RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『自省録』マルクス・アウレリウス 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

 

アウレーリウスはローマ皇帝で哲人。蕃族の侵入や叛乱の平定のために東奔西走したが、わずかにえた孤独の時間に自らを省み、日々の行動を点検し、ストアの教えによって新たなる力を得た。本書は静かな瞑想のもとに記されたものであるが、著者の激しい人間性への追求がみられる。古来、もっとも多く読まれ、数知れぬ人々を鞭うち励ました書。


ローマ帝国の全盛期と言われる一世紀末から二世紀末、皇位争いも無くなり、政治も安定し、他国の侵略も目立たなくなってきた時代、この期間を収めていた皇帝を五賢帝と呼びます。ネルウァトラヤヌスハドリアヌスアントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウス(121-180)、帝国領土を最大としていながら、かつてない安定を見せたローマ帝国は、五賢帝による哲学的な統治が効果を見せました。人々はストア哲学を基盤とした徳と理性に重きを置き、神や自然と人間という考えを基に、安定した生活を望むことによって穏やかな帝国を維持します。それまで、特に政治の中枢にいる人間による血生臭い地位の落とし合いが絶えませんでしたが、五賢帝の統治手腕だけでない皇帝としての生き方が、ストア哲学の裏付けとなって浸透しました。そして、このストア哲学を最も理解し、最も自らの人生に取り込んだ賢人が全盛期最後の皇帝マルクス・アウレリウスです。


彼は早くからストア哲学に傾倒し、神学校で宗教を学び、法務や思想も取り込んでいきました。彼は学び追究することに喜びを覚え、机にじっくりと向かい合う哲学者を目指しました。この思想を全霊で受け入れ、生涯貫き通した彼の心身の隅々は、いつしかストア哲学の体現者としての存在を目指し始めます。このストア哲学は、紀元前300年にゼノンが創始し、ギリシャの地で発祥しました。それが、四百年経った当時に、五賢人によってローマ帝国に幅広く普及することになります。絶対的な立場の皇帝が正と定めるこの哲学は、半ば強制的でありながらも、国民は賢人たちへの敬いの念から素直に受け入れ、自然とローマ帝国全土で広がることになります。不遇な善の人セネカ、ストア主義中核の人エピクトテスなどを生み出した後期ストア哲学は、彼に強い感銘を与え、自らも哲学者たらんとする意思を育て、追究に拍車を掛けます。そしてアントニウス・ピウスより継がれた皇位を、マルクス・アウレリウスストア哲学をもって果たそうと奔走しました。哲人皇帝呼ばれる所以はここにあります。


ストア哲学は「物理学」「論理学」「倫理学」の三部分に分かれています。物理は、自然(宇宙)と我々人間の位置を理解するためのもので、広大な宇宙の、僅かな地球の、僅かなローマ帝国の、僅かな生活に身を置くものであり、そしてその僅かなものに神は生きる術と意味を与えた、という考えです。次に論理は、自然(宇宙)に従った生き方として、人間として生まれ、人間として生きるため、何を目的としているか、或いは何を目的とすべきか、を考えます。そして倫理は、宇宙は一つ、神は一つ、物質も一つ、それらが制約と変化をもって時を経るなか、どのような精神を保ち、どのような思想をもって暮らすべきであるか、を説きます。

これらを繋ぐ考えとして、自分の中に宇宙の一部(もしくは神の一部)が存在して、その宇宙は人間の行動による因果によって変化し、徳が善悪に傾きます。これらを善に導こうとする意志こそが必要であり、そのためには人間がどのようにして成り立っているかを考える必要があります。ストア哲学においては、人間は肉体、霊魂、指導理性(叡智)から成る、と考えられており、自身の心によって左右できるものが指導理性であるとしています。この指導理性こそは、宇宙の一部、神の分身である「ダイモーン」と定義されています。これは、人間が人間であるためのものであり、内に住まう神の存在と言えます。


これらの信条(ドグマ)より、神を敬う自身、社会における自身、自己を律する自身を明かし、どのように生きねばならないかという義務が現れます。それぞれの目線(立場)の自身の根源はダイモーンの存在であり、無視することはできません。不死の絶対的な神を確信し、人類を生かす世界を構築する一部となり、そのなかで人間が神の一部であるダイモーンを指導理性をもって、神の意向に沿う生き方を目指さなければなりません。つまり、生命を与えられた時から生命の義務は与えられており、神に創られた目的を果たすことこそが根本的な生きる目的であると言えます。人間は、自然(宇宙)を受け入れ、肉体的衝動や名誉欲などに振り回されてはならず、人間として果たすべき目的を見失わないようにしなければなりません。そして、やがて来る死は生を終えるものであり、恐怖を抱くものではなく、受け入れて自己を恐怖から解放しなければなりません。生への執着は自身の驕りであり、神の与えた目的に反しているとします。


また生きるうえで、自身のなかの悪徳を制御し、外部(他人、社会、自然)はどうにもならないこととして理解し、疾病、貧困、不名誉などを欲に結びつけないことを求められます。病苦も神が与えたもの、貧苦も神が与えたもの、名誉などは死すれば何の意味も持たないもの、そのような達観とも言える徹底さをもって人間としての生を全うすることを求めます。常に、欲を抱いても忍び、決して求めないことが必要で、生きている現在を、どれだけ徳に溢れた過ごし方ができるか、ということを意識しなければなりません。自身の心によって外部からの影響をどうにでも解釈できることとして受け止め、ダイモーンを(神の意向である)指導理性によって導き、神に与えられた目的を果たそうとする使命を抱いて、穏やかな心の平穏を保つことが重要です。そして、これこそが人間の幸福であり、身に付けた徳により精神の平穏が与えられるという考え方です。


このように宇宙の自然を受け入れ、平穏な心を守り抜くことで、自身を不動の心(アタラクシア)への到達を目指すことが到達使命であり人間の幸福な姿であるとしています。しかしながら、現実においては当然、外部から超えがたい障害が襲い掛かってきます。それらをどのように外部(どうにもならないこと)として理解し、湧き起こる悪徳による欲望を排除し、神が与えた自然として受け入れ、死を恐れず、不動心を保ち続けることができるか、またそれを信念として抱くことができるか、そのように自身を律し、幸福を目指さなければなりません。


マルクス・アウレリウスはこれを徹底追究し、遂行して人生を歩みました。ローマ帝国激動の時代に皇帝として据えられ、哲学者として生きたいという心を押し込め、幾戦もの戦いのなかで自身を律し、最後までストア哲学を守って生き抜きました。そのように生きた彼の著作『自省録』は、場所もさまざま、状況もさまざまな環境で、瞑想し、自身を律するために綴り続けた手記です。断片的に綴られる幾つもの言葉は、彼の思考運動を読み取ることができ、そのなかから滲む苦悩や憤怒は、読む者へ痛切に響きます。異人による侵略、川の氾濫による洪水、各地での疫病の蔓延など、在位中に次々と起こる問題に対して誠実に向き合う彼には、腰を据えて机に向かう時間は限られていました。ただ人間として生きるだけでなく、皇帝としての荷を抱え、それらを自身の哲学に則って多くの悩みと対峙しました。どれほど身体が疲れ、心が疲れても、その哲学は曲げず、人間の幸福と人間たちの幸福を求め続けました。そして彼は心の内にこそ善の泉があり、それは求めるだけ溢れ出るという真理に辿り着きます。

 

身体、霊魂、叡智、身体には感覚、霊魂には衝動、叡智には信念。感覚を通して印象を受けることは家畜どもにも見られる。衝動の糸にあやつられることは野獣や女のような男やパラリス(ファラリス)やネーロー(ネロ)でもやる。また義務と思われることに向って叡智を導き手となすことは、神々を否定する者や、祖国を見棄てる人間や、戸を閉めてから万事を行う連中でもやることだ。
さてもしすべて他のことは以上のものに共通だとすると、善い人間に特有なものとして残るのは、種々の出来事や、自分のために運命の手が織りなしてくれるものをことごとく愛し歓迎することである。また自分の胸の中に座を占めるダイモーンをけがしたり、多くの想念でこれを混乱させたりせずに、これを清澄にたもち、秩序正しく神にしたがい、一言たりとも真理にもとることを口にせず、正義に反する行動をとらぬことである。そして自分が誠実に、謙遜に、善意をもって生活をしているのをたとえ誰も信じてくれなくとも、誰にも腹を立てず、人生の終局目的に導く道を踏みはずしもしない。その目的に向って純潔に、平静に、何の執着もなく、強いられもせずに自ら自己の運命に適合して歩んで行かなくてはならないのである。


「生きることを読む」という体験は、非常に貴重な時間です。未読の方はぜひ、読んでみてください。

では。

 

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