RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『桜島』梅崎春生 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

処女作『風宴』の、青春の無為と高貴さの並存する風景。出世作桜島』の、極限状況下の青春の精緻な心象風景。そして秀作『日の果て』。『桜島』『日の果て』と照応する毎日出版文化賞受賞の『幻化』。無気味で純粋な〝生〟の旋律を伝える作家・梅崎春生の、戦後日本の文学を代表する作品群。


日本文学における第一次戦後派と呼ばれる作家たちは、戦争体験により影響された哲学や思想、社会性や政治などに対する訴えが込められた文学作品を生み出していきました。野間宏武田泰淳椎名麟三埴谷雄高などと並び、梅崎春生(1915-1965)もその代表作家のひとりです。

彼は第二次世界大戦争の戦時中、九州の南端にある桜島近くの坊ノ津に派遣されました。この地は海軍の特攻隊を管轄する基地があり、本部からの指示を受け、次々に特攻兵を出立させていました。「震洋」という船首に二百五十キロもの炸薬を積んで敵船にそのまま衝突させて被害を与える特攻船は、二千五百人以上の突撃死者を生み出しました。梅崎春生はこの地に通信暗号員(戦争中の暗号連絡を解読する専門兵)として滞在します。「トトトト」という特攻機出立合図の通信を最も近くで感じ続けた人間の一人でした。本作『桜島』は、この頃の体験を舞台背景として描かれています。しかし、語り手の村上兵曹と自身の行動を重ねているわけではなく、ノンフィクションではないと強く本人が否定しています。


梅崎春生は父の病死後、兄に召集令状が届くと、言いようのない生に対する焦燥感に襲われます。間近に感じる死は、彼の中で「生とは何か」という思考が大きく渦巻き、死生観を構築していきます。ここで書き上げた作品が『風宴』でした。数回見知った程度の親しくない女性の死に触れ、生について煩悶を続けるという内容には、彼の生に求める在り方が如実に描かれています。

戦争が、はじめて死の想念をよび起こしたのではない。むしろ内なる死との照応とこだまが、『桜島』のあの見事な緊迫を生み得たのである。

筑摩書房文学全集』

戦前に書き上げた『風宴』には既に梅崎春生の「内なる死」が垣間見られ、纏わりつく死の想念が作中を覆っています。そして本来持っていた想念に、戦地へ赴き、戦争によって齎された「外なる死」(兵士たちの死)を多く受け、彼の「内なる死」が照応し、死生観が昇華されていきます。自身の中で沈みきって水中の澱のように溜まった死に対する恐怖は、戦争によって目のあたりにした死たちに触れる度に、石が落ちて澱が弾むように生への希求心がゆっくりと芽生えていきます。本作は戦争体験談ではなく、戦争を通した死の想念の描写であると言い換えることができます。

 

敗戦を前にした坊ノ津基地で、村上兵曹が生の意義を見出そうと苦悶します。片耳の娼婦に問われる自身の死に様や、兵曹長の偏執的に光る眼と青い顔、不吉を運ぶつくつく法師の鳴き声、双眼鏡でのぞき見られる老人の首吊り未遂など、抽象的に表現される陰鬱さは、徐々に死の想念へと変わり彼の上から覆い被さるようにのし掛かります。

欣然と死に赴くということが、必ずしも透明な心情や環境で行われることでないことは想像は出来たが、しかし眼のあたりに見た此の風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちていた。基地隊の方に向って、うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時は悔ない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた。

死を考え、死を受け入れた末に辿り着いた生への憧れは、やがて執着へと変化して自己強迫とも言える息詰まる思いを抱きます。そして、昭和天皇みずからの声による玉音放送によって終戦を知らされると村上兵曹は涙が溢れ出てきます。しかし、すっきりとした安堵の気持ちでは決してなく、張り詰めていた慢性的な死の危険による緊張感からの解放、死を受け入れて日常的な心を殺した覚悟の無為さ、美しい悔いのない死を得られなかった無念さ、全てを戦争とその勝利に命を捧げた兵曹長が敗戦によって生き延びてしまった憐れみなど、ひと言で表すこともできず納得もできない心情が含まれた涙でした。


梅崎春生が描いた死の想念は、戦争の危険の中心にいる者の「死の印象」を、自身が体験していながらもそれでも客観的な目線で見て描くことにより、明確で鮮明に読者へと伝えられています。応召された者は、その時点で既に死を得ているという観念は、その瞬間から非日常を生きていくための精神を構築しなければなりません。その為には支えが何かしら必要となり、「美しい死」を拠り所とすることに至ります。しかし、作品の最後の場面を通して彼はそこに虚妄性を訴えました。


桜島』以降、実に多くの作品書き上げましたが、晩年に執筆した遺作『幻化』において、彼はひとつの答えに辿り着きます。そこには「執着した生」が見られます。

終戦して二十年後、戦地である坊ノ津へと過去を辿る語り手の五郎、そして道中に知り合う丹尾という男性。二人は補うように互いの表裏を持っています。五郎は終戦により日常を取り戻した兵士、丹尾は交通事故により妻子を失って日常を無くした営業マン。二人に内在する生と死の想念は、対話によって互いに感情を触発され、嫌悪と同情が揺れ動きます。彼らは一旦離れて別行動となったのち、阿蘇山にて再び引き合わされるように顔を合わせます。火口周辺へと歩みを進めると丹尾は五郎に賭けを持ち掛けます。丹尾が火口へ飛び込むか否か。蒼白で固まった表情で丹尾は真剣に問い掛けます。覚束ない足元でふらふらと火口の周囲を歩み始めます。

丹尾を見ているのか、自分を見ているのか、自分でも判らないような状態になって、五郎は胸の中で叫んでいる。
「しっかり歩け。元気出して歩け!」

妻子を失い生に希望を見いだせない丹尾を見て、五郎は虚無感に包まれている自身の心を見つめ直します。死は死でしかないと理解して、生を感じながら生きることこそ、生を生たらしめるという強い思いを、読者は受け取ることができます。


何のために生きるのか不安になりながら、死の想念に取り込まれず前を向いて生きていくことは、困難でありながら人間として貫き続けたい大事なことであると考えさせられます。生を全うしようとすることさえ困難になる当時の苦悩を感じながら、それでも生きようとする戦渦の情景をぜひ体感してみてください。

では。

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