RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『レ・ミゼラブル』ヴィクトル=マリー・ユーゴー 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

 

 

貧しさにたえかねて一片のパンを盗み、十九年を牢獄ですごさねばならなかったジャン・ヴァルジャン。出獄した彼は、ミリエル司教の館から銀の食器を盗み出すが、神のように慈悲ぶかい司教の温情は翻然として彼を目ざめさせる。原書挿絵二百枚を収載。

 


ヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)は、フランスの東部にあるブザンソンで生まれました。この地はナポレオン軍の将軍であった父の赴任地で、その後も幼少期の多くはナポレオン・ボナパルトによるスペインやイタリア遠征に伴って各地を移動して過ごしました。父の共和派(ボナパルティズム)としての考えは強くなる一方、もともと王党派(君主支持)であった母との関係は徐々に悪化して、共に暮らすことが困難になっていきました。この対立は本作におけるマリユスの父ポンメルシーと、マリユスの祖父ジルノルマンの確執に反映されています。ユーゴーは母と共にパリで暮らすことになりましたが、ここで多くの文学作品に出会い、多くの感銘を受けて、彼の詩性が磨かれていきます。軍人に育てたいという父の思いに反してユーゴーは詩作に熱中し、やがてアカデミー・フランセーズ(国立の学術団体)のコンクールで一位を獲得するほどに成長しました。その後、詩だけではなく、戯曲や小説などを生み出していき、フランス王ルイ十八世から認められて下賜金や年金を受けるまでになります。ユーゴーはこのようにして作家としての地位を確立していきました。その後、1829年に発表した戯曲『エルナニ』では、古典的な技法を排除した新たな取り組みであったことで古典派擁護の人々から激しく攻撃されましたが、結果的に大成功を収め、フランスの文壇において明確にロマン派という作風を打ち立てます。さらに1831年に発表した『ノートルダム・ド・パリ』(Notre-Dame de Paris)では、出版後まもなくヨーロッパ全土で翻訳され、瞬く間に世界へと広まり大きく受け入れられました。


しかし、ユーゴーの思想は一層に左傾化し、君主ルイ=ナポレオンボナパルトナポレオン三世)に対して反対思想を持つに至り、1851年にフランスから亡命せざるを得なくなりました。彼は、フランスが普仏戦争ナポレオン三世が敗北する1870年まで、イギリス王室属領ガーンジー島で亡命生活を送り続けました。その後は国民的英雄として、また大なる文豪としてフランスに帰国します。今日でもフランスの至るところでユーゴーの名を冠した通りが見られるように、現代でも変わらずフランスの誇りであり、国民的な大作家として親しまれ続けています。


ユーゴーは美醜をもって社会を映し出すロマン主義文学運動における代表者の一人として頭角を現しました。現実的な要素に象徴性を持たせた、想像力豊かなリアリズムとも言える独自の作風を生み出します。人物を微細に描きながら当時の社会を明確に表現し、そこに見える社会問題や社会悪を露見させています。題名に掲げられた「レ・ミゼラブル」(Les Misérables)は、社会に虐げられる最下層の惨めなる人々という意味合いであり、彼らの言動や置かれた立場から悲惨な社会を作り上げた階級社会を強く批判しています。フランス・ブルボン朝による絶対王政ナポレオン・ボナパルトによる第一共和制、そしてナポレオンが皇位を冠した第一帝政、ナポレオンがライプツィヒの戦いに敗れて復権したブルボン朝による復古王政ブルジョワジーによる七月王政二月革命によって成った第二共和制と、フランスの支配体制が百年の間に目紛しく移り変わります。そして、その度に社会は混乱し、税だけが次々と民衆に課せられ、「レ・ミゼラブル」は生きることも困難な立場に留められます。統治する者が定まらないことによって、「社会における正義」の形も変わり、統治する者の思惑のみが優先され、実質的なアンシャン・レジーム(旧制度と呼ばれる格差階級社会制度)の被害者は虐げられ続けました。ユーゴーは『レ・ミゼラブル』において、社会的弱者の生活実態に焦点を定めて彼らの悲惨を詳細に描いています。


犯罪者としての烙印を押されたジャン・ヴァルジャンの置かれた苦境と更生への苦難、ブルジョワジーの被害者であり性的搾取を受けるファンティーヌの苦痛、コゼットの虐待を受け続ける理不尽な境涯と不幸、ガヴローシュの親に捨てられ浮浪の生活を与えられた愛情の欠乏と困難など、社会に虐げられた最下層の登場人物を、強者からの暴力と、彼らの心情を通して描き、当時の社会悪を提起します。ユーゴーは実際に見聞きした事柄を登場人物たちに凝縮させて反映し、悲惨の生々しさを保ちながら物語を美しく紡いでいきます。ここにはユーゴーの豊かな想像力が発揮され、生み出す人物には象徴性を持たせた個性を備えさせています。そして、この虐げられた人々によって繰り広げられる物語には、ただ悲惨があるだけではなく「それでも生きていこうとする意志」が滲み出ています。それは幸福的充足感とも言えるものであり、これを切望し、方々から与えられる悲惨にも挫けないという強い欲望です。人間の持ち得る精神的生命力は、非人道的な行為、不正義な行為に挫けず、一心不乱に幸福的充足感を追い求めます。


レ・ミゼラブル」を救う希望の光となるものは、「信仰」と「愛」であるとユーゴーは諭します。徒刑囚生活によって心が廃れたジャン・ヴァルジャンを、慈愛と信仰で寛大に包み込んで更生の切っ掛けを与えたミリエル司教、生命の恩人としていつでもどのような場面でも助け尽くそうと心を向けるフォーシュルヴァン、彼らは身を犠牲にして、打算無く、慈愛の一心で救いを与えてくれます。また、ファンティーヌのコゼットへの愛、ジャン・ヴァルジャンのコゼットへの愛、マリユスのコゼットへの愛、エポニーヌのマリユスへの愛、コゼットとマリユスのジャン・ヴァルジャンへの愛など、強い熱量を持った愛情が多く表現されています。この「愛」は「レ・ミゼラブル」にとっての大きな「生きる原動力」であり、幸福的充足感の目的の一つとなっています。信仰による改悛と、愛による充足感が、彼らが強く生きる糧となっていました。


物語の最終章では、ジャン・ヴァルジャンがこの幸福的充足感に満たされて涙を浮かべながら微笑む場面が描かれます。コゼットとマリユスの愛によって赦しを得られ、ジャン・ヴァルジャン自身が改悛を自覚し、心置きなく幸福に満たされるという美しい場面です。読者は当然、深い感動を与えられます。しかしながら、同時に強い憤りも湧いてきます。それは「このような細やかな幸福を得るために、ここまで自らを追い込まなければならないような社会」に対してです。ジャン・ヴァルジャンは確かに一片のパンを盗もうとしました。そこから幾度か脱獄を試みました。それは家族を想うあまりに誤った行動です。間違いなく「悪の行為」ではありますが、そこまでの最下層の立場へ追い込んだのは社会です。その社会は、幾度の革命とブルジョワジーによる傲慢で勝手な行為によって成り立ったものであり、本来の「アンシャン・レジームを崩壊させて民衆を救う」という名目で作られた社会であったはずのものです。それが、民衆の実生活を無視し、私的財産だけを堅固に守ろうとしてきたブルジョワジーによって生み出された「地獄の社会」でした。我が子を平気で路上へ捨て、狡猾な犯罪者が富と力を得ることを放置し、真っ当に生きようとする貧しい民衆から只管に税徴収をする社会です。そして、その被害者はジャン・ヴァルジャンだけでなく、ブルジョワジーの食い物にされたファンティーヌ、虐待を受け続けたコゼット、路上に見捨てられたガヴローシュも同様に不幸を負っています。このような地獄の社会に対して、ユーゴーは強い憤りと「真の正義の意志」を持って、本作『レ・ミゼラブル』を描きました。社会の不正義を世に、或いは後世に、訴えようとする強い意志を感じさせられます。


ユーゴー自身は君主制よりも共和主義の運動に賛同していますが、1789年のフランス革命以降のすべての政権が社会的な不正義を放置し続け、或いは助長させ、フランスの根強い格差階級制度を排除できなかった点を強く批判しています。それは作中でも随所に記されています。激動のワーテルローの戦いを賛美を交えて描写していますが、その戦の終わりにテナルディエによって行われる墓荒らしのような醜い行為や、共和派「ABCの友」による反体制運動のなかで繰り広げられた居酒屋の防塞での英雄的な戦いも、結果的に無益であり虐殺に至ったという行為など、結果としての実態に目を逸らすことのないように厳しく描いています。ユーゴーが支持する革命とは、道徳的なものであり、慈悲深いものであり、暴力で解決するものではないと示しています。


しかしながら実際としての革命は、女性の権利搾取、世代間思想の軋轢、司法制度の杜撰さ、広がり続ける格差社会といったものを生み出していきました。こうした民衆を取り巻く社会不安が幾度の革命を起こす原動力となり、悪循環のように繰り返されました。そしてユーゴーは革命の原因を、社会から充分な恩恵を受けている者たちの安定(継続)を求める欲求と、生活が困難なほどに虐げられている下層の者たちの環境を打破しようとする欲求との、永続的な葛藤(交わることのない互いの幸福)にあると突き止めました。この葛藤を表現する、本作において二者を分つ絶対的な溝として存在しているのが警視ジャヴェルです。社会を守る存在が強者を擁護する存在でしかないことを明白に描き、また、ジャヴェルの絶対的な規律遵守の性格が「制度そのもの(社会そのもの)が悪」ということを裏付けています。さらに、そのジャヴェルの心境変化と最期こそが、「真の正義の在り方」を理解した描写であり、ユーゴーが不正義の社会に求めた根源的な変化を象徴しています。


ユーゴーは社会を牽引する革命や国家組織の中心ではなく、その変化に左右される民衆の実態に目を凝らしました。社会の周縁とも言える彼らの実態こそが、国家であり、守るべき存在であることを強く示しています。この姿勢は本作『レ・ミゼラブル』だけに留まらず、彼の思想の基盤でもあり、政治に対する態度そのものにも表れています。そしてその心は慈悲を求め、信仰に救いを求めています。

 

そして彼は自分の上衣をぐっとつかんで、それをマリユスの方へ引っ張った。
「この拳をごらん下さい。」と彼は言い続けた。「この拳は襟をつかんでどうしても放さないようには見えませんか。ところでこれと同じも一つの拳があります。すなわち良心です。人は幸福でありたいと欲するならば、決して義務ということを了解してはいけません。なぜなら、一度義務を了解すると、義務はもう一歩も曲げないからです。あたかも了解したために罰を受けるがようにも見えます。しかし実はそうではありません。かえって報われるものです。なぜなら、義務は人を地獄の中につき入れますが、そこで人は自分のそばに神を感ずるからです。人は自分の内臓を引き裂くと、自分自身に対して心を安んじ得るものです。」


本作『レ・ミゼラブル』は、社会において逆境や不正義に直面したときに慈悲や愛を希望に繋げる人道的な作品であると言えます。またその側面では、広範囲を詳細に分析した「史実からは見えない」歴史的な作品でもあり、激動の十九世紀フランスの政治および社会の実態を映し出しています。言い換えれば、社会の不正義を物語に乗せて世に示し、現在(未来)に民衆が「真の幸福」を得られる社会を築き上げることができるような政治革命を求めていたと窺えます。更には、文学の持つ力をユーゴーは信じて書き上げたとも言えます。彼は、「罪を犯しているのは、罪を犯した人ではなく、暗闇を引き起こした人である」と言葉を遺しています。まさに本作に込められた思想です。


現在とも重なる普遍的な問題も数多く描かれており、ジャン・ヴァルジャンの言葉や行動は、今でも読者の心を打ち、感動を呼び起こします。日々の生活で当たり前に受けている幸福や、他者から受ける思いやりなど、改めて思い返させられます。そして物語が与える美しい愛の印象は、心に良い変化を齎してくれます。本作『レ・ミゼラブル』、未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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