RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『ガラスの動物園』テネシー・ウィリアムズ 感想

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こんにちは。RIYOです。

今回はこちらの作品です。

 

テネシー・ウィリアムズガラスの動物園』。戯曲です。1945年3月、第二次世界大戦の終焉間近にブロードウェイで上演されました。

不況時代のセント・ルイスの裏街を舞台に、生活に疲れ果てて、昔の夢を追い、はかない幸せを夢見る母親、脚が悪く、極度に内気な、婚期の遅れた姉、青年らしい夢とみじめな現実に追われて家出する文学青年の弟の三人が展開する抒情的な追憶の劇。作者の激しいヒューマニズムが全編に脈うつ名編で、この戯曲によって、ウィリアムズは、戦後アメリカ劇壇第一の有望な新人と認められた。

 

テネシー・ウィリアムズアメリカの劇作家です。元々は南部の上流階級でありながら、父親の仕事が影響し工業都市へ移り、突如として激しい貧困の生活に陥ります。世界大恐慌時代の真っ只中ということもあり、小さなアパートで満足のいかない日々を過ごします。父親は大変粗暴で、母親はヒステリー持ち。暖かい家庭の環境はありませんでしたが、姉のローズとは仲がよく、互いに心を支えあっていました。

姉のローズ、テネシーともに、父親の強行で学校を中退させられ社会に出されます。病弱で内気だったテネシーを思うローズは、彼の文学を追う姿勢を見守り、支えます。しかし、テネシーが過労で倒れるとローズは「父のために家族みんなが殺される」と怯え、ノイローゼになります。姉の高まった被害妄想は悪化し、精神病院へ入ることになり、ついにロボトミー手術(脳葉切除手術)を受けさせられます。そしてローズはこの手術の副作用である、「感情を無くし、意志を無くす」ことになり、廃人同様となってしまいました。

 

ガラスの動物園』は自叙伝的作品として知られています。テネシーの本名はトマス・ラニア・ウィリアムズ、この主人公同様で通称トムです。そしてヒステリックでいながらも家族思いの母親に、誰よりも繊細な心を持つ姉のローラで構成され、実際のテネシーの家族のように描かれています。このローラが社会人としての独り立ちが困難な状況になってきた為、家庭の中に入る道を進めていこうという、母とトムの行動がストーリーです。

手品師は真実と見せかけた幻想を作り出しますが、ぼくは楽しい幻想に装われた真実をお見せします。

冒頭、主人公トムの語りから始まります。この物語はトムの過去。思い出語りです。しかし、彼の詩的表現で演出された劇は普遍性を持っていて、誰もがもつ郷愁や憂いに接触してきます。家族を想う、家族への感情は普遍的なものだからです。

 

父親の存在

この作品で見られる大きなテネシーの心理として、父親の不在が言えます。大きな写真が貼られているだけで、劇中に登場しません。物語の中心にあるローラの人生、これに必要なものは母親アマンダとトムのみである、と表現しています。あるいは父親さえいなければという、どうにもならない現実の不可能なことを、この作品でなし得ています。

 

ローズへの想い

「ガラスの動物たち」を大切に扱う優しさや神経質さを、姉の印象に重ねて性格として描いています。また、弱さや脆さも同時に表現し、現実の姉の病状も訴えているようです。しかし、ガラスの動物を表現する時の輝きや美しさは細かく装飾され、姉の存在を美しいままに留めているテネシーの心情がうかがえます。
ローラが過去に呼ばれていた「ブルー・ローズ」のあだ名は、実存の姉ローズの意味でもあり、可憐で不可能なことという比喩の表現でもあります。

 

これらから、この物語は「過去」であり、「不可能」で装飾されたものと考えられます。彼は過去に数々の後悔を持っていました。家族を捨て家を出たこと、姉を廃人にしてしまったこと。この作品は姉ローズが廃人同様となってから、7年後に発表された作品です。彼は作品の中で「楽しい幻想」で過去を装飾したかったのだと思います。

 

1983年、テネシー・ウィリアムズはホテルの一室で亡くなります。事故とも殺害とも判明できていません。

現在、青い薔薇は日本の研究者たちにより生み出されました。そして花言葉は「不可能」から「夢 かなう」と変化しました。
彼の生前にこのニュースが届いたなら、「希望」が生まれていたのかも知れません。

 

現在でも盛んに演じられる『ガラスの動物園』、家族との関係を見直すきっかけをくれる、とても良い作品です。
未読の方はぜひ。

では。

 

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