RIYO BOOKS

RIYO BOOKS

主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『富士』武田泰淳 感想

f:id:riyo0806:20220331220904p:image

こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

秘密の重い扉が開かれるとき、一抹の暗い不安と不思議な幅をもった恐怖を私達は覚えるけれども、さて、いま心の秘密の扉が開かれる。《心の秘密》ーーその頑強な扉を敢えて開くことは底知れぬ恐怖にほかならぬが、武田泰淳ならではもち得ぬ全的洞察力を備えた視点によって、さながら時間と空間の合一体を時空と呼ぶごとく、敢えて新造語をもって《セイニク》とでも呼ぶべき精神と肉体の統合された一つの装置の扉がいまここに開かれるのである。

精神と性のグロテスクで真剣な《セイニク》の刻印を帯びた存在の諸相が精神病院のかたちをかりた現世の曼陀羅として悠容たる富士に見おろされているこの作品は、いわば大乗的膂力をもつこの作者ならではなし得ぬ貴重な作業であって、武田泰淳は私達の文学の宝蔵のなかに巨大な作品をさらにまた一つつけ加えたのである。


第一次戦後派作家とされる人物たちは、第二次世界大戦争直後に、戦争による凄惨な経験と精神に与えた強烈な影響から文学を通して思想や哲学を訴えた人々のことを指します。野間宏埴谷雄高梅崎春生椎名麟三などが挙げられますが、本作『富士』の作者である武田泰淳(1912-1976)も代表作家のひとりです。

戦後文学は、死者たちの上にひたすら支えられてきたけれども、しかし、仲間や「敵」の兵士達の重い死を負わねばならなかつた大岡昇平野間宏武田泰淳とも、また、愛する妻や原子爆弾によるおびただしい大量死を自身の傍らに絶えず寄りそう「伴侶」としてもちつづけた原民喜とも、福永武彦が携えつづけた死のかたちは違つている。

埴谷雄高『酒と戦後派』


浄土宗の寺で禅僧であり学者の父のもとに生まれた泰淳は、生まれてすぐに厳かで往生を願う死生観に包まれて過ごします。

1931年から大学で出会った竹内好と共にアンチ・ミリタリズム(反戦主義)を掲げて活動します。この左翼運動は警察の手により阻まれ、約一ヵ月の拘束を受けることになりました。釈放後、挫折からの無気力により大学を中途で辞め、元来周囲に願われていた僧侶としての道へと足を踏み出し始めます。しかし泰淳自身にとってこの転換は前向きな歩みとは言えず、迷いと苦悩を纏いながらの決断でした。大きな要因のひとつとして「僧侶としての矛盾と葛藤」が挙げられます。僧侶である以上、庶民のもとへ訪問して死者を悼みますが、その際に触れる庶民の生活は苦しさと貧困に溢れていました。その庶民が御布施として泰淳に手渡す金銭は、寺を豊かに、暮らしを豊かにしてくれます。僧侶は清貧であり、生活に苦しむ庶民に救いの手を差し伸べる立場にあるべきではないのか、僧侶としての精神的な意味での資格が自身にあるのか、御布施を受け取るごとに金額が気になる心は苦悩の海へと陥ります。その海からの脱却として手にしたのが文学でした。僧籍は亡くなるまで存在していましたが、文学と僧職の両立は困難であるとして、親族へ告白して僧侶から離れて文筆家の道を歩み始めます。


1937年に日中戦争で戦線に駆り出され、二年間兵役を体験します。この戦地での経験は思考深く考える癖を身につけて、生来の性分である神経質とも言える超観察眼をもって社会を見つめる能力を開花させます。帰国後、徴兵を免れる意図も含めて中日文化協会へ所属して、1944年に二度目の中国渡航を行います。たどり着いた上海では母国の国民精神を扇動する書物の執筆に勤しみますが、1945年に第二次世界大戦争が終結し、日中戦線も終わりを迎えます。この上海で敗戦を迎えた泰淳は、虚無感に襲われながらも執筆する意義を見出します。それは「征服する民衆」と「征服される民衆」を目の当たりにしたことが大きな要因でした。後者の抗いながら懸命に生き続けようとする姿に、泰淳の中で思想家としての基盤が構築されました。


本作『富士』では女性、妻としての在り方を多様な描き方で綴られています。これには泰淳の妻である百合子さんの存在が大きく反映しています。埴谷雄高が「女ムイシュキン」と名付けたほどの純粋無垢性、天真爛漫性は泰淳の生涯における絶望と苦悩を救済します。戦後の文学者たちが夜な夜な集っていた神田の喫茶文壇バー「らんぼお」で勤めていた百合子さんに心を惹かれた泰淳は、徐々に交流を深めて結婚するに至ります。上海からの帰国後、戦後の虚無感に襲われ続けて憔悴しきった泰淳を「献身的な愛」で救った百合子さんは、枯渇した心を蘇生させて作家「武田泰淳」の大成を支えます。こうして小説家として開眼した泰淳は第一次戦後派作家の代表的人物へと確立させる作品群を執筆していきます。『ひかりごけ』を筆頭に、思想を深く込めて社会における「征服される民衆」を描き、人間存在を世に問い考えさせる作品を発表していきます。


『富士』が発表された1970年ごろは、日本における精神病院批判が活発に行われていました。最も社会へ大きく影響した出来事はジャーナリストが詐病で入院して(院内へ潜り込み)、その実態を世に暴露したことでした。これが世間の流れを助長させ、多くの精神科医、精神病院が糾弾されて苦しむことになりました。槍玉に挙げられた隔離病棟や拘束治療は、事実として存在した一片に過ぎず、その治療の必要性や患者の症例などは汲まれませんでした。話題性のみを追求した報道による誤った印象で、世間の目が精神科不信一色となり、精神科の権威たちは弁明に奔走することとなりました。

ヒューマニズムの観点から精神科医擁護の立場で描いた本作は時代を超えた精神科医が持つ普遍的な苦悩を描き、世に問うている作品です。作中の精神科医の主義や治療方法には確かに現実離れしたものが感じられ、当時に持ち上がった批判も致し方ありません。しかし、泰淳が描こうとした本質は「精神病に対して向き合う姿勢」に重きが置かれており、僧侶としての経験から持つ「個の尊重」が感じられます。


作中終盤にて院内集団発狂状態が起こりますが、このとき読者は精神病とは何かという判断が下しにくくなります。正常が異常に、異常が正常に思われる状態は正と負の両端が個の内部で融解すること、つまり正常な精神を持った者が異常化でき得ることを示しているとも言えます。人間が何を軸にして生きているのか、社会性とは何か、与えられた環境に適合できなければ異常なのか、などの生物論的な人間の存在を考えさせられます。


劇中で登場人物たちに語らせるミスティシズムは、それぞれ別個の観念的思想を描き出しています。偏執的とも言える彼らの主張は確かに社会を逸脱しています。しかし、その社会とは何かという大きな疑問を投げかけてきます。作中戦時下に国から与えられた社会そのものは正常であるのか否か、そこに適合できない精神の持ち主は異常か否か、そのような根本から投げられる疑問は、発表当時、そして現代にも置き換えて問い続けられています。

互いに救済を求めるものの、相入れることはなく糾弾し合うさまは、信仰するもの、絆、誇り、観念の差異により起こります。他者を排斥する信仰は「信仰たり得るのか」という宗教者としての疑問も含められています。

もし宗教者と文学者がむすびつくところがあるとすれば、すべてのものは変化する、すべてのものは変化しながら結びつく、しかも、ほとんど不可能であるが、平等論にむかって、少しずつ動きつつあるということにおいてであります。しかも、これは定められたものではあるが、決してわれわれの力を拒否するものではない、われわれが、それに参加することを拒否するものではないのであります。

武田泰淳『冒険と計算』


泰淳が禅僧時代に抱いた仏教真理である「諸行無常」は、万物の流転を受け入れ、地道な研鑽が快楽(けらく)へと導くという考え方です。しかし、報いは生前の世にこそ与えられ、現世こそ、この社会こそが極楽浄土であらねばならぬという強い思いを持っていました。泰淳が超観察眼で感じ取った社会には、変革を必要とすることがあまりに多くあったのだと感じられます。


第一次戦後派作家の代表作、深く考え込まれた観念論は読む者を圧倒します。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

riyoriyo.hatenablog.com

privacy policy