こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。
イングランド北部ヨークシャーで村の牧師を務める父親のもとに、エミリー・ブロンテ(1918-1948)は生まれました。僅か三歳にして母親を病で亡くし、厳粛な叔母によって育てられました。残された三人の姉と兄、そして妹の四人と父親は西部のランカシャーへと移り住み、キリスト教を基盤としたカウアン・ブリッジに寄宿して学ぶことになりました。産業革命によって激しく国が変化し、とくに工業の発展が民衆に影響していました。働き方が変わり、農業は縮小を始めるなか、思想は福音主義とカルヴィニズムが入り混じり、世の中は時代の変化を体現していました。カウアン・ブリッジもまた規律を正そうとする色が強く、生徒は非常に厳しい管理体制のもとで過ごしていました。しかしながら、生徒に与える心的信仰の脅迫とは裏腹に、衛生面や食事は酷いもので、当時に流行したチフスが校内に蔓延するという有り様でした。そして姉二人がこの病で亡くなり、エミリーの姉シャーロットは校内の実態を父親に進言し、学校から身を引くことを提案します。そして、自宅であるハワース牧師館へと居を移し、独学で姉妹で協力しながら勉学に励みます。時間の融通と環境が改善されたことで、彼女たちは勉学だけでなく、文学に触れ、自らでも詩作を行い、その文才を育てていきます。
育ての親である叔母は非常に信心深い人で、福音主義を全面に打ち出すような人間でしたが、エミリーはこの叔母の思想に共感することはできず、独自の宗教的信念を築き上げていきます。どこか自分の殻に閉じ籠るような様子で、社交性は見られず、家族以外とはろくに話もしませんでした。代わりに動物をこよなく愛し、何かと話し掛けるような性格でしたが、心が穏やかというわけではなく、一度拒否をすると絶対に心を曲げないという頑なさを持ち合わせていました。また、独自の信念を持つことによって、教会の礼拝には参加せず、自らの信仰を保ち続けていました。
このころ、姉妹たちは独自の世界を詩のなかで生み出して、それらを紡ぐことで楽しみを見出していました。父親が十二体の木製兵士を息子ブランウェルに送ったとき、この楽しみは始まりました。はじめは姉シャーロット、兄ブランウェル、エミリー、妹アンの四人で「アングリア」という世界を共有していましたが、やがて詩作のなかで仲違いが始まり、エミリーとアンは別の「ゴンダル」という世界を築きます。この詩篇はエミリーとアンの文才を育むとともに、その特性を色濃く表していました。とくにエミリーの詩篇は重く陰鬱な色を放ち、しかし独自の信仰性が表現されて、独特の文才を見せています。詩篇全体には、厭世主義から克己主義へと遷移し、遂には独自の神を見出すという魂の物語が描かれ、エミリーの精神を映し出したような世界が広がっています。この魂に対する価値観が、彼女の文才の核であると感じられます。
三姉妹は蓄えが多くあったわけではありませんので、何らかで生計を立てる必要がありました。語学を身に付けて家庭教師となり、各地へ働きに向かい、その後は私塾を開いて運営しようと試みました。しかし生徒を集めることはできず、教師として生計を立てることは困難になっていきます。そこで彼女たちは、恵まれた自らの詩才を信じて「作家」として生きることを目指しました。何百と生んだ詩篇を糧として、自分たちが培った文才を用い、創造力を存分に発揮してそれぞれが小説を書き上げました。姉シャーロットは『プロフェッサー』を、妹アンは『アグネス・グレイ』を、そしてエミリーは本作『嵐が丘』を、出版社へ届けて後者二作品に良い返事をもらうことに成功しました。出版を認められなかったシャーロットは、悔しさを励みにして自伝的要素を含めた『ジェーン・エア』を執筆すると、出版社は称賛して直ちに発表されて、広く世間に認められました。
それとは対照的に、本作『嵐が丘』は困惑と不評で世間に受け止められました。構成の複雑さ、語り手の変化、時代の往復、描写の残酷さなど、読者たちは辛辣な意見を多く寄せました。物語を覆う陰鬱な空気は、主題である愛憎劇という特質から致し方ないものですが、中心人物のヒースクリフの残忍性や、登場人物たちの言葉や態度の悪さ、そしてそれぞれの持つ強いエゴイズムの心に、当時の読者は激しい嫌悪感を抱いたようでした。
産業革命によってイングランドは、国内外に大きな変化を及ぼしました。発明を諸外国へと展開したイングランドは莫大な資本を手にすると、大西洋を渡って植民地を獲得し、国内では中流階級が産業の発展に合わせて力をつけていきます。大西洋横断奴隷貿易も活発化し、これによって労働者階級との格差がさらに広がり、低所得層はそこから抜け出すことができなくなりました。また、中流階級の人々は貴族的な性質に憧れ、家父長制を各家庭で強め、女性の自立はより困難なものとなっていきました。そして、このような世の動きのため、伝統的な農業を粗野のものと見做し、過去の文化を打倒しようとする風潮が、社会格差をより一層に広げることになりました。本作ではこのような社会の片田舎、荒野が広がる土地に建つ二つの地主貴族の、三代にわたる愛憎劇が描かれます。
1801年の晩冬に、語り手のロックウッドが荒野の「鶫が辻」という屋敷を借りて住まうことになりました。家主ヒースクリフが住まう四マイルほど離れたもう一つの「嵐が丘」へ訪れると、空気の悪い家族の雰囲気のなかで非情な冷遇を受けます。自分の屋敷へ戻り、昔からこの両家で勤めているという家政婦のネリー・ディーンに事情を話すと、これまでに繰り広げられた両家での悲劇を、ネリーの「主観」を交えて語り始めました。本作は、概ねがネリーによる回想録で構成されています。ネリーは少女のころ、嵐が丘の家主アーンショー氏に仕えていました。息子ヒンドリー、娘キャサリンと、召使という立場以上の関わりで、友人のようにともに遊び回る仲でした。ある日、アーンショー氏が出張から帰ると肌の黒い少年を連れていました。ヒースクリフと呼ばれた少年をアーンショー氏は「我が子同様に大切に」扱うようにと屋敷の者へ通達します。ヒンドリーは酷く嫌っていましたが、キャサリンはすぐに打ち解けて、二人でよく遊ぶようになります。アーンショー氏は妻を病で亡くすと、一層にヒースクリフのみを可愛がり、ヒンドリーは苛立ちを募らせてヒースクリフに残酷な態度を取り続けるようになります。これを見てアーンショー氏はヒンドリーを屋敷から離すため、強制的に大学へと向かわせました。
三年後にアーンショー氏が亡くなると、ヒンドリーは嵐が丘の一切を相続するため、妻フランシスを連れて屋敷に帰ってきました。ヒンドリーはヒースクリフへ復讐しようと、彼の立場を家人から作男へと落とし、労働者として酷い扱いを与えます。しかし、それでもキャサリンはヒースクリフとの親睦を深め続け、密かにともに行動していました。ある夜、彼らは近くの鶫が辻へと向かい、冒険心から中の様子を窺っていました。するとキャサリンは番犬に噛まれ、家主に見つかって介抱され、治療のために鶫が辻へ滞在することになりました。肌も黒く、労働者然としたヒースクリフは鶫が辻の家主から脅すように追い出され、結果的に五週間ものあいだを離れて暮らすことになります。完治したキャサリンが嵐が丘へと帰ってくると、鶫が辻の家主リントンの息子であるエドガーと恋仲のようになっており、ヒースクリフとの関係は複雑なものとなりました。ヒンドリーはアルコールと賭博によって生活が破綻し、ヒースクリフに当たり散らすなか、キャサリンは階級社会に則るようにエドガーと婚約してしまいました。環境に耐えられなくなったヒースクリフは、突如、嵐が丘から姿を消して失踪してしまいます。それから三年の時が経って、ヒースクリフは莫大な富、屈強な肉体、そして揺るがない「復讐心」を携えて嵐が丘へと舞い戻りました。ここから、ヒースクリフによる激しい復讐を伴う愛憎劇が始まります。
作中で描かれる「超自然の現象」は、ゴシック様式の文学性を帯びています。しかしながら、なかに込められる精神にはその様式を凌駕するエミリー独自の「キリスト教的ではない」信仰に満たされ、彼女が信ずる魂の在り方、そして死生観によって、物語の主題を支えています。ヒースクリフとキャサリンは精神が共鳴し合い、同じ「ひとつの魂」を分け合っていました。生まれも、育ちも、性格も、肌の色も、境遇も、全てが無関係に思われるほど魂は同化して、互いが自分の存在であるという認識にまで愛し合っていました。この恋愛を超えた人間としての愛は、周囲の策略とすれ違いで誤解され、互いに結びつくことのないまま離れることになりました。そしてキャサリンはエドガーとの子を産んだことで死に、ヒースクリフに絶望を残します。ヒンドリーやエドガーなど、両家そのものを憎み、その全てを蹂躙しようとした復讐は、ヒースクリフ自身の精神を蝕みながら彼の言動を悪辣なものへと育て上げました。狂人とも感じられるヒースクリフの行動は、すべての人々へ嫌悪感を与えます。
しかし、目指した復讐が成就し、最後の血縁に不幸を与えるのみという場面になって、ヒースクリフに突然の変化が現れます。両家に対する復讐や、その子孫に対する関心は薄れ、常に上機嫌な感情を維持し続ける興奮状態に陥ります。目は幸福に輝き、溢れる豊かな気持ちを抑えきれないという様子です。食事は全く取らず、そして眠らず、特定の部屋に籠りながら笑顔を絶やさずに独り言を呟く様子に、ネリーは不安に駆られます。この場面の描写や台詞には、主題となる「魂の愛」が描かれています。物語冒頭でロックウッドが真夜中に出会ったキャサリンを、ヒースクリフは渇望していました。
キャシー、さあ、こっちだよ。ああ、お願いだ──せめてもう一度!ああ、わが心の愛しい人、こんどこそ聞き届けておくれ──キャサリン、今日こそは!
長いあいだ彼女に出会うことの叶わなかったヒースクリフは、物語の終盤で出会うことができたのではないかと考えられます。この極端なヒースクリフの変貌は、キャサリンに願いを聞き遂げられたことによるものと推測できます。両家の子孫が惹かれ合う姿に、過去に引き裂かれたキャサリンとヒースクリフ自身を重ね合わせたのではないかと見ることができます。そして、憎悪していた子孫の幸福のかたちをヒースクリフが受け入れるということが、キャサリンが強く望んでいたことであり、それが叶ったことで姿を現したのだと考えると、非常に美しい魂の愛物語が映し出されます。
生けるものも死ぬものも、なにかを目にすれば、ある普遍概念に結びついてしまうんだ、無理に気をそらさないかぎり……望むことはただひとつだ。俺はそれをつかみたいと、全身全霊で切に願っている。あまりに長いこと一筋に焦がれてきたから、じきに手が届く気がするんだよ。それも、まもなくのはずだ。それほどに俺という人間は、そこに首まではまりきっている──願いがなかう予感に飲みこまれているんだ。
ヒースクリフの悪辣な行動や思考は、ロックウッドも実際に目の当たりにしてはいますが、ごく僅かです。気難しく口の悪い田舎地主という程度で、悪の化身というものではありません。しかし、ロックウッドにしても読者にしても、ヒースクリフは悪の権化ではないかと感じる印象を読み進めるほどに与えられます。これには、召使ネリーの存在が大きく関わっています。ネリーは幼少期からヒンドリーを良く知り、ヒースクリフを心良く思っていませんでした。このようなネリーの主観によって眺められた情景や事実が、彼女が抱いた感情を含めて語られることで偏向的に描写されるため、ロックウッドや読者に与える印象はより一層に激しいものとなっており、ヒースクリフを「悪者」として強く訴えています。だからこそ、ヒースクリフの変貌が不気味であるように語られ、キャサリンとヒースクリフの「魂の愛」が雲で覆われるように伝わり難くなっています。この複雑な表現は、福音主義が隆盛し、家父長制への回帰が蔓延していた世の中に発表するための「覆い」としてエミリーが仕組んだものだと感じられます。独自の魂の在り方と死生観を全面的に肯定するわけではなく、ひとつの物語として、そしてヒースクリフの心情の奥底に潜めて描いたのだとすれば、そこにはとても奥深いエミリーの詩性を感じることができます。
『嵐が丘』は『ジェーン・エア』よりも理解が困難な作品である。なぜなら、エミリーはシャーロットよりも偉大な詩人であったからだ。……彼女は巨大で無秩序に裂けた世界を眺め、それを一冊の本にまとめるという力を自分のなかに感じた。その巨大な野心は小説全体を通して受け取ることができる……人間性の幻影の根底にあるこの力の暗示と、それを偉大さの存在へと引き上げる力こそが、この作品を他の小説のなかよりも大きな地位に押し上げているのだ。
ヴァージニア・ウルフ「The Common Reader」
エミリーは秘密主義者であったという見方も残っています。自身が社会に対して違和感を感じ、独自の信仰と魂の在り方をどのように肯定するべきか、そしてどのように世に訴えるべきか、それを考えた末に生まれた作品が本作『嵐が丘』であったのだと思います。時代や場面が複雑に変化して、確かに読み進めることは容易でないかもしれませんが、それ以上に惹きつける熱量が全篇にわたって込められています。独特の読後感から、何かしらの感動が必ず押し寄せてくる作品です。エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。