RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ボヴァリー夫人』ギュスターヴ・フローベール 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

これは夢と現実との相剋の書であり、空想と情熱とが世俗のうちに置かれたときの不幸を物語る悲劇である。作者の目的は飽くまでも「美」の追究であったが、しかしこの小説が作者の書斎のなかで美を枢軸として自転している間に、それはまた19世紀フランス文学史上では、写実主義の世界に向って大きく公転していた。1857年。


ウィーン体制によって復古王政を目指したシャルル十世のフランス支配は、1830年ブルジョワ共和派が主導した市民蜂起によって絶対王政を崩壊し、国王は退位しました。これにより、ブルジョワを代表するかたちでルイ=フィリップが実権を握り、七月王政を成立させ、産業の発展に注力します。しかし、この経済成長はブルジョワ層を豊かにしていくことと引き換えに、市民は労働者として厳しい生活を与えられ、環境の悪化から道徳観を歪ませるほど暮らしに困窮します。また、資本を肥やしたブルジョワ層は貴族に憧れ、その風習を取り入れようとして、立ち居振る舞い、サロンの出入り、食生活、そして家父長制の保守的モラルを形成していきました。フランスとしての産業発展は大きなものでしたが、経済的に潤ったのはブルジョワ層に留まり、市民感情絶対王政打倒による歓喜からブルジョワ層への不満へと変化していきます。

哲学者オーギュスト=コントは、このような国内の状況を受けて「実証主義哲学」を確立します。人間の知性は、想像力により支えられる「神学的段階」から、抽象観念による「形而上学的段階」へ、そして現実認識による「実証的段階」へと辿ることを提唱し、人間による社会も同様に産業革命を裏付けとして、社会を科学的に捉えることを主張しました。これは、不安定にある七月王政に向けたものでもあり、政治的基盤を固めることを訴えたものでもあります。


ヨーロッパ全土に広がった「自由主義」の思想は、フランスのブルジョワ層へ不満を募らせた市民にも強く響き、再び激しい市民蜂起によって七月王政を打倒します。この二月革命によって、第二共和政が成立し、ルイ=ナポレオン(ナポレオン=ボナパルトの甥)が大統領となって新たな社会が始まります。しかしながら、ルイ=ナポレオンは労働者保護を廃し、実権を集中させて共和政さえも反故にし、第二帝政として独裁政権を敷いてしまいました。これに市民は憤怒と絶望を味わい、ブルジョワ層と労働者層に明確な溝が生まれました。同様にウィーン体制崩壊を支持した知識人たちは、このような独裁を受けて大きな挫折感を味わいます。この苦しい社会には何の意味があるのか、人間社会はかくあるものなのか、互いに問い掛ける知識人たちはコントの「実証主義哲学」に考えを寄せていきます。このような社会の認識は、共に憂う芸術家たちにも共感を呼び、その思想を取り入れた「写実主義」(レアリスム/リアリズム)作品が多く生み出されていきます。特に絵画の作品が知られ、「落穂拾い」などを残したジャン=フランソワ・ミレー、「画家のアトリエ」「オルナンの埋葬」などで知られるギュスターヴ・クールベ、諷刺画で名を馳せたオノレ・ドーミエなど、後の美術史に大きな功績を残し、現在でも多くの人々へ影響を与えています。


文学でも大きな風潮の変化が見られました。それまで、過去の賞賛、個人の感受性を重視し、抒情溢れる描写で満たされた「ロマン主義」が隆盛していましたが、復古王政のフランス社会を描いたスタンダールの『赤と黒』をはじめとして、オノレ・ド・バルザックの連作『人間喜劇』、そして本作ギュスターヴ・フローベール(1821-1880)の『ボヴァリー夫人』などが台頭し、ロマン主義を幻想の幸福と位置付けるような、現実を鋭く突きつける写実主義文学が生み出され、現代の小説の礎を築き上げました。


本作は、ノルマンディー地方の田舎町を舞台として展開し、七月王政から第二帝政までの過渡期の社会を中心に描いています。産業革命により変化した生活、ブルジョワ層と労働者層の大きな溝、科学の進歩による社会の変化など、影響された人々の道徳観や価値観は、その言動に細かに表れています。医者のボヴァリーは一般的な町医者であり、いわゆるブルジョワ層の底辺として属しています。資産も多少あり、収入もあり、平均的な生活をすれば心豊かに過ごすことが十分にできる立場にありました。しかし、迎えた妻エンマはロマン主義思想に満たされ、自分の理想を崇高なるもの、そして叶うべき幸福なものと自認し、内から湧き起こるとめどない欲望に身を委ねていきます。


物語はボヴァリーの幼少期から始まります。特別に優れた面も見せず、なんとか町医者となって裕福な未亡人と結婚します。しかし、資産を偽っていたことがわかりボヴァリーの母が糾弾することで妻は体調を崩し、そのまま亡くなってしまいました。ボヴァリーは、残された資産は僅かながら町医者として仕事に務めるなかで、農場主である患者の美しい娘と出会い、恋に落ちます。農場主に認められ、晴れて結婚すると、描写はこの美しい娘エンマへと視点を変化させます。豪華な結婚式のあと、二人で始めた新婚生活がエンマに与えたものは、退屈な暮らしでした。富豪のような富もなく、物語のような事件もなく、心をときめかせるような出会いもありません。ロマン主義作品を愛読していたエンマは、「結婚は幸福を齎すもの」という認識を崩されてしまいました。この退屈はやがて苦痛となり、自分の生きる意味、自分の幸福の在処、そして憧れる「来るべき豪奢な生活」との乖離を考えて苦悩します。そしてエンマの精神的な衰弱を快方へ向かわせようとシャルルは新天地への転居を試みますが、彼女の身体には子供が宿っていました。

移り住んだ郊外のヨンヴィルでは、野心溢れる薬剤師オメーの隣人となります。権威に執着し、医者の真似事を行うオメーは、正当な医者であるシャルルと折り合いをつけやすくするため、細かな配慮で心尽くしを努めます。他にも、宿場「金獅子」の女将ルフランソワ、書記官のレオン、田舎貴族のロドルフ、収税吏のビネーなど、多くの隣人がボヴァリー家と関わりを持ち、互いに関心を抱いて生活をします。エンマは男児を望みました。しかし、生まれた子は女児で、当時の家父長制と自分の生き方に照らし合わせたエンマは失望してしまいます。子供を乳母へ預けた彼女は、やはり自分の幸福を追い求め、そしてその矛先を若きレオンへと向けました。しかし貞淑であらねばならないという意思を保ち、感情に流されないように努めたことでレオンは諦めを覚えてパリへと旅立ちました。

失意のエンマの美しさに惹かれた紳士ロドルフは、その押しの強さで彼女を口説き、彼女の内なる幸福への情熱に火をつけ、激しい情事へと導きます。堰を切ったエンマの感情は止まることを知らず、ようやく「来るべき幸福」を手に入れられると盲目にロドルフの元へと向かいます。ところが、そのような軽率な行動は周囲に認識され、貞淑とは掛け離れた印象を抱かれます。しかし、シャルルはそのような様子に気付きもせず、ただ自分の成すことを成し、エンマが「すでに手に入れた幸福(結婚生活)を保つ」ように、どのような辛辣な扱いを受けても大切に接しようと心掛けます。そのころ、オメーの権威欲を発端とした非常に困難な手術を手掛けることになっていたシャルルは、残念ながら失敗してしまい、名誉を失墜させることになりました。失望の上に失望を重ねられたエンマは、ロドルフとの駆け落ちを試みようとしますが、ロドルフにしてみれば火遊び程度の相手でしたので当然ながら話は破綻し、エンマには駆け落ちのために散財したことによる莫大な借金だけが残りました。

いい加減な理由を示されて納得させられたシャルルは、その借金を返済するために経済状況はどんどんと困窮していきます。それでも失意のエンマを元気付けるため、ルアンのオペラへ連れて行きます。そこで偶然にもレオンと出会い、エンマの恋心は再燃します。以前とは比べものにならない速度で心と体を通い合わせ、継続的に恋愛関係を構築させました。しかし、贅を尽くす癖を付けたエンマは、レオンとの密会で散財する一方、借金は利子で膨れ上がっていきます。そして全ての借金を精算するために取り立てを受けたエンマは、その破格に驚き、シャルルに知られまいと資金集めに東奔西走します。そして、物語は破滅的な終幕へと向かっていきます。


本作は、レアリスムの代表的な作品として広く知られており、その特徴は明確に表れています。まず、ロマン主義のような抒情深い描写は排除され、且つ、作者の主観を押し付けず、客観的に物語を観察のもとに描いているという点が特徴として言えます。当時のフランス市民階級の「実際的な生活」が随所に描かれ、その言動からは、名誉の重み、中産階級の顕示欲、労働者層の虐げられた道徳観、ブルジョワ層の堕落性など、目に見えるように写実的に描かれています。そして、物語の核には大きな事件などは無く、ただありふれた生活のなかでの心情の機微、社会の催し、階級ごとの立ち居振る舞いが描かれているのみです。そして、それらの様式や情景は「歴史的変化」の影響を多分に受けているものであり、七月革命産業革命二月革命、そして現代に続く資本主義社会へと向かう市民社会を表現しています。


エンマは、レアリスムの時代に佇む「ロマン主義の名残」として存在しています。産業や科学の発展により、抒情豊かに人生を謳歌することは現実逃避的であり、滑稽であるとさえ読む者に映ります。このエンマの存在こそが、フローベールによる「ロマン主義への批判」であると言え、結果的に彼女は物欲主義でしかないということを提示しています。これに対し、フローベールは、エンマの苛立ちや凡庸さの嫌悪感をブルジョワ層への批判として描いています。彼女の貪欲さは、本質的な意味で物欲にあるわけではなく「幸福」にあり、理想の追求を否定するレアリスムに対する否定も同時的に行っています。エンマが幸福でありたいと思う源は、強い「生」への執着にあり、その「生」を当時の父権制社会では考えられないほどの貪婪さを見せています。この理想を実現しようと激しく行動する姿には、当時の「男性性」が窺えます。のちにシャルル・ボードレールが指摘したように、またフローベールが明かしたように、エンマはフローベールの意識を投影した存在であり、この資質こそが人間の「生」において尊重されるべきものであると提示しています。


フローベールに限らず、写実主義に傾倒した芸術家たちは、理想的な「生」を求めましたが、エンマ同様に辿り着くことができない苦悩を抱えていました。作中でエンマが重要な告白を神父に行おうとした際、彼は全く真摯に対応せず、いい加減な受け答えをして、身勝手な教えを説きます。この他者に対する無関心は、市民が革命から受けた挫折や、経済優先となった産業革命の煽りによるものであり、当時の社会だけでなく、本作において通底する最も重い主題となっています。このような無関心はシャルルにも見られ、エンマがなぜ苦悩を抱いているのか、なぜ身なりが豪華になっているのか、なぜ頻繁に外出するのか、といった疑問を抱かない点にも表れています。

シャルルは受動的な人物として描かれています。これは序盤に描かれた第一の婚姻の道、そして医者への道から理解できるように、シャルルの母親が激しく誘導した結果であると考えられます。当時のフランスでは二十五歳までの男子は親の同意無しに婚姻を結ぶことができなかったため、シャルルは母親に勧められた未亡人を妻に迎えました。また、シャルルを二十五歳までの者が成ることのできる免許医(正式な医者が居ない地域でのみ開業が許可される免許を持った者)を勧めたのも母親でした。この社会に出る入口を全て母親が主導で進めたため、シャルルは受動的に行動することが性格的に根付いてしまったのだと考えられます。


フローベールはエンマに対して、否定的な態度と称揚的な態度の双方を見せています。エンマの貪欲に幸福を求める姿勢には、自らを重ねるほどに共感を見せていることに対し、エンマの憧れるブルジョワ層の生活に激しい嫌悪感を抱くことで、登場するブルジョワ層の人々を醜悪な性質で描いています。これはレアリスムとロマン主義が対比的に位置付けられていることと同様に、双方を否定的に捉えて「理想の幸福」を追い求める困難と苦悩が並行的に表現されていると言えます。フローベールは主観を排除したレアリスムで本作を描きましたが、彼はレアリスムがロマン主義よりも優れた表現方法であるという認識を持っていなかったことが、本作を通じて理解することができます。


エンマが生まれ来る子供に男児を求めたことは、父権制社会に生きる彼女が持つ「女性の人生は困難である」という価値観が生み出したものです。事実、本作を通してエンマは男性により人生を左右されていきます。結婚も、出産も、貫通も、恋愛も、破滅も、男性がエンマに齎したものです。そして、彼女は選択することしかできません。この選択を後押ししたものが「ロマン主義的思想」であり、「貪欲な幸福への執着」であり、「理想の生の探求」であったことで、その価値観の歪みが彼女の生を破滅へと導いていきました。

エンマをこのような立場へと置いたのは、当時の階級社会に原因があります。彼女はブルジョワ層への憧れを抱いていました。ブルジョワ層とは、貴族のような揺るがぬ富や名誉がある人々ではなく、また、肉体労働によって生計を立てる人々でもない、いわば中産階級の人々を指します。しかし、シャルルは中産階級の端くれであり、実際にその立場にあったはずのエンマは、ロマン主義的思想によって「より豊かで豪奢な生活」を欲しました。その俗物的な欲を膨らませた原因は、「退屈な生活」に起因しています。


フローベールは「野心の危険性」を、それぞれの登場人物を用いて種々様々に表現しています。人間は自分の人生に対して特別な意味を見出そうと、夢の片鱗を現実に結び付け、そこに大きな期待を抱きます。この期待は欲望となって、情熱的に魂を揺さぶります。しかし、夢を基盤として抱く欲望は現実という壁に堰き止められてしまいます。この現実の壁を認識できなければ、欲望が苦悩へと変化します。まして、現実を夢と履き違えているエンマのような人間は、「叶うはずである」欲望が満たされず、理想と自分の置かれた立場の乖離に苦しみます。このような精神状態を表す「ボヴァリズム」という言葉は、エンマから生まれました。

 

でも、でも自分は幸福ではない、ついぞ幸福だったためしがない。人生のこの物足りなさはいったいどこからくるのだろう。そして自分のよりかかるものが立ちどころにくされ潰えてしまうのはなぜだろう?……しかし、この世のどこかに、強く美しい人がいるものなら、熱と風雅にみちみちた頼もしい気だて、天使の姿にやどる詩人の心、み空に向って哀しい祝婚の曲を奏でる青銅絃の竪琴にも似たこころがあるものなら、ふとめぐり会われぬことがどうしてあろう?


本作は人間が人生において、手にすることが最も困難な「理想の幸福」と、受け入れることが最も困難な「退屈な環境」とを、「社会と生」を持って見事に映し出しています。では、「どのように生きるべきか」ということを、本作では当時の社会を批判的に捉えつつ、逆説的に「真摯な愛」を称揚しているように感じました。苦悩の状況描写が多く、陰鬱な空気感が始終続くような印象ではありますが、それ以上に物語へ惹きつける推進力を持った作品です。ギュスターヴ・フローベールボヴァリー夫人』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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