こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
明治から昭和にかけて、伝統的な「定型詩」では表現できない個人の感情を自由に表現するため、日常的に用いられる言葉を使用した「自由詩」が生み出され、世に多く広まりました。島崎藤村、北原白秋、石川啄木、高村光太郎など、多くの詩人が活躍し、現代でもその作品群は愛されています。『注文の多い料理店』、『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』などの作品を中心に童話作家として広く知られている宮沢賢治(1896-1933)も、この近代詩人と呼ばれる作家のひとりです。誰もが知る作品とその名前ですが、彼が生前に刊行した著作は『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』(第一集)のみで、世間からはほとんど無名に近い状態で、病により短い生涯を終えました。
本作は詩集ではなく「心象スケツチ」と冠されており、そこに賢治の持つ詩に対する姿勢が見られます。彼は、自らの世界の外側の変化を観察し、その観察によって生まれる自己に内在する印象を心に留め、与えられる印象変化を詩性をもって描き出すという手法を用いました。外側の事象によって与えられた印象変化は、あくまで事象として認めるにとどまり、観察者である立場を変えることはありませんでした。このような姿勢でありながら、「春と修羅」が起伏に満ち、心情変化に激しさを持っているのは、外側の変化が彼の自己に強く影響していたからに他なりません。父親との宗教的対立と負い目、良き理解者の妹とし子の死、法華経の自律と社会正義、これらの外界刺激が彼の自己内面を揺るがして、作品には大きな印象変化を表現させています。
『春と修羅』第一集を刊行したあと、賢治は第二集以降の構想を進めていました。生み出された作品は数多く、現代では便宜上、第二集から第四集まで編纂されています。この区分は賢治の置かれた大きな外界変化に合わせた形でまとめられており、各集に彼の内面が反映されています。まさに人生の印象変化を書き留め続けたような作品群となっており、読者は彼の人生を辿るように読み進めることができます。彼の心に特に大きな悲哀を与えた妹とし子の死は、衰弱していく彼女の生命を救いたいという願い、そして救うことができなかったという喪失感を、彼女の死という事象だけではなく、彼自身の自己印象をも悲しみとともに描き出し、彼の詩性そのものをより精神的な内面を映し出す鏡へと変化させました。この事象により、彼の自己内面の表現は「悲哀」を帯びたものが多くなっていき、晩年に迫る彼の「闘病」が「死」というものと向き合わせていきます。
わたくしのかなしそうな眼をしているのは
宮沢賢治『無声慟哭』
わたくしのふたつのこころをみつめているためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない
賢治の人生に影を落とし続けた存在が「父親」でした。幼い頃からの闘病で助けてくれた「負い目」と、賢治と父親との宗教的対立が原因となっています。浄土真宗の信徒であった父親に対して、賢治が共鳴し門を潜ったのは国柱会でした。日蓮の宗派であったことから賢治と父親は教えの相違から口論が止まず、互いに分かりあうことができませんでした。浄土真宗は、民に寄り添い、慈悲と共感をもって理解をし、苦難の徒には手を差し伸べるといった教えを持つのに対し、日蓮宗は、法華経をもとに厳しい自己研鑽と精神の鍛錬を求め、公平と正義の社会を自らで作り上げようとする強い意志と行動力を求められます。この「社会正義」への貢献という点が賢治には顕著で、彼の作品にも多く描かれている主題となっています。
『春と修羅』第一集を手掛けていたころ、賢治は花巻農学校の教職を退職し、彼はひとりで「羅須地人協会」という施設を設立しました。研究知識などを与えられない貧農たちに向けて、科学進歩による肥料の提供や田畑の耕作指導などを行う、利益を度外視した施設でした。このような形での社会正義と自己犠牲は『グスコーブドリの伝記』などの作品でも描かれ、彼の抱いたユートピアの夢を強い熱量を持って提示しています。賢治の抱いたユートピアは「イーハトーヴォ」と名付けられ、故郷の岩手と社会正義が合わさったもので形成されており、彼の幾つもの作品で度々登場します。第二集、第三集と詩を生みながら童話を執筆していた賢治は、貧農たちと直に触れて彼らを理解し、法華経の精神でより自己犠牲を強めていくなか、過労と持病によって病に倒れてしまいます。そして強く正義に溢れていた彼の作品には、より求道的で達観的な眼差しが加えられていきます。そして闘病のさなかに手帖に書き記された『雨ニモマケズ』が残されました。
『雨ニモマケズ』は後年、挫折の極みのように説かれ、ヒューマニズムの極地とも言われ、彼の創作の成熟の詩とも呼ばれてきました。しかしながら、彼の人生と詩性、そして生み出された作品群を辿るならば、この詩は賢治のなかで一貫されてきた主義の表現であり、特別な変化や試みが見られるものではありません。このような達観に至った経緯を、彼の詩群はすでに見せてきたのであり、賢治が自己内面を顧みたに過ぎないと言えます。また、彼の詩性が見せる「悲哀」を、生々しいリアリズムをもって描き出した傑作があります。死の際に、闘病の苦しみのなか、達観の清々しさまでも込めた作品が『眼にて云う』です。「死」という無の存在へと向かう精神が、身体的苦痛を外界として捉え、その澄み切った自己内面を詩性で描き出した作品には、人間の美しさとともに「聖的救済」を訴える強い説得力を持っています。ここにこそ、宮沢賢治の詩性が極地として花開いていると言えます。
血がでているにかかわらず
宮沢賢治『眼にて云う』
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
ただどうも血のために
それを云えないがひどいです
あなたの方から見たら
ずいぶんさんたんたるけしきでしょうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとおった風ばかりです
彼が遺した童話や短篇には、このような「聖的救済」が早くから現れていました。それは童話にこそ「自由な幻想の世界」を存分に描くことができたためであり、言い換えるならば、彼の「純度の高い詩性」によって構築された世界を描いたからだと考えられます。童話でありながら、教示的に諭すこともなく、哲学を伝えることもない、この世界はこうであると「精神を見せる」ように描かれている点が、彼の童話の持つ魅力であると感じます。
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
(これがお前の世界なのだよ、お前に丁度あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色なのだよ。)
誰かが、或いは諒安自身が、耳の近くで何べんも斯う叫んでいました。
(そうです。そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから仕方がないのです。)諒安はうとうと斯う返事しました。
宮沢賢治『マグノリアの木』
賢治の死の間際に父親が「何か言っておくことはないか」と聞くと、「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と伝えました。父親が「おまえもなかなかえらい」と答えて部屋を出ると、賢治は「おれもとうとうおとうさんにほめられたものな」と言いました。そして翌日、苦しみが消えていくように息を引き取りました。賢治の死後、宮澤家は日蓮宗へと改宗し、賢治が父親へ求め続けた教えの変化が遂に成りました。
「修羅」という言葉は、梵語アスラの漢字表記「阿修羅」の略語です。阿修羅はインドの神話で帝釈天インドラへ激しく闘争を投げ掛けた悪神とされています。この阿修羅を冠した六道のひとつの世界「阿修羅道」は、「瞋(いかり)」「慢(おごり)」「痴(おろかさ)」という三つの心を表しています。賢治が歩いた「修羅」としての道は、何に対してのものだったのか、そして自身の内面を「修羅」と見た人生はどれほど重かったのかなどと考えると、父親への闘争、病への闘争、死に対する闘争、社会正義を求めた闘争といったものから、賢治は死の直前に様々な「修羅」からの解放が見られるような気がします。凝縮された詩性に溢れた宮沢賢治の詩集「春と修羅」、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。