RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『マシーン日記』松尾スズキ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

 

映画『クワイエットルームにようこそ』の原作、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』脚本などに加え、自身の手掛ける演劇で時代を問わず幅広く魅了し続けている松尾スズキ。その戯曲『マシーン日記』です。

8月14日・金曜日 東京・不快指数100 今日もパチンコ屋の駐車場で子供が蒸れて死んだ そして私はミチオのマシーンになった(マシーン日記)。ある者は苦渋の色を浮かべある者はお世辞を浮かべつつ臆病者は接吻によりて勇者は剣によりて愛するものを殺す(悪霊)。性愛を軸とした男女の四角関係が渦を巻き、いびつな「家族の肖像」を描き出してゆく二作品、一挙収録。

 

マシーン日記は1996年に、片桐はいり主演のトム・プロジェクト公演のために書き下ろして演出された作品です。彼女から着想される芸術性は数多く語られますが、松尾スズキは「退廃演劇」に昇華させました。
気の狂い、思考の狂い、思想の狂い、理屈の狂い、理性の狂い、理想の狂い。すべてが同様に「異常な行動」と側からは受け取られますが、それぞれの中にある行動理念は違います。

この登場人物4人は、各々違った「狂い」を持ち、だからこそ歯車が合わずにコミュニケーションが破綻します。その情景は悪夢的であるが、閉鎖的な社会においては、なるべくしてなった価値観であり、繋がりとも言えます。しかし、彼らが共通して持ち、欲し、活動の原動力となっている物は「愛」です。愛が高まるほど「活発な狂い」を起こしていきます。

 

『マシーン日記』には隠されたオマージュがあります。それは『オズの魔法使い』です。

エメラルドの都につながる黄色いレンガの道をひたすら歩いていくドロシー。途中、脳みそが欲しいというかかし、ハートが欲しいというブリキの木こり、勇気が欲しいという臆病なライオンと出会い、それぞれの願いをオズの魔法使いに叶えてもらうため、一緒に旅する仲間になります。

誰もが自分の内に足りないものがあり、常に欲しています。それは一人で手に入れる事が出来ないものもあります。相手が必要なもの、協力の必要なもの。欲する者が集えば繋がりになる。そしてより濃い繋がりの組織は「家族」である。この寄り添いは、愛以上に狂気を生み出します。

『マシーン日記』では、歪んだ家族の中に含まれる歪な愛の形を、互いにぶつけ合います。ここから「多方面の共依存」を感じとる事ができます。全員が全員に「愛情」と「憎悪」を秘めています。


観客は「狂気」を受け続けていく内に、「感じとる恐怖の違い」に気付きます。登場人物が感じる恐怖と、観る側が感じる恐怖です。

後者の客観的に感じる恐怖は、この小さな異常社会の中に「現実性」を見出してしまう点にあります。劇中全ての狂気的行動は、超能力などの非現実的な能力を全く必要としません。だからこそ有り得てしまう恐怖、もしくは、世間の何気無く映る行動の奥に秘められた狂気、を自分の生活世界に想像してしまいます。

 

シアターコクーンにてアキトシを演じた大倉孝二さんは、インタビューでこのように述べています。

僕が思うには、どこにでもある日常を描いた作品や、等身大の人間を表した作品とか、そういう平穏ともいえる演劇や表現の仕方はたくさんあるし、それも必要なものだと思いますけど、やっぱりこの作品のような“見世物”的なものというのは、絶対的に演劇の要素としてあると考えていて。それは失ってはいけないと思うし、そこを求める人たちは必ずいると思います。松尾さんは演劇的なそういう“見世物的な要素”をすごく受け継いでいる劇作家さんなんだろうな、と思いますね。

 

現在の閉塞感に包まれた社会は、我々を、日を増すごとに不安を募らせていきます。この狂気によって綴られた日記は誰が書いたのか。自分の中でその視点が定まった時、自分の中の狂いに気付き、正す努力を始める事が出来るのかもしれません。

 

70年代ニューヨークのカウンターカルチャーの女王、偉大なパンク・ロックシンガーのパティ・スミスはインタビューでこのように語ります。

私が考えるパンクの定義は『自由』。たんなる反逆ではありません。レッテル貼りや固定観念を拒否し、新しい表現を追究して自分の居場所を作る。それがパンクの精神です。ランボーモーツァルトも、私にとってはパンクなんです。

小劇場演劇におけるパンクな表現者松尾スズキの問題作。劇中の不自由な四人の狂気に満ちた自由な行動。見出す物は人それぞれであると思います。

未読の方はぜひ。

では。

 

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