat」(壊れた鏡)序文


カタルーニャ文学の最高峰で最も美しい「愛の物語」である本作。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

 

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