こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
古代ローマにおける屈指のモラリストであり、死の間際まで徳を積み続けたルーキウス・アンナエウス・セネカの初期の著作『怒りについて』です。
長兄ノウァートスに献呈した本篇には、皇帝カリグラ(カリギュラ)の所業を悪例とし、随所で非難しています。「怒り」を「悪」と表現している以上、この著作はカリグラの暗殺以後に出来されたと推し量ることができます。そして、クラウディウス帝位就任に際し、先帝での不義を正すことを統治者に委ねる為に、この著作を世間に放ったと見受けられます。
怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望である。または、ポセイドーニオスが言うように、自分が不正に害されたとみなす相手を罰することへの欲望である。
ポセイドーニオスは中期ストア派のプラトン主義者で、この論は、正統ストア派の定義に基づいています。しかし、プラトンは「人間の自然本性は懲罰を愛好しない。また、怒りも人間本性に即しない。善き人は害さない。」と論じています。
怒りとは制御を受けつけず、馴致不可能なものである。
セネカは怒りをパトス(情念)の一つと位置付け、不本意に沸き起こってしまうもの、と考えています。これは人間の野生(獣性)と置き換えることができ、自己の中で感情をコントロールすることが非常に困難であると説いています。
それゆえ、怒りには、たとえそれが激烈で、神々と人々を見下すように映りはしても、偉大なものは何もない。高貴なものは何もない。
忿怒が七つの大罪に挙げられるように、良い結果を残す事はありません。もしくは、目の前の壁を崩壊できたとしても、そこに続く道は本来よりも険しく苦しいものと成り果てています。
なぜなら、正しい行為に発する喜びが晴朗で偉大であるのに対して、他人の過ちに発する怒りは、薄汚く狭量な心に属するからである。さらに、徳は、悪徳を匡している間、それを真似ることはないだろう。怒り自体を矯正すべきものとみなしているのだから。
怒りの原因となるものは、自己の狭心的な価値観に基づくものであり、自身の徳のため、或いは徳を守るためという自己正当化は欺瞞であると、厳しく訴えています。
怒りに対する最良の対処法は、遅延である。怒りに最初にこのことを、許すためでなく判断するために求めたまえ。怒りには、はじめは激しい突進がある。待っているうちに熄むだろう。全部取り去ろうとしてはならない。一部ずつ摘み取っていけば、怒り全体を征服できるだろう。
どれだけ注意していても、怒りは沸いてしまいます。人間の理性でできることは、沸いた怒りをどのように征服するかの努力です。そのためにはまず「待つ」(時間を置く)ことが重要だとしています。沸いた怒りの原因は何か、どれほど不当なことか、激情を抑えることができるか、という脳の冷静化を図ることを訴えています。
怒りは人間の本性を拒絶するからだ。本性は愛を、怒りは憎悪を促す。
人間が人間らしさを大切にし、短い人生をどれほど幸福で埋めるか、憎悪を少なくすることができるかを、考えさせられます。「幸せな人生」を目指すより、「どれほど多くの幸せを人生で感じることができるか」を目指すことの方が大切に感じられます。
怒りをエネルギーとして壁を打ち壊すのではなく、善と徳で壁を乗り越えるように努められるような生き方に憧れます。
大変読みやすく理解しやすい著作ですので、未読の方はぜひ。
では。