こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

第二次世界大戦争での敗北は、日本国民に「天皇が絶対的な指導者」という価値観の基盤を崩壊させ、すべての信仰を失った者のように、人々は焼け跡のうえに思考回路を停止させて茫然と立ち尽くしました。生き方を見失った人々は、精神的な生きる糧を求めます。家族を、財産を、土地を、生き甲斐を無くした人々は、野生的な「生きる気力」さえも本能から呼び覚ますことはできませんでした。そのような惨状を、戦争を体験した文士たちは憤りを覚えながらも、喪失感に溺れる人々へ標を示そうと試みます。戦禍の焼け跡で包まれた社会を、これからどのように生きるべきか、どのような思想を持つべきか、自分の在処はどこに見出すのか、そのような問いに答えるように、各作家の思想をもって小説という形で表現しました。埴谷雄高、武田泰淳、椎名麟三など、第一次戦後派と呼ばれる作家たちが先駆となって開いたこの文学思潮は、共産主義的な要素を多く含みながら、失望のなかにいた多くの国民に生きる活力を与えます。このような文学思潮は、第二次戦後派と呼ばれる人々を発掘しながら引き継いでいきました。三島由紀夫、大岡昇平といった作家たちがこれに該当しますが、彼らは戦争での敗戦を乗り越えた社会に生きる姿勢を説くという姿勢は継承しつつ、そこに各作家が影響を受けた西洋の文学、思想、哲学、信仰などを活かし、新たな思潮として広めていきました。本作の著者である安部公房(1924-1993)もそのひとりです。
安部公房は、満洲医科大学の医師である父が東京へ一時出向している際に生まれました。彼は生後八ヶ月で満洲の奉天へと渡り、日本人居留区で幼少期を過ごしました。街は整備され、上下水道も整った、比較的に過ごしやすい環境で育ちます。日本人居留区の小学校では、「五族協和」という満洲国の実験的な理念が基盤となった教育が実施されていました。これは、和(日本人)、朝(朝鮮民族)、満(満洲民族)、蒙(モンゴル民族)、漢(漢民族)、これらの五民族が「満洲で協調しあう暮らしができるように」とする民族政策でした。公房の精神は、この理念に大きな影響を受け、精神の根底にひとつの価値観を与えます。しかし満洲社会の実態は「五族協和」と大きく掛け離れるものであり、至る所で民族差別が横行していました。公房はこのような「理念と乖離」した社会に大きく戸惑います。中学校に進むと、公房は海外文学や近代劇を中心とした読書に耽溺します。なかでも好んだものはエドガー・アラン・ポオの作品で、のちの公房作品にも影響を与えました。勉学にも熱心で中学校を飛び級で卒業すると日本へ帰国し、高校へと進学します。そこで講師に薦められた実存主義の文学に出会います。また、公房の勤勉さは衰えることなく、非常に優秀な成績を高校でも収めました。1943年、戦時下のために繰り上げて卒業となった公房は、東京帝国大学医学部へと進学しますが、戦争が激化していくことに対して両親の安否を気遣い、奉天へと戻り、開業医をしていた父親の手伝いを始めました。終戦後、発疹チフスが満洲で大流行し、その治療を精力的に行っていた父親は、やはり感染してしまい、亡くなってしまいました。
日本の敗戦によって満洲が崩壊すると、支配者であった日本人は他民族からの迫害対象となります。さらには、元囚人であったロシア兵たちが街を跋扈し、強盗や暴力などが横行する、倫理を失った無法地帯と化しました。生活が困難となった日本人たちは、逃れるように帰国を目指します。しかし、敗戦後の日本は国内の窮状を理由に「現地に留まるべし」という姿勢で、受け入れを拒否しました。荒れ狂う満洲民族たちの現状を、熱心に訴えることで遅まきながらも政府はようやく承知し、日本への引き揚げが実現しました。引き揚げ船の内部は足の踏み場もないほどで、そこでも病気による死が見られました。細い命をなんとか繋ぎ留めるように、やっとのことで帰国した人々は、貴重品など殆ど持たぬ小さなザックひとつで日本の地に降り立つことになりました。
学生のころより少しずつ執筆をしていた公房は、満洲生活とそこからの引き揚げ生活を「観念的に捉えた」詩集を自費出版しました。これが、公房の文士としての第一歩と言えます。そして、この公房の才を真っ先に見出したのが、第一次戦後派作家の埴谷雄高でした。1948年に『終りし道の標べに』が初めて商業誌に掲載されると、埴谷雄高は公房を、花田清輝、岡本太郎とともに運営する「夜の会」へ参加させ、その後の作家活動を後押しするようにともに過ごす時間を増やしていきました。精力的に執筆を重ねる公房は、1950年に『赤い繭』で戦後文学賞を、1951年に『壁』で芥川賞を、1958年に『幽霊はここにいる』で岸田演劇賞を、それぞれ受賞し、文壇に確実な安部公房という存在感を示しました。
公房が描く作品には、現実を理想的に捉えることのできない心的な負荷が強く影響しています。小学校時代に満洲で感じた五族協和の現実的な失望、満洲の開業医として奮迅した父親の感染死と敗戦後の中国人の暴虐、敗戦による日本という故郷と満洲という故郷の喪失、これらの現実と理想の差に対する「矛盾や喪失」が、安部公房の作品に通底していると言えます。彼の心を支配する戦争によって与えられた「矛盾や喪失」は、彼自身の観念的な歪みとなって価値観を構築していきます。そしてその観念的な歪みは公房の深層意識へと潜り込み、彼は無意識のうちに「その歪み」を作品で表現するようになりました。公房は、この「観念の源」を「シュルレアリスム」の創作手法のように、内から湧き上がる創作思念として捉えようと試みます。そのひとつの探究対象が「夢」でした。
公房の作品は、このような手法での創作と独特の筆致や構成であったことにより、当時に民衆の支持を多く得ていた無頼派(太宰治や坂口安吾ら)から派生した私小説の潮流と一線を画していたため、一部の人々からの注目のみに留まっていましたが、1962年に発表した『砂の女』によって、その象徴性と「生きる本質」を描写したことで、誰もが認める文士としての立場を確立しました。戦争によって失った共同体としての社会と、その崩壊のなかに見る人間の根源的な生命力は、敗戦後に項垂れた人々の精神に、確実な熱量を注ぎ込みました。そして『砂の女』が1968年にフランスの最優秀外国文学賞を受賞したことを弾みとして、ソヴィエト連邦、チェコスロヴァキアなどで熱く受け入れられました。いわゆる「前衛芸術」として公房文学は東欧を中心に認められましたが、これは西欧を中心に認められていた三島由紀夫と対比的に見ることができ、世界的作家としての二つの旗艦と捉えることができます。そして当人らも互いに認め合い、特に三島は1967年の谷崎潤一郎賞選考の際、安部公房の戯曲『友達』を熱心に支持することで、異例の戯曲受賞を果たさせたという経緯も残されています。
ぼくには、この反射的感覚の昂揚と、皮膚感覚的な痛みとのあいだには、単に映像と実像の違いといった以上の、なにか本質的な相違があるように思われてならないのだ。
安部公房『砂漠の思想』
本作『笑う月』は、夢から創作するという公房の随筆形態の短篇で構成されています。回りくどい表現にはなりますが、公房の語り口は確かに「創作方法の舞台裏」のように書かれています。しかしながら、各作品を読み進めると明確な小説としての構成が成り立っています。夢による創作を描いた創作作品と言えるもので、公房が自身の深層に潜む観念の源を辿ろうとする姿勢が如実に表れています。この夢の追求は、公房自身が「自分の認識」を解き明かし、公房自身の「世界を見る価値観」を把握しようとする試みと捉えることができます。そして公房が捉えた(と認識した)観念を、夢という印象から掘り起こし、それぞれの作品へと昇華していきます。作中でも「発想の種子」という言葉が用いられているように、あたかも作中の内容が「夢の出来事」かのように説明がなされていますが、事実、それは種子から発芽されたものであり、それを花咲かせるまでには創作という手段が用いられています。公房作品に見られる理性と論理性が随所に発揮されている点も、小説という可能性の賜物でもあり、公房の筆致の独自性とも言え、どの作品にも魅力が随所に散りばめられています。
このような「観念の源」を追求しようとする姿勢、そして東欧を唸らせた「前衛性」は、公房作品に見られる大きな特徴です。しかし、この独自性が与えた文壇への衝撃は大き過ぎるもので、他の作家が同調して「ひとつの文芸思潮となる」ということは実現しませんでした。これは前述の二点に付言して、「独特の筆致」が大きな障壁となったと言えます。その筆致に見られる大きな特徴は、「現実と非現実の境界の無さ」が挙げられます。
よし、起きるぞ!フットワークで逃げながら、左の眼の上をねらってやろう。あいつ、まだ傷の跡が残っているみたいだからな。やっと四ラウンドになったばかりじゃないか……一回くらい、ダウンしたって……キャリアがちがうからな、キャリアが……問題じゃないさ……みてろ、ジャブで、動きがとれないようにしてやるからな……そら、いますぐ起きてやるぞ!
安部公房『時の崖』
右の肘で、体をおこして……右足をひいて……ぐっと重心を、左の膝に……
変だな……なんだか、自分が二人になったみたいだな……これでも、起きているんだろうか?……リングは、どこに行ってしまったんだろう……うるさいなあ……うるさくって、何がなんだか、分らなくなってしまうじゃないか!
この「現実と非現実の境界」は、夢という対象を通して深層の意識へと問いかける公房自身の目線と、夢から醒めた公房が現実側から夢を見つめるという二つの視点によって、本来は設けられるはずの境界が曖昧となり、「公房の意識」が双方を結び付けることで独特の筆致を成り立たせています。この「印象」とも言い換えられる夢の象徴性は、個人としての根源的な意識から湧き上がるものであり、それを創作という形で公房は「自身の観念」を探究したのだと考えられます。
夜空を見上げているとき、視野の周辺にちらと星影がうつり、視線をあらためて向けなおすと、かえって見えなくなってしまう事がある。眼をそらしてやると、再び視界に戻ってくる。網膜の中心部と、周辺部の、機能の分業からくる現象だ。夢と現実にも、どこか似たところがあるように思う。現実は、意識の中心部でより鮮明にとらえられるが、夢は、むしろ周辺部でしかとらえられず、中心に据えることで、かえって正体を見失ってしまいかねない。
安部公房『笑う月』
本作をエッセイとして読んでしまうと、公房が見据えた「観念の探求」が見えにくくなってしまいます。本書は、彼が持つ独特の前衛性を存分に受け取ることができる作品集となっています。安部公房『笑う月』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。