RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『海からの贈物』アン・モロー・リンドバーグ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

女はいつも自分をこぼしている。そして、子供、男、また社会を養うために与え続けるのが女の役目であるならば、女はどうすれば満たされるのだろうか。い心地よさそうに掌に納まり、美しい螺旋を描く、この小さなつめた貝が答えてくれるーー。有名飛行家の妻として、そして自らも女性飛行家の草分けとして活躍した著者が、離島に滞在し、女の幸せについて考える。現代女性必読の書。


1945年に各国を巻き込んだ第二次世界大戦争が終結して、各地での復興と国際経済の正常化が目指されました。参加国のなかでも戦禍を直接的に受けることが少なかったアメリカでは、戦争軍需による大きな利潤で異常な速度の経済成長を見せます。アメリカは内外に向けて「人間としての尊厳が守られる新しい世界」を構築しなければならないと宣言して、世界各国を相手取り、世界を牽引する立場を目指すことを表明します。手元にある巨額の利潤を経済牽引のために、福祉構築のために、貿易利潤拡大のために、各方面へ投資を始めます。また、国内企業は政府の助成を受け、帰国した軍人たちは復員兵援護法(GI法)によって支援され、国内の好景気がアメリカ国民の多くを中流階級へと押し上げ、大多数の国民は満たされた生活を与えられました。


しかし、その主義のもとで行われた決定により生み出されたソビエト連邦との冷戦の経過に、国内でも疑問視する感情が膨らんでいきます。主義を否定してソビエトを封じ込めることで起きた関係の不和は、各国の共産主義組織を刺激して、望まぬ新たな不和を生み出し始めました。これが発展してアメリカ国内で労働運動が起こり始め、政府と民衆の間に溝が生まれ始めます。また、戦争軍需による利潤の恩恵に与ることの出来なかった人々は、活発になった労働運動と足並みを合わせるように、同時多発的に政府に対して行動を起こします。1950年代のアフリカ系アメリカ人による人権改革運動が最高潮に達すると、文化面でも反体制因子が見られ始めます。企業の活性化によってフランチャイズ化、マスプロダクションなどが蔓延して国民生活の画一化が溢れ始めます。これに違和感を感じて、個性を守る反体制芸術家が多く生まれました。この中でも文学の括りをビート・ジェネレーションと言い、意識の画一化から逃れようと他国の文化を率先して取り入れた作品を世に広めました。


反体制運動が芸術や文化を巻き込みながら大きな潮流となるなかで、政府も内部から変革され、民衆の意思へと歩み寄っていきます。1960年に制定された公民権法が一つの転機となり、他の労働運動は更なる活性化を見せます。女性解放運動ウーマンリブ(Women's Liberation)もその一つで、「女性は家庭を守り、男性の補助的な存在であるべき」とする従来の因習から、個人としての尊厳を守ろうとする主張の活動です。性差別や雇用差別の撤廃、参政権や人権の平等性を訴え、現代では「制度の上での平等」は満たされつつあります。しかし、性暴力やハラスメントによる被害は現在も変わらず存在して、「真の意味での平等」には未だ成り立っていないと言えます。実質的な社会的立場は、理解を示す企業も増えてはいるものの、求める自由とはまだまだ掛け離れています。

1963年にジャーナリストのベティ・フリーダンが発表した『The Feminine Mystique』(新しい女性の創造)は当時の女性解放運動を激しく活性化させることとなりました。「女性の幸せは、結婚して家庭を守り、受動的に性を受け、子を育てることにある」という社会の押し付けによって苦しんでいる女性の声を集めて、「否」であるという意思を代弁しました。特にこれらの女性が苦悩していた点は、第二次世界大戦争より帰還した男性たちを慮り、苦しい試練を越えた受け皿となりたいという奉仕的感情がゼロでは無かった点です。また、冷戦化において対ソビエト連邦思想に則ったアメリカ政府の理想形態は核家族という暮らしであり、社会へ啓蒙されていた考えが無意識的に「こうあるべき」の思いを抱かせて、自身が家庭に閉じ篭もることを「是」とするように言い聞かせていたという側面もあります。フリーダンはこれらの意思を分析して、新たな女性像を社会が構築する必要があるという考えを、批判されることを覚悟で世に放ったのでした。その後、日本はもちろん、フランス、ドイツなどでも法改正が行われ、現在でも活動と社会変化は継続して行われています。


本作『海からの贈物』は、1950年代後半の女性解放運動を含めた労働運動の活性化を受けて、本当の幸せは何か、本当の自由は何か、本当に求めているものは何か、を思索的に突き詰めた著作です。著者のアン・モロー・リンドバーグ(1906-2001)は、1929年にマサチューセッツ州にあるアメリカ最大の女子大学スミス・カレッジを卒業すると、劇的な出逢いにより偉大な飛行士チャールズ・リンドバーグと結ばれます。彼の影響を受けて空に憧れ、自らも飛行士ライセンスを取得します。副操縦士となった彼女は夫と共に世界中を飛行機で飛び回ります。新しい歴史を刻みつけるように、カナダ、アラスカ、日本、中国などへ向かい、多くの景色と文化に触れて価値観に刺激を与えました。

五人の子を養い、凡そ誰もが憧れる幸せを得ているように思える夫妻ですが、大きな不幸を経験していました。1932年に長男が誘拐され、遺体で発見されます(リンドバーグ愛児誘拐事件)。十週間に及ぶ五万ドルの身代金要求に対しながらも、警察の大規模な捜査も虚しく、邸宅付近で変わり果てた姿で発見されました。


苦難を乗り越えようと夫妻は、多くの幸せを掴むため、仕事に家事に明け暮れます。文字通りに心を亡くしながら過ごす日々を繰り返し続けます。第二次世界大戦争時には反戦意思を表明して、その活動も行います。終戦後の経済成長にも、夫は著名人であることからひっきりなしに仕事を求められました。彼女は母として、妻として、女性として、アメリカ社会が求める理想的な立場を振る舞おうと、体力と時間を費やしながら、「家庭の幸せ」を追求して守り抜くことに専念します。やがて伸ばされすぎたゴムが切れるように、彼女の心は自問します。これが幸せなのだろうか。

彼女は精神に安らぎを与えるため、仕事、家事、人付き合い、名声、資格、主義、そのようなものから離れた生活を送ろうと発起します。アメリカ南東にあるフロリダ州の西側、マイアミの逆側の岸に沿うように並ぶ二つの島があります。その一つである美しい砂浜を持つキャプティバ島で、自分を見つめ直す休暇を過ごします。夫の仕事と子供の学校に合わせて起床することもなく、送迎に出ることもなく、家族全員の洗濯からも、食事の買い出しからも、煩わしい近所付き合いからも、仕事の依頼や報告からも、社会の一員としてしなければならないとされていることから解き放たれた生活を送ります。


自然に目覚める起床は清々しさと快さを与え、空腹を感じ始めて食事の用意を始めるという暮らしは、亡くしていた心をゆっくりと呼び起こします。撓んだ緩やかな心は、喧騒のなかにあった自身の生活を振り返らせます。感じていた幸せを守るための自身の犠牲は、どのような価値を自身に与えたのか。そして、その幸せは自身が求めていた幸せだったのか。時間を掛けて砂浜を見つめながら問いかけ続けます。目に映る空や波から手前に視線を移すと、幾つもの美しい種々様々な貝殻が打ち上げられていました。それぞれの貝は美しい形状と色合いで、同じものがありません。その貝殻から想起される人の心の繋がりや在り方を、思索しながら書き上げたものが本作『海からの贈物』です。


世間から与えられた女性像から目を離し、女性としての、そして人間としての、本来的な幸せを追求する理論的な筆致は、決して詩的な印象ではなく、真剣な思考から生まれる一つの答えです。若い頃の燃え上がる情熱、家庭を持ち守るべき存在ができた慈愛、壮年となり自身を労って幸せを見つめ直すとき、時代と共に歳を重ねるなかで忙殺されてしまう「自身への慈愛」はどのようにして取り戻すかを教えてくれます。

自分が自分を受け入れることは、自分が自分を世間が押し付ける役割から放棄させて「一箇の個人」として捉える必要があります。教会で祈りを捧げるように柵を全て取り去った思考で見つめる必要があります。植え込まれた世間的価値観は思考を引っ張り幾つもの柵を思い返させます。そこから反抗するように自身の心へ踏み込むためには、読書、音楽、勉強、祈りなどで自身を刺激させて内部へと踏み込む必要があると説いています。また、この思考は女性だけではなく、人間全てに言えることであり、どの人間も「一箇の個人」として自分が自分を尊重し、心を満たす努力が必要であると訴えています。

 

自分の今まで無視してきた面を拡充し、例えば、外での活動のためにやる暇がなかった内省の習慣を身に付けるとか、余り味わう機会がなかった他の人間との個人的な関係を楽しむことを覚えるとか、忙しくてそのままにしていた芸術とか、感情とか、文化とか、精神とか、そういういわば、女性的なものに関心を向けるべきではないだろうか。或いはアメリカの男も、女も、我々の物質的で活動的な、外部に向けられた男性的な文化で、心とか、精神とか、そういういわゆる、女性的でもなくて、単に我々が今まで無視してきた人間的なものに過ぎないのである。そういう線に沿って成長することが我々を人間的に完全にし、各個人に自足した一つの世界になることを得させる。


こうした思考で人生を共に過ごす相手と接することは、「二つの孤独」として互いが存在することであると言います。互いが「一箇の個人」として尊重し、心を大切にすることで、心は自分を守り、自分を個として確立します。しかし共に過ごす形、家族、同居、親子、友人など様々ですが、その形態は大きく枝分かれした大木のように幹は一つであり、絶対的な心の繋がりがあるからこそ成り立ち、相手を尊重することができると唱えています。誰かのためだけではなく、自身を大切にすることが「人間としての根源が望む幸せ」を見出すことであり、誰かや何かに押し付けられる「幸せらしきもの」の価値観から解き放たれることであるという考えです。


本作は自身の人生を見直して、心の底と対話をするきっかけとなる作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

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