RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ハムレット』ウィリアム・シェイクスピア 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回の作品はこちらです。

 

十六世紀のイギリスで無一文から、俳優、国王一座専属作家、劇団株主、詩篇献呈の報奨金など、誰よりも演劇で成功した劇作家シェイクスピア。彼が書き上げた数多くある代表作品の一つ『ハムレット』です。

城に現われた父王の亡霊から、その死因が叔父と母の計略によるものであるという事実を告げられたデンマークの王子ハムレットは、固い復讐を誓う。道徳的で内向的な彼は、日夜狂気を装い懐疑の憂悶に悩みつつ、ついに復讐を遂げるが自らも毒刃に倒れるーー。恋人の変貌に狂死するオフィーリアとの悲恋を織りこみ、数々の名セリフを残したシェイクスピア悲劇の最高傑作である。

 

本国のイギリスをのぞいて、シェイクスピアが世間に受け入れられ、愛され続けている国は日本以外には無いと言われています。劇作家ピーター・ブルックはインタビューで「イギリスと日本は演劇に優れた国だ。これは寡黙で内向的な島国に住む者の性格によるものである。なぜなら、自己表現の手法として演劇が必要だからだ。」と述べており、シェイクスピア作品と日本の国民性に親和性があると伝えています。

また、演劇学者の河竹登志夫さんはシェイクスピアの作品性について、以下のように述べています。

たとえば『ハムレット』などは、何が主題なのか、シェークスピアがどんなつもりで書いたのか、とらえがたい。それだけにーーむろんドラマとしての内容構成、せりふ、人間描写すべての点で傑出しているからではあるがーー今日ますます千差万別に研究され、解釈され、演出されてもいるのだ。

『演劇概論』

 

シェイクスピア作品の魅力として「マルチボーカリティ」(多声性)が挙げられます。一人の登場人物の台詞や行動に「人間的な裏表」を持たせており、そこに単的な特徴や印象を持たせない「実際的な個性」を描写しています。これはシェイクスピアが持っていた「優れた人間観察力」が為せるものであり、彼が生み出した作品の登場人物たちが持つ魅力と言えます。英文学者の河合祥一郎さんはこのように語っています。

社会は人が正当に生きることを求めがちですが、ときに失敗したり、落ち込んだり、嫌みを言ったり、だらしなかったりと、基本的にダメな部分も持ち合わせているのも人間。シェイクスピアは、そうした人のネガティブな側面にも光を当てているのです。

『& Premium 72』

 

今作ハムレットも例に漏れず「ネガティブな側面」を存分に描いています。主人公であるハムレットの心の声とも言える独白は、絶えず「憂鬱性」を感じさせられます。この憂悶の発端は亡霊である父から明かされた「母の汚辱性」から始まります。

ハムレットが母に対して抱く嫌悪が、オフィーリアを含めて女性への激しい嘔吐となって噴出する。汚れなき母がハムレットの想像のなかで姦淫の汚辱にまみれて「娼婦」に転落する。その母からセクシュアリティを除いた上ではじめてハムレットは父の復讐を無事に遂行できるのかもしれない。

シェイクスピア・ハンドブック』

 

この「憂鬱性」は悲劇のヒロインであるオフィーリアと対照的に描かれます。

アンティゴネーの正統な子孫たる彼女の狂気は、殺された父の正しい埋葬を国王に要求する。と同時に性的欲望を錯乱言語のなかに解放する彼女は〈ハムレットを失った自分/ハムレットに失われた自分〉への悲哀と憎悪を宿している。そしてこの二つの点がハムレットの正確な陰画となる。

シェイクスピア・ハンドブック』

 

この「憂鬱性」と「狂気」が劇中に終始渦巻く『ハムレット』ですが、その行動を起こす登場人物の原動力は何でしょうか。一つは「突き抜けた純粋性」であると考えられます。

誰もが「こうありたい」と願う感情があり、願う強さが希望を近づける、というような意味合いの言葉を耳にする事があります。しかしこの悲劇において、狂信的に願い求める末が、狂気的な行動、或いは狂死に至ると描かれています。それは善悪を問わず、「純粋な心」により身を滅ぼしていきます。

To be, or not to be ー that is the question;
Whether 'tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune
Or to take arms against a sea of troubles

生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。

さまざまな和訳がありますが、福田恆存訳ではこのようになっています。物語の流れでは復讐するべきか否か、という自問に見えますが、ハムレットが本質的に問うているのは「どちらが男らしいのか」という点です。ここにハムレットの突き抜けた純粋性が垣間見えます。生死を天秤にかけて、男らしくあろうとする純粋性に苦悶するハムレットからは、自身の人生を演じている役者かのようにもみえます。

シェイクスピア・シアター主宰の出口典雄さんはこのように語ります。

人間はピュアなものを求めて極限までいくと、非人間的になる。誰のなかにも潜む感情だと思いませんか。

シェイクスピア劇の登場人物たちは、人を愛す時も、憎む時も、とことんまでやらないと気がすまない。

シェイクスピア作品ガイド37』

 

この「突き抜けた純粋性」は登場人物の内面にどのような影響を与えているのか。T・S・エリオットはこう表現しています。

ハムレット(人物)は表現不可能な感情に支配されている。なぜならその感情は立ち現れるもろもろの事実を超過しているからだ。」

ハムレットに芽生えた絶望は「汚辱に塗れた母の行為」に基づくものに違いはありません。ですが、ハムレットという人物の性格、歴史、経験により、汚辱の事実以上の絶望感に成長し、苦しめることになります。

 

この絶望感を育てる突き抜けた純粋性は、当時に定義されたティモシー・ブライト『憂鬱論』が根底にあります。

「精神の力すべては憂鬱な暗い地下牢に閉じ込められ、一切は暗く黒く恐れに満ちていると想像する。」

まだ憂鬱と狂心が混ざり合った解釈であったにせよ、もしくは混ざり合っていたがゆえに、ハムレットの精神性が劇中のように構築されたのかもしれません。

 

この劇中に常に漂う憂鬱性は、時代背景が影響しています。特に「コペルニクス的転回」と「宗教改革」が、要因と見ることができます。

今までの世界的常識が覆り、信仰を根源とした争いが苛烈になっていく。十六世紀末から十七世紀初めは、時代そのものが憂鬱で覆われていました。

自然と神、野生と聖性、これらが両立した演劇こそがエリザベス朝時代の特徴的演劇であり、劇中に含まれた思想でもあります。

 

シェイクスピア劇、特に『ハムレット』に現代的な心理の一貫性を求めるのは邪道である。ハムレットは一貫した心理としてではなく、一個の生きた人間として、舞台の上で、自由に、その場その場に即して「演戯」をしているのである。だから、そこには一見して矛盾もある。が、それは作品上の矛盾というより、生きた人間の矛盾なのである。

翻訳家の中村保男さんの言葉です。

ハムレット』は、人間の本質的な矛盾を、「突き抜けた純粋性」で憂鬱そのものを描いた作品であり、当時の社会性や主義を感じ取ることができます。

 

あまりにも有名な今回の作品。現在でも数え切れないほど演じられています。そして、何度でも読み返したくなります。
未読の方はぜひ。

では。

 











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