こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

プロイセンを主体として、普墺戦争、普仏戦争を経て成り立ったドイツ帝国は、1860年代からドイツ統一を目指すなかで、軍備を強化しようとする目的で工業が目紛しく発展していきます。この流れは市民生活にも影響を及ぼし、産業を中心とした経済発展にも繋がっていきました。この社会の発展が引き起こす熱量は国民にも影響を与え、資本を得たものたちは道徳や倫理を蔑ろにした「資本中心」の社会を牽引していきました。社会の経済面は秩序を失いつつあり、策謀や奸計が蔓延する「不道徳な経済社会」の構築が見え始めます。このような経済社会における秩序を維持するためには「国家」の介入が必要不可欠な状況にありました。近代社会学および歴史学派の礎を築いた法学者ルドルフ・フォン・イェーリング(1818-1892)は、この社会における「個人の権利」の在り方を考え、世に呼びかけました。法における個人の権利を「国家によって付与された権限」として捉え、また、その権利を付与された個人は「国家共同体に対する義務」として怠惰な姿勢を持つべきではないという訴えをまとめました。本書は、1872年3月11日に「ウィーン法律協会」で行われた講演「権利のための闘争(Der Kampf ums Recht)」に加筆修正が行われたものです。
「Recht」には「法」と「権利」の二つの意味が備わっています。本書では「権利=法」と表現されており、主観的な意味を権利、客観的な意味を法としています。権利とは、法準則に個人を当てはめ、それが法に反している場合に抵抗する手段です。そして法とは、国家に属する法原則の総体であり、生活秩序です。
権利=法は、単なる思想ではなく、生き生きした力なのである。だからこそ、片手に権利=法を量るための秤をもつ正義の女神は、もう一方の手で権利=法を貫くための剣を握っているのだ。秤を伴わない剣は裸の実力を、剣を伴わない秤は権利=法の無力を意味する。二つの要素は表裏一体をなすべきものであり、正義の女神が剣をとる力と、秤を操る技とのバランスがとれている場合にのみ、完全な権利=法状態が実現されることになる。
法の営みは国家権力が支配し、行動することが定めとなっていますが、それは国家から国民に対して一方的に行われるものではなく、権利を有する国民が妥当な場合に行動を起こすことで意義が生まれるものとなっています。国民は、自己の尊厳や名誉を侵される場合、これを拒否する「使命」があり、その手段として法へと要請する権利を所持しています。
権利のための闘争は権利者の自分自身に対する義務である
この第一の命題は、国民が「自己の尊厳」を守護するという前提のもと、それを侵すものに対して「拒否する闘争」を積極的に法へと要請する必要があると説いています。自己が受けた被害の大小に関わらず、尊厳と名誉はいかなるものも傷つけてはならないという意思を持ち、「正義」の名において行動を起こさなければなりません。生命に関わることではない、被害の規模を鑑みると行動を起こすことが億劫、他者や世間に非難されるなど、自己の尊厳を軽んじた思考によって、惰性的な態度をとることは正義に反するという考えです。重視すべきは「権利感覚」というもので、被害の規模や金銭的利害を秤にかけるのではなく、自己の人格や名誉にこそ重きを置き、利害の問題から品格の問題へと昇華させる必要があるという考えです。突き詰めれば、人格を主張するか、放棄するか、という問題だと言えます。このような考えから、自己の人格を脅かす不法行為に対して抵抗することは「義務」であるとイェーリングは訴えています。
権利の主張は国家共同体に対する義務である
第二の命題は、国家における法規範は国民の権利主張にこそ生かされるというものです。法とは規定されて完結するものではなく、その法を権利によって行動させることで意義が生まれます。前述のように、国民が消極的な思考によって被害を「黙認」した場合、そしてそのような行動が蔓延した場合、該当の法が行動を起こすことはなく、全く無意味な存在となり、法そのものが消失してしまいます。法が消失するということは「無法状態」となることを示し、すべての国民が被害の規模や金銭的利害を重視した場合、社会には法による定めの効力(抑止力)が消え失せてしまいます。このような意味でも、本来は国家が管理している法は、実態的には国民による権利主張によって生かされており、国民の尊厳や名誉を保護しようとする意思と闘争が、法を法として存在たらしめていると言えます。
ヘルバルトが権利=法概念から排除しようとする闘争の要素は、権利=法の最も本質的な、永遠の内在的要素なのである。闘争は権利=法の永遠の仕事である。労働がなければ財産がないように、闘争がなければ権利=法はない。「額に汗して汝のパンを摂れ」という命題が真実であるのと同様に、「闘争において汝の権利=法を見出せ」という命題も真実である。
イェーリングは、このような「正義のための戦い」はすべての国民個人の道徳的義務であると宣言しています。 自己の尊厳や名誉が侵されるときの「権利感覚」を持ち、自己を守るために「権利=法」を用いて「闘争」することが、国民社会を、そして国家そのものを守ることに繋がります。被害の規模や金銭的利害に左右されず、正義の信念をもって行動することが、結果的に国民社会を守るという行動となり、法規範の本来持つべき効力を維持させるのだと、本書は提示しています。
本書では時代的な誤謬も多少は含まれていますが、それ以上に示されるイェーリングの法学者としての正義感と使命感が強く表れ、読者の心に強く訴えてくるものがあります。トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』や『ビヒモス』に込めた「誠実さと英知」、「一人格の主権」というものと共通する「正義」が感じられた点でも、イェーリングの正義感が社会に向けられていたことを強く感じました。ルドルフ・フォン・イェーリング『権利のための闘争』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。